【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第参話 鳴らない、電話

目が覚めたのは、目覚ましが鳴る少し前だった。

 

 冷蔵庫の低い唸り。壁の向こうでペンペンが短く鳴く。ミサトさんの部屋は静かで、静かすぎて寝坊しているのだと分かった。

 

 台所へ行く。流しには昨夜の缶が二本、洗われないまま置かれていた。一本だけ、底に少し泡が残っている。僕はそれを流し、水をひねった。朝の部屋に、水の音だけが先に広がる。

 

 冷蔵庫を開ける。卵、味噌、わかめ、昨日の残りのご飯。奥から少し欠けた弁当箱が出てきた。ミサトさんのものか、前の同居人のものかは分からない。

 

 卵を割る。黄身と白身が混ざる。箸の先が器の底へ当たる音が、朝だとやけに大きい。

 

 味噌汁を火にかけて、卵焼きを巻く。上手いわけでもない。ただ食べられる形にする。弁当箱へ詰めて蓋を閉めたところで、後ろの襖ががらりと開いた。

 

「……何これ」

 

 寝起きのミサトさんが立っていた。髪は跳ねているし、Tシャツの肩はずれている。完全に大人の威厳がない。

 

「朝ごはん」

 

「見れば分かるわよ」

 

 言いながら、湯気の立つ椀を覗き込む。

 

「ちょっと待って。拾ってきた子どもが、一日で味噌汁と弁当まで作るの、なんか居候してる側の気が引けるんだけど」

 

「拾われてませんよ」

 

「そこは譲らないのね」

 

 ミサトさんはそう言って、卵焼きを一切れつまみ食いした。

 

「……甘い」

 

「朝の卵焼きだから」

 

「朝の卵焼きとしては正しいのが腹立つ」

 

 文句を言いながらも椅子へ座る。箸を取る動きに、まだ眠気の遅さが残っていた。

 

「学校、朝早いわよね」

 

「はい」

 

「それなのにあたし、今日に限って資料持ってかなきゃなんないのよ」

 

 言いながら、ミサトさんは食卓の端を探り始めた。資料じゃない。探しているのはたぶん別のものだ。

 

「何ですか」

 

「パスケース。いや、IDかな。違う、定期かも」

 

「どれも見当たりませんけど」

 

「朝のあたしを甘く見ないで」

 

 甘く見ていなかったから、僕は無言で鞄の横を探した。パスケースは、昨夜脱ぎ捨てられたジャケットのポケットから出てきた。ついでに折れたレシートが一枚、ひらりと落ちる。

 

「あ、それ」

 

 ミサトさんが箸を持ったまま言う。

 

「ちょうどいいわ。駅から学校までの道、まだ分かんないでしょ」

 

 ペンを取る。レシートの裏へ、雑だけれど迷いのない線が走った。改札を出て右、歩道橋、コンビニ、坂、校門。

 

「地図ってほどじゃないけど」

 

「十分です」

 

「ほんとにぃ?」

 

 からかうみたいに笑う。

 でも次の瞬間には、保護者の顔へ戻る。

 

「なくさないでよ。迷って遅刻して、初日からしょんぼりして帰ってこられると、あたしの胃が痛いから」

 

 駅の券売機の前で、僕は一瞬止まった。

 

 一か月定期。

 その文字だけが、やけに明るく見える。

 

 ここに一か月いる。

 ここから学校へ通う。

 そうやって先の形を買うのが、少し怖かった。

 

「嫌?」

 

 隣でミサトさんが訊いた。

 

「……少し」

 

「そっか」

 

 笑わないで言う。

 

「じゃあ二週間でもいいけど、その場合、同じ面倒がすぐもう一回来るわよ」

 

「面倒ですか」

 

「うん。先延ばしにした面倒って、だいたい二回分になるの」

 

 それは、何となく本当な気がした。

 

 僕は硬貨を入れて、一か月の欄を押した。薄い定期券が出てくる。ミサトさんはそれを自分の古いパスケースへ差し込んで、さっきのレシート地図ごと渡してきた。

 

「はい、新一年生」

 

「中二です」

 

「細かい」

 

 改札を抜ける。僕は学校鞄と弁当と、ついでにミサトさんの仕事鞄まで持とうとして、すぐ肩へ重みが片寄った。

 

「だめ」

 

 ミサトさんが自分の鞄を引き戻す。

 

「初日から全部そっちへ寄せない」

 

「でも、自分で持てます」

 

「でもじゃない」

 

 仕事鞄を肩へかけ直しながら、ミサトさんが言う。

 

