【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第四話 雨、逃げ出した後

使徒が来た時、トウジとケンスケが避難区域に残っていることを、僕は知っていた。

 

 知っていたから探せた。

 知っていたから助けに行けた。

 

 でもそれは、胸を張れることじゃない。

 勇気があったんじゃない。ただ、前に一度見た失敗の形を覚えていただけだ。

 

 それでも、救わなきゃいけないものは救わなきゃいけなかった。

 

 ビルの隙間に飛び込む。シェルターの影。軍事オタクがこんな時までカメラを構えているのを見て、少し笑いそうになった。笑っている場合じゃないのに、ケンスケは本当にこういうやつだ。

 

「碇!?」

 

 トウジの顔が強張る。

 次の瞬間、彼の顔はもっと別の色になった。怯えと、怒りと、理解の遅れが一緒に来たみたいな顔。

 

 僕はそれを見ないふりで二人を抱えた。

 エントリープラグの中は狭い。人ひとりでも落ち着かないのに、男が三人入れば息が詰まる。

 

「お前……」

 

「今は喋らないで」

 

 トウジの声を遮る。

 使徒がまだ目の前にいる。助けたあとまで責任を持てるほど、僕は器用じゃない。

 

「じっとしてて。揺れるから」

 

 それだけ言って、初号機を前へ出した。

 

 * * *

 

 シンクロの向こうで腕が裂ける。痛い。痛いけれど、それを細かく感じている暇はない。トウジとケンスケが後ろで息を呑む気配だけが、やけに生々しかった。

 

 今までは、機体の中の痛みは僕だけのものだった。

 今は違う。僕の痛み方を、同級生がすぐ後ろで聞いている。

 

 それが妙に恥ずかしくて、少し嫌だった。

 

『シンジ君、無茶しないで!』

 

 ミサトさんの声が飛ぶ。

 でも“無茶しないで”と言われても、無茶じゃない動き方がもう分からない。

 

 使徒が腕を振る。初号機が受ける。衝撃が骨の中まで走る。

 後ろでケンスケが短く悲鳴を上げ、トウジが舌打ちした。

 

「こんなん……」

 

 トウジの声は怒鳴り声ではなかった。

 怒る暇より先に、目の前の現実が大きすぎたのだろう。

 

「毎回やっとるんか、お前」

 

 返事はできなかった。

 できなかった代わりに、ナイフを深く差し込んだ。

 

 使徒が絶叫する。コアが割れる。十字の光が夜空へ上がる。

 

 戦闘が終わったあとも、僕はしばらく呼吸が整わなかった。

 痛いからじゃない。後ろの二人に、ここまで見られてしまったからだ。

 

 * * *

 

 その夜、トウジは妹の病室の前でひどく不機嫌な顔をしていた。

 不機嫌なのに、病室へ入る時だけ顔を整える。妹に余計な心配をさせたくないのだろう。その不器用さは、思っていたよりずっと大人だった。

 

「……生きとった」

 

 ぽつりと呟く。

 妹の寝顔を見下ろしたあとで、壁にもたれて座り込む。

 

 エヴァの中で聞いたシンジの呻き声が、耳から離れなかった。

 痛がっていた。怖がっていた。あれだけ怖がっていて、なお前へ出るのをやめなかった。

 

(なんやねん、あいつ)

 

 トウジは自分でも整理がつかなかった。

 妹を怪我させた張本人だと思って殴った。そこに嘘はない。今だって腹が立たないわけじゃない。

 でも今日見たのは、街を守る英雄なんかじゃなかった。ただ、怖くて痛くて、それでも自分から引けない十四歳のガキだ。

 

 その顔を知ってしまうと、前と同じようには殴れない。

 殴れないことがまた腹立たしい。

 

 * * *

 

 翌朝、教室の空気は妙に落ち着かなかった。

 使徒戦に巻き込まれた二人が、いつも通りに教室へ来ている。クラスメイトはその事実だけで充分ざわつける。

 

「いやー、昨日はマジで死ぬかと思った」

 

 ケンスケは興奮気味だった。怖かったはずなのに、怖かったことまで材料にして語ろうとする。そういう所がケンスケらしい。

 

