日本の刑事裁判における有罪率は、九九・九パーセント。
起訴、すなわち国家によって“罪人”として法廷へ引き摺り出された時点でその人間の敗北は統計学的にほぼ確定していると言ってもいい。諸外国のそれと比較しても異常極まるこの数字は、司法制度が孕む歪な構造の証明に他ならなかった。
国家の威信を背負う検察官は、証拠が不充分な段階での起訴を絶対に選ばない事が多い。
“一◯◯パーセント確実に有罪にできる”と確信を持てた鉄壁の事件だけを厳選し、法廷の俎上に載せる。
結果として裁判が始まった時点で被告人の有罪のレールは敷かれており、裁判所もまた『検察が起訴したのだから間違いなく犯人だろう』という不可視の先入観に支配される。
一度回った歯車を止めることはできない。
国家という名の巨大な機構が一度『黒』と断じた人間を、個人の力で『白』へと覆すなど、天文学的な確率の奇跡を求めるに等しかった。
それでも。
日車寛見という弁護士を知る凡夫はこう囁いた。
“天才”
彼はかつて、その◯・一パーセントの光を信じて挑み続けた男であった。
弱者を救い、冤罪の闇から無実の人間を救い出す。
その至高の理想を胸に彼は九九・九パーセントという絶望的な壁に正面から立ち向かい、実際に『無罪』を勝ち取るという司法の歴史に刻まれるべき奇跡を成し遂げたことすらある。
だがそんな彼を待っていたのは歓喜ではなく、底なしの虚無であった。
勝ち取ったはずの無罪判決、それは世論の反発だったりとあらゆる理不尽な濁流によって即座に踏み躙られ、差し戻された法廷で無実の被告人は再び『いつも通りの有罪』へと流されていった。
誰が正しいかなど、法廷の前には何の意味も持たない。
正義も、真実も、個人の人生も。
全ては世界の九九・九パーセントという数字を維持するための歯車として擦り潰されていく。
その底なしの絶望を味わい尽くしたからこそ、日車寛見の心は完全に闇に堕ち、
彼の領域である『誅伏賜死』は、一切の情状酌量を排した『冷徹な法理』として完成してしまったのだ。
そんな日本の司法の『歪み』そのものを体現する日車を前に。
魔力を奪われ、傷だらけになった生身の少女────高町なのはは、今。
◇◆◇◆◇◆◇
「········ッ!!」
吹き飛ばされた先で、虎杖は焦っていた。
自白してなのはの罪だけは取り下げて欲しいと思っての行為が、逆に彼女を追い詰めることになってしまったことを。
その結果、
「ふッ!!」
ジャッジマンの影が融解するように虚空へ消え去り、法廷を満たしていた『暴力の禁止』という絶対の縛りが消失した、まさにその直後であった。
「ゔ、あぁッ!?」
日車寛見の動きに一切の躊躇はない。
ガベルの頭部が一瞬で破城槌の如き巨躯へと肥大化し、無慈悲な水平の一閃となって魔力を喪失した少女へと襲い掛かった。
バリアジャケットという絶対の防壁をリンカーコアの完全凍結によって剥ぎ取られた高町なのはの体は、今やただの華奢な少女のそれへと引き摺り下ろされている。重力の檻に縛られた生身の反応速度では、呪力によって加速された物理的な重みのある凶器の軌道を回避することなど、天地がひっくり返っても不可能であった。
直後。
すぐ目の前まで迫ってきていた日車の攻撃を、自分の腕を盾にすることで受け止めようとしたものの、その腕ごと吹き飛ばしたことによって観客席が爆散し、鋭利な木材の破片が彼女の柔肌を容赦なく切り裂きながら瓦礫の山となった客席の奥へと彼女を埋没させた。
冷たい宝石の塊へとシャットダウンしたレイジングハートが、コロコロと床に虚しい音を立てて転がる。
「なのは········ッ!!」
地を蹴った虎杖は、弾丸の如き速度で吹き飛ばされたなのはの元へと駆け出す。
呪力という不可視の鎧を没収された『ただの人間』の身でありながら、“宿儺の器”としての並外れた肉体が爆発的な反応速度で動いていた。
「大丈夫かなのはっ!?」
「う·······ぐッ!!」
駆け寄った虎杖はなのはの体を優しく抱き寄せた。
生きてはいる。
しかしぐったりと力の抜けた手足に、なのはの顔は赤く染まっていた。吹き飛ばされた衝撃で頭のどこかが切れ、血が流れて来ている。瞳は開いているとも閉じているとも取れず、半開きの状態で己の体を支えている虎杖を見る。
全身を走る激痛は体を引き裂くようなもののはずだ。
魔導師としての力を奪われた彼女はただの子供。
にも拘らず、まだ意識があるのは不幸中の幸いだった。
子供といっても彼女だって時空管理局の魔導師、ならばある程度とはいえそれなりの訓練を受けているはずだ。真面目な彼女のことだから基礎的な体力作りや規律を学ぶ新兵訓練を受け、それによって吹き飛ばされた先で衝撃を分散させて自分自身の身体を守るための受け身を取ってダメージを減らしていた。
とはいえ、このダメージは決して無視できるものではない。
