一般の立ち入りが厳重に制限された、国家中枢を担う歴史ある政府要人専用施設。
長いこと時が流れても残された文化は受け継がれ、その伝統的な意匠が施された柱が立ち並び、大理石の床が冷たく光る。無限と思わせるほどにどこまでも長く続く廊下を、カツカツと二つの足音が規則正しく刻んでいた。
窓の外に見える広大な中庭の向こうには、夕刻の厚い煤煙と濃霧に巻かれたこの国の街並みが、まるで巨大な怪物の死骸のように薄暗く浮かんでいる。
「そろそろ、あの子も参加している頃かな?」
本来ならば異国の文化に触れて感嘆の声を上げるなどしてテンションを上げていきたいところだが、それよりも今はこっちの方が目を惹く。
その国でもそんな格好をしている奴はあまりいないだろう、日本から変わらず夏油傑の趣味に合わせた袈裟のスタイルでいる羂索は、手元のスマートフォン型の端末を可笑しそうに眺めながら悠然と歩みを進めていた。
画面には、日本国内で産声をあげたばかりの『死滅回游』の目紛しい泳者達の映像が非情な速度で更新されている。
結界術を施した際、監視用の呪霊を多数忍ばせている。それによって術師達の呪力総量を把握し、当然呪霊との視覚共有も可能であり、それをスマホに映すという技術は高専側にいた鴉を操る術師を参考に取り入れた。
「········」
そんな楽しそうな羂索の数歩後ろを、雪女を思わせる中性的な容姿をした呪術師の裏梅が、この国の政府から差し出されたばかりの機密書類を手に不快そうに歩調を合わせていた。
裏梅の双眸が縫い留められているのは、羂索の手にある端末の画面に映る一際異質なログを残しているある一つの名前だ。
そこにはこうある。
泳者=アリシア・テスタロッサ、と。
「おい、羂索」
裏梅の冷徹な声が長い廊下の静寂を破る。
「貴様、一体何を考えている?」
「? 何? 今更計画の確認?」
羂索は裏梅の質問の意味が分からなかった。
ずっと共犯者として計画を進めてきたのに、何故今更そんなことを聞いてきたのか、こっちが一体何を考えているのか知りたい。
だが。
裏梅が訊きたいのはどうやらそういうことではないようだった。
冷たいため息と共に、その口からは不満一色に染まった声が吐き出される。
「これから世界までをも巻き込む大勝負に出ようという時に、何故あのような餓鬼をわざわざ泳者として参加させた? 肉体も、精神も、戦いなど知らぬただの幼子だろう。歴戦の術師共が犇めく結界の内に放り込めば、即座に切り刻まれて他人の点数になるのがオチだ。計画の足しにもならん」
意図が読めない、それが裏梅の不満だった。
裏梅の目的は宿儺の復活であり、その目的の妨げになるようなものはできるだけ排除しておきたい性格だ。それで、羂索が何故あまり役に立たなそうな小娘を殺し合いに参加させる縛りを持たせてまで復活させたのか、その意味を知りたかった。
万が一自分達の計画の邪魔になるようなことがあれば、という考えが頭から離れなかったのだ。
厳しい口調で訊ねられた羂索は、歩みを止めぬままクスクスと肩を揺らして心地よさそうに喉を鳴らした。
「ハハッ! 手厳しいね裏梅。でも彼女をただの餓鬼だと思ってもらっては困るな。あれでもあの子は私の娘なんだからさ」
「無駄口を叩くな、さっさと答えろ」
あっさり一蹴される。
裏梅的にはもうその話は何度も聞かされたので本当にどうでも良かった。だからさっさと説明して欲しいがあまり周囲の空気が物理的に冷たくなった気がする。
娘自慢を無下にされて拗ねそうになるが、羂索は語る。
「彼女の魂はね········私が千年も前に見つけた、“この世界の理の外側”から落ちてきた迷子なんだよ」
「理の外側········?」
裏梅の細い眉が、さらに険しく寄せられる。
