ヤシマ作戦のあと、何日かだけ、不自然に静かな時間が続いた。
静かだと言っても、世界が平和になったわけじゃない。ただ、使徒が来ないだけだ。
学校へ行く。帰る。ネルフでテストを受ける。ミサトさんの分まで夕食を作る。ペンペンに魚を盗まれて怒る。夜になると、あの日の光を思い出す。
そんな当たり前の繰り返し。
当たり前のくせに、少しずつ慣れてきてしまう。
それが怖かった。
前の僕だって、慣れてしまったのだ。エヴァに乗ることに。学校があることに。家に帰れば誰かが居ることに。怒られることに。褒められることに。そういう全部に、いつの間にか慣れて、それを失う時だけ泣くようになった。
だから、慣れたくなかった。
慣れたら、また同じ目に遭う気がしたから。
「シンジ君、今度の日曜空いてる?」
朝食の席で、ミサトさんがそんなことを聞いた。
トーストを咥えたまま顔を上げる。
「テストですか」
「やあねえ、そういう反応。違うわよ」
「じゃあ買い出し?」
「それでもない」
ミサトさんはわざとらしく溜めて、びしっと僕を指差した。
「デートよ」
「は?」
「嘘だけど」
「紛らわしいなあ」
「技術発表会みたいなもの。日本重化学工業共同体が新型兵器のお披露目をするのよ」
嫌な予感がした。
予感というより、記憶だ。
ジェットアローン。
エヴァに頼らず、人が人の手だけで造った巨大ロボット。あの時の僕は、あれを見て少しほっとした。僕が居なくてもいいかもしれないと思えたからだ。
同時に、少し嫌だった。
僕の代わりが居るなら、じゃあ僕は何なんだろうって思ってしまったから。
結局、自分でもどうして欲しいのか分かっていない。
「行かないと駄目ですか」
「顔が嫌すぎるでしょ。仕事だから諦めなさい」
「仕事なのはミサトさんでしょ」
「保護者同伴の社会科見学でもあるの」
「嫌な見学だなあ」
「そんなこと言わない」
そう言われても、嫌なものは嫌だった。
でも断れないのも知っていた。
日曜、僕はミサトさんに連れられて山の方へ向かった。途中、ケンスケとトウジを拾ったのは、前と少し違った。たぶんミサトさんなりに、僕がそういう場所を一人で嫌がると思ったのだろう。余計なお世話だと思う半分、ありがたい半分だった。
「すげえ! ほんまに本物見れるんか!」
「男の夢だよな、巨大ロボット!」
ケンスケとトウジは朝からうるさかった。
でもその無邪気さが、少し羨ましかった。兵器を兵器としてではなく、まだ“かっこいいもの”として見られる目を、僕はもう持っていない。
会場に着くと、僕はますます機嫌が悪くなった。
広い。綺麗。お金がかかっている。白いパネル。整列した職員。マイクの通る声で未来を語る大人たち。
前にも見た。見たから分かる。
ここでは誰も、本気で人の命の話なんかしていない。
しているつもりなのは分かる。
でも、ここで語られる命は、数字や確率や安全性評価の中に入った命だ。操縦席に座って汗をかく命じゃない。血の臭いを嗅ぐ命じゃない。
僕はそういうのが、嫌いだった。
「なんか、思ってたより地味やな」
トウジが言う。
「そうか? こういう近未来感、最高じゃないか」
ケンスケは目を輝かせていた。
僕は二人の後ろで、ぼんやりと展示資料を眺めた。
無人でも安全。人類の新たな可能性。人的損耗の削減。
どれも正しい。
正しいのに、腹が立つ。
人的損耗の削減。
その言葉の中に、僕みたいな子供が最初から含まれていない感じがするからだ。
エヴァに乗るのは、人じゃないのか。
少なくとも、こういう場所で言う“人”には含まれていないんじゃないか。
「シンジ君?」
「え?」
ミサトさんが顔を覗き込んでいた。
「酔った?」
「別に」
「ならいいけど」
良くない。
目の前に立っているジェットアローンは、あまりにも綺麗だった。エヴァみたいに禍々しくない。血の色も、歯も、目もない。ただ巨大で、重機みたいに無骨で、人の理屈の中に収まっている顔をしている。
こういうのが本当なんだろうと思った。
兵器って、たぶん本来こういうものだ。
中に誰かの心なんて入っていない。母さんの匂いもしない。泣き声みたいな軋みもしない。
ただ動いて、止まる。
それでいい。
それでいいはずなのに。
「これで良かったのかもしれないな」
ぼそっと呟いたら、隣にいたミサトさんが聞き返した。
「何が?」
「こういうのがまともに動くなら」
「……エヴァが要らないって?」
「うん」
あっさり認めると、ミサトさんは一拍置いた。
怒るかと思った。でも怒らなかった。
「そうね」
意外な声だった。
「動くなら、その方がいい」
「え?」
「だってそうでしょ。子供を前線に出すよりは、よっぽどマシ」
