【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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道草

第一節 先に置いてある字

 

 昼の配給が終わる前から、風が立っていた。

 南からの湿った風が、校舎の角へまとわりついている。

 

 見張り台のシートが二度鳴り、通信室の仮アンテナが三度だけ変な揺れ方をする。日向さんが窓の外を見て「夕方までに一回来ますね」と言い、青葉さんは発電機の音を聞いただけで「湿気の来る前に上だけ締めたい」と顔をしかめた。

 

 問題は、使えるシートが一枚しか残っていないことだった。

 

「子ども部屋の北側、今日は風がもろに入ります」

 

 マヤさんが在庫表を指で押さえる。

 

「熱のある子をあそこへ置いたままだと、夜にもつれ込みます」

 

「仮アンテナが飛んだら、海浜側との待受が切れます」

 

 日向さんが受信記録を閉じる。

 

「今夜の再送、そこで落としたくない」

 

 どっちも正しい。

 正しいから、すぐには決まらない。

 

 ミサトさんは黒板の前で腕を組み、少しだけ考えてから言った。

 

「新しいシートは子ども部屋。屋上は旧プール用のカバーとロープで代用する」

 

 青葉さんが露骨に嫌そうな顔をした。

 

「重いし、水吸いますよ」

 

「でも切れるよりはましでしょ」

 

「ましですけどね」

 

「日向二尉、アンテナの角度だけ後で見たい。青葉二尉は下から電圧管理。屋上は固定優先」

 

 委員長がすぐに黒板へ書き足す。子ども部屋、北窓。屋上、南側アンテナ。使用可ロープ三本。手袋四組。

 

 僕はそのやり取りを、音楽室の机の端に座って聞いていた。

 

 昼の読み聞かせが終わったあと、湿気で少しだけ狂ったチェロの糸巻きを触っていたのだ。今日の風は、弦の張り方まで変える。低い弦ほど露骨で、何もしていないのに音だけが少し遠くなる。

 

 ケースを閉じようとして、蓋の取っ手に紙が挟まっているのに気づいた。

 

 ちぎった在庫表の端。

 太い字。

 

 屋上。南側。

 仮アンテナ。

 軍手と水。

 遅いと先にやる。

 

 署名はない。

 なくても分かる。

 

 紙の端へ親指を当てたまま、僕は少しだけ息を止めた。

 

 昨日の《帰投時 先に言う相手》は、戻ってきた時の順番だった。

 今、手の中にあるこれは、その前の順番だ。どこにいるか。何をしているか。先に知らせる方の紙。

 

 アスカが先に言った。

 

 紙を折って胸ポケットへ入れ、軍手と水筒を持って廊下へ出る。階段の手前で、ちょうどミサトさんと鉢合わせた。

 

「行くの?」

 

「うん」

 

「右腕、包帯替えたばっかりよ」

 

「結ぶのは左でも出来る」

 

「そういうことじゃなくて」

 

 言い終わる前に、屋上への階段の上からアスカの声が落ちてきた。

 

「ミサト」

 

 見上げると、踊り場の手すりから茶色い髪が半分だけ見えた。

 

「あたしが呼んだ」

 

「知ってるけど」

 

「排水口の位置、昨日見てたのこいつでしょ」

 

 こいつ、で僕のことだ。

 

「南側の配線、どこ避ければいいかも。青葉さんよりミサトより、バカシンジの方が覚えてる」

 

「褒めてるのかけなしてるのか分かんないわね」

 

「今は使えるかどうかだけでしょ」

 

 たしかにそうだった。

 ミサトさんは一度だけ僕の包帯を見て、それから肩をすくめる。

 

「無理はしない。変だと思ったらすぐ下りる。屋上で一人にならない」

 

「うん」

 

「返事軽い」

 

「やる」

 

「よし」

 

 それだけ言って、ミサトさんは黒板の方へ戻った。

 

 僕は胸ポケットの紙をもう一度だけ確かめてから、階段を上がる。

 

第二節 風の通るところ

 

 屋上は、下で聞いていたよりずっと風が強かった。

 

 南側の仮アンテナは、理科室のポールと旧放送機材の支柱を無理やり継いだだけのものだ。根元は重しで押さえてあるが、固定が甘い。夕方の雨までに締め直さないと、本当に飛ぶ。

 

