【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

37 / 41
第弐拾九話 世界の中心でアイを叫んだけもの

第一節 惣流と渚

 

 アスカとカヲル君が真正面からぶつかったのは、その翌々日だった。

 

 中庭の手押しポンプがようやく使えるようになって、皆で交代に水を汲んでいた。ポンプは重い。片手では無理だし、慣れないとすぐ水をこぼす。

 

 アスカが一人でポンプを押して、ブリキのバケツへ水を落としていた。

 人手は足りているのに一人でやるのは、たぶん機嫌が悪いからだ。

 

「手伝おうか」

 

 カヲル君が声をかけた。

 

 その瞬間、アスカの顔がひどく露骨に歪む。

 

「いらない」

 

「そう」

 

 彼はそれ以上近づかなかった。

 前ならたぶん、その拒絶も軽く受け流して半歩近づいていたと思う。今は一歩分、止まる。

 

 でも、それだけで全部が済むわけじゃなかった。

 

「あと」

 

 アスカがポンプの取っ手を握ったまま言う。

 

「分かったみたいな顔でこっち見ないで」

 

 声が乾いていた。

 

「前から思ってたけど、あんたそういうの気持ち悪いのよ」

 

 その場の空気が一瞬止まる。

 僕は思わず足を止めた。ケンスケも遠くで息を呑んでいる。委員長は数秒だけ迷って、でも口を挟まなかった。

 

 カヲル君は驚いた顔をしなかった。

 しないで、わずかに目を伏せた。

 

「うん」

 

 やがて彼は言う。

 

「それは、たぶん本当にそうだ」

 

 アスカの眉がわずかに動く。

 怒鳴り返されると思っていたのかもしれない。あるいは、笑って流されると思っていたのかもしれない。

 

「僕は、近づくなら先に分かっている方が親切だと思っていた」

 

 カヲル君は続けた。

 

「何も訊かないで、何も言わせないで、先に苦しい所へ手を置ける方が優しいと」

 

「は?」

 

「でも、それは自分が拒まれないためのやり方でもあった」

 

 アスカは黙る。

 ポンプの水音だけが、やけに大きく響いた。

 

「惣流さんが嫌なら、次はちゃんと訊くよ」

 

 それを聞いた瞬間、アスカは露骨に顔をしかめた。

 

「その呼び方も何かむかつく」

 

「じゃあ、惣流」

 

「それも図々しい」

 

「難しいね」

 

「当たり前でしょ」

 

 アスカはそこでようやく一度だけ目を逸らした。

 

「人のこと、勝手に分かったみたいな場所へ置くなって言ってんの」

 

「うん」

 

「ファーストも、シンジも、あたしも。あんたの中で勝手に都合のいい形にするな」

 

 その言葉は、僕にも刺さった。

 たぶんカヲル君もそうだった。

 

「分かった」

 

 彼は短く答える。

 

「勝手に整えない」

 

「……最初からそうしなさいよ」

 

 アスカはそれだけ言って、またポンプを押した。

 前みたいな一方的な切断ではない。切らない代わりに、境界線を引いて見せるやり方だ。

 

 その日の夕方、また水汲みの時間になった時、カヲル君は今度は二歩手前で止まった。

 

「バケツ、重い方を持つ?」

 

 アスカはうんざりした顔をした。

 

「訊くようになったわね」

 

「そう言われたから」

 

「……じゃあ、そっち」

 

 差し出されたバケツは、たしかに重い方だった。

 カヲル君は何も言わずに受け取る。アスカもそれ以上文句を言わない。

 

 それだけのことなのに、前よりずっと会話に見えた。

 

 僕は少し離れた所からそれを見ていた。

 分かった気になるより先に訊くこと。勝手に救済の形を決めないこと。

 

 言われているのは、たぶん僕も同じだった。

 

 

 

第二節 綾波と渚

 

 綾波とカヲル君が一緒にいる時、遠目には少し似て見える。

 

 どちらも色が薄い。

 声も大きくない。

 立ち方まで静かだ。

 

 でも近くで見ると、全然違う。

 綾波は前より“ここ”に重さがある。カヲル君はまだ時々、少しだけ足元が浮く。

 

 夜の屋上で見張り当番が重なった時、その違いは余計にはっきりした。

 

 僕は毛布を取りに戻る途中で、半開きの扉の向こうから二人の声がするのに気づいた。聞くつもりはなかったのに、足が止まった。

 

「寒くない?」

 

 カヲル君の声。

 

「少し」

 

 綾波が答える。

 

「でも、下より静か」

 

「そうだね」

 

 屋上の風が吹く。金網が小さく鳴る。

 

「ねえ」

 

「なに」

 

「今のあなたは、前より少し話すのが遅い」

 

 カヲル君は小さく笑った。

 

「それは褒めてるのかな」

 

「たぶん」

 

 綾波は少しだけ考えてから続けた。

 

「前は、相手の中へ入るのが早すぎた」

 

「あの少女にも言われた」

 

「うん」

 

「君にも」

 

「うん」

 

 レイの相槌は容赦がない。

 でも、どこか穏やかでもあった。

 

「今は、待つ方が少し分かる」

 

 カヲル君が言う。

 

「答えが返ってこない時間とか、嫌われたまま同じ場所にいる時間とか。ああいうのは前まで、音のない時間に見えていた」

 

「今は?」

 

「違う音が鳴る前の余白」

 

 綾波はそこで目を細めた。

 

「あなたは、やっぱり音で考える」

 

「便利だからね」

 

「ずるい」

 

「そうかな」

 

 風がもう一度吹いた。

 少し長い沈黙。けれど気まずい感じはしない。

 

「綾波レイ」

 

