隠れる以外に何ができたというのか?
戦う術も持たない一般人に。
「もう出てきて大丈夫ですよ、このまま北上して結界の縁を目指しましょう」
「「「「「「「「「「········」」」」」」」」」
保護した者達は恐怖に震えていた。
何せ皆最前線で戦うための厳しい訓練を受けているわけではない。精々生き残るために必要な物資を的確に選んで対価を差し出す、そんな風にしか生きてこなかった人間達だ。とはいえ、やはり人間である以上は皆知恵が働く。通常ならすぐに刈られていた命であるはずなのに、ここまで生き残れたのには隠れる能力があったということだ。
だがしかし、このままではいずれ限界が来ていた。
コンビニなどの商品はほとんどが全滅、電気が生きていても元々寿命の短い商品には手を出せなかったのだろう。だからと言って冷たい飲み物だけでなくパンや焼肉弁当が入った自販機を選んでもどこも売り切れのランプで点滅していて、業者もいないのでは補充もしてくれない。
何より、彼らは外の様子を知る術はなく、手探りで生き残るしかなかった。
もし仮にニュースが見られたら今日は豪雨が降るので外出は控えましょう感覚で外の状況も把握して、今は出るタイミングではないと分かっただろう。他にも動画サイトでサバイバルを取り扱っている者の映像を見たら、こんな壊滅的な状況でもゾンビ映画のように長く生き残れたかもしれない。
情報面でも遅れを取り、たったそれだけで死活問題となるのだ。
だから恐怖で震えているのも無理はないことだった。
「抱っこ········」
「我慢してね········」
「········」
この殺し合いの場には子供まで巻き込まれている。
もしかしたら母親か娘か、背に背負っている赤子の誰かが覚醒した術師なのかもしれない。それで脱出ができなくなった家族の身を案じ、だったら自分もと残ったのか。だとしてももう限界だったろう、女の子の目の下が僅かに赤く腫れていた。
それを見ると、乙骨は今この場にはいない“あの子”のことを思い出してしまう。
本当ならこっちもそちらの方を優先したい。しかし自分は特級術師であり、呪いを祓うことを最優先にし、人々を救うことこそが使命である。私情で勝手に動くわけにもいかない、まずは彼らの安全が優先される。
それに、乙骨は自分に憑いているコガネにアリシア・テスタロッサの情報を定期的に開示させ、それで安否を確認していた。
今のところ彼女の名前は消えていない。
ならば、と。
彼らのいた環境諸々を全てを把握して、乙骨はこう提案した。
「少し休憩をしましょう」
「「「「「「「「「「!!」」」」」」」」」
乙骨のその言葉に、怯えきっていた非術師達の顔にほんの僅かだけ安堵の色が浮かんだような気がした。
「スタジアムは今倒したとても強い術師の縄張りでした。まだ暫く誰も迂闊には近づかないと思います」
その術師の残穢が他の呪いを寄せ付けない。
乙骨はそう言い、今日までこの結界内で生き残るために集めた食料の入ったバッグを持ち上げようとした。
その瞬間だった。
彼らが日常の崩壊した世界でようやく得られた一瞬の安息に息を吐き出すよりも早く、世界の平穏は無慈悲に引き裂かれることとなる。
サラサラ、サラサラサラ。
それは風に優しく揺れる木の葉の擦れる音のようだった。あるいは波間の穏やかな夜の海岸に静かに打ち寄せる、漣の音のようでもあった。
しかし。
日常の何もかもが壊れ果てたこの死滅回游の戦場において、そんな自然の平穏が響くはずがない。
「何の音だ········!?」
乙骨が保護した一般人の一人がそう言った途端に、その音は異常なほどに不快感を増していく。
カサカサ、ザザザザザザザザザザザザッッッ!!!!!
