【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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最終話 海鳴りの手前で

第一節 チャイムの鳴る朝

 

 チャイムが三度鳴るようになってから、学校の一日はようやく形を持ち始めた。

 

 最初の一回は青葉さんが直した校内放送の確認。

 二回目は日向さんの通信室からの定時連絡。

 三回目は、ミサトさんが「これがないと動き出した気がしない」と言って残した合図だ。

 

 壊れた校舎の中で、それだけがやけに学校らしかった。

 

 保健室ではマヤさんが包帯と薬を仕分けし、委員長がその横で名前を書きつけている。見張り台ではケンスケと日向さんが無線を繋ぎ、青葉さんは発電機の癖へ悪態をつきながら配線をいじっていた。トウジは本調子じゃないくせに椅子運びをしたがり、毎回委員長に怒られている。

 

 ミサトさんは黒板の前だ。

 脇腹を押さえながらも、その日の当番と探索班を手際よく決めていく。大人が戻ってきたから全部任せればいい、という空気にはならなかった。むしろ逆で、僕たちとミサトさんたちの動きがなんだか同じ場所で噛み合い始めた感じだった。

 

 そして加持さんは、屋上へ広げた地図の前で外の線を引いている。

 

 貯水タンク。

 通れる道路。

 夜間移動が危ない場所。

 生存者を見た地点。

 誰かが残した矢印。

 自分が前に置いてきたメモ。

 

 そういう細い線を、加持さんは「拾えるものは拾う」とだけ言って一つに繋いでいく。

 

 あの人は相変わらず全部を筋道立てては説明しない。

 でも今は、それでよかった。分かりやすい説明より、次にどこへ行くかの方が大事だと皆が知っていたからだ。

 

 校舎の一角には、旧ネルフ本部から運び出した機材も増えていた。発令所のサブモニタ、短波受信機、予備の非常灯、LCL洗浄タンクを洗い直した貯水槽。エヴァのために作られた物が、今は学校を一日持たせるための物へ変わっている。配線の番号やケージの記号だけが消え切らず、朝の廊下に戦闘の名残を残していた。

 

 もちろん、最初からこうだったわけじゃない。

 青葉さんが直したチャイムは最初の試運転で途中から裏返り、ケンスケが「これ呪われてません?」と真顔で言って委員長に叩かれた。

 保健室では、マヤさんが「夜間は医療優先です」と譲らず、青葉さんが「電源が落ちたら全部終わりですよ」と配線図を抱えて睨み返す。

 当番表を作る時には、委員長が「子どもに夜番を入れすぎです」と黒板の前で腕を組み、ミサトさんが「だったら大人の仮眠をどう削るの」とやり返した。

 

 そこへ加持さんが地図を丸めたまま口を挟む。

 

「揉めてるうちはまだ大丈夫だ」

 

 その一言で全部が解決するわけじゃない。

 でも皆が一度だけ息を吐き、言い合いながらも役割を組み直し始めた。カヲル君が壊れた脚立を押さえ、レイが毛布の枚数を数え直し、トウジが「じゃあ夜番は交代でええやろ」と言う。

 

 拠点は、最初から噛み合うんじゃない。

 噛み合わないものを、毎日使える程度に並べ直していく。

 

 その“並べ直し”は、思った以上に大事な仕事だった。

 

 図書室の貸出票は人数表へ変わり、理科室の蒸留器は水のための道具になり、家庭科室のガス台は共同炊事に回された。学校にもともとあった物と、旧ネルフ本部から運び出した物が、場違いなまま同じ机の上へ並んでいる。

 

 夜になると、その寄せ集めぶりはもっとはっきりした。校舎全体へ電気を回す余裕はない。保健室、通信室、見張り台、廊下の最低限だけ。教室の灯りは一本おきで、家庭科室は炊き出しの時だけ使う。

 

 足りない前提で順番を決める。誰かが眠れるよう、別の誰かが少し暗い所を歩く。そういうやりくりでしか、朝は来ない。

 

 日向さんは壁へ新しい時刻表を貼った。六時、給水。七時、体調確認。八時、探索班発。十一時、通信待受。十三時、配給。十七時、校内点検。二十時、夜間見張り交代。

 

 数字だけ見れば駅のダイヤみたいだ。でも今動いているのは列車じゃなく、人の体温と空腹と不安だった。時刻表があるだけで、誰かの眠れなさが少し減る。今の僕たちには、そういう表が必要だった。

 

「機械ってさ」

 

 前に青葉さんが配線をいじりながら言ったことがある。

 

「結局、人間のだらしなさをどこまで見越して組むかなんだよ」

 

 その時は悪態にしか聞こえなかった。今は少し分かる。完璧な人間を前提にしないから、表が要るし、予備系統が要るし、委員長の名簿も要る。

 

 光る高層ビルも自動化もない。あるのは、濾過と配分と時刻表だ。でも世界が壊れたあとで人が残るための技術は、たぶんこういう地味な冗長さの方に宿る。そういう設計だけが、誰かをちゃんと待てる。

 

 その「並べ直す」作業のほとんどは、誰にも格好よく見えない。

 

 朝の一番早い仕事は、水の分配だ。屋上へ溜めた雨水は洗濯と掃除へ回し、飲める水は保健室の棚の上へ鍵付きで置く。委員長がコップの数を数え、マヤさんが煮沸の順番を決め、青葉さんが「発電機が死んだら全部止まる」とぶつぶつ言いながらポンプを見て回る。

 

 僕とアスカは、配給用の箱を職員室から一階の廊下へ運ぶことが多かった。最初の頃の僕は一箱でも多く持とうとして、毎回委員長かアスカに止められた。

 

「二つで十分」

 

 アスカは箱の底へ手を差し込みながら言う。

 

「三つ持って角でぶつけたら意味ない」

 

「分かってる」

 

「分かってるなら肩入れ替えて」

 

 言われて持ち替える。紙箱の角が腕へ食い込む感覚まで、最近は少し慣れてきた。慣れてきたからこそ、どこで無理をすると後で響くかも前より分かる。

 

 廊下の端では、綾波が返却された毛布を種類ごとに畳み分けていた。白いもの、厚いもの、子どもに回すもの。カヲル君は壊れた教卓の脚を削って椅子の高さを揃え、トウジは「座れるだけでええやろ」と言いながら最後はきっちり全部運ぶ。ケンスケは受信機の周波数一覧を壁へ貼り、日向さんはその横で時刻表みたいな通信当番表を書き込む。

 

 学校が学校として立ち上がっていく時、最初に戻ってくるのは授業じゃない。

 椅子の数、毛布の置き場、湯を沸かす順番、誰がどの時間に見張るか。そういう細かい秩序から先に戻ってくる。

 

 昼に近づくと、保健室の前へ並ぶ人の列が少し長くなる。擦り傷、靴擦れ、捻った足首、眠れなかった顔。マヤさんは一人ずつ名前を聞き、委員長がその綴りを確認する。名前の字を間違えないようにする、それだけで相手の顔つきが少し変わることがある。

 

 僕はその様子を見ながら、食堂跡で鍋の蓋を拭いた。アスカが横で乾いた布を絞り、ミサトさんが黒板へその日の探索班を書き足す。席は足りないから、長机を寄せてベンチを詰める。前みたいに一人分ずつ間を空けることは、もうしなくなった。

 

「そこ、空けなくていい」

 

 アスカが言う。

 

 鍋を運ぶ僕の肘が、人一人ぶん空けたまま止まっていたらしい。彼女は自分の椅子を半分だけ引き、長机の脚がぶつからない位置を足先で示す。

 

「今さら気遣われても邪魔」

 

「気遣ったわけじゃない」

 

「同じこと」

 

 そう言ってから、アスカは鍋の取っ手を一つ掴んだ。

 

「片方持つ」

 

「熱いよ」

 

「だから布巻いてるんでしょ」

 

 二人で鍋を運ぶ。食堂跡の長机へ置く。誰かが並べた金属の椀がかすかに鳴る。その小さな音だけで、ここがただの避難所ではなく、少しずつ学校へ戻ろうとしていることが分かった。

 

第二節 中継小屋の声

 

「入った!」

 

 昼前、見張り台からケンスケの声が降ってきた。

 

「短波! 海沿いの中継所の方から!」

 

 日向さんがすぐに受信機へ耳を寄せる。雑音。切れた単語。方位。距離。青葉さんが予備電源を蹴って電圧を上げ、マヤさんまで保健室から顔を出した。

 

「場所は?」

 

 ミサトさんが訊く。

 

「旧海浜公園の上の中継小屋だと思います」

 

 日向さんが答える。

 

「西からの反射が少ない。たぶんあそこです」

 

「地図」

 

 加持さんが屋上から下りてきて、地図を机へ広げた。

 

「このルートならまだ行ける。昨日、海側の崩落を一度見た。車は無理だが、人なら二人で抜けられる」

 

 ミサトさんが地図を見る。委員長も横から覗き込み、数秒だけ皆が黙った。

 

「じゃあ、シンジ君とアスカ」

 

 先に言ったのは委員長だった。

 

「機動力ある二人で確認。相田君は通信室。日向さんの補助。鈴原は保健室と校内見回り。綾波さんと渚君は戻った人の受け入れ準備」

 

 ミサトさんが笑う。

 

「委員長、取るねえ」

 

「取るわよ。こういう時のための委員長だもの」

 

 誰も反対しなかった。

 役割が決まる。決まった役割の中へ自分から入っていく。その当たり前が、今は前よりずっと大事だった。

 

「シンジ君」

 

 ミサトさんがこっちを見る。

 

「途中で変な顔して立ち止まらない」

 

「……善処」

 

「駄目。やる」

 

「やる」

 

 言い直すと、アスカが横で鼻を鳴らした。

 

「返事だけはいいのよね」

 

「今のは返事しただろ」

 

「半分くらい」

 

 その半分が、今はありがたい。

 

 出発前、加持さんが小さな受信機と折り畳みナイフを机へ置いた。

 

