目が覚めたのは、目覚ましが鳴る少し前だった。
冷蔵庫の低い唸り。壁の向こうでペンペンが短く鳴く。ミサトさんの部屋は静かで、静かすぎて寝坊しているのだと分かった。
台所へ行く。流しには昨夜の缶が二本、洗われないまま置かれていた。一本だけ、底に少し泡が残っている。僕はそれを流し、水をひねった。朝の部屋に、水の音だけが先に広がる。
冷蔵庫を開ける。卵、味噌、わかめ、昨日の残りのご飯。奥から少し欠けた弁当箱が出てきた。ミサトさんのものか、前の同居人のものかは分からない。
卵を割る。黄身と白身が混ざる。箸の先が器の底へ当たる音が、朝だとやけに大きい。
味噌汁を火にかけて、卵焼きを巻く。上手いわけでもない。ただ食べられる形にする。弁当箱へ詰めて蓋を閉めたところで、後ろの襖ががらりと開いた。
「……何これ」
寝起きのミサトさんが立っていた。髪は跳ねているし、Tシャツの肩はずれている。完全に大人の威厳がない。
「朝ごはん」
「見れば分かるわよ」
言いながら、湯気の立つ椀を覗き込む。
「ちょっと待って。拾ってきた子どもが、一日で味噌汁と弁当まで作るの、なんか居候してる側の気が引けるんだけど」
「拾われてませんよ」
「そこは譲らないのね」
ミサトさんはそう言って、卵焼きを一切れつまみ食いした。
「……甘い」
「朝の卵焼きだから」
「朝の卵焼きとしては正しいのが腹立つ」
文句を言いながらも椅子へ座る。箸を取る動きに、まだ眠気の遅さが残っていた。
「学校、朝早いわよね」
「はい」
「それなのにあたし、今日に限って資料持ってかなきゃなんないのよ」
言いながら、ミサトさんは食卓の端を探り始めた。資料じゃない。探しているのはたぶん別のものだ。
「何ですか」
「パスケース。いや、IDかな。違う、定期かも」
「どれも見当たりませんけど」
「朝のあたしを甘く見ないで」
甘く見ていなかったから、僕は無言で鞄の横を探した。パスケースは、昨夜脱ぎ捨てられたジャケットのポケットから出てきた。ついでに折れたレシートが一枚、ひらりと落ちる。
「あ、それ」
ミサトさんが箸を持ったまま言う。
「ちょうどいいわ。駅から学校までの道、まだ分かんないでしょ」
ペンを取る。レシートの裏へ、雑だけれど迷いのない線が走った。改札を出て右、歩道橋、コンビニ、坂、校門。
「地図ってほどじゃないけど」
「十分です」
「ほんとにぃ?」
からかうみたいに笑う。
でも次の瞬間には、保護者の顔へ戻る。
「なくさないでよ。迷って遅刻して、初日からしょんぼりして帰ってこられると、あたしの胃が痛いから」
駅の券売機の前で、僕は一瞬止まった。
一か月定期。
その文字だけが、やけに明るく見える。
ここに一か月いる。
ここから学校へ通う。
そうやって先の形を買うのが、少し怖かった。
「嫌?」
隣でミサトさんが訊いた。
「……少し」
「そっか」
笑わないで言う。
「じゃあ二週間でもいいけど、その場合、同じ面倒がすぐもう一回来るわよ」
「面倒ですか」
「うん。先延ばしにした面倒って、だいたい二回分になるの」
それは、何となく本当な気がした。
僕は硬貨を入れて、一か月の欄を押した。薄い定期券が出てくる。ミサトさんはそれを自分の古いパスケースへ差し込んで、さっきのレシート地図ごと渡してきた。
「はい、新一年生」
「中二です」
「細かい」
改札を抜ける。僕は学校鞄と弁当と、ついでにミサトさんの仕事鞄まで持とうとして、すぐ肩へ重みが片寄った。
「だめ」
ミサトさんが自分の鞄を引き戻す。
「初日から全部そっちへ寄せない」
「でも、自分で持てます」
「でもじゃない」
仕事鞄を肩へかけ直しながら、ミサトさんが言う。
「毎日あるものは、毎日持てる重さで持ちなさい」
