その異形の怪物は、乙骨の肩を愛おしそうに撫で、地の底から響くような声で唸っていた。
乙骨憂太が静かに指輪を掲げ、その『名』を呟いた直後、世界の境界線が内側から無理やりこじ開けられた。
彼の背後に現れたのは、これまでの不完全な姿とは一線を画す、およそこの世のあらゆる負の情念を凝縮したかのような、“特級呪霊”の真の姿であった。
その顔には、光を捉えるための目など存在しない。
深海魚の如く虚無を宿した、 陶器のように不気味で滑らかな白い頭部。そこから四方へと這い出る長い髪は、意志を持つ無数の触手のように大気をのたうっている。鬼の如く強固に発達した屈強な図体には、岩盤をも容易く切り裂くであろう鋭い爪が生え揃い、裂けた大口の奥には血に飢えた無数の牙がぎっしりと並んでいた。
彼はどうしようもなく呪われていた。
幼馴染と将来を誓い合い、しかしそんな彼女は事故で死んでしまった。
その際に乙骨は彼女の死を激しく拒絶し、何度も何度も『死んじゃダメだ』と祈り続けた。
その結果、彼女は呪いに転じてしまった。
乙骨は元々呪術師の血を引いていた。その強大な力が彼にも受け継がれ、その純粋すぎる愛は、最悪の形へと歪んで少年の願いを成就させた。
ずっと不幸だと思っていた、だが使い方によっては人を救える力。
それを受け入れるように、彼は彼女が残してくれた“式神”を呼び出す。
「「「ッ!!!??」」」
その気配。
陽光が照りつける広場が、一瞬にして極寒地獄となったかのような禍々しい気配に包まれた。
その異形がただそこに佇んでいるだけで、周囲の空気そのものが『死』という概念に塗り潰されていく。
息を吸おうとしても肺に流れ込むのは酸素ではなく、魂の芯まで腐らせるような強烈な呪いの毒気だった。あまりのプレッシャーに、ただその場にいるだけで肉体が凍りつき、誰もが肌にべっとりと嫌な冷や汗をにじませる。
空中に浮かぶ烏鷺亨子、そしてビルの屋上でポケットに手を入れたままの石流龍。
戦国の修羅場を潜り抜け、あらゆる強者と命を削り合ってきたはずの彼らでさえ、目の前の空間に漂う『死そのもの』の気配に、喉の奥を強引に強張らせていた。
目の前にいるのはただの強力な呪術師ではない。
人智を超えた、特級そのものをその身に飼い慣らしている怪物なのだと。
彼らの直感が本能的な恐怖となって、思考を停止させた頭を叩いていた。
(完全顕現!? 今までのは全力じゃなかったっていうの!?)
烏鷺の細い肩が、驚愕と抑えきれない屈辱によって激しく震えた。
これまで自分達が相手にしていたものがただの前哨戦、『お遊び』に過ぎなかったという残酷な真実に、彼女のプライドが内側から崩壊していく。
さらに。
石流はその怪物の存在感もさることながら、それを呼び出した乙骨自身の『底』の変貌に、信じられないものを見るかのように目を見開いていた。
(どういう理屈だ? 乙骨自身の呪力もまたさっきまでとは比べ物にならない勢いで湧いてきてやがる········!!)
尽きかけていたはずの器に、 底知れぬ呪力の奔流がまるで大洪水の如く注ぎ込まれていく。
乙骨の身に纏うその敵意は、先程までの満身創痍の様子を完全に覆い隠し、空を照らす太陽さえも侵食していくかのように周囲の瓦礫や礫を、その圧だけで細かく振動させていた。
そして。
その怪物の放つ最悪の波動を誰よりも間近で浴びたフェイトの衝撃は、二人を遥かに凌駕していた。
(何········これ········!? 息ができないほどの殺気········ッ!?)
