第一節 白いチョーク
朝いちばんの揉め事は、机をどこへ置くかだった。
「相談したいことがあるの」
委員長が黒板の前で言う。
手には昨日書き直した時刻表。端には《読む時間》《子ども部屋》《通信室》の文字が並んでいた。
「今の子ども部屋、寝るにはいいけど昼の動線が詰まりすぎるわ。読む時間と配給のたびに保健室の前が混む」
「分かるけど、机を部屋へ戻したら廊下の遮蔽が薄くなる」
青葉さんが壊れた椅子の背を足で寄せながら言う。
「西側の風が変わったら、あそこ結構抜けるぞ」
「教室が一つ使えるだけで、熱のない子を保健室前から離せます」
マヤさんは在庫表の束を抱えたまま続けた。
「夜の毛布の配分も整理しやすい。今のままだと、起きてる子も眠れない子も同じ場所へ寄りすぎるから」
どっちも正しい。
最近は、こういう揉め方が増えた。善意の量が足りないんじゃない。善意をどこへ置くかで順番が変わるから、簡単には決まらないだけだ。
ミサトさんはしばらく黙って机の数を見ていたが、やがてチョークを取ると黒板へ二本線を引いた。
「教室は一つ戻す。使うのは二年A組。机は最低限。廊下の遮蔽は理科準備室の棚で代用。読む時間と昼の待機をそこへ寄せる」
青葉さんが顔をしかめる。
「棚、重いですよ」
「だから動かせる人を使う」
ミサトさんはこっちを見た。
「シンジ君、アスカ。机運びと黒板の復旧。名札も欲しい。子どもが自分の位置見失わないように」
その時、職員室の端で紙箱へ頬杖をついていたユウタが小さく手を上げた。
「……じぶんの席、できる?」
委員長の手が止まる。
誰かが何を言うより先に、アスカがそっちを見た。
「できるわよ」
即答だった。
「勝手に消したりしない。戻ったら分かるようにする」
ユウタは少しだけ目を丸くして、それから頷く。
それだけで、さっきまで机の数だった話が、一気に人の顔の話へ変わった。
「じゃあ決まりね」
ミサトさんが言う。
「二年A組、昼までに開ける。委員長は名簿の写し。伊吹二尉は子どもの体調で席順の優先だけ決めて。青葉二尉は理科準備室の棚。日向二尉は通信室の時刻そのまま。シンジ君とアスカは机、名札、黒板」
役割が落ち着く。
皆がばらけ始める前に、アスカは僕の袖を軽く引いた。
「倉庫」
「え」
「白チョークと紙札取ってくる。あと布」
そう言って、指を一本折る。
「五分」
もう一本。
「先に職員室じゃなく、二年A組」
三本目。
「探すな」
昨日の夜みたいに、今どこへ行くかを先に言う。
僕は頷いた。
「分かった」
「分かった、じゃなくて覚えなさい」
「覚えた」
「ならいい」
アスカはそれだけ言って、理科準備室の脇の倉庫へ消えた。
僕は二年A組の扉を開ける。
前より少し湿った匂い。割れた窓はまだ板で塞いだままだが、昨日まで物置だったせいで机と椅子が雑に寄せられている。黒板の下には、古い出席番号の跡がまだうっすら残っていた。
ここへまた席を作る。
ただ机を並べるだけじゃない。
どこへ戻ればいいかを、ちゃんと見えるようにする。
壊れた窓の方を見ていたら、廊下の方で足音が止まった。
「戻った」
アスカの声だった。
振り向くと、片腕へ紙札の束、もう片方へ白いチョークの箱と雑巾を抱えている。肩には細い麻紐までかけていた。
「白チョーク、二箱。紙札二十枚。布三枚。今、ここ」
報告じゃなく、順番としての言い方。
もう昨日より自然だった。
「うん。聞いた」
「なら手」
アスカは紙札の束を僕へ押しつける。
「そこ突っ立ってると昼になる」
言い方はいつも通りだ。でも、その束の重みは前より少しだけ軽く感じた。
第二節 机二つぶん
机を並べる作業は、思ったより時間がかかった。
使える机だけを選び、脚の緩いものは除き、天板のささくれを布で拭く。二人で運べば早いけれど、早さだけで並べると後から座った時に全部がずれる。
「前三列。後ろ二列は広め」