まずなのはが受けた腕を見ると、衝撃が強すぎたのか服が破れ、そしてそこから露出している肌が異様な色へと変色している。
虎杖はそういう知識を学んではいないものの、これは打撲痕で済むようなものではないということだけは一目で分かる。
下手したら骨に何かしらの異常が起きている可能性もある。
最悪、折れたかもしれない。
それでも意識を手放さないなのはは、掠れた声で、
「だ、大丈夫、だよ·······悠仁君」
「·······ッ!!」
まだ無事だった方の腕を伸ばし、虎杖の頬に触れてそう言った。
そんなはずなかった。
バリアジャケットを身に纏っているならばまだしも、彼女はそんな鎧を剥ぎ取られたままあの重い一撃を受けたのだ。実際、なのはの声は絞り出すように小さく、声域も頼りなく揺らいでおり、いつ気を失ってもおかしくないくらいだった。
それなのに、その言葉には温かみがある。
なのはは心配はないとでも言いたげに立ち上がろうとするが、無理はさせられない。
「動くなよなのは、ちょっと安全なところまで運ぶ」
「っ!!」
虎杖は一度彼女を抱えると、この劇場の端っこ、一番後ろまで移動させた。
なのはを運ぶ際はできるだけ負担をかけないように横抱きで抱え、痛めている腕に障害物がぶつからないように慎重に降ろした。
やはり大丈夫と言っても、生身の人間にあの一撃はかなり来ただろう。
なのはは奥歯を噛み締めながら腕を押さえていた。
「もういいか?」
「ッ!?」
さっきからずっとこちらを見ている日車は、虎杖に言葉を投げかける。
そんな日車の方を見ると、彼は相変わらず表情を変えずにこちらを睨んできている。
その凍った瞳、全ての人間をゴミのように屠り、もはや弁護士としての正義感を失くしたその姿。
それを見ていると、虎杖は自然と負の感情が湧き上がってくる。自分を見捨てなかった少女が血を流して倒れている、その事実が虎杖悠仁の脳幹を沸騰させた。
しかし。
それが呪力へと変換されることはない。
彼は今、日車の術式の効果によって力を奪われている。
だとしても、だ。
それがなんだと言うのだ?
「·······ッ!!」
まだ自分は動けている。
まだ拳を握れる。
それで充分だ。
「もう容赦しねぇぞ·······日車ぁッ!!」
劇場内に響き渡る虎杖の咆哮。
そう。
もう情け容赦も必要ない。
随分と久しぶりにその感情を抱いた虎杖の目は、敵意以上のものが篭められていた。
◇◆◇◆◇◆◇
「ハアッ!!」
虎杖はバキリという音を響かせながら床板を踏み抜き、破壊された破片を足場で蹴り飛ばしながら弾丸の如き踏み込みで舞台上にいる日車の懐へと肉薄した。
呪力なき、普通の拳。
しかしそれは、一撃で猛獣の頭蓋を粉砕せしめる破壊力を秘めている。
空気を切り裂く高速の連撃が、日車の顔面と体幹へと殺到する。
「ふん!!」
だが、日車はどこまでも冷徹であった。
懐に滑り込んできた虎杖の拳に対し、日車は手元のガベルを瞬時に細身の短杖へと縮小変形させ、その間合いの内側で虎杖の顎へと正確極まるカウンターの掌底を叩き込んだ。
「ぶほっ!?」
脳震盪の衝撃に虎杖の視界が激しく歪む。
しかし虎杖だって止まらない。
彼は揺れ動く視界を強引に固定するために舌を噛んで強烈な痛覚を脳へ送り、その刺激で意識は元に戻った。
そして視界が明けるより早く本能のままに潜り込み、日車の軸足を払うべく鋭い下段回し蹴りを放つ。
日車はそれを垂直の跳躍で回避、というより手に持っていたガベルが異様なほど伸びたことで彼の体が天井付近へと上がったと言った方が正しい。地面に突き刺さった持ち手の底がブレることを抑制し、固定された木槌はそのまま伸びることで日車の体は上へ運ばれる。
空中と地上で二人の視線が交錯した瞬間、日車は床に固定して伸ばしていたガベルを再び虎杖の全身を圧殺するほどの巨大な破城槌へと膨張させた。
空中での制動を無視した、あまりにも不条理な質量の急変動。
それはまるで二次元のカートゥーンやフィクションの文脈で語られる『ハンマースペース』そのものを、呪術という理不尽な原理によって現実へと引き摺り出してきたかのような、物理法則への冒涜であった。
「チッ!!」
頭上から迫る巨大な影。
虎杖は咄嗟に舞台の床を横ざまに転がり、その超重量の一撃を回避する。
直後、爆音と共に舞台の床板が蜘蛛の巣状に爆散し、無数の木片が散弾となって周囲に飛び散った。
日車は着地と同時に、床にめり込んだガベルの手放しを一切躊躇しない。武器を手放して無防備になったかと思われた瞬間、日車が引力の手繰りをかけるように右手を引くと、瓦礫の彼方に転がっていたガベルが意思を持つかのように主の日車の手元へと高速で帰還する。
すると即座に日車は手放した。
投げ斧のように虎杖の眼前に向けて。
「ッ!!」
