【改訂版】海鳴りの手前で   作:ka_na

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第六話 決戦、第3新東京市

停電した街には、普段よりずっと音があった。

 

 灯りが消えて静かになるのかと思っていた。実際には逆だった。非常用のサイレン、遠くの工事音、ケーブルを引く車両の低い唸り、指示を飛ばす無線のざらついた声。人が光を失ったぶんだけ、他の何かで夜を繋ごうとしている音だった。

 

 僕は発令所の補助通路に立ち、ガラスの向こうで忙しく動く大人たちを見ていた。

 

 前にも見た景色だ。

 でも前は、その大きさばかりに圧倒されていた。

 今は違う。誰も大仰な顔をしていない。国中の電力を一発の引き金へ集めるなんて、冷静に考えれば気が狂っている。それなのに、ここではそれを気が狂っていると口にする人間が一人もいない。

 

 やるしかないから、やる。

 

 その単純さが、かえって息苦しかった。

 

「シンジ君」

 

 振り向くと、ミサトさんがいた。書類を二つ抱え、ジャケットの襟元を指で少し緩めている。暑いのではなく、息を通したいのだろう。こういう時のミサトさんは、余計な大人っぽさが消える。

 

「ここにいたのね」

 

「邪魔にならない所にいた方がいいかと思って」

 

「殊勝ね」

 

 からかうみたいに言いながら、ミサトさんは僕の横に立った。ガラスに映る自分たちの顔が、わずかに青い。

 

「怖い?」

 

 問い方が、いつもより丁寧だった。

 

「怖いです」

 

 即答すると、ミサトさんは唇の端をわずかに上げた。

 

「そうね」

 

 笑われた感じはしなかった。確認されたのだと思う。

 

「シンジ君」

 

「はい」

 

「ここにいる大人ね、たぶん半分くらいは今も怖いわよ」

 

 ガラスの向こうで、マヤさんが端末を抱えたまま走っていく。日向さんが別の画面へ指を差し、青葉さんが何かの系統図を睨んでいる。リツコさんだけが席に座ったまま動かない。動かないくせに、まわりの流れが全部あの人へ集まっていく。

 

「でも止めないのは、覚悟があるからじゃない」

 

 ミサトさんは短く息をついた。

 

「止めたあとの責任の方が、もっと怖いから」

 

 その言い方は意外だった。

 格好いいことを言うのかと思っていた。『みんな信じてる』とか、『やるしかない』とか、そういうまっすぐな言葉を。

 

 でも実際に出てきたのは、怖さの比較だった。

 

 それが妙に現実的で、少し気が楽になる。

 

「……だったら、僕が外したら最悪ですね」

 

「そうね」

 

 あっさり言う。

 

「だから外さないで」

 

「ひどい」

 

「冗談」

 

 言ってから、ミサトさんはひと呼吸置いた。

 

「半分は」

 

 その半分が本気なのだと分かる。

 でもその本気を受け取る前に、彼女はもう歩き出していた。

 

「発進十分前。レイは先に降りてるわ。あなたも行きなさい」

 

 補助通路を抜けると、搬送路の空気はひどく乾いていた。人が減ったぶんだけ、地下の風の匂いがする。鉄と油と埃の匂い。その向こうに、零号機がいた。

 

 黄色い機体の足元に、綾波が立っている。

 前にも見たはずの光景なのに、今回は妙に遠かった。あまりにも前のことを知っているせいで、逆にこの一回が独立した時間として目に入ってこない。

 

「綾波」

 

 僕が呼ぶと、綾波は振り向いた。

 

「なに」

 

「……待たせた?」

 

「待ってない」

 

 短い返事だった。でも、前より声の温度が少しだけある。温度があること自体が不思議だった。

 

 零号機の脛の装甲に沿って、作業員が太いケーブルを通している。誰もこちらを見ていない。皆、やることが決まっている顔だ。そういう場所で立ち止まっている僕たちだけが、わずかに余分だった。

 

「綾波」

 

「なに」

 

「盾、無理するなよ」

 

 綾波は首をわずかに傾げた。

 

 言ってから、ずいぶん間抜けな忠告だと思った。無理をするための役割なのだ。無理をしない零号機なんて作戦に含まれていない。

 