アスカが教室の入口から全体を見る。
「眠い子が出ても通れるように」
「窓側は?」
「今日はまだ板打ってるから使わない。中央寄せ」
僕は机を一つずつ置きながら、通路の幅を見た。癖で少し広めに空ける。人がぶつからないように。誰かが急に立っても平気なように。
最後の二つを前から三列目へ置こうとした時、アスカがすぐに気づいた。
「そこ、空けすぎ」
「通りやすい方がいいかと思って」
「後ろ通れるでしょ」
アスカは机の天板へ両手をかけると、僕が空けていた人一人ぶんの隙間を半分まで押し詰めた。
「今さらそんなに間あけなくていい」
「でも」
「でも、じゃない。席ってのは広ければいいわけじゃないの」
言いながら、今度は自分の側の椅子を少し斜めに引く。
「出る時の角度だけ作っとけば十分」
そのやり方を見ると、たしかにぶつからない。
前に比べたらほんの少しだけ近い。でも近すぎない。
「……分かった」
「分かったなら次から最初にそうしなさい」
そう返しながら、アスカは布で机の端を拭く。
手つきは早いのに、雑ではない。紙札を書く時はもっとはっきりしていて、子どもの名前を委員長の写しと照らし合わせ、読みにくい字だけは自分で勝手に決めずに確認へ行く。
「ユウタは片仮名じゃなくて漢字でいいのよね?」
教室の外へ向けて訊く声まで、妙に通る。
委員長が廊下から顔を出した。
「本人が読める方。今は平仮名混じりでもいい」
「分かった」
アスカは紙札へ《ゆうた》と書き直す。
その横で僕は《みほ》《かな》《れいこ》と一枚ずつ並べた。名前を並べると、机の並びがただの家具じゃなくなる。誰がどこへ戻るかの地図になる。
教室の後ろには、使える机が二つだけ余った。
「これ、どうする?」
僕が訊くと、アスカは振り向きもせずに答える。
「片づけない」
「予備?」
「予備でもあるし、連絡机」
そこでようやくこっちを見る。
「誰か戻った時に、すぐ名前書ける場所いるでしょ」
なるほど、と思う。
全部をぴったり埋めるんじゃなく、戻る余地を残しておく。その発想は前のアスカならしなかったかもしれない。でも今は、ごく自然にそれが出てくる。
「二つとも?」
「二つ」
「多くない?」
「少ない方が嫌」
短く言い切ってから、アスカは紙札の束を半分に分けた。
「ほら。あんたそっち」
「ありがとう」
「礼は後」
そう言いつつ、自分の分を持って別の列へ回る。
持ち物も、作業も、前みたいに気づけば半分に分かれている。誰が先に言い出したのか分からないくらい、今はその方が自然だった。
昼前、ユウタと昨日の女の子が教室を覗きに来た。
「ここ、ほんとに使うの?」
女の子が訊く。
アスカは机の位置を最後に一つだけ直しながら頷いた。
「昼の読む時間と、静かにしときたい時だけ」
「席、どこ?」
ユウタが紙札の並びを見る。
僕が前の列を指そうとすると、アスカが先に《ゆうた》と書いた札を持ち上げた。
「ここ。勝手に変えないから覚えときなさい」
ユウタはそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……じゃあ、帰れる」
その言い方に、僕は少しだけ引っかかる。
帰るのは家じゃなくて、今はたぶん席だ。
戻る場所が見えるだけで、人は少しだけ安心できる。
第三節 黒板の端
教室の形が見え始めた頃、委員長が新しい紙を抱えてやってきた。
「これ、入口の横へ貼るわ」
見せられた用紙には、太い見出しが三つ並んでいた。
《移動先》
《戻り予定》
《先に言う相手》
「読む時間に子どもが動くし、大人も部屋を跨ぐから。誰が今どこか、入口で分かるようにしたいの」
「前の黒板だけじゃ足りないってこと?」
僕が訊くと、委員長は頷く。
「学校全体の当番表と、部屋ごとの今どこは別にしないと詰まるのよ。あと」
委員長は紙の下段を指で叩いた。