それを虎杖はイナバウアーを彷彿とさせる超人的なブリッジの姿勢で、自らの鼻先を掠めていく法の裁きを間一髪でやり過ごした。
しかし、手元に戻ったガベルを握り直した日車の追撃はすでに始まっている。
日車は一歩を踏み出し、ガベルを今度は中型の両手ハンマーのサイズへと調整した。間髪入れずに繰り出されるのは、一切の無駄を削ぎ落とした法理の如き正確な打撃の連鎖。
斜め上方からの振り下ろし。
虎杖はそれをバックステップで避けるが、日車は即座に手首を返し、ガベルの柄で虎杖の喉元を突きにいく。虎杖は頭部を右に傾けてこれを寸前で回避、そのまま日車の右腕を両手で掴み、柔道の背負い投げの要領で床へと叩きつけようと試みた。
呪力のない虎杖にとって、現時点で唯一の武器はその規格外の『体術』と『筋力』のみ。
だが、日車はそんな彼と違って五体満足の状態。
それが、二人の間に決して埋まらないほどの差を生み出している。
そもそも、だ。
彼は“弁護士”としての才能よりも、“呪術師”としての才能の方が遥かに光っていた。
領域は本来複雑な術式で、だが日車はデフォルトで備わっているため掌印も不要であり、そこから自らに備わった術式を解明することで結界術も同時に習得。それを逆算する形で呪力操作による強化術の勘を掴み、術式開花から僅か一二日間で一級術師として遜色のないレベルまで成長し、身体能力もまた向上している。
「·······」
日車は虎杖に投げられる直前、ガベルの重さを最大にまで引き上げた。
突如として日車の右腕に加わった数トンもの超重量。
虎杖は唐突に変わったその理不尽な重みに僅かにバランスを崩し、投げるどころか自らの体勢が崩壊する。日車はその隙を逃さず、ガベルの重量を再びゼロに戻して軽やかに着地すると、翻した左の回し蹴りを虎杖の側頭部へと叩き込んだ。
「が·······ッ!!」
不快な破裂音が劇場に響き、虎杖の身体が横に数メートル滑る。
そのまま日車は攻撃の手を緩めることはない。
日車は一歩を踏み出し、右手のガベルを今度は中型の両手ハンマー·······いや、片手で取り回せる肉厚の猟刀の如き禍々しいサイズへと最適化させた。
間髪入れずに繰り出されるのは、一切の無駄を削ぎ落とした正確な打撃の連鎖。
それは近代の戦場で練り上げられた、極限の近接格闘術そのものであった。
「ふっ!!」
日車の右手から放たれた、喉元を穿つ鋭い刺突。
「ぐッ!!」
虎杖はそれをバックステップで避けない。
それほどの距離を置けば、直後に待ち受けるガベルの大きさの変化による間合いの破綻に圧殺されると直感が理解していた。虎杖は両腕を交差させて敢えて前へと踏み込み、自らの腕の骨を差し出すことで受け止め、迫り来る攻撃の軌道をミリ単位で逸らす。
肉と骨が激しく衝突する鈍い音が響く。
虎杖がその質量を腕で受け止めて硬直したまさにその一瞬、日車はガベルを握る右手を固定したまま、空いた左手の拳をまるで大理石の彫刻を削る鑿の頭に玄能を打ち込むかのような、無機質かつ極めて冷徹な動作で、自らのガベルの頭部へと強烈に叩きつけた。
ガンッ!! と。
押し出される圧倒的な衝撃の二重連動。
「ブッ!?」
彫刻刀が硬い岩を穿つように、日車の拳による推進力を得たガベルは虎杖の強固な十字の防御を強引に、そして無慈悲に突き破った。
防御壁ごと押し潰された法の裁きが、虎杖の顔面へと容赦なく叩きつけられる。
「あ、が·······ッ!!」
鼻骨が軋む悍ましい衝撃と共に、虎杖の身体が後方へと弾き飛ばされた。
その先には偶然にも客席にあった椅子があり、そこに強引に座らされた虎杖はその勢いのまま後ろへ倒れ、そこで偶然足の先が日車が投げてきたであろう木槌を上へと蹴り飛ばした。
後ろへと倒れる際に椅子の足を持ち上げて盾にする形で迫ってくる日車に応戦するが、呪力強化と遠心力を備えた強烈な回し蹴りはその椅子ごと彼を吹き飛ばす。
背中から床へと落ちた虎杖はその姿勢のまま前を見ると、日車がその椅子ごと叩き潰そうと最後の判決を告げるようにガベルを振り下ろしてくる。
バゴォッ!! と。
ガベルは椅子を突き破っても、それを持つ腕までは椅子を貫けずに引っ掛かり、幸いにも虎杖の鼻先で攻撃は止まった。
それでも攻撃をやめない日車は即座に木槌をもう片方の手に転送、下から掬い上げるように一閃する。
「っ!!」
虎杖は椅子の足を離すと頭の上の床を手で押して日車の股の間を滑って潜り抜ける。彼の力は尋常じゃなく、たった一度の手押しでその体は数メートル先まで移動する。
無論、日車は逃さない。
上へと掲げたガベルが先と同じく異様に伸び、それを振り下ろそうとするのを悟った虎杖はまだまだ距離を伸ばそうと懸命に腕を動かして頭の上の床を押して体を滑らせる。
衣服を焦がす摩擦熱と共に、逃がすまいと異様に伸びたガベルの先端が床板を爆砕した。
ドゴォ!!
