呪術廻戦リリカルなのは∅   作:織姫ミグル

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第20章

 

 

悲鳴は鳴り止まなかった。

 

仙台の結界は他と違って取り残された非術師が多数おり、その者達の血で真っ赤に染まっていた。

 

非術師で泳者ではない以上は一度だけ結界の外へ出る権利があるはず。それなのに残っている理由は、家に忘れ物した感覚で再び足を踏み入れたら出られなくなってしまったか、ここで殺し合いが行われるということが信じられずにその場に留まってしまったか、もしくは本当に逃げ遅れたか。

 

何にせよ、多くの一般人が取り残されていた。

 

仙台の結界内は三竦みの四つ巴状態、同盟も結ばずにそれぞれが好きなように殺し、苛烈を極めていた。

 

所々に転がっている遺体の多くは術師ではなく非術師、それを見たら怒りが込み上げてくるのは当然だった。

 

日常の倫理も、法律も、あらゆる社会の保護活動も。

 

その全てが機能停止したこの日本で、力なき非術師達はただの家畜のように泳者達の点数として消費されていく。

 

引き裂かれた肉、踏み潰された内臓、まだ新しい血の海がアスファルトを赤黒く濡らし、腐敗臭と硝煙の匂いが混ざり合った最悪の熱気が街全体を覆っていた。

 

誰の助けも届かない檻の中で、ただ理不尽な暴力に怯えるだけの弱者達の無念が、怨嗟の邪気となって仙台の結界を黒く塗り潰していく。

 

 

「········ッ!!」

 

 

彼は珍しく苛立っていた。

 

それは彼の所持得点を見れば分かる。

 

三五点。

 

おそらくそれは仙台結界への参加後、すぐにいくつかの呪術師や呪霊を倒していた時点の持ち点。

 

死滅回游という狂ったゲームが始まってから、彼はただの一度も自らの保身のために刃を振るってはいない。

 

全ては、目の前で理不尽に命を奪われようとしている名もなき人々を一人でも多く救い出すため。そのためであれば、己の手を血で染めることすら厭わない。彼が背負う莫大な呪力は、救えなかった者達の無念と、目の前の惨状に対する静かな怒りによってさらに真っ黒に、臨戦態勢の獣のように鋭く研ぎ澄まされていく。

 

一秒遅れれば、また一人の一般人が塵のように消える。

 

その焦燥が、彼の胸を内側から焼き焦がしていた。

 

そう。

 

もはや彼に殺害の罪悪感はなかった。

 

人を殺すという行為に対する忌避感を、彼はとうの昔にこの地獄絵図を終わらせるという強い決意の裏へと押し込めていた。

 

迅速に、ただ害悪となる泳者を確実に排除する。

 

その果てにしか残された非術師達の未来はないと、頭の上から足の裏まで全身で理解していたからだ。

 

感情を殺し、ただの『駆除装置』として己を律する。

 

それが、現代の『特級術師』として彼が背負った十字架でもあった。

 

よって。

 

ザシュッ!! と。

 

 

「〜〜〜〜〜っ!!!??」

 

 

この仙台結界の中で、一番の得点保持者の泳者から嫌な音が響く。

 

それは自身の肉と骨が、自分以上の呪力を帯びた刃によって一切の抵抗も許されず両断される、あまりにも呆気ない幕引きの音だった。

 

肉が裂け、老いても衰えることがなかった強靭な肉体に刃が侵入し、一瞬で命の核を破壊する冷たい感触。

 

それに気付いた時にはもう遅かった。

 

数世紀の時を生き、死滅回游のバランスをその身一つで支えていたはずの老術師は、己の眼前に現れたにも拘わらず、その足音すら感知できていなかった。

 

気配の遮断、呪力のコントロール、そして音をも置き去りにする神速の踏み込み。

 

全てが『特級』という領域を超越した絶技。

 

現代の呪術師の頂点の一角が放つ一閃は、老いた術師の数百年の経験すら無意味なものへと変えてみせた。

 

気付けば坐禅を組んでいた宿老の体は真っ赤に染まり、そして血の泡を噴きながら地面に倒れ込んでいた。

 