「毎日あるものは、毎日持てる重さで持ちなさい」

 

 ホームへ電車が入ってくる。風が吹く。僕はパスケースの中の薄いレシートを指で確かめた。地図は小さかった。でも、明日も同じ道を通るための紙の重さとしては十分だった。

 

 駅前の黒い公衆電話の前で、何度か指が止まった。

 

 父さんに電話をかければ何かが変わるわけじゃない。変わらないことの方を、僕はもうよく知っている。なのに受話器へ手を伸ばす。伸ばして、数字を押す前にやめる。

 

 鳴らない電話、じゃない。

 鳴らせないだけだ。

 

 僕が最後の一歩を踏まないから、ただそれだけで、向こうの沈黙はまだ確定した現実にならずに済んでいる。

 

 卑怯だと思う。

 でも、その卑怯さにすがらないと朝の学校へ向かえなかった。

 

 * * *

 

 転校初日の教室は、前に知っていたよりやや狭く見えた。

 

 僕を見る目の種類が、前より分かるからだと思う。珍しがる目。遠巻きの目。面倒そうな目。軍事マニアが玩具を見つけたみたいな目。妹を怪我させられた兄の、殴る理由を探している目。

 

 鈴原トウジの拳は、やっぱり速かった。

 

「妹がまだ病院で寝てるっちゅうのに!」

 

 頬へ衝撃が走る。机が鳴る。教室の空気が一斉にこちらを見る。

 

 前の僕なら、もっと情けない顔で縮こまっていたと思う。今は違う。痛いのは痛い。でも、痛いことより先に、自分がどういう顔を返せばいいのか分からなくなった。

 

「……ごめん」

 

 それしか出なかった。

 

「謝って済むか!」

 

「済まないよ」

 

 トウジの方が、一瞬だけ言葉に詰まる。

 殴り返してくると思っていたのか、泣くと思っていたのか、それとももっと綺麗な謝罪を想像していたのか。たぶん全部外れたのだろう。

 

 そこへ相田ケンスケが割って入った。

 

「ちょ、ちょっと待てって! 教室でやるなよ鈴原!」

 

「どけや!」

 

「どくけどやるなら外でやれって!」

 

 今思えば、だいぶ変な取りなし方だった。でもあいつはあいつで、どういう顔をすればいいのか分からなかったのだと思う。

 

 軍事雑誌では、兵器が人を傷つけるところまでしか載っていない。その兵器を動かした“同い年の奴”が目の前にいた時、何を言えばいいかなんて、ケンスケだって知らない。

 

 教師が来て、騒ぎは一応収まった。

 収まっただけで、終わったわけじゃない。

 

 授業中も、トウジの視線は時々こちらへ来た。憎んでいる目だけじゃない。殴っても泣かない、殴っても怒鳴り返さない、そのくせ怯えて逃げるわけでもない相手を、どう扱えばいいのか測りかねている目だった。

 

 僕も似たようなものだ。

 トウジを怖いと思う。怖いけれど、殴られて当然だとも思う。その両方があるから、変な顔になる。

 

 * * *

 

 昼休み、ヒカリは教卓の横から教室を見回していた。

 

 相田君は落ち着きがない。

 鈴原は苛立ちを持て余している。

 転校生は静かすぎる。

 

 碇シンジは、十四歳の男子にしては妙に物腰が柔らかい。教師へ返事をする時も、物を渡す時も、少しだけ丁寧すぎる。悪目立ちしないように“普通の中学生”をやろうとして、そのたびに少しだけ失敗している感じだった。

 

(あの子、変)

 

 学級委員としてのヒカリは、変な子の見分けに自信があった。

 騒ぐ子。反抗する子。怠ける子。碇シンジはそのどれでもない。

 まるで、一度どこか別の場所で“大人の真似”をしてきて、それが抜け切らないまま教室へ戻ってきたみたいだ。

 

 だから鈴原の拳にも、あんな顔をしたのだろう。

 怒るでも、泣くでも、怯えるでもない。謝って、それでも殴られた側の顔をしない。ああいう反応は、殴った方が余計に腹を立てる。

 

 ヒカリは小さく息をついて、机の列のあいだを歩いた。

 転校生の机の上に、配り忘れていたプリントを置く。

 

「これ」

 

「……ありがとうございます」

 

 やっぱり返事が丁寧すぎる。

 碇シンジはプリントを受け取る時に、一瞬だけ驚いた顔をした。親切にされると思っていなかったみたいな顔。

 

(そういうの、感じ悪いわよ)

