呪術廻戦リリカルなのは∅   作:織姫ミグル

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第14章

 

 

「クソ········なんで俺がこんな目に········ッ!!」

 

 

東京第一結界の重苦しく澱んだ空気の底。

 

崩落した建物の壁の影に身を潜める呪術師────“甘井凛”は。

 

凍りついた自身の呼吸の音さえも恐れるようにじっと身を竦めていた。

 

その右手には滲み出る冷や汗のせいで生温い感触を伴った誘導灯が握られている。焦りのあまり、もしくは暇つぶしとしてなのかスイッチのオンオフを切り替えまくって明滅させるその無機質な光のシグナルは、確認ができたら結界でも覆い隠せていない青空へと向けられ、上空からの獲物を仕留めるために待ち伏せをしている凶悪なカップル術師への合図となっていた。

 

つまりは彼はマーシャラー、所謂航空機誘導員としての役割を与えられたことで命の保証を約束されている。

 

これが普通の誘導だったら良かっただろう。

 

だが彼がやらされているのは生贄を捧げるに等しい。

 

新たに足を踏み入れてきた泳者をいち早く察知し、あの冷酷な二人の元へと生贄を誘導する。それがこの死滅回游という理不尽な殺し合いの盤面において、呪術師として決して強くはない術式を持つ甘井に課せられた、あまりにも惨めな役割兼生存戦略だった。

 

元々彼は強いとは言えない、しかし強者のグループに入り込めるだけの交渉術及び適応能力はある。

 

強い奴らの陰に隠れ、その一部のように振る舞うことで自分も強く見せている。謂わば他者の強みをブランドとして身につけているだけの下っ端だ。こき使われることを受け入れる代わりに自分の評価を上げている。

 

だからここでもそうしていた。

 

術式に目覚めたと言っても、その術式は一般的に見れば役には立たない、外れの分類に入るものだった。

 

術式とは解釈次第で使用方法を広げられるのが主だが、彼の場合は使い所が限定的すぎて、少なくとも戦闘向きではないだろう。

 

従って彼はここでもいつものような戦略で生き残っているが、傍から見たらあまりにも惨めで、高得点保持者である“日車寛見”という圧倒的な強者が結界内にいる以上は他の強い奴らのところに身を置くことで、辛うじて己の生存権を担保しているに過ぎない。

 

もしここで上空を支配する羽生と羽場の二人に獲物を提供できなければ、次にあの残虐な牙の矛先が向くのは自分自身であるという恐怖。

 

その視認できないタイムリミットが甘井の全身を冷たい汗で覆い尽くしていた。

 

 

(早く········!! 誰でもいいから、早く来てくれ········ッ!!)

 

 

生きた心地のしない沈黙が結界内の時間を無限のように引き延ばしていく。

 

周囲に漂うのは生物としての生存本能的が拒絶するほどに毒々しく濁った、絶対的な『呪い』の残穢に他ならなかった。

 

身体を内側から蝕むような不快感と、いつ自分が惨殺されるか分からないという焦燥。

 

甘井はただ祈るように結界の境界線を見つめ続けていた。

 

さもなければ、自分があの冷酷な二人に惨殺される未来しか残されていない。

 

その時。

 

空間の境界で影。

 

つまりは待ち望んでいた新たな泳者が、結界内へと落下してきたのを確認した。

 

 

「来た!!」

 

 

甘井の喉から焦燥と同時に安堵が激しく入り混じった、歓喜のような掠れ声が漏れる。

 

これでようやく自分は死の恐怖から一時的に解放される。

 

直後、上空から鼓膜を強烈に圧迫するような猛烈な風切り音が響き渡った。

 

青空を切り裂き、合図を確認した羽生が猛然と急降下を開始したのだ。

 

彼女の術式によってジェットエンジンの如く変形した髪が爆発的な推進力を生み出し、重力に従った位置エネルギーの全てを乗せて突進する。困惑し、一体どうしたら助かるかと思考を懸命に働かせて動揺しまくっている獲物を一撃で肉塊へと変えるための、絶対的な奇襲。

 

だが。

 

その結末は甘井の予想を、あるいは襲撃した張本人である羽生自身の目算を遥かに裏切るものだった。

 

轟音と共に巻き上がった爆煙の中、迎撃の凄まじい衝撃波が走る。

 

あろうことか突進したはずの羽生の身体が、激しい煙の向こうで無惨に地上へ落ちていたのだ。

 

信じがたい肉体強度によって、その超高速の奇襲が逆に襲った相手に撃ち落とされた瞬間だった。

 

 

「あれ········!?」

 

 

甘井は息を呑み、ビルの屋上で降り注ぐ太陽の光を軽減させるように両手を目の上に当てて影を作って眼を凝らしていると、驚愕のあまり目を見開く。

 

そしてそれは上空で戦況を見下ろしていた彼女のパートナーである羽場にとっても、天地がひっくり返るほどの衝撃だった。

 

無敗を誇るマイハニー、羽生の急襲があろうことか一瞬で、それも文字通りの力負けという形で瓦解させられたのだ。驚愕に顔を歪めた羽場は激しい動揺を苛烈な激昂へと変え、すぐさま獲物へと向けて飛び出していった。

 

その光景を目撃した甘井の口から、衝撃に満ちた呟きが漏れる。

 

