夏油傑、加茂憲倫。
その他にも色んな肉体を転々としていたせいで自身の本当の名前を知る者は少ない。
真の名────“羂索”
彼には世界征服というそんな幼稚な野望は存在しない。
逆に、国の治安を守るとか、世界の平和を守るとか、誰かの陰謀に加担するとか阻止するとか、そんな風な大層なお題目も存在しない。
では、何なのか?
個人的な感情········強いて言うのなら“自身の知的好奇心を満たす事こそが最大の目的”と言える。
まさに自己満足。
そのためならばどんな手段も厭わず、何者をも犠牲にする事も一切気にしない極めて非情な一面を持ち合わせている。
そんな彼でも。
誰のものなのかわからない、しかし確かに受け継いだ良心による愛情がある。
「········」
渋谷でのハロウィン。
そこで起きた大規模テロ。
“渋谷事変”
特級呪霊数体と呪詛師、その他にも多数の一般人を利用し、自身の計画を進めるために大殺戮という事態にまで発展した。そのことに対しては別に気にすることでもない。自分の計画が進むのなら、それは尊い犠牲だ。
科学的な考えでいけば、犠牲なしに進歩は得られない。科学側でも、ネズミやらをモルモットにして実験台にすることで成功か失敗かを確かめ、そして次のステップに進めるわけだ。これまで生きてきた中で、人間は必ずしも何かを食わねば死んでしまうわけだが、その過程にだって犠牲があった。有害な植物、毒を持つ生き物、今ではそれは避けられるように既に情報が開示されているわけだが、その情報を得る前は何人かが毒味して死んでいる事例もある。性質を調べる手段がなかった時代、確かめるには誰かが食べなければならなかった。それでそれが毒だとわかって、一人の人間が犠牲になったことで、その先に生きる者達は今も発展を続けられるというわけだ。
であれば。
これは悲しむことではない。
むしろ喜ぶべきだ。
世界は新たな第一歩を踏み出した。
特級呪霊である真人の無為転変、その術式によって一部の人間が呪いの力に目覚め、まるでスーパーヒーローのような超人的なパワーを得たことで人間という枠から外れ、更なる進化を遂げたのだ。
そして。
その中には────誰の子供だったのかももはや曖昧な“自分の娘”もいる。
「羂索」
千年間ずっと進まず、今ようやく困難なプロジェクトの第一段階を終え、感慨深い思いで満たされた彼に声をかけてきたのは、そんな彼のことをよく知る人物だった。
「やぁ裏梅。毒の方はどうだい?」
「あれぐらいのもの、私の反転術式ならすぐに分解できる」
「·······その割にはあれから三日経ってるけどね」
「何か言ったか?」
「何も?」
これ以上刺激したらいつでも殺し合いが始まりそうな中、面倒臭そうに舌を出して目を逸らす羂索。
千年も前に生きていた呪術師の一人、裏梅という術師はかつて史上最強の呪術師と謳われた両面宿儺が唯一傍に置くことを許された存在。本来ならば誰かと共に行動することなどせず、主人に仕える立場として邪魔なものを排除したりと忙しいはずなのだが、裏梅も自身の目的のために羂索と手を結んだ。
裏梅は不愉快に思いながらも、これからの世界のために計画を進めている羂索に協力するために、わざわざここまで足を運んだわけだが、
「何故まだここにいる?」
現在、この場はすでに破棄されている。
以前、真人もここに足を踏み入れたことがあり、そんな彼でも見たことがなかった『物』がここにはあった。
だが、
『それ』が入っていた培養カプセルは見るも無惨な状態で、その近くを歩けば保護ガラスの破片が割れる音が連続する。
そう────
『最愛の娘』とも言える物が入っていた培養カプセルは内側から破られるように破壊され、だがそれを知っても羂索は特に気にしていない様子だった。
では何故ここにいるのか。
強いて言うのなら、娘の新しい人生の門出をお祝いするためにその証拠を見にきたといったところか。
「真人から可能だとは聞いていたが、まさか無為転変で魂の形をこちら側に寄せただけでここまで力を発揮するとはね」
「貴様から聞いていた『例の娘』か······確かに、呪術に目覚めた結果、
「皮肉かい?」
「そうだが?」
隠すつもりもなくそう言った裏梅に、流石の羂索も唇を尖らせて拗ねた。
「で、結局貴様はここで何をしている? あの娘が何処へ行ったのかの手掛かりでも探しているのか?」
「いや? そういう訳じゃないよ。本当にただ見に来ただけ。どんな親でも、自分の子供が成長した証を見るのは嬉しいものさ。ま、君にはわからないかもね?」