 珍しく、カヲル君がフルネームで呼ぶ。

 

「君は怖くないの?」

 

「何が」

 

「今の君として見られること」

 

 綾波はすぐには答えなかった。

 たぶん、本当に考えているのだろう。

 

「怖い」

 

 やがて、彼女は言う。

 

「前の私と違うと言われるのは、今も怖い。違うから好きじゃない、といつか碇君に思われるのも怖い」

 

 胸が少しだけ痛む。

 聞いてはいけないものを聞いている気がした。

 

「でも」

 

 綾波は続ける。

 

「違うまま見てほしいとも思う」

 

「うん」

 

「前の私がいたことも、今の私がいることも、どちらも消さないで」

 

 カヲル君はしばらく黙っていた。

 それから、前みたいな軽い相槌じゃなく、本当に小さく頷く。

 

「それは難しいね」

 

「難しい」

 

「でも、難しいまま欲しいんだ」

 

「うん」

 

 また沈黙。

 

「僕も同じかもしれない」

 

 カヲル君がぽつりと言う。

 

「最後の使徒だったことも、今ここにいる僕も、どっちも無かったことにはしたくない。でも、どっちか片方だけで見られるのも困る」

 

 綾波はそれを聞いて、首をわずかに傾げた。

 

「それなら、名前で呼ばれるしかない」

 

「名前」

 

「今ここにいるのは」

 

 綾波はひと呼吸置いた。

 

「今のあなた」

 

 カヲル君はそこで初めて、本当に困ったみたいに笑った。

 

「君は時々、すごくまっすぐで困る」

 

「知ってる」

 

 そのやり取りが、少し羨ましかった。

 前より違う声で、でも確かに同じ場所へ立っている二人の感じがしたからだ。

 

 僕は毛布を抱え直して、音を立てないように扉から離れた。

 盗み聞きは感じ悪い。

 そのくらいは、ようやく分かるようになっていた。

 

 

 

第三節 屋上の風

 

 カヲル君と二人になったのは、チャイムがまた一度だけ鳴った日の夕方だった。

 

 ケンスケの修理は相変わらず完璧じゃない。音程はずれるし、途中で雑音も混ざる。それでも、壊れたまま黙っているよりずっとましだと皆が思い始めていた。

 

 僕は屋上の手すりにもたれ、鳴り終わったあとの街を見ていた。

 カヲル君が隣へ来る。前より、一人分の間を空けて。

 

「やっと上手くいったみたいだね」

 

「半分だけだよ」

 

「半分鳴れば十分じゃない?」

 

「そういうとこ、前より現実的だね」

 

 言うと、カヲル君はかすかに笑った。

 

「生きていると、嫌でもそうなる」

 

 風が強い。

 屋上からは、壊れた街と、直りかけの学校と、その間のどうしようもない空き地までよく見えた。遠くの旧発進口と、白く裂けた地面の筋まで見える。量産機が空を汚した日から、街の輪郭は少しだけずれたままだ。発令所の警報はもう鳴らないのに、僕の耳だけが時々まだATフィールド接触の嫌な軋みを思い出す。

 

「ねえ」

 

 僕は手すりから目を離さないまま言う。

 

「僕、たぶん君のことも記念碑にしそうだった」

 

「うん」

 

 否定しない。

 

「何でも分かってくれて、怒らなくて、勝手に許してくれる人みたいに」

 

「それは便利だね」

 

「便利だよ」

 

 言ってから、自分で少し嫌になる。

 

「最低だろ」

 

「最低、と言い切るほど特別でもない」

 

 カヲル君は前を見る。

 

「人は誰でも、痛くない場所に誰かを置きたがる時がある」

 

「君も?」

 

「僕も」

 

 即答だった。

 

「僕は君を、ただ好きだと言うだけでそれだけで話が済む相手にしそうだった」

 

 隔離室でも聞いた言葉だった。

 でも今は、夕方の風の中で聞くせいか、もっと重く感じる。

 

「返事がなくても、拒まれても、最初から全部受け入れている顔でいられるなら傷つかないからね」

 

「ずるいな」

 

「うん。ずるい」

 

 そこで変に笑って誤魔化さないところが、前よりずっと人間っぽかった。

 

「だから今は」

 

 カヲル君が続ける。

 

「君に僕を選んでほしいとは言わない」

 

 胸のどこかが、静かに痛んだ。

 それは楽になる言葉のはずなのに、楽になるだけではない。

 

「選ばれないままここにいるのも、たぶん一つのやり方だから」

 

「……平気なの」

 

「平気じゃないよ」

 

 かすかに笑う。

 

「でも、平気じゃないままいる方が本当だ」

 

 それは、アスカの言い方と少し似ていた。

 綾波の言い方とも、どこか似ている。

 

「君が誰を好きになるか、誰の隣にいたいと思うか。それ自体より、君がその人を今のその人として見るかどうかの方が、僕には大事だ」

 

 僕は何も言えなかった。

 カヲル君はたぶん、本気でそう言っている。

 それが前より分かるから、余計に返す言葉が難しい。

 

「ありがとう」

 

 やっとそれだけ言うと、カヲル君は少し首を傾げた。

 

「礼を言われるようなことかな」

 

「分からない。でも、言いたかった」

 

「うん」

 

 しばらく、二人で黙った。

 沈黙の中に無理がない。前なら、それが少し怖かっただろう。今は違う。

 

 カヲル君が急に言う。

 

「彼女は前より、まっすぐ怒るようになったね」

 

「……よく見てるね」

 

「見えるから」

 

「でも、勝手に分かった顔はするなって、言われたんじゃないの」

 

「うん。だから今のは感想」

 

 その言い訳に、かすかに笑ってしまう。

 