 

「羽場さんが出てきた、羽生さんはやられたのか········?」

 

 

恐怖に身を竦めながら甘井はその爆煙の奥に佇んでいる、羽生を退けた『謎の参加者』の影を必死に凝視した。

 

落ちてくる最中に見えたあの細身の体躯、特徴的な短髪、底の知れない圧倒的な身体能力。

 

 

「アイツ、どこかで········」

 

 

見つめ続けるうちに、その輪郭が甘井の記憶にある“一人の少年”の姿と完全に重なり合う。

 

 

「虎杖!?」

 

 

記憶の底から湧き上がるように浮上してきたその名前に、甘井は驚愕のあまり喉を震わせた。

 

かつて自分の知る地元で、あまりにも規格外の身体能力を以てして、自分が当時入っていた不良グループを叩きのめした同郷の少年、虎杖悠仁。

 

何故彼がこんな地獄の殺し合いの舞台にいるのか、その事実に脳が追いつかない。

 

甘井がその衝撃に固まる間にも、頭上からは大気を連続で引き裂くような凄まじい駆動音が響き渡っていた。

 

飛び出していった羽場が頭頂部のプロペラを猛烈に回転させてビルとビルの間の高空を自在に飛翔し、物理の法則を力へと変えた急降下襲撃を虎杖へと仕掛けているのだ。

 

対する虎杖は一瞬だけ反応が遅れたせいで羽場にその身を掴まれたものの、変わらぬ超人的な身体能力を以て相手の超高速の猛攻を間一髪で捌き、激しい高低差の立体戦を展開していく。

 

虎杖が羽場と空中で取っ組み合うせいでコントロールを上手く制御出来ないのか、近くのビルにプロペラが当たってコンクリートの破片を激しく巻き散らしながら、二人の死闘は一瞬の油断も許さない緊迫感に満ちていた。

 

そしてついに二人は離れ、そこを追撃するように羽場が落下する虎杖を狙う。

 

勝負あり────虎杖以外の誰もがそう思った。

 

その時だった。

 

キィィン、と。

 

羽場や羽生とは違った、空間そのものが鳴動するような高密度に洗練された謎の波長。

 

そして、

 

 

 

「アクセラレイタァァァアアアアアアアッッッ!!!」

 

 

 

()()()()()()”。

 

眼光から激しい火花を散らしていた虎杖と羽場の戦線を容赦なく切り裂き、天から一筋の光が凄まじい速度で乱入したのだ。

 

予想外のことにそれは虎杖の方へと向かっていっており、光が彼のところを通過すると同時に、少年の姿までも消えていた。

 

呆気に取られて、甘井と羽場は闖入者を凝視する。

 

 

「な、なんだ········“()()()”!?」

 

 

両手の影から必死に目を凝らす甘井の視界に、それはあまりにも奇怪な光景として焼き付いた。

 

流星の如く降り注いだ光の中から現れたのは、“()()()()()調()()()()()()()()()()()()()()()()()()()”。

 

右手に未知の輝きを放つ、槍のような『杖』を握り、

 

自身の背丈を遥かに超えるほどの虎杖の体を持ち上げ、凄まじい威風を以てその戦いの渦中へ降臨したその姿。

 

呪力とは思えないくらいにあまりにも清廉で神秘的すぎるその桜色の光に。

 

甘井の視界はただ驚愕一色へと染め上げられていく。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

それを見ていたのは彼らだけではなかった。

 

虎杖悠仁の中────“()()()()()()()()()()

 

そのさらに奥深く、呪力の深淵に位置する“()”の生得領域は、外の青空とは完全に隔絶された、文字通りの地獄そのものであった。

 

視界を埋め尽くすのは血のように赤い池、ねっとりとした鉄錆の臭いを放つ血水が音もなく不気味に波紋を広げている。

 

その血の池の中央には、数え切れないほどの牛の頭骨が無惨に積み上げられ、巨大な山を形成していた。

 

肉を削がれ、白骨化した無数の眼窩が生者への呪詛を孕んだまま虚空を凝視している。

 

その悍ましい骨の山を玉座とし、“()()()()()()()()()()()()()

 

 

『ケヒッ、ヒヒ······ッ!!』

 

 

愉快そうに嗤っている影響で、虎杖を模したその仮初めの体を小刻みに震わせ、その禍々しい気配に血の池が呪力で激しく波打ち、牛の頭骨がガチガチと不吉な音を立てて震える。

 

腹の底から欲そのものが這い上がってくるような“彼”の嗤い声が、生得領域の闇に幾重にも反響した。

 

虎杖の器の内側から常に外の光景を退屈に見届けている『呪いの王』は、今まさに乱入してきた予想外の異分子の姿に、不気味な愉悦の笑みを深めていた。

 

“彼”にとって乱入してきた少女の存在は、決して忘れることのできない『借り』がある忌まわしい小娘だった。

 

 

『これは良い············想定外だ』

 

 

かつて異世界で対峙した際、現代の最強である五条悟と同じように明確な一撃を刻み込み、自分を凌駕してみせた不遜なる“魔導師”。

 

あの決戦の終わり、虎杖達が元の世界へと帰還する別れの間際、“彼”は虎杖の頬に口だけを発現させ、その悍ましい『呪いの言葉』をまだ幼い彼女達へと直に投げかけていた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

と。

 

 

『まさか、このような形で············しかもこんなに早く会えるとは』

 

 

虎杖や“彼”にとってはつい二、三週間前の記憶に過ぎない。

 

だがその短い空白の後、檻の向こうに再び現れたあの小娘は驚くほどにしなやかに、かつ大人の領域へと肉体を劇的に成長させてその場に現れていた。

 

 

────高町なのは。

 

 

身体付きも気配も、あの時とはまるで違う。

 

だがそれは────“彼”も同じだった。

 

今の“彼”が有する力は、すでに“指一五本分”という、世界の均衡を指先一つで容易に崩壊させる領域にまで膨れ上がっている。

 

 

 

待っていたぞッ!! 小娘ぇええええええッ!!!!!

