「誰だ、そこで何をしている?」
その自身の異常性を完全に棚に上げた質問に対して。
虎杖悠仁は全身の毛穴が収縮するほどの圧を皮膚に感じながらも、網膜に灼きつくあまりの不条理さに気圧され、反射的に言葉を絞り出して言い返した。
「いや········アンタこそ何してんだよ?」
なのはもその少年の返しに同意するようにうんうんと頷いている。
少年の放った常識的な反論は、しかし眼前の男にとっては塵芥の如き無意味な排気でしかなかった。
男────“日車寛見”らしき人物は。
自分だけに当てられている一筋のスポットライトの絢爛たる光原から視線を外すことなく、二人の年若き侵入者の動向をただ自然と日常会話でもするかのように、三連続の質問返しとなる決定的な言葉を重ねる。
「君達は服を着て風呂に入ったことがあるか?」
「「?」」
その想定し得る中でもあらゆる論理の斜め上を鋭利に穿つ非常識で奇怪な問いかけに、虎杖となのはは思わず互いに顔を見合わせた。
互いの視線の内に不可解の三文字を共有し、今のこの状況の薄気味悪さに翻弄されながらも、二人はそれぞれ困惑を隠せぬ声で答えるしかなかった。
「········ないな」
「········ないよ」
十代の少年少女ならば当たり前の現実の常識に沿った否認。
それを無関心そうに聞いた日車は特にそれ以上の追及をするでもなく、濡れた前髪から滴る水滴が浴槽に溜まる水面を乱すのを見つめながら、さも極楽極楽とでも言うかのように平然と、そして退廃的な虚無の平穏を以て低く呟いた。
「思っていたより、気持ちがいい」
この男はすでに道徳心が欠落している。
よく見ると、胸の辺りに何か『ボタン』のようなものが付いているのが見える。
それはとある称号を正式に証明するもので、今いる虎杖達からはそのボタンがなんなのかよく見えないが、それは紛れもなく“弁護士”という法律の専門家の証であった。
しかし、先程の発言からしてそれは法と秩序を誰よりも神聖侵すべからざるものとして重んじていた“弁護士”が、現世の司法の限界と人間の醜悪さに絶望した果てに行き着いた自分自身の精神の檻における『心地よさ』の表明であった。
スーツという社会的な責任と記号を身に纏ったまま、一切の他人の目や倫理を無視して水に浸かるという背徳。
「········」
その男の姿を前に。
高町なのはの曇りなき眼には生理的な嫌悪とは異なるような、もっと根源的な断絶の気配を察知して細められていた。
男の周囲に渦巻く気配は、暴虐な暴力の奔流ではない。
むしろ、精緻な数式で構築されたかのような一切の妥協を許さぬ『規律』の塊。
これほどの精度を誇る術師が、自らの魂を虚無の底に沈めているという事実。
その非対称な歪みこそが、なのはの表側の正義感に強い警戒の警報を鳴らさせていた。
張り詰めた沈黙を切り裂くように浴槽の中の日車は、天井の白光を見つめたまま独白染みた声で言葉を紡いだ。
「そうだ。俺は小学校の頃、着衣水泳の授業が好きだったんだ」
唐突に語られる、あまりにも場違いな幼少期の追憶。
しかし、
その一言は虎杖となのはの脳裏に、かつて自分達も経験したことがあるが故の奇妙な共感を呼び覚まさせた。
────服を着たまま水に入る。
それは誰もが一度は学校という教育機関の中で経験する、あの全身を襲うずっしりとした布地の重みと水流が肌にまとわりつく異質な感覚。二人はそのなんとなくな共感に、困惑しながらも喉の奥で小さく肯定するように気持ち頷いた。
二人の反応を日車はその目の上下に生える濡れたまつ毛の隙間から見届けると、浴槽の縁へと長い足を伸ばし、自らの肉体を水の浮力から解放するように微かに身動ぎさせた。
「最近色々どうでも良くなってな。やってはいけないと思い込んでいたことにチャレンジしているんだ。三◯半ばを超えてグレてしまったわけだ················笑うか?」
虚の底から問いかけられたその言葉に対して、若い二人はそれぞれ決定的に異なる反応を示した。
虎杖はそのあまりにも極端な価値観を押し付けるように問いかける男の変貌にどこか親近感、あるいは危うさを感じつつも、苦笑を滲ませながら、
「ちょっと、面白い」
と、短く応じた。
対して、
小学校を卒業したばかりであり、かつ時空管理局という組織に属し、『正義の名の下に』をモットーに育った未だに純粋なままの少女であるなのはは、いい大人がその尊厳を自ら放棄するような発言に対して理解が追いつかないといった複雑な表情を浮かべ、
「あ、あんまり················」
当然の戸惑いの声を漏らす。
その二人の反応、しかし未だに世俗の汚れを知らぬ年若き者達の反応を見つめ、日車はその乾いた唇に自嘲ではない微かな笑みを浮かべた。