 アスカはもうロープを一本肩へかけ、旧プール用の厚いカバーを足元へ置いていた。風で膨らみそうになる端を、運動靴の底で押さえている。

 

「遅い」

 

「まだ先にやってないじゃないか」

 

「やる前に来ただけマシ」

 

 僕が持ってきた水筒と軍手を見ると、アスカは顎で工具袋を示した。

 

「そこも持って」

 

「もう持ってるよ」

 

「持ちすぎ」

 

 僕が返すより早く、彼女は旧プール用カバーの巻きを半分こっちから奪った。

 

「そっち半分寄越しなさい」

 

「僕が持てる」

 

「持てるかどうかじゃない」

 

 アスカは巻いたカバーを肩へ引っかけ、残ったロープまで一本自分の腕へ通す。

 

「落としたら全部終わり。風のある屋上で、片方が余るのが一番無駄」

 

 言いながら、足元の工具箱まで開けて、中の金具だけを二つ自分のポケットへ移した。

 

「ほら。あんたはその袋と水」

 

 自然だった。

 気を遣った顔じゃない。ただ、重さを見て順番を変えただけの手つきだ。

 

 でも、その自然さの方が前よりずっと深く入ってくる。

 

「……分かった」

 

「返事じゃなくて手」

 

 渡されたロープの端を受け取る。

 アスカは一度だけ風向きを見て、それから南端へしゃがみ込んだ。

 

「昨日の排水口、どこだっけ」

 

「その白線の切れてる所の左。二枚下にひび入ってる」

 

「分かった」

 

 彼女は躊躇なく移動した。

 僕はカバーの端を押さえながら、支柱の基部へ結ぶ順番を頭の中で並べていく。配線、重し、排水口、風の抜け道。どこか一つでも読み違えると、雨の時に全部が逆から返ってくる。

 

 作業そのものは単純だ。

 

 アンテナの支柱を一度寝かせ、接合部を締め直し、カバーを張って、風の逃げる方向だけ開けて固定する。単純なのに、風があるとそれだけで難しい。

 

「そっち上げて!」

 

「今!」

 

 支柱の根元を持ち上げる。アスカが金具を差し込み、僕がロープを引く。風でカバーが膨らみ、体ごと持っていかれそうになる。

 

「もう一段!」

 

「分かった!」

 

 手を伸ばした瞬間、視界の端に北側の窓が入った。

 

 子ども部屋の位置だ。

 ちょうど風が校舎を回り込んで、あの窓へ当たる角度になっている。

 

 ほんの一瞬だけ手が止まった。

 

「何」

 

 アスカがすぐに気づく。

 

「今さら右腕痛いとか言わないでよ」

 

「違う」

 

「じゃあ何」

 

「北側」

 

 僕は窓を指した。

 

「子ども部屋の窓、今日の風だとあそこへ返る。こっちの張り方が高すぎると、南から回った風がそのまま上に抜けて、北の隙間が鳴る」

 

 アスカは一度だけ僕の指の先を見て、すぐに南側のカバーへ視線を戻した。

 

「……なら最初からそう言いなさいよ」

 

「今言った」

 

「止まる前に言うの」

 

 きつい。

 でも、怒鳴って切る感じじゃない。

 

「右の支点、一個ずらす」

 

 アスカはすぐに結び目を外した。

 

「バカシンジ、そっち押さえて」

 

「うん」

 

 言われた位置へ膝をつく。カバーの端が靴へ当たり、雨の前の湿った匂いが上がった。

 

 今の一言で、張り方が変わる。

 屋上の作業と子ども部屋の窓が、同じ線の上へ並ぶ。

 そういう繋がり方が、今の学校には増えてきた。

 

 次の突風は、作業が半分終わった頃に来た。

 

 支柱を立て直している最中だった。南から巻いた風が、壁へ当たって上へ跳ねる。僕は反射で重心をずらしたつもりだったが、濡れた床の白線で靴底が滑った。

 

「っ」

 

 傾く。

 視界が一気に空へ開いた。

 

「シンジ、右!」

 

 その呼び方で、体が先に動いた。

 

 右手のロープを引く。左膝を落とす。次の瞬間には、アスカの手が僕の肘へかかっていた。引っ張るというより、戻す方向だけを強く示す手だった。

 

 滑りは一瞬で止まる。

 

 支柱がぶつかって、乾いた金属音がした。

 それから二人とも同時に息を吐く。

 