 

 

 

血の池に牛の頭骨の影が赤黒く落ちるなか、完全なる復活を果たすその機会をじっと窺いながら、“彼”はかつて誓った『盛大な殺戮』の瞬間が今から待ち遠しくてたまらないと言わんばかりに、

 

地獄の深淵で、残酷な狂笑を浮かべていた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

音速の壁が爆ぜるような轟音と共に、ビルを囲む呪力の残穢がその衝撃波に激しく引き裂かれた。

 

 

「チッ、なんじゃあ小娘!! どっから現れよったぁッ!?」

 

 

頭頂部のプロペラを猛烈に回転させ、自らの呪力の全てを乗せて超高速で急降下していた羽場は、激突の刹那に視界へ割り込んできた未知の残光に不快そうに表情を歪めていた。

 

だがその光の主が選択した行動は、羽場への直接的な迎撃ではなかった。

 

光の渦の中から現れたのは、呪術師の呪力とも、呪霊の異形とも完全に一線を画する、洗練された青と白の戦闘服を纏った一人の少女。

 

 

────高町なのは、そのものだった。

 

 

彼女は激突のコンマ数秒前、空中で無防備であった虎杖悠仁の身体をその手で力強く掴み上げると、慣性をも完全に無効化して垂直上空へと急浮上したのだ。

 

確かな殺意を孕んだ羽場の超高速突進は、誰もいない虚空を虚しく切り裂くだけの結果に終わる。

 

 

「悠仁君!! 詳しいお話は後ね! 頭の上に変なものをつけてる人がこっち見てきてるから············まずはあの人に集中だよッ!!」

 

「え!? あ·········お、おうッ!!」

 

 

突如として空から舞い降り、自分を掴んで宙へと連れ去った、見違えるほど凛々しく成長した戦友の姿。

 

虎杖悠仁は一瞬にして、自分の知識では言葉にできないほどの激しい衝撃と困惑に頭を塗り潰された。

 

だが、数々の死線を潜り抜けてきた彼の本能が今はその疑問を力尽くで捩じ伏せる。

 

 

「「ッ!!」」

 

 

数多の修羅場を潜り抜けてきた二人の間に、無駄な感傷や戸惑いが挟まる余地はなかった。

 

虎杖は即座に実戦思考へと脳を切り替え、なのはのホールドに身を委ねる。

 

 

「アクセルシューター!!」

 

『Accel Shooter』

 

 

なのはは右手一本で、愛機の『レイジングハート』を構えた。

 

高町なのはという魔導師の真髄は、その圧倒的な火力だけではない。彼女は生まれながらにして、戦場全体の座標と熱量を秒単位で把握する天性の『空間把握能力』を有していた。相手が次にどう動き、どの軌道を選択するか、それを測る未来予測に等しい直感は彼女にとってすでに己の指先を動かすのと同義の領域にまで達している。

 

彼女が選択したのは、最も扱い慣れた得意魔法────誘導操作追尾弾“アクセルシューター”。

 

自動追尾機能に加え、術者の思念によって弾道を自在に変幻させられる優秀な中距離射撃魔法。

 

本来であれば、彼女的にこういう技の使い道としては対魔導師戦における『処理・回避が困難な誘導弾』への油断のない対応を後進に叩き込むためのもので、教導の場で積極的に用いられる精密な技術。

 

それをなのはは今、この異界の術師を『攪乱』するために発動した。

 

 

「シュート!!」

 

 

レイジングハートの杖先·········羽場から見れば死を告げる銃口にも等しいその先端から、桜色の花火が打ち上がったかのように無数の光弾が空中へと炸裂する。

 

それらは全て、明確な『意思』を宿した生き物のように、ヘリのプロペラを唸らせる羽場へと殺到した。

 

 

(な、んじゃ·········あの術式は!? 追尾してくるのかっ!?)