並んで歩く羂索の横顔を睨みつけた。
「もうすでに語ったと思うけど、千年も前のことだ。私が天元のもとを離れて計画のために独自の旅を始めた直後のことさ。この世界のどの呪術体系にも属さない、異界の未知なる技術を持った“プレシア”という憐れな女の肉体を私は手に入れたんだ········君と宿儺の元に謁見した時に見せたあの体がそうだよ。そしてその女の奥底、魂のさらに奥に深く封じ込められていたのが、あの少女────アリシアへの愛情だった。だから私はあの子を特別に愛していてね? 彼女には私が千年間、丹精込めて呪物化させた“
羂索は自身の頭部、縫い目の走る額へと細く青白い指先をそっと這わせながら前を見据える。
「裏梅。術式というのはね、脳の右脳────大体、前頭前野の辺りに刻まれる
羂索の説明を聞いてまだ何を言いたいのか半分も掴めていなかったが、ある程度の予想はできた。
脳関連の説明をされ、どう答えても正解となりそうな文章を頭で組み立てながら、裏梅は憶測を述べる。
「つまりは脳に········
「そうさ。彼女から漏れ出る呪力は空間の境界を曖昧にして、相手が術式を発動しようとしたその瞬間の『
ま、そんな都合よくいかないから無理だろうけど、と羂索は落胆したように言った。
対して裏梅はふんと冷鼻を鳴らし、歩きながら腕を組んだ。
「ハッキングによる脳破壊、そして乗っ取りか。術式としては確かに一級品だが、自身の肉体が伴わなければ意味を成さん。見たところあの個体は千年前の『死体』そのものだろう? あの世へ送り出すための儀式、火葬も埋葬もされずに綺麗に保管されていたとはいえ、一度死んだ脳でどうやって肉体を動かし、術式を発動するというのだ?」
「おや、忘れたのかい?
羂索の足音が廊下の突き当たりにある巨大で重厚な二連の扉の前で、ピタリと止まった。
目的地に到着したのだ。
中へと入る前に羂索はゆっくりと裏梅を振り返り、心底楽しそうに目を細めた。
「私は真人にこう言った、『肉体は魂であり、魂は肉体である』とね。つまりは彼女の魂は死後も千年間、その死体に縛られ続けていた。だからこそ宿儺の指のように呪物の中へ一度彼女の魂を閉じ込め、真人の術式を使ってあの死体を新品同然の『器』へと再構成したのさ。真人があの天与呪縛の少年の肉体を治した時のようにね。その際、脳のデザインも『術師』として最適になるよう、私が直々に手を加えさせてもらった」
「········デザインだと?」
そう、と。
羂索は楽しそうに頷いた。
ようやく核心部分を語れるところまで来れたことが心底嬉しいようだった。
同時に羂索は、今を生きる人間の構造について嘆きながら、
「生身の人間というのは不便だね。筋肉や骨が壊れないよう、脳が勝手に身体能力にリミッターをかけて出力を制限してしまう。だが、彼女の魂には一度『死んだ』という記憶のバグが深く刻まれている。だからね、私が無為転変で脳のシステムをデザインした際、そのくだらない安全装置を綺麗に取り払っておいたのさ。安全装置の壊れたその五歳の肉体はね、呪力強化をしなくとも、
羂索の口元が、まるで死神の鎌のように愉しげにつり上がった。
「彼女はおそらく、脳を作り直したせいで記憶障害となっていてまだ『呪い』の本質を知らない。だからこそ、純粋な『死への恐怖』という負の感情が体内の呪物と混ざり合い、あのリミッターの壊れた肉体とハッキング能力が無意識に暴発したとき、一体どんなバグが起きるか·······想像しただけでワクワクしないかい? あれは世界を────
そこまで言うと、羂索は何食わぬ顔で微笑み、前を向いた。
夏油傑の死体となった冷たい手を、重厚な会談の間の扉へと迷いなくかける。