広範囲の衝撃に膨大な煙と埃が舞う。
虎杖は間一髪、伸ばされた木槌の一撃を回避していた。
だが、日車の真の恐ろしさはその直線の不条理だけではない。
躱され、限界まで伸び切ったガベルの持ち手を日車は手首の強烈なスナップだけで弾いた。
その瞬間、直線であったはずの木槌が物理法則を拒絶してしなやかな鞭の如き有機的な軌道へと変貌を遂げる。
波打つ蛇が、無防備な虎杖へ襲いかかった。
虎杖は倒れた状態でブレイクダンスのごとく体を捻らせて遠心力の力を借りて逆立ちし、その蛇の包囲網を躱すために上へと逃げる。
虎杖は超人的な跳躍力でその先にある出っ張りの縁を両手で掴み、大車輪の要領で自らの身体を空中へと放り投げた。
そのまま虎杖は二階の足場に登ると、背後から風切り音がしたので首を傾ける。
虎杖の勘は当たっており、その直後に背後から追尾してきた日車のガベルによってその先の壁が木微塵に爆砕される。
逃げ場のない平坦な壁際。
そこへ日車による投擲と返還を繰り返す木槌の群れが、銃撃の如く凄絶な連射で叩き込まれる。
虎杖は飛来する無数の弾丸を手足を激しく動かしながら、車並みのトップスピードを以てすり抜けていく。
ドドドドドッ、と。
虎杖がコンマ数秒前まで地面を踏み鳴らしていた箇所の壁が次々と背後から爆砕され、巨大なクレーターとなって瓦礫の散弾を撒き散らしていく。
最終的に最後の一発として放った一撃はバズーカ砲並みの威力を発揮し、虎杖がいた二階部分は白い煙幕で覆われた。
敵を察知できなくなった。
それで日車はようやく攻撃の手を止め、同時にずっと抱いていた違和感について訊ねるように、
「
凄まじい音が響き、虎杖は呼吸が止まりかけていたものの、その声に対して苛立ちを隠せないような声色で返す。
「アンタがやったんだろ!!」
「“没収”の罰は一時的に術式の使用を不可能にするものだ。察するにお前は術式を持っていなかった。だから罰が“術式の使用不可”に変わったのだろう。それによって、あの子もお前と同じ罰を受けたようだ」
「!?」
虎杖はそれを聞いて目を見開いた。
ここでもまた自分の犯した罪の罰が彼女を苦しめている事実、けど同時にこう思った。
(だとしてもこんなのは初めてだ·······今まで一人ずつ戦ってきたから知らなかったが、
そのことに対しては日車自身も知り得なかった真実だった。
本来、近代司法における刑事裁判とは、被告人個人の犯罪事実を個別に審理する独立した手続きである。
例え同一の事件に関与していようとも、それぞれの責任の重さや情状は異なるため、一人の裁判につき一人の被告人を裁くのが大原則であった。かつて例外的に併合審理された事例も存在するが、それは司法の歴史においても極めて稀有な特異例に過ぎない。
だが。
日車寛見の領域『誅伏賜死』が作り出す法廷は、国家が定めた六法全書の枠組みを超越した、“呪術”という名の理不尽なシステムによって稼働していた。
当初、この法廷が弾劾する対象は虎杖悠仁ただ一人であったはずだった。
しかしその近くにいて巻き込まれた少女の高町なのはは、隣に立つ少年の罪を前に、感情を抑えきれずに猛然と反論の声を上げてしまった。
それが領域の意思たる式神、“ジャッジマン”の冷徹な法理に触れた。
証拠を隠滅、あるいは犯人を匿う意志の露呈。
ジャッジマンはなのはの反論を『刑法一◯三条・犯人隠避罪』に抵触する独立した犯罪行為と見做し、通常であれば交わるはずのない二つの裁判を強引に一つの『共同被告人』として併合・起訴するという暴挙を平然と成立させたのである。
その結果、虎杖の『自白』によって一審の判決は下り、巻き込まれたなのはにも術式による無慈悲なペナルティ────『リンカーコアの凍結』という理不尽が科されることとなった。
(他にもあの女の子·······呪力を感じられなかったが何かしらの罰が与えられたということは、
そして虎杖が疑問に思った答え、それは日車自身もわかっていなかった。
虎杖や日車だけでなく、誰もが知らない真実。
魔力と呪力。
存在の起源を異にする二つの異能は────
違うのは、それが『表か裏か』という指向性のみ。
呪力が人間の歪んだ負の感情から汲み上げられるネガティブの力であるならば、魔力とは聖なる願いと祈りの結実たる正の輝き。一見すれば水と油の如く相反する二つの力は、一枚の硬貨における表と裏、あるいは単一の電池における陽極と陰極の如く、本質において完全に同義であった。
“表裏一体”
そして日車寛見の領域『誅伏賜死』において、ジャッジマンが下す没収の最優先対象は『術式の剥奪』である。