「帰ってきた時の順番、各自で固定した方が混乱しない」
それは、もう僕たちの中では少し前から動いているルールだった。
でもこうして字になると、急に現実味を持つ。
アスカは壁へ貼られた紙を見て、当たり前みたいに言う。
「探索の組と、先に言う相手は別でしょ」
「そう。組み替えはその日で変わる。でも、先だけは固定した方が早い」
委員長の説明へ、アスカは短く頷いた。
「じゃあそれでいい」
そう言って、白いチョークを一本取り上げる。
下段の最初の欄へ、迷いなく書きつけた。
惣流・アスカ・ラングレー → 碇シンジ
字は太くて、少しだけ斜めで、でも遠くからでも読める。
書き終えると、アスカは粉のついた指でチョークを僕の方へ差し出した。
「ほら」
受け取りながら、僕は一瞬だけためらった。
書くこと自体は簡単だ。
でも、壁へ出すとなると少しだけ別の重さがある。自分の中で分かっているだけじゃなく、見える場所へ置くことになる。
「何」
アスカが眉を上げる。
「今さら迷うとこ?」
「……迷ってるわけじゃない」
「なら書きなさい」
少しだけ耳が熱い。
でも、ここで曖昧にする方がたぶん違う。
僕はチョークを持ち直し、アスカの名前を書く。
碇シンジ → 惣流・アスカ・ラングレー
白い粉が少しだけ指についた。
「よし」
アスカはそれを見ると、妙にあっさり頷いた。
「これで分かる」
「分かる、って」
「誰が先か」
それだけじゃない気がしたけれど、今はそれで十分だった。
ちょうどその時、ミサトさんが教室の入口から覗く。
「お、できてるじゃない」
壁の紙を見て、すぐに気づいたらしい。
「へえ。そこ固定したの」
「固定した方が早いからでしょ」
アスカが言い返す。
「探索の組は変わっても、先に言う相手まで毎回変えると面倒」
「はいはい、ごもっとも」
ミサトさんは笑って肩をすくめた。
「便利ならそれでいいわ」
からかわれた感じはあったけれど、否定はされない。
それだけで十分だった。
ミサトさんが去ったあと、僕はまだ少し白い粉のついた指先を見る。
アスカはその視線に気づいたのか、雑巾を丸めてこっちへ投げた。
「手、拭いときなさい」
「アスカも」
「もう拭いた」
「早い」
「遅い方が悪い」
言いながら、彼女はさっき書いた自分の欄をもう一度だけ見た。
消す気はないみたいに、しばらくそのまま。
第四節 空けない席
子どもたちの読む時間が終わり、二年A組が静かになる頃には、外の光も少しだけ傾いていた。
ユウタたちは新しい席をちゃんと覚えて、最後には自分で椅子を戻してから出ていった。女の子は帰り際に《かな》の札を一回だけ指で押し、何も言わずに廊下へ消えた。
教室に残ったのは、僕とアスカ、それから後ろへ残しておいた二つの机だけだ。
僕はそれを壁際へ寄せようとして、机の脚へ手をかける。
「何してんの」
アスカの声が飛んだ。
「予備、片づけようかと」
「片づけないって言ったでしょ」
「でも、今日はもう使わないし」
「今日だけで決めるな」
アスカはこっちへ来ると、僕が持ち上げかけた机の端を押さえた。
「ここ、連絡机。戻ってきた人の紙札書く場所。あと、読む時間が終わって残る時の席」
「残る時?」
「そういうの、あるでしょ」
言いながら、彼女はもう一つの机を靴先で少しだけ寄せる。
僕が空けていた隙間がまた半分になる。
「……また空けすぎた?」
「さっきと同じ」
アスカは呆れたみたいに言う。
「本当にあんた、油断するとすぐ距離あける」
「癖なんだよ」
「知ってる」
その返しが思ったより静かで、僕は少しだけ言葉を失った。
アスカは机の天板へ白いチョークを置く。
昼に使った残りで、先だけ少し丸くなっていた。
「今日、黒板に書くの、怖かった?」
いきなり訊かれて、僕は反射的に彼女を見る。
「……少し」
「何が」
「書いたら、ちゃんとそうなる気がして」
自分で言うと、少し変な言い方だった。