さっきの皮肉の仕返しにちょっと揶揄うと、周囲の空気が文字通り凍りつく。
わずかに殺意を感じる裏梅のその瞳に、羂索は相変わらずといった態度で肩を竦めている。
「それに、呪術に目覚めたのならこれから行われる“死滅回游”にあの子も強制参加することになるだろうし、そうなれば“コガネ”がいつでもどこでも憑いて回って居場所を教えてくれる。だから別に探さなくてもいいんだ。まぁ少し心配ではあるけどね、親として」
「厳密には貴様の子ではないだろう。虎杖悠仁や呪胎九相図共には特に興味がなかった貴様が、何故そこまであんな小娘のみ大切にしていた?」
「別に“あの子”のみ特別扱いしていたわけじゃないよ? 現に生き返らせるために呪術を与えて目覚めさせたんだから、これからの殺し合いに参加させるわけだし。けど、渋谷での一件でちょっとだけわかった気がする。夏油傑の体が私に刃向かって首を絞めてきた時と同様、かつて奪った体の持ち主の記憶が強すぎて私の魂に干渉しているのかもしれない。『
「どうでもいい」
自分の仮説を熱く語ってみたが、冷淡に一蹴された。
いつまで経っても距離を縮めようとしない裏梅に羂索は再び呆れる。
だがもしその想いが今も生き続け、羂索ほどの術師を呪っているというのならばその体の持ち主は相当な人物であった事が窺える。裏梅自身もその姿を一度しか見たことがなかったが、随分と風変わりな格好をしていて、そんな姿で自分の主に謁見をしようなどと不敬にも程があると思っていた。
あの時は特に何も感じていなかったが、あの羂索にそこまでの強い意志を埋め込むなんて、並の人間ではまず無理だろう。
もしかしたら。
裏梅にとって尊敬できる存在であるあの両面宿儺をも抑え込む忌まわしき小僧、虎杖悠仁に近い素質を秘めていたのかもしれない。まぁ、羂索如きに体を奪われている時点で虎杖よりも自我が弱いと思うが、だとしても千年という時を超え、新しい体へと転々としても尚意思を引き継がせているのは凄まじいことだった。
そんな羂索はそれが他人の感情だとわかっているものの、その感情に素直に従っているところを見ると案外甘い一面を持ち合わせているのかもしれない。
しかし今はどうでもいい。
さっさと次の計画へと動いてもらわねば。
裏梅は主人と約束したのだ。
近いうちに復活する、だから準備を怠るなと。
そう言われたからには、早く残りの指を回収し、そしてあの方に相応しい世界を作り上げたい。
だからこんな所でぬかぬかとしていられない。
裏梅は急かすように、
「用が済んだのならば早くしろ。私だって暇じゃないんだ。あの御方を迎えるための準備を進めたいのだからな」
「あぁ、そのことなんだけどさ」
「?」
すると羂索は何かを思い出したように言う。
「計画を進めるにあたって、ちょっと面倒な手間が増えそうなんだ」
「何だと?」
聞き捨てならない報告だった。
あの入念に計画を進めてきた羂索でさえ予想外なことが起こったみたいな顔をし、そんな顔をされたら誰でも懸念のあまり怒りの感情が湧く。
こちとら主人の完全復活のために失敗は許されず、ずっと準備を進めてきたというのに。何かイレギュラーのようなものがたった一つでも介入しただけで、歯車が狂いかねない事態になった場合はこの下賤の者をどう料理してやろうかという物騒なことまで考え出す。
そんな裏梅の殺意の眼光を向けられても一切怯えずに、むしろ薄く薄く微笑んでいた。
「そこまで心配しなくても、ただ面倒なことになるかもしれないというだけの話じゃないか。万が一それが起きても大したことにはならないよ」
「どの口がそれを言う。貴様は既に一度、自身にとっても想定外なことを引き起こしている。お前が宿儺様を忌まわしい小僧と共に一時的にこの世界から消し去った時のこと、忘れたとは言わせんぞ」
それは渋谷ハロウィンを迎える直前の出来事。
両面宿儺をその身に宿した虎杖悠仁は、羂索が昔日本各地に置いておいた『特級呪物』を回収しに向かったその時、行方不明となる事態が発生した。
その後を追うように五条悟までいなくなり、このままでは渋谷ハロウィンまでに計画が失敗に終わるかもしれないと誰もが不安視していたが、運よく奴らは戻ってきた。呪霊達は安堵していたものの、裏梅的にはこの世界から宿儺の存在が消え去った時は深く絶望していた。
それはそうだろう、お慕いしている御方がこの世から消えるというのは死んだも同然。何処を探しても見つからないのであれば自分が生きている意味もない。