しかし第一被告人である虎杖悠仁には、生まれ持つべき術式が刻まれていなかった。その致命的なエラーの連鎖が、共同被告人として法廷に引き摺り込まれた高町なのはの運命をも狂わせる。
もしなのは単独の審理であったならば、没収の対象は彼女のデバイスであるレイジングハートという外部兵装に留まっていたかもしれない。
だが術式を持たぬ虎杖と共同正犯の罪に問われたが故に、領域のシステムはなのはの肉体内にある魔力そのものを『虎杖の呪力と同質の異能』と検知し、その根源のリンカーコアごと無慈悲に凍結・没収するという最悪の選択を下したのだ。
ちなみに呪霊という純粋な負の塊に対し、なのは達魔導師の放つ聖なる魔力が通用しなかった理由もそこに起因する。
両者が衝突した瞬間に異能の因果は掛け算の如く作用し、出力される結果は一律でマイナスへと反転・吸収されてしまう。
掛け算でマイナスかけるマイナスで生み出したプラスだから、呪霊のマイナスを中和・消滅できる。対してなのは達魔導師の魔力は反転術式のようにマイナス同士を掛け合わせて変換したプラスではなく、根源が元から『純粋なプラス』だから呪霊のマイナスと接触した瞬間に掛け算になってしまい、結果がマイナスに引き摺り落とされる。
純粋な陽の力故に、底なしの陰の深淵には届かない。
これでもまだ納得できないと言うのなら、実際の人類の歴史を紐解けば、魔法が『呪い』として語り継がれてきた形跡は後を絶たない。
例えば、数多の伝承に登場する“魔女”が用いる魔法の多くは、その実『呪詛』の類いと何ら変わりはなかった。恐ろしい魔女の奸計によって人々が哀れな魔物へと姿を変えられた、あるいはあの美しき姫君が邪悪な魔法によって醜悪な容貌へと変えた、などという仄暗い童話は一度ならず誰もが耳にしたことがあるはずだ。
他にも代表的なもので、人間になりたいという人魚姫に対して海の底に住まう魔女は足を与える魔法の薬を作り与えたが、その対価として要求されたのは『美しい声』であり、さらに『歩くたびに両刃の鋭い剣やナイフを踏みつけているような激痛が走る』という魔法をかけた物語も、まさしくその典型と言える。
そこでは『魔法』という耳ざわりの良い単語が使われてはいるが、その本質が齎らす絶望の理は、どちらかと言えば『呪い』のそれと同義ではないか。
呼び名が違うだけで、根源にあるのは人間の精神が紡ぎ出す超常の異能。
聖なる願いか、あるいは悪意の呪詛か。
方向性が異なるだけで、両者の境界線は元より曖昧であった。
故にこの二つの概念が『呪われた法廷』という舞台において交錯した瞬間、最悪の化学反応が引き起こされるのは必然であったと言える。
だが何にせよ。
今一番の問題は、
(それなのに何故────
力を奪われた術師はどいつもこいつも弱体化しているはず。
実際、あの高町なのはは管理局で不屈のエースと謳われた程の実力者で、だが力を奪われた途端にただの女の子に成り下がった。彼女の場合は魔法ではあるが、先程の説明通りに呪いとほぼ同質である以上は今までの奴らと同じ状態になっている。
どれだけ才能があっても生来の肉体は女の子そのもの、強度は普通の人間並みでしかない。
術師は術式が使用できなくなると基礎的な部分まで上手く機能しなくなり、今まで通りに動けなくなる。
異能に頼りすぎ、それが原因で今までの奴らはこの日車という死神に狩られることになった。
だがそれ以上に、この虎杖悠仁という少年は彼らよりも不利な状態に追い込まれているというのに、これだけ攻撃を喰らわせても一切倒れない。
そう思えてならないからこそ、日車は慢心を抱かず、むしろより警戒するように本気を出そうとしていた。
ゴン、という音が聞こえた。音源は天井付近にある狭い通路から。そこから何かが落ちてきて、危うく日車に当たりそうになった。
物を投げて攻撃しようとしたのか、何にしても見つけたのには変わりない。
呪力を奪われてしまったせいで却って気配が読みにくくなってしまってずっと暗闇で潜んでいたようだが、日車は即座に自分の土壌に持ち込むために虎杖がいると思われる箇所に向けると、ガベルが勢いよく飛び出していく。
まるで手が届かない場所にあるものを長い物を使って引き寄せるように、天井の狭い通路を木槌の先端に引っ掛けて強引に引き摺り下ろす。
「くっ!!」
虎杖は居場所がバレたことを察し、あちこちで固定しているボルトが破断していく不気味な音が響く。
逃げろと頭が悲鳴を上げるよりも何倍も早く、日車のいる場所からさらに後ろ、さっきまで彼が浸かっていた浴槽の陰に隠れるように着地した。