 案の定、綾波はすぐには答えなかった。

 答えないかわりに、僕の顔を見た。見るというより、測るみたいな視線だった。

 

「あなたは、変」

 

「知ってる」

 

「今のも、変」

 

「そうだと思う」

 

「どうしてそんなことを言うの」

 

 問い返されて、僕は喉が少し詰まった。

 どうして。理由は簡単だ。あの盾の向こうで、君が焼かれるところを僕は知っている。知っていて、その痛みを一回見てしまっている。

 

 でも、そんなことをそのまま言えば、ただの気味の悪い人間だ。

 

「……君が、すぐそういうことを平気な顔でやるから」

 

「無理をしないと、あなたが撃てない」

 

「そういう意味じゃなくて」

 

「分かってる」

 

 分かっているようには見えない。でも、前よりは分かろうとしている響きがあった。

 

「あなたは、怖いままでも乗るって言った」

 

「うん」

 

「私もそうするだけ」

 

 淡々とした声だった。

 でも、前ならもっと空っぽに聞こえたと思う。今は違う。彼女なりに、自分の言葉を探している響きがわずかに混ざっている。

 

「それに」

 

 綾波は零号機を見上げた。

 

「あなたが撃てないと、困る」

 

 その一言で、妙に呼吸が通った。

 使命感でも何でもない。必要だと言われたから楽になるほど、僕は単純じゃない。けれど今の言い方は、命令じゃなかった。少なくとも、僕だけを撃つための部品と見て言った声ではなかった。

 

「……分かった」

 

「そう」

 

 それで会話は切れた。切れたのに、前より遠くならなかった。

 

 発進直前、初号機へ乗り込む僕を見送るミサトさんの顔は、相変わらず忙しそうだった。忙しそうで、でも目だけはひどく静かだ。

 

『シンジ君、聞こえる?』

 

「はい」

 

『今さらだけど、失敗したらごめんね』

 

「今さらですよ」

 

『でしょう?』

 

 笑う。その笑い方のまま、別回線へ指示を飛ばす。わざとだ。緊張しているのを見せないための調子だ。発令所にいる大人たちの半分は、たぶん皆そうだ。

 

『送電準備、全段階終了。初号機、狙撃位置へ』

 

 夜の第三新東京市へ初号機が立つ。

 

 街は黒い。昼間なら目に入るはずの看板も、窓の明かりも、全部沈んでいる。そのぶん、遠くの山の稜線と、その向こうに浮かぶ使徒の幾何学的な輪郭だけがやけに鮮明だった。

 

 見た目は、どこか綺麗ですらある。

 透き通った青。多面体。人間の都合とは無縁みたいに完璧な形。

 

 でもあれは、こちらの街も、人も、時間も、全部ただの障害物としてしか見ていない。

 そう思うと、綺麗だと思ってしまった自分ごと気持ち悪かった。

 

『シンジ君、狙点固定。呼吸合わせて』

 

 グリップを握る。掌が汗ばんでいた。LCLの中なのに喉が乾く。

 

 撃てる。

 撃てるはずだ。

 

 でも、撃つことと当てることは違う。

 当てることと、守れることも違う。

 

 カウントが始まる。

 

 遠く離れた電力施設が、一つずつ光を落としていく映像がサブモニターに映る。街が暗くなる。県境が暗くなる。山の向こうの光まで吸い上げられて、全部がこの一発のためだけに集まってくる。

 

 そんな無茶苦茶なことが、本当に起きている。

 

 僕は歯を食いしばった。

 ここまでしてもらって、撃てませんでした、なんて顔はできない。

 

『三、二、一――』

 

 引き金を引いた。

 

 陽電子砲の反動が、腕から肩、背骨、奥歯まで一気に突き抜ける。光が夜を裂いた。使徒のコアを捉えたはずの一撃は、わずかに逸れて砕け、同時に使徒の反撃が走る。

 

 前と同じ。

 

 前と同じだと理解した瞬間、恐怖より先に時間の感覚だけが鋭くなる。

 

『外れた! 再装填急いで!』

『目標、第二射をチャージ中! 掘削継続!』

 