「君も前より、まともに怒られるようになった」

 

「褒めてる?」

 

「かなり」

 

 夕方の風がまた吹く。

 

「碇シンジ君」

 

「なに」

 

「好きだという言葉は、受け取ってくれなくても構わない。でも」

 

 彼は僕を見なかった。

 見ないまま言う。

 

「会えてよかったと思ったことだけは、消さないでくれると嬉しい」

 

 胸が熱くなる。

 簡単に返事をしていい言葉じゃない。でも黙ったままにするのも違う。

 

「うん」

 

 僕は答えた。

 

「それは、消えない」

 

 カヲル君はそこでようやく、かすかに笑った。

 出来すぎていない、疲れた人間の笑い方だった。

 

 屋上の扉を開けると、階段の踊り場にアスカが座っていた。

 

 壁にもたれ、片膝を立てて、どう見ても“たまたま通りかかっただけ”の顔ではない。なのに、こっちが気づいた瞬間には露骨に嫌そうな顔をする。

 

「何してるの」

 

「別に」

 

「待ってた?」

 

「待ってない」

 

 その即答が、待っていた証拠みたいなものだった。

 

 僕が一段下へ降りると、アスカは立ち上がった。でも、すぐには歩き出さない。

 

「何話してたの」

 

 訊き方は平板だった。責めているわけでも、探っているわけでもない。ただ、聞かないままだと嫌だから聞く、みたいな声。

 

「会えてよかったって」

 

「ふうん」

 

「それと、都合よくまとめるなって」

 

 アスカは少しだけ眉を上げる。

 

「誰を」

 

「誰でも」

 

「今さら」

 

 たしかに今さらだった。

 

「でも、僕、たぶん安心しかけてた」

 

「何に」

 

「選ばなくていい、って言われることに」

 

 アスカはしばらく黙った。

 それから、壁へ肩を預けたまま言う。

 

「楽な方へ逃げるの、上手いもんね」

 

「うん」

 

「自覚あるなら、半分はマシ」

 

 その“半分”が最近よく出てくる。

 満点じゃない代わりに、完全な零点でもない場所。僕たちはたぶん、ずっとそこを行ったり来たりしている。

 

「ねえ」

 

 アスカが視線を逸らしたまま続ける。

 

「優しい方が正しいって思うの、やめなさいよ」

 

「え」

 

「誰も怒らない方がましとか、誰も傷つかない方が立派とか。そういうの」

 

 夕方の階段は薄暗い。窓の外の光だけが、手すりに細い線を作っている。

 

「怒るでしょ、人間なんだから」

 

 アスカは吐き捨てるみたいに言った。

 

「嫉妬もするし、むかつくし、嫌いにもなるし、それでも同じ机に座ることだってある。そういうの全部抜いたら、残るのは無難な置物だけじゃない」

 

 胸の中で何かが静かに動いた。

 カヲル君が言った“痛くない場所”と、アスカが今言った“置物”は、たぶんかなり近い。

 

「……知ってる」

 

「嘘」

 

 即答だった。

 

「知ってるなら、あたしが怒ってる時にその顔しない」

 

「どんな顔」

 

「この世の終わりです、みたいな顔」

 

 さっきも似たことを言われた気がする。

 

「君、そういう顔よく覚えてるね」

 

「見たくなくても見えるの」

 

 そこで、アスカは少しだけ言い淀んだ。

 

「あと……あんたがああいう顔してると、こっちまで嫌な気分になるし」

 

「嫌な気分」

 

「そう。だからやめて」

 

 それは遠回しで、でもたしかに“放っておきたくない”に近い言い方だった。

 

「分かった」

 

「返事だけじゃなくて」

 

「やる」

 

 言い直すと、アスカはようやく少しだけ機嫌を直したみたいに鼻を鳴らした。

 

「それならいい」

 

 沈黙が落ちる。

 でも気まずさは前ほど鋭くない。階段の下から、委員長が誰かを呼ぶ声が上がってきた。炊き出しの湯気の匂いも、少し遅れてここまで届く。

 

「降りるわよ」

 

 アスカが言う。

 

「うん」

 

「あと」

 

 先に一段下りてから、振り返りもせずに付け足す。

 

「さっきの“会えてよかった”ってやつ」

 

 僕は足を止めた。

 

「消すなって言われたからには、ちゃんと持っときなさいよ」

 

 それだけ言って、アスカは下へ降りていく。

 

 持っておく。

 都合のいい思い出としてじゃなく、今ここにいる人の言葉として。

 その難しさごと引き受けるしかないのだと、階段を下りながら思った。

 

 

 

第四節 二度目の境界線

 

 その翌日、音楽室の前でアスカとカヲル君がもう一度だけ二人きりになった。

 

 ケンスケは校庭のスピーカーに張りつき、委員長は炊き出しの鍋を見ている。僕は譜面を取りに職員室へ回っていて、その場にはいなかった。あとで聞いた話と、少しだけ自分で見た残りから、たぶんこんな感じだったのだと思う。

 

「ねえ」

 

 先に声をかけたのは、アスカの方だったらしい。

 

「なに」

 

「この前の、あんたの言い方」

 

 アスカは腕を組んだまま、真正面から言う。

 

「シンジのこと、分かったみたいに言うの、まだちょっとむかつく」

 

 カヲル君は苦笑した。

 

「それは努力中だよ」

 

「努力で済ませないで」

 

「うん」

 

 そこで、珍しくアスカの方が視線をわずかに逸らした。

 

「でも」

 

「でも?」

 

「あんたがあいつに言ったこと、間違ってはないのよ」

 

 言いながら、自分で機嫌を悪くしたみたいな顔をする。

 