 

 親切が珍しい子、みたいな顔をされると、渡した側まで変に気まずくなる。

 ヒカリはすぐに背を向けた。

 

 * * *

 

 放課後、ケンスケが校門のところで待っていた。

 

「なあ、碇」

 

「なに」

 

「お前、ほんとにさ」

 

 言いかけて、ケンスケはかすかに笑った。

 

「エヴァ乗ってんの?」

 

 まっすぐだった。

 まっすぐすぎて、逆に答えづらい。

 

「……乗ってる」

 

「すげえな」

 

 最初に出た感想が、それだった。

 すげえ。

 感心。羨望。少しの恐れ。あいつの目の中で、それはまだ全部ごちゃ混ぜのままだ。

 

「すごくなんかないよ」

 

「いや、すごいって。だってあれだろ、敵と戦うんだろ?」

 

「戦ってるだけだよ」

 

「戦ってるだけって、それ十分すごいじゃん」

 

 ケンスケは本気でそう思っているらしい。

 そういうところが、少しだけ羨ましい。

 

「鈴原は、まだ怒ってるけどさ」

 

「うん」

 

「でもお前、今日のあれ、変だったぞ」

 

「……どれ」

 

「殴られたあと。なんか、泣くの我慢してるとかじゃなくて、もっと別のこと考えてる顔」

 

 図星だった。

 僕は殴られた瞬間、痛みより先に“このあとトウジがどんな顔をするか”を考えていた。今は殴り返さない。今はまだ謝るしかない。そういう計算みたいなものが、先に浮かんでしまった。

 

 十四歳の顔じゃない。

 自分でもそう思う。

 

「そういう顔、やめた方がいいぜ」

 

「なんで」

 

「鈴原、余計キレるから」

 

 その忠告は、思っていたよりまともだった。

 

「……覚えとく」

 

「うん。あとさ」

 

「なに」

 

「お前、ゲームとかやる?」

 

 唐突だった。

 でも、唐突だからありがたかった。

 

「たまに」

 

「じゃあ今度付き合えよ。鈴原も連れてくから」

 

「殴られるかもしれない」

 

「そん時は俺が止める」

 

 自信なさそうなくせに、ケンスケは言い切った。

 

 それが可笑しくて、僕はほんのかすかに笑った。

 笑った瞬間、ケンスケも少しだけ安心した顔をした。

 

 * * *

 

 帰り道、トウジは結局、駅へ向かう交差点で僕を呼び止めた。

 

「おい」

 

「なに」

 

「さっきから見とるやろ」

 

「そっちじゃないか」

 

「うるさい」

 

 少しだけ間があいてから、トウジはぶっきらぼうに言った。

 

「妹のこと、知った顔すんな」

 

 胸が詰まった。

 

「知ってる」

 

「は?」

 

「怪我してるのは知ってる。だから謝った」

 

「そんなん、知ってるからって何やねん」

 

「何にもならないよ」

 

 自分でもひどい答えだと思う。

 でも、他に本当のことがなかった。

 

「……だから、殴られても仕方ないって思っただけ」

 

 トウジはしばらく僕を睨んでいた。

 それから小さく舌打ちした。

 

「ほんま変なやつやな」

 

 怒鳴り声ではなかった。

 だから余計に、胸の奥に残った。

 

 * * *

 

 家へ帰ると、ミサトさんはまだ戻っていなかった。

 冷蔵庫に貼られたメモには『ごはん適当に!』『ビールは冷やしてね!』とだけある。後者は自分でやってほしいと思う。

 

 僕は米を研いだ。味噌汁を作った。焼き魚を温めた。こういう手順は裏切らない。水加減を間違えなければ米は炊けるし、火を見ていれば味噌汁は吹きこぼれない。

 

 人間関係よりよほど分かりやすい。

 

 鍋の湯気を見ながら、また公衆電話のことを思い出す。

 父さんへかける番号は知っている。知っているのに、今日も押せなかった。

 

 鳴らない電話は、向こうが出ないから鳴らないんじゃない。

 こっちが最後まで鳴らせないだけだ。

 

 そのことを認めると、変に悔しかった。

 

 ミサトさんが帰ってきたのは、味噌汁がちょうどできた頃だった。

 

「ただいまー……って、なにこのいい匂い」

 

「味噌汁です」

 

「拾ってきた子どもが一日で家事まで覚えた!」

 

「拾われてません」

 

「似たようなもんでしょ」

 

 軽口のあとで、ミサトさんは僕の顔を見て表情を少し変えた。

 