でもほかに近い言葉がない。
「見える場所に置いたら、後で曖昧にできないし」
「後で曖昧にしたいの」
「したいわけじゃない」
「なら無駄に怖がるな」
きつい。でも、そこで終わらせる言い方じゃない。
「変える気ある?」
「ない」
「ならそれでいい」
アスカは白いチョークを二つに折る。
小さく乾いた音がして、片方を僕の机へ転がした。
「決まり」
「え」
「今の学校、席も夜番も、そのたび決め直してるでしょ」
アスカは少しだけ視線を逸らしたまま続ける。
「でも、変えない方がいいのもある」
そこで一度だけ息を継ぐ。
「これはそういうやつ」
白いチョークの粉が、彼女の指に少しだけ残っていた。
「外でも中でも。出る前も、戻ったあとも。先はあんた」
まっすぐ言い切る。
「あたしもそうする」
胸の奥が、少しだけ痛いみたいに動いた。
嬉しいのに、うまく飲み込めない感じだった。
「僕も」
ようやく出た声は、自分でも少し低かった。
「アスカがどこにいるか、先に分かると落ち着く。戻ったって、先に聞けると……探し回らなくて済む」
「仕事だから?」
「仕事でもある」
そこで止まる。
でも、今日は止めたくなかった。
「でも、それだけじゃない」
アスカはすぐには何も言わない。
机の角へ指をかけたまま、少しだけ下を見る。
「知ってる」
小さい声だった。
「あたしだって、あんたが黙って消えるのはもう嫌」
それはたぶん、この人にとってかなり大きな言い方だった。
「だから書かせたの。先に言うって。聞けるように」
そのあとで、いつもの少し強い調子へ戻す。
「守りなさいよ」
「守る」
「返事一個で済ませるな」
「じゃあ……守る。出る前も、戻ったあとも。先に言う。勝手に一人で決めない」
「うん」
アスカはようやく頷いた。
「あと」
そこで、彼女は残っていた机をもう一度だけこっちへ寄せる。
二つの机のあいだにあった、ほんのわずかな隙間が消えた。
「隣」
「え」
「空けない」
耳まで少し熱くなるのが分かる。
なのに、アスカはこっちを見ないまま続ける。
「外でも中でも。席、勝手に空けない。変な気遣いで距離あけない」
「……うん」
「うん、じゃなくて」
そこでやっと、アスカはこっちを見る。
碧い目がまっすぐで、でも少しだけ困っているようでもあった。
「シンジ」
その呼び方だけで、背筋が少しだけ伸びる。
「何」
「今の、忘れたら殴る」
「忘れない」
「ならいい」
僕は自分の机の上のチョークを拾い上げる。
何を書くのかは、もう決まっていた。
二つの机の端へ、それぞれ小さく一文字ずつ書く。
シ
ア
子どもの席札みたいに大げさじゃない。後で拭けば消せる程度の、小さな白い字。
でも、今ここに置くには十分だった。
アスカはそれを見て、一瞬だけ目を丸くした。
それから、妙に小さく息を吐く。
「……まあ、今はそれでいい」
「今は、なんだ」
「全部まとめて言い切るの、ちょっと怖いだけ」
そう言いながら、アスカは自分の側の机へ腰を下ろした。
間を空けない位置のまま。
僕も隣へ座る。
二つの机の脚は、もうぶつからないぎりぎりの所で並んでいた。
廊下の向こうで、少し外れた夕方のチャイムが鳴る。
前より低くも高くもない、まだ少し不器用な音だ。
「……アスカ」
「何」
「ありがとう」
言ってから、少しだけ早かったかと思う。
でもアスカは笑わない。
「礼は後でいいって、前にも言った」
「じゃあ、あとで」
「そうしなさい」
そこで、彼女は机の上の白い粉を指で払った。
払った先の手が、ほんの少しだけ僕の手の甲へ触れる。
すぐ離れない。
「シンジ」
「うん」
「戻る時、先」
「うん」
「隣、空けない」
「うん」
「よし」
教室の後ろには、戻ってくる誰かのための予備机が二つ残っている。
入口の横には、白いチョークで書いた名前がまだ新しいまま残っている。