皮膚と肉の裂ける痛みを認識する間もなく。

 

二度目の受肉を経て尚もその圧倒的な縄張り意識でスタジアム周辺の版図を支配していた宿老────“ドルゥヴ・ラクダワラ”は。

 

己の術式を発動させる暇すら与えられず、ただの肉塊へと成り下がった。

 

 

現代の異能────乙骨憂太の手によって。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

所持得点が変動、四◯点になったことを告げたコガネの声なんてどうでも良かった。

 

スタジアムに響いた断末魔の声は、まさに絶叫だった。

 

それは老術師の肉体が崩壊していく音であり、同時に一つの巨大な怪物の死を周囲の空間そのものが悲鳴を上げて告げる、終わりの報せでもあった。

 

転がり、動きを停止した死体に目も向けず、乙骨は無関心のままに呪具の血を拭って鞘に仕舞う。

 

その一連の動作には、強敵を倒したという達成感も、命を奪ったという感傷も一切存在しなかった。

 

ただ淡々と、作業を終えた職人のように冷淡だった。

 

返り血を浴びた制服を気にする様子もなく、彼の瞳はただ虚空を見つめている。

 

しかし。

 

その端正な顔立ちに深く刻まれた眉間の皺だけが、彼の内面で渦巻く別の焦燥を雄弁に物語っていた。

 

 

「アリシアちゃん········ッ!!」

 

 

彼の苛立ちの原因は無差別に人を襲う泳者がいる腹立たしさということもあるが、それ以上にここに来て“逸れてしまった少女”と一向に合流できないというのも大きかった。

 

 

アリシア・テスタロッサ。

 

 

彼が虎杖悠仁の死刑執行を任される前、日本に帰ってきて東京の様子を見に行った時にたまたま保護した小さな女の子。

 

驚くべきことに彼女は見た目は五歳ほどだが、その中身は宿儺や天元並みに、長いことこの世に存在しているという点だ。彼女は元々死んでおり、つい最近あった未曾有の呪術テロをきっかけに目を覚まし、同時に呪術にも覚醒した。

 

覚醒と受肉。

 

そう聞くとおそらく死滅回游の中でもそんなの彼女一人くらいしかいないと思う。

 

現代の覚醒者は脳を弄られ術師用にアレンジさせられるか、羂索によって呪物と化して時代を渡り、この二◯一八年を以て受肉し蘇ったかのどちらかだ。

 

だが彼女は元々非術師で、しかも死んでいた。

 

死んでいたのに呪物にできたのは、天元が言うには体の中にまだ魂が残っていたからだという。

 

しかし彼女には謎の部分が多すぎる。

 

そう思うようになったのは、虎杖悠仁と伏黒恵のあの話を聞いてからだ。

 

 

────魔法のある世界。

 

 

フィクションでしか聞かない単語に乙骨も耳を疑ったが、二人のあの声からは嘘を言っている様子はなかった。死線を潜り抜けてきた後輩達の言葉には、おふざけや誇張など微塵も含んではいない。

 

世界の原理そのものが歪んでいるという、拒絶しがたい事実がそこにはあった。

 

ならば本当なのかもしれないが、だが結局は謎が深まるばかり。

 

アリシアの母親は当時の日本では珍しい格好をしており、そもそも外国との交流もあまりなかった時代だ。そんなところに彼女の母親は倒れており、そこをたまたま通りかかった羂索がその体を手に入れ、そして死んでいたアリシアも手に入れた。

 

そこまではいい。

 

しかし一番の懸念点はアリシアが一体何者なのか、ということだ。

 

もしかしたら羂索側なのかもしれない、そう思ってならない。

 

千年の時を画策し、この死滅回游という最悪のゲームを仕掛けた呪詛師・羂索。

 

その術師がわざわざ過去から現代へと持ち越した死体。あの渋谷での大災厄の夜に、タイミングを合わせたかのように覚醒した命。

 

それがただの無害で憐れな少女であるはずがないという疑念は、術師としての思考が乙骨の脳裏で何度も何度も黒い霧のように囁き続けていた。

 