 

 

羽場は空を飛んでいるとはいえ、所詮は人間の頭部から生えたプロペラによる推進力。

 

空戦では絶対強者であるなのはの機動力と弾道制御の前には、あまりにも鈍重で、あまりにも無防備だった。

 

それはかつて、紅蓮の鎧を纏い、古代の鉄槌を操る誇り高き騎士を足止めした時と同じ手法。

 

桜色の光弾は羽場を直接撃ち抜くのではなく、彼の周囲を高速で旋回・包囲するように展開し、その場に文字通り縫い留める檻となった。

 

なのはのコントロールはかつてのそれとは比べ物にならないほどに精密で、卓越だった。

 

 

「ッ!?」

 

 

羽場の周囲に舞う光弾は素早い軌道によって即座に檻を形成、完全に退路を断たれ、空中の一点に固定される。

 

本来、なのはの操る魔力はこの世界の『負のエネルギー』ではない。故に、完全な呪いの塊である『呪霊』に対して魔法を放ったとしても、それはホログラムに対して攻撃しているようなものであり、一切のダメージを与えることはできない。

 

だが、眼前の敵は違う。

 

呪いの力を用いてはいるが、そのベースは実体を持った生身の人間───『呪術師』だ。

 

人間である以上、肉体があり、痛覚がある。

 

なのはの魔法は『非殺傷設定』によって殺傷力こそ付与されていないが、相手を無力化するためにある程度のダメージは与えられるように、それをまともに直撃すれば『暴動鎮圧用として用いられる硬質ゴムで作られた弾丸』のような、凄絶な衝撃と激痛がその肉体を襲う。

 

しかし、ここでなのは自身が追撃を決めることはしなかった。

 

 

「なのは!!」

 

 

彼女の左腕に掴まれていた虎杖が、弾幕の檻に囚われた羽場を睨みつけながら鋭く叫ぶ。

 

 

「────ッ!!」

 

 

その一言だけで、なのはは虎杖の意図を完全に察知した。

 

『了解!』と言わんばかりになのはは美しくしなやかな腕のバネを使い、虎杖の身体を躊躇なく宙へと放り投げた。弾丸のように羽場の手前へと射出された虎杖は空中でその驚異的な体幹を発揮し、その体を地上へと強引に墜落させるために羽場の両足をガシッと力強く掴み取った。

 

 

「おどれ────!?」

 

「ふんッ!!」

 

「うおっ!?」

 

 

驚愕する羽場の叫びを余所に、虎杖は自身の肉体の質量を全て重力へと委ねる。

 

 

ドゴゴゴゴゴッッッ!!!

 

 

そのまま羽場の身体を引き摺り下ろし、眼下に聳える建物の壁面へと強烈な摩擦音を立てながらその肉体を擦り付け、削りながら地上へと圧着させた。

 

 

「ガハッ·········!? チィッ!!」

 

 

地上へと叩きつけられた羽場は尚も執念深く頭頂部のプロペラを激しく回転させ、再び上空へと逃れようと浮力を生み出す。

 

だが、

 

ドガガガガガガガガッ!!! と。

 

その頭上から、空中に留まっていた残りの『アクセルシューター』の弾幕が、怒涛の嵐となって降り注いだ。

 

 

「ぎ、ああ、ガァッ!? こ、この·········ガキどもがァッ!!」

 

 

羽場や羽生が操る術式の基軸は、あくまで『頭髪』である。

 

頭頂部から離れれば離れるほど、その肉体の呪力的強度は著しく低下する。非殺傷とはいえ、四肢や胴体に次々と着弾する桜色の衝撃が羽場の肉体に刻み込まれていく。

 

もちろん、この羽場だって術師である以上は呪力を纏えば肉体も五◯口径は弾くほど強固となって痛みもなく、なのはの魔法の直撃を受けてもびくともしなかったが───それで充分だった。

 

狙いは足止めだ。

 

羽場にとって今の感覚を一言で言い表すなら、鬱陶しいことこの上ないだろう。

 

痛みはなくても、大量の雨に打たれれば動きも鈍くなる。

 

虎杖の超絶的な引きずり下ろしで羽場を地上に縫い付け、なのはの無慈悲な追撃弾幕がそれを固定した。

 

それは即ち───虎杖悠仁にとって完全に『地の利』を得たも同然の状況を意味していた。

 

 

ゴオオォォォンッ!!!!!

 

 

低い鐘の音による子孫終了のお知らせが響き渡る。

 

ベースとなった肉体そのものの圧倒的な頑丈さと、一切の躊躇のない残酷な踏み込み。

 

羽場が誇る術式による防護のさらに内側───“()()()()()()()()()()()”へと、虎杖の右足がしなやかに、かつ強烈に振り抜かれた。

 

 

「お、おおう········ッ!?」

 

 

走馬灯でも見ているのか、全身が麻痺したように体を硬直させ、そして綺麗な青空をその苦悶に満ちた瞳に落としていた。

 

たとえどれだけ強固な肉体を持っていても、男ならば“()()”が弱点であることは変わりない。

 

視界に映る青空が遠退くような鈍い衝撃が全身を駆け巡ると共に、羽場は口から泡を噴きながらその場に情けなく崩れ落ち、白目を剥いて完全に沈黙した。

 

虎杖が一瞬の隙を突いて放った、情け容赦のない強烈な蹴り。

 

その衝撃は男である羽場の意識を文字通り一撃で闇へと叩き落とし、彼の意識はそのまま重力に従って地上のコンクリートへと無様に墜落していった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

呆気ない音を立てて地表へと叩きつけられた羽場の巨体は、コンクリートの粉塵を僅かに舞い上げ、それきりピクリとも動かなくなった。

 

激しい戦闘の余熱だけが白く濁った煙となって、朝の冷たい空気の中へと静かに溶けていく。

 

静寂を取り戻した地上。

 

そこには今、出会うはずもない二人が静かに佇んでいる。

 

 

「········」

 

「········」

 

 