「……今の、二回目ないから」

 

 アスカの声が少しだけ低い。

 

「うん」

 

「“うん”じゃなくて覚えなさい」

 

「覚える」

 

 彼女はまだ僕の肘を掴んだまま、数秒だけ離さなかった。

 手が離れたあとも、そこだけ熱が残る。

 

「次、立てる」

 

 アスカが言う。

 

「支柱。今ならいける」

 

 僕も頷いた。

 そのあと作業は、さっきまでよりずっと早かった。止まったあとに、どこで止まるべきかだけが少し分かったからだと思う。

 

 支柱が立ち、ロープが締まり、カバーが風を逃がし始める。最後に日向さんが通信室の窓から身を乗り出して、親指だけを立てた。

 

「角度、入りました!」

 

 遠くからの声が、風に千切れながら届く。

 アスカはやっと肩を落とした。

 

「はい、屋上は一旦終わり」

 

「下りる?」

 

「その前に」

 

 彼女は僕の持っていた水筒を当然みたいに引き抜いて、一口だけ飲み、それからこっちへ返した。

 

「飲みなさい」

 

「アスカも飲んだだろ」

 

「だから言ってんの」

 

 半分だけ減った水が、妙にちょうどいい量になっていた。

 

第三節 北側の窓

 

 屋上の扉を閉めた時には、二人とも靴の先まで湿っていた。

 

 工具袋を職員室へ持っていく前に、僕は北側廊下の方を見た。子ども部屋へ続く角だ。さっきの風の回り方がまだ頭に残っている。

 

「……先に北側見たい」

 

 言い終わる前に、アスカが進路を変えた。

 

 備品庫の戸を開け、古い毛布と養生テープと、使いかけの木の楔を二つまとめて抱える。

 

「分かってる」

 

「え」

 

「さっきからそれ見てたんでしょ」

 

 彼女は毛布の束を僕の腕へ半分押しつけた。

 

「持って」

 

「また半分」

 

「文句ある?」

 

「ない」

 

「なら歩く」

 

 子ども部屋の北窓は、予想どおり上の留めが甘くなっていた。

 

 新しいシートはもう内側へ回してある。けれど窓枠の一か所だけが微妙に浮いていて、風が当たるたびに細く鳴る。この音は夜になると厄介だ。眠りの浅い子は、それだけで何度も起きる。

 

 部屋の中ではユウタと、昨日の女の子が昼寝をしていた。咳をしていた小さい子も、今は浅く息をしているだけだ。

 

 アスカは音を立てないよう靴を引きずって窓へ寄り、僕へ顎を振る。

 

「押さえて」

 

 僕が窓枠を支える。アスカが楔を差し込み、毛布を細く折って隙間へ噛ませ、上からテープで固定する。応急処置だ。でも今夜を越すには十分だと思えた。

 

 最後にアスカが指先で窓を軽く叩く。

 さっきの細い鳴り方はしなかった。

 

「よし」

 

 彼女はそれだけ言って手を離す。

 

 振り向くと、ユウタが半分だけ目を開けていた。

 

「……おわった?」

 

 寝起きの声で言う。

 

「終わった」

 

 僕が答えると、ユウタはまだ眠そうなまま、枕へ頬を押しつけた。

 

「きつね、帰った?」

 

 一瞬だけ意味が分からなくて、それから昼に途中で止まった絵本のことだと気づく。

 

「ああ……まだ途中」

 

「帰ると思う?」

 

 小声で訊いてきたのは、隣の女の子の方だった。

 

 アスカが先に鼻を鳴らす。

 

「一回くらい間違えるでしょ」

 

「帰れないってこと?」

 

「そうじゃなくて」

 

 アスカは窓の留め具をもう一度だけ押した。

 

「すぐには真っ直ぐ戻れないってだけ」

 

 僕はその言い方を少しだけ覚えておきたいと思った。

 

「でも、帰るよ」

 

 僕が続けると、女の子は目を閉じたまま「じゃあいい」と言った。

 

 それで話は終わった。

 役に立つ会話ではない。でも、毛布の匂いのする部屋の中で、その短いやり取りだけが妙に残った。

 

 廊下へ出ると、アスカが先に歩き出す。

 さっき僕が言う前に北側へ曲がったことについては、わざわざ何も触れない。

 

 ただ、職員室へ戻る手前で一度だけ足を止めた。

 