その証拠に、彼女はここに入ってすぐに五点を────

 

 

「────ッ!!」

 

 

乙骨はその考えを否定するように頭を振った。

 

そんなはずない。

 

呪術師で泳者であるとはいえ、アリシアは記憶も失った小さな女の子だ。

 

あんなに乙骨から離れることを拒み、自分のぶかぶかした制服の袖を小さな手で必死に掴みながら寂しさを埋めるようにずっと手を繋いでいたあの子が、自ら進んで他人の命を奪い、殺しに行ったとは考えにくい。

 

あの温かく、どこか壊れてしまいそうだった小さな手の感触が、羂索の手駒としての冷酷な暗殺者のそれであるはずがないと、彼の魂が強く否定し、叫んでいた。

 

おそらく何者かに襲われたところで彼女の術式が暴走して発動され、反射的に敵を排除して、結果として返り討ちにしたのだろうと予想される。

 

そうでなければ説明がつかない。

 

いや。

 

そうでないと困ると言った方が正しいか。

 

もし彼女が本当に羂索の息がかかった存在であり、自らの意志で冷酷な殺戮を行ったのだとしたら、自分はあの子にすらこの呪具の刃を向けなければならなくなる。

 

そんな最悪の結末、自分の心が引き裂かれるような選択だけは、何としてでも回避しなければならなかった。

 

 

(さっきのドルゥヴのように攻撃範囲が広く、無差別に人間を襲う泳者はまだいる。そういう奴に襲われたのをきっかけにアリシアちゃんの術式が開花したと考えるのが妥当だと思う········何にしても、真実を知るには一刻も早くアリシアちゃんを見つけないとっ!!)

 

 

一番の脅威を排除し、そして万が一のための避難場所は確保した。

 

あとは一般人を探し回って保護し、結界の外に出れるようになるまで匿い続ける。

 

 

「よし、行こうか·······リカ」

 

 

乙骨は自身に憑いてくれている守護霊的な存在に向かってポツリと呟く。

 

気のせいかその声に呼応するように、彼のポケットに入っている『特級呪物』が僅かに震えた。

 

それは彼がこれまでの苛烈な戦いの中でずっと大事に持っていた、そして“大切な許嫁”が残してくれた“約束の証”。

 

不気味でありながらも楽しげに波動を伝えるその呪物の震えは、これから訪れる混沌がさらに過激化することを予兆しているかのようだった。

 

────気を引き締めろ。

 

そう言ってくれているような気がした。

 

乙骨は再び動く。

 

この理不尽な殺し合いを終わらせるために。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

だが。

 

そんな彼の想いを無下にするように、すでに奴らは蠢いていた。

 

 

カサカサ、カサカサ、と。

 

 

それまで仙台の街を覆っていた、肌を刺すような不気味な呪力の『檻』は、まるでガラスが割れるかのように音を立てて崩壊していく。

 

それは他でもない、二度目の受肉を経ても尚その圧倒的な縄張り意識でスタジアム周辺の版図を支配していた宿老、ドルゥヴ・ラクダワラの生命の灯火が、完全に消えた合図だった。

 

死滅回游において仙台結界が一番苛烈を極め、『最悪の膠着状態』と呼ばれていた理由。

 

それは莫大な呪力を持つ『三人と一体』の強者が、互いの出方を伺いながら一歩も引かない同盟なき三竦みの四つ巴を維持していたからに他ならない。

 

中でも、巨大な二つの式神の軌跡を領域とし、歩く城壁の如く君臨していたドルゥヴの存在は、他の泳者達にとっても巨大な防壁であり、同時に一般人にとっては奇妙な抑止力として機能していた。

 

だがその抑止力は、今この瞬間に消失した。

 

結界を支配していた見えない境界線が取り払われ、飢えた獣達の前に新鮮な肉が放り出されたような、絶好の殺意が仙台の空気を一変させる。

 

結果、ずっと眠っていた“奴”は目覚めたのだ。

 

 

カサカサ、カサカサ。

 

 