「さあ行こうか、裏梅。大国の偉い人達に、呪術師という極上の代替エネルギーの話を伝えてあげなくちゃ」
ギィ、と重々しい音を立てて羂索が両開きの扉を押し開ける。
開かれた先にある広大な円卓会議室。
そこにはずらりと並んだ政府の最高幹部の姿、そして部屋の隅には彼らを異質な存在である羂索達から守護するために軍の要人達が、一斉に鋭い視線を入り口へと向けてくる。
「坐下」
代表者らしき人物がそう言ってくる。
「谢谢你邀请我」
言葉の壁なんてものさえもものともせず、羂索は彼らに向けて。
極めて優雅に。
そして邪悪な一礼を捧げるのだった。
◇◆◇◆◇◆◇
辺りは薄暗かった。
「········ッ!!」
頭を重い鈍器で殴られたような、そんな激しい痛みがアリシアの意識を引き戻した。
どこかの裏路地。
コンクリートの壁に挟まれた狭い空間で、アリシアは目を覚ましたようだった。
さっきまで一緒にいたあの優しい黒髪の少年の乙骨憂太の姿は、どこにもない。
辺りを見回しても、ただただ不気味な静寂が路地を満たしている。
「お兄、ちゃん················?」
アリシアはまるで生まれたての子鹿を思わせるほどに小刻みに震える足でゆっくりと立ち上がり、服についた埃を払う。
ここがどこなのか、自分は一体どこにいるのか、何も思い出せない。
覚えているのは、ただ『死ぬのが怖かった』という生々しい感情だけだ。
ズシン、ズシンッ!!
突如。
地響きのような、重苦しい足音が遠くから響いてきた。
建物のガラス窓が振動でビリビリと小刻みに震える。
「················ッ!!」
自分の息を呑む音が妙にはっきりと聞こえた。
恐怖に駆られたアリシアは一先ずこの薄暗い場所から逃げ出そうと、道路が続いている大通りがありそうな場所を求めて夢中で走り出した。
開けた大通りに出れば、きっと誰か大人がいるはずだ。
お兄ちゃんが見つかるはずだ。
そう信じて、開けた大通りへと飛び出した瞬間、
「ッ!?」
アリシアは恐怖のあまり、その場に縫い付けられたように硬直した。
道路の向こう、立ち並ぶビル群の隙間から、
「あ···············ッ!!」
懸命に悲鳴をあげそうな口を両手で押さえる。
それは人間の常識を遥かに超越した、巨大な怪物の姿だった。
何本の足があるのかもわからない異形の塊が、ビルを見下ろすほどの巨体で悠々と街を闊歩している。
それはどこか川にいる馬に似た動物である河馬を思わせる形をしているが、あれとは比べ物にならないほどに大きく、近くを歩けば間違いなくその足で踏み潰される。
「────ッ!!」
一種の発作でも起きたのか、硬直状態のアリシアの息が喘息のように乱れていた。
デカい怪物、それを見ただけで恐れを抱いてしまうのはほとんど当たり前の現象だった。あの時、乙骨に救われた際に見た怪物は自分がまだ誰とも会っていなかったから完全に油断しており、それで状況の把握を終える前に彼が上から降りてきて斬り裂いたから恐怖を抱く暇もなく終わってしまった。
けど今は違う。
自分を守ってくれる彼は今ここにはいない。
しかも自分の目で今度はちゃんとその姿を目撃してしまったのだ。
その圧倒的な質量と漏れ出る禍々しい気配に、五歳の子供の精神は完全に悲鳴をあげた。それでも叫んだらあの怪物に気付かれると本能では分かっているから、それだけは防ごうとする両手が口から離れない。息を殺し、とにかくあの化け物から少しでも遠ざかりたい。その一心でアリシアは、今来たばかりの薄暗い裏路地の奥へと、静かに、だが全力で引き返した。
涙で視界がぐにゃぐにゃに滲む。
足がもつれそうになる。
早く、どこか安全な陰に隠れなきゃ·······ッ!!