 サブモニターの隅で、使徒の錐が山肌の向こうへ沈んでいく。装甲帯を穿ち、そのまま地下へ届こうとしている動きだった。

 

『反撃来るわよ!』

 

 零号機の盾が前へ出る。青白い光。熱。画面の端が飽和しかける。

 

「綾波!」

 

 叫んだところで何も変わらない。変わらないのに、叫ばずにいられなかった。

 

『シンジ君、照準戻して! 二射目で止めるの!』

『無理です! 零号機が――』

『だからよ! 今動いたら、レイの前に光を通すだけ!』

 

 分かってる。

 分かってるのに、グリップへ戻した手が震える。

 

 盾はもう盾の形をしていない。焼けて、崩れて、そこにいたはずの綾波まで光の一部に溶けそうだった。

 

『再装填完了まで三秒!』

『使徒、第二射臨界!』

 

 三秒。

 その三秒が、ひどく長い。

 

 助けに行きたい。

 今すぐ走りたい。

 でもここで撃てなければ、綾波を焼いて終わる。街まで穿って終わる。

 

「……撃つ」

 

 熱で滲む照準の中心へ、青い多面体をもう一度押し込む。

 泣きそうになる。泣いている場合じゃない。撃つしかない。

 

『二、一――今!』

 

 引き金を引いた。

 

 第二射が夜を貫く。

 盾の縁をかすめた光が使徒の中心へ突き刺さり、青い結晶の輪郭へひびが走る。掘削の錐が止まる。反撃の熱が、遅れて断ち切られる。

 

『命中!』

『パターン青、消失!』

『ドリル停止を確認!』

 

 警報を聞き終える前に、初号機は走っていた。

 走っているのが僕なのか、機体なのか分からない。とにかく前へ出る。装甲越しでも熱い。いや、熱いなんて言葉じゃ足りない。世界そのものが炉の中へ入ったみたいに白い。

 

 零号機の周囲の空気が歪んでいる。盾はもう盾の形をしていない。焼けて、崩れて、そこにいたはずの綾波まで光の一部に溶けそうだった。

 

『シンジ君、待って! 放射熱が――』

 

 ミサトさんの声を無視した。

 無視するしかなかった。

 

 エントリープラグのハッチへ手をかける。焼ける。指の感覚が薄れる。手袋の内側で皮膚が縮むような嫌な痛みが走る。それでもやめられない。

 

 開ける。

 

 中から噴き出した熱気に、思わず目を閉じた。

 その一瞬で、終わるかもしれないと思う。

 終わるとしたら、それは僕のせいだ。

 

「綾波!」

 

 手探りで引き寄せた体は軽かった。

 軽すぎて怖い。生きている人間の重さが、こんなに頼りなくていいはずがない。

 

 抱き起こす。顔を覗く。睫毛が焦げている。頬に煤がついている。呼吸は――ある。浅いけれど、ある。

 

「生きてる?」

 

 自分でも馬鹿な問いだと思う。抱き上げた時点で、少なくとも完全には終わっていない。なのに、それを確かめずにはいられなかった。

 

「……あなた」

 

 声が返る。

 

 その瞬間、肩から先の力が全部抜けそうになった。安堵と痛みが一緒に来て、うまく立っていられない。熱で涙が出たのか、それとも別の理由か、もう分からなかった。

 

「どうして、泣くの」

 

 綾波が言う。

 

 前にも似た問いをされた記憶がある。前の僕は、その場でうまいことを言えた気がする。今は駄目だった。うまいことなんて何も出てこない。

 

「怖かったから」

 

 それだけで精一杯だった。

 

「……そう」

 

 綾波はしばらく僕を見ていた。赤い目の焦点が、熱に揺れる。僕の泣きそうな顔が映っているのが分かる。

 

「そういう時」

 

 うまく言葉が出てこない。

 前に何と言ったかは覚えている。覚えているのに、そのままなぞるのがずるい気がした。

 

「そういう時は、笑ってくれると、助かる」

 

 綾波は首をわずかに傾げた。

 すぐには意味が分からなかったのだろう。

 

 それから、ほんのわずかに口元を動かした。

 

 前よりずっと小さい笑みだった。

 でも、それで十分だった。

 