「今の相手を見ろってやつ。あいつ、すぐ先の最悪ばっかり見るから」

 

 カヲル君はすぐには答えなかった。

 軽く返さないところだけ、前よりずっと人の会話だった。

 

「君も、彼にそう言ってきたんだね」

 

「何回も」

 

 アスカは吐き捨てるみたいに言う。

 

「なのに、あんたの言葉だと聞く時があるの、ちょっと腹立つ」

 

「それはごめん」

 

「だから謝るなっての」

 

 小さく舌打ちしてから、アスカは続けた。

 

「あたし、あんたを好きになることはたぶんない」

 

「知ってる」

 

「でも、嫌いなまま同じ場所にいることくらいは出来る」

 

 カヲル君はそこで少しだけ目を丸くした。

 

「それは、思っていたよりずっとありがたいね」

 

「勘違いしないで」

 

「しないよ」

 

「あと、シンジのこと」

 

 アスカの声がほんの少しだけ低くなる。

 

「変に話を整えたら、今度はほんとに殴るから」

 

「うん」

 

「……あたしも、しないようにする」

 

 その最後だけは、たぶんかなり小さかった。

 

 カヲル君はそれを聞いて、前みたいな出来すぎた笑い方ではなく、困った人間みたいに笑ったらしい。

 

「難しいね」

 

「難しくてもやるのよ」

 

 アスカはそう言って、音楽室のドアを先に開けた。

 

 境界線は消えない。

 でも、消えないまま引き直すことはできるのだと、その時の二人はたぶん少しだけ知った。

 

 

 

第五節 ずれたまま、同じ歌

 

 文化発表会はもう来ないかもしれない。

 体育館も校庭も、前みたいには戻らないかもしれない。

 

 だからこそ、その日の家庭科室は妙に重かった。

 

 鍋の横の机に並んでいたのは、食料のメモだけじゃない。海沿いから拾った断片的な呼び声、受信時刻、現在いる人数、怪我の有無、それから旧ネルフ本部から運び出した薄いカード束まで混ざっていた。誰の名前か分かるものもあれば、番号と判定しか読めないものもある。

 

「外へ繋ぐ準備をするなら、向こうが信用できる材料は多い方がいい」

 

 ミサトが言った。

 

「誰が動けるか、どこまで持つか、今ある情報を切り分ける必要がある」

 

 正論だった。正論すぎて、誰もすぐには言い返せない。

 

 ケンスケは受信記録のノートを抱えたまま黙り、トウジは鍋の蓋へ手を置いたまま眉をしかめる。加持さんは窓の外を見ていて、青葉さんと日向さんのいないこの場でも、職員室みたいな空気が出来ていた。

 

「その切り分け方が嫌なのよ」

 

 先に口を開いたのはアスカだった。

 

 カード束の一番上を指先で弾く。適性、同期、判定、そういう項目が一瞬だけ覗く。

 

「それ使ったら、またあたしたち、使える順に並べ直されるじゃない」

 

 静かな声だった。怒鳴らない方が余計に痛い。

 

 委員長は席順表の控えを持ったまま、その紙束を見た。

 

「座席表って、戻る場所を書く紙です」

 

 誰に聞かせるでもなく、でも皆が聞こえる声で言う。

 

「誰を先に前へ出すか決める紙じゃない。名簿も同じです。人数合わせのために名前を書くんじゃない」

 

 ミサトが視線を上げる。

 

「じゃあ、あなたはどう区別するの」

 

 そこでレイが、机の上の紙を二つに分けた。

 

 受信した呼び声のメモ。

 怪我と熱の記録。

 今いる場所を書いた白地図の写し。

 

 それを左に寄せる。

 次に、旧ネルフのカード束と、古い判定票を右へ滑らせる。

 

「呼ぶための紙と、使うための紙は違う」

 

 レイはそれだけ言った。

 

 家庭科室が静まり返る。

 鍋の湯気の音だけが、かすかに続く。

 

 加持さんがそこでようやく口を開いた。

 

「今日のところは、左だけで回そうや」

 

 軽い調子に聞こえるのに、言っていることは軽くない。

 

「足りなくなった時に右へ手を伸ばすのは簡単だ。でも一回それやると、次から何でもそっちで決めたくなる」

 

 ミサトはすぐには答えなかった。

 やがて、カード束の上へ自分の手帳を置く。それで見えなくした。

 

「……分かった。今夜は棚上げ」

 

 完全な敗北宣言ではない。けれど、譲歩ではあった。

 

 重い沈黙が残る。

 その沈黙を、ヒカリが割った。

 

「じゃあ、歌の練習、少しだけやろう」

 

 家庭科室の鍋がぐつぐつ鳴る夕方だった。

 トウジが「今さら?」と呆れ、ケンスケが「面白そう」と食いつき、アスカが露骨に嫌そうな顔をする。レイは首を傾げ、カヲル君は少しだけ興味深そうに譜面を見た。

 

「今さらじゃないの」

 

 ヒカリはきっぱり言う。

 

「人が増えると、余計にこういうの要るの。声出して、息合わせて、変なふうに詰まらない時間」

 

「委員長理論やな」

 

 トウジが言う。

 

「そうよ」

 

 ヒカリは胸を張った。

 

「文句あるなら鈴原も歌う」

 

「何でやねん」

 

「文句言ったから」

 

 それで半分くらい決まりだった。

 

 音楽室へ集まる。

 窓は前より多く開くようになった。夕方の空気が入り、譜面が少し揺れる。器楽庫の奥に置いていたチェロは相変わらず少し音が狂っている。でも、壊れてはいなかった。

 

