今思い出してみても。
おそらくあれはあらゆる事象を目にしてきた者であっても、意味が分からないものだったろう。
『よお! 俺は“コガネ”!!』
鼓膜ではなく脳髄の深部を直接錆びた爪で引っ掻くような、悍ましくも軽薄な声質。
現れたのは天使の羽を羽ばたかせる異形の自律構成体。
その滑稽かつ奇怪な輪郭は、ミッドチルダを始めとする魔法文明が栄えた世界が数世紀もかけて築き上げた高度な技術に対する絶対的な嘲笑そのもののように思えた。
「「「「「「「「「「!?」」」」」」」」」」
直後。
その場に立ち並ぶ時空管理局の精鋭達の間に文字通りの悪寒が走る。
高町なのはの後ろにいるフェイト・T・ハラオウン、八神はやて。
そのさらに後ろで控えている守護騎士達、さらにはリインフォース・アインスとツヴァイ、位置を同じくする若き提督のクロノ・ハラオウン。
彼らが一斉に待機状態のデバイスをいつでも起動できるように戦闘態勢へと移行したことで、周囲の魔力密度は沸点へと達し、空間は物理的な圧力を伴って軋みを上げた。
『この結界の中では“死滅回游”って殺し合いのゲームが開催中だ!! 一度足を踏み入れたらオマエも
完全に冷たい空間と化している調査現場に、突如として突きつけられた『殺し合い』という法や秩序だけでなく道徳そのものを冒涜する概念。
“死滅回游”とは何なのか、
高町なのはは突如現れた奴を通じて伝わる寒気に、
「あなたは何!? この亀裂の先で一体何が起きているの!?」
と。
凛とした、だが刃のような鋭さを含む声で毅然と問い詰めた。
しかし、
眼前の怪異は生命の通わぬ人形のように、壊れた蓄音機の針が同一の溝をなぞるが如く、再び同じ文言を平然と反芻する。
『この結界の中では“死滅回游”って殺し合いのゲームが開催中だ!! 一度足を踏み入れたらオマエも
「それはもう聞いたよ!! 私が聞いているのはこの先はどこに続いてるのってことッ!?」
『この結界の中では“死滅回游”って殺し合いのゲームが開催中だ!! 一度足を踏み入れたらオマエも
なのはの重ねての詰問。
それすらも撥ね除けるように答えず、ずっと同じことの繰り返し。思考を放棄したかのような謎の物体の滞空姿勢は、論理的な会話のキャッチボールを完全拒絶する鉄の壁であった。
その生理的な不気味さに、背後にいるヴィータは思わず憤怒の魔力をグラーフアイゼンへと滾らせ、目の前の物体を睨みつける。
「なんだよ、この出来損ないの機械みたいなヤツは········!? 端から会話を成立させる気がねぇじゃん!!」
魔力がデバイスに流れ込み、起動寸前までに至ったそのヴィータの直情的な苛立ちを、クロノが一歩前へ踏み出すことで制した。
冷徹極まるその瞳で怪異の構造を魔導兵器の視点から分析しつつ、有無を言わさぬ威圧感を以てその悍ましきシステムの本質へと直接メスを入れる。
「死滅回游とはなんだ?