 戦闘終了後、発令所は静かにうるさかった。

 

 歓声を上げる人はいない。けれど、皆が明らかに息を吐いている。端末を持つ手が少し遅くなり、マヤさんが椅子へ座り込むようにして肩を落とし、日向さんが資料を取り落としかけ、青葉さんが珍しく天井を仰いだ。

 

 ミサトさんだけが、最後まで背筋を伸ばしていた。

 伸ばしたまま、でも、通信が切れた瞬間にほんの少しだけ机へ手をついていた。

 

「初戦より危ないじゃない」

 

 愚痴みたいに言う。

 怒っているというより、安堵した反動で声が尖っている。

 

「でも、間に合った」

 

 リツコが淡々と返す。

 

「間に合ったわね」

 

 それだけの会話なのに、どこかでお互いの言いたいことはもう分かっている顔だった。

 

 リツコはその足で医務室へ回った。

 僕の診断結果と、零号機の損耗データを並べる。数値の上では作戦成功だ。成功なのに、気分は少しも良くなかった。

 

「シンクロ率、再上昇幅が大きすぎる」

 

 小さく呟くと、マヤが不安そうに顔を上げる。

 

「問題、ですか」

 

「問題じゃないように見えるのが問題」

 

 リツコは画面を指でなぞった。

 

「この子、恐怖反応はきちんと出てるのよ。でも、逃避より先に踏み込みへ変換してしまう。まともな防御本能の動きじゃない」

 

「でも、ファーストチルドレンも助かりました」

 

「ええ。だから余計に厄介なの」

 

 結果が出るたび、誰も止めづらくなる。

 だが数字の下では、碇シンジが少しずつ“自分を安く使う方向”へ馴染んでいくのもはっきり見えていた。

 

 夜明け前、入院用の簡易ベッドで眠るシンジを、ミサトは医務室の小窓越しに見た。

 

 眠っているのに、手は握られたままだ。何かを離したくないみたいに、あるいは何かを掴み損ねたままの形で。

 

「ほんと、子どもね」

 

 ぽつりと漏らす。

 

 それが軽蔑ではなく、むしろ救いに近い感想であることを、ミサト自身が一番よく分かっていた。

 

 十四の顔をしているうちは、まだ間に合うと思いたかった。

 

 

 

 

 

 * * *

 

 翌朝、学校の体育館は避難所の名残みたいな匂いがしていた。

 

 電力供給は戻ったはずなのに、廊下の蛍光灯は半分しか点いていない。昨夜運び込まれた簡易ベッドが壁際へ寄せられ、床にはまだ毛布の繊維が落ちている。誰かがここで一晩を過ごし、朝になって持ち場へ戻ったのだと分かる散らかり方だった。

 

「そこ、まだ濡れてる!」

 

 体育館の入口でヒカリが声を張る。モップを持った男子が慌てて方向を変え、ケンスケが床へ置いたラジオのアンテナを踏まれないよう持ち上げた。トウジは給水タンクの蛇口を締め直し、漏れた水を雑巾で受ける。

 

 ホームルーム前だというのに、みんな妙に忙しい。

 

「何してるの」

 

 僕が訊くと、ヒカリが一度も振り向かずに答えた。

 

「片付け。あと次の時のための確認」

 

「次の時」

 

「昨日だけで終わると思ってる?」

 

 正論だった。

 

 先生はまだ来ていない。なのに、体育館の鍵や毛布の返却表、給水タンクの残量まで、すでにヒカリのノートへ書きつけられている。ケンスケはラジオのダイヤルを回して雑音の入り方を確認し、トウジは折り畳み椅子を壁際へ揃えていた。

 

「碇、そっちの紙箱持って」

 

 ケンスケが顎で示す。

 段ボールの横には〈非常灯用電池〉と書いた紙が貼ってあった。中には単一電池と単三電池が雑多に入っている。昨夜、誰かが急いで集めたのだろう。

 

 持ち上げると意外に重かった。

 しかも角が手へ食い込む。持ち方を変えようとした瞬間、横からトウジが箱の底へ手を入れた。

 

「下から支えろ。そうせんと抜ける」

 

「うん」

 