 棚の奥には、前に同期訓練で使ったリズムテープがまだ残っていた。エヴァ二機の歩幅と踏み込みを揃えるための拍が、今は合唱の入りを揃えるために使われる。その取り合わせが少し可笑しくて、でも嫌ではなかった。

 

 同期訓練で見た波形を、僕は少し思い出した。完全な一致は、機械の上では扱いやすい。でも人の声は、ぴたりと重なった瞬間より、わずかにずれた波同士が干渉して厚みを持つ時の方が豊かに聞こえる。合唱もたぶん同じだ。誰かを消して揃えるのではなく、違うまま同じ拍の中へ置く。

 

「その前に、入りだけ確認」

 

 ヒカリが譜面を叩いた。

 

「最初の四小節、ばらけると後ろ全部引きずられるから」

 

「委員長、相変わらず厳しいな」

 

 ケンスケが言うと、ヒカリは即答する。

 

「当たり前。優しい合唱ほど、最初に息が合ってないとぐちゃぐちゃになるの」

 

 その理屈がいかにも委員長らしいと思った。

 僕は椅子に腰かけてチェロを構える。アスカはその横に立ち、譜面台の角度を勝手に変えた。

 

「近い」

 

「見えにくいのが悪い」

 

 言いながら、彼女は導入の頭を指で示す。

 

「ここ、あんたちょっと溜めすぎ」

 

「そんなに?」

 

「そんなに」

 

 指先が譜面の上を滑る。僕の手はそのすぐ下にある。近い。でも、前みたいにそこだけで呼吸が全部乱れることはなくなっていた。

 

「一回弾いて」

 

 言われた通りに出す。最初の一音、次の移弦、入りの前の短い間。

 アスカは耳で数えるみたいに少し首を傾け、それから小さく舌打ちした。

 

「やっぱり半拍ぶん甘い」

 

「厳しいなあ」

 

「だって、ここの半拍で歌い出しの勇気が決まるでしょ」

 

 その言い方が、少しだけ面白かった。

 勇気。たしかに歌い出しには、上手い下手とは別の勇気がいる。最初に声を出す人が、自分の音程を信じる勇気。遅れたら遅れたと認めて、次で戻る勇気。

 

「じゃあ、アスカ歌って」

 

「は?」

 

「基準が欲しいから」

 

 アスカは露骨に嫌そうな顔をした。

 

「何であたしが」

 

「一番文句言ってるから」

 

 そのやり取りを、ヒカリが少し離れた所で聞いていたらしい。

 

「惣――」

 

 言いかけて、すぐ言い直す。

 

「アスカ、やって」

 

「ヒカリまで……」

 

 ぶつぶつ言いながらも、アスカは譜面を見た。小さく息を吸い、一小節ぶんだけ旋律を置く。

 強い声じゃない。けれど芯がある。音程は真っ直ぐで、語尾だけ少しだけ前へ出る。

 

「そこ」

 

 アスカは歌い終わるとすぐ言った。

 

「その入り方。真似しなさい」

 

「難しいな」

 

「簡単なら最初から怒らない」

 

 僕はもう一度弦へ弓を置いた。今度は彼女の呼吸を先に思い出す。合唱用に声を抑えた時の、短い吸い方。そこへ合わせて導入を出すと、さっきより確かに歌い出しの隙間が狭くなった。

 

「……まあ、さっきよりマシ」

 

 採点みたいな声だった。

 

「ありがとう」

 

「まだ褒めてない」

 

「でも怒ってはない」

 

「それはそう」

 

 アスカはそこで、譜面台の脇に手をついた。

 

「ねえ」

 

「なに」

 

「ぴったり同じ声で歌うのって、案外きれいじゃないのよ」

 

 唐突だった。でも彼女は本気でそう思った時の顔をしている。

 

「同じ音でも、人によって太さも癖も違うでしょ。少しずれてる方が厚くなることもある」

 

 僕はその言葉を聞いて、前の同期訓練を思い出した。完全一致が一番危ないと教わったこと。二人で一人になりきった瞬間、次の半拍を誰が決めるのか分からなくなること。

 

「……人も同じかな」

 

 ついそう言うと、アスカはすぐ顔をしかめた。

 

「すぐ何でもそういう話にする」

 

「ごめん」

 

「でも」

 

 アスカは少しだけ言葉を探す。

 

「まるっきり外れてもない」

 

 その“でも”だけで、胸のどこかが少し軽くなる。

 

「同じ歌を歌うのと、同じ声になるのは別ってこと」

 

 アスカはそう言って、譜面の端を軽く叩いた。

 

「分かったら、ちゃんと導入」

 

 ヒカリがそこで手を叩く。

 

「はい二人とも、会話はあと。今の、結構よかったからそのまま」

 

 ケンスケが「委員長、それ褒めてる?」と笑い、トウジが「珍しいな」と肩をすくめる。レイは静かに譜面を持ち直し、カヲル君は窓際で小さく息を整えた。

 

 僕は弦へ弓を置く。さっきより少しだけ、息の入る場所が分かる。

 

「シンジ君、導入お願い」

 

「うん」

 

 椅子に座り、チェロを膝のあいだへ収める。

 前に合唱の導入を弾いた時とは、もう色々なものが違う。使徒も補完も、海も、あの白い世界も知ってしまった。

 

 それでも、最初の一音はやっぱり最初の一音だった。

 

 ただ、前と違って聞こえ方が少し変わっていた。発令所で見た同期波形と同じで、完全に重なればいいわけじゃないのだと今は分かる。二つの声が同じ周波数で揃いすぎると、響きはかえって薄くなる。少しだけ前に出る息、少し遅れて追う子音、その細いずれが干渉して、単独では出ない厚みを作る。

 