「学校、どうだった?」

 

「普通です」

 

「その“普通です”が怪しいのよね」

 

「……殴られました」

 

「でしょうね」

 

「なんで分かるんですか」

 

「頬」

 

 それだけ言ってから、ミサトさんは味噌汁をすすった。

 

「でも、行ったんでしょ」

 

「行かないわけにも」

 

「そうね」

 

 それ以上は踏み込まなかった。

 でも、完全に放っておく顔でもなかった。

 

「シンジ君」

 

「はい」

 

「年上に敬語なのは偉いけど、いつもきっちりしすぎると疲れるわよ」

 

 ぎくりとした。

 

「……そうですか」

 

「うん。別にタメ口きけって意味じゃないわよ? でも、怖い時まできっちりすると、自分でも自分のこと分かんなくなるから」

 

 その言い方が、胸に引っかかった。

 

 夜、結局もう一度だけ公衆電話の前へ行った。

 街灯の下、受話器へ手を伸ばしかけて、やめる。

 

 今日も鳴らなかった。

 

 いや。

 今日も、鳴らせなかった。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 翌朝、台所のテーブルには弁当箱の蓋が二つ並んでいた。

 

 一つは僕の。もう一つは空で、ミサトさんが輪ゴムと付箋を放り込むための受け皿になっている。卵焼きの端が少し焦げていて、味噌汁の鍋は火から下ろしたばかりだった。ペンペンが足元で不満そうに鳴く。

 

「冷める前に食べなさい。あと、これ書いて」

 

 差し出されたのは小さな白いカードだった。氏名、住所、緊急連絡先、血液型。学校で配られる非常時用の携帯カードらしい。

 

「今ですか」

 

「今。後でやるは、だいたいやらないから」

 

 言い返せない。

 僕は箸を置き、カードへ名前を書いた。漢字は簡単だ。住所も書ける。書けるのに、保護者欄で手が止まった。

 

 父、と書いていいのか少し迷う。迷っているうちに、ミサトさんが味噌汁椀を僕の前へ置いた。

 

「緊急連絡先は今のところ、こっちにしときなさい」

 

「でも」

 

「学校ってね、ちゃんと今いる場所に繋がらないと意味ないの」

 

 そう言いながら、自分の職場番号とマンションの番号を紙片へ書いて寄こす。丸い字だった。雑に見えて読みやすい。たぶんこういう所だけ妙に実務的なのだ。

 

 カードへ番号を書き写す。ペン先が少し掠れた。

 

「財布の中、見せて」

 

「なんで」

 

「駅で詰まるから。初日に詰まるとずっと恥ずかしい」

 

 財布を渡すと、ミサトさんは中身を机へ並べた。定期、千円札、百円玉、十円玉、保険証のコピー。見られるのは少し嫌だったけれど、並べ直されるとたしかに使いやすくなる。十円玉だけを小さなチャック袋へ分けて、定期入れの裏へ差し込まれた。

 

「公衆電話用」

 

「今どき?」

 

「今どきでも壊れた時は最後に強いの、ああいうのだから」

 

 十円玉の入った小袋は薄いのに、やけに重かった。昨夜、鳴らせなかった電話の前で指が止まったことを思い出す。これがあれば鳴らせるわけじゃない。ただ、鳴らせない言い訳が一つ減るだけだ。

 

 弁当箱の脇には、ハンカチと小さなタオルも置かれていた。洗い立ての匂いがする。体育の日用のシャツ、上履き袋、予備の鉛筆。ミサトさんはそこへ一つずつ指を置いて確認した。

 

「上履き、体操服、筆箱、定期、携帯カード、弁当、ハンカチ。あと帰りにノート買ってきて。国語と数学、たぶんすぐいる」

 

「覚えられそうにない」

 

「だから書くの」

 

 冷蔵庫からマグネット付きのメモを剥がし、帰りに買う物を書きつける。ノート、消しゴム、洗剤、牛乳。生活に要るものと学校に要るものが一枚の紙へ並ぶ。その並び方が、いやに現実だった。

 

「今日、遅くなる?」

 

「本部の呼び出しがなければ普通」

 

「普通って何時ですか」

 

「聞き方がもう保護者」

 

 笑いながらも、ミサトさんは時計を見落とさなかった。

 

「六時半までに帰れなかったらメモ入れる。シンジ君は七時回ったら先にごはん食べていい。味噌汁の鍋、沸かしすぎないこと」

 

 昨日も聞いたような話のくせに、こうして具体的に聞き直すと少し安心する。誰かと同じ家にいるというのは、たぶんこういう細かい段取りがあることだ。

 