「お前、ほんま箱の持ち方下手やな」

 

「そんなこと初めて言われた」

 

「初めて見たからや」

 

 言い方は荒いのに、手はちゃんと箱の重心へ入っている。二人で運ぶと、さっきまで肘へ食い込んでいた重さが少し散った。体育館の中央まで来ると、ヒカリがチョークで床へ四角い印を引いていた。

 

「電池箱はそこ。懐中電灯とラジオは右側。紙コップとポットは保健室側へ寄せる」

 

「何でそんな細かいの」

 

 ケンスケが半分呆れ、半分感心した声を出す。

 

「前にぐちゃぐちゃで探せなかったから」

 

 ヒカリはきっぱり言った。

 

「探すのに時間かかると、慌てるでしょ。慌てると、余計に散らかる」

 

 その理屈は分かる。分かるし、昨日の本部もそうだった。巨大な作戦でも最後は、どこに何を置くか、誰が持つか、どの順番で探せるかに戻っていく。

 

 体育館の隅では、綾波が保健の先生と一緒に毛布を畳んでいた。昨日まで寝台にいた人とは思えないくらい静かな手つきで、毛布の端と端を合わせていく。僕が近づくと、一度だけ視線を上げた。

 

「もう動いて大丈夫なの」

 

「大丈夫ではない」

 

「じゃあ休んでた方が」

 

「でも、畳める」

 

 その返し方は綾波らしかった。できるかできないかでしか言わない。やる気や気分の話へ逃がさない。

 

 保健の先生が苦笑しながら言う。

 

「この子ね、じっとしてる方が落ち着かないみたいなの」

 

 分かる気がした。僕も何かを待っているだけの時間は苦手だ。待っている間に嫌な想像ばかり先へ行くからだ。

 

「碇君」

 

 ヒカリが名簿片手に近寄ってくる。

 

「校舎側の非常灯、三本切れてる。昼休みのうちに交換できる?」

 

「僕が?」

 

「ほか誰がやるの」

 

「言い方」

 

「言い方じゃないでしょ」

 

 容赦がない。

 でもその容赦のなさが、今日は少しありがたかった。

 

 昼休み、僕はケンスケと一緒に校舎の非常灯を回った。一本目は昇降口の上。二本目は理科準備室の前。三本目は屋上へ上がる踊り場。脚立を押さえ、古い電池を抜いて新しい物へ替える。どれも小さな作業だ。けれど交換し終えた灯りが白く点くたび、何かが少しずつ学校へ戻ってくる気がした。

 

「なあ」

 

 脚立の下でケンスケが言う。

 

「昨日の狙撃、すげえよな」

 

「すごくないよ」

 

「そういう答え方すると思った」

 

 ケンスケは少し黙ってから、ラジオのアンテナを縮めた。

 

「でもさ、すげえかどうかとは別に、助かったやつがいるのも事実だろ」

 

 返事に困った。

 

 昨夜助かったのは綾波で、街で、たぶん大勢の避難した人たちで、その全部を一つの言葉へまとめるには重すぎる。

 

「……昨日、体育館にいた親子がさ」

 

 ケンスケは続けた。

 

「電気戻った時、泣いてたんだよ。ラジオだけじゃよく分かんなかったって」

 

 脚立の上から廊下を見る。蛍光灯、非常灯、窓からの白い昼の光。普通すぎて忘れそうになるけれど、人が落ち着いて歩けるだけの明るさは、それだけで生活なんだと思う。

 

 放課後、ヒカリは黒板の端へ新しい表を貼った。

 毛布、給水、保健、放送。仮の当番表だ。まだ本当の避難が来ると決まったわけじゃない。それでも名前が入ると、ただの紙じゃなくなる。

 

「仮だからね」

 

 ヒカリは言い訳みたいに言った。

 

「訓練用。あくまで訓練」

 

「分かってる」

 

「ならいいの」

 

 分かっているのに、誰も笑わなかった。

 笑えるほど、この表が遠い物じゃないと知り始めていたからだ。

 

 * * *

 

 作戦が終わった翌日の夕方、僕は医務室の売店で紙袋を一つ買った。

 