そう焦った、次の瞬間だった。
バシャ、と。
「ッ!?」
不意に何か液体のようなものを踏み込んでしまい、アリシアの小さな身体はアスファルトの上で派手に滑って転んでしまった。
「痛っ············!?」
膝と手のひらに走る鋭い痛みに顔を顰めながら、アリシアは何か水溜まりを踏んでしまったのだと悟った。
「あぁ、もう!!」
子供らしく小さなことで苛立ちそうになる。
お気に入りの綺麗な青いワンピースの裾が泥でひどく汚れてしまった。
それを嘆きながら立ち上がろうとして地面に両手をついた時、
「え?」
手についた液体は、ただの泥水にしては、なんだか妙にドロリと濁って粘り気がある。
暗い路地裏のせいでよく見えないが、それは黒ずんだ、酷く濃い『赤』だった。
そして鼻を突くような、生理的な嫌悪感を呼び起こす酷い鉄錆の臭いが、肺の奥まで一気に突き刺さってくる。
「え·······え?」
自分の手に付着しているものが全然よく分かっていない。
そもそも頭が理解したくなかったのか、それでも本能が異常事態に警鐘を鳴らしてパニックを起こしそうになるアリシアであったが、
グチャ、パキィ、と。
すぐ目の前、数メートル先から水分を含んだ分厚い塊を鋭い刃物で削ぎ落とし、硬い骨を無理やり断ち切るような、生々しく悍ましい音が聞こえてきた。
「·······っ!!」
口に溜まった唾と緊張感を一緒に一気に飲み込んで、アリシアは恐る恐る音のする方へと首を巡らせた。
「ッッッ!!???」
その瞬間、彼女の瞳は驚愕と恐怖で限界まで見開かれた。
そこに転がっていたのは、腰から上の『上半身』が無惨に消失し、不自然な断面からドクドクと赤黒い液体を溢れさせている、『衣服を着た人間の下半身』だった。
そしてその前に、“一人の男”がアリシアに背を向けてしゃがみながら作業を続けていた。
男のその姿を見ていると、まるでどこかの陰惨な精肉屋を光景を思わせるようだった。その格好はまさしくアメリカの古いホラー映画に出てくる殺人鬼さながら、さらには返り血を弾くための黒い不気味なレインコートを身に纏っているから余計にそう思わせた。
男の腰元をよく見ると、革製のベルトに何本もの巨大なハサミや、肉削ぎ用のナイフ、一種の拷問器具のようにも見える歪んだ形状の刃物が、ジャラジャラと凶器の音を立てて吊り下げられていた。
男がそこで何を楽しそうに刻んでいるのか。
五歳のアリシアの頭でも、それが『人間の解体現場』であるという最悪の事実を、直感的に理解してしまった。
だから。
こうなってしまうのは仕方なかった。
脳の許容量を遥かに超えた恐怖が、少女の小さな喉を引き裂く。
「いやあああぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!????」
路地裏の壁に反響する、魂の断末魔のような叫び声。
「!?」
その悲鳴に、肉を刻む作業に異常なまでに熱中していた男がようやく手を止めた。
男はゆっくりと首を巡らせ、アリシアの方を振り返る。
レインコートのフードの隙間から覗くぎょろりとした狂気の目が、生きた少女の姿を明確に捉えた。
「驚かせるなよぉ······せっかく集中してたのによぉ」
「あ、ああああ··············!?」
「なんだ? ガキがこんな所で一人でお散歩か? ま、見られた以上はお前も綺麗に刻んでやらなきゃなぁ」
男の口元が、ねっとりとした殺意を伴って歪んだ。
腰のベルトから一際大きく、肉の脂で爛々と輝く錆びた包丁を引き抜き、血でべっとりとなった分厚い革靴の靴底から愉快な靴音を立てながら、じりじりと距離を詰めてくる。
「こ、来ないで! 来ないでえええッ!?」
あまりの事態に麻痺しかけていた思考が、今は恐怖一色に覆い尽くされる。
アリシアは完全にパニックに陥り、狂ったように路地のさらに奥へと逃げ出した。
彼女は知る由もないが、死んでいる最中にこの殺し合いの“黒幕”の手によって脳と共に肉体を弄られているその足腰は脳の補助装置が壊れているが故に、呪力による強化すらなしでフィジカルギフテッド並みの爆発的なトップスピードを発揮する。
「おおっ!! すばしっこいガキだな! だが、
男が楽しげに笑い、自身の生得術式を発動させた。
空間が広がる。
アリシアの姿はそれに捉えられ、だがなんともなかった。