「碇、あの中、めちゃくちゃ狭いな!」

 

「感想そこ?」

 

「いや大事だろ、実用性」

 

 そこでトウジが机を蹴った。

 

「お前は黙っとれ」

 

 声は強い。けれど前みたいに、僕だけへ向いた怒りではなかった。

 

 昼休み、トウジは自販機の前で僕を待っていた。

 

「おい」

 

「なに」

 

「昨日のことやけど」

 

 そこで一度、言葉が切れる。

 謝るのは苦手なのだろう。そもそも謝るつもりなのかどうかも怪しい。ただ、何か言わなければいけないと自分で思ってしまった顔だった。

 

「……助かった」

 

 それだけだった。

 

「うん」

 

「うん、やない」

 

「じゃあ何て言えばいいんだよ」

 

「知らん」

 

 ひと呼吸ぶんの沈黙。

 

「痛かったんか」

 

 トウジが小さく訊く。

 

「痛かったよ」

 

「そらそうか」

 

「でも、それで二人とも助かったなら」

 

「そこまで言うな」

 

 トウジの声が急に鋭くなる。

 

「そういう顔で言われると、こっちが阿呆みたいや」

 

 阿呆みたい、という言い方が少しありがたかった。

 責められているのに、完全には遠ざけられていない。

 

「……ごめん」

 

「ほらまたそれや」

 

 けれど、最後の言い方には前より少し力がなかった。

 

 * * *

 

 その日の夜、僕は家に帰ってから急に何もかも嫌になった。

 

 トウジに礼を言われたこと。

 ケンスケに目を輝かされたこと。

 ミサトさんに『よくやった』と言われたこと。

 

 全部、正しい反応だと思う。

 思うのに、受け取ると息苦しい。

 

 僕はエヴァに乗りたくて乗っているわけじゃない。誉められたくて怪我をしているわけでもない。それなのに、戦って、助けて、認められると、急にそれが“僕の役割”として固定される気がする。

 

 役割になると、降りづらい。

 降りられなくなる。

 

 それが嫌だった。

 

 僕は机の上へ短い置き手紙だけを書いた。

 

《少し頭を冷やしてきます》

 

 それだけだ。

 謝罪にも、説明にもなっていない。けれど何も書かずに消えるよりはましだと思いたかった。

 

 電車は終点まで乗った。知らない駅で降りて、また別の電車に乗った。前にも似たことをした気がする。逃げ方まであまり変わっていない自分に、少し笑いそうになる。

 

 笑えないけど。

 

 公衆電話の前へ立つ。硬貨を入れる。番号を押しかけて、やめる。

 

 やっぱり父さんにはかけられなかった。

 

 * * *

 

 夕方、雨が降り始めた頃にミサトさんが見つけた。

 駅前のベンチ。濡れたアスファルト。湿った風。僕はそこで、本当に何もすることがなかった。

 

「迎えに来たわよ」

 

 怒鳴るでもなく、説教するでもなく、ミサトさんは缶コーヒーを二本持って立っていた。

 

「……すみません」

 

「謝るのは帰ってからにしなさい」

 

 隣に座る。少しだけ間を置いてから、缶を一本差し出してくる。

 

「飲む?」

 

「苦そう」

 

「子どもね」

 

「子どもです」

 

「そうね」

 

 それで会話が切れた。

 切れたまま、雨だけが少しずつ強くなる。

 

「帰りたくない?」

 

「……分かりません」

 

「エヴァに乗るのが嫌?」

 

「嫌です」

 

「そう」

 

「でも、嫌だって言うと、何か全部壊れる気がする」

 

 口にすると、思っていたよりずっと子どもっぽい本音だった。

 

「壊れるわよ」

 

 ミサトさんは平気な顔で言った。

 

「嫌だって言ったら、何かは壊れる。でも言わなくても別の何かが壊れる」

 

 雨脚が少し強くなる。駅の屋根を叩く音が近い。

 

「シンジ君」

 

「はい」

 

「逃げるのは別に悪いことじゃない」

 

「え?」

 