 中身は、歯ブラシ、コップ、ガーゼの小箱、眼鏡拭き、それから缶入りのコーンスープ。売店の棚にある物だけで選ぶと、ひどく現実的な組み合わせになる。花や見舞いの菓子じゃなくて、寝たままでも使える物ばかりだ。

 

 自分で選んでおきながら、少し変な気がした。

 綾波に何を持って行けばいいか、僕はまだよく分からない。分からないから、生活に必要そうな物を持っていくしかなかった。

 

 病室の前には、マヤさんが立っていた。クリップボードへ薬の時間を書き込み、紙コップの残りを数えている。僕の持っている袋を見ると、一瞬だけ目を丸くした。

 

「お見舞い?」

 

「はい」

 

「助かる。ちょうどコップ切れそうだったの」

 

 花より先にコップが助かると言われる辺りが、ネルフの医務室らしい。マヤさんは袋の中身を一つずつ確かめ、コップとガーゼだけ先に受け取った。

 

「コーンスープは今は駄目。まだ普通食に戻してないから」

 

「そうなんだ」

 

「歯ブラシと眼鏡拭きは、そのまま渡してあげて。ファースト、そういうの自分から言わないから」

 

 言わない、の一言が妙に胸へ残る。

 綾波はたぶん、足りない物があってもそれを足りないと認識する前に諦めてしまうのだろう。痛いとか寒いとかと同じくらい、「足りない」も飲み込んでしまう。

 

 病室へ入ると、綾波は半身を起こしていた。包帯はまだ多い。けれど前みたいにベッドへ沈んだままではない。窓からの光が白いシーツへ落ち、枕元には水の入ったポットと、読みかけらしい薄い冊子が一冊だけ置かれていた。

 

「何を持ってきたの」

 

 いきなり核心から訊かれる。

 

「コップと歯ブラシと、あと」

 

 紙袋の中を見て、自分で少し気まずくなった。

 

「眼鏡拭き」

 

「眼鏡は壊れていない」

 

「知ってる。……でも、いるかなって」

 

 綾波は紙袋を見た。

 見てから、病室の棚へ視線を移す。たしかにコップは一つしかない。歯ブラシもない。あるのは紙パックの水と、病院が用意した寝間着だけだ。

 

「必要」

 

 短く言う。

 

「そう」

 

「ありがとう」

 

 それだけなのに、何だか変な所で肩の力が抜けた。渡した物が正解かどうかより、綾波が「必要」と言ったことの方が大きかった。必要な物を必要だと言う。たったそれだけのことが、この人には少し難しい気がしていたからだ。

 

 僕はベッド脇の小さな棚へコップと眼鏡拭きを置き、紙袋を折って丸めた。綾波はその手元をしばらく見ていたが、やがてぽつりと訊いた。

 

「あなたは、病院の物の場所をよく見るのね」

 

「そうかな」

 

「前から」

 

 たぶん、前の時間の癖だ。病院では紙コップが足りなくなる。湯のポットが空く。タオルが一枚だけ残る。そういう小さい不足が、気づくとひどく大きくなることを僕は知っている。

 

「足りないと困るから」

 

「何が」

 

「……色々」

 

 綾波は少し考え、それから棚の下を指した。

 

「そこ、開く」

 

 言われてしゃがむ。ベッド横の収納には、未使用のガーゼが二枚と、包帯留めのテープ、封も切っていない紙コップの束が入っていた。つまり、足りていないわけではなく、足りていることを誰も外へ出していないだけだった。

 

「分かりにくいね」

 

「でも、ある」

 

「そうだね」

 

「あるのに、ないと思うのは、よくない」

 

 叱られたわけじゃない。けれど、自分の癖を軽く見抜かれた感じがした。僕は何かが足りないとすぐ思う。先に最悪を想像する。たしかに、それで救われたこともある。けれど、そればかりだと棚の下に最初から入っている物まで見落とす。

 

 その時、病室の扉が少しだけ開き、ヒカリが顔を出した。両手に名簿と小さなビニール袋を持っている。中にはプリントとノート、使いかけの消しゴム。完全に見舞いの荷物というより、学校の不足分を届けに来た人の顔だ。

 

「あ、いた」

 

 まず僕へ言い、それから綾波へ視線を移す。

 