法の執行者たるクロノの厳格な声。
決して放置してはいけないことを決定付ける単語をいくつも自分達に聞かせた物体に、クロノは最初こそ冷静でいたものの、次第に感情を爆発させるように声を荒げていた。
だが。
法と秩序を一切重んじない謎の物体は、その権威すらも無価値と切り捨てるように、無機質な声を響かせた。
『泳者及び当事者以外に情報開示はできません』
「!?」
冷酷極まるシステムによる第一の拒絶。
たとえどれほどの権力者であっても自分にとってはそんなの関係ないらしく、なのはとは違った態度の言葉で応答した物体はクロノを嘲笑うかのように睥睨する。
ならば、と。
今度はフェイトが胸の奥で燻るかつての因縁、そしてこちらの世界にやってきた少年の記憶を呼び覚ますように、確固たる意志を込めて声を絞り出した。
「あなたの目的は何? この先に悠仁········虎杖悠仁や、両面宿儺がいるの?」
かつてこの世界を揺るがした宿敵の名。
今回の調査で何かしら関わっているであろう人物達の名を口にして訊ねるも、怪異は眉一つ動かさず自動人形の如く、さっきと全く同一の回答を重ねる。
『泳者及び当事者以外に情報開示はできません』
二度に渡って情報開示の拒絶。
管理局が誇る権力者の詰問も、時空管理局の執務官による追及も。
この物体の前では一粒の砂ほどの価値も持たない。
すなわち、
この物体が提示する不可逆の契約───“その殺し合いの
自分達が知りたがっている真実へは一歩も近づけないという残酷な現実が、冷酷に突き付けられていた。
「········これ以上の言語によるアプローチは不毛やね。一度本部に強制連行して、解体と厳密な魔力解析を行うべきわ」
「あぁ········そうだな」
守護騎士達の総大将たる八神はやての冷静な言葉にクロノも同意し、理知的かつ最善の判断に基づき、一同の包囲網が音もなく縮まる。
どこへ逃げても対応できるように、まずはクロノとフェイトが超高速機動で間合いを詰め、その身柄の物質的拘束を試みるが、コガネという物体は三次元の物理的質量を持たないかのように、『よっと』という軽い態度でひょいと予測不能な軌道で彼らの包囲をすり抜けた。
ならば、と。
次こそは逃がさぬとばかりに守護騎士達と、簡単な魔法ならば扱えるリインフォース・アインスが広域空間捕縛魔法の『バインド』を即座に同時展開。
数千の数式コードが入力されると虚空に鎖となって具現化し、コガネの全方位の退路を完璧に密閉、その座標を完全にロックした。
────はずだったのだが。
ポン! と。
その物体を縛り上げるはずであった魔力の鎖は対象を捕獲することなく、あまりに呆気なく外した。
何か高位の魔法障壁によって相殺されたのではない。
単純に虚空へと消えて再び現れるという、まさに魔法という技術を無下にする無礼行為そのものだった。
「っ!?」
クロノの驚愕したような息の音が異様に周囲に響き渡る。
フェイトも再度直接的な物理干渉での捕獲を試みるも、彼女の指先は幻影を追うように虚空を切り、コガネはただ軽薄に羽ばたくだけである。
物理的な封じ込めすら拒絶する、未知の怪異。
その場にいる全員に重苦しい沈黙が舞い降りる。
「コイツ········ッ!!」
「ちょこまかとよくも········ッ!!」
「全然、捕まえられない········ッ!!」
「ぐ········ッ!!」
守護騎士達でさえも悪態をつくほどに手古摺る相手。
如何なる高位の捕縛術式を用いれば、この舐め腐った存在を拘束できるのか。全員が脳細胞を極限まで駆動させて思考を巡らせるが、有効な打開策は一つとして結実せず、ただ焦燥という名の時間が無意味にすり潰されていく。
これでは埒が明かない。
結局はこのコガネという物体が提示した問いかけに応じなければ、知りたいことは知れないらしい。
しかし、それはつまりコイツの言う『殺し合い』に参加をしなくてはならないという、とんでもない交換条件だった。
誰もが躊躇った。
得体の知れない、そしてそんな人として明らかに間違っている道を選ぶなど、安易にできるはずもない。