 エヴァの同時運用も、本当はそれに近かったのだと思う。必要なのはコピーみたいな一致じゃない。初号機と弐号機、僕とアスカ、それぞれの癖や遅れを誤差として消すのではなく、“ここまでずれても崩れない幅”の中へ収めること。位相固定という言葉は難しそうに見えて、要するにそういうことだ。

 

 誰かと同じになるんじゃない。ずれたまま同じ拍へ立つ。

 

 それは合唱にも、生活にも、たぶん恋にも似ていた。相手を自分のテンポへ矯正するんじゃなく、相手の半拍を聞いた上で次の一拍を置く。待つことと入ることのあいだに、ようやく共同作業の余地が生まれる。一人だけ先に完成してしまうより、未完成のまま隣に残ることの方が、ずっと難しくて、ずっと人間らしい。

 

 委員長が「整いすぎる」と言ったのは、要するに誤差の扱い方の問題なのだと思う。合唱は分散した人間の誤差をゼロにする作業じゃない。むしろ、ゼロにしきれない誤差をどこまで響きへ変えられるかの作業だ。発令所なら赤く点灯する差分が、ここでは厚みや温度になる。ずれがあるから、互いの存在が消えない。

 

 そのことは、僕とアスカの関係にも少し似ていた。全部ぴたりと噛み合う時より、噛み合わないところを知った上で同じ方を向けた時の方が、たぶんずっと本物だ。戦場でも教室でも、必要なのは完全な理解じゃなく、崩れない許容幅なのだ。

 

 委員長がテンポを取り、皆が息を吸う。

 

 一回目はひどかった。

 

 トウジは半拍遅れる。

 ケンスケは無駄に声が大きい。

 アスカは合わせようとするほど語尾が鋭い。

 綾波は正確すぎて逆に少し浮く。カヲル君はもっとひどかった。整いすぎているのだ。音程も息も揃いすぎていて、一人だけ別の場所で完成しているみたいに聞こえる。

 

「渚君」

 

 ヒカリが即座に止めた。

 

「そこ、整いすぎる」

 

 音楽の注意としてはだいぶ変だ。

 でも皆、何となく意味は分かった。

 

「整いすぎる?」

 

 カヲル君が目を瞬いた。

 

「うん」

 

 ヒカリは頷く。

 

「上手なんだけど、一人だけ先に終わってる感じ。合唱って、そういうんじゃないから」

 

 アスカがすかさず鼻を鳴らす。

 

「分かったみたいに歌ってるからよ」

 

「難しいね」

 

「難しくてもやりなさい」

 

 そのやり取りが可笑しくて、ケンスケが吹き出し、トウジがつられて笑う。レイは少しだけ首を傾げて、それからカヲル君を見た。

 

「待つといい」

 

「待つ」

 

「周りのずれを聞いてから入る」

 

 カヲル君は譜面を見下ろした。

 そこで初めて、本当に困ったみたいな顔をした。

 

「合唱って難しいね」

 

「今さら?」

 

 アスカが言う。

 

「そう。でも、今さらだから分かることもある」

 

 二回目は、少しましだった。

 

 まだ揃わない。全然揃わない。トウジは相変わらず危ういし、ケンスケの声量は調整不能だし、僕のチェロも一か所だけ指がもつれた。

 

 それでも、一回目よりずっと同じ歌に聞こえた。

 

 誰も同じ声じゃない。

 同じ傷でもない。見てきたものも、怖いものも、欲しいものも違う。

 

 それでも同じ譜面を見て、ずれて、止められて、言い直して、もう一度やる。

 

 それがたぶん、合唱だった。

 

 三回目で、ようやく皆がかすかに笑った。

 

「今の、まあまあ」

 

 アスカが腕を組む。

 

「上からだなあ」

 

 ケンスケが言うと、アスカは即座に睨んだ。

 

「相田は黙って」

 

「はいはい」

 

「はいじゃない」

 

 そのやり取りに、委員長がため息をつく。トウジが笑い、レイが窓の外を見ながら少しだけ口元を緩める。カヲル君は、自分のずれた入り方を確かめるみたいに、譜面の端へ指を置いていた。

 

「はい、まだ終わりじゃない」

 

 ヒカリが手を叩いた。

 

「今の音量のまま、もう一回だけ。隣の教室の子たち、さっきから扉のとこで聞いてるから」

 

 見ると、音楽室の半開きの扉の向こうに、小さい顔が二つだけ覗いていた。昨日から学校へ来ている子たちだ。眠そうなのに眠れない時の顔で、でも歌は気になるらしい。

 

「今の、うるさかった?」

 

 ケンスケが訊くと、ヒカリはすぐ首を振る。

 

「うるさいっていうか、尖ってたの。上手か下手かじゃなくて、びっくりする感じ」

 

「そこまで分かるんだ」

 

「分かるわよ。相田君は機械の雑音の変わり目すぐ聞くでしょ。それと一緒」

 

 その言い方は、ケンスケを“戦う側”に寄せるものじゃなかった。むしろ逆で、人が安心して居られる音量と、機械が壊れかけるノイズの境目を聞き分ける役目として扱っていた。委員長もケンスケも、戦いはしない。でも、止まりそうな所を見つけるのはうまいのだと、その時よく分かった。

 

「じゃあ、どこ直すの」

 

 アスカが譜面を持ったまま訊く。声音は偉そうなのに、ちゃんと指示を待っている。

 

「アスカ、入りはそのままでいい。語尾だけ少し置いて」

 

「置く?」

 

「押し切ると、後ろの子が息継ぎできないから」

 

 ヒカリは自分の喉へ指を当てた。

 

「ここで一回、皆が戻れる幅を作るの」

 

