【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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番外 彼岸過迄
帰去来


第一節 乾電池二本

 

 朝の二回目のチャイムが鳴る前から、職員室は少し揉めていた。

 

「正午の待受に二人残すなら、東坂へ出せるのは一組だけです」

 

 日向さんが受信記録のノートを机へ置く。

 

「海浜側の再送は昨日より入りが弱い。受ける側の人数を減らしたくない」

 

「分かってます」

 

 マヤさんは保健室の在庫表を指で叩いた。

 

「でも、子ども用の咳止めは昨日でほとんど終わり。包帯も薄いのから先に切って使ってるんです。次に熱が出たら、保健室の方が詰まる」

 

「発電機も午前いっぱいで一回休ませたい」

 

 青葉さんが壁の配線図を睨んだまま言う。

 

「昼の再送、保健室、炊き出し、全部同時は無理。どれかは順番変えろ」

 

「子どもの読む時間は前倒ししたばっかりよ」

 

 委員長が黒板の時刻表を見上げる。

 

「そこでまた動線変えたら、眠れてない子が崩れる」

 

 大声じゃない。怒鳴り合いでもない。

 でも皆、自分の持ち場の詰まり方を知っているから、譲る時も雑には譲れない。

 

 ミサトさんは黒板の前で腕を組み、しばらく順番を見ていた。

 

 六時 給水

 七時 体調確認

 八時 病院東坂

 十一時 海浜側再送待ち

 十三時 配給

 

 昨日アスカが書き足した《帰投時 先に言う相手》の一行は、そのまま残っている。

 帰ってくるための順番だけは、もう決まっていた。

 

「……東坂を正午前に往復する」

 

 ミサトさんが言った。

 

「目的は三つ。子ども用の咳止め、薄手の包帯、短波受信機の予備電池。余力があればスポーツドリンク粉末か経口補水液。発電機の部品は今日は後回し」

 

 青葉さんが露骨に嫌そうな顔をしたが、反論は飲み込んだ。

 

「学校側は再送待ちを維持。子どもの読む時間は予定通り。廊下の灯りは一本落とす。伊吹二尉、保健室はそれで回せる?」

 

「昼までなら」

 

「日向二尉は海浜側。相田君と一緒に。青葉二尉は発電機。洞木さんは保健室と黒板。鈴原君は校内見回り」

 

「で、東坂は?」

 

 アスカが訊いた。

 

「加持とシンジ君」

 

 思わず顔を上げる。加持さんは窓際の地図から目だけをこちらへ向けた。

 

「僕?」

 

「昨日の薬庫、あんた棚の順番まで覚えてたでしょ」

 

 先に言ったのはアスカだった。

 

「子ども用のシロップ、上から二段目の右奥って言ったの、あんたじゃない」

 

「……うん」

 

「なら行きなさいよ。そこ、あたしよりあんたの方が早い」

 

 言い方はいつも通りだ。でも、役に立つから行けではなく、僕にしか出来ない部分があるから行け、という言い方だった。

 

「経路の写しも、シンジ君の方が早いもの」

 

 委員長が黒板へ新しい欄を足しながら言う。

 

「昨日の東坂、崩れた順番までちゃんと残してたでしょ。あれ、あとで皆が使うから」

 

 記録の丁寧さなんて、前なら褒められても半端な取り柄にしか思えなかった。今は違う。誰かがあとから同じ道を通るための精度になる。

 

「アスカは学校側」

 

 ミサトさんが続ける。

 

「読む時間の前後で、子ども部屋と通信室のあいだを走れる人間が欲しい。再送で人が戻ったら、そっちも手薄になる」

 

「留守番って言ったら殴るわよ」

 

 アスカは先回りみたいに言った。

 

「分かってる」

 

 ミサトさんが肩をすくめる。

 

「学校側の前線」

 

「ならいい」

 

 そう言ってから、アスカは僕の方を見た。

 

「で、あんたは」

 

 僕は机の上の在庫表へ目を落とす。

 子ども用咳止め、包帯、予備電池。委員長が書き足した注意欄には、《紙コップ 残少》《水 先に》とある。

 

「そこで止まらない」

 

 アスカの声が少しだけ強かった。

 

「行くなら行く」

 

「止まってないよ」

 

「止まってた」

 

 たしかに、一瞬だけ手が止まっていたのかもしれない。海浜側再送の文字を見て、頭の奥に昨夜の海鳴りが薄く戻った。

 