特に、まだ真面目な世界のルールの中にいるなのはの清廉さに、彼はかつて自分が命を削って守ろうとした『何か』の残影を見たのかもしれない。
「その気持ちは大切だ。君も俺みたいにならないように気をつけるんだな」
「え? あ············はい」
淡々と、しかしどこか忠告の重みを孕んだ低い声でそう言う日車に対し、なのははただ圧倒されて困惑のままに首を縦に振るしかなかった。
だが、このままこれ以上この男の不気味で奇妙な会話ペースに呑まれるわけにはいかない。
時間が目に見える砂時計の如く、こうしている間にも無情に削られていることを思い出し、虎杖が目的の人物かどうかを確かめるべく、鋭い眼差しで本題を切り出した。
「そんなことより·········アンタ、日車だよな?」
少年の放った直球の確認に対し、男は浴槽の中でわずかに肩をすくめて、短く明確に答えた。
「いかにも」
その肯定を掴み取った瞬間、虎杖は一歩前に踏み出し、命がけの交渉の火蓋を切ろうと言葉を重ねる。
「話がしたい。俺達は────」
「待て、待て待て」
しかし。
虎杖の言葉を遮るように、日車は濡れた左手を軽く掲げて静止を促した。
その表情には先程までの虚無とは異なる、どこか世俗的で、人を喰ったような胡散臭い表情が張り付いている。
「俺は“弁護士”だ。俺と話すと、三◯分五◯◯◯円の相談料が発生するぞ?」
近代の法治国家におけるルールとしての対価の要求。
しかしこの死滅回游という無法地帯において、あまりにも場違いな悪徳弁護士を気取ったその態度に虎杖となのはは同時に肩の力を抜かれ、
「「えぇ·········」」
という風に引き攣った笑みを浮かべて深い呆れの声を漏らして絶句した。
二人のその絵に描いたような落胆の表情を見るや否や、日車は即座にその不気味な笑みを収め、通常の声色へと戻した。
「冗談だ。ちょっと嫌な弁護士を演じてみたくてな」
「そ、そっか·········」
自らの悪趣味な悪戯の誤解を解くように、どこか安堵させるような態度へと切り替える日車。
虎杖はその瞬時の変貌に、ほんの少しだけ『話の通じる相手かもしれない』という淡い期待を抱き、胸の内で小さく息を吐いた。
しかし。
その隣に佇んでいた高町なのはだけは、少年とは決定的に異なる『別の視点』を以て、その男の存在を冷徹に観察していた。
なのはは時空管理局の魔導師として修羅場を潜り抜けてきた。
彼女が有する広域魔力運用能力の根幹を支えるのは、次元を跨ぐほどの圧倒的な『天性の空間把握能力』である。そしてその超感覚は単に物理的な地勢だけでなく、空間に滞留する人間の微細な挙動、それこそ『呪力や魔力』の波動、そして発せられる言葉の『嘘と真実』の感覚を捉える領域にまで達していた。
(弁護士·········?)
日車が口にしたその二文字に、なのはの脳が強烈な違和感の警報を弾いた。
彼女自身、法と秩序を世界の礎として何よりも重んじる管理局の人間だ。だからこそ、社会の正義の調停者たる“弁護士”という言葉の持つ、本来の聖域のような響きは理解できる。
だが。
同時に虎杖から聞かされていた、この男が有する『一◯◯点』という数字の凄惨な意味が、彼女の脳内で最悪の形で結びつく。
点を得るためには────
一◯◯点を超える点数を持っているということは、最低でも二◯人、もしかしたらそれ以上の命をその手で容赦なく『
(法を守って、色んな人を救うはずの弁護士が·········人殺し?)
その決定的な矛盾。
日車という男が身に纏う刃の如き鋭利な規律の呪力と、その背後に渦巻く悍ましい血臭。
なのはの心の中で、世界が反転するような不気味な疑問が圧倒的な質量を持って膨れ上がっていく。
この男は一体。
どのような経緯を経て、その両手を血で染めるに至ったのか。
交渉という名の舌戦を前に、この暗黒の劇場は。
いよいよ引き返せぬ、『裁きを下す法廷』へと変貌しようとしていた。
◇◆◇◆◇◆◇
(さっきから·········コイツ!!)
一方で。
なのはが頭の中でその致命的な矛盾に疑問を抱いていることに気付かぬまま、虎杖もまた別の、その極めて決定的な『違和感』の正体を自らの直感の網で手繰り寄せていた。
日車との僅かな会話。
そこに含まれていた『小学校』という言葉の響きや、着衣水泳というあまりにも現代的な教育制度の知識。
そして社会の理不尽に疲れ切った三◯代の大人特有の、現代に生きる人間としての価値観の残影。
それらは千年前からの戦乱の世などから受肉して、再び現世に蘇った『過去の術師』達のそれとは決定的に異なっていた。
つまり、
(受肉した過去の術師じゃない!! 術式が開花した『現代の術師』だ·········!!)