一先ず虎杖悠仁はゆっくりと踏み出した足を下ろし、そして近くに降り立って自身の愛機であるレイジングハートを静かに静止させた高町なのはへと、困惑の末に何の感情を抱けばいいのか分からなくなった瞳を向けた。

 

 

「········なのは」

 

 

その名前をこっちでまた呼ぶことになるとは思ってもみなかった。

 

本当ならこの場所にいるはずのない人間が、今目の前に立っている。それぞれ全く異なる世界に生き、二度と交わることのないはずだった境界線を越えて、彼らは今再び相見えた。

 

しかし、

 

その奇跡的な瞬間、二人の間に流れたのは劇的な再会を喜ぶような単純な熱を帯びた言葉ではなかった。張り詰めた戦場の空気の中にどこか歪で、酷く奇妙な冷たい沈黙がじっとりと漂っていた。

 

 

(こういう時········何から聞けばいいんだ?)

 

 

予想外だらけの現状に、虎杖悠仁の脳は処理しきれない激しい混乱の渦に叩き込まれていた。

 

彼の主観において、なのは達の世界で『闇の書』という災厄の暴威を共に生き抜き、元の世界へ別れてからまだほんの二、三週間しか経っていない。

 

ついこの間まで幼い面影を残したまま自分の隣で一生懸命に笑っていたはずの、小さな少女。

 

だが今目の前に佇むなのはの姿は、そのあまりにも短い時間感覚を、奇想天外な現実を以てへし折っていた。

 

───驚くほどに背丈が伸びている。

 

すらりと洗練された四肢、しなやかな強さを感じさせる均整の取れたプロポーション、解像度が劇的に上がったその佇まいからは僅かに幼さはまだ雰囲気として残っているものの、それは間違いなく成長期へと入ったことを意味する大人の女性としての容姿そのもの。

 

完全に中学生前後の年齢にまで一気に成長を遂げているビジュアルであった。

 

たった二、三週間という短期間で、人間の肉体が出会い頭にこれほど見違えるように変貌を遂げるなど、現実の法則として絶対にあり得ない。目の前に実在する大人へとなろうとしているなのはと、己の記憶にある年齢の数字がどうしても噛み合わず、虎杖の思考は完全に硬直していた。

 

あまりの異質さに、喉の奥がカラカラに渇いていく。

 

しかしそれは、再会した高町なのはにとっても同様だった。

 

 

(悠仁君········? 本当に、悠仁君········なんだよね?)

 

 

なのはの胸の奥にも、言葉にできない激しい衝撃と、何から切り出せば良いのか分からない戸惑いが去来していた。

 

なのは達の世界において、あの凄惨極まりない聖夜の決戦からすでに約三年という膨大な月日が流れている。別れを告げ、遥か遠い異世界の住民となったはずの虎杖悠仁に、まさかこのような形で再び巡り合うなど、想像の範疇を遥かに超えていた。

 

三年という歳月を重ねて大人へと近付いた自分と、まだあの頃の面影を色濃く残したまま、けれどどこか酷く窶れたような、顔の目立つ傷跡と共に痛々しい雰囲気を纏う虎杖。

 

二人の脳内時間はそれぞれの中で全く異なる速度で流れていた。

 

互いに共通しているのは、『別世界の友とまたこうして出会えた』という事実への感情だけ。

 

だがその背景にある『謎』と『謎』が複雑に絡み合い、あまりにも巨大で不気味なタイムラグの前に、二人は完全に言葉を見失い、ただ微妙な距離感を保ったまま立ち尽くすことしかできなかった。

 

 

「あ········えっと········」

 

 

気まずさ、それがどうしても虎杖の言葉を詰まらせる。

 

結局、虎杖はその異様な空気の重さに耐えかねたように、一度ふぅ〜と肺の底にまで溜まっていた緊張を深く吐き出した。今はどれだけ頭を悩ませたところで、目の前の現実は何一つ変わりはしない。彼は戦場での合理的思考へと強引に意識を切り替えると、視線を足元へと落とした。

 

未だに解決すべき現実的な問題は、この薄暗い結界の地面に転がったままなのだ。

 

虎杖はその場にひょいとしゃがみ込むと、一番喰らってはいけない箇所への強烈な一撃を喰らって白目を剥き、完全にピクリとも動かなくなっている羽場の膝をペシペシと乾いた軽い音を立てて叩き始めた。

 

 

「いや、起きて········日車って術師のこと、聞きたいんだけど········」

 

 

自身の肉体の強さを知ってるが故に手加減はしているものの、一般の人間ならそれだけで命を落とかねない一撃が容赦なく羽場の身体へと刻まれてしまったので、息を吹き返すかどうかは分からない。膝を叩いて起こそうと試みるも、雄としての根源的な急所を正面から撃ち抜かれた羽場が、そのような手ぬるい刺激で意識を取り戻す気配は微塵もなかった。

 

 

「········」

 

 

なのははその虎杖のどこか締まらない尋問の様子を、レイジングハートを携えたまま少し困惑したように見つめていた。

 

つい先程まで死線を共に潜り抜けていた時と同じでどこか抜けたような、けれど親しみやすい彼の本質がそこにあることに僅かな安心感を覚えながらも、やはりその何とも言えない予想外の再会に対する違和感は拭えない。

 

二人がそんな妙な沈黙と小刻みな打撃の音を響かせている中、

 