アリシアは構わず逃げる。改良された自分の身体能力には気付いていないものの、その速度は車以上の出力を誇っていた。
それなのに。
男の持つ術式────“
よくあるホラー映画の中の殺人鬼のように、『獲物がどれだけ逃げても、歩くだけで必ず背後に追いつける』という、自身と対象の間の『空間の距離の定義』のみを歪めて弄る能力。
自分が死ぬか、相手を殺すまで発動し続けるこの術式は、五条悟の無下限術式のような高技術なものではなく、単に『距離を縮めて確実に追いつくだけ』のもの。
追いついた後は完全に己の生身の腕力と武器次第であるため、男は最初から自分より強い術師にはこの術式を使わず、一方的に蹂躙できる非術師ばかりを殺していた。
さっきの遺体もその一人だった。
この男、“
彼の前職は殺し専門の『呪詛師』であり、頼まれれば必ず殺してくれるということで、ある意味で裏の世界では評判だった。
しかし、最強の術師である五条悟がこの世に生まれ落ちてからというもの、呪術界のパワーバランスは崩壊、いつものように仕事ができなくなった。
そんな時、“額に縫い目がある術師”に渋谷での計画を聞かされ、けれど五条悟が絡んでいると聞いてその話には乗らなかった。
だが、その計画が上手くいった暁には正式な殺しができる『死滅回游』が開催されるという話だけはずっと頭の隅に置いていた。それでつい最近、日本中に大規模な結界が展開されたことで、五条悟が上手く封印されたことを知って、彼も回游に参加することを決めた。
しかし、参加した結界内の泳者達が強者ばかりで、自分の思うように動けなかった。
そして参加した以上は点を得ないと術式が剥奪されて死に至る呪いが発動してしまうため、仕方なく巻き込まれた非術師の泳者を殺しまくっていた。
そんな時に、この少女が現れた。
少女がたった一人で、しかも自分好みの美少女。
これ以上ないくらいに上物で、自分の頭が今すぐに彼女の肉体を切り刻みたいと告げている。
だから逃すわけにはいかない。
そうこうしている間に、アリシアは追いつかれた。
迷路のようになっている路地を動き回って、そしてついには行き止まりとなっている場所で足を止めてしまった。
目の前のビルの壁はとても高く、並みの術師であれば呪力で強化したら届くかもしれないが、アリシアは呪いのなんたるかをまるで分かっていない状態。
それでも逃げようという意思は捨てきれず、どこかに抜け道はないかと見渡しているが、それも無駄な努力。
包刃の術式は必ず標的に追いつく。
「あぁ〜あ、もうお終いか」
「あ、ああああッ!!!??」
アリシアはもう逃げ道はないと悟った。
壁際まで追い詰められてしまった彼女は、その背を壁に付けて、再度その絶望的事実に打ちのめされる。
涙で前が見えない。
死にたくない。
しかし、逃げ道がどこにもない。
それをもう嫌でも理解してしまったら、無気力になるしかない。
ずるずると背を壁に押し付けながら、冷たい地面へとへたり込む。
そんな時だった。
ポン! と。
軽い音が鳴り、両者の頭上に甲高い声が響いてくる。
『『リンゴンリンゴンリンゴンリンゴンリンゴンッ!!!!!!』』
「「!?」」
『『泳者による死滅回游へのルール追加が行われました。〈総則〉九=泳者は他泳者の情報───“名前”、“得点”、“ルール追加回数”、“滞留結界”───を参照できる』』
二つの声は完璧に合わさり、そして二人に同時にそのことを告げる。
「へぇ〜、面白いルールだ」
包刃はそう言うが、しかしアリシアはそれどころではなかった。
絶体絶命の危機へと陥っている中でそんなことを教えられても、なんの役にも立たない。
「ま、それは後で確認するとして··············今は目の前のご馳走を」
勝利が決定する。
包刃は今まで何人の人々をそれで殺めたか分からないほどに錆びついた包丁を、無慈悲に振り上げる。
「嫌だ·············!!」
壁に背中を押し付け、地べたに座り込んだまま、アリシアはただ涙を流して叫んだ。
「助けて、お兄ちゃん·············ッ!!」
これから来るであろう残酷な運命。
それはアリシアには耐え難い恐怖そのものだった。
「死にたくない!! 死にたくないッ!!!!」
恐怖を拒むように、そう祈った。
そこで。
ドクン!!