今回は何とかなったが、もしそれと同等な事が起こったら今度こそ自分を見失ってしまうだろう。
それでも羂索は。
本当に気にしていないのか、
「まぁ、誤差範囲を含めて何とか許容できるんじゃないかな? 私的にも予想外ではあるけど、今回のも大したものじゃない。
それに、と羂索は一拍置くと、
「今回のはどちらかと言うと“彼”が引き起こした事だとも言えると思うんだけどね。宿儺が“あちら”でも“こちら”でも暴れた所為で彼の脅威的な呪いの残穢が引かれ合うようにして共鳴し、
「ッ!!」
羂索はブレなかった。
どれだけ言っても響かず、むしろ世界を変えるよりも束の間の退屈凌ぎの方が価値や興味があるとでも言っているかのようであった。
「それにさ、本当に何か予期せぬイレギュラーが起きても大丈夫でしょ。渋谷に湧いている呪霊達の等級は四級から一級。並みの術師ならば対処可能なレベルだが、“
宿儺の残穢。
両面宿儺ほどの呪力の残穢ともなれば、たとえ特級の呪霊でも魔除けとしての効果が発揮される。だが逆の場合もある。その力を餌として、より強い呪力を得ようと、むしろそこへ寄って来る呪霊もいる。
しかし羂索が言うには、そうなってもこちらには特に支障が出ない。
その場所には“
何処に通じてるのか知らないが、羂索の口振りから察するとおそらくは“
であれば。
問題ない。
そこには呪術の概念がなく、祓うための負の力もないため、放っておいても大丈夫だ。
“
であれば。
問題ない。
「さて、ちょうどいい時間だし·······そろそろ行こうか」
羂索はまるでカラオケにでも誘うような気軽さで言うと、裏梅は不快さが極まって一言も発さず無言のままついていく。
今の呪術界にとって最大の枷は、自身よりも結界術に優れている、“不死の術師”
せっかく進化できるほどの力を有しているのに、長い間引き籠もっているなんて勿体なさすぎる。
“ヤツ”を引き摺り出し、人類を更なる高みへと昇らせるための手段を整える。そのためならどれほど犠牲にしてでも構わない。
彼は純粋。
慈悲の羂、救済の索なんて名の通りに動かない。
可能性を捨ててしまうことこそ、世界にとっての最大の損失。
根本的な所から歪んでいる思考の持ち主である羂索は、他人の事情や人生そのものを薙ぎ払うような口調でこう言った。
「人間もっとなんかできることをちゃんとわかってもらうのも大変だね」
◇◆◇◆◇◆◇
早朝の冷たい爽気に満ちたコンビニ。
いつもの日本なら涼しいかなくらいに感じる空気だが、周囲に漂う禍々しさによってそれ以上に寒く感じる。
「はむ·······うん·······ごくん」
“少女”は罅割れた街並みにあるコンビニで朝御飯にありついていた。
こんな早朝に崩壊した場所で一体何をしているのか。しかも奇妙な格好だった。頭から汚い毛布を被っているだけなのである。まさにゴミ捨て場にあったような汚れた毛布で顔も体もすっぽりと隠していて、その人物の顔どころか性別すらも判別できない。
何故こんな所にいるのか、それは彼女自身もわかってない。
一番確実に雨風を凌げる方法は建物に入ることだが、しかしいつ崩れるかもしれない半壊したビルに入り込むのは相当勇気がいることだ。
そうでもしないと、少女は餓死してしまう所だったのだ。
世界の終わりのような光景と、テレビの中にしか存在しないと思っていた場所までやって来て、彼女はとにかく食える分だけ食おうとフォークもスプーンも使わず弁当を平らげている。いつ食えるかわからない今の日本、水を手に入れるのも難しくなってくかもしれない。それを本能的に感じ取っていた少女は、自分が今どんな状況に置かれているのか完全には把握しないまま、生きることだけを考えてここまで歩いてきた。
よく見たら、少女の足には靴も履かれていない。
一体どれほどの距離を歩いたのか、裸足となった少女の足はボロボロだった。
彼女のいる場所。
そこが日本の首都だなどと言われて一体誰が信じるだろうか。
食事を終えた所為か、不意に全身を凄まじい気怠さが襲い、意識が遠のきかける。
少女だって、本当はこんな状況望んでいなかったはずだ。
帰る場所も知らず、毎日毎日生きるのに必死で、そして何でここにいるのかもわかっていないというのはあまりにも残酷だった。
今ここで死んでいった人間は、誰かに回収された挙句に積み上げられて燃やされるか、もしくは得体の知れない化物共に喰われるかしかない。
この街に来てからと言うもの、腐敗臭を嗅がなかった日はない。
自分はきっと運が良かったんだ。