「一回逃げないと、自分が何から逃げてるのか分からない時もあるから」

 

 そこで一度、ミサトさんは缶を傾けた。

 

「でも、戻る場所があるなら、自分で戻りなさい」

 

 命令じゃない声だった。

 励ましとも少し違う。もっと現実的で、もっと面倒くさい、保護者の声だった。

 

「帰ったら、また乗れって言われますよ」

 

「でしょうね」

 

「……嫌です」

 

「知ってる」

 

「でも」

 

「でも?」

 

「帰る場所がなくなるのは、もっと嫌です」

 

 それは、たぶん本音だった。

 

 ミサトさんはかすかに笑った。

 

「よろしい」

 

 傘は一本しかなかった。帰り道、肩が半分ずつ濡れた。

 その濡れ方が妙に現実的で、僕は少し救われた気がした。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 家へ戻る頃には、靴の中まで水が入っていた。

 

 玄関を開けた瞬間、ミサトさんは傘を畳むより先に僕の鞄を奪った。玄関土間へ新聞紙を広げ、濡れた上着を脱げと指で示す。説教より先に床が濡れるのを止めるあたりが、この人らしかった。

 

「制服、洗面所。靴下も。鞄はここで中身全部出す」

 

「今ですか」

 

「今。明日の朝に湿ってたら最悪でしょ」

 

 机の上へ教科書を並べる。端が少し波打っている。連絡帳、ルーズリーフ、家庭調査票、予備の雑巾。濡れた物だけを抜き、乾いている物は椅子の背へ掛けた。ミサトさんは扇風機を廊下から引っ張り出し、靴の中へ丸めた新聞紙を押し込む。

 

「靴って、こんなに面倒なんですね」

 

「濡れるとね。しかも逃げた帰りの雨だと余計面倒」

 

 そこだけは逃がしてくれない。

 

 洗面所へ行くと、脱いだシャツの袖口に泥が飛んでいた。蛇口をひねり、石けんを擦り込む。白い泡が薄く茶色になる。制服の泥一つ落とすだけで、雨のベンチや公衆電話や、ミサトさんが隣へ座った時の肩の湿り気が戻ってくる。

 

「シンジ君」

 

 廊下から声がした。

 

「何ですか」

 

「定期、出して」

 

 慌てて濡れたズボンのポケットを探る。小さなパスケースは無事だったが、昨日入れたレシート地図が端から滲んでいた。洗面所を出ると、ミサトさんがそれを受け取り、タオルでそっと水気を取る。

 

「地図、書き直すわ」

 

「自分でやれます」

 

「うん。でも今日はあたしがやる」

 

 その代わりだと言うように、ミサトさんは小さなメモ帳を僕へ投げた。

 

「次から消える時は、ここへ駅名と時間を書く。行き先まで言いたくなければ書かなくていい。でも最終的にどこの駅にいたかだけは残す」

 

「そこまで決めるんですか」

 

「決める。探す方の身にもなりなさい」

 

 乾いた声だった。

 怒鳴るより、その方がよく分かる。

 

 僕はメモ帳を開いた。最初のページは白い。何を書けばいいのか一瞬迷って、それから今日の日付だけを書いた。駅名はまだ書けなかった。ミサトさんはその様子を見て、責めも急かしもせず、代わりに引き出しから細い紐付きの鍵を一本出した。

 

「補助錠の予備。昨日渡したのは外出用。こっちは家の中で探しても出てこない時用」

 

「鍵って、そんなに何本も要るんですか」

 

「いる時はいるの」

 

 非常袋と同じ理屈だと分かる。なくさないつもりでいても、人はなくす。帰れなくならないように、戻る道具を何本か持っておく。そういう大人の現実が、鍵の本数に出ている。

 

 台所では、ミサトさんが鍋へ湯を沸かしていた。インスタントラーメンを二つ。冷蔵庫の端にあったもやしと卵を適当に放り込んだだけの簡単なものだ。雨の日の家は、湯気があるだけで少し生き返る。

 

「座って」

 

「でも」

 

「でも、じゃない。麺は伸びる」

 