地上へと降りるために続く廃墟の階段の奥から、カサ、と怯えたような微小な足音が響いた。

 

 

「まじか········っ!?」

 

 

息を呑むような短い引き攣った声と共にゆっくりと姿を現したのは、震える手で誘導灯を握り締めたままの男であった。

 

あまりの恐怖に肩を小刻みに震わせ、足元で物言わぬ屍のように撃沈した羽場を恐る恐る見下ろしている。

 

そしてその視線は羽場の隣に佇む、人間の常識を完全に超越した圧倒的な威風を放つ虎杖と、呪術とは思えないほどに華麗な異能の力で彼を救助していた少女のなのはへと向けられ、そのプレッシャーに完全に気圧されていた。

 

 

「········誰だ?」

 

 

虎杖は羽場を叩く手を止め、怪訝そうに眉を顰めたまま見覚えのないその男へと警戒の視線を向けた。

 

突如として現れた見知らぬ術師の登場に、虎杖の全身の筋肉が僅かに緊張の度合いを増す。

 

男は自らの喉の奥で硬く凍りついていた生唾を無理矢理に飲み込み、必死に手を挙げて敵意がないことを示しながら声を絞り出した。

 

ここで自分の価値を示せなければ、この怪物染みた二人組にどんな扱いを受けるか分かったものではないという、下っ端根性の生存本能が彼を突き動かしていた。

 

 

「ま、待ってくれ! 敵じゃねぇ········っ!! い、虎杖········お、俺知ってるぜ。日車って奴のこと········ッ!!」

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

その男は自身のことを甘井凛と言い、そしてどういうわけか虎杖の名前を知っていた。

 

コガネが開示する情報は泳者の名前と得点だけで、顔は映さない仕様になっている。つまりそれだけじゃ誰が誰だか分からないだろう。名前と顔も一致せず、コガネに目の前にいる相手が誰なのかを訊ねた様子もなかったし、つまりは彼は元から虎杖を知っているということになる。

 

それで警戒していると、彼の口から出てきたのは『西中の虎』という、黒歴史レベルの恥ずかしい異名が出てきて同じ地元の者だと判明した。

 

その名前を聞いた時、心なしか隣にいるなのはも苦笑いを浮かべており、おそらくダサいと思っただろう。

 

そんな彼は虎杖が日車という術師を探していることを知ると、居場所を知っていると言ってきてくれた。そう言われても、素直に信じて良いのか分からない。この殺し合いの舞台じゃ簡単に他人を信用できるわけもない。

 

とはいえ、確証がなく手当たり次第に探し回るのも時間がかかる。

 

一先ずは甘井凛の言うことを信じて、彼を先頭に虎杖となのはの二人は壊れたコンクリートの破片が散らばる大通りへと足を進めていた。

 

 

「········」

 

「········」

 

 

二人の間で気まずい状況が依然として続いている。

 

死滅回游の結界内を覆うどこか不気味な空気を透かすように、頭上には皮肉なほどに澄み渡った青空が広がっている。

 

 

「え、え〜っと········?」

 

 

先導する甘井は、時々酷く怯えたような視線で自らの斜め後ろを歩く二人の怪物を盗み見ていた。

 

一人は地元でも噂になっていた常軌を逸した肉体強度を持つ虎杖悠仁であり、もう一人はどこからどう見ても呪術とは逸脱した力を持つ未知なる少女である。二人から放たれる目に見えない圧倒的なプレッシャーに挟まれながら、甘井はただ心臓を狂ったように脈打たせて歩くしかなかった。

 

その背後を並んで歩く虎杖となのはの二人は、先程から一言も言葉を交わすことなく、ただ目を逸らしながら、でも時々互いを見ようとチラリと顔を動かしては別方向を見てを繰り返し、結局は前を見据えたまま静かに歩調を合わせていた。

 

甘井的には、それが一番怖かった。

 

何だか破局したばかりのカップルのような、そんな悲惨な結末後に望まぬ再会をした時の雰囲気に近い暗さが両者の間から漏れ出ている。異質な二人がこういう感じでいられると、先導しているこちらとしては気まずいを通り越して痛たまれないのだ。

 

陽光が照らす廃墟の東京の街並みに、互いの足音だけが虚しく響く。

 

沈黙が長引けば長引くほど、その空間に漂う異質の歪みが、二人を肉体的にではなく精神的に鋭く引き離していくような錯覚さえ覚える。

 

互いの脳裏に何度も行き来する数多の疑問と、何から聞いて手を付ければ良いのか分からないという果てしない焦燥が、彼らの喉を固く閉ざしていた。

 

 

「「·······ッ!!」」

 

 

だがこれ以上、この奇妙に捩じ切れた沈黙の中に留まっていることはできない。

 

そう同時に思って限界を迎えたかのように。

 

二人は不意に。

 

互いに視線を交わすこともないまま、ほぼ完全に同じタイミングで口を開いていた。

 

 

「ねぇ────!!」

 

「なあ────!!」

 

 

降り注ぐ陽光の下、張り詰めていた空気を二人の掠れた声が同時に叩いた。

 

なのはの凛とした、けれど少し戸惑いを含んだ声と。

 

虎杖のどこか低く、迷いを孕んだ声が。

 

青空の下で微かに重なり合って霧散する。

 

