埠頭の待機区画は、朝から油と海水の匂いが濃かった。
弾薬箱みたいな無愛想なケースがいくつも積まれ、その間を制服でも作業着でもない大人たちが忙しく行き来している。トウジとケンスケはそのたびに首を振って、どこを見ればいいのか分からない子どもみたいな顔になった。
「空母ってほんまに空母なんやな」
トウジが今さらみたいに言う。
ケンスケはもう双眼鏡を首から提げていた。どこで用意したのか聞くまでもない。
「いやそこ? まず甲板構造だろ。エレベーターの位置と誘導灯の並び方、写真で見るのと全然違うぞ」
「お前は黙れ。船乗る前から酔わせるな」
「ヘロゥ、ミサト!」
声も立ち方も派手だった。甲板の風を真正面から受けているのに、見られることに慣れた人間の姿勢で、まるで自分のために景色があるみたいに立っている。
「紹介するわ。エヴァ弐号機専属パイロット、惣流・アスカ・ラングレー。セカンドチルドレン」
ミサトさんの言葉より少し早く、アスカの視線がトウジ、ケンスケ、僕の順に流れた。
「ふぅん。あんたがサードチルドレン?」
「……そうだけど」
「反応うす」
「初対面でそれ?」
「何よ。事実でしょ」
感じが悪い。けど、その感じの悪さまで含めて、そこにいることがやけに眩しかった。
荷物の引き渡しが始まる。赤いハードケースが一つ、灰色の布カバーを掛けた縦長の荷物が一つ、小さめのキャンバス地の鞄が二つ。タグにはドイツ語と英語が混ざっていて、どれも今この場には少しだけ派手だった。
僕が赤いケースへ手を伸ばしかけた瞬間、アスカの声が飛ぶ。
「それ、勝手に触らないで」
反射で手を引っ込める。アスカは荷物と僕の手元とをひと息で見比べた。
「赤いのは機材。縦長いのはプラグスーツ関係。灰色の袋は横にしない。小さい方は私物。触る前に聞く」
「最後のだけ、急に大事になったね」
「当たり前でしょ」
加持さんがその横から、困ったようでいて全然困っていない笑い方を差し挟む。
「アスカ、歓迎の第一声としては減点だな」
ローター音の向こうから、手を振ったのは加持さんだった。
「よう、久しぶりだな葛城」
「か、加持ぃ!?」
その横から、赤いワンピースの少女が一歩前へ出る。
「加持さんは黙って。雑に積まれるくらいなら最初から自分で見た方が早いの」
言いながら、アスカはハードケースの向きを自分で直した。留め具の位置を確認し、灰色のカバーを引き寄せ、床へじか置きされていた小さな鞄だけはさっと自分の足元へ寄せる。その手つきに迷いがない。怒っているというより、自分の物の置かれ方を自分で決めることに慣れているのだと分かった。
灰色の袋が甲板の継ぎ目へ少しかかっているのが見えて、僕は倒れないよう底を支え直しかけた。
その瞬間、アスカの手が先に来る。
「だから、触る前に聞く」
「倒れそうだったから」
「見れば分かるわよ」
アスカは僕の手元を一度だけ見て、すぐ荷物へ視線を戻した。
「でも、分かったみたいな顔で先回りされるのは別」
少しきつい言い方だった。けれど彼女の荷物の置き方には、ただの神経質で済まない切実さがあった。何がどこにあって、誰がどう触るか。その順番を自分で握っていたいのだ。
ミサトさんが名札ホルダーを配りながら僕を見る。
「シンジ君、その筒だけ持って」
渡されたのは海図を丸めたケースと、金属の水筒だった。ついでに赤いケースにも手を伸ばしかけると、アスカがすぐ止める。
「持ちすぎ」
「これくらいなら」
「甲板で転んだら中身もあんたも終わる。海図と水筒だけでいい」
言い切ってから、自分で赤いケースの取っ手を掴み直す。細い腕なのに、重さの配分がうまい。片側へ流れそうになるケースを一度膝で支え、もう片方の荷物を肩へ掛け直すと、それだけで重心が落ち着いた。
加持さんが半分笑いながら肩をすくめる。
「ほら見ろ。もう仕切ってる」
「仕切らないと誰もまともに積まないでしょ」
アスカは僕の方をちらりと見た。
「ぼさっとしてないで、持つなら持つ。見てるなら見てる。中途半端が一番邪魔」
その言い方は感じが悪い。でも、今この場で誰が何を持つかを一番先に決めているのが彼女なのも事実だった。