その確信に至った瞬間、虎杖の中で淡い希望の光が差し込む。
現代の法治国家に生きて人の命の重みを、そして他者を傷つけることの罪悪感を現代的な常識として骨の髄まで理解している人間。であるならば、この死滅回游という狂気の殺し合いの舞台においても、その根底にある倫理を共有できるはずだと感じた。
交渉が通じる余地は十二分にある。
虎杖は自らの思考を、不器用ながらも適切な言葉を素早く組み合わせ、交渉の火蓋を切るべく真っ直ぐに日車を見据えた。
「えーっと、端的に言う」
少年の剥き出しの言葉が、劇場内の闇を切り裂く。
「俺達は、死滅回游を終わらせたい」
「·········」
その一言が放たれた直後、それまで人を喰ったような悪趣味な冗談で他人を弄んでいた日車の両方の目がグルリと形を変えた。
滴る水の奥で、その目付きが冷酷な検察官の如き鋭利な刃の輝きを帯びて収縮する。
「!!」
その一瞬の変化に気付いたのはなのはだけだった。
天性の空間把握能力を有するなのはは、男の視線に宿ったその瞬間的な『拒絶』の感情を正確に捉え、胸の奥で全神経を尖らせた。
しかし日車の思考の底を読み切る前に、虎杖はさらに言葉を畳み掛けるように、自らの提案をより厳密な形へと修正して続けた。
「あ、タンマ。終わらせるっていうよりは、殺し合いの強制を無効にしたい。そのためのルール追加に、日車の一◯◯点を使わせてくれ」
一◯◯点という、二◯人以上の人間の断末魔を積み重ねて得られた呪われた権利。
それをこれ以上の無意味な殺生を凍結するための大義へと差し出してほしい。そんな少年の必死なる懇願が、スポットライトの下で優雅に水に浸かっている日車へと投げ込まれる。
だが、
浴槽の中の死神は、眉一つ動かさなかった。
ただ自らの喉の奥から、現世の全ての希望を拒絶するかのような、呆気ないほどに平坦な言葉を漏らす。
「俺も端的に言おう────断る」
一蹴。
それは交渉の余地すら初手から断絶する、冷酷なまでの拒絶の意思表示であった。
その瞬間、虎杖となのはの表情から先程までの困惑が瞬時にして消え失せ、それぞれが険しく、そして鋭くその目付きを変えた。
現代という平穏な時代を生きてきた人間であるならば、理由なき殺戮に加担すること、その手を人の血で染めることに対して、生理的な躊躇と恐怖を抱くはずだ。
何より、この男が自らを“弁護士”と自称したのが事実であるならば、現代の法において人の命を奪うという行為がどれほど重罪であり、取り返しのつかない業であるかを誰よりも論理的に理解しているはずではないか。
もし、先程の自称が全て虚偽のブラフであったとしても、一◯◯点という血塗られた数字を抱えながら『断る』と言って除けるその態度は、冗談にしてはあまりにも悪趣味が過ぎる。
「·········それも冗談か?」
虎杖の声から完全に感情の温度が消えた。
拳に込められた呪力が静かに、そして徐々に爆発的な質量を伴って鳴動を始める。
だが日車は変わらない。
浴槽の水からゆっくりと自らの五体を起こしながら、一切の感情を剥ぎ取られた無表情のまま、遠い景色でも眺めるように二人を睨む。
価値観の違う者達を軽蔑するかのように。
「いや? 俺はただ·········
滴る水滴が水面を叩く不穏な音を背景に弁護士の男は。
自らの意思で法を捨ててこの地獄の殺し合いのルールへと身を委ねたその歪んだ思想の全貌を、人の心をなくしたように語り始めた。
◇◆◇◆◇◆◇
なのはが抱いている違和感。
それは死滅回游というシステム上のルールの細部を知らぬが故の、より根源的な『生命の変質』への拒絶であった。
彼女は現段階において、この狂気のゲームを縛る厳密な総則を、その全てまで把握しているわけではない。点を得るためには『人殺し』という決して許されない大罪を犯さねばならず、そして隣にいる少年の虎杖悠仁が、その不条理な殺し合いを力尽くでやめさせるために、一◯◯点を持つ日車との『交渉』に命を賭して臨んでいる。
彼女が今掴んでいる真実は、ただそれだけの一点であった。
だが、だからこそ。
その無垢なる正義の領域に、浴槽の死神から放たれた言葉はあまりにも鋭利な毒となって突き刺さった。
日車は濡れたスーツを肌に張り付かせたまま、疲弊しきった瞳に冷たい知性を宿して語り続ける。
「時に法は無力だ·········だが死滅回游の総則はどうだ? 俺に与えられた呪術が本物ならば、総則もまた本物なんだろう。もしそうならばそこには煩雑な告訴の手続きも、理不尽な判決を覆すための控訴も必要ない。法廷で醜く審議を争うこともなく、ただ総則を犯した者は重力や慣性の如き物理法則そのものとして機械的に罰せられたら? 素晴らしいことじゃないか」
彼の口から淡々と紡がれるのは。
「もちろんこの総則に問題があることは認めるが、回游の土台となっている
現代の法治国家を生きてきた人間にしては、あまりにも道徳心という名の平穏な対価を欠落した言い草。
数千人、あるいはそれ以上の生身の人間が、ただのシステムを維持するための歯車として動かされ、殺されていく現実を『見届けたい』と肯定するその歪んだ思考に、
「ッ!!」
高町なのはの中で静かに、しかし確実に逆鱗の火花を散らせていた。
日車は二人の気配の変化にすら構うことなく、自らの思考の牢獄を開陳するように言葉を重ねる。
「特に総則二と八に記されたルールのペナルティ·········『術式の剥奪』という
人殺しの連鎖を肯定し、システムを法律と呼んで合理性を美化するその冷酷な言動。
あまりの理不尽に黙っていられなかった虎杖が、