極限状態の『死への恐怖』と『助かりたい』という、負の感情から来る純粋な願い。
それが、
その瞬間、彼女の胸の奥深く。
彼女をずっと大事にしていた“
主の圧倒的な
「まずはそのうるさい喉から綺麗に切り開いてやるよぉッ!!!!!」
「いやあああぁぁぁぁぁああああああああああああああッ!!???」
男が歓喜の声を上げ、アリシアの細い首筋を狙って狂気的に研ぎ澄まされた包丁を力任せに振り下ろした。
───その、刹那だった。
アリシアが恐怖のあまり、
パキィン、と。
路地裏の空間そのものが、まるでガラスの壁が割れるかのような鋭い音を立てて、目に見えて罅割れた。
すると、どういうわけか。
「あ·············ああ?」
包刃は口だけでなく、鼻からも血を流した。
その時に彼は、自分が異常事態に陥ったことをもっと深く理解しておくべきだったかもしれない。
でも、もし。
「ブハッ!?」
包刃の口から今まで以上に赤い液体が洩れた。
アリシアも包刃も、一体何が起きているのか気付いていなかった。
呪力の残穢、それを視界に捉えることができる術師ならば、今起きているこの現象を説明できるはずだ。
それは死滅回游の最も重いペナルティである『術式の剥奪』と全く同じ───いや、それ以上に強引で暴力的な、『
「なっ········!? あんだ、こべ!? 術式が発動しあ········いや、あんだこへ、頭が、おえの脳があ、あ、が、あぁあああああアアアアアアアッッッ!!!??」
包刃は自身の呂律が回らないことにすら気付かず、その手から自慢の包丁が力なくこぼれ落ち、アスファルトに冷たく甲高い音を立てた。
次の瞬間。
男の目、鼻、そして両耳の穴から、ドロリとした濃い鮮血が勢いよく吹き出した。
包刃は自身の頭を両手で抱え、狂ったように絶叫する。
何か不可解な現象を受け、理解不能な法則に従って包刃の脳の術式への回路は完全にジャミングされ、術式を司る脳の部位が物理的にグチャグチャに破壊されていく。包刃がこれまで数多の非術師を殺し、快楽を得るために溜め込んできたドロドロとした呪力の全ては今や自分自身の脳を内側から焼き焦がし、液状に溶かすための地獄の業火へと強制変換されていた。
「あ········あ、が、あ········ッ!!」
最終的に白目を剥き、すでに生ける死体となりつつある呪詛師の包刃の巨体。
その身体は自重を支えきれず、膝から崩れ落ちるようにして、目の前で座り込んでいたアリシアの方へと前のめりに倒れ込んできた。
ドサリ、と。
生温かい、強烈な血と臓物の臭いを撒き散らしながら、大人の男の重苦しい肉体が、アリシアの小さな腹の上へと完全に覆い被さってきた。
「───ッ!? いやああああああああああああああああああッッッ!!!!???」
お腹を圧迫するあまりにも凄まじい肉の質量。
ワンピースの生地を通して、じわじわと染み込んでくる他人の生温かい血液の感触。
およそ五歳の女の子の精神が耐えられるはずのない、極限のグロテスクと絶望。
アリシアは完全に自我を失った悲鳴をあげ、腹の上の死体を全力で拒絶し、この悪夢を視界から消し去りたい一心で、泣き叫びながら目の前の肉塊に向かって右手を思い切り振り抜いた。
渾身のビンタだった。
それは戦うための意志ではない。
ただの、“五歳児の必死の拒絶”。
しかし、
その『消えて、来ないで!』という純粋すぎる願いを、彼女の胸の奥の呪物が空間ごと全面的に肯定し、
ドッゴオォォォォンッッ!!!