 アスカは少しだけ眉を上げる。

 理屈が分かる顔だった。

 

「……じゃあ、ヒカリはテンポ落としすぎないで。遅いと逆に怖い」

 

「分かった」

 

 そのやり取りが自然に交わされたことへ、僕は少し驚いた。委員長とアスカ、ではなく、ヒカリとアスカとして会話している感じがした。

 

 レイが窓際の子どもたちへ小さく手招きした。二人は遠慮しながらも一番後ろの椅子へ座る。カヲル君が譜面台を端へ寄せ、トウジは「静かにやで」と言いながら自分の声量だけは最後まで信用されていない顔をしていた。

 

 僕はもう一度、弦へ弓を置く。

 さっきより少しだけ柔らかく入る。アスカはその半拍の違いを聞き分け、委員長は黒板用チョークの代わりみたいに指を上下させて、呼吸を揃える位置だけを見せる。

 

 一回目より、二回目の方が教室に近かった。

 体育館の発表のためじゃなく、今ここで聞いている子どもが途中で怖くならないための歌だったからかもしれない。うまく完成させるより先に、途中で詰まらないことの方が大事な歌。

 

 歌い終わると、後ろの椅子に座っていた女の子が小さく拍手した。つられて、もう一人も手を叩く。たったそれだけなのに、音楽室の空気が少し変わった。練習のための練習ではなく、誰かに届いた音になった感じがした。

 

「今のは、悪くない」

 

 アスカが言う。

 

「さっきと同じ台詞だね」

 

 僕が返すと、アスカは肩をすくめた。

 

「悪くないものは悪くないの」

 

 委員長が譜面をまとめながら、そこで少しだけ息を吐いた。

 

「よかった。子どもの前で失敗したら立ち直れないかと思った」

 

「委員長にもそういうのあるんだ」

 

 思わず言うと、委員長は本気で呆れた顔をした。

 

「あるわよ。私を何だと思ってるの」

 

「全部最初から決まってる人」

 

「そんなわけないでしょ」

 

 そう言ってから、委員長は譜面の角を揃えた。

 

「でも、決まってないから決めるの。今日みたいに」

 

 それはたぶん、ヒカリなりのこだわりなのだろう。誰かが詰まりそうな所を先に見つけて、机や椅子や息の入る場所を並べ直す。壊れた後の学校には、そういう人が絶対に要る。

 

 片づけが始まる。

 ケンスケがスピーカーの線を巻き、トウジが椅子を戻し、レイは子どもたちのために一番後ろの椅子だけ二つ残した。カヲル君は倒れかけた譜面台を畳み、その脚の癖まで確かめている。

 

 僕がチェロをケースへ戻そうとすると、アスカがすぐ隣へ来た。

 

「待って。まだ拭いてない」

 

「拭いてない?」

 

「子どもがさっき触ったでしょ。胴に手の跡ついてる」

 

 彼女は自分のハンカチで表板を端から順に拭いた。丁寧なくせに、途中の言い方だけは乱暴だ。

 

「そういうの気にするんだ」

 

「気にするわよ。次の人が触るんだから」

 

 それはチェロの話でもあったし、たぶんそれだけでもなかった。

 

 譜面を抱えたヒカリが、扉のところで振り向く。

 

「アスカ、そのメトロノーム、理科準備室の棚じゃなくて音楽準備室の上。前に相田君が間違えて、後で見つからなかったから」

 

「分かってる」

 

 アスカは即答して、でも次の瞬間に言い直した。

 

「……ヒカリは心配しすぎ」

 

「心配じゃない。前例があるの」

 

「それを心配って言うのよ」

 

 軽口みたいな往復だった。

 けれど名字のままでは出ない柔らかさが、たしかに混じっていた。

 

 皆が出ていったあと、僕とアスカだけがメトロノームと譜面の残りを抱えて廊下へ出た。夕方の校舎は、昼のざわめきが少しだけ抜けて、代わりに遠い鍋の音やラジオの雑音が細く流れている。

 

「さっきの」

 

 メトロノームを持ったまま、僕が言う。

 

「委員長、すごかったね」

 

「そうね」

 

 アスカは前を見たまま頷く。

 

「戦うとか戦わないとかじゃなくて、止まりそうな所だけ先に見つけるの。ああいうの、あたしには出来ない」

 

 少し意外だった。アスカは人の得手不得手を認める時、もっと渋い言い方をすることが多い。

 

「でも、アスカは分かったんだろ」

 

「理屈はね」

 

 彼女は肩をすくめる。

 

「子どもが怖がる前の声とか、途中で息が切れる前の速さとか。ヒカリは、そういう“まだ起きてない詰まり方”を見るのが上手いのよ」

 

 僕は少し考えてから言う。

 

「ケンスケも似てるかも。あいつ、発電機の音おかしくなる前に気づくし」

 

「うん」

 

 アスカはあっさり認めた。

 

「相田は機械が止まりそうな時の音を聞く。ヒカリは人が止まりそうな時の顔を見る。そういうのが今の学校には要るんでしょ」

 

 廊下の窓から赤い光が差し込む。譜面の角がその色を拾って、一瞬だけ薄く染まった。

 

「ねえ」

 

 アスカが急に言う。

 

「さっきの歌、ちょっと嫌だった」

 

「嫌?」

 

「変に残るから」

 

 意味を測りかねて黙っていると、アスカは少しだけ言葉を探した。

 

「歌ってる時はいいの。ちゃんとやることあるし。でも終わったあとも、部屋の中にまだある感じするでしょ。息とか、音のカスとか、そういうの」

 

「残響」

 

「そう、それ」

 

 言った瞬間、アスカは嫌そうな顔をする。

 

「いちいち言い方がそれっぽいのよ」

 