おそらく引き摺り下ろしたことで日車は再びこちらを狩り取ろうと向かってくるはず、だから虎杖は水の溜まった浴槽を押し出すように殴って障害物にしようとしたが、どういうわけか水はこちらに向かって飛沫が飛んでくる。
日車が危険を察知して逆にその水を虎杖にぶっ掛けるようにガベルで殴ったからだった。
虎杖はその水が目に入ってしまったせいで視界が確保できなくなり、急いで腕で拭って元に戻した時には、
真上。
「ッ!!」
無慈悲に振り下ろされる、絶望の鉄槌。
それが虎杖の頭上に来たと分かって受け止めようと腕を交差させて踏ん張るが、
ドゴォ!! という轟音と共に足元に亀裂が走る。
隕石が海面に激突したように、虎杖が立っているところを中心に床板の破片が周囲に撒き散らされ、その一部が虎杖の体に直撃、その余波だけで踏ん張るのが辛く感じた。
「ゔっ、ぐぅぅぅうううううううッ!!」
「凄いな」
本当に壊れない人形を相手にしているようで、ここまでやっても全然倒れない虎杖は、しかし焦燥のあまり表情に余裕なんてものはなかった。
窮地に立たされた。
虎杖は何とか踏ん張っているが、このままでは間違いなく潰される。
(ヤバいヤバいヤバいヤバい!! いつまで続くんだ!! 呪力!! 早く呪力をッ!!)
起死回生の策を急いで考えるが、この状況を打開する何かを見つけるにはあまりにも余裕が足りなかった。
虎杖は呪力がなくなってもある程度は応戦できるほどに肉体が恐ろしく頑丈にできている。
だがそれだけだ。
呪力があればさらに自由に動けていたかもしれないが、ここまで生き残れたのは奇跡に近い。
人と人の実力差ではない、まるでゲームのRPGで毒を喰らってHPがゼロに近い状態でほぼ満タンの敵を相手にしているように感じる。
制限を強制的に掛けられると、流石の虎杖でも戦いにならない。
実際彼はまだ呪力を持つ前、二級ほどの呪霊に対して血を流し、喰われそうになっていた。
単純に異能を持つ相手に拳一つで戦うのは無理があることだった。
(こんだけの能力だ········何か日車にとって不利な要素があるんじゃねぇか!?)
虎杖は絶体絶命の危機に追い込まれる。
物理的な裁きの鉄槌が下されるのも、時間の問題だった。
◇◆◇◆◇◆◇
「ゆ、悠仁········君!!」
意識が少しだけ断絶していた高町なのはは、さっきよりはだいぶ動けるようにはなっていた。
それでも、今まで自分を支えてくれていた魔法が使えなくなった以上、自分は足手纏いでしかない。攻撃を受けた箇所の内側から赤いものを滲ませるという凄惨なこの状況、いつもなら魔法で回復してすぐに立ち上がれるのに、なのはは痛みで苦しみながら、目の前の舞台で繰り広げられる呪術師同士の戦いを呆然と眺めていた。
爆音、爆風、衝撃波は余波だけで凄まじく、辺りに散らばる瓦礫の量から考えて虎杖がまだ立っていられるのが奇跡に思えるぐらいの状況だ。
同じ人間であるにも拘らず、圧倒的な運動量と衝撃波によって荒れ狂う呪いの渦すら薙ぎ払って激闘を繰り広げる怪物達。
雄叫びが響き、武器と拳がぶつかる激突音が炸裂し、爆風が空気中の水蒸気を吹き消してそれぞれの攻撃の残像を生む。
あの内の片方はかつて共に手を取り合って戦った戦友の虎杖悠仁だ。
その昔魔力を奪われそうになっていたところを救ってくれた、そしてこんな状況でもなのはを巻き込まないようにと罪を否定せずに自白し、だが結局は巻き込んでしまった罪悪感を抱きながらも必死に戦ってくれている少年。
巻き込まれたことに対してなのはは一切気にしていない、そもそもその覚悟があったからこそ虎杖の後をついていったのだ。
だからこれは自分の責任。
あそこで感情的に反論した自分が悪かった、少なくともなのははそう思っていた。
しかし虎杖はそれを納得していないだろう、だからなのはもできれば力になりたい。
けれど魔力を奪われた以上は自分は無力に等しい。
そうこうしている間に、
ドゴォ!! という音が聞こえた。
「あぁっ!!」
日車の巨大化したガベルが唸り、轟音と共に虎杖を潰そうとしている光景が嫌でも入ってくる。
なのははずっと彼らの戦いを見て、何度も何度も間に割っていこうと考えた。だがそれは、自分の足手纏いを無様に曝け出すことを意味している。魔法も使えない、そして負傷した状態で出て行っても何の役にも立たない。
けれど、もう限界だった。
これ以上あの少年を一人で戦わせては、本当に死んでしまうことになる。
誰かを守るために傷つく誰かをこれ以上ただ見ているだけなど、高町なのはという少女の不屈の魂が絶対に許さなかった。
(でもどうしたらいいの·······!? 魔法もない、力もなくなった私に何ができるッ!?)