「死滅回游はそれ自体が────!!」
と言いかけた。
その瞬間だった。
「ふざけないでください!!」
劇場の外光を完全に拒絶する暗がりを引き裂くような、高町なのはの純粋な叫びが貫いた。
その場に響き渡った苛烈な声に、日車は元からこの世の理不尽と人間の醜悪さに絶望しきっていたが故にただ静かに両目を細めるだけに留めた。
だが。
その隣にいた虎杖は、あのいつも温厚で、他人を包み込むような優しさを持ち合わせていたあのなのはが、珍しく剥き出しの『怒り』を爆発させた事実に息を呑んで驚愕の表情を浮かべた。
なのはは死滅回游のルールの詳細ついて何も知らないことの方が多い。
何が正しく、何が間違っているのかのルールシステム論は理解していない。
しかし。
目の前の大人が、弁護士と自称した男が。
ただ己の好奇心や価値観のために『他者の殺戮』を平然と肯定しているという、その一点のあまりにも舐め腐った態度が、彼女の持つ『表側の正義』の心が断じて許せなかった。
少女は自らの内に滾る激昂を、日車の虚無の瞳へと突き刺すように叫び続ける。
「殺される理由なんてどこにもない人だって、たくさんいるのに·········!! そんなあなたのあまりにも身勝手な理由だけで誰かの命が奪われるなんて、そんなの間違ってるよ!! 法を犯していない人達すらも自分の価値観だけを理由に、そのまま見捨てるっていうの!?」
胸を締め付けるような、痛切なる弾劾。
呪力ではないものの、彼女の全身からは『怒り』に呼応するように澄み切った桜色の『負の感情』が微かに鳴動を始める。
「あなたが弁護士だって言うなら·········そんな簡単に自分の価値観と誰かの命を天秤にかけられるなんて、そんなのおかしいよ!! 人の命を一体何だと思っているのッ!?」
「な、なのは·········?」
暗黒に染まった舞台に向かって投げつけられた、少女の剥き出しの魂の糾弾。
隣に立つ虎杖はなのはのその激しい怒りの圧力に圧倒されながらも、彼女がこの無法の地帯においてもなお、人としての至当な尊厳のために戦おうとしているその覚悟を見つめていた。
だが。
だとしても、だ。
その純粋すぎる表側の光を受け止めながらも、日車寛見の目から虚無の闇が消え去ることはなかった。
それどころか。
その唇には世界の全ての善悪を、遥か彼方へと放り投げたような。
残酷な歪みが形を成していく。
「────
「·········え?」
あまりにも弁護士という聖職からかけ離れた、血生臭い狂気に満ちた質問。
なのははその予想だにしない問いかけの邪悪さに、一瞬だけ言葉を失って絶句した。
日車は相変わらずの、感情を完全に放棄した平然たる態度のまま。
ザバァ、と。
濡れたスーツの重みを引き摺りながら、ゆっくりと浴槽の外へと這い上がってきた。
舞台の床に滴る水滴の音が、不気味に響き渡る。
「
それはもはや、善悪の判断基準や人間としての倫理の境界線が完全に崩壊してしまっていることを告げる、最悪の告白であった。
彼が濡れた右手を虚空へと掲げた、その瞬間。
彼の呪力が、一気に臨界点へと達する。
日車の手の中に罪を犯した者を断罪するための由緒正しい木槌────『判決を告げるガベル』が、
彼の呪力に呼応して、呪具となって具現化した。
同時に。
彼の背後の空間が因果の糸を巻き取るようにぐにゃりと歪み、光を拒絶した漆黒の闇の中から、
“
交渉の余地は、今この瞬間に完全に止まった。
「─────
日車寛見という死神の領域。
“一審の罠”が、いよいよ二人に襲いかかる。
◇◆◇◆◇◆◇
高町なのはの正義の叫びが暗黒の劇場を震わせた直後。
その果ての結果は最悪な形で終わり、二人の生存を許さぬと言わんばかりの速度で決定的な破滅へのカウントダウンを始めた。
舞台の上から二人を冷徹に睥睨する日車寛見。
その背後の空間に滞留する黒い影。
あらゆる検察や弁護といった主観的な主張、感情の汚濁に一切染まることのない、冷徹無比なる『絶対の裁判官』の如く、ただ不気味に厳かに佇んでいる。
「「ッ!!」」
虎杖となのははその突如として顕現した異形なる存在に対し、単なる戦闘用の式神ではない何か重大な意味が込められた、神聖侵すべからざる『縛り』の気配を敏感に察知し、強い猜疑の念を抱いた。
だが。
その不気味な違和感の正体を精査する時間すら、眼前の死神は与えない。
日車は虚な瞳で二人を見据えたまま、その乾いた唇を静かに動かし、決定的な術式を紡いだ。
「─────
呪術界における到達点。
そして対峙した者の生殺与奪を強制的に握る、『絶対の切り札』の一言。
それを何ら前振りも交わさぬ初手から一番最初に引き出してきたという圧倒的な異常事態に、虎杖の顔面にはかつてない強烈な焦燥と悪寒が走る。
カン、カン、カン、と。
劇場内の空気を物理的に叩き割るように、粛々と、しかし無情に鳴り響くガベルの音。
それは罪状を裁断する不条理な裁判の開廷を告げる、死神の鐘の音であった。
その瞬間。
世界は決定的に、そして即座に一変する。
(
日車のその言葉を聞くと同時、なのはの視界が押し寄せる空間の変質を捉えた。
彼女は本来、この呪術界とは異なる世界の元に生きる住人である。
しかし。
彼女の記憶の底には、決して消し去ることのできない『最悪の領域』の光景が、今なお生々しい傷痕として灼きついていた。
あれは─────今から約三年前。
あの忘れもしない、クリスマスの夜。
彼女は呪いの王、両面宿儺が展開したあの生きる者全てを塵芥の如く切り刻む絶対的理不尽─────『
(宿儺の、あれと同じ·········ッ!?)