そして僕たちの机のあいだには、もう人一人ぶんの距離はなかった。
第五節 嘘じゃない返事
夜の見回りが一巡して、二年A組の名札が廊下の暗がりへ馴染み始めた頃、僕は音楽室の窓を少しだけ開けた。
昼の湿気で狂った弦を合わせ直したかった。
人を起こさないように、弓は使わない。指で一音ずつ確かめるだけだ。それでも、胸の中でほどけきらないものを少しだけ並べ直せる気がする。
白いチョークの粉は、手を洗っても爪の脇に少し残っていた。
《先に言う相手》。
隣、空けない。
今は、それでいい。
あの教室で交わした言葉は嬉しかった。
でも、嬉しいまま飲み込んで終わりにしたら、また前みたいに沈黙の方へ逃げる気もした。
怖い時、僕はすぐ黙る。
聞けば変わるかもしれないことを、聞かないままの方へ置きたがる。
低い弦をもう一度だけ鳴らしたところで、後ろから声がした。
「またそれ」
振り向くと、音楽室の入口にアスカが立っていた。
昼に使った白チョークの粉が、まだ袖のどこかに残っているみたいだった。廊下の明かりが背中から差して、髪の端だけ少し明るい。
「起こした?」
「起きてるわよ」
アスカは中へ入り、入口の扉を半分だけ閉めた。
全部閉めないところが、今の学校らしい。誰かが呼べば聞こえるように、でも少しだけ二人きりで話せるくらいには距離を作る。
「その顔」
アスカが言う。
「まだ何か飲み込んでるでしょ」
「分かる?」
「分かるわよ」
即答だった。
それからアスカは、僕の向かいの椅子じゃなくて、すぐ隣の机の端へ腰を預ける。
今日自分で詰めたのと同じくらいの距離だ。
「さっきの」
アスカが先に言った。
「“今は”って言ったとこ」
「うん」
「半分、嘘」
喉の奥が小さく鳴る。
僕が何も言えないでいると、アスカは視線をこっちへ向けないまま続けた。
「全部そうだって言い切るの、怖かったのよ。席だの仕事だのって方へ寄せとけば、あとでごまかせるでしょ」
夜の音楽室に、外の風だけが少し入る。
アスカは机の端へ指をかけたまま、小さく息を吐いた。
「前も、似たようなことしたし」
「……あの時のこと?」
アスカがこっちを見る。
少しだけ目を細めた。
「覚えてるんだ」
「忘れられないよ」
忘れられるはずがない。
あの日、チェロを見られて、普通だったって言われて、退屈しのぎみたいな言葉に隠れて、そのくせ隠しきれなかったものがあった。
アスカは頬の横の髪を払って、それでも少しだけ言いにくそうに口を開く。
「退屈だったから帰った、って言ったのも半分。キスくらい、って言ったのも半分。さっきの“今は”も同じ」
そこで、一度だけ言葉を切る。
「怖いと、あたしすぐそっちへ逃げるから」
胸の奥が痛いみたいに動く。
たぶん、その言い方はアスカにとってかなり大きい。
「僕は逆だ」
自然に出た。
「怖いと黙る。聞いたら、言ったら、形が変わるかもしれないから」
弦の上に置いたままだった左手を、僕は膝へ下ろした。
「だから、先に言うって書いたのも、隣を空けないって言われたのも、本当はすごく嬉しかったのに、そのまま黙ってた」
アスカは黙って聞いている。
前みたいに、沈黙で切るためじゃない。次の言葉を待つための沈黙だった。
「また同じにしたくなかった」
喉が少し乾く。
でも、今日は止めたくなかった。
「僕は、アスカと、そういう意味でちゃんと隣にいたい」
言ってから、逃げずに続ける。
「仕事だから先に言うんじゃなくて、アスカだから先に言いたい。戻ったって先に聞きたい。席も、距離も、曖昧にしたくない」
アスカの指が、机の端で小さく止まる。
「僕……アスカと、付き合いたい」
音楽室が静かになる。
窓の外で、どこかのシートが一度だけ鳴った。
長い沈黙ではなかった。
でも、前ならその数秒だけで十分に怖かったはずだ。
アスカは俯いたまま、小さく息を吐く。
「今さら確認すんの」