「ごめん」

 

「謝るなっての」

 

 でも否定はしなかった。メトロノームを持つ手の位置だけを直す。

 

「残るの、ちょっと苦手」

 

「消えないから?」

 

「……そう」

 

 そこでようやく、アスカはこっちを一度だけ見た。

 

「消えないくせに、見えなくなるじゃない。そういうの、ずるい」

 

 その言い方は、歌の話だけには聞こえなかった。

 僕はすぐには返せない。

 

「でも、さっきは」

 

 やっと言う。

 

「残った方が良かったんじゃないかな」

 

「どうして」

 

「子どもたち、少し安心した顔してたから」

 

 アスカは黙る。

 黙ったまま、廊下の途中で立ち止まった。音楽準備室の前だ。僕が先に扉へ手をかけると、彼女はメトロノームを渡す前に一度だけ指先で僕の手首を叩いた。

 

「高く積みすぎないで。落としたら壊れる」

 

「うん」

 

「“うん”じゃなくて、見て置きなさい」

 

 言われた通りに棚の高さを見て、譜面とメトロノームを別々に置く。アスカはその横で、譜面の順番をまた一枚ずつ揃えた。几帳面なのか神経質なのか分からない。でも、その手間を惜しまないから、次に使う人が困らない。

 

「シンジ」

 

 珍しく、名字じゃなく名前で呼ばれた。

 

「なに」

 

「さっきの、ヒカリの言ってたこと」

 

「息の場所?」

 

「それもだけど、決まってないから決めるってやつ」

 

 アスカは棚の扉を閉めた。

 

「たぶん今のあたしたち、そういうのを毎日やるしかないのよね。歌でも、教室でも、誰とどう喋るかでも」

 

「うん」

 

「だから、勝手に“一回決まったからもう分かった”って顔しないで」

 

 それは何度も言われていることだった。

 でも、こういう片づけの途中で言われると、前よりずっと具体的だった。

 

「分かった」

 

「返事だけじゃなくて」

 

「やる」

 

 言い直すと、アスカは少しだけ機嫌を直したみたいに鼻を鳴らした。

 

「それならいい」

 

 

 皆が帰り支度を始めても、僕は少しだけチェロの前に残っていた。

 譜面を閉じる。音楽室の空気は夕方の匂いだった。

 

「ねえ」

 

 アスカの声がした。

 

 振り向くと、彼女が窓のそばに立っている。さっきまでの合唱の熱がまだ少し残っているのか、頬がわずかに赤い。

 

「なに」

 

「今の返事」

 

「うん」

 

「そう、それ」

 

 アスカは少しだけ顎を上げた。

 

「前よりいい」

 

「何が」

 

「前、あんた時々、あたしにまで“はい”とか言ってたでしょ」

 

 思わず顔が熱くなる。

 

「……そんなことあったっけ」

 

「あったわよ。変に距離あって、むかついた」

 

「ごめん」

 

「謝るなっての」

 

 そこで、かすかに笑う。

 

「今みたいに“うん”って返しなさいよ。その方がまだマシ」

 

「うん」

 

「だからすぐ言う」

 

「言えって言ったのそっちだろ」

 

「そうだけど」

 

 アスカは窓から離れ、僕のすぐ隣までは来ないまま、隣の机へ腰掛けた。前と同じ距離。でも、前よりはっきりと選ばれた距離だ。

 

「今日の、悪くなかった」

 

 前を見たまま、アスカが言う。

 

「歌も、チェロも、その……全体も」

 

「うん」

 

「何よ」

 

「嬉しいから」

 

「そういうの、いちいち顔に出るのよね」

 

「知ってる」

 

「直しなさいよ」

 

「それは難しい」

 

「難しくてもやりなさい」

 

「それ、便利だな」

 

「便利でしょ」

 

 外で、ひどく歪んだチャイムがまた一回だけ鳴った。

 ケンスケが試運転しているのだろう。音は外しているのに、終業の時間だけは外さない。

 

「明日も弾く?」

 

 アスカが訊く。

 

「うん」

 

「ふうん」

 

「アスカは」

 

「気分」

 

「そっか」

 

「でも」

 

 少しだけ言い淀んでから、続ける。

 

「隣、空いてたら来るかも」

 

 食堂でカヲル君に言われたことを思い出して、少し可笑しくなる。

 でも、わざとらしく空けておくとは言わない。

 そういうことも、前より少しは学んだ。

 

「うん」

 

 それだけ答えると、アスカは小さく鼻を鳴らした。

 

「今のは、まあ悪くない」

 

 そのまま立ち去る代わりに、アスカは机の上の譜面を半分こっちへ押した。

 

「帰り道くらい、持ちなさいよ」

 

「命令?」

 

「当たり前」

 

 受け取ると、指先が少し触れた。どちらも引かない。引かないまま、譜面の角を揃え直す。

 たぶんこういうのが、今の僕たちにできる“続き”なんだと思った。

 

 音楽室の窓から、夕方の風が入ってくる。

 譜面が揺れる。チェロの胴の縁が光る。

 

 合唱は、同じ声になることじゃなかった。

 違う声が、違う痛みと違う癖を抱えたまま、同じ譜面を引き受けることだった。

 

 他人は最後まで他人のままだ。

 分かりきることなんてない。

 だから痛みも、拒絶も、ずれも残る。

 

 それでも。

 

 それでも、隣で歌うことはできる。

 

 福音を呼ぶ資格があるとしたら、たぶんそれは全部を分かり合える人間じゃない。

 分からないまま、境目のあるまま、同じ歌の中へ残ろうとする人間だ。

 

 僕はようやく、そのことを少しだけ信じ始めていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。