眼前で呪力を練り上げる日車の危険度が、一気に天を貫くほどの絶壁の如く跳ね上がった。
宿儺の恐怖を身体が記憶しているからこそ、なのはの行動は思考よりも早く、極限のトップスピードへと達していた。
「アクセラレイタァァァアアアアアアアッッッ!!!」
喉がはち切れんばかりの叫びと共に、全身から暴風の如き桜色の魔力が爆発的に噴出する。
なのはの華奢な肉体は物理法則を置き去りにするほどの超加速を以て、壇上の日車へと肉薄していった。
領域が完全に完成し、その内側に閉じ込められる前に、初手でその術者を討ち果たす。
時空管理局の魔導師として培った、一瞬の勝機を掴むための最速の突撃。
しかし─────
「─────
なのはの予想は、別の意味で外れていた。
まず、領域が出来上がるのが早すぎた。近代法の正義を絶対の呪術体系へと昇華させたこの領域の構築速度は、魔導師の超加速すらも嘲笑うかのように、あまりにも冷酷に先んじた。
呪術が付与された未知の世界の構築。
それは周囲の空間を暴力的に上書きしていく、精緻かつ圧倒的な理不尽の浸蝕であった。
もう一つ。
「「!?」」
いつの間にかなのはの隣には虎杖もおり、そして虎杖もまたなのはと同じ考えだったようで、日車が領域を発動する前に倒そうと走り出していた。
その結果。
二人の身体が突撃の軌道のまま、目に見えぬ『法』の障壁に衝突したかのように強制的に止められる。
二人の視界を埋め尽くしたのは、光を完全に消し去った、漆黒と灰色の冷徹なる裁判空間。
劇場の絢爛たる客席も舞台も、全ては日車自身の心を具現化したことによる急速に反転によって、ただ厳格なる『法廷』の構造物へと再構築されていく。
逃れることのできない暗黒の結界。
その内壁には世界の情愛や奇跡の介入を一切拒絶する、強固な呪術の『縛り』が物理的な質量を伴って張り巡らされていく。
その証拠として、逃れようとした者には死を与えるというかのように幾つものギロチンが並んでいる。術者である日車の呪力が空間の隅々まで行き渡り、この領域のルールを犯した者は物理法則そのものの如く機械的に罰せられるという、絶対的なシステムが完成した。
虎杖の呪力となのはの魔力の残響が不気味に留まる中、完全なる『法廷』の檻が生身の二人を無慈悲に閉じ込めた。
漆黒の法廷の檻が構築された直後には、二人の放った超加速の突撃は物理的な手応えすら残さずに完全なる『虚無』へと化す。
日車の頭を捉えたはずの打撃も、呪力の波紋すら引き起こさない。
二人は自らの攻撃が文字通り無力化され、一切の干渉が遮断された現実に激しい戸惑いを隠せなかった。
だが、相変わらず冷静、というより余裕の態度を崩さない日車は。
その不可解な不条理に対し、極めて明晰なる法理のルールを以て静かに告げた。
「ここではあらゆる暴力行為は禁止されている。お互いにな」
「お互い?」
「禁止?」
その言葉が放たれた瞬間、不可視の法の斥力が働き、なのはと虎杖の肉体は強制的に別個に設えられた木製の証言台の前へと引き戻された。
力による蹂躙を初手から完全に否定する空間。
なのはは自らの魔力運用すらも外側から凍結されたかのような膠着状態になり、これが呪術界における絶対の切り札が有する不気味な法則なのだと、冷や汗を滲ませて息を呑む。
日車はそんな二人の当惑を当然の如く受け流しながら、自身の先程の不正確な言い草を訂正するように言葉を重ねた。
「ああ、済まない。言葉の暴力は別だ」
訂正できる部分は厳密に訂正する。
その几帳面な法曹界の残滓。
彼はそのまま自らの背後に佇む巨大な異形へと視線を向けることなく、淡々とその名を呼んだ。
「“ジャッジマン”、始めてくれ」
ここでようやく、漆黒の帳の奥に控えていた物体の名前が不気味な響きを伴って明かされる。
その目を縫われた巨大な式神は検察や弁護といった主観的な意見に一切染まることのない、冷徹無比なる『絶対の裁判官』であり、何も載せていない天秤を掲げているが故に主観の重みで揺れ動くことなく、ただ厳格なる法廷を機械的に開始する。
ジャッジマンの固く閉ざされた口から放たれたのは、地獄の底に住む閻魔大王の如き、血も凍るような告発の音声であった。
『虎杖悠仁は─────』
その罪状は虎杖だけでなくなのはの予想さえも遥かに裏切る、
『一八歳未満にも拘らず、二◯一七年七月一六日、宮城県仙台市のパチンコ店【マジベガス】に客として入店した疑いがある』
「··················へ?」
それを聞いて呆気に取られた唖然たる声を出してしまったのは、当事者である虎杖よりも、なのはの方が先であった。
殺し合いのルールを変革するために最低でも二◯人以上の命を奪った死神と命がけの交渉に臨む、その最悪の舌戦の幕開けに提示されたのが、『一八歳未満のパチンコ店立ち入り』という、あまりにも矮小なる軽犯罪であったという事実。
なのははそのあまりにもな展開に脳内の処理が追いつかず、完全に呆然と立ち尽くす。