 椅子へ座る。濡れた髪から雫が落ちそうで、慌ててタオルを頭へ被る。ミサトさんはラーメンの丼を置き、自分の方には缶ビールではなく麦茶を注いだ。

 

「意外ですね」

 

「何が」

 

「今日は飲まないんだ」

 

「保護者が片目で酔ってると説教の説得力なくなるでしょ」

 

 その言い方で息が抜けた。

 

 麺をすすっていると、ミサトさんが箸を止めずに言った。

 

「逃げるのはいいのよ」

 

 昨日と同じ言葉だった。

 けれど、昨日よりずっと現実的な響きがあった。

 

「でも、戻る気がある逃げ方にしなさい。財布だけ持って、行き先も残さないで、靴の替えもなくて、連絡もなくて。あれは戻る気がある人の逃げ方じゃない」

 

 丼の湯気が眼鏡もない視界を白くする。言い返せなかった。言い返せないから、麺を噛む音だけが小さく続いた。

 

「……ごめんなさい」

 

「うん」

 

「次は、駅名くらい書きます」

 

「次がある前提なのね」

 

「ない方がいいけど」

 

「そうね」

 

 ミサトさんは短く笑い、それから急に真顔へ戻った。

 

「あと、最後の一本のコーヒーは勝手に持っていかない」

 

「そこですか」

 

「そこよ。探す途中で気づいた時、地味に腹立ったんだから」

 

 その具体さが少しありがたかった。

 世界の終わりみたいな話じゃなくて、缶コーヒー一本の話へ降ろされると、自分がまだ今日の中にいると分かる。

 

 食べ終わったあと、僕は濡れたパスケースから滲んだ紙を取り出した。ミサトさんがレシートの裏へ新しく線を引く。改札を出て右、歩道橋、コンビニ、坂、家。今日はそこへもう一つだけ、駅前のベンチの印が足された。

 

「これ、要りますか」

 

「要る。見つけた場所は、次に自分で戻る場所にもなるから」

 

 そう言われると、その小さな印までやけに重かった。

 

 夜、布団へ入る前に玄関脇のメモ帳へ一行だけ書く。

 

《今日は戻りました》

 

 それだけだ。

 誰に見せるでもない。たぶん朝になれば自分で剥がす。けれど書いておかないと、戻ったことまで雨に流されそうだった。

 

 * * *

 

 翌朝、まだ湿った靴で教室へ入ると、床のワックスが鈍く曇った。僕は慌てて廊下へ戻り、靴箱の前でタオルを当て直す。乾いたと思っていた布地の奥に、雨がまだ残っている。

 

「何やっとんねん」

 

 トウジだった。手には新聞紙の束と、妹の病院でもらったらしいビニール袋を持っている。

 

「まだ濡れてるなら、中に詰めろ。型崩れするぞ」

 

 言われるまま新聞紙を丸めて靴へ押し込む。トウジの手つきは速い。つま先まで紙を詰め、踵を軽く叩き、袋の口を開いたまま靴箱の下へ置く。家で何度もやっている人の動きだった。

 

「ありがとう」

 

「礼はええ」

 

 トウジは言ってから、わずかに顎を逸らした。

 

「……あの時のことも、まだ礼はいらん」

 

「うん」

 

「でも、次は先に言え。助けるなら助けるで、こっちにも息吸う準備ってもんがある」

 

 意味の分からない理屈みたいで、でもたぶん彼なりに筋の通った言葉だった。

 

 ケンスケがそこへ現れ、「靴乾燥講座?」と茶化した。トウジはすぐ小突いたが、その力は昨日までより軽かった。ヒカリは廊下の向こうから雑巾と出席簿を抱えて来て、「濡れた靴のまま上がらない」と最初に床の心配をした。

 

 誰も何も終わった顔はしていない。けれど、新聞紙を詰める順番や、濡れた床を先に拭く手つきだけが、昨日の続きを今日へつないでいた。

 

 僕は靴箱の下へ視線を落とした。新聞紙の端に、駅名を書いた昨日のメモが少しだけ覗いている。逃げた場所と戻った場所。その両方が、乾ききらない靴の中で同じ重さを持ち始めていた。

 

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