それはもはや軍隊の行進のようにも思えた。
もしくは。
津波のように破滅へと引き摺り込む音。
「イヤァッ!?」
「み、見てッ!?」
「な、なんだアレ!?」
乙骨よりも先に皆が目撃した。
その音の正体は平穏などとは最も遠い場所にある、人間の脳の血管を恐怖だけで破裂させるような、数百万、数千万という硬い殻を持った害虫の翅が激しく擦れ合う、この世で最も悍ましい大群体の羽音だった。
「走って········スタジアムの中に················!!」
「「「「「「「「「「········!?」」」」」」」」」
「急いでッ!!」
音の異常さに気付いた乙骨は一瞬で顔を険しく歪め、すぐさま一般人達に向かって鋭い声を飛ばす。
乙骨は目的地である場所を指差し、避難民達をさっき確保した安全地帯へ誘導すると、すぐさま腰の呪具を抜刀して音の鳴り響く方向へと振り返る。
彼の端正な顔は、すでに戦う術師としての冷徹な表情へと切り替わっていた。
視線の先、薄暗い路地の奥から必死の形相でこちらへと走ってくる二人の一般人の男の姿が飛び込んできた。
彼らは何かから、いや、視界を真っ黒に染め上げるほどの虫の津波から必死に逃げ惑っていた。
そして。
「あれは────ッ!?」
そのうちの一人の男の背中を見た瞬間、彼の表情は一気に驚きに染まった。
そう。
ずっと探していた。
「
◇◆◇◆◇◆◇
だが地獄の群体の侵食は待ってはくれない。
逃げる男二人のうち、すでに片腕を悍ましい幼虫の群れに喰い破られ、激痛によって身体が上手く動かせなくなっていた方の青年が、足をもつれさせてコンクリートの床へと激しく転倒した。
「あ、ああ!! 助け──────うわああああああああああッ!!」
短い断末魔。
鈍い音の連続。
男の身体は一瞬にして這い寄る黒い害虫の群れの中に完全に呑み込まれ、そのまま跡形もなく消え去った。
皮膚の一つ一つ、細胞に至るまで喰い尽くされた男は一瞬で白骨化し、食える身がなくなるとそこらに放り投げられるように捨てられていた。
カラカラという音、それはプラスチックのように軽かった。
しかしずっと匿っていた“女の子”をその背に必死に背負い続けているもう一人の男は、今日まで行動を共にしていた男の死に目を向ける余裕すらなく、ただがむしゃらに足を動かして他の生存者がいる方へと走っていく。
「ひっ、ひぃッ!!!??」
だがそんな今まで聞いたこともない音、皮膚を跡形もなく喰い荒らされた男の絶叫を聞いて平然といられるわけがなかった。もう直ぐ後ろまで迫っている、そう思ったら背後を振り返る余裕もなくなるのは当然のことだった。
ただ前だけに集中して走る。
残酷なことを言えば、その背にいる少女を手放せばもっと早く逃げられるだろう。
しかしそうしないのは何故なのか?
それにどういうわけか、
相方の方は負傷して満足に体を動かせなかったとはいえ、それでも重さ的には彼の方が子供一人分あるわけで、速度も落ちるはずだった。
「────ッ!!」
探し求めていた人物がようやく目の前に現れて一瞬思考が止まったが、切り替えた乙骨はとにかく自分の足元に呪力を集中させた。
腰から呪具を抜刀した乙骨は地面を蹴り、弾丸のような速度でアリシアとその男を救うために飛び出したが、黒い津波の進軍速度はその遥か上を行っていた。
男の背後には、すでに絶望の波が迫っている。
「た、助けてッ!! し、死にたくないッ!! 死にたくない死にたくない死にたくないッッッ!!!!!」
男が涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、喉が千切れるほどの悲鳴でそう連呼した。
その瞬間だった。
ドクン!!
男の背中から、周囲の爆音を全て掻き消すような、重く力強い鼓動の音が響き渡った。
同時に。
男の背に背負われ、完全に気を失っていたはずのアリシアの小さな唇から、悪夢に魘されるような掠れた声が漏れ出る。
「ぅ、ぁ········っ」
直後。
少女の小さな身体から。
「ッ!?」
目の前で起きたことが信じられなかった。
そのあまりにも桁違いな、およそ五歳の子供からは溢れ出るはずのない膨大な呪力量を肌で感じた瞬間、現代の異能たる乙骨憂太の心臓が大きく跳ね上がり、その目は驚愕に見開かれた。
五条悟よりも多くの呪力を持つ乙骨でも、身震いするほどの異常な密度の呪い。
しかし。
乙骨がそのあまりの呪力の暴発に目を見張った瞬間。
ゴキブリの群れに呑まれることなく、少女の『呪力』がその脅威を完璧に弾き飛ばしたのだ。
(まさか、アリシアちゃんが“術式”を········!? いやそれよりも────ッ!!)