僕は海図ケースを抱え直し、水筒を腕へ通した。風が強い。手を離したらすぐ転がっていきそうで、そういう当たり前の危うさがいやに現実だった。
「じゃ、乗るわよ」
ミサトさんが言う。
その一声で、荷物と人の流れがいっせいに動き始めた。
輸送ヘリの中は、思ったよりずっと騒がしかった。
「ほぉんと持つべきものは友達って感じだよな、なぁシンジ!」
ケンスケが窓へ顔をくっつける。トウジは吐きそうな顔のくせに、外を見ようと肘で押してくる。二人とも元気だ。元気すぎて、同じ機体の中にいる僕だけが少し浮いて見える。
僕は曖昧に相槌を打ちながら、シートベルトの金具を何度も指先で確かめた。
落ち着かない時にこういうことをする癖は、前にはなかったはずだ。あるいは、前はそれどころじゃなくて気づかなかっただけかもしれない。
前の席で、ミサトさんが何度かこちらを振り返る。
笑っている。けれど観察している顔でもある。
(また“普通の中学生”をやってる)
そう思うと、少しだけ苦くなる。
碇シンジは最近、学校ではなるべく十四歳らしく振る舞おうとする。馬鹿話に付き合い、トウジとケンスケのゲーム屋通いに顔を出し、本屋で立ち読みをして、どうでもいい映画の話題にも乗る。
悪いことじゃない。むしろその方が健全だ。
けれど時々、それが“失った時間を取り返そうとしている大人”みたいに見える。
「シンジ君」
「はい」
「酔った?」
「まだです」
「まだってなによ」
その返しに、トウジとケンスケが笑う。
笑いが起きるたび、シンジの肩からほんの少しだけ力が抜ける。抜けるのに、完全には緩まない。その半端さが、ミサトにはいちばん心配だった。
* * *
海の使徒が現れた時、僕は最初から落ち着きを失っていた。
波が不自然に盛り上がる。艦が鳴る。警報が鳴る。大人たちの声が鋭くなる。
そこへアスカの声が重なる。
『サードも乗りなさい! いいから早く!』
弐号機のプラグの中は狭かった。近い。アスカの体温がすぐ横にある。その近さだけで、前の記憶が勝手に痛みへ繋がりそうになる。
「遅い!」
「分かってる!」
「分かってないから遅いの!」
怒鳴られながらも、僕は少しだけ救われていた。
アスカは今、目の前の戦いに苛立っている。僕ではなく、世界と戦うための声を出している。
それならまだ大丈夫だと思える。
でも戦闘が始まると、僕はすぐ駄目になった。
「アスカ、右!」
「うるさい!」
「そっちは沈むから!」
「指図しないで!」
上手くいくはずがない。
助言のつもりじゃない。ただ、失いたくないという焦りが先に口を動かしているだけだ。けれどアスカから見れば、初対面同然の男が自分の失敗を前提にして喋っているようにしか聞こえない。
アスカの気配が一瞬だけ固くなった。
今、何て呼んだの、と問う間もなく次の衝撃が来る。気のせいにした方が楽な場面だったのに、耳だけは嫌にはっきり拾ってしまった。
次の瞬間、使徒が海面を割って跳ね上がった。
弐号機の足場にしていた艦の甲板が大きく傾く。アスカが強引に姿勢を立て直し、別の艦へ脚を掛ける。その間にも海は落ち着かない。水の下に潜った影が、次にどこから来るか分からない。
『離艦! 足場捨てるわよ!』
「分かってる!」
分かっていないのは、むしろ僕の方だった。
前に見た海戦の順番が頭にありすぎて、いま目の前でずれる一秒ごとに息が詰まる。
使徒が再び潜る。
来る、と言うより先に、海の下から衝撃が突き上げた。弐号機の足元が消える。次の瞬間には、僕たちは丸ごと海へ引きずり込まれていた。
暗い。
水圧というより、音の消え方が怖い。
モニターの外の海は青く濁っていて、その中央で使徒の口だけがやけに白い。
『っ……離しなさいよ!』
アスカが弐号機の両腕を使って顎を押し返す。けれど噛む力の方が強い。装甲が軋み、警告が連続で鳴る。
『このままじゃ食い破られる!』
『ミサトさん!』
『聞こえてる! 損傷大の二隻を前へ! 自沈準備! 口の中へ砲撃する!』
無茶だと思う。
でも、この人の無茶はだいたい最後に現実へ変わる。
『サード! ぼさっとしてないで押さえなさい!』
「押さえてる!」
『全然足りない!』
アスカの言う通りだった。
僕は怖がって力の入れ方まで半端になっていた。喰われるかもしれない距離で、また失う方ばかり見ている。