乙骨が一番の脅威を排除したことで、次なる未知の脅威はもう休眠状態から目覚めていた。

 

皮肉にも、ドルゥヴ・ラクダワラがこの結界内に存在していてくれたことで、四つ巴の均衡は保たれ、各々があまり動かないでいた。それぞれが実力を認め合っていたように、下手に動かなかったのだ。

 

しかし。

 

乙骨がそのうちの一人、しかも高得点保持者である宿老を殺害したことによりバランスは完全に崩壊。

 

抑止力を失った戦場に、本当の飢餓が解き放たれる。

 

 

()()()········()()()!!」

 

 

その悍ましい、知性を持った怪物の咆哮が、遮るもののなくなった仙台の結界に響き渡る。

 

結界を支配していた境界線が崩壊し、抑えられていた殺意が街の空気を一変させた。その飢えた矛先は他でもない、生存者を求めて蠢く、名もなき最悪の怪異そのものだった。

 

天敵の死を契機に、人間の血肉を求めて一斉に行動を開始した、正体不明の影。

 

その黒い奔流が静かに、しかし確実に獲物を捕食するために進軍を始める。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

仙台の喧騒から切り離された、闇の吹き溜まりのような裏路地の奥。

 

死滅回游が始まるよりも数年前に放棄され、窓ガラスの大半が割れ落ちた雑居ビルの一室に、彼らは息を潜め合っていた。

 

外から吹き込む風は饐えた血の匂いと、内臓が腐敗したような生臭さを含んでいる。

 

コンクリートの壁に染み付いた古びた湿気と、死の気配が混ざり合い、息をするだけでも肺の奥が焼けて重くなるような感覚。

 

遠くの通りで時折響く肉が爆ぜる重低音や、人間のものとは思えない狂った断末魔の数々。

 

建物の建付けをガタガタと揺らすその振動の全てが、ここがすでに日常の倫理を失った異常者どもの屠殺場であることを嫌でも思い出させた。自分達が生きている世界が完全に壊れてしまったのだという実感が、じわじわと彼らの精神を削り取っていく。

 

埃とカビ、そして古い血の臭いが充満する薄暗い室内。

 

そんな中。

 

その中央には段ボールの切れ端を敷き詰め、どこかから寄せ集めてきた薄汚れた毛布を重ねた、あまりにも不格好で即席なベッドが設えられていた。

 

 

「スゥー·········スゥー········」

 

 

その上で、一人の“金髪の少女”が静かに寝息を立てている。

 

 

アリシア・テスタロッサ。

 

 

彼女が身に纏う衣服のあちこちには、かつて『自身の手で殺してしまった者』の痕跡が、シミとなってびっしりと刻み込まれていた。

 

衣服の繊維の奥深くにまで染み込んでいたはずの、他人のものと思われる夥しい赤黒い血。

 

衣服の裾、袖口、胸元。

 

それらは全て、かつて誰かが死の直前で流した血の跡だった。

 

しかしそれは、今は彼女を匿ってくれた彼ら二人の手によって、小さな身体を傷つけないよう優しく丁寧に跡形もなく拭き取られていた。

 

見ず知らずの、眠ったままで言葉も交わせない少女のために、男達が自分達が生きるために必死に集めた僅かな生活用品や貴重な水を使って心を込めて綺麗にしてあげたのだ。いつ死ぬかも分からない絶望の籠城生活の中で、男達は自らの喉を潤すための僅かな備蓄を削り、濡らした布で彼女の衣服を何度も何度も拭った。

 

小さな指先についた血の塊を、まるで本当の娘を労わるかのように爪に脂を滲ませながら落としてやった。

 

この子の綺麗な金髪が、こんな地獄のような世界に汚染されないようにと、ただそれだけを願って。

 

 

「········」

 

 

そんな彼らの温かい献身など知る由もないはずのアリシアだが、近くで見守っていた男がその幼く愛らしい寝顔を見つめ、そっと彼女の細い髪に触れてその頭を優しく撫でてやると、心なしか安らかな表情を見せる。

 

その小さな唇が、僅かに緩む。

 