誰もが手詰まりの絶望に呑まれかけた、まさにその瞬間であった。
「
「「「「「「「「「ッ!?」」」」」」」」」
その場の張り詰めた空気を切り裂く、一点の曇りもない決意。
それが高町なのはの唇から、強かに放たれる。
「なのはッ!?」
「なのはちゃん!? 一体何を───ッ!?」
無論、フェイトやはやてが驚愕に目を見開いてどういうつもりなのか訊いてきていた。
作戦行動としての正規の合意も経ていない、あまりにも無謀で独断の宣誓。
どう考えても正気の選択とは思えない。
「········」
だが、なのはは正気であった。
ずっと視線を外すことなくコガネを見つめるその強い瞳が語っている。
あらゆる魔法を嘲笑うようにすり抜けるこの怪異、そして謎の失踪事件という一般常識では説明できない現象を引き起こしている今の状況。
まだ憶測の域を出ないとはいえ、もし仮に『呪い』という力によって自分達の世界をまた破滅に導くというのなら。
そして。
かつての友である虎杖悠仁が、そして一度この世界を脅かしたあの宿敵──両面宿儺がこの災厄の渦中にいるのだとすれば。
もう、一刻の猶予もないのだ。
自分がその死滅回游というものの『
なのはの参加宣誓を検知し、コガネの無機質な瞳にシステム承認の光が宿る。
『高町なのはが“死滅回游”へと参加しました。
契約は不可逆の形で締結された。
未知の因果の縛りが、高町なのはという存在の輪郭を死滅回游という名の殺し合いのシステムへ強引に組み込んだのだ。
それによって、コガネは皆が知りたがっているであろう“死滅回游”という名の殺し合いの全貌が明らかになる『
答えは初めから決まっている。
元からそのつもりで、彼女は自ら参加の意思を示したのだ。
「うん、お願い」
なのはがその『
轟!! と。
「え────ッ!?」
「「「「「「「「「ッ!?」」」」」」」」」
奇妙かつ無情なことに、その猛烈な暴風の直撃を受けているのはどういうわけか高町なのはただ一人だけであった。
背後に立つフェイトやはやて、守護騎士達とクロノの髪や衣服はただの微風に煽られるように僅かに揺れているに過ぎない。
しかしなのはの身体だけは、コガネが現れた時空の亀裂の奥底へと貪り食われるような、猛烈な速度で引き摺り込まれそうになっていた。
「なのはッ!?」
その事実を理解した瞬間。
閃光の如き速度で動いたフェイトが、吸い込まれていく高町なのはの細い手首を掴み取った。
飛行魔力を最大出力で展開し、時空の奔流を捩じ伏せようと抗うフェイト。しかしどれだけ掴んで引き留めようと踏ん張ったとしても、高町なのはを連れ去ろうとする奇怪な現象は止められない。
どんどん二人の掴んでいる手は滑っていき、掴んでる箇所が指先だけとなってもフェイトは決して離さなかった。
対して。
彼女のその必死な形相を見つめながらなのはは恐怖ではなく、ただ静かな、全てを受け入れた微笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ、フェイトちゃん」
「!?」
「········行ってくるね」
フェイトの掴まれた手から、自ら静かに、確固たる意志で力を抜く。
その瞬間、
◇◆◇◆◇◆◇
まだ誰にも知られていない話だが。
それは死滅回游という絶対的な結界が内包する裏ルール、あるいはシステム上のバグとも呼べる因果律の顕現であった。
本来、結界の外側からであれば自身のタイミングでの自由な侵入が可能であったはずの領域。
しかし、
少女が触れた亀裂は“結界の内部”に生じたものであったのに対し、コガネというシステムの番人からの問いかけに『応答』してしまったが故に、入場手続きを強制的に完了させられた。
まるで中国の古典神話『西遊記』で語られるものの中に出てくる呪具の『紅葫蘆』のように、返事をした者を無理やり中に引きずり込むような強引極まる時空転送の因果。
「········ッ!!」
視界が圧倒的な風圧により暗転へと転じ、次に自身の直感が捉えたのは元いた場所の清澄な大気とは決定的に異なる、人間の『負の感情』によって汚染された東京の空であった。