「受信機は日向に合わせろ。帰り道が怪しくなったら、音より先に地図を見ろ」

 

「うん」

 

「あと」

 

 加持さんは一度だけ僕を見た。

 

「海が近い」

 

 それで十分だった。

 僕が何に足を止めるか、この人はたぶんかなり分かっている。

 

「分かってます」

 

「分かってるなら、今は仕事優先だ」

 

「はい」

 

「そこで敬語使うなよ、シンジ君」

 

 ミサトさんの横槍に、教室の空気が緩む。

 その緩みごと、僕は受信機をポケットへ入れた。

 

 学校を出てしばらくは、昨日と同じような街だった。

 

 壊れた看板。誰もいない商店街。半分だけ影の残った信号。歩ける道と歩けない道を、その場で選びながら進む。途中、道の向こうに旧発進口の装甲板が見えた。歪んだ射出台のレールと、対使徒用の砲台跡。その前を、僕とアスカはただの探索班として歩いていく。エヴァの発進に使われた街を、今は人を迎えに行くために歩く。その順番だけが、少し救いだった。

 

 アスカは前へ出すぎず、でも後ろにも下がらない速度で歩く。僕もそれに合わせる。最近は、この“合わせる”が前より自然になった。

 海が近づいて、僕の足がほんの少し鈍るたび、アスカは何も言わないまま歩幅だけを変えた。あからさまに庇うみたいなやり方じゃない。ただ、置いていかないための合わせ方だった。

 そういう気づき方が出来る人なんだと、前の僕はたぶん知らなかった。

 

「受信機、入れた?」

 

「入れた」

 

「電池は」

 

「予備もある」

 

「ならいい」

 

 何でもない確認だ。何でもないのに、そういう言葉が交わせるだけで落ち着く。

 

 坂を上り、海沿いへ抜ける旧道へ入る頃には、風の匂いが変わってきた。塩気が混ざる。遠くで、低く長い音がする。

 

 海だ。

 

 まだ見えていないのに、分かる。

 

 足が、ほんの少し遅くなる。

 

「……何」

 

 すぐ横からアスカの声がした。

 

「遅い」

 

「海が近いから」

 

「知ってる」

 

 アスカはそれだけ言って、少し前を見た。

 

「見たい?」

 

 質問の形だったけれど、試すみたいな響きもあった。

 

 僕は少し考えた。

 考えた、というより、胸の中に上がってきたものを一度全部見た。

 

 あの白い浜。

 包帯。

 首にかけた手。

 気持ち悪い、という声。

 

 そこへ戻らなきゃいけない気が、ずっとどこかにあった。あの海を、今の目でもう一度見なければ、何かが終わらないような気がしていた。

 

 でも今、僕の手には受信機がある。学校ではみんなが戻りを待っている。委員長は黒板へ当番を書き、ミサトさんは脇腹を押さえながら地図に新しい線を引き、マヤさんは次に来るかもしれない怪我人のベッドを空けている。加持さんは外のルートを見直し、日向さんと青葉さんは通信と電力を繋いでいる。

 

 終わらせるための海より、続けるための声の方が、今は前にある。

 

 雑音の奥で誰かの声が聞こえるということは、世界がまだ閉じていない証拠だった。海が全部を一つへ戻そうとする連続音なら、無線はその逆だ。遠く離れたままの誰かが、歪みや遅れを抱えたまま、それでも別々の座標から届いてくる。

 

「……今は、いい」

 

 ようやくそう言うと、アスカは僕を見た。

 

「逃げてるんじゃないの」

 

「前なら逃げてたと思う」

 

 少し間を置いてから、続ける。

 

「でも今は、戻るために海を見たいわけじゃない」

 

「じゃあ」

 

「今は、明日の方へ歩きたい」

 

 アスカはしばらく黙っていた。

 怒るかと思った。でも怒らなかった。

 

「……そう」

 

 短く、それだけ。

 

 それから、小さく鼻を鳴らす。

 

「じゃあ、行かない」

 

「いいの」

 

「何が」

 

「海」

 

「今のあんたが行かないって言うなら、それでいい」

 

 ぶっきらぼうな声だった。

 でも、そのぶっきらぼうさの奥に、前よりずっとはっきりしたものがある。

 

「あたしも」

 

 アスカは海の方を見ないまま言う。

 

「何でもかんでもあの浜で片づけたくないの」

 

 胸の奥が静かに熱くなる。

 

「終わりみたいな顔で会うの、もう飽きた」

 

 その言葉で、足元が少し確かになった。

 

 中継小屋は、古い管理棟の屋根裏みたいな場所だった。

 

 屋根の片側が落ち、アンテナが傾いている。でも、完全には死んでいない。ケーブルの一部はまだ繋がっていたし、奥の机には乾きかけのマーカーと、開けたままの地図が残っている。

 

「人がいた」

 

 アスカがすぐに言う。

 

 机の上の埃が一部だけ新しく払われていた。窓辺には、最近使ったらしい懐中電灯。壁には太い赤字で、ざっくりした矢印がいくつも書かれている。

 

 ――第三中学校 水・仮寝床あり

 ――西ルート一部崩落

 ――夜間移動不可

 

 机の端には折り畳まれた紙切れまであった。

 開く。簡易地図。いくつかの赤丸と、細い矢印。その右下に、癖のある短い筆記がある。

 

 ――N2南側 通行可。拾えるものは拾え。

 

「これ」

 

 僕が指でなぞると、アスカが覗き込む。

 

「誰か、学校のこと知ってる」

 

「うん」

 

「じゃあ、こっちだけじゃなかったのね」

 

 声の温度がほんの少し変わる。

 希望と警戒が半分ずつ混ざった音だ。

 

 机の脇に置かれていた無線機へ、僕は受信機のジャックを繋いだ。雑音が走る。ケンスケに教わった通りにダイヤルを合わせる。最初は砂嵐みたいなノイズだけだった。次に、ひどく歪んだ人の声が混じる。

 

『……こちら、西側……避難班……生存者、三名……水は――』

 

 声が飛ぶ。切れる。もう一度繋ぐ。

 

『――第三中学校へ、向かう……道は……』

 

 そこまで聞こえたところで、僕とアスカは顔を見合わせた。

 

「やった」

 

 僕が言うより早く、アスカが送信ボタンを押す。

 

「こちら第三中学校!」

 

 声が少し上ずっていた。

 

「聞こえる!? 第三中学校、今十二人……まだ受け入れできる!」

 

 雑音。

 切れかけた返答。

 それでも確かに、向こうに人がいる。

 

 雑音の向こうに人の声が立ち上がる瞬間は、毎回少しだけ現実を取り戻す感じがした。全部は聞き取れない。言い直しもいる。それでも、別の場所にいる誰かが別のまま届いてくる。それだけで十分だった。

 

 受信機のダイヤルを指でつまんだまま、僕はしばらく耳を澄ませていた。

 

 電波は見えない。でも、見えないからこそ妙に想像を引っ張る。海の上で反射し、崩れたビルの骨組みに跳ね、雲の湿り気に吸われ、それでも一部だけがここまで届く。昔のSFに出てくる宇宙通信みたいだと思った。遠くの基地と基地が、光年のかわりに山と海を挟んで、ノイズだらけのまま互いの存在だけを確かめ合う話。派手な超科学じゃない。むしろ、壊れかけの真空管や傾いたアンテナの方が似合う種類の未来だ。

 

「何ぼさっとしてるの」

 

 アスカが言う。

 

「ちょっと」

 

「話をまとめたがってる顔」

 

「そんな顔してた?」

 

「してた」

 

 すぐに見抜かれる。

 

「でも、格好いいっていうより……変だなって」

 

 僕は壁へ取り付けられた古い中継器を見た。錆びたボルト。焼けた基板。誰かが応急処置で巻いたビニールテープ。その全部が、最初はエヴァと戦争のための設備だったはずなのに、今は人の無事を運ぶ。

 

「こんな大げさな機械が、結局やってるの“今そっちに人いる?”って確かめることなんだって」

 

 アスカは少しだけ目を細めた。

 

「大事じゃない」

 

「うん」

 

「むしろ、そのために機械作るんでしょ、人間は」

 

 その返しが意外で、僕は彼女を見た。

 

「何よ」

 

「いや」

 

「失礼ね」

 

 アスカは窓の外の傾いたアンテナへ顎を向ける。

 

「海の向こうまで聞こえるようにするとか、空の上まで飛ばすとか、そういうのって全部さ。結局、見えない相手に“聞こえてる?”ってやりたいだけじゃない」

 

 たしかにそうかもしれなかった。

 地底都市も、発進口も、受信機も、手書きの地図も。規模は違っても、やっていることの芯は同じだ。届かない距離へ線を引くこと。

 

「でも」

 

 アスカはそこで少しだけ声を落とした。

 

「でかい機械使ってるくせに、目の前の一人に言うことの方が難しいの、ほんと馬鹿みたい」

 

 笑いそうになって、笑えなかった。

 

「それもそうだね」

 

「そうよ」

 

 アスカは受信機を僕の手から取り、送信の確認をもう一度だけやり直した。周波数のメモを紙へ写し、帰り道の袋の外ポケットへ差し込む。その手つきにためらいがない。

 

「忘れたら意味ないから」

 

「分かってる」

 

「分かってるなら、ポケット浅い方に入れない」

 

「はい」

 

 窓の外では、海がまだ見えない位置で鳴っている。

 見に行こうと思えば行ける距離だった。でも今は、波より先にこの周波数を持ち帰る方が大事だ。

 そう思える自分を、少しだけ好きになってもよかった。

 

「戻るわよ」

 

 アスカが言う。

 

「みんな待ってる」

 

「うん」

 

 下り坂を駆けながら、ポケットの中の紙が何度も腿に当たる。

 誰かがここへ線を残していた。その“誰か”の中に、もう加持さんたちも入っているのだと思うと、世界が少し続く方へ傾いた気がした。

 