ホームへ電車が入ってくる。風が吹く。僕はパスケースの中の薄いレシートを指で確かめた。地図は小さかった。でも、明日も同じ道を通るための紙の重さとしては十分だった。
駅前の黒い公衆電話の前で、何度か指が止まった。
父さんに電話をかければ何かが変わるわけじゃない。変わらないことの方を、僕はもうよく知っている。なのに受話器へ手を伸ばす。伸ばして、数字を押す前にやめる。
鳴らない電話、じゃない。
鳴らせないだけだ。
僕が最後の一歩を踏まないから、ただそれだけで、向こうの沈黙はまだ確定した現実にならずに済んでいる。
卑怯だと思う。
でも、その卑怯さにすがらないと朝の学校へ向かえなかった。
* * *
転校初日の教室は、前に知っていたよりやや狭く見えた。
僕を見る目の種類が、前より分かるからだと思う。珍しがる目。遠巻きの目。面倒そうな目。軍事マニアが玩具を見つけたみたいな目。妹を怪我させられた兄の、殴る理由を探している目。
鈴原トウジの拳は、やっぱり速かった。
「妹がまだ病院で寝てるっちゅうのに!」
頬へ衝撃が走る。机が鳴る。教室の空気が一斉にこちらを見る。
前の僕なら、もっと情けない顔で縮こまっていたと思う。今は違う。痛いのは痛い。でも、痛いことより先に、自分がどういう顔を返せばいいのか分からなくなった。
「……ごめん」
それしか出なかった。
「謝って済むか!」
「済まないよ」
トウジの方が、一瞬だけ言葉に詰まる。
殴り返してくると思っていたのか、泣くと思っていたのか、それとももっと綺麗な謝罪を想像していたのか。たぶん全部外れたのだろう。
そこへ相田ケンスケが割って入った。
「ちょ、ちょっと待てって! 教室でやるなよ鈴原!」
「どけや!」
「どくけどやるなら外でやれって!」
今思えば、だいぶ変な取りなし方だった。でもあいつはあいつで、どういう顔をすればいいのか分からなかったのだと思う。
軍事雑誌では、兵器が人を傷つけるところまでしか載っていない。その兵器を動かした“同い年の奴”が目の前にいた時、何を言えばいいかなんて、ケンスケだって知らない。
教師が来て、騒ぎは一応収まった。
収まっただけで、終わったわけじゃない。
授業中も、トウジの視線は時々こちらへ来た。憎んでいる目だけじゃない。殴っても泣かない、殴っても怒鳴り返さない、そのくせ怯えて逃げるわけでもない相手を、どう扱えばいいのか測りかねている目だった。
僕も似たようなものだ。
トウジを怖いと思う。怖いけれど、殴られて当然だとも思う。その両方があるから、変な顔になる。
* * *
昼休み、ヒカリは教卓の横から教室を見回していた。
相田君は落ち着きがない。
鈴原は苛立ちを持て余している。
転校生は静かすぎる。
碇シンジは、十四歳の男子にしては妙に物腰が柔らかい。教師へ返事をする時も、物を渡す時も、少しだけ丁寧すぎる。悪目立ちしないように“普通の中学生”をやろうとして、そのたびに少しだけ失敗している感じだった。
(あの子、変)
学級委員としてのヒカリは、変な子の見分けに自信があった。
騒ぐ子。反抗する子。怠ける子。碇シンジはそのどれでもない。
まるで、一度どこか別の場所で“大人の真似”をしてきて、それが抜け切らないまま教室へ戻ってきたみたいだ。
だから鈴原の拳にも、あんな顔をしたのだろう。
怒るでも、泣くでも、怯えるでもない。謝って、それでも殴られた側の顔をしない。ああいう反応は、殴った方が余計に腹を立てる。
ヒカリは小さく息をついて、机の列のあいだを歩いた。
転校生の机の上に、配り忘れていたプリントを置く。
「これ」
「……ありがとうございます」
やっぱり返事が丁寧すぎる。
碇シンジはプリントを受け取る時に、一瞬だけ驚いた顔をした。親切にされると思っていなかったみたいな顔。
(そういうの、感じ悪いわよ)