上空数百メートル。
その眼下に広がるのは一度空から見たことがある東京の街並みであったが、やはりどこか違って見えた。
まず、人の気配が少ない。
たとえ空の上でも車の排気音だったり、道行く人の声の交錯だったりと、何かしら聞こえてくるものだ。
しかし、それがない。
一体自分はどこに来てしまったのか、だが今はそんなことを考えている場合ではない。
足場のない虚空へと放り出された慣性運動を、なのはは極めて正確な機動制御によって相殺する。
水平に両手を広げて足を揃え、身を曲げてくるくると回転し、
「レイジングハート!!」
『All right my master』
その愛機の名を呼ぶだけの短化呪文と共に、彼女のしなやかな肉体を包み込むのは進化したバリアジャケット。
桜色の魔力の残光が自分の記憶にない東京の空を鋭く切り裂き、飛行軌道を安定させる。
その時。
ドゴォッ!! と。
鼓膜を叩いたのは強烈な建造物の損壊音と、生々しい衝撃波の余波であった。
「!!」
すぐさまその聞こえた音の方へと方向転換し、崩落するビル街へと急行する。
そこでなのはの目に飛び込んできたのは、
「あれは───ッ!?」
一瞬、自分の目を疑った。
何故こんな所にいるのか。
その疑問が先に浮かんだが、すぐに彼女の脳が気持ちを切り替えろと命令してくる。
見間違えるはずのない『かつての戦友』の姿────“虎杖悠仁”が。
謎の男性と空中での激闘を繰り広げ、そして放り出されながら落下していく瞬間であった。
「行くよ!! レイジングハート!!」
『Yes master』
魔力の光芒が空を駆ける。
事態を俯瞰し、事情を把握する猶予の余地すら与えられぬまま、突如として東京上空へ召喚された“魔法少女”は、
こうして人間の『負の感情』に汚染された、呪われた世界へと無慈悲に降り立った。
◇◆◇◆◇◆◇
時を戻して。
少女の知らない世界に降り注ぐ陽光が、荒廃した東京第一結界のビル街をまるで暴かれた死体を抉るかのように白々と照らし出す。
なのはの口から時空管理局の魔導師としての秩序を完全に無視して語られた、あまりにも不可逆で一方的な『
かつて自分が異世界という時空を超えて交わした少女との絆。
魔法という、『呪いの力』を扱う自分達とは違って祝福された場所にいたはずの少女が、今や自分と同じ血塗られた舞台、“死滅回游”という名の呪われた儀式が全てを裁定する無慈悲な殺戮の盤面に、自らその身を投じてしまっている。
しかもなのはが語った言葉の端々に見える意味を鋭敏に察するに、彼女はまだこの閉鎖空間が内包する
「········そんなことがあったのか」
虎杖のその声には、己の喉を引き裂くほどの重圧が混じっている。
なのはの話を聞いて、全ては自分のせいだと改めて感じた。
彼女が語ったものは確証はないものの、心当たりがありすぎる。
自分が両面宿儺という特級の呪いを宿し、この世に存在し続けているが故に、異世界という次元すら跨いで高町なのはという光を、この救いのない地獄へ引き摺り込んでしまったのではないかという身を灼くような自責の念。
だが。
そんな虎杖の沈痛極まる拒絶の気配とは対照的に、高町なのははそのすらりと成長した体を僅かに揺らし、ただ目の前にいる『かつての戦友』と再び巡り逢えたという純粋無垢な歓喜を、その何の曇りもない瞳の奥に宿していた。
「でもね、悠仁君」
「!!」
「········こうしてまた悠仁君に逢えた。それだけで私はあの亀裂へ飛び込んだ意味が確かにあったって、そう思ってるよ」
「········ッ!!」
一切の迷いのない、魔導師としての覚悟が灯った言葉。
あまりに真っ直ぐな、そしてあまりに重すぎるその信頼を受け、虎杖はただ自己嫌悪という名の重責に胸をさらに締め付けられる他なかった。
“渋谷事変”という未曾有の呪術テロを経て、肉体も精神も限界まで擦り減り、魂そのものがズタズタに引き裂かれてしまったようになってしまった今の自分は、果たして彼女のその優しい言葉を受け取るに値する存在なのだろうか。