 学校へ戻る頃には、校庭の真ん中へ机が並べ直されていた。

 通信室からケンスケが飛び出してくる。日向さんがすぐ後ろでメモを持ち、青葉さんが屋上から「電圧落とすな!」と怒鳴る。保健室の窓にはマヤさん。黒板の前にはミサトさんと委員長。そして、その少し横に加持さんが立っていた。

 

「どうだった!?」

 

 ケンスケが叫ぶ。

 

 アスカが受信機を持ち上げる。

 

「当たり」

 

 それだけで、みんなの顔が変わった。

 

 机の真ん中へ地図が広げられる。委員長が新しい線を書き足し、日向さんが聞こえた単語を整え、ケンスケが時刻を記録する。青葉さんは明日のための電源割りを考え、マヤさんは受け入れ用の寝床数を数え直す。

 

 加持さんは、僕が拾ってきた紙を見て眉を少し上げた。

 

「……これ、俺の字だな」

 

「やっぱり」

 

「回収し忘れてたか」

 

 困ったみたいに笑う。その笑い方には疲れが滲んでいて、それが妙に安心に近かった。

 

「前にこの辺通った時、置いてった」

 

 加持さんは地図の隅へ赤丸を足す。

 

「西側避難班は、ここからなら明日には着く」

 

「明日、受け入れ準備を増やすわよ」

 

 ミサトさんがすぐに言う。

 

「伊吹二尉、保健室のベッドあと三つ空けられる?」

 

「やります」

 

「日向二尉、通信は一日張りつきで悪い」

 

「いつものことです」

 

「青葉二尉、発電機の夜間配分は任せる」

 

「また俺だけ機械相手ですか」

 

「そういう顔しない」

 

 言い合いながらも、皆の手はもう動いていた。

 

 その中心に大人がいる。

 それが、今は何より大きかった。

 

 全部を任せるわけじゃない。

 でも、責任の半分を押し返してくれる手が戻ってきた。

 

 教室の端で、アスカが僕の袖を軽く引いた。

 

「なに」

 

「明日も、あんた行くんでしょ」

 

「行くよ」

 

「じゃあ」

 

 視線を逸らす。

 

「隣、空けなくていい」

 

「え?」

 

「空けなくても、あたしが勝手に来るから」

 

 言い終わるより先に、アスカは僕から手を放した。

 でも、その一瞬の力だけで十分だった。

 

「うん」

 

「その“うん”好きね」

 

「今のは、本気で言った」

 

「分かってるわよ」

 

 アスカはそう言って、黒板の方へ歩いていく。

 

 僕はその背中を見た。

 前みたいに、壊れる前の色としてじゃない。怒ったり、呆れたり、少し照れたりしながら、それでも自分の足で次の線を見に行く人の色として。

 

第三節 白地図の隣

 

 でも、そのまま離れて終わりにはならなかった。

 

「ぼさっとしてないで、こっち」

 

 数歩先でアスカが振り向く。

 机の上には白地図と予備電池と、マヤさんが置いていった包帯の束が並んでいた。

 

「明日の写し、二部必要なんでしょ」

 

「うん」

 

「なら早く座りなさいよ」

 

 言われるまま隣の椅子へ座る。

 アスカは物資の袋を開き、僕は海沿い中継所までの経路を白地図へ写していく。崩落地点。給水ポイント。日向さんが聞き取った呼びかけの方角。加持さんの赤丸。委員長の当番表の空欄。明日のために必要な線だけを、二人で机の上に増やしていく。

 

「そこ、薬局の角から入った方が早い」

 

 アスカが地図の端を指で叩く。

 

「でも昨日は瓦礫が」

 

「今日の風なら寄ってないわよ。海側の匂い、朝と違ってた」

 

 そう言われて、僕は少し笑ってしまった。

 

「何よ」

 

「よく見てるなと思って」

 

「当たり前でしょ。あんたが変な所で止まる分まで見てるの」

 

 文句みたいな言い方なのに、手は止まらない。

 僕が地図へ線を引き、アスカが電池の本数と包帯の数を書き足す。途中で肘がぶつかる。前みたいにどちらも引かない。引かないまま、机の端へ受信機を置き直す。

 

「これ、二人分にしては重いわね」

 

「トウジが見たら文句言うかな」

 

「言うわね。ヒカリも怒る」

 

「じゃあ少し削る」

 

「水は削らないで」

 

「うん」

 

「あと、それ」

 

 アスカが物資袋の持ち手を引いた。

 

「明日、一人で持とうとしないでよ」

 

「持たないよ」

 

「嘘」

 

 即答だった。

 

「あんた、こういう時すぐ自分の方へ寄せるじゃない」

 

 言い返せなかった。

 

「重かったら重いって言いなさい。止まりたかったら止まるって言いなさい。分かった?」

 

「……うん」

 

「返事」

 

「分かった」

 

 それでようやく、アスカは袋を放した。

 

「半分はあたしが持つ。そういう班なんでしょ」

 

「うん」

 

 今度は怒られなかった。

 

 短い会話だけで、作業は思っていたより早く片づいた。

 出来上がった二部の地図を重ね、アスカが角を揃える。僕は物資袋の口を結び直す。

 

「はい、探索班」

 

 アスカがわざとらしく顎を上げて言う。

 

「明日、寝坊したら置いてくから」

 

「先に起きてる方が珍しいだろ」

 

「何ですって」

 

 言い合いながら、僕たちはその地図と物資を黒板前の机へ運んだ。

 委員長が当番表の横に差し込み、ミサトさんが「よし」と短く頷き、加持さんがルート確認のために赤鉛筆を取り上げる。

 

 言葉のあとに、手が続く。

 それが、今は何より嬉しかった。

 

 日が落ちる前に、通信室の隣の小部屋で、その日の記録をまとめる時間があった。

 元は放送準備室だったらしい狭い部屋に、今は折り畳み机とランタンと、旧発令所から持ってきた簡易ログ端末が一台だけ置かれている。端末は半分壊れていて、入力欄の下半分が見えない。だから結局、記録の本体は紙になる。委員長が見張り台から下ろしてきたメモ、日向さんの受信記録、マヤさんの保健室ノート、加持さんの地図の赤線。その全部を、あとで誰が見ても分かる形へ直す。

 

「時刻、ここは丸める」

 

 アスカが言った。

 

「時計ずれてるんだから、秒まで書いても無駄」

 

「でも細かい方が」

 

「細かいのと正確なのは違うでしょ」

 

 そう言われると反論しにくい。

 僕は鉛筆を持ち直し、《11:32頃》と書いた数字を《昼前》へ直した。アスカはその横で、物資受け渡しの欄に《受信機予備電池 二》《包帯 一束》《子ども用薬 少量》と短く書き足していく。字は強いが乱れていない。急いでいても、あとで読めなくなる書き方だけはしない。

 

「人数だけじゃなくて、名前も欄作る」

 

 アスカが言う。

 

「聞けたらその場で。聞けなくても空けとく」

 

「人数が先じゃなくて?」

 

「人数も大事。でも数だけだと、そのうち混ざる」

 

 彼女は鉛筆の先で紙の余白を叩いた。

 

「ネルフの報告書って、すぐ“適格者一名”“負傷者二名”ってなるでしょ。ああいうの、便利だけど嫌なのよね」

 

 その嫌さが、僕にも少し分かる。

 数は全体を動かすには必要だ。でも数だけで扱うと、人の顔が早すぎる速度で消える。トウジが参号機の実験へ呼ばれた時も、たぶん書類の上では“候補者一名”とか、その程度の厚みだったのだろう。

 

「だから欄を空けるの」

 

 アスカは続ける。

 

「まだ分かんない相手でも、名前が入る場所だけは先に作っとく。そうしないと、最初から“どっちでもいい誰か”になるでしょ」

 

 一拍置いてから、鉛筆の先でその空欄をもう一度叩く。

 

「呼び出す時のためだけじゃないのよ」

 

 彼女は言った。

 

「戻ってきた時に、“誰だったっけ”ってしないため。必要な時だけ呼ぶのと、帰ってきたか確かめるのって、全然違うから」

 

 ランタンの灯りが彼女の横顔へ揺れる。

 その横で、僕は《生存者三名》とだけ書きかけた行を一度消した。代わりに《海浜側避難班 三名/氏名確認待ち》と書き直す。少し回りくどい。でも、その回りくどさの方が今は本当の気がした。

 

 委員長が扉を開けて顔を出した。

 

「書類、まだ?」

 

「いまやってる」

 

「アスカ、字が強すぎて裏移りしてる」

 

「そっちの紙が薄いのよ」

 

「人のせいにしない」

 

 委員長は机の端へ新しい紙束を置いた。

 それから、僕の書いた行を覗き込む。

 

「うん、それでいい」

 

 短く言う。

 褒められたというより、形式に合ったと認められた感じだった。でも今はその方がありがたい。

 

「人数の横に、来た方角も入れておいて。あと、誰が最初に受けたか」

 

「受けた人まで?」

 

「あとで聞き返す時、入口が分かった方が早いでしょ」

 

 委員長はそう言って、すぐにまた廊下へ戻っていった。

 扉が閉まる。遠くでケンスケが何か叫び、トウジが怒鳴り返す。学校らしい騒がしさが、壁一枚向こうで続いている。

 

「委員長、ほんと容赦ないな」

 

「でも必要でしょ」

 

 アスカは言った。

 

「一回聞いたことを、一回で全部覚えてる人間ばっかじゃないし」

 

「僕もそうだけど」

 

「知ってる」

 

 即答だった。

 それから少しだけ声が緩む。

 

「だから紙に残すの。あとで言い直せるように」

 

 言い直せるように。

 その一言が、妙に胸へ残った。

 通信の記録も、物資の表も、名簿も、結局は全部そういうものなのかもしれない。一度で通じなかった時のために残す。今日の自分が明日の自分へ引き継げるようにする。忘れるし、取り違えるし、感情の向きだって変わる。だから紙が要る。だから二重化が要る。

 

 僕が書いた字の上へ、アスカの指先が少し重なった。

 

「そこ、詰めすぎ。次の欄なくなる」

 

「ごめん」

 