意味もわからずこんな所に放り出され、食料を求めて彷徨っていても襲われることはなかった。
何故か。
勝手に寄り付かなかったのだ。
そうして三日ほど経ち、少女は行く当てもなく彷徨い続け、自然とここに流れ着いていた。
だが人がいないのであれば無論食べ物を恵んでくれるわけもなく、自分の手で手に入れるしかないわけで。少女にはお金もないし、あったとしてもここでは紙切れ同然だろう。使えるには使えるだろうが、ここではもはや何の価値もない。誰もいなくなり、ここで商売するメリットが何もないのだから、であれば勝手に食えばいい。
口の中はカラカラで唾すら作られない事態にまで陥った少女は行儀など捨て、そこにあるものをとにかく味わいもせず食べて食べて腹を満たし、助けを求めようにもここが何処だかわからないし、人がいないのならか細い声で精一杯呼びかけても誰にも届かない。
大地を掻き毟るように弁当を食う少女。
『おいで』
そんな彼女の耳に。
一つの声が聞こえてきた。
『おいで、ここは危ない』
「··············?」
声は徐々に大きくなる。
そればかりか声の主は徐々にその数を増やしているようにも聞こえた。喉を震わせているからそう聞こえるのか、何にしてもそいつは今正気じゃない。
しかし。
少女からしてみれば、それは初めて会えた『人』に見えた。
だから。
そいつと自然と会話してしまっていた。
『あったかイお風呂、お歌も歌エるよぉ』
「·······ママは?」
『ままもぱパも、お姉ちゃんもお弟も、犬も先生モッイるよ』
「私·······パパに会ったことない。一人っ子だったみたいだし、それに犬じゃなくて猫なら飼ってたみたい」
『わたし、パぱに会ったことない。ヒトリっこだったミたイだし、それに犬じゃなくてネコならカッてたみたい』
「?」
そいつは破顔した。
何度もこちらに来るように手招きし、顔じゅうの皺が笑いの形に伸び上がったが、続く声は少女の言葉を復唱し嘲弄とも取れる響きがあった。
呻くように話すそいつに、少女は心配になったのか優しい声を響かせる。
「大丈夫? 飲む?」
『ちょう、だい』
そう言われて少女はまだ蓋も開けていない新品同然のジュースを手に、入り口まで歩き出した。
純粋さ故の愚かさ。
それに気づくこともなく内と外としての境界線である出入口を跨ぐと、
少女に話しかけていた奴は釣り糸に吊るされた撒き餌のような役割を持ち、闇そのものが結晶し、人の形を取ったようであった。
大きく手を伸ばせば触れられるほどの距離に巨大な怪物の口。
鮟鱇と蛙の複合。
鋭い歯を何本も生やした口からは粘りの強い涎がこぼれ落ち、誘き出した餌を喰らおうと襲いかかってくる。
少女は恐怖を抱く暇もなく、
ザシュッ!!
空中で、化物の頭上に飛び込んだ『影』があった。
重苦しい衝撃音。
たったそれだけで化物の頭はかち割られ、そこに降り立った“少年”はやや途惑ったような声で言う。
「
「?」
「
少年は化物の頭から『刀』を引き抜くと、愛想笑いなのかそれとも引っ込み思案な性格上それがデフォルトなのか、下手くそな笑みを浮かべて少女の方に近づいてくる。
刀に付着した化物の血をさっと左右に振って払うと、腰の鞘に音を立てて納めた。敵意はないとわかってもらうために納めたが、やはり本物の武器というのは子供には受け付けないらしく、それを持っている少年に少女は体を震わせる。
怖がらせたことを自覚しながらも、少年は『銀色のリング』をつけた左手で頬を掻き、何とも言えない笑みを浮かべたまま少女の目線に合わせて訊く。
「誰かと一緒? お父さんとかお母さんとか」
「·······わかんない」
少年は訊ねながら少女の姿を見ていた。
身長が極端に低く、決して大柄ではない少年の腰ぐらいの高さしかなかった。ならば一◯歳よりも下の年齢だろうか。格好からしてホームレスなのかもしれないが、その幼さからして明らかにおかしい。
捨て子、その可能性もなくはないが、だとしても服の一着くらい恵んであげても良かったはずだ。
ただ毛布を被って、視界を確保するために頭の部分だけ空けられたその間から覗ける少女の顔からは疲れが見える。わずかに見えた顔からして、外国の子供のような顔つきだったことからこの辺の子じゃなさそうだ。
何にしても、放っておけない。
少年はボロボロになった少女の足を見て労うように、
「いっぱい歩いた?」
「·······うん」
「そっか、頑張ったね」
直後。
背後から嫌な気配がして、少年は振り返る間もなく、
ドチャッ!!