異常現象に己の目を疑う乙骨だが、今はそれどころではない。
二人はゴキブリの群れに喰われることはなかった。
しかし背後から押し寄せていた大群体の圧力は凄まじく、激突の威力はまさに疾走する大型車と正面衝突したかのような破壊力を伴っていた。
アリシアの呪力障壁によって虫どもに喰い殺されることこそ免れたものの、その莫大な衝撃の余波によって、男とアリシアの身体は木の葉のように宙へと高く吹き飛ばされてしまっていた。
乙骨は驚愕に目を見張りながらも、一瞬の躊躇もなくさらに足の回転を上げ、弾き飛ばされた二人を救うべく腕を伸ばした。
「た、助け────ッ!!!??」
男とアリシアが落下する先には、なおも鎌首をもたげる虫の津波。
だが、少年はその絶望の滞空時間を許さない。
ドバァッ!! と害虫の群体を空気ごと切り裂き、乙骨は跳躍。
「アリシアちゃんッ!!」
宙で投げ出されたアリシアの小さな身体をその左腕で優しく、そして確実に抱き留めて救出する。さらに着地の瞬間、すぐ傍に叩きつけられそうになっていた一般人の男の襟を掴み、自身が誇る莫大な呪力で肉体を強化して衝撃を殺し、完璧に保護してみせた。
しかし二人の人間を抱えた乙骨の眼前に、仲間を肉片に変えられたことで殺意を増幅させた黒い悪魔の群れが、激しい羽音を立てて再び押し寄せる。
それどころか、スタジアムに避難していった一般人達まで獲物として捕えようと、別の部隊が高架道路のトンネルの奥へと突き進んでいた。
乙骨は右手の呪具を構え、迫り来る虫の群れを神速の剣閃で次々と斬り飛ばしながら、己の愛する“式神”に向かって怒号のような叫びを轟かせた。
「“リカ”!! 落とせ!!」
『はぁぁぁあい』
その声に呼応するように上空の空間が歪み、悍ましい『特級の腕』だけが完全顕現する。
顕現した“リカ”の巨大な怪腕は、彼らの頭上を走る強固なコンクリートの高架道路をまるで薄い瓦でも叩き折るかのように力任せに破壊し、そのまま凄まじい地響きと共に地表へと叩き落とした。
ドドドドォォォォンッ!!!!!!
数トンの重量を持った高架道路の残骸が行く先を完全に塞ぐ巨大な防壁となり、押し寄せていた黒い害虫の津波を力任せに遮断する。
轟音と共に濛々と立ち込める土煙の中、乙骨は腕の中のアリシアを強く抱きしめ、鋭い眼差しで周囲を警戒した。
「大丈夫ですか?」
「あ、あぁ········!!」
乙骨はアリシアを匿っていたであろう男にそう訊ねると、彼は恐ろしさのあまり少し腰が抜けていた。
けれどいつまでもそんなところで座らせておくわけにもいかない。
乙骨は顎を引いて前方を見続け、
「アリシアちゃんを今までずっと匿ってくれてたんですね。ありがとうございます」
「え········あ、あぁ」
「なら申し訳ないですがもう暫くこの子を匿ってくれませんか? 崩れた橋の横にあるそこの階段から迂回して坂道を上がれば、僕が避難させた人達のいるスタジアムまで行けると思います。今ここは危険です。僕が食い止めますから早く貴方も避難を」
「え!? で、でも───!!」
「行って!!」
男は自分よりも年下の少年の身を案じるような声を出したが、その言葉を遮るように乙骨は叫ぶと、男の襟を掴んで強引に立たせる。
そしてそのままずっと探し求めていた少女の体を男に押し付ける。
「もはや安全なところはそこしかありません。ここにいれば貴方まで巻き込まれるし、守りながら戦える自信はない。もう“アレ”はそんな次元じゃない。詳しいことはここですぐには説明できませんが、“アレ”は『特級』に分類される危険な存在です········だから早く逃げてください!! アリシアちゃんを任せられるのはずっと匿ってくれていた貴方しかいないッ!!」
「ッ!!」