「さっきの」

 

「どれ」

 

「屋上であんたが止まったやつ」

 

 アスカは前を向いたまま言う。

 

「今度から、窓でも子ども部屋でも、気になるなら言いなさい。止まってからじゃ遅い」

 

「うん」

 

「あと」

 

 少しだけ間が空く。

 

「……今のは、あたしが先に決めすぎた」

 

 “ごめん”ではない。

 でも、その後ろにあるものは分かる。

 

「僕も、先に言えばよかった」

 

「なら次からそうしなさい」

 

「そうする」

 

 アスカはそこでようやく頷いた。

 

第四節 音取りと現在地

 

 夕方の待受が終わったあと、雨は結局ぎりぎりまで落ちなかった。

 

 代わりに空気だけが重くなり、校舎の中の音がいつもより近くなる。鍋の蓋が当たる音、チャイムの試験音、通信室でケンスケが椅子を引く音。湿気の多い日は、細い音ほど残る。

 

 僕は子ども部屋の読み聞かせを終えてから、少しだけ音楽室へ寄った。

 

 昼に触ったチェロが、また少し狂っていたからだ。弓は使わない。大きな音を出す時間じゃない。指で低い弦を一つ弾き、糸巻きを少しだけ回す。もう一度、弾く。前よりましだが、まだ遠い。

 

「まだ低い」

 

 入口の方から声がした。

 

 振り向くと、アスカがドア枠へ肩を預けていた。

 夜番の腕章を持っている。もうすぐ持ち場へ行くのだろう。

 

「聞こえてた?」

 

「廊下まで」

 

「うるさかった?」

 

「変なチャイムよりはマシ」

 

 その言い方で、少しだけ息が抜ける。

 

「今の、もう一回」

 

 命令みたいに言う。

 でも帰らない。

 

 僕はもう一度だけ、低い弦を弾いた。少し上げて、次は隣を触る。短い音取りだけだ。曲を弾くほどじゃない。でも二つ三つの音が繋がると、湿った空気の中にも細い線が通る。

 

 アスカは黙って聞いていた。

 途中で一度だけ窓の外を見て、それからまたこっちへ視線を戻す。

 

「……今のなら、さっきよりマシ」

 

「さっきより、って昼の時?」

 

「さあ」

 

 否定しない。

 たぶん最初から少しは聞いていたのだと思う。

 

 僕は弦を軽く押さえ、響きを止めた。

 

「夜番?」

 

「うん」

 

 アスカは腕章を指で回す。

 

「先に言っとく」

 

 その言い方だけで、胸の奥が少しだけ整う。

 

「二十時から屋上。風向きと仮アンテナの確認」

 

 彼女は指を一本折った。

 

「終わったら保健室。マヤさんに北窓の様子聞く」

 

 もう一本。

 

「そのあと、子ども部屋の前。一回だけ見回る」

 

 三本目で止めて、こっちを見る。

 

「探すならその順番」

 

 紙じゃない。

 口で言った。

 

「分かった」

 

「分かった、じゃなくて覚えなさい」

 

「覚える」

 

「ならいい」

 

 そこで終わりかと思ったら、アスカはまだドアから動かなかった。

 

「あと、あんたは?」

 

 少しだけ意表を突かれる。

 

「え」

 

「今のあと。どこ」

 

 ああ、と思う。

 これは僕にだけ順番を言わせるやり方じゃなくなったんだ。

 

「ここ終わったら通信室」

 

 僕はケースの蓋へ手を置いたまま答える。

 

「二十一時まで日向さんの補助。終わったら子ども部屋。戻る前に、先に言う」

 

「よし」

 

 アスカはやっとドア枠から離れた。

 

 でも二歩で止まって、振り返る。

 

「チェロ、終わったらちゃんとしまいなさい。夜露つくわよ」

 

「うん」

 

「あと水」

 

「分かってる」

 

「その返事、まだ信用半分」

 

 言い捨てて、今度こそ廊下へ消える。

 

 足音は軽い。急いでいるのに、今どこへ行くかが分かっている足音だった。

 

 僕はしばらくそのまま立っていた。

 それからチェロをケースへ戻す。弓、松脂、薄い布。最後に、昼の紙を胸ポケットから出して、ケースの内ポケットへ挟んだ。

 

 屋上。南側。軍手と水。

 