「謝らない。ずらす」

 

 彼女は紙を少し引き寄せ、自分の字で余白を作った。僕の行とアスカの行が、同じ一枚の中で並ぶ。たったそれだけなのに、なぜか少し落ち着く。

 

「ねえ」

 

「なに」

 

「今日さ」

 

 アスカは鉛筆を置いたまま言う。

 

「中継小屋で、あんたがぼさっとしてた時」

 

「うん」

 

「都合のいい感傷に逃げる顔じゃなかったのは、ちょっとだけよかった」

 

 心臓が一つ鳴る。

 

「それ、褒めてる?」

 

「知らない」

 

 でも声は、完全な拒絶じゃなかった。

 

 記録を束ねる。地図へ挟む。明日の白紙を下へ敷く。

 作業としてはそれだけだ。けれど僕たちは、その“それだけ”の中で、前より少しだけ同じページを共有できるようになっていた。

 

第四節 受け入れの夜

 

 夕方、海浜側から来た三人の生存者は、思っていたより若かった。

 

 中年の夫婦と、小学校へ上がる前くらいの女の子。服は泥で重く、靴底は片方が剥がれかけている。けれど三人とも自分の足で昇降口を上がってきた。そこに人の体温が増えただけで、校舎の空気は少し変わった。

 

「名前、聞きます」

 

 委員長がしゃがんで目線を合わせる。女の子は母親の袖を掴んだまま、少しだけ時間をかけて自分の名前を言った。委員長は聞き返さず、一文字ずつ確認して名簿へ書き込む。その丁寧さは、保健室の前でどんな怪我人に向ける時とも同じだった。

 

 マヤさんはすぐに靴擦れの様子を見て、トウジが椅子を運び、レイが湯を持ってくる。カヲル君は毛布を広げ、青葉さんが発電機へ余分な負荷がかからないよう廊下の灯りを一つ落とした。誰も大声を出さないのに、全員の手が勝手に次の作業へ繋がる。

 

 僕とアスカは食堂跡へ戻って、柔らかく食べられる物を探した。缶詰の桃は残っていない。レトルトのお粥もない。結局、マヤさんの判断で味の薄いスープを多めに作ることになった。

 

「塩、入れすぎないで」

 

 アスカが鍋を覗き込む。

 

「子どもいるんだから」

 

「分かってる」

 

 そう言いながら、僕はいつもの癖で鍋を一人で持ち上げようとして、すぐ止められた。

 

「だから持つってば」

 

 アスカが布巾を巻いた取っ手を掴む。

 

「今こぼしたら全部やり直し」

 

 二人で鍋を運ぶ。長机の上へ置く。金属の椀がまた小さく鳴る。その音だけで、誰かを受け入れる準備ができた気がした。

 

 女の子は最初、椀を両手で持ったまま飲めなかった。母親が背中へ手を置き、委員長が「熱いからゆっくりでいい」と言い、レイが無言で水を近くへ寄せる。三口目くらいでようやく肩の力が抜けた。

 

「学校なんですね、ここ」

 

 父親の方がぽつりと言った。

 

 ミサトさんは少し考えてから答える。

 

「ええ。今は、そうし直してる最中です」

 

 その答えが、僕にはひどく嬉しかった。学校だった、ではない。避難所です、でもない。そうし直している最中。壊れたものを元の名前へ戻すのに必要なのは、たぶんそういう言い方だった。

 

 食後、委員長は空いている教室の机を寄せ、簡易の寝床を作った。トウジが毛布を運び、ケンスケが窓のがたつきを確認し、日向さんは通信室へ戻る前に受信機の音量を少し下げる。人が増えると、夜の音の大きさまで変わる。

 

 僕は白地図の横へ、新しい名前を三つ書き足した。人数、年齢、来た方角、持ち込んだ荷物。アスカはその横で、明日の探索班用の袋をまた二つに分けていた。昼に持ち帰った電池と簡易キットを足し、代わりに今夜必要な包帯を抜く。

 

「こっち軽すぎ」

 

 彼女が僕の袋を持ち上げて言う。

 

「電池二本足す」

 

「じゃあそっちの乾パン一袋こっち」

 

「うん」

 

 机の上で荷物が小さく移動する。行き先と人数が変わるたび、袋の中身も少しずつ変わる。明日のための支度というより、明日へ届くように形を直している感じだった。

 

「席」

 

 アスカが顎で机の方を示す。

 

 長机のベンチが片側だけ空いている。僕が無意識に一つ分離していたらしい。

 

「空けなくていいって、言ったでしょ」

 

「覚えてる」

 

「なら最初からそうしなさい」

 

 言いながら、アスカは自分の椅子を半歩だけ寄せた。僕もそれに合わせて座る。肩は触れない。けれど、次に誰かが座るための無駄な空白はない。

 

 職員室の窓の外で、海鳴りが低く鳴った。前ならその音だけで胸が固くなったはずだ。今は、明日どのルートで病院へ向かうか、どの袋へ薬を入れるか、誰に鍋を預けるかの方が先に浮かぶ。

 

 それで過去が消えるわけじゃない。

 でも、過去の音の前にやることがあると知っているだけで、人は少しだけ前を向ける。

 

 アスカが物資袋の口を結びながら言った。

 

「明日、階段の方から回るなら包帯多め」

 

「ガラス多かったから?」

 

「そう。あと、病院で子ども見つかったら、甘い物少し要るかも」

 

「じゃあ桃缶、探す」

 

「一個見つけたら半分」

 

「分かった」

 

 その約束は、小さくて、だから現実だった。

 

第五節 病院の往復

 

 翌朝、探索班の机には最初から荷物が二つに分けて置かれていた。

 

 机の端には、旧発令所の発進予定表の裏紙を使った在庫表まで貼られている。誰が病院へ行き、誰が学校へ残るか。エヴァの出撃順じゃないのに、黒板の線がどこかそれに似ているのが少し嫌で、少し頼もしかった。

 

 水筒、乾パン、電池、包帯、受信機、簡易キット。昨夜のうちに分けたはずなのに、朝になるとアスカはもう一度中身を出し、重さと順番を確認し直す。缶詰は下、水は背中側、電池は外ポケット、包帯はすぐ取れる所。僕もそれに合わせて結び目を締め直した。

 

「今日、病院で薬見つけたらどうする?」

 

「まず子ども向け」

 

 アスカは即答した。

 

「昨日の子、夜に咳してた」

 

 僕は少し驚いて彼女を見た。アスカはこっちを見ずに、肩紐の長さだけを直している。

 

「見張りの帰りに聞こえた」

 

「うん」

 

「そういうの、学校に戻ってから慌てても遅いでしょ」

 

 その通りだった。

 

 委員長は黒板の在庫欄へ新しい線を引き、マヤさんは保健室から必要な薬品名を書いた紙を持ってきた。痛み止め、解熱剤、消毒、子ども用の咳止め、栄養剤。字は細かいが、必要なものほど下線が太い。

 

「無理して全部持ってこないで」

 

 委員長が言う。

 

「帰り道まで込みで考えて。途中で置いてくる方が困るから」

 

 最近、この手の忠告を同じ方向から何度も聞いている気がする。僕が黙って頷くと、アスカが横で鼻を鳴らした。

 

「だから最初から言ってるっての」

 

 僕が予備の紙袋を取りに保健室へ寄って戻ると、アスカが探索机の前で止まっていた。

 指に挟んでいるのは、昨夜のうちに自分用へ書いた走り書きだ。東坂は朝の風が抜けること。紙コップは外ポケット。電池二本はアスカ側。見せるつもりはなかった。ただ、忘れそうだったから書いただけの紙。

 

「これ、あんたが書いたの」

 

「……うん」

 

「謝る前に聞きなさいよ」

 

 そう言いながらも、アスカはその紙を捨てず、自分の袋の内ポケットへ差し込んだ。

 

「見てるのは、まあ分かった」

 

 胸が少しだけ熱くなる。

 でも次の瞬間、アスカは僕の袋を持ち上げて顔をしかめた。

 

「で、何でこっちだけ重いの」

 

 昨日の女の子の咳が気になって、子ども用のシロップと包帯をこちらへ寄せていた。アスカへ重い方を持たせたくなかったのもある。

 

「昨日の子、夜に咳してたし」

 

「だからって勝手に自分の方へ寄せるな」

 

「でも、君だって昨日」

 

「そういうの、先に言えって何回言わせるのよ」

 

 アスカは床へ袋を下ろし、中身を一度全部机へ並べた。紙コップ、包帯、電池、缶詰、咳止め、簡易キット。必要な物ばかりだ。必要な物ばかりだから、余計に勝手な配分がすぐ目立つ。

 

「気ぃ回したつもりで、一人で潰れるのやめなさい」

 

 反射で言い返しかけて、止まる。

 前の僕なら、そのまま黙り込むか、適当な言い訳で流していた。

 

「……じゃあ、どうしてほしい?」

 

 自分で言って、少しだけ怖かった。

 アスカはその問いに一拍遅れて瞬きをした。

 

「最初からそう聞きなさいよ」

 

 声の角が、ほんの少しだけ落ちる。

 

「重いなら重いって言う。気になる薬があるなら相談する。勝手に庇って、自分だけしんどくならない」

 

 アスカは包帯を僕の袋から二巻抜き、自分の方へ移した。代わりに缶詰を一つこっちへ寄せる。ぴったり半分じゃない。帰りの坂と、使う順番まで込みで決める配分だ。

 

「あたしは同じ班なんだから。そのためにいるの」

 

「分かった」

 

「“うん”じゃなくて?」

 

「分かった」

 

 それでようやく、アスカは袋の口を結び直した。

 

 病院までの道は、前に一度通った時より少しだけ見通しが良くなっていた。崩れていた看板が風で倒れ、瓦礫の位置が変わっている。地図に書いた赤線はまだ使えたが、曲がり角の感触は毎日少しずつ違う。

 