この死滅回游という神の悪戯のような狂った殺し合いに突然放り込まれた彼らにとって、この理不尽な世界で唯一無垢であり続けるこの少女を世話し、守ることだけが自分達がまだ人間であるという正気を保つための最後の、そして唯一の細い蜘蛛の糸だったのだ。

 

もしこの子を手放してしまえば、自分達の中にある『人間らしさ』は完全に壊れ、外を徘徊する化物達と同じになってしまう。

 

その恐怖が、彼らを突き動かしていた。

 

しかし、彼女は不思議だ。不思議としか言いようがない。

 

もし言葉にするとして、それをどう言えば良いのか。

 

そう。

 

まるで。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

彼らはこの周辺を徘徊していた殺人鬼から身を潜めていたのだが、彼女が現れてからめっきりあの恐怖の足音が聞こえなくなり、そして今日まで『死にたくない』という願いが途切れることなく、今もこうやって生きられている。

 

理由など分からない。けれどこの広い結界の中で、この薄暗い部屋だけが奇妙なほど静寂に守られていたのは確かだった。

 

だから彼らはアリシアを大事に守っていた。

 

唯一の光であり、自分達を救いへと導いてくれる彼女を。

 

すると。

 

入り口のドアにへばりつき、塗装のはげ落ちた覗き穴にしがみつくようにして、陽光が差しにくい暗い外の様子を窺っていた男が、緊張で引き攣った顔のまま音を立てないようにゆっくりと振り返った。

 

 

「なぁ! その子目覚めたか? 様子はどうだ?」

 

 

焦燥感から僅かに大きくなってしまったその声を、ベッド側の男は鋭い眼差しで遮る。

 

 

「シッ! 声が大きい!! ここがあの殺人鬼だけじゃなくて、他のサイコパスどもに知られたらどうすんだ!?」

 

 

声を極限まで抑え、這いずるような囁き声で男は怒った。

 

喉を震わせるだけの、今にも消えそうな掠れた声。

 

彼の言うサイコパスとは、死滅回游の泳者達のことだ。

 

常識の外れた力を持ち、無差別に人間を屠る怪物達がこのすぐ近くを徘徊している。見つかれば自分達のような虫ケラは一瞬で踏み潰されるだろう。何の慈悲もなく、ただの成果として処理される。そのリアルな死の恐怖が、部屋の空気をガチガチに凍らせていく。

 

それを思い出した見張りはあっ! と思い出すとすぐに口を固く閉じる。

 

自分の軽率な行動に青ざめ、両手で自らの口を強く抑え込んだ。

 

それを見たベッド側の男は再びアリシアの寝顔に視線を戻し、ふっと表情を和らげた。

 

 

「大丈夫だけど、まだ目を覚まさない。よっぽど疲れてたのか········」

 

「そうか········まあいい。とにかく今は休ませてやろう」

 

 

見張りの男は短く息を吐き、再びドアの覗き穴へと視線を戻そうとした。

 

冷たい脂汗が、こめかみを伝って床へ落ちる。

 

 

────カサ。

 

 

その瞬間だった。

 

部屋の隅の最も光の届かない床の暗がりから、指先で乾燥した紙を引っ掻くような、カサついた乾いた音が響いた。

 

静寂に包まれていた部屋の中で、その微小な音が異様なほど大きく鼓膜に届く。

 

その冷たい音は、まるで心臓を直接爪で引っ掻かれたかのような不快感を伴っていた。

 

 

「────ん?」

 

 

小さな少女の頭を撫でていた手を止め、男が視線を落とす。

 

影の輪郭が不自然に揺れたかと思った次の瞬間、そこから見るだけでも全身の毛穴が収縮するような悍ましい“黒い物体”が滑り出てきた。

 

幾筋もの細い脚が、コンクリートの床を滑るように動いている。

 

光を鈍く反射するその甲殻の質感が、異様なほどの生々しさを持って目の奥まで焼き付く。

 

それはただの────どこにでもいるような“ゴキブリ”だ。

 

 

「ッ!?」

 

 

しかし。

 