「お願いします········どのみち貴方がここに残れば足手纏いになります。心配してくれるのはありがたいですが、特級はあの渋谷を壊滅状態にまで陥らせたほどの怪物です。僕が時間を稼ぎますから、助かりたかったら彼女を連れて早く避難をッ!!」
自分の喉が引き裂かれるような叫びだった。
その必死さに男は息を呑む。少年と少女の関係は知らないが、感動の再会であったことは彼でも察せられる。しかし今はそれどころではないと理解し、そして任せられるのはこの人しかいないと訴えるような眼光に押されるように、男は頷いた。
「わ、分かった········どうか、気を付けて」
乙骨が頷いて応じると、男は迷いを振り切るように崩落した橋を避け、階段を登って横の坂道へと迂回するようにしてスタジアムまで走り出す。
アリシアを再び腕に抱き、そこから去っていく。
そして。
「コガネ········“アレ”も泳者?」
『あぁ!! “黒沐死”ってんだ!!』
ポン!! という音を立てて現れたコガネが名を教えてくれた。
彼の目線の先。
そこには異様な姿をした個体がいた。
「········」
小芥子みたいに起伏がない漆黒の体に、長い触角を生やした昆虫の顔。
その目はいくつもあり、そして全てが乙骨に向けられている。
特級呪霊。
その存在は一個体で国一つを壊滅させられる力を持つ。
呪霊は裏表なく本能のままに行動し、そして今“黒沐死”という呪霊はとにかく飢えている。
よって。
せっかくのご馳走を妨げた乙骨という特級術師を、貪り喰うことを決めた。
◇◆◇◆◇◆◇
「ハアッ!!」
ガキィンッ!! と。
爆ぜて散る火花が凶悪な光の下で白熱し、その硬質な金属音は空気を物理的に破裂させんばかりの破壊力を伴って周囲の空間に炸裂する。
現代の異能である乙骨憂太の握る呪具の刀。それは彼の体中から際限なく溢れ出る、底なしとも謳われる濃密な呪力の塊によって刃の先端から柄の奥に至るまで極限まで強化され、刀身の周囲には陽炎のような歪みが立ち上っている。
「········」
そんな渾身の一振りと正面から真っ向から衝突していたのは、対峙する特級呪霊の黒沐死がその悍ましい腕で構える、『爛生刀』と呼ばれる肉厚な魔剣であった。
生きた人間の肉の内側へ強制的に虫の卵を埋め込み、蟲どもを育てるためだけの宿主と変形させる呪詛の刃。
その黒く濁った刀身が乙骨の白刃と激しく噛み合い、互いの腕を芯から震わせるほどの凄まじい衝撃波が爆音を響かせる。
カサカサカサカサカサカサカサカサカサ。
さっきと同じ異様な音が連続する。
それはコンクリートの微細な罅割れから、割れたアスファルトの隙間から、そして黒沐死自身の影から、数百から数千万という硬い黒甲殻を持った害虫の群体が地を埋め尽くす真っ黒なヘドロの津波となって押し寄せてくる。
(このゴキブリ········本物か!!)
近くで見るとよく分かったが、ゴキブリは呪霊ではなくそこらに湧いている本物の生命だった。
それは日光を不潔に乱反射させながら、生物としての防衛本能を根底から狂わせるような悍ましさで、全方位から乙骨を肉片に変えんと這いずり回っていた。常人であれば、こんな白昼堂々視界の全てを埋め尽くす不潔な黒の激流を目撃しただけで、精神を粉々に叩き割られて発狂するであろう絶望の光景。
しかし、現代の異能は微塵も怯まない。
彼は自分で迫ってきていた群体を全て排除する。
対して、ゴキブリの群れを鎧の如く纏う黒沐死は乙骨を睥睨してくる。
乙骨憂太の瞳には恐怖ではなく、ただ眼前の怪異を確実に祓うという冷静さだけが宿っていた。
(黒沐死は呪霊だ········なら虎杖君にやったように体内に反転術式、正のエネルギーを撃ち込めば確実に祓える)
思考をフル回転させて作戦を組み立てる。