 僕は歩きながら受信機のノイズを確認した。日向さんが合わせてくれた周波数は、街の南側ではまだ辛うじて生きている。アスカはその間、路肩へ転がったガラス瓶と、崩れたブロック塀の隙間ばかり見ていた。

 

「そこ、踏まない」

 

 前も見ずに言われる。

 

「見えてるの?」

 

「見えてるわよ。あんたの足元くらい」

 

 感じの悪さまでいつも通りだ。でも、そのいつも通りが今はありがたい。

 

 病院は相変わらず、学校より壊れていた。玄関ホールのガラスは落ち、案内板は半分曲がり、受付カウンターの裏には書類が雪みたいに散らばっている。けれど一階の薬品庫は思ったほど荒らされていなかった。

 

「鍵、開いてる」

 

 僕が言うと、アスカは壁へ耳を当てて気配を探った。

 

「人はいない」

 

 短く言ってから、自分で扉を開ける。薄暗い棚に、薬の箱が並んでいた。子ども用のシロップ、解熱剤、絆創膏、ガーゼ、使い捨てのスプーン、紙コップ。マヤさんのメモと見比べながら、持てる物を選んでいく。

 

「全部は無理」

 

「分かってる」

 

「なら、期限新しいのから」

 

 アスカは箱の底の日付を先に見た。古いものは置き、比較的新しいものだけを抜く。紙コップはかさばるので袋から出して束を輪ゴムでまとめ直す。シロップは割れないようタオルへ包む。その手つきが、まるで最初からこういう作業に慣れているみたいで、僕は何度目かの驚きを覚えた。

 

「包帯もう少し」

 

「その代わり缶詰一つ抜く」

 

「うん」

 

 必要なものを選ぶのは、欲しいものを足していくより難しい。けれど学校へ戻った時に本当に役に立つかどうかを考えると、自然と優先順位は絞られていった。

 

 薬品庫の隣には、小さな待合スペースが残っていた。子ども向けの絵本が数冊、床へ散らばったままになっている。破れた表紙、泥のついた角、ページの折れ目。僕が一冊を拾うと、アスカが肩越しに覗き込んだ。

 

「それ、昨日の子に持ってく?」

 

「嫌かな」

 

「嫌じゃないと思う」

 

 彼女は少し考えてから、もう一冊だけ拾った。絵本と、簡単な漢字の練習帳。物資というには曖昧なものだ。でも、学校へ人が戻るなら、そういう曖昧なものも要る。

 

「薬だけじゃ、病院の往復って感じしないし」

 

「何それ」

 

「言ってみただけ」

 

 帰り道、荷物は来た時より確実に重くなった。

 

 坂の途中で僕の肩紐が片側へずれ、アスカが無言でリュックを引き下ろした。

 

「交換」

 

「まだ持てる」

 

「持てるのは知ってる。腕の色が変わる前に替えるの」

 

 彼女は僕の袋から紙コップの束だけ抜き、自分の方へ移した。代わりに缶詰一つをこっちへ寄せる。半分持つ、という言葉は最近何度も聞いた。でも実際には、半分きっかりではない。その時々で、歩幅と坂道と帰りの距離に合わせて変わる。

 

「こういうの、学校っぽいよな」

 

 ふいに僕が言うと、アスカは怪訝そうに振り返った。

 

「何が」

 

「誰かのために持って帰るものが、薬だけじゃないところ」

 

 絵本の角が袋の中で軽く当たる。

 

 アスカは少し黙ってから、前を向いた。

 

「学校なんだから、そうなるでしょ」

 

 その答えが、ひどくしっくり来た。

 

 戻ると、保健室の前ではマヤさんがすでに棚を空けて待っていた。委員長は在庫表を抱え、昨日来た女の子は毛布にくるまったまま机へ落書きをしている。僕が紙袋から絵本を出すと、女の子は最初だけ母親の顔を見て、それからそっと受け取った。

 

 何も言わない。ただ膝の上で表紙を撫でる。

 

 その仕草だけで、持って帰ってきてよかったと思えた。

 

「薬、こっち。期限新しい順です」

 

 アスカがマヤさんへ箱を渡す。

 

「シロップはタオルで包んでる。紙コップとスプーンは別袋」

 

「助かる」

 

 マヤさんは本当に助かった顔をした。委員長は横で在庫表に丸をつけ、絵本の分まで欄外に小さく書き足している。

 

「それも書くの?」

 

 僕が聞くと、委員長は真面目な顔で頷いた。

 

「何があるか分かってた方が、次に来た人に渡せるでしょ」

 

 当たり前のようでいて、前には思いつかなかった発想だった。

 

 夕方、僕とアスカは職員室の机の上で、明日の袋をまた二つに分けた。今日使った包帯を減らし、代わりに薬を足す。絵本は保健室。受信機は充電できないから電池優先。紙コップはかさばるから箱を捨てる。

 

「次、学校の図書室も見る?」

 

 僕が訊くと、アスカは少し考えた。

 

「あり。子ども増えるなら要る」

 

「薬より先じゃないよな」

 

「でも薬だけでもない」

 

 その言い方が、今日拾った絵本の重さを含んでいる気がした。

 

 窓の外で、海鳴りが低く鳴った。

 それでも僕たちの手は止まらない。止まらないまま、机の上で物の位置と明日の順番だけが少しずつ整っていく。

 

 終わりじゃなく、その先を回すための手つきだった。

 

第六節 教室の音

 

 その日の夕方、保健室の前の廊下が少し騒がしくなった。

 

 昨日来た女の子と、その母親に連れられて別の教室へ入った小さい子が二人。食後の時間になると、眠いのに眠れない顔でうろうろし始める。大人の声も鍋の音も絶えないから、落ち着く場所がないのだ。

 

「三十分でいいから、教室を一つ“教室”に戻す」

 

 ヒカリがそう言った時、最初に首を傾げたのはトウジだった。

 

「今さら授業でもするんか」

 

「授業じゃないわよ」

 

 ヒカリは言い切る。

 

「でも、名前を書く机と、静かに座る時間くらいは要るの。大人がずっと上で相談してたら、子どもは落ち着かないでしょ」

 

 その理屈には、誰も反対できなかった。

 

 空いていた三年B組の机を壁から引き剥がす。僕が二つまとめて持ち上げようとすると、すぐ横からアスカの声が飛ぶ。

 

「一気に持たない」

 

「これくらい平気」

 

「そこで脚ぶつけたら床も机も終わり。片方寄越しなさい」

 

 結局、机は二人で一つずつ運んだ。前へ三つ、後ろへ二つ。僕が真ん中へ一人ぶん空けたまま並べると、アスカが露骨に嫌そうな顔をする。

 

「そこ、空けなくていい」

 

「でも、狭いと落ち着かないかも」

 

「逆。小さいのは見える位置に寄せた方が静か」

 

 アスカは机の脚を足先で押し、間の空白を潰した。

 

「今日は“ちゃんと一人で座る”より、“一人にしない”方を優先」

 

 その言い方が、ひどく実務的で、それでいて優しかった。

 

 レイは保健室から細いノートを何冊か持ってきた。病院で拾ってきた練習帳の残りと、職員室に残っていた白紙のプリントを半分へ切ったものだ。カヲル君は壊れかけた鉛筆削りが使えないと分かると、ナイフで一本ずつ鉛筆を削り始めた。削った木くずを紙コップへ集める手つきが妙に丁寧で、ケンスケが「そういう無駄に上品なのずるいな」と笑う。

 

「無駄じゃないよ」

 

 カヲル君が言う。

 

「机の上が散ると、あとで洞木さんに怒られる」

 

「当然でしょ」

 

 ヒカリは黒板の前でチョークを折りながら、そのやり取りを拾った。

 

 でも、日付を書くところで少しだけ手が止まる。

 

 何月何日なのか、今の僕たちには正確には分からない。校舎に残っていた時計はずれているし、ラジオの時報だって当てにならない。

 

 ヒカリは結局、日付の欄を空けたままにした。

 

 その代わりに、大きくこう書く。

 

 ――なまえ

 ――きょういたひと

 ――あしたもいるもの

 

 授業じゃない。出席簿でもない。でも、ここへ来た人が明日も戻れるようにするための黒板だった。

 

「せんせい?」

 

 昨日来た女の子が、小さな声でヒカリに訊いた。

 

 ヒカリは一拍だけ迷ってから、真顔で答える。

 

「先生じゃないの。今日は委員長」

 

「いいんちょう?」

 

「順番と名前を決める人」

 

 その説明で通るのかと思ったけれど、女の子は案外素直に頷いた。肩の力がほんの少し抜けて、椅子へ座る。

 

 僕はその子の前へノートを置いた。アスカは机の端へ紙コップの水を一つずつ置いていく。レイは削った鉛筆を配り、カヲル君はがたつく椅子の脚へ折った紙を噛ませた。

 

「名前、書ける?」

 

 ヒカリがしゃがんで訊くと、女の子は頷いて、ひらがなを一文字ずつ書き始めた。線は曲がっている。止まるたびに、母親が横から口を出しかけて、でもヒカリが小さく首を振る。

 

「自分で書くの待ってあげて」

 

 その一言で、教室の時間が“待つ時間”に変わった。

 

 トウジは最初、廊下から覗くだけだった。でも小さい子が足をぶらつかせて椅子から落ちかけると、結局黙って近くの机を寄せる。ケンスケは窓際で受信機の音量を最小まで絞り、チャイムのテストは後回しにした。青葉さんでさえ、発電機の様子を見に来たついでに「照明は二本で足りる」とだけ言って教室の後ろの蛍光灯を落とした。

 

 その薄い灯りの中で、鉛筆の先が紙を擦る音だけが続く。

 

 学校が学校として戻るって、たぶんこういうことなのだと思った。

 

 大勢の前で授業をすることじゃない。壊れたあとでも、誰かが自分の名前を書ける机を残すこと。今どこにいて、明日もここへ来ていいのだと、黒板と椅子と紙で言い直すこと。

 

 ノートへ名前を書き終えた女の子が、今度は空いた行へ小さく家族の絵を描き始めた。母親が泣きそうな顔になる。ヒカリは見ないふりで次の子へ鉛筆を渡し、レイは黙って予備の紙を足した。