刹那。
化物が跳ね起きるや大口を開いて不意打ちを試みたものの、あわやという瞬間に凄まじいインパクト音と共に化物の体が地面と並行に吹き飛ばされ、横手のビルから粘りのある液体が弾ける音がした。
少女がそちらの方を向こうとしたから、少年は子供が見るものではないとして右手で視界を遮る。
「見えてるんだっけ?」
少女に何が起こったのかを見せないまま、少年は片頬で笑いながら助けてくれた奴に言う。
「駄目だよ、“
そう言って少年は少女の目を手で覆い隠しながら離れたところまで避難させる。
恐怖で蔓延る光景をその目に映さないようにしながら一緒に歩いていく少年と少女は、傍から見ると誘拐のワンシーンにしか見えないが、幸いなことにこの辺に生きている人間は誰一人いない。
つまり。
生き残っていたのはこの少女だけ。
貴重な生存者であることを認識しながら、少年は責任を持って安全な場所まで連れていく。
ある程度歩いて、崩壊の危険もなさそうな所まで連れてくると、寝不足で目の下の隈がひどい少年は隠していた手をどける。
「よし、ここなら少しは安全かな?」
彼は近場にあった公園のベンチに彼女を座らせると、ボロボロになったその足にハンカチを巻く。応急処置でしかないが、ないよりはマシのはずだ。ハンカチを二つも持っていることに関しては、さっきみたいに化物を倒した際に返り血を大量に浴びたらそれを拭う量も増えるので、本当はもっと持っておきたいというのが本音だった。
それに呪霊はそのうち消滅するとはいえ、血で汚れた刀をそのまま鞘に納めたら、鞘の内部が腐ってしまう。呪詛師を無力化せねばならない時もあるし、そうなればいずれ刀まで錆びついて鞘から抜けなくなる。
だからそういうものの時のために用意していたハンカチだったが、少女の綺麗な足をこれ以上汚さないように使われたのならハンカチだって喜ぶだろう。
「これで少しはマシになったかな?」
「·······あの」
「あぁ、ごめんね。誰かもわからない人に連れて来られたら君だって怖いよね?」
「ううん」
少年が申し訳なさそうに言うと、彼女は首を小さく振ってペコリと一礼する。
そこで改めて。
少年は少女に訊ねる。
「どこから来たかわかるかな? 名前は? 保護者は誰かいる?」
少女は自分の膝まで視線を落とすと、ゆっくりと首を傾げた。
「わからない·······の。覚えてるのは、名前だけ」
「そっか·······じゃあまずはお互いに自己紹介からだね」
少年は特に詮索することはなく、頷きながら一歩離れる。
小さな子供を怖がらせないように、どこかぎこちない笑みを浮かべながら、
「僕は“
その姿がよく見えるように配慮して彼女に名を名乗ると、その時都合よく彼らの元に風が吹き、毛布によってずっと隠されていた少女の顔も見ることができた。
年の頃はおおよそ通りで、滑らかな髪は黄金のように輝き、柔らかそうな唇は桜色。
紅玉を埋め込んだような瞳をしている少女はまさにフランス人形のような美しい姿をしており、そんな彼女も乙骨という少年に唯一自分が覚えている名を名乗る。
「“
呪われた世界。
単独での国家転覆が可能である、世界で四人しかいない特級術師が救ったのは。
何もない真っ白の状態で放り出された孤独な少女だった。
◇◆◇◆◇◆◇
人を殺めた以上は、そいつはもう死に方を選べない。
「·············」
夜明けが訪れるまであと数分。
そこで少年は、懐中電灯を片手に適当に街中をぶらぶらとぶらついていた。
彼はまた、大罪を犯してしまった。
それによって、恐らく自分が行き着く最後の場所は確定していた。まだ手に入れてそこまで経ってもいないのに、その力が強大すぎるせいか、『呪いの王』を抑え続ける事に慣れていたせいか、死刑執行が言い渡された“虎杖悠仁”は並大抵の攻撃では死ねない。
彼自身が望む最後に辿り着くなんて甘い未来は待っておらず、それでも彼はとにかく間違った死を回避する。
自分自身の末路はもう『指』を取り込んだ時点で決まっていた。