駄目だ。
今のアスカはまだ死んでいない。目の前で怒鳴っている。この声に合わせなければ、先の記憶の方へ引きずられる。
「アスカ! 左を合わせて! 三つ数えたら開く!」
『……っ、指図しないで!』
「いいから! 一、二――」
反発が一拍だけ遅れる。
その遅れごと、僕は数え直した。
「もう一回! 一、二、三!」
今度は合った。
弐号機の両腕と、僕の補助の力が同じ方向へかかる。使徒の口が、ほんの少しだけ開く。
『艦首固定! 撃て!』
前方へ押し込まれていた二隻の艦が、開いた口の中へ主砲を叩き込む。
水中なのに、爆発の光だけが異様に白い。遅れて衝撃。使徒の輪郭が内側から裂け、弐号機の拘束が外れる。
『浮上する! 掴まって!』
アスカが叫ぶ。
弐号機が海面を蹴るみたいに上昇する。振り回された機体の中で、僕はやっと息を吐いた。
海面へ出た時、使徒はもう原形を保っていなかった。砕けた肉片と油膜のあいだで、沈めた二隻の残骸だけが遅れて燃えている。
戦闘が終わって甲板へ戻った時、アスカは勝った顔をしていなかった。
得意げになる代わりに、真っ先に僕の方へ来て睨みつけた。
「何なのよ、あんた」
「え?」
「さっきから、あたしがヘマるって決めつけたみたいな言い方ばっかりして」
「そんなつもりじゃ」
「じゃあ何よ」
アスカは一歩だけ詰めた。潮の匂いより近く、怒った呼吸が来る。
「まだちゃんと呼ばせてもないのに、何で平然と“アスカ”って呼ぶの」
言われて、息が止まった。
戦闘中の反射だった。反射だったからこそ、言い逃れができない。
「知ってるみたいな顔で先回りされるの、一番気持ち悪い」
答えられない。
君が死ぬところを知っている、なんて言葉は最悪だ。重すぎるし、今のアスカを見ていない。
僕が黙ると、アスカの顔はさらに険しくなった。
「ほらね。何にも言えないくせに」
* * *
移動の車中で、加持さんはバックミラー越しに二人を見ていた。
アスカは分かりやすい。見てほしい。褒めてほしい。勝っている所を選んでほしい。そういう要求が最初から前へ出る。扱いにくいが、読みやすい。
碇シンジの方は逆だった。
欲しがっているのに欲しがらない。近づきたいのに、手を伸ばした後の失敗だけを先に想像する。ああいう子どもは、大人からすると始末が悪い。
「大変だな」
加持が呟くと、助手席のミサトが嫌そうに眉を寄せた。
「他人事みたいに言わないで」
「他人事だからな」
「その“他人”が、火種を増やしてるのよ」
加持は肩をすくめた。
「アスカの方は昔からああだ。見てほしい、選んでほしい、褒めてほしい。ドイツにいた頃からずっとそうだ」
「分かってるわよ」
「シンジ君は逆だ。見てほしいくせに、見られると引く」
ミサトは小さく息をついた。
「近づきたい時に一番ひどい距離の取り方するのよね」
「似た者同士だ」
「冗談じゃない」
その否定が早すぎて、加持はかすかに笑った。
* * *
ミサトさんのマンションへ着いてからも、空気は最悪だった。
「今日から一緒に住んでもらうから」
その一言で、僕は思わず顔を上げた。
「……え」
「なによ、その嫌そうな顔」
アスカが即座に噛みつく。
「嫌っていうか」
「嫌なのね」
「違う」
「じゃあ何よ」
怖い、と言うしかなかった。
同じ家。襖一枚。台所。洗面所。前の世界で、そこまで近づいた先の壊れ方を僕だけが知っている。
でも、その恐怖はアスカには伝わらない。
「ふぅん」
アスカは露骨に顔をしかめた。
「こっちだって願い下げよ」
そう言いながら、荷物を置く動きだけはやけに雑だった。苛立っている。苛立っているけれど、その苛立ちの芯には少しだけ別のものが混ざっている。
たぶん、見られたくないのに見られてしまった気分だ。
夜、台所で水を飲んでいると、風呂上がりのアスカが出てきた。
髪の先から滴が落ちる。上気した頬。タオルを首へ掛けたまま、こちらを見て眉を寄せる。
「なによ」
「別に」
「別に、で見ないでくれる?」
慌てて視線を逸らす。遅かったらしい。
「……あんたさ」
アスカは冷蔵庫の前で立ち止まった。
「誰かと見間違えてる?」
心臓が一拍遅れた。
見間違えている。