「先生がノートだけでもって。授業の分、後で写せるように」

 

 ベッド脇の棚へノートを置き、ヒカリは紙コップの束に気づいて眉をひそめた。

 

「それ、下にしまってあると分かりにくいわね」

 

「うん」

 

 綾波が短く返す。

 

「出しておく」

 

「そうした方がいい。あと、温かいの飲める? 保健の先生が魔法瓶一個なら使っていいって」

 

 話し方はいつも通りきついのに、視線の置き方だけは妙に丁寧だった。名前を呼び、要る物の順番を出して、返事を待つ。ヒカリはこういう時、自分の不安を全部秩序へ変える。

 

「飲める」

 

「じゃあ明日持ってくる」

 

 それで用件は終わったらしい。ヒカリは名簿へ短くメモを書きつけ、僕の方へ向き直った。

 

「碇君、帰りに売店寄るなら、紙テープ買ってきて。保健室の在庫切れそうだから」

 

「分かった」

 

「あと、ラジオは持ち込まないで。静かな方がいい時もあるから」

 

「はい」

 

 ヒカリはそれだけ言って出ていく。扉が閉まると、病室にはまた静かな機械音だけが残った。

 

「委員長って、順番を決めるのが上手いね」

 

 僕が言うと、綾波はわずかに目を伏せた。

 

「あなたも、物を置く順番は考える」

 

「そうかな」

 

「さっき、コップを手前に置いた」

 

 言われて初めて気づいた。たしかに歯ブラシより先に、手の届く位置へコップを置いた。寝たままで取れるように、という無意識の手つきだった。

 

 綾波はその手つきを見ていたのかもしれない。

 

「ありがとう」

 

 今度は少し間を置いて言われた。

 最初の「必要」より、二度目の「ありがとう」の方が、なぜかずっと重かった。

 

 病室を出たあと、僕は売店で紙テープと小さな魔法瓶を買った。紙袋の中には、コップの代わりに今度は記名用のマジックが入る。見舞いに来たのか、補給に来たのか、もう自分でも少し曖昧だった。

 

 たぶん、その曖昧さの方が正しいのだと思う。

 誰かを大事にする時、人はたいてい花束より先に、コップやタオルや名前を書くための紙テープを持って歩くのだ。

 帰り際、僕は保健室へ魔法瓶を届けた。昨日売店で買ったものだ。紙コップの束と並べると、棚の上が少しだけ病院の備えみたいになる。

 

「また持ってきたの」

 

 保健の先生が少し驚く。

 

「学校でも使えるかなって」

 

「使えるわよ。むしろ助かる」

 

 そう言われて、僕はようやく息を吐いた。使徒戦の翌日にできることなんて大したものじゃない。それでも、毛布を畳むことや電池を替えることや魔法瓶を置くことくらいなら、今の僕にもできる。

 

 体育館の扉を閉める前、ヒカリが一度だけ背中越しに言った。

 

「碇君。今日、片付いたから」

 

「うん」

 

「昨日より、次はもう少しまし」

 

 次が来る前提の言い方だった。

 でも、その前提ごと消してしまえるほど、僕たちはまだ強くない。

 

 だから僕は、うまく頷くしかなかった。

 

 

 その夜、本部の補助倉庫では、マヤさんが延長ケーブルを巻き直していた。昨日の狙撃に使ったものだ。長さごとに束ね、使用済みのタグを外し、次にどこへ運ぶかを書き直す。勝った後の作業というより、また同じことが起きる前提の手つきだった。

 

「使わないで済めばいいのにね」

 

 思わず口に出すと、マヤさんは少し困った顔で笑った。

 

「そうですね。でも、使わないで済めば一番いい物ほど、使う時は急に来るから」

 

 その横で日向さんが、学校と病院へ回す非常回線の簡易表を折っていた。大きな地図は机の上では役に立つけれど、走りながら見るには大きすぎる。だからポケットへ入る大きさへ畳み直す。

 

 奇跡の翌日に残るのは、こういう畳み目なのだと思う。

 撃ち抜いた光より、巻き直したケーブルの方が長く残る。そういう順番でしか、人の生活は次へ繋がらないのかもしれなかった。

 

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