 

「あ·······」

 

「あ、いや·······」

 

 

ほんの一瞬だけ、互いの視線が交錯した。

 

しかし同時に言葉を発してしまったという気恥ずかしさと、それ以上に『何を言っても今の状況の決定的な回答にはならない』という無力感が瞬時に脳裏を過り、二人は再び気まずそうに視線を前方へと戻してしまった。

 

差し出そうとした言葉の糸口が自らの手の中で不器用に絡まり、結局は振り出しに戻った。

 

さっきよりも深く重苦しい沈黙の底へと沈み込んでいく。せっかく訪れたはずの互いの歪みを紐解くための最初の機会は、こうして再び静かに失われてしまった。

 

 

「あ〜、あの·······さ?」

 

 

そんな二人の、傍から見ればあまりにも不自然で、けれどどこか妙に息が合っている微妙な空気感を、前を進む甘井は背中で敏感に察知していた。

 

下っ端としての生存本能が、この重苦しい沈黙をどうにかして打破しなければ自分がこの空気の重圧に押し潰されてしまうと告げていた。

 

つまり、じれったい。

 

甘井は少しだけ歩調を緩めると肩を竦めたまま、恐る恐る振り返って二人の顔を伺うように声をかけた。

 

 

「あのさ·······お前ら二人って、その·······知り合い、なんだよな?」

 

 

甘井のその素朴で、けれどこの緊迫した状況においては酷く場違いなほどに日常的なその問いかけが、凍りついていた空間の氷を僅かに融かすように響く。

 

虎杖は不意を突かれたように瞬きをし、なのはもまた、その大きな瞳をパチクリとさせて甘井の方へと視線を向けた。

 

 

「あー·······まあ、知り合いっていうか·······」

 

「うん、その·······」

 

 

二人はずっと気まずそうにしながら、でも息が合ったように同じ素振りを見せている。

 

両者とも困ったように片頬を指で掻きながら、同時にこう言った。

 

 

「「大切な友達、かな·······」」

 

 

二人は声が揃ったことにちょっと驚いたようで、互いに顔を見合わせて固まっていた。

 

友達、なのはがそう言ってくれたおかげで虎杖は改めて自分は彼女にとってどういう存在なのかを知ることができた。

 

昔、あんな出来事があっても、彼女は虎杖をまだ友達だと言ってくれた。

 

それだけで、救われた気がした。

 

 

「「·······プっ!!」」

 

 

案外、まだお互いに気が合うところを確認できて嬉しいのか、また同時に思わず吹き出してしまった。

 

甘井の何気ない質問をきっかけに、二人の口からようやくそれぞれの言葉が自然な形で紡ぎ出された。

 

お互いに疑問を抱え、ここにいる事に対する謎は山積したままであったが、甘井という第三者が間に入ることで凍りついていた二人の関係性の歯車が、どこか打ち解けるような穏やかな熱を帯びて再び静かに回り始める。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

ずっと両者の口を縛っていた鬱陶しい沈黙が融け、張り詰めていた二人の表情にようやく柔らかいものが戻ってきた。

 

どこか気恥ずかしそうに頬を掻きながら虎杖はなのはの顔を見つめ、小さく笑みをこぼした。

 

かつて別世界で死線を潜り抜け、互いを相棒として信頼し合ったあの頃の空気感が、青空の下で一気に蘇る。

 

 

「なんか·······久しぶりだな、なのは」

 

 

その親しげな呼びかけに、なのはもまた見違えるほど綺麗になった大人びた容姿のまま、目元を優しく和ませてクスッと微笑んだ。

 

 

「うん··············()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

かつての別れから今日までの膨大な歳月に想いを馳せるように、なのはは静かに語った。

 

だが。

 

その一言が紡がれた瞬間、虎杖悠仁の身体が目に見えて硬直した。

 

 

「·······はぇ?」

 

 

笑みを浮かべたままの虎杖の口から、困惑の乾いた音が漏れる。

 

今、目の前の少女は確かに『三年』と言った。

 

その数字が、自らの脳内にある時間軸の数字と、決定的な破滅を以て衝突する。

 

二人の間にあった、あの言語化できない強烈なビジュアルの違和感·······何故ついこの間まで小学生だったはずのなのはが、驚くほど背が伸び、手足がすらりとした大人の女性へと見違えるほどに急成長を遂げているのか。

 

その『謎』の答えが、あまりにも不条理な形で輪郭を現し始めていた。

 

虎杖は戸惑ったように眉根を寄せ、なのはの顔を真っ直ぐに見据えたまま、その困惑に満ちた掠れ声を絞り出す。

 

 

「な、何言ってんだよなのは·······? あれからまだ三週間くらいしか経ってねぇじゃん·······っ!?」

 

 

虎杖の口から突きつけられた、あまりにも歪なその数字。

 

それを聞いた瞬間、今度なのはの方が衝撃に襲われたようにその大きな瞳を見開いた。

 

 

「え·······ッ!?」

 

 

なのはの喉から言葉にならない驚愕の吐息が漏れる。

 

二人の足が驚愕のあまり動くことを禁じられる。

 

それほどの衝撃だったのだ。

 

なのはの記憶の中で、虎杖と別れてから積み重ねてきた確かな三年間という月日。自らの肉体の成長も、時空管理局員士官候補生への道も、その歳月が実在する証左であった。それなのに目の前の虎杖にとっては、まだほんの三週間前の出来事に過ぎないという。