喉が完全に緊張に貼り付き、言葉を出そうとしても掠れた息すら漏れない。
全身の細胞がバリアジャケットの内側で狂ったように危険信号を鳴らし、受け入れたことのない異質な悪意に心臓が痛いほど激しく脈打つ。
恐怖のあまり、指先一つ動かすことすらできない。これほどまでに理不尽で、魂を直接握り潰されるかのような感覚には明確な覚えがあった。
それはかつて、クリスマスイブの日。
『闇の書事件』の最中に出会った『呪いの王』────“両面宿儺”が放っていた、世界そのものを冷酷に踏みにじる圧倒的な邪悪。
性質に僅かに違いはあれど、ある意味それと全く同じ類の逃れることが許されない最悪の殺気が、目の前の乙骨と怪物から放たれているのだ。
さらにフェイトの脳を恐怖で狂わせたのは、過去の記憶との合致だった。
以前、なのはと共に謎の“亀裂”を調査していた際、その裂け目の奥から聞こえてきた不気味な声。
【なぁにしてるのォぉぉオオオおおお?】と。
雑音の混じった幼い女の子のような、あの『リカちゃん』という名を持つ歪んだ声。
そして。
実体を持たぬ気配の奥から響いた、どこか他人事のように冷ややかな“男の声”。
(やっぱりこの人!? あの時悠仁の名前を言っていた········ッ!?)
その声の主の正体。
それが自分のすぐ目の前にいると確信した。
過去の点と点が、最悪の恐怖を伴って一本の線へと繋がっていく。
人を救うために戦っていると思っていたはずの少年が、その裏で世界を滅ぼしかねないほどの『呪いの怪物』を従えているという恐るべき事実。
その不気味さと果てしない恐ろしさにフェイトは完全に圧倒され、己の綺麗な金髪を恐怖の汗で濡らしながら、ただただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
『憂ゥ太ぁア』
そんな周囲の動揺や戦慄など最初から一切視界に入っていないかのように、リカは自らの胸の肉を強引に引き裂いた。
まるで闇の商人がコートの裏に隠したいくつもの武器を見せつけるように。
ジャラジャラ、ジャラジャラと。
重い鉄の鎖が硬い地面に擦れる、そんな耳障りで不気味な音が辺りに響き渡る。
引きずり出されたのは、異様なまでの呪力を帯びた数々の『呪具』の山だった。
日本刀、奇怪な形をした刃、何かを封印している呪符。
並外れた武器の束を乙骨の前に差し出しながら、怪物は目のない顔を歪め、鋭い牙を剥き出しにして愛おしげに笑った。
『どれにぃするゥ?』
「ありがとうリカ。じゃあ、まずはアレがいいかな」
乙骨はその悍ましい呪具の山の中から、迷うことなく一つの武器を選ぶ。
鋼の腕。呪具でコーティングされたその籠手は、本気でぶん殴られたら地平線の彼方まで吹き飛ばされそうなほどの効果を発揮する。
その武器を選んだことで、リカは鼻歌を唄いながら手慣れたように乙骨の腕の装着させる。
怪物を従えるその様子には恐怖も気負いすらもない。ただ当たり前に道具を手に取るかのような、薄気味悪いほどの落ち着きがそこにはあった。
「よし、いこうか」
強い日差しの下、影を落とす巨大な『呪いの女王』と、その力を完全に掌握した少年。
彼らが放つ、空間を捩じ伏せるほどの重苦しい沈黙が。
戦場を自分の領域へと塗り替えていく。
◇◆◇◆◇◆◇
「リカ」
『はぁい』
乙骨の低く短い呼びかけに対し、彼の背後に聳え立つ巨大な特級呪霊はどこか楽しげな、まるで幼い子供のような無邪気さすら感じる甘えた声を返した。だがその可憐な響きとは裏腹に、周囲の空間にはおよそ生命が耐え得ぬほどの重い絶望が再び狂い咲く。
その声が空気に溶け込んだ瞬間、乙骨の左手の薬指に嵌められた指輪から底無しの呪力が一気に湧き出す。それは目に見えるほどの濃密なエネルギーの塊となって彼の全身の肉体を包み込み、ボロボロに傷ついていた細胞の一つ一つを爆発的な勢いで補完していく。
指輪という細い媒介を通じて『リカ』という『呪いの女王』と完全に接続し、外付けされた術式、そして無限とも思えるほどの呪力のストックを我が物とできる時間。
その限界は、僅か五分間。
しかし。
世界のあらゆる道理と戦況を力任せに蹂躙し、思うがままに引っくり返すには、その五分はあまりにも充分すぎた。
(私から────!!)