「薬の名前、確認してただけ」

 

 そう言うと、アスカは言い返しかけて、ほんの少しだけ黙った。

 

「……なら最初からそう言いなさいよ」

 

 そのまま踵を返し、黒板の前へ行ってしまう。

 謝るほどのことじゃない。でも、噛み合い損ねた感じだけが少し残った。

 

 委員長が新しい紙を切り、今日の探索記録の欄を作り直す。

 

「シンジ君、戻ったら時刻も経路も書くこと。昨日の東坂、風で瓦礫の位置が変わってるから」

 

「うん」

 

「“うん”でいいけど、戻ってから抜かさないでね」

 

 最近、この人の釘の刺し方は前より少しだけ柔らかい。でも抜けると困る所だけは、きっちり押さえてくる。

 

 加持さんは地図を半分に折り、僕の前へ置いた。

 

「昨日使った赤線の写しだ。新しく崩れた所があれば、余白へ足せ」

 

「はい」

 

「そこで敬語使うなって、昨日も言われてたろ」

 

 加持さんの言い方は軽いのに、地図の折り目は正確だ。

 

「……うん」

 

「よし」

 

 職員室の隅で、ユウタが昨日拾ってきた練習帳へ丸をいくつも書いていた。ページの端には、昨日僕が読んだ絵本の主人公らしい動物まで描き足してある。絵は下手だけど、昨日より筆圧がある。

 

 読む時間は、役に立つのか立たないのか分かりにくい。

 でも昨日の夜、あの子は途中で二回しか起きなかったとマヤさんが言っていた。そういう“分かりにくい効き目”が、今の学校にはたくさんある。

 

「碇くん」

 

 委員長が小さく呼んだ。

 

「子ども部屋の絵本、帰れたら続きお願い。あの子、途中で止まった話を気にしてるから」

 

「うん」

 

「それと」

 

 委員長は一瞬だけ目線を横へ滑らせた。黒板の前でアスカが時刻を書き直している。

 

「帰ってきたら、順番間違えないこと」

 

 そこはわざわざ説明しなかった。

 昨日、僕たちが屋上で決めた手順だからだ。

 

第二節 東坂の袋

 

 東坂へ向かう道は、昨日より風が強かった。

 

 校門を出てすぐ、加持さんは地図を開かずに言った。

 

「次の角、どっちだ」

 

「クリーニング屋の跡を右。八百屋の看板が落ちてるから、その先の細い階段」

 

「歩道橋は」

 

「帰りに荷物あると危ない。使わない」

 

 僕が答えると、加持さんは短く頷いた。地図を開くのは確認が必要な時だけで、足の順番そのものは僕の記憶へ預けている。

 

 加持さんは最初から大回りを選んだ。崩れた塀の脇を抜け、商店街の裏路地へ入り、車道じゃなく歩道橋の残りだけを使う。近道より、帰りに荷物を持っても通れる道を優先しているのが分かった。

 

「昨日の崩れ、二本目の街路樹の先だったよな」

 

「うん。だから帰りは手前の階段の方が安全だと思う」

 

「その言い方なら、覚えてるな」

 

 加持さんは前を見たまま言う。

 

「地図は嘘つかないが、書いた人間が雑だと後で死ぬ」

 

「怖いこと言わないでよ」

 

「怖いんじゃない。面倒なんだ」

 

 加持さんらしい基準だった。

 

 途中、海沿いの風が強く吹き抜ける曲がり角で、一度だけ僕の足が鈍った。正面のビル壁面に、塩で薄く白くなった窓が並んでいる。その向こうに海があると思うだけで、喉の奥が勝手に固くなる。

 

「シンジ」

 

 加持さんの声がした。

 

「今どこだ」

 

 足を止めるな、とは言わなかった。

 代わりに居場所を言わせる。

 

「東坂の手前。旧薬局の裏。歩道橋の北側」

 

「よし。そこならまだ平気だ」

 

 僕は息を吐き、もう一度歩き出した。

 たぶんこれも、昨日アスカが言った“ここって言う”の続きなんだと思う。

 

 病院東棟の薬庫は、昨日のまま半分だけ開いていた。

 

 受付ホールは相変わらず紙だらけで、壁の案内板は曲がっている。でも一階の奥、子ども向け薬品と消耗品をまとめた棚はまだ荒らされていなかった。

 

「上から二段目の右奥」

 