一歩外に出れば死が待っているという極限状態の精神において、その不潔な生命の塊は男の心の防壁を容易く踏み越えた。

 

心が強ければ日常生活の中であっても無視できる、あるいは小さな不快感で済むはずの存在。

 

だがそれが、今の彼らにとっては崩壊の予兆のように感じられたのだ。

 

部屋の結界が、自分達の安全が。

 

この不潔な一匹の侵入によって汚されたかのような、耐え難い狂気が男の脳を支配した。

 

 

「っ!!」

 

 

男は衝動的に近くの壁に立てかけてあった護身用の鉄パイプを両手で掴み、コンクリートの床に向かって狂ったように振り下ろした。

 

ガギィィィンッ!!

 

狭く密閉されたコンクリートの部屋に、耳の奥を引っ掻くような鋭い金属音が爆音となって鳴り響く。

 

壁に反響した高音が、二人の脳をキリキリと締め付けた。

 

無論、その音を聞けば嫌でも反応する。

 

ドアの前で見張っていた男は心臓を跳ね上がらせ、血相を変えて振り返った。

 

 

「な、なんだよ!? どうした!?」

 

「わ、悪ぃ。ゴ、ゴキブリがいたから、びっくりして思わず··············っ!!」

 

 

鉄パイプを握り締めたまま男は額から大量の冷や汗を流し、強張った笑みで苦笑いを浮かべた。自らの出した大きな音に対する恐怖で、鉄パイプを握る手がガタガタと小刻みに震えている。

 

心臓に悪い現象に遭ったのはお互い様だった。

 

それを見た見張りの男も張り詰めていた肩の力を一気に抜き、呆れたように長いため息をつく。

 

 

「おいおい。今更ゴキブリくらいでパニック起こすなよ〜、今はそれ以上にやばい化物どもが彷徨いてるんだからよ〜」

 

「は、ハハ········そ、それもそうだなっ!!」

 

 

男達は互いに顔を見合わせ、自分達の臆病さを誤魔化すように弱々しく笑い合った。

 

お互いの顔が引き攣っているのを分かり合いながら、それでも笑うことでしかせり上がってくる恐怖を抑え込めなかった。

 

けれど。

 

その安堵の笑いは、一秒たりとも長続きはしなかった。

 

 

カサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ!!

 

 

突如として、部屋中の『音』の密度が異常なまでに跳ね上がった。

 

 

「「え?」」

 

 

壁の無数の罅割れから、湿った床の暗がりから、天井の建付けのわずかな隙間から。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

それは一匹や二匹のレベルではない。

 

何万、何百万という黒く硬い殻を持った群体が、この部屋の壁一枚隔てた外側の廊下や隙間を完全に埋め尽くし、建物の構造的な隙間という隙間から下水や雨水で付着したドロリとした黒い体液を滲ませながら押し寄せてくるような音だ。

 

建物自体が、無数の音の自重によってミシミシと軋み始めている。

 

割れた窓の隙間から、黒い爪のような脚が次々と室内に滑り込んでくるのが見える。

 

同時に。

 

部屋の中の空気がドブのように重くなり、内臓を素手でじわじわと握り潰されるような悍ましい気配が部屋を完全に支配していった。

 

温度が一気に急降下し、吐き出す息が白くなっていく。

 

鼻をつくのは顔を顰めるほどに不快に満ちた排泄物と死臭、そして何千もの虫が潰れたような最悪の異臭。

 

密閉された空間が一瞬にして生命の存在を拒絶する地獄の底へと変貌していく。

 

逃げ場など、最初からどこにもなかったのだ。

 

 

「「········っ!?」」

 

 

二人は恐怖のあまり完全に身体を硬直させ、ガチガチと歯の根を鳴らしながらただ武器を握り直して身構えることしかできなかった。

 

力んだせいで筋肉が膨張し、結果指一本動かすことすらままならない。

 

呼吸をすることすら忘れるほどの絶望が狭い部屋を密閉していく。胸が圧迫され、酸素が頭に回らなくなっていく。

 

そんな彼らの元に。

 

 

「········()()········」

 

 

閉め切ったはずのドアの向こう。

 