 短い字の並びなのに、地図みたいに位置が分かる。

 次に探す時のためじゃなく、もう探し回らなくていいように置かれた言葉だ。

 

 ケースを閉じる。

 廊下の向こうでは、ちょうど二十時のチャイムが一度だけ鳴り損ねた。

 

 少し低く外して、それでも学校の合図としてはちゃんと足りる音だった。

 

 僕は水筒を持ち直し、通信室へ向かう。

 

 屋上。保健室。子ども部屋。

 頭の中で順番をなぞる。

 

 今どこにいるかを、先に言い合えるだけで、夜の長さは少し短くなる。

 

 

第五節 報告の前の一行

 

 二十一時を少し回ると、通信室の窓ガラスは風の鳴り方を変えた。

 

 見張り台のシートが強く鳴るたび、薄い蛍光灯の下で受信記録の端がかすかに震える。日向さんは海浜側の待受を続け、ケンスケは周波数表へ鉛筆で新しい印を足していた。僕はその横で時刻の欄を揃え、返ってきた雑音の癖だけを短く書き込む。

 

 紙に数字を書いているあいだは、頭の中も少しだけ整う。

 でも、風の強い夜は、それだけじゃ足りない。

 

 屋上。

 保健室。

 子ども部屋。

 

 アスカが口で言った順番を、頭の中でもう一度なぞる。どこへ寄るか。どの順で戻るか。先に聞いているだけで、探しに出たい気持ちは前より少し薄くなる。

 

「碇くん」

 

 日向さんが受信機から目を離さずに言った。

 

「南側、さっきより吹いてます?」

 

「まだ強いです」

 

 窓の鳴り方で分かる。

 僕が答えると、日向さんは短く頷いた。

 

「なら、仮アンテナはもう一回だけ確認入るかもしれませんね」

 

 その言い方へ、胸の奥が一瞬だけ勝手に反応する。

 でも立ち上がりはしない。昨日から一つずつ増えた手順が、今はちゃんと僕の足をここへ留めていた。

 

 ケンスケが椅子をきしませながらこっちを見る。

 

「でもアスカ、もう一周してますよね。保健室も寄るって言ってたし」

 

「うん」

 

「なら大丈夫か」

 

 大丈夫、を雑に言う声じゃなかった。順番を知っている人の言い方だった。

 

 その時、廊下の向こうで足音がした。

 

 急いでいるのに、無駄な迷いのない速さ。

 聞き慣れた足音だった。

 

 扉が開く。

 

 アスカは少しだけ湿った前髪を指で払い、腕章を外す前にまっすぐこっちを見た。

 

「戻った」

 

 日向さんが「屋上どうでした」と訊くより早く、アスカは言葉を足す。

 

「南側、持った。結び目もまだ平気。保健室、北窓の子は起きてない。子ども部屋も一回見た」

 

 そこで一拍だけ置いて、最後に言う。

 

「今、ここ」

 

 それは通信室全体への報告じゃなく、僕へ向けた順番だった。

 

 僕は椅子から立ち上がりかけた手を止める。

 

「うん。聞いた」

 

「報告の前」

 

「分かってる」

 

「ならいい」

 

 短い。

 でも、十分だった。

 

 アスカはそこで初めて日向さんの方へ向き直る。

 

「海浜側、今のところ再送なし。屋上の仮アンテナ、南の風で少し鳴るけど飛ぶほどじゃない。北窓も今は静か。あと、子ども部屋の毛布一枚増やした」

 

「了解です」

 

 日向さんが受信記録の欄外へ書き足す。

 ケンスケは「じゃあ二十二時の待受までこのままですね」と椅子を引き直した。

 

 役割の言葉がようやく流れ始める。

 でもその前に、僕はちゃんと聞いていた。

 

 「戻った」「今、ここ」。

 それだけで、さっきまで少し長すぎた夜が、測れる長さへ戻る。

 

 アスカは通信室を出る前に、ドアのところで半分だけ振り返った。

 

「バカシンジ」

 

「何」

 

「次、あんたが戻る番」

 

「うん。先に言う」

 

「よし」

 

 言い捨てるみたいにして、今度こそ保健室の方へ消える。

 僕は受信記録の余白へ、二十一時十二分とだけ書き足した。

 

 順番を間違えなかった時刻。

 

 窓の外ではまだ風が鳴っている。

 でも今は、探し回るための音には聞こえなかった。

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