 

「シンジ」

 

 アスカが小声で呼ぶ。

 

「なに」

 

「そこ」

 

 僕が立ったまま壁際へ寄っていたのを、顎で示す。

 

「見えない所で突っ立ってると怖がる」

 

 そう言って、子どもたちの机の斜め後ろ、ちょうど黒板も廊下も見える椅子を引いた。

 

「座りなさいよ」

 

「僕?」

 

「他に誰がいるの」

 

 言われるまま座る。アスカはその隣じゃなく、一つ挟んだ机の端へ腰を下ろした。前よりは近くて、でも近すぎない距離。子どもたちが顔を上げれば、二人とも視界へ入る配置だった。

 

 それでいいのだと、今はもう分かる。

 

 やがて、ひどく歪んだチャイムが一回だけ鳴った。

 

 ケンスケが遠慮したのか、いつもよりずっと小さな音だった。でも教室の子どもたちはそこで一度だけ鉛筆を止め、委員長が「今日はここまで」と黒板へ短く書き足す。

 

 教室の空気が、ほんの少しだけ学校になった。

 

 その夜、見張り交代の少し前に、ケンスケが屋上から僕を呼んだ。

 

「碇、ちょっと来い。委員長も惣流も」

 

 行ってみると、屋上の金網沿いに細いアンテナ線が一本だけ伸びていた。旧ネルフ本部から持ち出した短波受信機へ、学校の避雷針とプール脇の手すりを使って即席で張ったものらしい。ケンスケは膝をついたまま、端子のネジを締め直している。横ではアスカが懐中電灯で手元を照らし、ヒカリがノートへ時刻と受信状態を書いていた。

 

「これ、夜の方が飛ぶんだよ」

 

 ケンスケが言う。

 

「昼はノイズ多いし、建物の反射もきつい。夜は上の層で少し跳ね返るから、海の向こうの声が拾えることがある」

 

 言いながらも、ケンスケの顔は別に高揚していない。遠い星と交信するみたいなロマンではなく、あくまで今夜の校内連絡と、海浜側からの報告が途切れないための調整としてやっている顔だった。

 

「相田君、それ以上締めると切れる」

 

 委員長がノートから顔を上げずに言う。

 

「三分前より雑音増えてるから、線じゃなくて角度の問題」

 

「はいはい、委員長はすぐ人の手元まで見る」

 

「見るわよ。あと三十秒ごとに数字読んで」

 

「了解」

 

 そのやり取りを聞きながら、僕は少しだけ安心した。ケンスケは機械の側から、委員長は人と運用の側から、この学校を止めないための仕事をしている。どちらも戦いじゃない。でも、止まらずに朝を迎えるには絶対に要る役割だ。

 

 ケンスケが受信機へヘッドホンを差し込んで僕へ渡す。耳へ当てると、最初は砂嵐みたいな雑音しかなかった。けれどダイヤルがわずかに動いた瞬間、その向こうから人の声らしいものが浮かぶ。地名。人数。水。咳。明朝再送。たったそれだけの切れ切れの単語なのに、誰かがまだ海の向こうで夜を越えようとしているのが分かった。

 

「……聞こえる」

 

「だろ?」

 

 ケンスケが嬉しそうに言う。

 

「昔のSFってさ、遠い星からの信号とか、銀河の彼方の知性とか、そういうのでわくわくしてたんだろうけど、今の俺にはこれで十分だな」

 

 彼は受信機のケースを軽く叩いた。

 

「同じ海の向こうで、人がまだ返事してくるって分かる方が、よっぽど未来っぽい」

 

 その感覚は、僕にも少し分かる気がした。昔の未来はたぶん、真空の向こうにあった。今の未来は、崩れた街の向こうから届く、息の混じった短い報告の中にある。どちらも遠い。でも、後者の方がずっと痛くて、ずっと現実だ。

 

 ケンスケは最後にアンテナ線を見上げ、満足したらしく立ち上がった。

 

「じゃ、俺、下で予備電池取ってくる。十分後にもっかい測るから、その間ノート頼む」

 

「了解」

 

 委員長が短く答える。

 ケンスケは階段へ向かいかけて、途中で振り向いた。

 

「委員長、惣流、碇。コード引っかけるなよ。これ切れたらまたやり直しだから」

 

「分かってる」とアスカが言う。

「分かってるわよ」と委員長が被せる。

 その二重返事が少し可笑しくて、ケンスケは笑いながら下りていった。

 

 残ったのは、僕とアスカと委員長だけだった。

 夜の屋上は冷える。昼の教室で聞いた子どもたちの声が、もう別の場所の出来事みたいに遠い。

 

 委員長はノートの端を押さえたまま、受信した断片を丁寧に書き込んでいく。方位、雑音の強さ、聞き取れた人数、明朝の再送予定。字はいつも通り四角くて、揺れがない。

 

「委員長って、こういう時まで委員長なんだな」

 

 つい言うと、委員長は視線を上げた。

 

「こういう時だから、でしょ」

 

「いや、分かるけど」

 

「分かるならいい」

 

 素っ気ない。でも、そのすぐあとで少しだけ肩の力を抜く。

 

「名前を書かないと、後で“聞いた気がする”だけになっちゃうの。人がいたって話は、名簿でもノートでも、どこかに残しておかないとすぐ風景に埋まるでしょ」

 

 その言い方は、昼間の教室と同じだった。名前を書く机。空けておく席。戻ってきた時に座りにくくならないための隙間。委員長はずっと同じ仕事をしているのだ。戦う代わりに、誰がここにいたかを消えにくくする仕事を。

 

 ノートの端を風がめくりかけて、委員長は指先でそれを押さえた。開いたページの上には、さっき聞き取った地名の横にフルネームがきっちり並んでいる。名字も名前も省略しない字だ。

 

「ノートにはフルネームなんだね」

 

 僕が言うと、委員長は頷いた。

 

「書く時はね。あとで別の人が読むかもしれないし、間違えると困るから」

 

「でも呼ぶ時は、そうじゃない」

 

 アスカが言う。

 委員長は一瞬だけ笑った。

 

「呼ぶ時は、顔見てるもの」

 

 その答えは、妙に腑に落ちた。記録は迷わないために整える。呼びかけは、その人の今の顔に合わせて少し歪む。名字の方が要る時もあれば、名前で呼ばないと届かない時もある。

 

「アスカって呼ぶの、最初は変だったわよね」

 

 委員長が自分でそう言うと、アスカは嫌そうに眉を動かした。

 

「今さら蒸し返さないで」

 

「でも、最初に変だと思ったから今があるんでしょ」

 

 委員長はノートを閉じる。

 

「私、“惣流さん”って呼ぶと、ちゃんとした人として扱ってる感じはしたの。でも、それだけだと足りない時があるの。怒ってるとか、意地張ってるとか、でも本当は疲れてるとか、そういう時は“アスカ”の方がちゃんと届く」

 

 アスカは返事をしない。

 返事をしないまま、少しだけ目を細める。

 

「アスカは?」

 

 委員長が訊く。

 

「私のこと、もうだいたいヒカリって呼ぶのに、たまにだけ委員長へ戻るでしょ」

 

 夜風が吹いて、アンテナ線が小さく鳴る。

 アスカはしばらく考えてから、やっと言った。

 

「ちゃんとしててほしい時だけ、たまにそうなるの」

 

「ちゃんとしてるわよ、いつも」

 

「普段はヒカリで足りる」

 

 それだけ言って、アスカは視線を逸らした。

 でも、その短い言い方の中に、甘えとも信頼とも少し違う、選んだ距離の感じがあった。

 

 ヒカリは何もからかわなかった。ただ小さく「ふうん」とだけ言って、ノートの角を揃える。その“ふうん”もまた、名字で返す時とは少し違う音だった。

 

 名前というのは不思議だと思う。

 同じ人を指しているのに、どの呼び方を選ぶかで、こちらが相手へ期待している姿勢まで少し変わる。綾波、アスカ、ミサトさん、父さん。声帯は同じでも、呼ぶたびに世界の切り方が変わる。たぶん恋愛や友達や家族って、その切り方を何度も試し直す作業なのだ。

 

「ヒカリってさ」

 

 アスカが不意に言った。

 

「そういうとこ、ほんと変」

 

「褒めてる?」

 

「半分」

 

 その返しに、ヒカリが小さく笑った。

 

「アスカもでしょ。昼、子どもの席をくっつけた時」

 

「それは実務」

 

「実務の顔して、ちゃんと見てるじゃない」

 

 アスカは返事をしない。返事をしないまま、アンテナ線が風で鳴らす小さな音だけを聞いている。

 

 しばらくして、ヒカリがノートを閉じた。

 

「次の受信までまだ少しある。私、下の黒板だけ見てくる」

 

「今?」

 

「今。朝の時間割、寝る前に一回書き直したいの。子どもの読む時間、十分前倒した方がよさそうだから」

 

「休みなさいよ」

 

 アスカが言うと、ヒカリは肩をすくめた。

 

「休むために直すの」

 

 それだけ言って、彼女はノートを抱えたまま階段へ向かった。足音が遠ざかる。屋上には僕とアスカだけが残る。

 

 受信機のノイズは細い海鳴りみたいだった。

 アスカがヘッドホンを片耳だけ当てる。もう片方を僕の方へ差し出したので、少しだけ肩を寄せて同じ音を聞くことになった。こういう近さに、前ほど大げさな意味づけをしなくなったつもりでいても、やっぱり少しは意識する。

 

「聞こえる?」

 

 僕が小さく訊く。

 

「単語だけ」

 

 アスカは言う。

 

「でも、それで十分でしょ。“まだいる”って分かるし」

 

 ヘッドホンの向こうで、誰かが同じ言葉を三回繰り返していた。おそらく方位か、人数か、そのどちらか。雑音で全部は拾えない。でも、全部は拾えないまま何度も言い直してくる感じに、妙な安心がある。