 玄関で靴を履く時、ミサトさんは僕の鞄を持ち上げて眉をしかめた。

 

「重い」

 

「普通だよ」

 

「普通じゃない。教科書入れすぎ。今日使うのだけ出しなさい」

 

「分からないから」

 

「時間割表、どこ」

 

 鞄の横ポケットからぐしゃぐしゃの紙を引っ張り出される。ミサトさんはそれを玄関の壁へ押しつけて広げ、必要な教科だけ読み上げた。数学、国語、理科、英語。僕が本を抜くたび、鞄の形が少し戻る。

 

「毎日あるものは毎日持てる重さで、って昨日も言ったでしょ」

 

「はい」

 

「返事だけはいいのよね」

 

 マンションを出ると、朝の空気はまだ少し湿っていた。駅までの坂を下りながら、僕はポケットの鍵と定期入れを何度も触った。どちらも落としていないことを確かめるためだ。ミサトさんは僕より半歩だけ前を歩き、歩道橋の手前で振り返る。

 

「ここ、帰りは人が多いからぶつかられても止まらない。定期は改札の三メートル前で出す。出してから鞄の口は閉める」

 

「そこまで?」

 

「そこまで」

 

 駅前の売店で、僕はノートを二冊と透明なパスケースを一つ買った。今使っている定期入れはミサトさんのお下がりで、角が少し擦れている。新しい方は予備に回せと言われ、鞄の内ポケットへしまった。

 

「なくした時用」

 

「なくす前提なんですか」

 

「なくさない前提で生きてると、なくした時に全部止まるでしょ」

 

 その言い方は、妙にネルフの大人らしかった。予備電池や非常袋と同じ発想だ。生活も戦闘も、たぶん最後はそういう所で繋がってしまう。

 

 改札の前で、ミサトさんは一度だけ僕の肩を軽く叩いた。

 

「学校で何かあっても、昼のうちに全部解決しようとしなくていいから」

 

「はい」

 

「帰ってから喋る分、残しときなさい」

 

 そう言って、自分の仕事鞄を持ち直す。別れる瞬間だけ、彼女は本当に保護者の顔をした。

 

 教室では、ヒカリが朝の出席簿を抱えて立っていた。転校生の席、提出物の束、掃除当番の表。全部を同じ角度で机へ揃えている。

 

「碇君、これ」

 

 渡されたのは連絡帳と家庭調査票の束だった。

 

「今日中に保護者欄まで書いて。あと、掃除当番は窓側後ろ。雑巾、忘れないで」

 

「雑巾」

 

「家から持ってきてないの?」

 

「え」

 

 言葉が止まる。

 止まったところで、トウジが後ろから大きくため息をついた。

 

「転校初日やぞ、さすがに勘弁したれや」

 

「初日だから言うの。明日から困るでしょ」

 

 ヒカリは容赦なく言い、机の横へ小さな布袋を置いた。

 

「予備。今日はこれ使って。洗って返して」

 

「ありがとう」

 

「雑巾にお礼言われても困る」

 

 困ると言いながら、ヒカリはもう次の提出物へ視線を移していた。その切り替えの速さに少し救われる。感情より先に順番を出してくれる人がいると、息がしやすい。

 

 放課後、掃除の時間になるとケンスケがバケツを持って現れた。トウジは窓を開け、ヒカリは机を揃え直し、僕は借りた雑巾を絞る。水道の蛇口は固く、思い切り捻ると一気に水が飛び出した。

 

「うわ」

 

「ほらな、言うたやろ。最初は加減分からんねん」

 

 トウジが笑う。

 笑われた方がまだましだった。

 

「碇、絞り方こうや」

 

 ケンスケが雑巾の両端を掴んで捻ってみせる。軍事雑誌を読む時の変な熱量とは別の、生活の中の手つきだった。

 

 教室の床を拭きながら、ヒカリが当番表へチョークで印をつけていく。名前の横に小さく丸が増えるだけで、その人が今日ここにいて、何か一つやったことが残る。大げさじゃない記録。けれど、そういうものの方が生活を前へ進めるのかもしれない。

 

 帰り道、僕はノートの端へ今日使った十円玉の数を書いた。使ってはいない。使えなかったの方が近い。でもポケットの小袋を握ると、昨夜よりは少しだけ「鳴らせない」が言い訳だけじゃなくなる気がした。

 

 それでも、その夜の公衆電話の前で、最後の一桁はやっぱり押せなかった。

 

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