領域展開というからつい宿儺の『伏魔御廚子』のようなものかと思ったら、まさか裁判が始まって、しかもその議題がまさかそんな馬鹿馬鹿しいものだとは思ってもみなかった。
しかし、形式的な裁判の手続きは少女の困惑を置き去りにして無情に進められていく。
「っ!!」
なのははハッと我に返った。
隣の証言台に立つ虎杖は、『う〜ん』と自らの過去の瑕疵を前にして口を噤んでいる。
その実直な少年の沈黙を『無実の罪に怯えている』のだと表側の純真な倫理観を以て誤認したなのはは、彼を窮地から救い出したいという一心で、勢いのまま声を張り上げてしまった。
「ゆ、悠仁君はそんなことをする子じゃありません!! 何かの間違いです!!」
誠実で、他人のために涙を流せる優しい彼がそんな不良のような軽犯罪に手を染めるはずがない。
一◯◯パーセントの善意と、無条件の盲信から放たれた純粋すぎる擁護の叫び。
悪気は一ミリも存在しなかった。
だが、その瞬間。
日車の冷たい瞳が、鋭利に、そしてそれ以上に冷酷に細められた。
その眼光だけで生身の人間を容易く射殺せそうなほどの、圧倒的な威圧の瞳が、生身のなのはへと真っ直ぐに向けられる。男は、近代法の正義を感情論で汚された検察官の如く、深い溜め息を吐き出しながら、ただ冷徹にその条文を告げた。
「─────刑法一◯三条、“犯人隠避罪”─────」
「え·········?」
なのははその機械的な言葉の響きに、ビクッと華奢な肩を震わせた。
日車の口から放たれた言葉の意味が分からず、ただ本能的な恐怖の警報が胸の中で鳴り響く。日車は構わず、現実の六法全書の条文を、この呪術のシステムルールに上書きするように淡々と説明していく。
「罰金以上の刑に当たる罪を犯した者を蔵匿い、又は隠避させた者は··················三年以下の懲役又は三◯万円以下の罰金に処する」
時空管理局員として方についてはある程度学んでいるなのはには、日本の近代刑法の厳密な構成要件を少なくとも知識として理解はしている。
だからなのはの叫びは言ってしまえば野次馬の喧騒、ニュースを聞いて自分の意見を述べただけの部外者の声であった。
だがしかし。
日車が自らの絶望の果てに構築したこの領域の独自ルールにおいては、彼女の放った善意の叫びは、明確な『罪』として処理される。
日車は一歩も動かぬまま、その冷たい声で。
少女を絶対の破滅へと追い詰めるロジックを解説した。
「この裁判では本来、虎杖悠仁のみの罪が問われている。だが今、君は客観的事実を無視し、主観的な感情論を以て彼を擁護した。法律上の『隠避』とは、単に身柄を隠すことだけでなく、虚偽の主張を以て司法の審理を妨害する一切の行為を含む。よって、虎杖悠仁の罪を揉み消そうとした犯人隠避の罪、または事実を否定してジャッジマンを騙そうとした虚偽の罪として、たった今君は───
「ッ!?」
その冷徹な宣告が法廷の静寂に投じられた瞬間、空間そのものが一触即発の圧を帯びて凍りついた。
『ただ友達を信じて叫んだ一言』
高町なのはの胸中にあったのは、打算も、欺瞞も、法廷を軽んじる不遜さも、何一つとして存在しない。
そこにあったのはただひたすらに、目の前で孤独に戦い傷つき、それでも他者のために命を投げ出そうとする真っ直ぐな心を持った少年を救いたいという、一点の濁りもない純粋な祈りであり、表側の世界で育まれた絶対的な善意の結晶であった。
でも、都合の良い奇跡の介入を一切許さぬ冷徹な近代法のプログラムという名の『縛り』が敷かれたこの領域の前では、その美しい感情の輝きは何の意味も持たない有害なノイズとして弾かれる。
全知の式神ジャッジマンが提示した『客観的事実』という絶対の数式の前に、なのはの『信じる』という情の論理は、ただの『事実の歪曲』であり、『軽犯罪者を不当に擁護して司法の正当な執行を遅延・妨害しようとする、極めて悪質な司法妨害』へと最悪の反転を遂げた。
本来なら、彼女にそこまでの責任は押し付けられることはない。
だがこの領域のルールは日車自身。
現代の法律に基づいての領域だが、領域である以上は日車自身に有利になるように事が進められる。
領域展開のメリットは、勝ちの確定を強めること。
五条悟や両面宿儺のような領域ではないものの、それが領域ならば自身が有利となる効果が付与される。
悪気がないからこそ、ルールの厳格さはその盲信の危険性を容赦なく炙り出す。個人の純真な想いなど、近代刑法を元にしたこの冷酷なシステムにとっては、法廷を侮辱し、被疑者を隠避するための『嘘』という罪悪のデータとして、機械的に処理されてしまったのである。
「··········!?」
それを聞いて絶句したのはなのはではなく、今回の裁判で罪に問われている虎杖悠仁本人だった。
なのはを不条理な近代法の罠に巻き込んでしまったという事実が、虎杖の胸に鉛のような凄絶な重みの罪悪感が伸しかかった。
領域の全貌や厳密なシステムこそ完全には把握していない。