「────ッ!!」
頭の中で暴れ回る陰惨な記憶の断片を強制的に遮断し、その歪な気まずさを誤魔化すように、虎杖は思わず己の首元へと無意識に手を伸ばした。
彼女との絆の結晶であり、以前になのはから贈られたあの大切な『赤いマフラー』の柔らかな感触を求めて、
「ん?」
しかし指先が触れたのは、現代の最強術師である五条悟が面白半分で勝手にカスタマイズした呪術高専の制服の襟元、その赤いパーカーの布地だけであった。
そこにあるべきはずのあの世界の温もりを宿した防寒具は、そこに存在しない。
「────あッ!?」
そこで、ようやく思い出した。
唐突に脳裏を過った自分の認識の誤りに、虎杖は周囲の大気を震わせるほどの素っ頓狂な悲鳴を上げた。
この“死滅回游”をなんとかして終わらせようとするための足がかりとして、秤金次という乙骨も認めるほどの呪術師の説得を試みる際、あの廃墟の闘技場に立ち込める生々しい血煙と賭け試合の熱気で、彼女から貰ったお守りのようなマフラーを一ミリたりとも汚したくないという意識故に、一度同級生の伏黒恵の手に預けたままであったことを完全に失念していたのだ。
未だに返してもらっていない。
その事実に打ちのめされ、虎杖は血の気が完全に引く思いでなのはへ向かって激しく頭を下げた。
「わ、悪ぃなのはっ!! お前から貰ったあのマフラー、伏黒に預けたままだったっ!! 本当ごめんッ!!」
「!!」
虎杖のその悲痛とも言える切実な謝罪に、なのはは一瞬呆気に取られたようにその目を瞬かせた。
命の奪い合いが日常と化したこの戦場において急に何を言い出すのかと思えば、まさか三年前のあの他愛もない織物の安否をこれほど真剣に悔やみ、自分自身の不手際を恥じているとは思ってもみなかったのだ。
「········ふふっ、まだ持っていてくれてたんだ」
なのはの薄い桜色の唇から、ふっと張り詰めた空気を緩めるような、どこか愛おしげな吐息が零れる。
考えてみれば、虎杖からしたらまだ三週間程度しか経っていない。だからまだ手放していなくてもおかしくはない。
だとしてもあれはそこまでのものではない、少なくともなのははそう思っていた。
けれどそれは、この崩壊した東京のビル風の騒音に掻き消されそうなほど小さな、しかし己が過ごした三年間という歳月の重みを一瞬で肯定されるような、至上の幸福を噛み締める呟きであった。
なのはは少女らしい、そしてしなやかで女性らしい優しい笑みを浮かべ、虎杖を見つめ返す。
「いいよ、悠仁君。今もまだ悠仁君がそれを大切に持っていてくれていた。その事実だけで、私はとっても嬉しいから」
「········なのは」
少年の不器用な誠実さと内に秘めた優しさは、どれほど凄惨な環境に身を置こうとも何一つ変わっていない。
その確信が得られただけで、彼女の胸の内にあった『三年と三週間』という残酷な時間のタイムラグに対する未知の不安は、綺麗に取り払われていた。
「それじゃあ、まずは伏黒さんに会いに──────」
「ってそうだ!! 伏黒!!」
歩みを進めようとするなのはの言葉に、虎杖は再び己の認識の甘さを呪うように眉根を寄せた。
この死滅回游に侵入した瞬間の結界上空における強制転送は、飛行機にお金も払わずに無断で搭乗した不審者を強引に外へと放り出すかのような、空間の不規則な再配置によって先程まで行動を共にしていた伏黒恵とも完全に離れ離れになっていたのだ。
それを思い出した瞬間、伏黒は無事なのかどうかを今更気にしだした。
「あいつとも入った途端に逸れちまったんだよな·······でも日車のところに行けば情報も集まるし、伏黒とも合流できるか·······?」
短い髪をガシガシと掻き毟りながら、ぶつぶつと独り言のように現状を整理する虎杖。
それよりも。
先程から彼の口より何度も零れ落ちる“日車”という名。
虎杖が異様なまでの焦燥と義務感を伴って会いたがっているその人物の存在に、なのはは魔導師としての鋭敏かつ個人的な感情が、確かな疑問符を頭の上に打ち立てた。
そういえば、虎杖悠仁がこの死滅回游に参加した目的は何なのだろうか?