親切が珍しい子、みたいな顔をされると、渡した側まで変に気まずくなる。
ヒカリはすぐに背を向けた。
* * *
放課後、ケンスケが校門のところで待っていた。
「なあ、碇」
「なに」
「お前、ほんとにさ」
言いかけて、ケンスケはかすかに笑った。
「エヴァ乗ってんの?」
まっすぐだった。
まっすぐすぎて、逆に答えづらい。
「……乗ってる」
「すげえな」
最初に出た感想が、それだった。
すげえ。
感心。羨望。少しの恐れ。あいつの目の中で、それはまだ全部ごちゃ混ぜのままだ。
「すごくなんかないよ」
「いや、すごいって。だってあれだろ、敵と戦うんだろ?」
「戦ってるだけだよ」
「戦ってるだけって、それ十分すごいじゃん」
ケンスケは本気でそう思っているらしい。
そういうところが、少しだけ羨ましい。
「鈴原は、まだ怒ってるけどさ」
「うん」
「でもお前、今日のあれ、変だったぞ」
「……どれ」
「殴られたあと。なんか、泣くの我慢してるとかじゃなくて、もっと別のこと考えてる顔」
図星だった。
僕は殴られた瞬間、痛みより先に“このあとトウジがどんな顔をするか”を考えていた。今は殴り返さない。今はまだ謝るしかない。そういう計算みたいなものが、先に浮かんでしまった。
十四歳の顔じゃない。
自分でもそう思う。
「そういう顔、やめた方がいいぜ」
「なんで」
「鈴原、余計キレるから」
その忠告は、思っていたよりまともだった。
「……覚えとく」
「うん。あとさ」
「なに」
「お前、ゲームとかやる?」
唐突だった。
でも、唐突だからありがたかった。
「たまに」
「じゃあ今度付き合えよ。鈴原も連れてくから」
「殴られるかもしれない」
「そん時は俺が止める」
自信なさそうなくせに、ケンスケは言い切った。
それが可笑しくて、僕はほんのかすかに笑った。
笑った瞬間、ケンスケも少しだけ安心した顔をした。
* * *
帰り道、トウジは結局、駅へ向かう交差点で僕を呼び止めた。
「おい」
「なに」
「さっきから見とるやろ」
「そっちじゃないか」
「うるさい」
少しだけ間があいてから、トウジはぶっきらぼうに言った。
「妹のこと、知った顔すんな」
胸が詰まった。
「知ってる」
「は?」
「怪我してるのは知ってる。だから謝った」
「そんなん、知ってるからって何やねん」
「何にもならないよ」
自分でもひどい答えだと思う。
でも、他に本当のことがなかった。
「……だから、殴られても仕方ないって思っただけ」
トウジはしばらく僕を睨んでいた。
それから小さく舌打ちした。
「ほんま変なやつやな」
怒鳴り声ではなかった。
だから余計に、胸の奥に残った。
* * *
家へ帰ると、ミサトさんはまだ戻っていなかった。
冷蔵庫に貼られたメモには『ごはん適当に!』『ビールは冷やしてね!』とだけある。後者は自分でやってほしいと思う。
僕は米を研いだ。味噌汁を作った。焼き魚を温めた。こういう手順は裏切らない。水加減を間違えなければ米は炊けるし、火を見ていれば味噌汁は吹きこぼれない。
人間関係よりよほど分かりやすい。
鍋の湯気を見ながら、また公衆電話のことを思い出す。
父さんへかける番号は知っている。知っているのに、今日も押せなかった。
鳴らない電話は、向こうが出ないから鳴らないんじゃない。
こっちが最後まで鳴らせないだけだ。
そのことを認めると、変に悔しかった。
ミサトさんが帰ってきたのは、味噌汁がちょうどできた頃だった。
「ただいまー……って、なにこのいい匂い」
「味噌汁です」
「拾ってきた子どもが一日で家事まで覚えた!」
「拾われてません」
「似たようなもんでしょ」
軽口のあとで、ミサトさんは僕の顔を見て表情を少し変えた。
「学校、どうだった?」
「普通です」
「その“普通です”が怪しいのよね」