 僕は昨日の順番を思い出しながら、棚へ手を伸ばす。

 

「あった。咳止め、三本」

 

「期限」

 

「来年まで」

 

「使える」

 

 加持さんは僕が出した箱を床へ並べ、その横で予備電池の箱を探った。包帯、ガーゼ、紙テープ、使い捨てスプーン。必要なものだけを選び、嵩の張る箱はその場で捨てる。昨日アスカとやったやり方とほとんど同じだ。

 

「包帯、薄いの優先」

 

「委員長がそう言ってた」

 

「ならそうしろ」

 

 自分で判断しろとも、好きにしろとも言わない。誰が何を必要としているかを前提にして、話が進む。

 

 棚の最下段から、経口補水液の粉末も二箱見つかった。持てるか一瞬迷っていると、加持さんが僕の袋を見た。

 

「入るな」

 

「入るけど、帰りが重い」

 

「なら俺の方へ一箱寄越せ」

 

「でも」

 

「でもじゃない。持ち帰るまでが回収だ」

 

 その一言に、昨日アスカへ言われたことまで一緒に重なる。

 勝手に自分の方へ寄せるな。必要なものを、必要なまま学校へ戻すまでが仕事だ。

 

「……うん」

 

 荷物を分け直す。咳止めは衝撃の少ない方へ。電池は外ポケット。包帯は折れないよう上。紙コップは束の紐だけ残して箱を捨てる。

 

 戻ろうとした時、外で風がひときわ強く鳴った。

 病院の割れた窓のどこかで、金属板が大きく震える。

 

「待て」

 

 加持さんが短く言った瞬間、玄関ホールの方で何かが落ちる音がした。

 

 反射で身をすくめる。

 次の音が来るまでの半秒が、妙に長かった。

 

「上だ」

 

 加持さんが壁際へ手を引く。

 

 落ちてきたのは、案内板の一部と、外壁に残っていた細い金属フレームだった。真正面にいたら危なかったが、今の位置ならかすりもしない。ただ、逃げる時に僕の右前腕が壁へ擦れた。

 

「怪我は」

 

「擦っただけ」

 

「見せろ」

 

 大した傷じゃない。皮が薄くめくれて、赤い線が一本入った程度だ。

 

「帰ればマヤがどうにかする」

 

 加持さんはそれ以上大袈裟にしなかった。

 

「止まるなとは言わん。ただ、止まる場所は選べ」

 

「……うん」

 

「今のは運が良かった方だ」

 

 そう言って、拾った案内板の欠片を靴先で脇へ寄せる。

 大げさな説教の代わりに、帰り道の足元を作っていく人なんだと思った。

 

 帰りは行きより静かだった。

 袋が重くなった分だけ、息の使い方と歩幅に意識が向く。昨日アスカが言っていた「坂のきつさ」は、こういう時に露骨に分かった。

 

 商店街の裏を抜ける頃、受信機が一度だけ薄く開いた。

 

『……第三中……海浜側……待受……』

 

 途切れ途切れの声。

 日向さんか、ケンスケか、あるいはその両方。

 

 僕は受信機へ手をやり、返しかけて、やめた。今は校内待受の時間だ。受ける側の言葉を増やすより、早く戻る方が確実だと分かる。

 

 加持さんが横目で見た。

 

「いい判断だ」

 

「返した方がよかったかなって」

 

「届く返事だけが返事じゃない」

 

 その言い方も、少しだけ昨日のアスカに似ていた。

 

第三節 戻った、今ここ

 

 校門をくぐった時、ちょうど正午の待受が始まっていた。

 

 通信室の窓は半分だけ開き、日向さんが受信機に耳を寄せている。ケンスケは壁の周波数一覧と時計を何度も見比べ、青葉さんは廊下の先で延長コードを足で跨ぎながら発電機側へ怒鳴っていた。

 

 保健室の前ではマヤさんが体温計を拭き、委員長は黒板の人数欄に新しい線を引いている。ユウタたちの机は、今日は職員室の手前側へ寄せられていた。廊下の灯りを一本落とした分、明るい所へ動かしたのだろう。

 

 誰へ先に声をかけても、たぶん間違いではない。

 加持さんと一緒なら、まずミサトさんへ回るのが自然だとも思う。

 

 加持さんは実際、職員室の方へ足を向けた。

 

「俺はミサトに物資と経路を回す」

 

 短くそれだけ言う。

 そこで初めて、自分の足が迷いかけているのに気づいた。

 