だが乙骨的にはそれはあくまで最終手段としたい。
その理由は、
目の前にいるゴキブリどもではなく、そして黒沐死でもない。黒沐死のように相手を捕食対象と見るのではなく、それよりももっと好戦的な、まるで玩具の品定めをしているような軽薄さ。
その視線を感じ取った乙骨は、自分の手札を自ら明かしてしまえば、次に標的としてそいつらに狙われた時には対策されて、苦戦することになることを直感で悟った。
だからと言って、自分のもう一つの切り札である式神を呼び出せば、避難した人々が危険に晒される。リカは今スタジアムを守っていて、それがいなくなったらせっかく避難した人々は格好の的となり、悪意のある泳者の手によって蹂躙されてしまう可能性がある。
それだけでなく、乙骨の式神には制限時間がある。無条件で相手を圧倒できる実力を持っていた昔と違って、今の乙骨にはあらゆる制限がついていて、だが特級術師としての実力は本物だ。
まさに縛りプレイみたいになるが、反転術式と己の式神は使わずに黒沐死を討伐することを決めた。
(リカ········どうかみんなを、アリシアちゃんを守っててくれ)
心の中で祈る。
スタジアムへと向かった一般人達と、ようやく再会した少女を想いながら、彼は目の前の敵を睨みつける。
「何故········邪魔ヲスル」
「!!」
「何故········我々ヲ殺ス」
「········」
黒沐死という呪霊の言葉を聞いて、乙骨は僅かに憤った。
────馬鹿にしている。
「それはこっちが聞きたい」
「?」
乙骨の言葉に黒沐死は首を傾げた。
本当にわかっていないのか。
こいつは人を殺すことをなんとも思わず、逆に自分達が殺される理由が分かっていないらしい。
だがある意味で、乙骨は黒沐死の言いたいことは分かっていた。
黒沐死はゴキブリの恐怖から生まれた呪霊であり、そして人はあの黒い塊を見たら即座に悲鳴をあげてすぐにでも排除しようと動き出す。
別にゴキブリどもは人間に危害を加えるという考えは持っていない。
ゴキブリは、各々が生きるために食事が集まりやすい家の中へと侵入してくる生き物だ。
だが人間はその姿を見ただけで嫌悪し、そしてぶっ殺さなければならないと本能が告げる。
冷静に考えればゴキブリはただ食事を求めるだけで、人間に対してはそこまで危害を加えていない。
だけど人はその姿を見ると悪魔が現れたかの如く泣き叫び、そして殺すものだ。
それと同じ。
人間が本能のままに食糧を奪う害虫を殺すように。
「私ハ」
黒沐死もただ。
「鉄ノ味ガ、好キ、ダッ」
黒沐死が食欲を力に変えて刀に乗せる。
「········ッ!!」
乙骨は自身の呪力を全開にする。
彼の身体の輪郭が、溢れ出る呪力の光によってボヤけるほどの出力。
その莫大な呪力を容赦なく手元の呪具へと流し込み、彼は神速の剣閃を全方位に、一分の隙もなく網の目のように展開し始めた。
シュババババババババババババババババババババッ!!
肉眼では到底捉えきれない速度で放たれる斬撃。
それは四方八方から彼の肉を喰らい尽くそうと再び迫るゴキブリの群れを空中で寸分の狂いもなく正確に捉え、肉片と赤黒い体液の雨へと斬り飛ばしていく。落ちてくる虫の死骸が足元に瞬く間に積もり、コンクリートを汚していくが、乙骨の足捌きは寸分も乱れない。
爛生刀から繰り出される猛烈な連撃、同時に重戦車が突っ込んでくるかのような群体の嵐も完全に受け流し、あるいは正面から弾き返し、完璧に捌いている。
だが、特級呪霊の底知れぬ悪意はただの物量戦だけに留まらない。
天敵の死によって長い眠りから解き放たれたこの怪物は、その貪欲な飢えを満たすために人間の言語を冒涜的に真似た発声で術式の発動呪文を唱える。
「