大気が爆発したような、鼓膜を激しく震わせる轟音が路地裏に響き渡り、
とある人物によって制御装置を意図的に壊された並外れた肉体スペック。
乙骨憂太に匹敵する、底なしの呪力の奔流。
それらが完全に一点で同調した。
狙って出せるはずのない奇跡の現象───“
脳を破壊され無防備な肉塊と化していた包刃の身体は、アリシアの小さな手のひらから放たれた理不尽な質量に弾かれ、凄まじい速度で弾け飛んだ。
そして、路地裏のコンクリート壁へと猛烈な勢いで叩きつけられる。
ベキベキベキベキィ、と。
壁に激突した包刃の肉体はその凄まじい衝撃に耐えきれず、まるで前衛的な現代アートの絵の具のように四散して、壁一面に飛び散った。
さっきまで生きていた人間が一瞬にして、コンクリートを赤く染めるだけのただの汚れへと変わる。
「ひっ、あ、う、うあぁ·············ッ!!」
自分でやっておいて、目の前で起きた現象の意味が全くわからない。
次から次へとわけのわからない恐ろしい展開に頭がついていけず、さらには五歳の女の子が耐えられるはずのない凄惨極まりない光景を目の当たりにしてしまった。
すでにアリシアの精神と脳は、限界を迎えていた。
「あ──────」
カクン、と。
糸が切れたように上半身の力が抜け、彼女は自分の右手を見つめたまま意識を手放して、冷たい地面へと倒れ込んだ。
静まり返った路地裏。
赤い現代アートだけが残された廃墟に、ふわりとコガネが現れる。
アリシアに憑いているコガネは、壁一面に飛び散った包刃猟二という誰にも覚えられなそうな男だった赤い残骸には目もくれず、ただその血の海の中でピクリとも動かなくなった小さな金髪の少女を見下ろした。
そして。
パニックに狂う泣き声の残響を嘲笑うかのように、あまりにも非情な現実を告げた。
『五点が追加されました』
人を殺したという重罪の重みも、五歳の少女が背負わされた絶望の深さも、コガネというこの殺し合いのシステムにとってはただのデータ、規則正しいゲームの進行でしかなかった。
昏睡する少女の頬に、飛び散った男の肉片が冷たくこびりついている。
コガネが残した非情なその非情なシステムのアナウンスの余韻だけが、泣き叫ぶことすらできなくなった少女の横で。
虚しく。
どこまでも冷酷に響き渡っていた。
◇◆◇◆◇◆◇
ドッゴオォォォォンッッ!!! と。
路地裏全体を震わせたあの凄まじい爆発音は、近くの古い商業ビルの地下倉庫にまで響き渡っていた。
薄暗いコンクリートの空間で身を寄せ合っていた一般人達は、一斉に肩を震わせ、あまりの轟音に耳を塞いで地べたに縮こまった。
「···········今のはなんだ? またあのサイコ野郎が暴れてるのか?」
長く、不気味な静寂が周囲の通りを支配した後、一人の若い男性が恐る恐る顔を上げた。
彼らはこれまで周囲にいる一般人をただの快楽目的でなぶり殺していた『殺人鬼』から、息を殺して隠れ続けていた避難民の生き残りだった。
一緒に逃げてきて散らばった仲間達の悲鳴ばかりが響いてきて、しかしあの謎の轟音が響いてからというもの、不思議に思えるほどに辺りからは悲鳴が一つも聞こえなくなった。
男二人は暗闇の中で顔を見合わせる。
「獲物がいなくなったから他所へ行ったのかな···········?」