冗談めかした調子じゃなかった。ほんの少し疲れた、大人の声だった。
その声を聞いた瞬間、僕は少し恥ずかしくなった。
僕は自分が要らなくなることばかり考えていた。ミサトさんは、最初から僕が乗らなくてよくなる可能性の方を見ていた。
比べると、ずいぶん子供っぽい。
でも、子供なんだから仕方ないとも思う。
だって、実際に乗っているのは僕なのだ。
自分の居場所が消えるかもしれないとか、価値がなくなるかもしれないとか、そういうのを気にするのは当然だろう。
そうやって自分で自分を庇っている時、デモンストレーションが始まった。
最初は何事もなかった。
機体がゆっくり立ち上がり、ぎこちないけれど確実に歩く。拍手が起こる。技術者たちの顔がほころぶ。ケンスケが身を乗り出す。トウジが「おお」と声を上げる。
その時だった。
警報。
空気が変わる。
前にも見た。胸の奥が嫌なふうに冷える。
制御不能。
暴走と言っていいのかどうか分からない。ジェットアローンはただ進む。止める命令を無視して、原子炉を積んだまま都市へ向かう。
会場がざわつく。
責任者たちが怒鳴る。
ミサトさんが走り出す。
「ちょっと!」
僕は反射的にその腕を掴んだ。
「行っちゃ駄目だ!」
「でも止めなきゃ!」
「だからって!」
言い返しかけて、僕は一瞬止まった。
前の僕はここで、結局見送った。止められなかった。
今の僕は、前より少し知っている。
ミサトさんは止めに行く。危ない橋を渡る。助かる。
でも――。
でも、もし少しでも違ったら?
僕が前より少し違うせいで、結果まで変わったら?
その可能性が急に現実味を持って、背骨の裏が冷えた。
「シンジ君、放して」
「嫌です」
「放して!」
「死ぬかもしれないんだよ!」
思ったより大きな声が出た。
ミサトさんの顔が変わる。
周りの人たちも、一瞬だけこっちを見た。
静まり返ったみたいな数秒のあと、ミサトさんは低い声で言った。
「死ぬかもしれないから、止めに行くの」
その言葉に、僕は何も言えなくなった。
正しい。
正しいけど、嫌だった。
僕はミサトさんに死んでほしくない。正しさで死んでほしくない。大人の仕事だからって死んでほしくない。
そんなの、あまりにも嫌だった。
結局、僕の手は離れてしまった。
ミサトさんは走る。
僕は追えない。
ケンスケもトウジも何か叫んでいる。でも僕にはほとんど聞こえなかった。
見ているしかない。
それが一番嫌だった。
エヴァに乗れば少なくとも前へ出られる。ここではそれすら出来ない。人が人の手だけで造った機械は、僕の知らない理屈で壊れ、僕の知らない理屈で止まる。
嫌だと思った。
こんな時にまで、自分が役に立てないことを嫌だと思う自分が。
数分後、ジェットアローンは止まった。
大事故にはならなかった。
歓声も、安堵のため息も、全部遠くに聞こえる。
ミサトさんが戻ってきた時、僕はまともに顔を見られなかった。
「無事でよかった」
ようやくそれだけ言うと、ミサトさんは苦笑した。
「ほんとにね」
「どうして行ったんですか」
「行くしかなかったから」
「そういうの嫌いです」
「知ってる」
知ってるのか。
だったらもっと、違う言い方をしてほしい。
でもそんなの、ただの我儘だ。
帰りの車で、ミサトさんはしばらく無言だった。トウジとケンスケは後部座席で興奮気味に今日の話をしていたけれど、その声もだんだん小さくなり、やがて眠ってしまった。
車内にはエンジン音だけが残る。
「シンジ君」
「はい」
「今日、ちょっとだけ安心したでしょ」
心臓が跳ねた。
「何がですか」
「ジェットアローンがうまく行けば、自分が乗らなくて済むかもしれないって」
否定できなかった。
「……うん」
「それでいいわよ」
「え?」
「そう思うの、普通だもの」
ミサトさんは前だけを見ていた。
「乗りたい子なんてそういない。乗らなくて済むなら、その方がいいって思うに決まってる」
「でも、僕は……」
「うん」
「少しだけ、別のことも思いました」
「別のこと?」
「こういうのがまともに動くなら、僕が要らなくなるかもって」
言ったあとで、ひどくみっともないと思った。
でもミサトさんは笑わなかった。
「それも普通」
「そうかな」
「普通よ」
そこで一度だけ、ミサトさんは僕を見た。
「だってシンジ君、まだ十四だもん」
その言い方が、少しだけずるかった。
十四歳だから仕方ないと言われると、救われるような、馬鹿にされてるような、両方の気分になる。
でもたぶん、今は救われたかった。
「ジェットアローンが動こうが動くまいが、エヴァがなくなるわけじゃない」
「うん」
「それでもね、人の手で何か作ろうとすること自体は、悪いことじゃないのよ」
「……分かってます」