 黒板の横。紙コップの束を抱えたアスカが、子どもたちの机の位置を少しだけ直している。こちらへまだ気づいていない。

 

 僕は荷物の紐を握り直して、そっちへ向かった。

 

「アスカ」

 

 名前を呼ぶと、彼女が振り向いた。

 

 その一瞬だけ、周りの音が遠くなる。

 

「戻った」

 

 喉が少し乾いていた。

 でも、昨日決めた順番だけは間違えたくなかった。

 

「無事。今、ここ」

 

 アスカの目が僕の顔から袋へ、袋から右腕へ落ちる。

 

「……なら先に水」

 

 甘くならない。

 いつも通りの、現実的な声だ。

 

「報告はそのあと。靴そのまま上がるな。あと右腕見せなさい」

 

「うん」

 

 委員長が僕の横へ紙コップを一つ差し出した。何も言わない。ただ、手順が通ったことだけは分かっている顔だった。

 

 アスカは僕の袋の一つを当然みたいに引き取り、そのまま職員室の机へ置いた。

 

「相田、予備電池来た!」

 

 その声だけを通信室へ飛ばす。

 誰もこちらをからかわない。茶化す暇がない、というより、もう順番としてそこへ馴染み始めている感じだった。

 

 僕は廊下の端で靴の泥を落とし、水を一気に半分飲んだ。

 喉が痛いくらいだった。

 

「もう半分」

 

 アスカが言う。

 

「一気に飲みきるな」

 

「分かった」

 

「その返事は信用半分」

 

 言いながらも、彼女は保健室から消毒綿を取ってくる。

 戻ってきた時には、もう次の仕事の顔だった。

 

「腕」

 

 僕が右腕を出すと、アスカは露骨に顔をしかめた。

 

「擦っただけって顔じゃないんだけど」

 

「本当に大したことない」

 

「それ、判断するのあんたじゃない」

 

 消毒が染みる。思わず肩が跳ねた。

 

「しみる?」

 

「ちょっと」

 

「ちょっとなら我慢」

 

 そこだけ少し意地悪そうで、でも手つきは乱暴じゃない。ガーゼを当て、包帯を一巻きだけして、最後はきつすぎない位置で止める。

 

「はい終わり」

 

「ありがとう」

 

「別に」

 

 それから、彼女は顎で子どもたちの机を示した。

 

「報告したら、ユウタのとこ行って」

 

「え?」

 

「さっきから落ち着かない。絵本の続き待ってる」

 

「今?」

 

「今。あんたのほうが向いてるから」

 

 “歌”でも“チェロ”でもなく、“子どもへ本を読む”というしょうもなく地味な仕事を、その一言で預けてくる。

 それが少し嬉しかった。

 

「分かった」

 

「まず報告」

 

「うん」

 

 今度は素直に職員室へ行く。

 加持さんはもう地図を広げ、ミサトさんへ崩落地点を説明していた。僕は時刻と物資の一覧を横へ書き足し、どこで風が変わったかまで欄外にメモする。歩道橋を外したこと、曲がり角の金属板が落ちたこと、帰りに使える階段の幅。あとで別の誰かが行くかもしれないから、曖昧な書き方には出来ない。

 

「棚の順番、助かったわ」

 

 マヤさんが一覧を覗き込んで言った。

 

「咳止め、ちゃんと新しいの取れてる」

 

 その横で、日向さんは予備電池の型番だけを先に確認して通信室へ戻っていく。仕事が一つずつ噛み合って、止まりかけていた正午がまた動き出した。

 

 報告が終わると、僕は子どもたちの机の方へ回った。

 

 ユウタは昨日より少しだけ前へ座っている。絵本はもう机の上に開かれていた。途中で止まっている頁に、人差し指だけを挟んでいる。

 

「続き、読む?」

 

 訊くと、ユウタは小さく頷いた。

 

 僕が椅子を引くと、少し離れた所でアスカが紙コップの束を数え直していた。こっちを見ているわけじゃない。でも、子どもたちの机と通信室と保健室が全部見える位置に立っている。

 

 絵本の続きは、正直あまり面白くなかった。

 迷子の動物が道を間違え、最後には最初の家へ戻ってくるだけの話だ。けれどユウタは、昨日より真面目に聞いていた。隣の席へ昨日の女の子まで寄ってくる。

 