乙骨の呼びかけに応じて完全顕現したリカは、彼よりも先に飛び出し、空中にいる烏鷺へ躊躇もせず向かっていく。
その理解不能な式神の挙動に対し、上空で待ち構えていた烏鷺が背景を乱暴にむしり取るように払いながら、狂気的な叫びを張り上げた。
「ナメるな!!」
烏鷺のしなやかな手のひらが虚空を掴み、空間の面を引っくり返そうと撓る。
彼女の周囲がぐにゃりと歪み、太陽の強い光でさえも歪ませた。
だが。
式神の完全顕現を果たした乙骨の反撃は、彼女が長年培ってきた予感すら一瞬で置き去りにした。
乙骨は空中にいる烏鷺に対して、小さく口を開く。
直後。
彼の口角と舌の表面には、『蛇ノ目と牙』を思わせる模様が、悍ましいほどの鮮明さで浮かび上がっていた。
「!?」
それを目にした瞬間に烏鷺は意味を理解し、一歩遅れて耳を両手で塞ごうとした。
しかし遅い。
彼の同級生───“狗巻棘”からコピーした言葉に強制的な呪いを乗せて放つ術式は、そんな彼女の行動よりも早く伝わっていく。
「────“動くな”────」
バキィ!! と、目に見えない衝撃の波が空中を鋭く走った。
その言葉が耳の奥に入り込み、鼓膜を打った瞬間、烏鷺の肉体はまるで目に見えない頑丈な鋼鉄の鎖に四方を固定されたかのように空中で硬直した。
指先一つ、視線一つ動かすことすら許されない束縛。
脳に刻まれた呪いの命令に、 彼女の肉体は抗う余地すら与えられず平伏するしかなかった。
「しま────」
烏鷺の瞳が恐怖に染まる。
そしてその一瞬の致命的なまでの隙を、主に危害を加えようとする敵に対して、あのリカが逃すわけがない。
ドガガガガガガガガァンッ!!!
連続して爆発したかのような、凄まじい破壊音が周囲に反響した。
完全顕現したリカの巨大な拳と、乙骨の呪力を帯びた拳が、身動きの取れない烏鷺の肉体へと目にも止まらぬ速さで容赦のない猛連撃を叩き込んだのだ。
一撃一撃が空の面に傷を負わせるほどの破壊力。
烏鷺の身体は防ぐ術もなく殴られ続け、それはまるで、肉体の形を保つことすら許さない暴力の雨を全細胞に浴びせられ続けているような絶望そのものであった。
「おいおい」
それをただ傍観させられていた石流龍が、全身の血を沸き立たせ、自分も混ぜて欲しいが如く狂おしいほどの欲求をその顔いっぱいに爆発させて吼えた。
「激甘じゃねぇか!!!!」
まさにデザートに相応しい戦い。
石流のリーゼントの砲門から呪力の輝きがバチバチと激しく放電し、全出力を込めた大砲が乙骨達へと放たれる。
これほどの近距離、躱せるはずもない必殺の間合い。
『あ?』
だがその程度の攻撃、たった一撃くらいで特級は怯まない。
リカは逃げるどころかその太い腕を強引に突き出し、石流の拳を正面からバチィッ!! と力任せに受け止めたのだ。
ただのぶつかり合いではない。
呪力の密度が、硬度が、およそ人間には到達し得ない次元で反発し合っているのだ。
石流の砲撃に込められた破壊力を、リカはその『呪いの女王』としての圧倒的な威力だけで無慈悲に弾き返した。石流は大砲を放った反動で三歩ほど後ろに後退し、そして弾いた相手のそのあまりの硬度への驚愕に一瞬だけ愕然とする。
(弾くか········!! 硬さは乙骨かそれ以上!!)