「いや、もしかしたら···········とにかく慎重に外の様子を確認しよう。ここにずっと閉じ籠っていても、いつかはアイツに見つかる」
「あ、ああ···········」
もう一人の男が意を決したように頷き、二人は錆びついた地下の非常扉をゆっくりと音を立てないように押し開けた。
一歩外へ足を踏み出すと、鼻が曲がるほどの凄まじい血の臭いが風に乗って漂ってきた。アスファルトのあちこちに広がる赤い液体を踏むのすら悍ましくて勇気の要る行為だったが、二人の心はどこか麻痺していた。
すでにこの世界は数日前に壊れてしまい、東京や仙台どころか日本中がこの不気味な結界に覆われ、“呪い”とかいう異形の化け物や、それを扱う異常者まで目の当たりにしている。
わずかながらも彼らはこの異常な現実に適応し、悲しくも慣れつつあった。
割れたアスファルトを踏み締め、血の臭いが最も濃い瓦礫の広がる裏路地へと慎重に進んでいく。
すると、崩落したコンクリート壁のふもと。
そこにぽつんと小さな何かが倒れているのが見えた。
「おい、あれ···········!!」
一人の男がそちらに指差す。
それに続いてもう一人の男も気付く。
「嘘だろ!? なんで、こんな場所に···········!?」
二人は息を呑み、周囲を警戒しながらも駆け寄った。
そこに倒れていたのは、この血生臭い残酷なデスゲームの舞台にはあまりにも場違いな、可愛らしい一人の女の子だった。
まるで絵本や童話の不思議の国のアリスに出てくるような、綺麗な青い衣服を着込んだ金髪の幼い少女。
その小さな身体は周囲の壁に飛び散った返り血を全身に浴びて、無惨にも血まみれになっていた。
「なんでこんなところに女の子が? 母親から離れて迷子になっちまったのか?」
「分からねぇけど··········こんな地獄みたいな場所にこんな小さな子を放っておけねぇよ。あのイかれた殺人鬼が戻ってきたら、この子も危ない」
二人は泥と血でまみれた子供の顔を見つめ、力強く頷き合った。
彼らはこの行き場のない少女を自分達の隠れ家で匿うことを決める。
「よし、じゃあ俺がおぶる。ここは危険だ、早く引き返そう」
「ああ」
一人の男が少女の小さな身体を優しく背中に背負い、二人は元来た商業ビルへと急ぎ足で戻り始めた。
自分達が護るべき小さな命の重みを背中に感じながら、男は必死に足を動かす。
··········だが彼らは気付いていなかった。
彼らが焦りながら歩く、その足元。
割れたアスファルトの隙間や、ビルのひび割れた暗がりの奥深く。
日本の住宅であれば誰もが毛嫌いし、見かければ悲鳴をあげて逃げ出す、あの忌まわしい『黒い物体』が。
カサカサ、カサカサと。
数匹、数一◯匹と。
いや闇の奥からは数え切れないほどの群れが、彼らの足跡を追うように蠢いていた。
それは、ただの不衛生な害虫などではない。
近くにあるスタジアムを拠点にしている『宿老』の気配を恐れて闇の底で眠っていた、“特級呪霊”の無数の『目』であり。
新たに現れた新鮮な肉の存在を値踏みするように、じっと監視の視線を注いでいた。
かすかな、しかし確かな悍ましい羽音の予兆が。
静まり返った仙台の夜の闇へと、深く溶け込んでいく。