綾波の部屋へ向かう坂道は、前と同じように暑かった。
使徒との戦いが近い。ヤシマ作戦が来る。その前に綾波と話すべきだと思ったのは、知っている未来に備えたいからでもあったし、前の僕みたいに「何も分からないまま守られる」順番を、少し変えたかったからでもある。
けれど、いざアパートの前に立つと足が止まった。
ここから先にある散らかった部屋も、割れた眼鏡も、綾波の生活の匂いも、全部知っている。知っているけれど、それは今ここにいる綾波がまだ僕に見せていないものだ。
勝手に踏み込んでいい領分じゃない。
それでも、来てしまった。
チャイムを押しても反応はない。ドアノブを回すと開いた。前と同じだ。
ためらいながら中へ入る。部屋の空気は乾いていて、どこか薬品みたいな匂いがした。最低限の物だけがある部屋。生活のための部屋というより、誰かが一時的に置かれている場所みたいな部屋。
机の上に父さんの眼鏡があった。
胸の奥がひどくざわついた。
前の僕はそれを落として壊して、綾波に怒鳴られた。今は知っているから触らない。それだけで未来が変わるわけじゃないのに、僕はそれでも眼鏡から視線を逸らせなかった。
窓際には、読みかけの雑誌とも本ともつかない冊子が積まれている。流しには洗ったまま伏せられた食器が一つだけ。人の生活の跡は本当にそれくらいしかない。なのに、ここにはたしかに綾波がいて、帰ってきて、眠って、朝になる。
そういう当たり前を前の僕はあまり見ていなかった。
綾波を特別な何かだと決めつけて、人間としての手触りの方を置き去りにしていたのかもしれない。
「何をしているの」
声に振り返る。綾波がいた。買い物袋を持って、汗をかいた頬のままで、まっすぐ僕を見ている。
「ごめん」
「また、それ」
「え?」
「あなた、すぐ謝るのね」
綾波は靴を脱いで上がり込み、買い物袋を流しに置いた。
「何か用?」
「……少し話したくて」
「話す必要があるの?」
「あると思う」
綾波はしばらく黙っていた。目の焦点が少し遠い。考えているのか、考えるふりをしているだけなのか、まだよく分からない。
「あなたは変ね」
「そうかも」
「碇司令と似ていない」
その言葉には答えづらかった。
似ていないと言われて嬉しいのか、悲しいのか、自分でもよく分からない。
「前は、怖くなかったの?」
「前?」
「戦うこと」
綾波が問い返す。その赤い目に、僕の顔が小さく映っていた。
「怖いよ」
「でも乗った」
「怖いまま乗ったんだ」
「……そう」
綾波の表情はほとんど変わらない。それでも、まったく無関心ではないのが何となく分かった。前の僕は、その分からなさを全部「無」だと思い込んでいた。今は少し違うと知っている。
「綾波は」
「なに」
「怖くないの?」
聞きながら、卑怯な質問だと思った。怖いと言ってくれたら安心するし、怖くないと言われたら自分だけが弱いみたいで傷つく。どちらに転んでも、僕のための問いだ。
綾波は少し考えてから、静かに言った。
「壊れても、替わりがいるから」
その言い方があまりにも淡々としていて、逆にぞっとした。
「そんな言い方するなよ」
思ったより強い声が出た。
綾波がわずかに目を見開く。
「どうして?」
「どうしてって……」
うまく言えない。でも、言えないまま飲み込んだら、きっとまた同じことになる。
「替わりがいるとかいないとか、そういう話じゃないだろ」
「違いが分からない」
「違うよ」
違う。違うはずだ。けれど僕は、綾波にその違いを説明できるほど大人じゃない。ただ、あの白い首がいくつ並んでも、それが目の前の綾波の痛みを軽くするわけじゃないと知っているだけだ。
「……僕は、替わりがいても嫌だ」
綾波は黙ったまま僕を見ていた。
その沈黙の間に、自分がどれだけ勝手なことを言っているかも分かった。綾波がどう生きてきたかなんて、僕はまだ何も知らない。知っているつもりのことだって、本当にこの綾波に当てはまるのか分からない。
それでも、口にした言葉は取り消せなかった。
「あなたって、本当に変」
綾波はそう言って、コンロにやかんを乗せた。
「怒ってる?」
「少し」
少し、なのか。
前よりずっと具体的で、それだけで少し救われる。
やかんの中の水が、しばらくして小さく鳴り始める。その音が不自然に静かだった。
「あなたは、どうしてそんなに気にするの?」
「何を」
「私のこと」