「……殴られました」
「でしょうね」
「なんで分かるんですか」
「頬」
それだけ言ってから、ミサトさんは味噌汁をすすった。
「でも、行ったんでしょ」
「行かないわけにも」
「そうね」
それ以上は踏み込まなかった。
でも、完全に放っておく顔でもなかった。
「シンジ君」
「はい」
「年上に敬語なのは偉いけど、いつもきっちりしすぎると疲れるわよ」
ぎくりとした。
「……そうですか」
「うん。別にタメ口きけって意味じゃないわよ? でも、怖い時まできっちりすると、自分でも自分のこと分かんなくなるから」
その言い方が、胸に引っかかった。
夜、結局もう一度だけ公衆電話の前へ行った。
街灯の下、受話器へ手を伸ばしかけて、やめる。
今日も鳴らなかった。
いや。
今日も、鳴らせなかった。
* * *
翌朝、台所のテーブルには弁当箱の蓋が二つ並んでいた。
一つは僕の。もう一つは空で、ミサトさんが輪ゴムと付箋を放り込むための受け皿になっている。卵焼きの端が少し焦げていて、味噌汁の鍋は火から下ろしたばかりだった。ペンペンが足元で不満そうに鳴く。
「冷める前に食べなさい。あと、これ書いて」
差し出されたのは小さな白いカードだった。氏名、住所、緊急連絡先、血液型。学校で配られる非常時用の携帯カードらしい。
「今ですか」
「今。後でやるは、だいたいやらないから」
言い返せない。
僕は箸を置き、カードへ名前を書いた。漢字は簡単だ。住所も書ける。書けるのに、保護者欄で手が止まった。
父、と書いていいのか少し迷う。迷っているうちに、ミサトさんが味噌汁椀を僕の前へ置いた。
「緊急連絡先は今のところ、こっちにしときなさい」
「でも」
「学校ってね、ちゃんと今いる場所に繋がらないと意味ないの」
そう言いながら、自分の職場番号とマンションの番号を紙片へ書いて寄こす。丸い字だった。雑に見えて読みやすい。たぶんこういう所だけ妙に実務的なのだ。
カードへ番号を書き写す。ペン先が少し掠れた。
「財布の中、見せて」
「なんで」
「駅で詰まるから。初日に詰まるとずっと恥ずかしい」
財布を渡すと、ミサトさんは中身を机へ並べた。定期、千円札、百円玉、十円玉、保険証のコピー。見られるのは少し嫌だったけれど、並べ直されるとたしかに使いやすくなる。十円玉だけを小さなチャック袋へ分けて、定期入れの裏へ差し込まれた。
「公衆電話用」
「今どき?」
「今どきでも壊れた時は最後に強いの、ああいうのだから」
十円玉の入った小袋は薄いのに、やけに重かった。昨夜、鳴らせなかった電話の前で指が止まったことを思い出す。これがあれば鳴らせるわけじゃない。ただ、鳴らせない言い訳が一つ減るだけだ。
弁当箱の脇には、ハンカチと小さなタオルも置かれていた。洗い立ての匂いがする。体育の日用のシャツ、上履き袋、予備の鉛筆。ミサトさんはそこへ一つずつ指を置いて確認した。
「上履き、体操服、筆箱、定期、携帯カード、弁当、ハンカチ。あと帰りにノート買ってきて。国語と数学、たぶんすぐいる」
「覚えられそうにない」
「だから書くの」
冷蔵庫からマグネット付きのメモを剥がし、帰りに買う物を書きつける。ノート、消しゴム、洗剤、牛乳。生活に要るものと学校に要るものが一枚の紙へ並ぶ。その並び方が、いやに現実だった。
「今日、遅くなる?」
「本部の呼び出しがなければ普通」
「普通って何時ですか」
「聞き方がもう保護者」
笑いながらも、ミサトさんは時計を見落とさなかった。
「六時半までに帰れなかったらメモ入れる。シンジ君は七時回ったら先にごはん食べていい。味噌汁の鍋、沸かしすぎないこと」
昨日も聞いたような話のくせに、こうして具体的に聞き直すと少し安心する。誰かと同じ家にいるというのは、たぶんこういう細かい段取りがあることだ。