 

「昔のSFって」

 

 僕が言う。

 

「もっと遠くのものを聞きたがってた気がする」

 

「遠い方が勝手に夢見やすいからでしょ」

 

 アスカは即答した。

 

「火星とか恒星とか、そういうの。届くかどうか分かんないから、好き勝手に夢見られるし」

 

 少し前にカヲル君と話したことを思い出す。遠い方が都合よく思いやすい。近い相手ほど、匂いも機嫌も残る。

 

「でも今は」

 

 アスカが続ける。

 

「海の向こうの誰かが、まだ水あるとか、咳してるとか、明日また言うとか、そういうのの方が大事」

 

 それは夢が小さくなったというより、夢が手で持てる重さへ戻ってきた感じに近かった。遠い銀河へ伸びるアンテナも、今夜の海風の中でたった一言を拾うための線も、たぶん根っこは同じだ。ただ、後者の方が言い逃れできない。

 

「ヒカリには」

 

 アスカが急に言った。

 

「生活の話、しやすいのよね」

 

「生活の話」

 

「買い物とか、机の並べ方とか、誰が先に風呂入るかとか。そういうの」

 

 少し意外で、少し分かる気もした。

 

「じゃあ、僕には?」

 

 訊くつもりはなかったのに、口が先に出た。アスカはすぐには答えなかった。ヘッドホンを外し、受信機の上へそっと戻してから、ようやく言う。

 

「もっと面倒なのが残る」

 

 夜風が頬へ当たる。

 アスカは金網の向こうを見たまま続ける。

 

「生活に落とせないやつ。怒るのか、嫉妬なのか、嫌なのに気になるのか、自分でも分かんないまま残るやつ。そういうのは、ヒカリに話すと違う感じになる」

 

 それはたぶん、信頼していないという意味じゃない。ただ、相手によって話せる領域が違うというだけだ。

 

「僕には、その面倒なのが来るんだ」

 

「来る時もある」

 

 アスカは肩をすくめる。

 

「その代わり、ちゃんと受け取りなさいよ。勝手に分かった顔して、うまくまとめたら腹立つから」

 

「……努力する」

 

「やる、でしょ」

 

 言い直す。

 

「やる」

 

「うん」

 

 その一音だけ、少し柔らかかった。

 

 僕たちはしばらく黙ったまま、海の向こうから戻ってくるノイズを聞いていた。聞こえるのは報告の断片だけだ。水、人数、夜、再送。けれどその単語のあいだには、見えない風景がちゃんとある。暗い部屋、足りない毛布、誰かが起きている気配、声が届くかどうかを待つ時間。

 

 恋愛も人間関係も、結局はこういうものかもしれないと思った。

 全部を一度で理解するんじゃない。断片を聞く。聞き取れなかったら言い直してもらう。こちらも同じだけ言い直す。ノイズごと受け取って、明日の方へ持ち越す。冗長で遅くて、でもそれをやめたら本当に切れる。

 

「ねえ」

 

 アスカが受信機のダイヤルを軽く押さえながら言う。

 

「次に怖くなったら、先に言いなさいよ」

 

「うん」

 

「“うん”じゃなくて」

 

「言う」

 

「そう」

 

 それだけで、十分だった。

 

 遠くで扉の音がした。たぶんケンスケか委員長が戻ってくる。僕は半歩だけ離れようとして、でもアスカは何も言わなかった。言わないまま、アンテナ線の揺れだけを見ている。

 

 未来という言葉は、昔よりずっと地味になった。

 星間航行でも、巨大兵器でも、完全な救済でもない。夜の屋上で、切れそうな線を一本つなぎ、海の向こうの誰かがまだ返事してくると確かめること。そのために、名前を書き、机を寄せ、明日の時間割を直し、誰かの隣へ椅子を一つ残しておくこと。

 

 そういう未来なら、僕にも少しは引き受けられる気がした。

 

第七節 時間割のない時間割

 

 翌朝、ヒカリは昨日の黒板を一度だけ濡れ雑巾で拭いた。

 

 《なまえ》の字だけは薄く残る。全部消そうとすると、かえって汚くなる。ヒカリはそこを無理に真っ白に戻さず、その横へ新しい線を引いた。

 

 朝の水汲み。

 静かにする時間。

 読む時間。

 手伝う時間。

 寝る時間。

 

 時間割と言うには乱暴で、避難所の作業表と言うには柔らかい。そんな表だった。

 

 黒板の線は、前に発令所で見た出撃ローテーションに少し似ていた。誰がどの時間に水を汲み、誰が見張り、誰が保健室へ入るか。エヴァの発進枠ではない。ただ、人が倒れないための出撃枠だった。

 

「委員長、それ何」

 

 ケンスケが訊くと、ヒカリはチョークの粉を払う。

 

「時間割」

 

「学校ごっこ?」

 

「違う」

 

 ヒカリは即答した。

 

「次に何が来るか分からないと、大人だって落ち着かないでしょ。子どもならなおさら」

 

 その言い方に、ミサトさんが教室の入口で小さく笑った。

 

「正論」

 

「でしょ」

 

 笑ってから、ヒカリは少しだけ真面目な顔へ戻る。

 

「授業じゃないの。きちんとした授業なんてまだ出来ない。でも、水汲みのあとに何をするか、眠れなかった子がいつ休むか、誰が絵本を読むか、それくらいは決めておかないと」

 

 それは避難所のための表でもあり、学校のための表でもあった。

 

 アスカは前の机へノートを積み直しながら、黒板を見ている。

 

「読む時間、誰が見るの」

 

「当番」

 

 ヒカリは迷いなく言った。

 

「碇君、アスカ、綾波さん、渚君で回して。小さい子が一人にならないように」

 

「何であたしまで」

 

「そこにいるから」

 

 ヒカリの答えは容赦がない。

 

 でも、アスカは本気では怒らなかった。机の上の鉛筆を数え、削れていないものだけを別の紙コップへ立てる。

 

「なら、椅子足りない」

 

「二脚、廊下から持ってくる」

 

 僕が言うと、アスカがすぐ首を振る。

 

「二脚じゃなくて一脚」

 

「何で」

 

「机くっつけるから」

 

 昨日と同じ答えだった。

 

 空けておくより、見える位置へ寄せる。そういう考え方が、今の学校には要るのだと、前より自然に分かる。

 

 僕が椅子を一脚運ぶ間に、レイは保健室から薄い色鉛筆を持ってきた。病院の待合で拾ったものだ。箱は潰れている。でも、中の色はまだ半分以上残っている。

 

「読む時間のあと、使う」

 

 レイが言うと、昨日の女の子が少しだけ顔を上げた。

 

 カヲル君は、壊れていた壁の時計を外して、代わりに手書きの札を吊るした。

 

 ――朝

 ――昼

 ――夕

 

「少し大雑把すぎないかな?」

 

 僕が言うと、カヲル君は肩をすくめる。

 

「今の僕たちには、このくらいの方が正確だよ」

 

 たしかにそうだった。分単位の暮らしはまだ戻っていない。でも、朝のあとに何が来るか、夕方までに何を回しておくか、そのくらいの大きさならもう皆の体へ入ってきている。

 

 朝の水汲みが終わる頃、昇降口に一人で立っている男の子がいた。

 昨日の三人とは別だ。手首には病院の紙バンドが残っていて、靴は左右で違う。ヒカリがしゃがんで名前を訊くと、男の子は少し考えてから「……ユウタ」とだけ答えた。名字は出てこない。どこから来たかも、「チャイムが聞こえたから」の一言しか言えなかった。

 

 ヒカリは名簿の欄を一行空けたまま、《ユウタ(姓確認待ち)/夜明け前・単独帰還》と書いた。

 全員が同じ朝に、同じ形で戻るわけじゃない。先に体だけ戻る人もいる。名前の半分が遅れてくる人もいる。だから欄を空けておくのだと、その字を見て分かった。

 

 最初の“読む時間”は、思っていたより静かだった。

 

 委員長が名簿を膝に置き、昨日来た子と、新しく戻ってきた男の子の名前を確認する。僕は昨日病院から拾った絵本を開き、アスカは横で色鉛筆を短い順に並べ直す。レイはページをめくる役を引き受け、カヲル君はがたつく机を押さえた。

 

 男の子が僕の読む声より、アスカの鉛筆を並べる手元ばかり見ていた。

 

「何」

 

 アスカが言う。

 

「それ、使いたい?」

 

 男の子が頷くと、アスカは少しだけ迷ってから、赤と青を二本だけ差し出した。

 

「折るなよ」

 

 言い方はきつい。でもその声で、男の子の肩が妙に落ち着いた。

 

 学校は、先生が戻ったから学校になるんじゃない。

 次に何をするかが黒板へ書かれ、机がくっつき、名前を呼ぶ声と鉛筆の音が同じ部屋にある時、ようやく学校の形を取り戻し始める。

 

 そのことを、僕たちはたぶん誰より先に子どもたちから教わっていた。

 

 机を元の位置へ戻したあと、屋上へ上がるとミサトさんが一人で地図を畳んでいた。夜風が吹くたび、紙の端が少しだけ浮く。

 

「手伝います」

 

「ありがと」

 

 短く返してから、ミサトさんは赤鉛筆を指で転がした。前なら、その仕草だけでどこかへ命令が飛んでいきそうだった。今は違う。ただ考えている人の手つきに見える。

 

「明日も行くのよね」

 

「はい」

 

「前みたいに“行け”とは言わないわ」

 

 ミサトさんは地図から目を上げた。

 

「もう、命令であんたの背中を押すのは終わり」

 

 言葉は軽くない。軽くないくせに、どこか少しだけほっとした響きもあった。

 

「行くなら自分で行って、自分で戻ってきなさい」

 

 僕は少しだけ息を呑む。

 それは自由にしていいと言われたのとは違う。自由の分だけ、ちゃんと戻る責任も渡されたのだ。

 

「戻ります」

 

「うん」

 

 ミサトさんはそこで、ようやく少し笑った。

 