それでも暗黒の法廷の最奥、証言台の向こうに立つ日車の胸元に冷徹に刻まれた『天秤のマーク』を認めた瞬間、虎杖はそのマークが有する社会的意味を、そしてこの男が紛れもない本物のかつて法の正義を司っていた“弁護士”であったという現実を、冷や汗と共に悟らざるを得なかった。
沈黙の膠着の中、日車は虚な双眸で二人を睥睨し、その手にいつの間にか握られていた一通の茶封筒、『証拠書類』が収められた因果の塊を見せつけながら、冷酷にルールの全貌を解説し始めた。
「ジャッジマンは領域内の者の全てを知っている。だが、判決はあくまで我々のみの主張を元に下される········この『証拠』を除いてな」
カサリ、と。
乾いた和紙の摩擦音が法廷に響く。
「これはジャッジマンから提出された本件の証拠だ。だが、『証拠』は必ずしも君の疑いを確定するものではない。内容を君らに教える気はないが、その上でこれから君達二人は言い分を述べ、己の疑いを晴らし、ジャッジマンから『無罪』を勝ち取らねばならない。陳述の機会は一度のみ、これもお互いにな。君らの陳述の後に、俺も一度だけこの証拠を踏まえて反論させてもらい、最後にジャッジマンが六法に基づき判決を下す」
一度きりの陳述、開示されぬ不気味な証拠。
虎杖が必死になって頭の中で最善の言い訳を組み合わせ、思考を働かせまくっている中、その隣の証言台で未だに自身の戦力が無意味なものへと変えられている事実に戸惑うなのはが、凛とした声のまま、しかし確実な警戒を孕んで問いかけた。
「有罪になったら········私達はどうなるんですか?」
少女の至極当然な疑問。
だが日車は眉一つ動かさず、ただ事務的な静けさを以てそれを切り捨てた。
「残念ながらその質問に説明責任はない。代わりと言ってはなんだが、これだけは教えておく」
日車は一歩も動かぬまま、その眼光だけで人を殺せそうな瞳をなのはへと向け、冷酷な『現実』を突きつける。
「本来なら、君はただ黙ってこの裁判を見守っていれば良かった。あくまで今回の裁判の対象者は虎杖だけだったからな。しかし先程言ったように、君はジャッジマンから問われた虎杖の罪状に対して感情的に反論してしまった。よって、君は虎杖の共犯者と見做されているため、この裁判での正式な陳述を求められる········そんな君らの選択肢は三つだ。“黙秘”、“自白”、“否認”。そして“否認”には当然ながら虚偽陳述も含まれる。さぁ、言い訳しろ。ジャッジマンの気は長くないぞ」
三つの選択肢、迫り来る判決の刻限。
なのははその小さな脳内で必死に思考の糸を紡ごうとした。
しかし、彼女は虎杖悠仁という少年の全てを信じているものの、彼が過去の仙台で本当にそのパチンコ屋さんに行ったのかどうかという『客観的事実』までは何一つ知り得ない。ただ彼を護りたいという一心だけで叫んだ一言が、これほどまでにがんじがらめの法の檻となって自分たちを縛り付けている。
何も返せないまま、なのはは奥歯を噛み締めるしかなかった。
「········」
一方で。
自分のくだらない過去の行い、軽犯罪のせいで差し伸べられたはずの、自分を無条件で肯定してくれた大切な友達までをも犯罪者の席へと巻き込んでしまったという事実。
虎杖の中で、それは耐え難いほどの凄絶な自己嫌悪となって爆発した。
これ以上、なのはに重荷を背負わせるわけにはいかない。
せめて。
なのはの容疑をこれ以上重くしないための、そして彼女を領域の罰から引き剥がすための唯一の手段として。
「ごめん、なのは」
「え?」
少年はただ隣の少女へ向けて悲痛な謝罪を口にすると、自らの頭を深く垂れ、その罪を真っ向から認めた。
「········俺、行きました········パチンコ屋に入りました········やりました」
「!?」
少年の剥き出しの自白。
しかし彼は頭を下げたまま、喉がちぎれんばかりの咆哮を続けて証言台の向こうの死神へと叩きつけた。
「だから········!! なのはに罪は一切ない!! 罰するなら俺だけにしてくれ!!」
「················」
闇の法廷を引き裂くような、少年の悲痛なる魂の叫び。
だが、そんな近代刑法をベースにしたプログラムで動く『誅伏賜死』の絶対的なルールの前には、その熱き男気すらも一ミリの価値を持たない有害なノイズとして一蹴される。
ジャッジマンの閉ざされた瞳は、虎杖の叫びを『被告人による客観的事実に基づかない主観的な陳述・身代わりの要求』として処理した。
なのはが『法廷の前で虚偽の主張を行い、被疑者を不当に擁護して司法の執行を妨害した・犯人隠避』という過去の客観的事実は、虎杖がどれだけ泥を被ろうとも、システム上絶対に消去することはできないからである。
その言葉が法廷の闇に消えるや否や、日車は罪を犯した者には容赦しないと言わんばかりに黙って、手に持っていたガベルを、背後に聳え立つ巨大な黒い影に向かって無慈悲に叩く。
カン、カン。
感情の一切を排した声で、ジャッジマンは鉄槌を下した。
『─────
シュン、と。