だから今更悔いても、やり直せない。
どうやっても赦されない。
それでも少年は自身の罪に向き合う。
どうすれば、皆が納得する死となるのか。
その方法を。
「············」
そんなことをぼんやりと考えている内に、虎杖は立ち止まる。
川に沿うように築かれた道路の橋。
そこを歩く気分は最悪で、死刑台への階段を登らされているような感じだった。
そして。
目も眩むような朝日が差し込んでくる。
夜空はもはやピンク色に近くて、吹き抜ける風は死へと誘う道標。
「フゥ············」
しばらく、虎杖はその場で目を瞑った。
不思議だった。少年は何もかも諦めた感覚になっていたというのに、彼の首に巻かれている『赤いマフラー』がそれを和らげるように優しく包んでくれていた。
かつて。
ここではない別の世界で。
自分よりもまだ幼い“少女”から譲ってもらった『赤いマフラー』は、最後の最後まで彼に寄り添ってくれていた。随分と、自分を追い詰めるような出来事が起きても、この『赤いマフラー』だけは虎杖悠仁を見放さなかった。
しかし結局、少年はその想いを無駄にした。
強くなってみせると宣言したのに、
その結果、“あちら”よりももっと最悪な状態となってしまった。
こちらには、街を一瞬で元に戻せる“魔法”なんてものはない。
どこまでいっても。
人を“呪う”ことしかできないような力しか存在しないのだ。
「ごめん············“なのは”」
それだけを想って、虎杖はこの世界にはいない“少女”の名を呼んだ。
強くなろうとした結果、待っていたのは絶望だけだった。
彼が進もうとすればするほど、その先に待つのは理不尽な現実。
もはや自分の居場所はどこにもない。
“大量殺人”という罪を犯しておいて、誰かに許されるなんてことは、あってはならない。
「············」
虎杖は。
自ら望んで、目を開けた。
両手は上に挙げられている。覚悟を決めた自分を鼓舞するように一定の間隔を空けて挙げられた両手を重ねる準備は整った。
その前に。
目の前に広がる最後の光景を、その目に焼き付けておきたかった。
ここで叩けば、始まる。
今ならまだ引き返せる。
だけどもう、虎杖悠仁は二度と後ろを振り返らない。
ここまで来てしまった以上、覚悟を決める。
そして──────
パンッ!!
合図が響き渡る。
虎杖が炸裂させた破裂音によって、
辺りに遠雷のような咆哮が、
夜明けの空に木霊した。
◇◆◇◆◇◆◇
呪いとは無縁の地。
第九七管理外世界。
そこにある一つの街。
かつてそこで『異なる異能同士』での死闘が繰り広げられたのだが、そこに生きる人々はそれに気付いていなかった。
『呪いの王』があんなに暴れたのに、その面影一つ残すことなく消され、だがその“残穢”は残されていた。
強大な呪いの“残穢”は他の呪いを寄り付かせず、しかし逆にその力を求めてくる者だっている。
運よくそのおかげで平穏が守られていたわけだが、“
海が見える街のどこかにある、路地裏。
そこに水面のようにゆらゆら揺れる、“亀裂”。
直径一◯センチほどのその向こうに朧げに見えるもの──────『瞳』だ。
誰のものかはわからない。禍々しく光る瞳からはいかなる感情も読み取れない。
それでも、その“向こう”にいる“奴”はこちらへ手を伸ばしていた。
呪いの王────“両面宿儺”が残した“残穢”。
互いの世界で暴れた時に残された異質さ。
そのイレギュラーが空間を侵していく。
予測不能な影響力を持つ性質が一つ起きているだけでも深刻な事態であるというのに、イレギュラーが重なりすぎた結果、異なる世界が合わさったことによってその亀裂が広がっていく。
そんな事実に、世界の方が耐えられないと訴えかけているかのように。
何者かの口が動き、“亀裂”を通して奇妙な言葉が聞こえた。
『まあぁいごぉのぉぉぉおおお、おしぃぃラァせぇぇぇデェええええすゥぅぅううううぅううう』