「ねぇ、悠仁君。ずっと気になってたんだけど·······その日車っていう人にどうしてそこまで会いたいの?」
「え·······あぁ、えっと」
なのはの一点の曇りもないその目が、虎杖を躊躇わせる。
彼女は謂わば表側の人間。
つまりは法や秩序を正義として重んじる側の人間であり、平和の世を守るべき場所に立つ彼女に、この殺し合いのゲームの『ルール改変』のために一◯◯点を持つ男と交渉、あるいは最悪の場合は力尽くでその権利を奪い取らねばならないという、呪いらしく血の臭いがするような話をどう説明すべきか迷う。
どう説明しても納得してもらえるかどうかが分からず、言葉を喉の奥で濁しかけた、まさにその瞬間であった。
「ついたぜ」
「「!!」」
二人の先頭を怯えと卑屈さを隠しきれない足取りで先導していた甘井凛が、安堵を滲ませた声で告げた。
いつの間にか彼らの歩みは東京第一結界の一部────かつての『池袋』が誇った文化の喧騒が。
『呪い』という圧倒的に理不尽な力によって完全に息絶えた残骸を通り抜け、巨大な劇場の威容の前へと辿り着いていた。
歓楽の記憶を抹消された劇場は、さながら現世の罪業を裁く巨大な霊廟の如く、その場に静かに佇んでいた。
「日車はここの劇場を拠点にしている。移動してなければだけど」
「おおっ! マジで助かった!! ありがとう!!」
虎杖は一切疑わず、少年の持つ無垢なる素直さそのままに劇場の入り口へと足を進めた。
かつて数多の観客の喝采を吸い上げたであろう、重厚なガラスの自動ドアへと躊躇いなく手をかける。
「あっ!?」
するとそこで。
甘井の喉から反射的に制止の息が漏れた。
日車寛見という、この結界における絶対的な『強者』の元へ虎杖を嵌めるその罪悪感が、自らの心を灼くような猛毒となって甘井の表情を歪めた。
しかし、虎杖の足はすでに引き返せぬ距離まで到達している。
自らの保身のためにかつての同郷を売った。
その事実に対する自己嫌悪と申し訳なさに沈みかけていた甘井の耳に、
「あの」
「え?」
鈴を転がすような凛とした理性を宿した、少女の声が届いた。
「ここまで案内してくれて、ありがとうございます」
「·······ッ!!」
甘井は息を呑み、硬直した。
声の主は虎杖の隣に寄り添っていた、あの少女であった。
甘井は知らないだろうが、異界から舞い降りたこの少女は魔導師として数多の戦場を渡り歩いてきており、それで培われたその目は甘井がひた隠しにしていた『怯え』と『欺瞞』の機微を、初手から完全に看破していた。
だが、彼女の瞳に宿るのは罪人を断罪するような冷酷なものではない。
ただひたすらに、迷える人間を良心で片っ端から救い上げるような、圧倒的な包容力であった。
彼女の一点の曇りもない視線に膠着し、甘井は一瞬にして言葉を失って戸惑う。
なのははそのまま、先行する虎杖の後を追って行こうと背を向けた。
(あんな子まで······俺はあの日車に生贄として差し出すのか?)
甘井がここまで彼らを連れて来た理由は、また自分の身の安全を確保するためだ。
日車は一◯◯点を所持している、つまりはそれだけの超強敵ということ。
そんな奴に狙われたらまず間違いなく負ける。だから誰かを向かわせて点の変動を起こし、日車の戦意を削ぐ作戦だった。
点に変動を起こせば、日車も獲物を探さずに済んで、しばらくの間は大人しくなる。
だから虎杖をここまで連れてきたに過ぎない、生贄としての役割を与えて。
けれど。
そのあまりにも無防備で、しかし恐れるどころか一切の迷いのない少女の背中を見た瞬間、甘井の胸の奥で抑え込んでいた良心の残骸が激しく火花を散らした。
「あ、ちょ!? ちょ、待てって!!」
「?」
甘井は形振り構わずといった様子で、彼女の細い足を引き止めるように声を張り上げた。
虎杖を騙し討ちにする罪悪感を、こんな若き少女にまで背負わせるわけにはいかない。
それが彼が絞り出せる限界の、不器用な正義の証明であった。
なのはは足を止め、ゆっくりと振り返った。
「はい?」
首を少し傾げる彼女に対し、甘井は唾液を一気に呑み込んで額に冷や汗を滲ませながら、言葉を絞り出す。
「この先にいる奴はさ·······その、相当危険だ。お、お前は·······どこかで待っていたほうが、いいんじゃないか?」
甘井だって馬鹿ではない。人を見る目はある。
だとしても、だ。
羽織った未知の技術が使われた衣装の神聖さとは裏腹に、彼女の容姿は未だに子供の域に過ぎない。
この殺し合いの盤面には、あまりにも不釣り合いな『表側の人間』の輝き。
そんな彼女を向かわせるのだけは阻止したかった。
だが、
なのはの唇に浮かんだのは柔らかな、そして揺れ動くことのない覚悟を秘めた笑みであった。
「ありがとうございます。でも、私·······悠仁君と一緒に行きますね」
「!?」
その言葉に宿る一切の揺らぎなき想いに、甘井は言葉を失う。
「この先にいる日車っていう人が危険なら、それこそ私のお仕事です。心配してくださって、ありがとうございます」
彼女の言う『お仕事』が一体何を意味するのか、甘井には知る由もない。
だがその声には、理不尽な暴力を挫き、正義の名の元に人々を救い上げてきた本物の『強者』だけが持つ絶対的な自負に満ちていた。
なのははもう一度甘井に深く一礼すると、今度こそ躊躇いなく虎杖の背中を追って、劇場の奥へと消えていった。
「··············」
残された甘井は、ただ呆然と二人が去った重厚な扉を見つめていた。
自分よりも遥かに年若く、華奢な少女。
それだというのに、彼女の眼差しには死への恐怖もなかった。
ただ。
一人の少年を信じ、危険を承知で勇敢に立ち向かっていく、その背中の逞しさ。
(俺は一体·······何をやってるんだ·······っ!?)