血が滲むほどに拳を握り締め、必死に思考を働かせる。
視界に映るのはあまりにも冷徹で、あまりにも残酷な法の裁きの景色。
日車は裁きの鉄槌を物理的な方法で下そうと何度もガベルを振り下ろしている。
その時。
「あ·······!!」
彼女の脳裏に、先程日車が厳粛に言い放った言葉の数々が、そしてこの領域が『近代司法のルール』を模して駆動しているという事実が鮮烈な閃光となって駆け巡った。
(私はまだ·······
まだ終わっていない。終わらせてたまるものか。
法律の条文で人を縛るというのなら、その法律の理屈でこの最悪の結末をひっくり返してみせる。
なのはは、自分の足で激しく床を蹴った。
負傷した身体の悲鳴を精神力だけで圧し折り、猛スピードで日車と虎杖の激突の渦中へと走り出す。
「日車さん!!」
鼓膜を突き破らんばかりの轟音の中、少女の芯の通った叫びが響き渡った。
「さっきの判決に不服があります!! “二審”───裁判のやり直しを求めますっ!!!」
その声が響いた瞬間、激しく蠢いていたガベルの重みが。
シュン、と。
今までの景色が幻覚だったかのように反転した。
◇◆◇◆◇◆◇
「ハア·······ハア·······ッ!!」
「··············気付いたか」
直撃の寸前で裁きの鉄槌を止められた虎杖は、証言台の前で地面に膝を付けて壊れた蛇口のように全身から汗を噴き出し、激しく荒い呼吸を繰り返していた。
全身の毛細血管が千切れんばかりの過呼吸。
呪力という防壁を失った肉体は、日車の猛攻によって限界寸前だった。それでも、喉の奥から競り上がる血の味を強引に飲み込みながら、虎杖は自分が『助かった』のだという事実に胸の内で深く安堵の息を吐き出す。
同時に、その視線はこちらへ走ってきた自分よりもずっと小さな少女へと注がれていた。
まだ戦える状態ではなかった高町なのはに救ってもらった、それはありがたいことなのに何故か素直に喜べなかった。
一方で、領域の主である日車寛見は突き出していた両手をゆっくりと引き戻し、そのまま凍りついたように動かなかった。
「“二審”·······か」
低く掠れた声が、日車の薄い唇から零れ落ちる。
日車は無力化させたはずの少女が急に何かを叫んできたと思ったら、おそらく普通の生活を送っていればそんな単語すら知らないはずなのに、高町なのはが裁判についての知識を持っていたことに対して確かな感心の混じった息を漏らした。
感情を剥き出しにして驚愕するのではない。
ただ司法のプロフェッショナルとして、この目の前の幼き少女が提示した『法理の正しさ』に、純粋な驚きと知的な敬意を抱いていた。
「な、なのは·······っ!!」
一体何が起こったのか、領域展開という合図もなしにさっきと同じ領域の世界に戻ったことに困惑を隠せず、なのはが何かを叫んだことでこうなったことだけは理解できる。
そして。
そんな高町なのはは負傷した腕を押さえながら、隣に立つ虎杖にも、自ら飛び込んでいった自分にも言い聞かせるように、
「大丈夫、まだ戦える!!」
そう言う彼女の瞳には不屈の精神が宿っている。
これがこの領域のルールだった。
虎杖悠仁はなのはを救うために罪を認めたが、
彼女はただ、理不尽な暴力を振るう法のルールに対し、真っ向からその『不当性』を睨み据えているだけだった。
確定した有罪。
しかし、片方の被告人は未だ『無罪』を主張し、罪を認めていない。
この歪な判決の矛盾こそが、魔力を奪われ、傷だらけになった生身の少女に領域の絶対遵守ルールである『再審の請求権』という強力な反撃の武器を与えることになるとは、この時の日車寛見すらも予想していなかったのである。
そして、ジャッジマンがこれを断ることはない。
だが、問題はここからだった。
これこそがこの領域における最大級の不確定要素であり、最悪のギャンブルであった。
もしも問われた罪がさっきと違えば、あらかじめ用意し、対策していた言い訳や弁論の手札はそのほとんどが一切通じなくなると言ってもいい。
なによりこの領域の本来の術式対象はあくまで虎杖悠仁であり、なのははそこに巻き込まれたイレギュラーに過ぎないのだ。だからこそ、次に虎杖がどこでいつ何をしたかという、ジャッジマンが提示する『新たな罪状』によって、彼が無罪になるようにその場で言い訳を組み立て直さなければならなかった。
それは、完全にぶっつけ本番の、失敗すれば即座に死へと直結する綱渡り。