分かっている。分かっているつもりだ。
人が人の手で造ったもの。人の都合で動くもの。人の責任で壊れるもの。
それはたぶん、エヴァよりずっと健全だ。
エヴァは人が造ったくせに、人の理屈の外に足を突っ込んでいる。だから嫌だ。母さんがいるから安心するなんて、そんな矛盾した感覚に慣れたくない。
家に帰ると、僕は台所に立って味噌汁を作った。
いつもの手順。出汁。豆腐。わかめ。ネギ。
包丁を動かしていると、少し落ち着く。切る、煮る、味を見る。そういう順番は嘘をつかない。
後ろでミサトさんが缶ビールを開けた。
「ねえシンジ君」
「なんですか」
「今日、あたしが行くの止めた時」
「うん」
「ありがとう」
手が止まった。
「止められたのに?」
「うん。止めようとしてくれたから」
そういうところだ。
そういう言葉のかけ方が、この人はずるい。
止められなかったことばかりが僕の中に残っていたのに、相手は“止めようとしたこと”の方を拾ってくる。
それをされると、簡単には自分を嫌い切れない。
「……要らなくならない方が、いいですか」
僕は鍋を見たまま聞いた。
ミサトさんは少し考えてから答えた。
「そういう質問されると困るわね」
「なんで」
「シンジ君個人と、エヴァの必要性が、ごっちゃになってるから」
何も言えなかった。
たしかにそうだ。
僕はいつもそこを混ぜる。
エヴァが必要なら僕も必要。エヴァが不要なら僕も不要。そんな短絡で、自分の価値を測ろうとする。
でも本当は違う。
違うのに、違う形で認められる自信がないから、すぐそっちへ逃げる。
「エヴァなんて、本当はない方がいい」
ミサトさんが言う。
「あんなの要らない世界の方が、絶対まとも」
「うん」
「でも、シンジ君まで要らないとは、あたしは思ってない」
味噌汁の湯気が上がる。
目にしみたのが、湯気のせいなのかどうかは、分からなかった。
その夜、布団に入ってからもしばらく眠れなかった。
ジェットアローンの鈍い輪郭が、エヴァと重なる。
人が造ったもの。
人が造り、人が責任を取るもの。
もし本当にそんな兵器だけで世界が守れるなら、その方がいい。絶対にいい。
でも僕は、たぶんそれだけじゃ足りないとも知っている。
人が造ったはずのものの中に、人が捨てたものや、捨てきれなかったものが入り込んでしまう。
父さんはそういうものを利用する。
母さんはその中にいる。
僕はその中で守られた気になっている。
気持ち悪い。
それでも、あそこに母さんがいると思うと、少しだけ安心してしまう。
ジェットアローンには、そういう温度がなかった。
だから正しい。
だから羨ましい。
羨ましいのに、あれに全部任せたいとは思い切れない自分が、やっぱり気持ち悪かった。
* * *
ジェットアローン事件の処理が一段落したあと、リツコは戦闘データとは別のグラフを開いていた。
都市被害推移。
避難完了率。
エヴァ各機シンクロ率の短期変動。
使徒側の初動パターン偏差。
数字だけ見れば、碇シンジが来てから幾つかの項目は改善している。初動が早い。避難完了もわずかに早い。発令所が「来る」と判断するより先に、ミサトが都市側へ圧をかけるようになったからだ。原因は簡単で、碇シンジが妙に“嫌な予感”を口にするからだった。
だが良いことばかりでもない。
「面白いわね」
リツコが言うと、マヤが端末を覗き込んだ。
「何がですか」
「使徒の方も、こちらが早いと分かっているみたいに初動が詰まってきてる」
「学習、ですか」
「学習というより、接触条件の変化ね。こちらが変われば、向こうも別の顔を見せる」
最初の使徒は開幕の光条が早かった。
ヤシマ作戦時の狙撃目標は、旧シミュレーションより照射サイクルが短い。
大勢を覆すほどではない。
だが「前に見た通りに来る」と思い込めるほど同じでもない。
「シンジ君が何か知ってるって話、本当なんでしょうか」
マヤが小声で言う。
その言い方は冗談半分だったが、リツコは笑わなかった。
「知っているつもりで動いてる人間の顔はしてるわね」
「え?」
「ただ、未来予知みたいな綺麗なものじゃない」
シンジのデータに表示される一時的なシンクロ上昇を指でなぞる。
「この子、相手に合わせて深く潜る才能はある。でも安定して強いんじゃない。自分の身を軽く見積もった瞬間だけ、異様に深く行ける」
それは適性と呼べるのか、リツコにはまだ答えが出ない。
エヴァは、乗る者の心の罅に反応する。
ならばこの少年は、最初から罅が深いだけなのかもしれなかった。
「強い、んでしょうか」
マヤが訊く。
「強く見える時はあるわ」
リツコは少し考えてから言った。
「でも、ああいうのは“強い”とは少し違う。壊れる位置が、他の子より深いだけ」