「それ、命令じゃなくて約束ね」

 

 僕は頷いた。

 屋上の下では、誰かが机を引く音と、鍋の蓋を重ねる音がした。そういう生活の音の上にしか、約束は置けないのだと今は分かる。

 

 夜の消灯前、職員室の机には翌日の地図と物資袋のほかに、三つの束が並んでいた。

 

 生存者名簿。

 現在の体調表。

 旧ネルフ本部から持ち出したチルドレン適性資料、同期率推移、ダミー関連ログ。

 

「外へ繋ぐなら、向こうが信用できる材料は多い方がいい」

 

 ミサトさんが言った。

 正しい。正しすぎて、誰もすぐには反論できない。

 

 青葉さんは黙って受信機の雑音を絞り、日向さんは送信用の周波数表へ指を置いた。マヤさんは視線だけで資料の厚みを測っている。加持さんは窓の外の闇を見たまま、何も言わない。

 

「それ送ったら」

 

 先に口を開いたのはアスカだった。

 

「またあたしたち、品番に戻るわよ」

 

 静かな声だった。

 怒鳴らない方が、余計に痛い。

 

 僕は適性資料の一番上にある自分の名前を見た。名前の横に並ぶ数値、判定、履歴。たしかにこれは僕だ。けれど、これだけで僕が僕になるわけじゃない。綾波の沈黙も、アスカの怒鳴り方も、ミサトさんの約束の言い方も、ここには一つも入っていない。

 

「残す記録と、捨てる記録を分けよう」

 

 言ったあとで、自分の声が思ったより震えていないことに気づく。

 

「名前は残す。今の熱も、怪我も、必要な薬も残す。でも、所有のための記録はいらない」

 

「所有のための記録、ね」

 

 ミサトさんが苦く笑う。

 

 その時、レイが一歩だけ前へ出た。

 白い指で資料の束を二つに分ける。生存者名簿と体調表を左へ、適性資料とダミーログを右へ。迷いはなかった。

 

「これは、人を探すためのもの」

 

 左の束に触れる。

 

「これは、人を使うためのもの」

 

 右の束に触れる。

 

 沈黙のあと、ヒカリが頷いた。

 

「座席表も同じです。戻る場所を書く紙と、誰を前に出すか決める紙は、似てても別です」

 

 ミサトさんはしばらく動かなかった。

 やがて資料の束を手に取り、表紙を見たまま言う。

 

「……私が焼く」

 

 それは罰でも儀式でもなく、大人の仕事として聞こえた。

 

 青葉さんが理科室から持ってきた金属バットへ、古い紙が重なる。マッチを擦る音が、海の手前で鳴る小さな雷みたいに響く。火は一度だけ青く揺れ、それから数字と判定欄から先に黒くした。

 

 残ったのは、呼びかけるための紙だけだった。

 

 日向さんが送信スイッチへ手を置く。

 

「いつでも」

 

 ミサトさんは頷き、僕たちは残した名簿の一番上を見た。

 そこには機体番号も適性もなく、ただ名前だけが並んでいた。

 

 日向さんが通信室へ戻り、青葉さんは発電機の夜間当番を見に行き、委員長は名簿を抱えて保健室へ向かった。人がはけたあとで、蛍光灯の半分だけが点いた職員室には、紙の擦れる音と遠い海鳴り、そしてまだ少しだけ焦げ臭い灰の匂いが残った。

 

 僕は白地図の端へ今日増えた赤丸を書き足した。海浜側から来た三人。中継小屋。病院の薬品庫。矢印を引き、時刻を書き、受信した単語を思い出せる限り横へ並べる。点が増えるたび、紙の上の世界は少し複雑になる。その複雑さが、今はむしろ救いだった。単純な世界ほど、たいてい誰かが消されているからだ。

 

 アスカが向かいから椅子を引いた。

 

「そこ、違う」

 

 僕の書いた矢印を指で叩く。

 

「病院から学校戻るなら、この坂、もう少し東。ガラス多かったでしょ」

 

「そうだった」

 

「明日行く時、こっち回る」

 

 彼女は赤鉛筆を奪い取るみたいに持って、迷いなく線を引き直した。紙の上の距離が少し変わる。たった数ミリなのに、それで帰り道のしんどさはだいぶ違うのだろう。

 

「ねえ」

 

 僕が呼ぶと、アスカは地図から目を上げないまま返した。

 

「何」

 

「こういうの、前の僕はたぶん見てなかった」

 

「何を」

 

「同じ場所でも、君が見てる坂のきつさとか、袋の重さの配分とか、戻る時にどこが危ないかとか」

 

 アスカは少しだけ手を止めた。

 

「今さら感あるけど」

 

「うん」

 

「でも、見てないよりはマシ」

 

 その採点は相変わらず辛い。

 

「好きだって、こういうのも入るのかな」

 

 口にした瞬間、自分で少し驚いた。

 

 アスカは赤鉛筆の先を紙に当てたまま、固まる。

 

「何それ」

 

「いや、うまく言えないけど」

 

 言い直せば逃げになりそうで、そのまま続ける。

 

「顔とか、声とか、そういうのだけじゃなくて。どの坂を嫌がるとか、重い袋をどう持つとか、朝いちばんに機嫌悪いとか、そういうのまで含めて」

 

 喉が乾く。

 

「君だなって分かることが増えるの、たぶん嫌じゃない」

 

 アスカはしばらく黙ったままだった。

 窓の外で、風にどこかの看板が鳴る。学校の外壁に擦れる枝の音もした。

 

「遅い」

 

 ようやく出た声は、少しだけ掠れていた。

 

「知ってる」

 

「そういうの、もっと前に自分で気づきなさいよ」

 

「気づくの遅かった」

 

「馬鹿」

 

 でも、その“馬鹿”の角は丸い。

 

 アスカは赤鉛筆を机へ置き、代わりに物資袋の結び目を確かめた。僕の方の紐が少し緩いのを見つけて、無言で引き直す。指先が近い。今なら触れてもおかしくない距離なのに、彼女はわざとそこまではしない。

 

「でも」

 

 アスカが小さく言う。

 

「明日の坂のきつさまで入るなら、ちょっとは本物かもね」

 

 その答えに、胸の奥が静かに鳴った。

 

「ちょっと?」

 

「十分すぎると調子乗るでしょ」

 

「乗らないよ」

 

「嘘」

 

 即答だった。

 

 僕は笑いそうになって、でも声に出すほどではなく、ただ息だけ少し抜いた。そういう半端な笑い方を、アスカはたぶんちゃんと見ていた。

 

「明日」

 

 彼女が言う。

 

「海沿いのとこ、風強かったら先に言うから」

 

「うん」

 

「そっちも、きつかったらちゃんと言う」

 

「言う」

 

「あと、勝手に止まらない」

 

「止まりそうになったら?」

 

 アスカは少し考えてから、机の上の白地図を指で弾いた。

 

「今どこにいるか言う」

 

「え?」

 

「“ここ”って、ちゃんと」

 

 彼女は黒板の方を見た。そこには委員長の字で《なまえ》《きょういたひと》《あしたもいるもの》と残っている。

 

「名前とか場所とか、そういうの言えるうちは大丈夫でしょ」

 

 たぶん、その通りだ。

 自分が今どこにいて、誰の隣にいて、何を持っているのか。そういう索引を失わない限り、人はまだ白い海へ戻らずに済む。

 

 最初にこのやり直しで僕を現実へ引き戻したのも、たぶんそれに近い声だったと思う。来い、乗れ、待機しろではなく、「今どこにいるの」と居場所を問う声。あの時うまく答えられなかった現在地を、今は少しずつ言えるようになってきた。

 

「分かった」

 

「ならいい」

 

 アスカは立ち上がった。

 

 椅子が床を擦る音がしたあと、彼女は一歩だけ回り込んできて、机の端に置いた僕の手の甲を指先で軽く押した。重さを量るみたいな、短い触れ方。

 

「明日も半分持つ」

 

 それだけ言って、先に職員室を出ていく。

 

 残された僕は、白地図の上の赤い線を見た。世界の全部じゃない。海の全部でもない。ただ明日、僕たちが歩いて戻ってくるための線だ。

 

 その細さが、今は何より頼もしかった。

 

最終節 海鳴りの手前で

 

 理科室から借りた金属バットの底には、まだ薄い灰が残っていた。黒くなったのは数字と判定欄から先で、最後まで形が残ったのは呼びかけに使う紙の方だった。

 

 海はまだ遠くで鳴っている。

 でも、今の僕たちの一日はその大きな音だけじゃ出来ていない。保健室のベッド、屋上の机、見張り台の受信機、ヒカリの黒板、加持さんの地図、アスカと分ける荷物。そういう小さな場所をその都度つなぐたび、今日が一日ぶんだけ持つ。

 

 その日の最後、僕たちは屋上の机で明日の荷物を二つに分けた。水、乾パン、包帯、受信機、子ども用の咳止め。僕が寄せすぎた重さを、アスカが無言で自分の方へ引き取る。

 

「だから、一人で持つなって言ってるでしょ」

 

「分かった」

 

 今度は言い直さなくて済んだ。

 

 アスカはメモ帳を開いて、明日の順番を自分の字で書き足した。

 

 六時 給水

 七時 海浜側再送待ち

 八時 病院東坂

 帰投時 先に言う相手

 

 最後の一行を書いたあと、アスカはペン先でそこを軽く叩いた。

 

「無事だって、あたしに先に言う。忘れないで」

 

「忘れない」

 

 アスカは満足したのかしないのか分からない顔でメモ帳を返した。遠くで短波が一瞬だけ薄く開き、誰かの声が雑音のあいだから抜ける。全部は聞き取れない。でも、まだ返事がある。

 

 下の教室には、日付を空けたままの黒板が残っている。

《なまえ》《きょういたひと》《あしたもいるもの》――委員長の字はまだ消えていない。

 

 海鳴りはまだ遠い。

 けれど明日の予定がある限り、僕たちはもうその手前で立ち尽くしたままではいない。

 

 終劇

 

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