 

虎杖の胸中を埋め尽くしたのは、現実の足元が突如として底なしの虚無の沼へと崩落していくような、絶対的な寒気だった。

 

彼の記憶にあるなのはとの日々は未だに昨日のことのように生々しく、あの時の別れの心苦しさも、肉体に焼き付いたままだ。

 

それなのに。

 

目の前の彼女が紡いだ『三年』という重みは、彼が知らない空白の時間を残酷に突きつけてくる。

 

自分の主観が世界の理から切り離され、狂った時計の歯車に嵌め込まれてしまったかのような恐怖が、虎杖の背筋を冷たく凍りつかせた。

 

一方で、なのはの心も底の知れない混沌が激しく揺さぶっていた。

 

あの過酷な決戦から、彼女は虎杖のいない世界で一歩ずつ、彼に恥じない強さを求めて三年の歳月を確かに歩んできたのだ。その歩みの全て、流した汗も積み上げた実戦の記憶も、今纏っているバリアジャケットの重みも、全部が幻であったとでも言うのだろうか。

 

虎杖にとっての『三週間』というあまりにも短すぎる空白は、彼女が過ごした時間の現実味を内側から激しく侵食し、世界の境界そのものが歪んで捩じ切れているという不気味な現実を残酷に突きつけていた。

 

二人がそれぞれ生きていた世界の時間が、全く異なる速度で歪み、そして今に至っている。

 

互いの常識が根底から覆るほどの計り知れない衝撃に、高町なのはは完全に言葉を失い、ただただ目の前の虎杖悠仁を凝視したまま立ち尽くすことしかできなかった。

 

あまりにも理不尽で、不気味な時空の怪異。

 

だが。

 

虎杖は湧き上がる混乱を無理やり抑え込むように、意を決した鋭い眼差しをなのはへと真っ直ぐに向けた。

 

 

「な、なのは············一体、どういうことなんだ?」

 

 

その掠れた、けれど切実な問いかけを受け、高町なのはは小さく息を吸い込むとかつて自分の世界で共に死線を潜り抜けた戦友の顔を真っ直ぐに見返した。

 

彼女の瞳の奥にもまた、虎杖が抱えるものとは異なる、しかし同じほどに深い混沌が渦巻いていた。

 

 

「悠仁君達が帰ったあとね············色々なことが起きたんだ」

 

 

なのはは呼吸を一切乱さぬまま静かに、だが一言一言の重みを噛み締めるようにして語り始めた。

 

それは、虎杖の知らない『空白の三年間』という歳月の全貌であった。

 

二年ほど前。

 

虎杖が去った後、なのは達の世界を襲った新たな災厄。

 

『惑星エルトリア』という未知の星、そしてそこからある者達が地球に訪れ、『永遠結晶』なるものを巡って繰り広げられた、あまりにも熾烈な激闘の記憶。

 

高町なのははその戦いにおいて、自身の右腕と右目が一時期欠損するという大怪我を負ってしまったことを語り、その後は戦った者達と和解し、その星の技術と最先端の魔法によって失われた部位を復元させたことを話した。

 

虎杖はその言葉をただ静かに、自分の中の全ての内臓がキリキリと引き絞られるような感覚の中で黙って聞いていた。

 

自分の知らないところで、なのは達がそれほどまでに惨鼻に満ちた闘争を潜り抜けていたという事実。

 

そして。

 

その数多の因果が積み重なった先に今回の異常事態が繋がっているという予感が、彼の背筋を冷たく侵食していく。

 

なのはの語りはやがて、今回の“亀裂”の件の調査、すなわち彼女がこの世界へと足を踏み入れることになった決定的な一瞬へと至る。

 

 

「それでつい最近、私達の周りで謎の失踪事件が起きて、その調査をしていたらね············()()()?」

 

「え?」

 

 

高町なのはが“その名”。

 

虎杖や蚊帳の外で聞いている甘井にとってあまりにも聞き覚えのある不吉な『式神の名』を呼んだ、その瞬間だった。

 

 

()()()!!』

 

 

パチパチと。

 

無機質で丸い瞳を点滅させるように瞬きしながら、高町なのはのすぐ傍らの虚空からポン!! と。

 

そんな愉快な音を鳴らして突如としてその姿を現したのは、死滅回游の監視者であり採点者であるあの異形の羽の生えた物体────“コガネ”であった。

 

深刻極まりない戦場の空気を木っ端微塵にぶち壊すような、呆れるくらいに明るい声。

 

なのはは驚く様子もなく、その傍らに漂うコガネをそっと視線で示しながら、あまりにも冷酷な事実を虎杖へと告げた。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()───()()()()()()()()()

 

「────ッ!!!??」

 

 

虎杖悠仁は完全に言葉を失った。

 

思考の全部が、凍りついたように停止していた。

 

高町なのはが死滅回游の番人であるコガネの名を親しげに呼び、そしてその呼びかけに応じるようにして当然のようにあの悍ましいマスコットが現れた、そのあまりにも残虐な光景。

 

それを間近で目撃したことで、虎杖の中では最悪の真実がまた一つ、容赦のない質量を以て思い知らされることとなった。

 

 

そう。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

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