世界が元に戻る音と共に、漆黒の法廷の領域は瞬時にして消え去り、光を拒絶していた世界は元の池袋の廃墟劇場の舞台の上へと強制的に帰還した。
「悠仁君、なんで········っ!?」
なのはの喉から信じられないという戸惑いの呟きが漏れた。
何故戦うことも弁明することもなく、自ら進んで罪を認めてしまったのか。
しかし。
少年の悲痛な覚悟の理由を問い詰める時間すら、この死滅回游で何人も殺した日車という死神は与えなかった。
領域が解け、暴力の禁止という『縛り』が消滅したその直後、
「─────ッ!?」
初手。
日車のガベルが自身の呪力の風圧を伴って一閃され、虎杖の肉体が弾かれたように舞台の端へとぶっ飛んでいく。
「悠仁君!?」
なのはが虎杖の名を呼ぶその隙、それをあの死神が逃すわけがない。
解き放たれた死神の狩りの瞳は、即座に次なる標的、残された少女へと完全に切り替えられた。
「ふッ!!」
「ッ!?」
肉薄する日車の影。
なのはは時空管理局の魔導師として培った直感のままに、自らの全てを共にしてきた最愛の半身の名を、喉が千切れんばかりに叫んだ。
「レイジングハート!! お願い!!」
いつもなら主の危険を悟って自動で前方に障壁を張ってくれるお決まりの展開が待っている。
だが。
『 』
その叫びに対し、いつもであれば澄み切った電子音を響かせて応えるはずの愛機はうんともすんとも言わなかった。
それどころか、視界の隅で捉えたレイジングハートは、魔法運用の兆候すら見せない完全なる待機状態、ビー玉サイズに戻ったまま冷たい宝石の塊として沈黙している。
「レイジングハート!?」
脳裏を過る強烈な違和感と戦慄。
なのはは即座に自らの体内に眠るエネルギーを練り上げ、強引にデバイスを呼び覚まそうとした。
でも結果は変わらず、そこで彼女の精神を貫いたのは先程以上の絶対的な絶望。
そう。
気付いてしまったのだ。
(
それはデバイスの機能自体を奪われたからではなかった。
ジャッジマンが下した『
術式を持たぬ者が呪力を根こそぎ奪われるのと同様に、彼女を魔導師たらしめていた全エネルギーの供給源が内側から強制的にシャットダウンさせられている。
レイジングハートが沈黙していたのは、なのは自身から魔力の供給が完全に途絶してしまったが故の、システムに則った必然の現象であった。
バリアジャケットを維持することすら叶わず、ただの生身の女の子へと引き摺り下ろされた華奢な肉体。
今まで纏っていたバリアジャケットは消失、国連調査機関の制服へと戻ってしまっていた。
殴られれば容易く血を流し、衝撃を受ければ容易く骨の折れる、あまりにも無防備な姿。
そこへ。
呪力を以て巨大化された日車の無慈悲なる木槌が、容赦なく襲いかかる。
「ゔ、あぁッ!?」
暴風の如き質量がその華奢な胴体を捉え、なのはの身体は遥か遠くの客席側の椅子の群れへと、激しい破壊音と共にぶっ飛ばされていった。
バキバキと音を立てて、劇場の古い座席が数列にわたってひしゃげて爆ぜる。
「「─────ッ!!」」
無防備な少年少女生身を襲ったのは、呪力を練って構築した防護壁や、バリアジャケットという絶対の障壁を失った者が受けるには、あまりにも残虐な物理的質量。
背中を襲う激痛と、肺の中の空気を強制的に絞り出された排気音が、客席の暗がりへと虚しく霧散していく。
「───ッ、は、げほっ········!!???」
なのはは床に這いつくばり、痛みに歪む顔を上げようとした。
しかしその視線の先で彼女の戦術的理性をさらに凍りつかせたのは、舞台の上に佇む男の挙動であった。
日車は、全く変わらず表情を歪めない。
ただ濡れたスーツを纏ったまま、冷徹な検察官が書類を整理するかのような事務的な所作で、右手に握られたガベルを無造作に、そして不気味な空気を伴って手元で振り回していた。
ヒュン、ヒュンと。
劇場の空気を鋭利に切り裂く風切音。
その風圧が壇上から客席の奥底へと、死へのカウントダウンの如く不穏に吹き抜けていく。
「なのは········ッ!!」
舞台の横から自らの肉体を強引に叩き起こした虎杖が、絶望に満ちた悲鳴を上げて駆け寄ってくる。
その顔は自らの些細な過去の瑕疵のせいで、差し伸べてくれたはずの大切な友達の全戦力を奪い去り、文字通りの戦犯にしてしまったという、圧倒的な自己嫌悪による『呪い』に歪んでいた。
自らを呪うとは、こういう事なのだろうか?
だがそんな二人の必死なる視線を、日車はただ何事もないような、全てはこの世のルールだとでも言うように訴える。
「言ったはずだ········
「「ッ!!」」
彼は相変わらず感情の起伏を完全に欠落した声色のまま、再びガベルの軌道を描き、その先端を二人のいる客席へと向けた。
魔法という最強のチート級の武器を剥ぎ取られ、殴られれば容易く血を流す無力な子供の体に引き摺り下ろされたなのは。
そしてその無惨な現実を前にして、魂を侮辱され、狂気的な自己嫌悪に狂う虎杖。
二人はスポットライトの下で冷酷に木槌を振り回す死滅回游の絶対的な死神の姿を、ただ息を呑んで見つめるしかなかった。