直球だった。
答えられるようで、答えられない。前の僕なら、そこで真っ赤になって何も言えなくなったと思う。今は、赤くなる余裕もない。
「気にするよ」
「どうして?」
「……僕が乗る理由の一つだから」
それは本音だった。
世界を救うためじゃない。父さんのためでもない。綾波がそこにいて、血を流してまで僕を動かす順番をもう一度見たくないからだ。
綾波はわずかに目を伏せた。
「あなたは、不思議」
「そうかな」
「私を人みたいに扱う」
その言葉が、胸に刺さった。
人みたいに、じゃない。
人なのに。
そう言い返すべきなのかもしれない。でも綾波の言っていることが、完全に間違っているとも言い切れない。ここでは綾波は“適格者”で、“予備”で、“ファーストチルドレン”で、人である前に役割として扱われている。
僕だって、最初はそういう見方をしていた。
「人だよ」
それでも、ようやくそう言うと、綾波は首をわずかに傾げた。
「そう」
「綾波は綾波だよ」
そこまで言って、前にも似たようなことを言った気がして息が少し止まった。綾波の表情は変わらない。けれど、完全に何も感じていない顔でもなかった。
やかんの湯気が上がる。
レイはカップを二つ出した。片方を、僕の前に置く。
「飲んで」
「いいの?」
「用があるから来たんでしょ」
それもそうだった。
湯気の立つ薄いお茶は、味がほとんどしなかった。でも、誰かの部屋で湯気のあるものを飲むという行為が、妙に人間的で困った。
帰り道、坂の途中で振り返ると、綾波のアパートの窓は一つだけ明るかった。前に見た時より、その明かりが少し近く感じる。
作戦の成功率も、使徒の強さも、未来の順番も、結局はほとんど変えられないかもしれない。
それでも、こういう一つ一つの距離だけは、もしかしたら少しは違う形にできるのかもしれないと思った。
思ったところで、すぐに気が重くなる。
違う形にしたら、最後まで違う責任が生まれる。
知っているだけでは済まなくなる。
それでも、もう前みたいに何も知らないふりで守られるわけにはいかなかった。
* * *
その日の夕方、警報が鳴った。
空の高いところに、使徒はいた。
山の稜線の向こう、青白い幾何学の塊が音もなく浮かんでいる。生き物というより、空へ開いた傷みたいだった。前に見た時と同じなのに、知っていたぶんだけ余計に嫌だった。
『目標、対地下要塞直上へ侵攻中!』
初号機で射出口へ押し出される。ライフルを構えるより早く、使徒の光が走った。
速い。
知っていても間に合わない種類の速さだった。
ATフィールドを張る。間に合わない。胸をえぐるみたいな衝撃が遅れて僕へ返る。視界が白く跳ね、初号機が後ろへ吹き飛んだ。歯の裏で鉄の味がした。
『シンジ君、下がって! 正面戦は駄目!』
ミサトさんの声が割れる。第二射。街路の角が蒸発し、避難ブロックの装甲が赤く焼けた。前へ出るたび撃ち抜かれる。避けるとか踏み込むとか、そういう戦い方の土俵にすら乗せてもらえない。
それでも一度だけ、撃ち返そうとした。照準の中心へ青い核の輪郭を入れる。引き金に指がかかった瞬間、使徒の光がまた先に来た。ライフルごと腕が弾かれ、肩から肘まで裂けるような痛みが走る。
ああ、無理だ。
あの時と同じように、真正面からじゃ届かない。
撤退信号が鳴る。初号機を収容路へ引きずり込みながら、僕はモニター越しの青い幾何学を見上げた。怖いというより、腹の底が冷える。相手は怒ってもいない。ただ、こちらの手札を一切許さない速さでそこにいる。
その夜から、街は戦場というより作業場になった。
ケーブルを敷く車両が走り、発電計画が組み替えられ、国中の電力が一発の銃へ集められていく。日常を挟む余地なんて、たしかにほとんど残っていなかった。
* * *
作戦前夜、リツコは初号機の損傷部位一覧を眺めながら眉を寄せていた。
「そんなに酷いんですか?」
マヤが恐る恐る訊く。
「機体の話なら、許容範囲」
「じゃあ何が」
「中身」
「LCLは酸素を運ぶだけの液体じゃない」
リツコはモニターへ二本の波形を並べた。ひとつは初号機、もうひとつは碇シンジの神経同期パターンだ。
「プラグ内では、パイロットの身体感覚とエヴァ側のフィードバックの位相差を、これで無理やり潰している。だから動ける。その代わり、境界が薄くなる。自分の痛みと機体の痛み、他人を守りたい衝動と自己保存の反射が、同じ回路に乗ってしまうの」