「確認しないと、また沈黙に任せそうだから」
そう答えると、アスカはようやくこっちを見た。
呆れたみたいな顔なのに、目元だけが少し赤い。
「あんた、本当にそういうところだけ律儀」
「ごめ——」
「謝るな」
すぐ切られる。
でも、その声はきついだけじゃなかった。
「……うん。それでいい」
心臓が一回だけ大きく鳴る。
アスカはそのまま続けた。
「でも条件」
「うん」
「先に言う。黙らない。勝手に消えない。仕事とか手順とか、そういう言い方にだけ逃げない」
「守る」
「一個で済ませるな」
「守る。アスカにもちゃんと聞く。分かった顔をしない。怖くても黙って預けない」
そこで、アスカはようやく少しだけ口元を緩めた。
「それなら、もう一個」
「何」
「あの時」
声が少しだけ低くなる。
「普通だった、って言ったの、覚えてる?」
「うん」
「あれ、嘘じゃなかった」
僕は息を止めた。
「エヴァに乗ってない時のあんた。チェロ弾いてる時のあんた。見られると困った顔する、普通のあんた」
アスカは一度だけ唇を噛んで、それから目を逸らさずに言った。
「そういうあんたが、あたしは好きだったし、今も好き」
その“今も”で、何かが胸の奥からほどける。
前の時間から引きずっていたものも、ここまで来てやっと同じ線の上へ並んだ気がした。
「アスカ」
「何」
「ありがとう」
「礼は後」
昼と同じことを言ってから、アスカは自分で少しだけ眉を寄せる。
「……違うわね」
そして、小さく首を振った。
「今のはちゃんと返す」
そう言って、机の端から下りる。
僕の前まで来て、立ち止まる。
「だから、これも言う」
アスカの指が、僕の手首へ触れた。
昼に白い粉がついていた場所の少し上だ。
「今度は、キスくらい、なんて言わない」
その一言だけで、あの日の台所と今の音楽室がちゃんと繋がった。
嘘に戻すための言い方じゃない。意味を引き受けるための言い方だった。
「うん」
「変な意味で受け取って」
「もうそうする」
「そうしなさい」
アスカの方から近づく。
今度は、前みたいに冗談へ逃げるための軽さはない。
確かめるように、でもためらわずに触れる。
僕も逃げなかった。
肩へ手を置いて、少しだけ引き寄せる。
前より上手くやろうとは思わなかった。ただ、離さない方を選ぶ。
唇が離れたあとも、距離はそのままだった。
アスカの額が僕の肩へ一瞬だけ当たる。
「シンジ」
「うん」
「次から、ああいう言い方で逃げないから」
「僕も、黙らない」
「よし」
それだけでいいみたいに、アスカは小さく頷いた。
開けた窓から入る夜風が、譜面台の端を少しだけ揺らす。
昼に書いた白いチョークの字は、たぶん朝まで残る。
でも、もう消えても困らない。
僕たちは、嘘と沈黙の方へ戻らないと、今ここで決めたからだ。
第六節 朝の席
それから一晩で、世界の全部が変わったわけじゃない。
翌朝、二年A組の黒板には委員長の字で日付が一つ増えていた。
《なまえ》《きょういたひと》《あしたもいるもの》。
その下へ、昨日の席札がそのまま並んでいる。教室の後ろには、まだ名前のない予備机が二つ残っていた。戻ってくる誰かのための空きだ。
ユウタは自分の札を見つけると、少しだけ胸を張って座った。マヤさんが子ども部屋から熱の表を持ってきて、青葉さんが理科準備室の棚へ文句を言い、日向さんの定時連絡が廊下へ流れる。
僕が自分の席へ行くと、机の距離は昨日のままだった。
人一人ぶんも空いていない。
そこへアスカが鞄を置いて、黒板の端の《先に言う相手》を一度だけ見たあと、僕の方を見た。
「帰る時も、出る時も」
「先に言う」
「よし」
それだけ言って、アスカは自分の席へ座る。
僕も座る。
教室の後ろには、まだ空けておくべき机が残っている。
でも、僕たちのあいだにだけは、もう空けるための距離はない。
白いチョークの字は、朝の光の中でも消えていなかった。