生きている今のアスカと、最後に見たアスカを、僕はまだうまく分けられていない。
「してない」
嘘だった。
アスカはそれを見抜いたかどうか、すぐには分からない。ただ、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「じゃあ、知ってるみたいな顔で先回りしないで」
冷蔵庫の明かりが、濡れた髪の先だけ白くする。
「ちゃんと今のあたしを見なさいよ」
それだけ言って、部屋へ戻る。
襖が閉まる。冷蔵庫のモーターが低く鳴って、流しの蛇口から落ちた水滴が一つだけ金属を叩いた。
僕はコップを持ったまま、しばらく動けなかった。
* * *
布団へ入っても、アスカはすぐに眠れなかった。
サードチルドレン。
碇シンジ。
第一印象は最悪だ。変な沈黙。変な目。変な気の回し方。見透かしたみたいな顔をして、肝心な所では何も言わない。
でも海の上で、あいつはとっさに自分を“アスカ”と呼んだ。
聞き間違いかもしれない。
戦闘中で、そんなことを気にしている場合じゃなかった。
それでも、耳だけはしっかり覚えている。
「……何なのよ、ほんと」
天井へ向かって小さく吐き捨てる。
見てほしいのと、見透かされるのは違う。
気持ち悪い。
気持ち悪いのに、全部を嫌い切れない感じがして、それがいちばん腹立たしかった。
翌朝、洗面所から何度も小さな音がした。
ぱちん。
ぱちん。
ヘアゴムが切れる一歩手前みたいな、乾いた音だ。
僕は歯ブラシとタオルを持ったまま、洗面所の前でしばらく立っていた。ドアは少しだけ開いている。中ではアスカが鏡の前に立ち、濡れた髪を片手でまとめていた。まとめて、ほどき、また結ぶ。
「……何」
鏡越しに目が合った瞬間、言われた。
「待ってるなら待ってるって言いなさいよ。後ろで黙って立たれる方が気持ち悪い」
「ごめ――」
「それ禁止」
即座に切られる。
アスカは口にヘアピンを咥えたまま、もう一度だけ髪を結び直した。今度は気に入ったらしい。顎でドアの外をしゃくる。
「五分」
「うん」
「返事」
「分かった」
「最初からそうしなさい」
洗面所を出る時、アスカは僕の肩を軽く押して脇を抜けた。タオルの端が腕へ当たる。ほんのそれだけで、こっちは妙に息を止めてしまう。
「なによ、その反応」
「別に」
「別に、じゃない顔してる」
言い返せないうちに、アスカはリビングの方へ行ってしまった。
朝食は簡単だった。味噌汁、卵焼き、残りご飯。ミサトさんはまだ部屋から出てこない。寝坊か、寝たふりか、そのどっちかだ。
僕は何となく、椅子を一つあけて座っていた。自分でも理由は分からない。ただ、向かいでも隣でもない距離を、無意識に残していた。
アスカは食卓の前で一瞬だけ止まると、空いていた向かいの椅子を無視して、僕の右隣の椅子を引いた。
「そこ?」
思わず聞く。
「しょうゆ近いし」
それだけ言って座る。ほんの少し肩が近い。
「文句ある?」
「ない」
「ならいい」
アスカは僕の皿から卵焼きを一本取った。口へ入れて、すぐ眉を寄せる。
「甘い」
「朝の卵焼きだから」
「知ってる。知ってるけど甘い」
文句を言いながら、二本目には手を出さない。その代わり、自分の皿のブロッコリーをこっちへ押した。
「それいらない」
「交換」
「釣り合ってないだろ」
「知るか」
駅までの道で、アスカは僕の半歩前を歩いた。速すぎるわけじゃない。でも、こちらが迷ったら置いていかれる速度だ。
改札の手前で、僕が定期を探して鞄をまさぐる。すぐ横から舌打ちが飛んだ。
「遅い」
「今出す」
「最初から手に持っときなさいよ」
アスカは自分の定期を通しながら、先に向こうへ抜ける。抜けた先で立ち止まりもしない。ただ、少し先で歩調だけを落とした。完全には待たない。置いてもいかない。その中途半端さが、妙にアスカらしい。
電車は混んでいた。運よく二人分の空きがあって、僕は窓側に座った。隣へ鞄を置こうとして、少し迷う。迷っているうちに、アスカが無言で僕の鞄を膝へ押しつけてきた。
「持って」
「え」
「そこ、立ってる人に邪魔」
言われて見ると、本当に通路側に人が詰まっている。
アスカはそのまま隣へ腰を下ろした。制服の袖が少し触れる。近い。近いのに、理由は実務だった。