しかし、何が来てもなのはは諦めなかった。
次に提示される罪状がどれほど理不尽なものであろうとも、目の前の少年の命を繋ぎ止めるため、少女の瞳は一瞬たりともその光を失ってはいなかった。
「もう一度、お願いします!!」
なのはが固い決意と共にそう叫ぶと、沈黙していたジャッジマンの縫われた巨大な二つの目が、再び冷徹な光を放って蠢き始めた。
ギ、ギギ、と。
不気味な軋み音を立て、漆黒の式神はその重厚な口を開く。
『虎杖悠仁は───』
法廷に響き渡る、感情の一切を排した機械的な宣告。
そして、
その口から問われる罪状は、
『
その罪状が読み上げられた瞬間、
「·····················え?」
なのはの思考は完全に停止した。
“大量殺人”
それも若者達が集うあの『渋谷』の地で、目の前の少年が数多の命を奪ったという、およそ現実味を欠いた大罪の告発。
なのははその衝撃に息を呑んだものの、すぐに切り替えるように首を横に振る。
彼がそんなことをするはずがない。
彼はあの時誓ったのだ。
強くなる、と。
自分がしたことは絶対に許されることじゃない。血反吐を吐いて涙交じりにどうにかこうにか考えて償ったって全然足りず、しかしあの時『宿儺の指』を喰った日から彼の覚悟は決まっていた。
虎杖悠仁という男は人を助けるために『呪い』を受け入れたんだ。
だったらもう自分の生き様で後悔はしたくない、と。
宿儺が己の中にいる以上もう好き勝手させない、と。
そして宿儺という呪いがいる以上、多分死ぬ時は想像もできないほどに絶望的な状況で終わるかもしれないけど、それでも『これは正しい死だ』って最後には言えるように今よりもっと強くなる。
彼はあの時自分達にそう誓ってくれていたのだ。
だから、これこそ何かの間違いだ。
そう思ったなのはは必死に虎杖のための弁護の言葉を探そうと
「
「···········ぇ?」
虎杖の口から漏れたのは、あまりにも静かで、あまりにも迷いのない『自白』であった。
さっきまでのパチンコ店の微罪の時のように、焦って言い訳を探すような素振りは微塵もない。
その声は自分が背負わされたあまりにも重すぎる『罪』に対して、どこまでも真摯に、まっすぐに正面から向き合う者のそれであった。
自分の魂を削りながらも、犯した過ちを決して否定しないという、痛々しいほどの決意がそこにはあった。
「悠仁、君? う、嘘だよね········?」
だがそれを間近で聞いていたなのはは、文字通り絶句するしかなかった。
「違う·······違うよ·······!!」
そう。
さっきのは聞き間違いに違いない。
「悠仁君言ってたじゃん、強くなるって········ 私達の目を見て、そう言ってくれたよね········?」
「········」
虎杖は何も答えなかった。
ただずっと。
己の決して許されない行為を強く受け止めているように、口を固く閉じて黙っている。
「ねぇ··········嘘···········嘘って言ってよ悠仁君ッッッ!!!??」
いつも誰かのために傷つき、今だってボロボロになりながらも戦ってくれたあの心優しい虎杖が、本当に渋谷で大量殺人を犯していた。
その残酷な事実への驚きと困惑を、少女は隠すことができなかった。
「········ッ!!」
そして、領域の主である日車寛見もまた、同じように動揺を隠せずにいた。
日本の裁判における有罪率九九・九パーセントの不条理を経験してきた日車にとってこれほどの大罪───“大量殺人”という。
本当なら誰もが死に物狂いで無罪を主張し、言い訳を並べ立てるはずの絶対的な罪を一切の抵抗もなくあっさりと認めた人間など、見たことがなかった。
この少年の胸の奥にある常軌を逸した『真摯さ』と、己の罪への底知れぬ責任感に日車は驚愕以上の何かを抱き、胸を衝かれていた。
意味は違えど、二人の人間がそれぞれの衝撃に身を震わせる。
しかし。
この法廷を支配する番人は、人間の情緒や事情など一滴も持ち合わせてはいない。
『裁判官』───ジャッジマンの目は。
赤く、禍々しく燃え上がった。
地獄の業火を思わせる真っ赤な鮮血が涙のように溢れ、そして殺された人々の怨念を代弁するように。
『
『人殺し』というこの世において最も犯してはならない大罪を肯定してしまった虎杖悠仁を、法の番人が許すはずもなかった。
『
ジャッジマンの憤慨な叫びが、法廷の領域を激しく震わせる。
『
最悪の判決が、無慈悲に言い渡された。