 途中で、外れたままのチャイムが一度だけ鳴った。

 

 きい、と低く外して、それから妙に高い音が一つ混ざる。

 

 子どもたちが顔を上げる。僕もつられて窓の方を見る。

 

「変な音」

 

 女の子が言った。

 

「うん」

 

「失敗してる」

 

「たぶん、まだちょっと」

 

 その会話が聞こえたのか、少し離れた場所でアスカが鼻で笑った。

 僕も読んでいた頁の途中で、つい息だけ少し抜く。役に立たない一瞬だった。でも、学校に変な音が戻ってきたことを、たぶんしばらく忘れないと思った。

 

第四節 紙コップの裏

 

 読む時間が終わる頃には、海浜側の再送もいったん途切れていた。

 

 日向さんが受信機から顔を上げ、ケンスケが肩を回し、委員長は黒板の時刻を午後へ書き換える。配給の鍋が家庭科室から運ばれ、廊下には薄い出汁の匂いが流れた。

 

 僕は空いた紙コップを捨てようとして、底の方に何か挟まっているのに気づいた。

 

 折られた小さな紙。

 使い終わった在庫表の端をちぎったらしい。

 

 開く。

 

 太くて、急いでいてもあとで読める字だった。

 

 水もう一杯

 包帯 先に替えろ

 

 それだけ。

 署名もないし、飾りもない。でも誰の字かは一目で分かった。

 

 さっき包帯を巻いたあと、アスカが紙コップを机へ置き直したのを思い出す。その時に挟んだのだろう。

 

 朝、僕が在庫表の前で少し止まった時、彼女は強く言いすぎた。たぶん自分でも、それは分かっている。だからといって素直に謝る人じゃない。

 代わりに、こういう紙が来る。

 

 実務の顔をした、ほとんど命令文みたいな気遣い。

 

 その短さが、今はちょうどよかった。

 

「何ぼーっとしてんの」

 

 声の方を見ると、アスカが廊下の向こうで腕を組んでいた。

 

「水、読めない?」

 

「読めるよ」

 

「なら飲みなさい」

 

「うん」

 

 紙を折り直し、胸ポケットへ入れる。昨日まで自分のメモばかり入っていた場所だ。

 

 給水台のところで水を足していると、アスカが横へ来た。

 

「ユウタ、少し落ち着いた」

 

「うん。最後、変なチャイムの話してた」

 

「あれ、青葉さんが直したからでしょ」

 

「じゃあ青葉さんのせいだ」

 

「だいたいそう」

 

 アスカはそう言ってから、僕の包帯を一瞥した。

 

「あとでマヤさんに替えてもらいなさいよ。適当に巻いたから」

 

「適当って言うわりに、痛くない」

 

「それはあたしが上手いから」

 

「自分で言うんだ」

 

「言うわよ」

 

 そこで、ほんの少しだけ沈黙が落ちる。

 気まずい沈黙じゃない。次の言葉を急がなくてもいい方の沈黙だった。

 

「朝のこと」

 

 アスカが先に言った。

 

 思わずそちらを見る。

 

「あんたが止まった時のやつ」

 

「うん」

 

「……あれは、ちょっと早かった」

 

 “ごめん”ではない。

 でも、それで十分だと思った。

 

「僕も、最初に言わなかったし」

 

「なら次から言いなさい」

 

「うん」

 

「あと、帰ってきたら先」

 

 アスカはそこでわざと区切った。

 

「報告の前に、あたし」

 

 言い切ると、すぐに顔を逸らす。

 

「分かってる」

 

「分かってるならいい」

 

 廊下の向こうで、委員長が午後の配給を始める声がした。トウジが鍋を運び、ケンスケが椅子を引きずり、通信室からは日向さんが次の待受時刻を読み上げている。

 

 全部が同時に動いている。ぎりぎり使える順番で、今日のぶんだけ回っている。

 

 その流れの中で、僕たちの手順も一つ増えた。

 戻ったら、先に言う。

 それだけは、もう間違えない。

 

「シンジ」

 

 アスカが呼んだ。

 

 人のいる廊下の真ん中で、いつもの「バカシンジ」じゃなく、それだけ。

 

「何」

 

「紙、なくすな」

 

「なくさない」

 

「ならいい」

 

 アスカは先に配給の方へ戻っていった。

 僕は胸ポケットの上から一度だけ軽く押さえる。

 

 薄い紙一枚で、今日の順番はもう十分だった。

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