黒沐死の裂けた顎の奥、粘着質な触角が蠢く闇の口腔から呪詛に満ちた不気味な詠唱が漏れ出る。
その声を合図に黒沐死の背肉が、まるで熟し切った果実のようにベきベきと音を立てて裂け、そこから異形なる式神が二体這い出てきた。
召喚された式神は人間の赤ん坊と昆虫を不恰好に繋ぎ合わせたような姿をしており、そこに本物のゴキブリの群体が乙骨の死角という死角を肉壁となってさらに狭めていく。
「フッ!!」
その包囲網を完全に祓うため、全方位に向かって刀を振り抜いた。
一石二鳥だったのは、その一閃が黒沐死の召喚した式神の胴体を骨ごと真っ二つに斬り裂いたこと。
だが、それこそがこの狡猾な怪物の狙いだった。
特級術師の手によって完璧に斬り裂かれた式神の体内から、高圧で破裂した風船のように、膿と怨嗟の混ざり合った膨大な量の返り血がドバァッ! と爆発的に噴き出したのだ。
「チッ········!!」
害虫らしく、触れるだけでその身が呪いで汚れそうな血が、乙骨の顔に正面からまともに浴びせられる。
強烈な邪気を帯びた粘着質な虫の血は、乙骨が瞼を閉じるよりも早く彼の両の目の中へと容赦なく滑り込み、目の奥を焼き焦がすような激痛を与える。
一瞬にして光の一切届かない奈落の底へと乙骨は叩き落とされ、視界を完全に奪われた。
「クソッ········!!」
「シュゥゥウウッ!!」
「ッ!!」
四方を完全に闇で塞がれ、足場を虫の死骸と粘つく体液で奪われながらも、乙骨は鋭く息を吐き出しながらさらに刀の回転速度を上げた。
目は見えなくても、相手の呪力でなんとなく気配を読める。
金属と金属、呪力と呪力が激しくぶつかり合い、互いの得物がキリキリと悲鳴を上げる。
激突し合う二つの殺意。視界が奪われてもやはり特級という存在は簡単には倒れない。
二人の距離は互いの吐息が触れ合うほどの至近距離で、凄まじい鍔迫り合いへと縺れ込んでいった。
まさに、その瞬間だった。
黒沐死の持つ爛生刀の刀身、その不自然に膨らんだ肉厚な鋼の側面に、まるで腫瘍のようにびっしりと埋め込まれていた『卵』が、意思を持つ銃弾の如き速度で一斉に射出された。
「ク········ッ!!!??」
至近距離からの、人間の反射速度の限界を超える不意打ち。
乙骨は本能的な危機感で咄嗟に身を翻したものの、音を置き去りにして放たれた卵は、避けることの叶わない速度となって彼の肩へと容赦なく食い込んでいた。
(何かあるとは思ってたけど········!!)
乙骨の読みは当たっていたが、対応が遅れた。
『ギィアアアアアアアアアッ!!』という甲高い声が肩の傷口から鳴り響いてくる。
直後。
肉を突き破り、血管の奥深くへと侵入してくる異物の感触が鋭い電流となって乙骨の脳を直接突き刺すと同時に、黒沐死の埋め込んだ幼虫達が彼の細胞を喰い荒らして急激に成長し、ウジ虫から強制変態させるミミズ呪霊が一匹や二匹と一斉に這い出てきた。
「な········ッ!!」
最悪のタイミングで孵化の完了。
虫どもは乙骨の健康な皮膚を内側から突き破り、生々しい肉を咀嚼し、ジュクジュクと悍ましい音を立てて傷口の周りで蠢き始めた。
「グ········ッ!!」
脳の神経を直接火で炙られるような、肉体を内側から崩壊させられる恐怖と痛みのあまり、さしもの乙骨憂太もその凄まじい激痛に一瞬だけ身体の動きを完全に止められてしまう。
戦場における一瞬の停止。
それも一撃が互いの致死傷になり得る特級同士の殺し合いにおける停止。
それは明確な死、すなわち完全なる敗北を意味していた。
「くそ········ッ!!」
視界を完全に奪われ、暗闇の中で激痛に身体を痙攣させる乙骨。
その瞬間に無防備極まりない乙骨の腹部へ、黒沐死がここぞとばかりに放った爛生刀の峰打ちの一撃が深々と突き刺さる。
ドゴォッ!!