「A.T.フィールドって……」
「壁である前に、自分を自分として保つための位相境界よ。エヴァへ乗るたび、子どもたちはそれを広げたり薄くしたりして戦ってる」
マヤは黙った。技術説明としては簡潔なのに、その実態はあまりにも人間的すぎた。
「機械の問題に見えるでしょうけど、そうじゃない」
リツコはさらにモニターの補助画面を開いた。関節角、眼球運動、呼吸位相、迷走神経反応。数字ばかり並んでいるのに、見ているものはほとんど人格だった。
「人間の神経は本来、一人分の身体のためにしか組まれていない。肘を曲げる速さも、視線を振る角度も、自分の重さと長さを前提にしてる。それを数十メートルの骨格へ通すには、いったん“自分の身体”という文法を崩して、別の身体へ訳し直さなきゃならない。LCLはそのための媒質。酸素を運ぶのは副産物よ」
マヤは画面の上の波形を見つめたまま息を呑む。
「だから適性が高い子は優秀というより、境界が柔らかいの。柔らかい境界は兵器運用には都合がいい。でも、人間として生きるには少し危うい」
モニターの上で、碇シンジの痛覚帰還曲線は静かに揺れていた。海に沈む時みたいに滑らかな波形だった。その滑らかさが、リツコにはむしろ不吉だった。
普通の操縦系なら、反応が滑らかであることは良い徴候だ。だがエヴァでは時々逆になる。抵抗が少なすぎるということは、その子が自分の身体を基準に踏みとどまる力も弱いということだからだ。機体の重さを自分の重さとして受け取り始めた瞬間、痛覚も恐怖も区別なく帰ってくる。翻訳が上手すぎると、原文と訳文の境目まで消える。
だから本当は、シンクロ率の高さだけで喜べる話じゃない。重要なのは、どこで切り離して戻ってこられるかだった。戦闘中にいったん自我を薄くし、それでも戦闘後にはちゃんと十四歳の身体へ戻る。その往復運動ができなくなった時、パイロットは兵器としては優秀でも、人間としては壊れ始める。
リツコはモニターを切り替えた。初号機防御担当時のシミュレーション。初号機の狙撃手順。使徒の反応。どれも計算上は成立している。成立しているのに、碇シンジの生体反応だけが厄介だった。
「焼かれるのを恐れていないわけじゃないのよ」
「はい」
「むしろ逆。恐怖反応は強い。でも、恐怖が自己保存に結びつく前に、“間に合わなきゃいけない”の方が勝つ」
それが良いのか悪いのか、リツコにもまだ判断がつかない。
戦場では有利に働くことがある。
だがそれは、操縦者が自分の身体を消耗品として扱うことと紙一重だ。
「零号機の盾が持ちこたえる時間を、あの子は短く見積もりすぎてる」
リツコが言う。
「味方を信用していない?」
「違うわね」
「じゃあ」
「レイが“自分で身を捨てる”可能性を、信じすぎてるのよ」
その表現に、マヤは小さく息を呑んだ。
作戦当日、零号機のエントリープラグの中で、レイは通信越しの沈黙を聞いていた。
沈黙にも種類がある。
何も考えていない沈黙と、考えすぎて動けなくなりかけている沈黙。今の初号機の沈黙は後者だった。
碇シンジは撃つ前から手が震えていた。怖いのだと分かる。零号機の装甲の向こうからでも、その緊張は少し伝わってくる。
でも、その震え方が妙だった。
命中させられるかどうかを怖がっているのではない。
もっと別のことを怖がっている。
自分が撃ち遅れて、その間に誰かがいなくなることを恐れているみたいな震えだった。
レイにはその感覚がよく分からない。
自分は撃たれれば痛いし、壊れれば終わる。でも、それは“替わりがいる”ことで説明のつく痛みだった。少なくともそう思っていれば済むはずだった。
碇シンジは違う。
彼は自分の痛みに対して鈍いくせに、人の消える瞬間に対してだけ異様に怯える。
それは不思議で、少し嫌だった。
発進直前、搬送路の足元で交わした短い会話がよみがえる。
「あなたが撃てないと、困る」
自分で言った言葉なのに、どうしてあんな声になったのか、レイにはまだよく分からない。
ただ、それを言ったあとで初号機側の呼吸が少しだけ通ったことだけは、はっきり覚えていた。
レイは盾を持ち直し、正面の暗闇を見た。
怖くないわけではない。
でも今は、怖さより先に、あの震えたまま立っている少年へ撃たせなければならないと思った。
それでいいと、まだうまく説明はできなかった。