「何よ」
「いや」
「だからその、言いかけてやめるの感じ悪い」
僕は膝の上の鞄を抱え直した。
「ありがとう」
「礼言われるほどのことしてない」
学校へ着くと、校門のところでヒカリがプリントの束を抱えて立っていた。
「ちょうどいい。二人とも、これクラス分」
「はぁ?」
アスカが顔をしかめる。
「なんであたしたちが」
「来た順」
「最悪」
そう言いながらも、アスカは束の半分を先に取った。僕が持つより早かった。
「それ、紙だから落とさないでよね」
「落とさないよ」
「信用してない」
ヒカリが呆れたように息をつく。
「朝からうるさいわね」
僕は何も言わず、もう半分の束を受け取った。紙の重さは軽い。軽いのに、一人で持つ時より肩のあたりは少しだけ楽だった。
* * *
その夜、ミサトさんの家の玄関は、普段の三倍うるさかった。
スーツケースのキャスター、硬い機材ケースの角、海図の筒、小さな化粧ポーチ。アスカは荷物を一度全部玄関へ並べてからでないと部屋へ入れようとしなかった。置き方が気に入らないらしく、僕が何気なく壁際へ寄せたケースまで引き戻して位置を直す。
「それ、立てると中でずれるの」
「見た目はその方が」
「見た目で運ぶわけじゃないでしょ」
正論だった。
ミサトさんは笑いながらビールの缶を開け、加持さんは面白がっているだけで助けない。結局、玄関の床へマスキングテープで小さく印を貼り、どのケースをどこへ置くかまで決めることになった。
「赤いハードケースはここ。プラグスーツ関係は湿気が少ない所。水筒と洗面具は部屋の中。海図の筒は踏んだら殺す」
「最後が雑だよ」
「重要度高いの」
アスカは自分の物だけでなく、玄関の靴の並びまで勝手に変えた。僕のスニーカーが邪魔だと言って端へ寄せ、代わりに自分の靴を取り出しやすい位置へ置く。ミサトさんのハイヒールはなぜか一足だけ別に向きを変えられていた。
「ちょっと、あたしの靴まで指図する?」
「してない。帰ってきて転びそうだから変えただけ」
「それを指図って言うのよ」
文句を言い合いながらも、アスカの手は止まらない。洗面所へ行くと、棚の上段を覗き込み、空いている籠へ自分のヘアブラシとヘアゴムをまとめて入れた。下段のタオルを数え、勝手に色分けする。
「白いのが顔用。青いのが髪。こっちは予備」
「そんなに細かく分けるの」
「当たり前でしょ。ぐしゃぐしゃだと使う時にむかつくの」
その理屈は分かる気がした。物の置き場が決まっていると、触る時に迷わない。迷わない分だけ、余計な苛立ちが減る。学校の当番表や本部の補給簿と同じ話だ。
部屋へ荷物を運ぶ時、僕はまた一度に二つ持とうとして止められた。
「縦長い方、片手で持つなってば」
「持てるよ」
「持てても角ぶつける。あんたは前。あたしが後ろ」
アスカはそう言って、自分で重い方の端を持った。僕は反対側を支える。長いケースは階段の角で引っかかりやすい。アスカは前を見ながら「次、右」「そこで少し上げて」と短く指示を出した。
運び終える頃には、僕の腕より先にアスカの方が苛立っていた。
「だから最初から言ったのに」
「でもぶつけてない」
「ぶつける前に止めたからでしょ」
部屋の中央へ下ろした縦長ケースの上に、アスカは海図の筒をそっと置いた。乱暴な口ぶりのわりに、最後の手つきだけは妙に丁寧だ。
「ねえ」
「なに」
「自分の物も、こんな感じで置いてるの?」
「当たり前」
「大変だね」
「何がよ」
「頭の中までいつも配置図あるみたいで」
言うと、アスカは一瞬だけきょとんとした。それから不愉快そうに眉を寄せた。
「褒めてるのかバカにしてるのかどっち」
「半分ずつ」
「最悪」
最悪と言いながら、彼女は洗面所から自分の水筒を持ってきて、机の端へ置いた。その横へ、なぜか僕の筆箱まで寄せる。
「それ何」
「朝、忘れそうだから。あんた、どうせ玄関でまた定期探すでしょ」
反論できなかった。
結局その夜、僕の定期入れはアスカの水筒の横へ置かれた。完全に理解できるわけじゃない。でも、同じ家で暮らすってたぶんこういうふうに、誰かの持ち物の動線へ自分の物が少しずつ巻き込まれていくことなのだと思った。