光の一切届かない外の奥から、粘り気のある人間の声の帯域を不器用に真似ただけの『怪物の一言』が響いた。

 

それはこの世のどの生物のものでもない、冒涜的な響きを持った不快な声。

 

その知性を持った怪物の声を合図にするように、カサカサという羽音は脳の血管を直接破裂させるような、耳の奥を引っ掻いて物理的に破壊するほどの爆音へと膨れ上がる。

 

 

「────っあ!?」

 

 

瞬間。

 

入り口でドアを背にしていた男が短く、しかし裏返った悲鳴を上げた。

 

何かがドアを突き破ったわけではない。

 

ただ、『何か』が潜り込んで僅かに開けられていたドアの隙間から差し込まれた、目に見えないほど早い『鉈』のような刃が男の右肩の肉をザシュッ! と無慈悲に引き裂いたのだ。

 

裂けた衣服から、鮮血がスプレーのように壁に吹き飛ぶ。

 

 

「い、痛ぇ! なんだこれ────っ!?」

 

 

直後だった。

 

グジュリ!!

 

そんな不快な、肉が内側から腐り落ちるような音が連続して聞こえてきたと思ったら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

人間の、あるいは赤ん坊のような小さな顔の輪郭を持った肉の塊が、男の赤黒い傷口の奥から次々と芽吹くように這い出てくる。

 

それらは男の血を吸いながら、『ギィアアアアアアアアアッ!!』と声にならない歪な顎を動かしていた。

 

 

 

「う、うわ、うわあアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!??」

 

 

 

男は自分の肩を抑えて床に転がり、狂ったように絶叫した。

 

ただの切り傷ではなかった。

 

引き裂かれた生々しい傷口の奥、赤黒い肉が割れた隙間から、男の体温と血液を苗床にして『白いウジ虫』や『芋虫』のような悍ましい幼虫の群れが、中から次々と皮膚を突き破って湧き出し蠢き始めたのだ。

 

生えてきた無数の小さな顔が男の血管や肉を自らの糧として噛みちぎりながら、ジュクジュクと音を立てて蠢く虫の波へと変態していく。その一連のグロテスクな侵食は、人間の肉体をただの『餌』としてしか扱わない、あまりにも自然の暴力そのものだった。

 

皮膚の裏側を何かが這い回る不快感と恐怖心が、皮下越しに生々しく浮き出ている。

 

 

「ああああああああああッ!? な、なんだよこれぇぇぇえええええええええええッッッ!!!??」

 

「ひっ────ッ!?」

 

 

男は自分の腕を掻き毟るが、爪が肉を削り、皮膚を剥ぎ取るたびにさらに大量の白い虫が皮膚の裏側から溢れ出てくる。

 

見ていることしかできなかった男は歯をガタガタと鳴らしながら、それをただ眺める。

 

助けることなどできない。

 

触れれば自分も同じように内側から虫に食われるかもしれないという恐怖が行動を止めていたのだ。

 

圧倒的な拒絶感が、男の魂を叩き割っていた。

 

何が起きているのか、もう彼らの貧弱な一般人の知識では理解を拒むしかなかった。

 

仲間が自分の肉を自らの爪で引き裂き、血と虫を撒き散らしながらのたうち回る酸鼻を極めた地獄絵図。

 

その凄惨な光景の向こう側で鉄パイプを持った男はまだ残っていた理性を懸命に働かせて、しかしガタガタと震えて視線が定まらない目をドアの覗き穴へと向け、そして“それ”を目撃した。

 

 

“真っ黒な物体”

 

 

無数の害虫の翅を背負い、人間の形を模しながらも、世界そのものの病気のような悍ましさを湛えた、正体不明の“怪物”の姿。

 

薄いドア越しに、その怪物の大きな底の知れない複眼がじっとこちらを見据えていた。

 

逃げ場のない裏路地の一室。

 

そのドアの向こうから、残虐な死の宣告が部屋を包み込む。

 

世界で最も不潔で、最も対話不能な“怪物”が、そこに佇んでいた。

 

 

 

()()()()()()()()

 

 

 

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