「ぶふっ·······ブハッ!!!??」
内臓を直接素手で握り潰され、裏返されたかのような凄絶な衝撃。
乙骨の口から鮮血が激しく吐き出され、河原の地面を真っ赤に染め上げていく。肺の中の酸素が全て強制的に押し出され、視界を奪われた暗闇の頭の中に火花のような白い光が明滅する。
衝撃のあまり意識が遠のき、呪具を落として膝から崩れ落ちそうになった乙骨。
「ウォォォオオオオ」
だが、怪物は彼が地面に倒れることすら許さなかった。
うなり声を上げた黒沐死の穢らわしい腕が、鋭い爪を立てながら乙骨の細い首筋を、骨を噛み砕くような力任せな動きで残酷に掴み上げたのだ。
ギチギチギチと首を絞め上げられ、地面から身体を吊り上げられる。
「あ、がぁ········ッ!!」
呼吸を完全に遮断され、首の骨が軋み、視界も血に染まったまま肩を内側からミミズに貪られるという極限の絶望。
乙骨の首を掴んだまま黒沐死のいくつもの眼が、目の前の最高級のご馳走を骨の髄まで、一滴の血に至るまで喰らい尽くそうと醜悪な歓喜に歪んでいた。
怪物の裂けた口が大きく開き、乙骨の顔面を噛み砕こうと牙を剥き出しにする。
ドオオオオオオオオオオオオォォォォォォンッッッ!!!!!
刹那。
腹に響く、
「ッ!?」
突如として青空を切り裂いて上空から垂直に降り注いだのは、圧倒的な威力を持った雷の閃光。
それはあまりにも強烈な純白と黄金の輝きを放ち、まだ明るい太陽の光すら一瞬にして完全に掻き消すほどのものであった。
その凄まじい電撃の刃が、乙骨の首を掴んでいた黒沐死の腕に直撃した瞬間。
何一つ抵抗させることも呪力による防御を固める暇すら与えることなく、細胞ごと一瞬で焼き切るようにして根元からぶった斬り、猛烈な爆風と共に遥か彼方へと両腕を弾き飛ばした。
「ッッッ!!!??」
自身の身に何があったのかよく分かっていない黒沐死。
その隙を乙骨は逃さなかった。
「ッ!!」
強固な拘束から解放され、重力に従って地面へと落とされた乙骨は、着地と同時に即座に黒沐死の顔面へと齧り付いた。
傍から見ると濃厚な口付けに見えるかもしれないが、死線に立つ彼にそんな羞恥や躊躇などあるはずがない。
その黒沐死の口腔へ直接、反転術式によって生成された正のエネルギーを流し込む。
「────ッッッ!!!!????」
黒沐死は悲鳴もあげられなかった。
自身の肉体が異様に膨張し、そして許容量を超えたところでその肉体は耐えきれずに破裂した。
「はぁ········はぁ········ッ!!」
もはや形振り構わずといった感じだった。
今この瞬間に反転術式を使用せねば、倒せる自信がなかった。
本当は使いたくなかったが、仕方ない。
『五点が追加されました』
乙骨のすぐそばにコガネが現れ、そう告げる。
だが今の彼はそれどころではない。
口から溢れる血を黒沐死の体液と共に吐き出しながら、なんとか酸素を吸い込もうとする乙骨。
「
「!?」
突如。
そんな乙骨の耳に何者かの声。
しかし乙骨が驚愕したのは、その『声質』だった。
その透き通った声の音色は乙骨がほんの少し前にスタジアムへと避難させていったはずの、自分が必ず守ると決めたあの“女の子”の声にあまりにもよく似ていた。
「················ッ!!」
乙骨は未だに激痛に全身を震わせながらも、必死に両手で目の周りにこびりついた呪いの血を拭った。
ミミズ呪霊に喰い破られた肩の激痛を反転術式で強引に塞ぎながら、霞む視界を無理やりこじ開けて前方を凝視する。
激しい電撃の余波によって、濛々と立ち込めていた土煙が静かに晴れていく。
「···········え?」
黄金の粒子が視界を遮る程の土煙と混ざり合って、まるで蛍の光のように静かに舞い散るその凄惨な戦場の中心に、“一人の少女”が毅然として立っていた。
その姿を目撃した瞬間、現代の異能で特級術師という強者の称号を持つ乙骨憂太の顔が、この日一番の驚愕と『信じられないものを見た』という表情に染まる。
身に纏う衣服やその身体から放たれる『呪力』とは根本から異なる『エネルギーの性質』こそ違えど。
その透き通った“声”。
その紅玉のように輝く“瞳”。
その闇を祓うかのような鮮やかな“黄金の髪”。
そして何より。
その見覚えのある“愛らしい容姿”は──────
「────
「────え?」