自らの保身のために他人を陥れ、虎杖の純粋な善意を利用し、恐怖に震えて逃げ回るだけのあまりにも情けない愚かな行為。
彼女の放った一点の曇りもない光は、甘井の中にこびり付いていた卑屈という名の闇を、容赦なく払い流していった。
胸を突く激しい自省と、自己変革への衝動。
甘井は固く奥歯を噛み締め、天を仰いだ。
(もう·······こんなこと、止めよう)
誰かを踏み台にして生き延びるだけの、呪われた悪循環からはもう降りる。
甘井凛という人間の魂が、かつてない激痛と共に静かに覚醒の産声を上げていた。
◇◆◇◆◇◆◇
ギィィ、と。
人が来なくなったことで自らの役目を放棄した自動ドアを強引に開けたせいで、悲鳴を上げるような音を立てて扉が開かれた。
内部は池袋の喧騒を完全に失くした静寂の世界だった。
かつて数多の観客の喝采を吸い上げたであろう空間は、今や因果の裁きを待つ執行人の刃のように静まり返っている。
「·······」
劇場の客席へと続く動かなくなったエスカレーターの傾斜を静かに下りながら、なのはは隣を歩く少年の、あまりにも頑なな横顔をじっと見つめていた。
虎杖はその視線に気付いていた。
気付いていたからこそ、自分の胸に鳴り響くのは、劇場に辿り着く直前に彼が喉の奥で濁らせた疑問の残響だ。
これ以上彼女を欺き、真実から遠ざけるわけにはいかない。
虎杖は歩みを止めず、前を向いたままなのはに低く問いかけた。
「なのは、死滅回游のルールについてどこまで知ってる?」
「え·······?」
なのはの足元が、微かに揺らいだ。
彼女がこの舞台に降り立つことになったきっかけは、次元の亀裂に突如として現れた謎の物体、コガネへの参加宣誓だ。
その直後。
自身も想定していなかった強制転送に吸い込まれた彼女は、このゲームの全貌を全て把握しているわけではなかった。
把握しているのは、この空間を覆う最悪のルール。
なのはは言葉にすることすら躊躇うように、小さく唇を震わせながら答えた。
「·······殺し合い、でしょ?」
その言葉の響きに含まれる、人として当たり前の感情である、圧倒的な拒絶と悲痛。
ただ命を奪い合うという原始的かつ残虐なルール。
その果てに点を得て何になるのか、それすらも分からぬままだが、高町なのはは悠仁を助けたい一心だけで今ここにいる。
虎杖は小さく息を吐き出し、自らの拳を固く握りしめた。
その口から語られるのは、この殺し合いを強制する、あまりにも残酷な『縛り』の真実。
「死滅回游にはルールを新しく追加できることができてさ、そのためには一◯◯点が必要なんだ」
「一◯◯点·······」
「でもそのためには·······少なくとも二◯人────
「ッ!?」
その事を説明するのにどれだけの勇気が必要だっただろう。
少年の声が、痛切に歪んだ。
二◯人の命を奪って、ようやく得られる一つの権利。
それは一人の人間の良心を完全に鈍らせる────“呪われた等価交換”
なのははそのあまりにも人の心のない数字の重みに、言葉を失って絶句した。
だが。
それでも尚、なのはの瞳から光は消えなかった。
彼女は目の前の虎杖悠仁という少年が、他人のために自らの命を犠牲にすることしかできない、あまりにも心優しい不器用な存在であることを誰よりも知っている。
彼がわざわざ日車という男に会いに行く理由のその先を、彼女は最後まで聞く姿勢を崩さなかった。