玄関で靴を履く時、ミサトさんは僕の鞄を持ち上げて眉をしかめた。
「重い」
「普通だよ」
「普通じゃない。教科書入れすぎ。今日使うのだけ出しなさい」
「分からないから」
「時間割表、どこ」
鞄の横ポケットからぐしゃぐしゃの紙を引っ張り出される。ミサトさんはそれを玄関の壁へ押しつけて広げ、必要な教科だけ読み上げた。数学、国語、理科、英語。僕が本を抜くたび、鞄の形が少し戻る。
「毎日あるものは毎日持てる重さで、って昨日も言ったでしょ」
「はい」
「返事だけはいいのよね」
マンションを出ると、朝の空気はまだ少し湿っていた。駅までの坂を下りながら、僕はポケットの鍵と定期入れを何度も触った。どちらも落としていないことを確かめるためだ。ミサトさんは僕より半歩だけ前を歩き、歩道橋の手前で振り返る。
「ここ、帰りは人が多いからぶつかられても止まらない。定期は改札の三メートル前で出す。出してから鞄の口は閉める」
「そこまで?」
「そこまで」
駅前の売店で、僕はノートを二冊と透明なパスケースを一つ買った。今使っている定期入れはミサトさんのお下がりで、角が少し擦れている。新しい方は予備に回せと言われ、鞄の内ポケットへしまった。
「なくした時用」
「なくす前提なんですか」
「なくさない前提で生きてると、なくした時に全部止まるでしょ」
その言い方は、妙にネルフの大人らしかった。予備電池や非常袋と同じ発想だ。生活も戦闘も、たぶん最後はそういう所で繋がってしまう。
改札の前で、ミサトさんは一度だけ僕の肩を軽く叩いた。
「学校で何かあっても、昼のうちに全部解決しようとしなくていいから」
「はい」
「帰ってから喋る分、残しときなさい」
そう言って、自分の仕事鞄を持ち直す。別れる瞬間だけ、彼女は本当に保護者の顔をした。
教室では、ヒカリが朝の出席簿を抱えて立っていた。転校生の席、提出物の束、掃除当番の表。全部を同じ角度で机へ揃えている。
「碇君、これ」
渡されたのは連絡帳と家庭調査票の束だった。
「今日中に保護者欄まで書いて。あと、掃除当番は窓側後ろ。雑巾、忘れないで」
「雑巾」
「家から持ってきてないの?」
「え」
言葉が止まる。
止まったところで、トウジが後ろから大きくため息をついた。
「転校初日やぞ、さすがに勘弁したれや」
「初日だから言うの。明日から困るでしょ」
ヒカリは容赦なく言い、机の横へ小さな布袋を置いた。
「予備。今日はこれ使って。洗って返して」
「ありがとう」
「雑巾にお礼言われても困る」
困ると言いながら、ヒカリはもう次の提出物へ視線を移していた。その切り替えの速さに少し救われる。感情より先に順番を出してくれる人がいると、息がしやすい。
放課後、掃除の時間になるとケンスケがバケツを持って現れた。トウジは窓を開け、ヒカリは机を揃え直し、僕は借りた雑巾を絞る。水道の蛇口は固く、思い切り捻ると一気に水が飛び出した。
「うわ」
「ほらな、言うたやろ。最初は加減分からんねん」
トウジが笑う。
笑われた方がまだましだった。
「碇、絞り方こうや」
ケンスケが雑巾の両端を掴んで捻ってみせる。軍事雑誌を読む時の変な熱量とは別の、生活の中の手つきだった。
教室の床を拭きながら、ヒカリが当番表へチョークで印をつけていく。名前の横に小さく丸が増えるだけで、その人が今日ここにいて、何か一つやったことが残る。大げさじゃない記録。けれど、そういうものの方が生活を前へ進めるのかもしれない。
帰り道、僕はノートの端へ今日使った十円玉の数を書いた。使ってはいない。使えなかったの方が近い。でもポケットの小袋を握ると、昨夜よりは少しだけ「鳴らせない」が言い訳だけじゃなくなる気がした。
それでも、その夜の公衆電話の前で、最後の一桁はやっぱり押せなかった。