そんななのはの確かな信頼に救われるように、虎杖は言葉を繋ぐ。
「でも俺達は殺し合うことは望んでない。だから今からしに行くのは───『交渉』だ」
「交渉?」
「日車はちょうど一◯◯点持ってて、それでまだルールを追加してないんだ。だからもしかしたら、話し合いでその一◯◯点を使ってくれるかもしれない。それで俺達は日車って奴と話をして────『殺し合いの強制を無効にするルール』を追加するんだ」
「!!」
虎杖の言葉になのはの中で凍りついていた理性が、一気に熱を帯びて融解していく。
殺し合うのではない。
この理不尽なルールに囚われた人々を、ゲームそのもののルールを変革することで救い出す。
その目的は、時空管理局の魔導師として正義を貫いてきた彼女の信念と、完全に深く共鳴するものであった。
(そっか·······ううん、そうだよね。悠仁君は、そういう男の子だよね!!)
なのはの唇に、確かな確信を得た笑みが戻る。
虎杖悠仁に力を貸す。
その意志はいまや単なる個人的な情愛を超え、彼女の持つ『表側の正義』としての必然的な使命へと昇華されていた。
二人は再び歩みを進め、劇場の奥深く、外光の届かぬ迷宮のような回廊へと侵入していく。
どんよりとした呪力の残滓が、まるで物理的な質量を以て二人の肌を刺した。
────その時だった。
「「·······っ!!」」
静まり返った劇場内を彷徨う二人の鼓膜に、不釣り合いな音が届く。
「·······悠仁君」
「あぁ·······俺にも聞こえる」
ピチャ、チャプ·······と。
それは一つの部屋の奥から響く、水が不規則に揺れるような湿った音。
同時に。
そこからは確かに───『人間の気配』があった。
それも、尋常ならざる呪力の精度を孕んだ、圧倒的な強者の気配。
もしかしたら、と。
二人の脳裏に、同じ直感が走る。
「「────っ」」
その部屋の固い扉の前で、二人は立ち止まった。
この奥、その先に進めばどんな運命が待ち受けているのか、想像もつかない。
だが、いつまでもこのままでいるわけにもいかない。
────時間がない。
だからこそ覚悟を決め、虎杖が慎重に手をかけ、その部屋の奥へと侵入した。
「「··············?」」
直後。
二人の視界に飛び込んできたのは、なんかの公演で使われた小道具か、海外で使われてそうなデザインの白い浴槽が舞台の上にある光景であった。
舞台の上に立つ主演俳優を際立たせるために光が真上から降り注ぐその場所で、その浴槽の中に奇妙な格好で横たわる────“男の姿”。
男は仕立ての良い、しかしどこか草臥れたスーツを着込んだまま、溢れんばかりの水が張られた浴槽にドップリと浸かっていた。
濡れた前髪を無造作にかきあげ、自分にだけ当てられているスポットライトの光から視線を離すことなく、暗闇の奥から無礼にも自分の領地に踏み込んできた二人の不躾な足音を、ただ興味もなさそうに耳で拾っている。
男の周囲に渦巻く呪力は、まるで抜き身の剃刀のように鋭利で、一切の隙も見せていない。
あまりにも非常識な、しかし圧倒的なプレッシャーを放つその男は、
バシャと。
まるで眠くなった瞳を覚醒させるように、浴槽の中に溜まっている水を顔面にぶっかけた音を響かせた後、
浴槽の中から侵入者の少年と、その傍らに立つ少女に向かって、
低く、全てを諦めたかのような冷たい声でこう訊いてきた。
「