『痛いぃい』
リカは目のない顔を不気味に歪め、裂けた大口から無数の牙を剥き出しにして嗤いながら、逆鱗に触れさせた石流の顔面目掛けて巨大な拳を容赦なく突き出した。
ドゴォッ!! と。
強烈な一撃をまともに浴びた石流の体が地面に何度も叩きつけられながら、受け身も取れずにただ殴られる。顔面を傷だらけにし、鼻から血を流しながらも、その顔には飢えが満たされていく戦闘狂としての悦びが張り付いていた。
彼にとって、この痛みの全てがこれ以上ない極上のスパイスだった。
「まだまだ食べ盛り!!」
『!?』
石流を一方的に叩いていたリカに突き刺さったのは、拳。
単なる打撃にも拘らず、特級呪霊の体はその一撃によって反対側の建物へと吹き飛ばされる。
人が殴ったとは思えない、規格外の威力が篭った拳。
手応えを感じた石流は自慢のリーゼントを整えるように前髪に手を添えて、
「モリモリいこうか!!」
◇◆◇◆◇◆◇
「········ッ!!」
フェイトはバルディッシュを強く握り締めたまま、指先一つ動かすことができなかった。
彼女は時空管理局、そして国連調査機関の魔導師として。
幾多の異世界、幾多の次元犯罪者、そして世界の平和を脅かすような大規模な事件をいくつも解決してきた。
広範囲を跡形もなく吹き飛ばす魔導砲の撃ち合いや、音速を超える高速の世界における戦闘ならば自分の世界の技術の方が遥かに洗練され、規模も上かもしれないとすら思っていた。
だが。
今目の前で繰り広げられている戦闘は、 そういった『規模』や『威力』の計算、 効率的な魔力運用の理論を根本から嘲笑うかのような、 およそ魔法が通じぬ“呪い”の領域へと発展していた。
人間の放つ負の感情、呪詛、他者への怨念、そして命への底知れない渇き。
それらの形のない精神の波動が物理的な破壊力と暴力となって、異世界の常識そのものを無慈悲に引き裂いていく。
言葉をそのまま絶対的な肉体の束縛に変える“呪言”、背景を布のように弄ぶ“空間の歪曲”、高町なのはに匹敵するほどの威力を持った“砲撃”。
そして。
ただそこにいるだけで周囲の空気を奪い、全ての生命を圧殺しようとする“怪物”の存在。
(やっぱりここは········“宿儺”がいる『呪いの世界』ッ!! 今の私じゃ、この人達に太刀打ちできないッ!!)
乙骨の声と怪物の声。
それを聞いてフェイトはようやく今自分のいる場所がどこなのかを悟った。
いや。
そもそも予想はしていた。
だからこそ、その事実を知ったフェイトは自分自身の力不足に不甲斐なさを感じていた。
あのクリスマスの日に味わった絶望。
宿儺は元々別格の強さを持っていたが、今目の前に繰り広げられている戦闘はその次元にある、本当に魔法が通用しない世界だ。
自分のこれまでの数々の経験を予想以上に遥かに上回る理不尽な世界の洗礼。
これこそが、人間の持つドス黒い負の感情の果てに生み出された『呪いの世界』なのだと、フェイトは嫌でも理解させられていた。
目の前にいる者達は、厳しい訓練を受けた兵士でも、規律を守る魔導師でもない。
己の狂気とエゴをそのまま力に変えて突き進む、異世界の怪物達なのだ。
そして。
その怪物の中心にいるあの少年の放つ気配は二人とは違って、あの『闇の書の闇』を消し飛ばした五条悟という『最強』の男の影と、 不気味なほどに重なり合っている。
底の知れない圧倒的な強さ。
まさに、住む世界が違う。
「く········ッ!!」
フェイトはその異質さに言葉を失い、恐怖による冷や汗を流しながら。
ただただ。
目の前で繰り広げられる狂宴を、遠くから静かに見つめることしかできなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
「フッ!!」
乙骨の短い呼気と共に、規格外の呪力を右拳へと限界まで収束させたストレートの打撃が、一切の躊躇なく正面へ突き出される。
拳の周囲の大気は急激に膨れ上がった呪力の熱によって激しい陽炎を描き、世界を不自然に変形させていた。
だが。
千年の生き地獄を潜り抜けてきた烏鷺亨子もまた、その神速の一撃をただ肉体で受けるような無知な真似はしない。
「チィッ!!」
彼女は冷ややかな瞳をカッと見開くと、自らの前方にしなやかな手のひらを翳し、眼前の空間そのものを力任せに押し出す。
空間を“面”として捉え、その捉えた“面”を薄氷を割るように。
「“宇守羅彈”ッ!!」
バキィ!! と、耳を劈くほどの甲高い金属質の悲鳴が上がる。
乙骨の突き出した右拳と、烏鷺が叩き割った空間が、遮るもののない虚空で真っ向から正面衝突する。
その瞬間。
物理法則そのものを無視するかのような、異様な現象が巻き起こる。
二人の莫大なエネルギーが激突した境界線を中心に、何もないはずの空気がまるでぶ厚い硝子の板に強大な鉄槌を叩きつけたかのように、バリバリと大きな音を立てて白く罅割れていったのだ。
空間を縦横無尽に走る亀裂。
光の屈折が完全に狂い、罅割れた空間の向こう側の景色がモザイク画のようにバラバラに寸断されて歪んでいく。物理的な質量を持たないはずの“空”が、二人の呪力の応酬に耐えかねて今にも粉々に砕け散ろうとしていた。
大気の罅割れはさらに深く、鋭く周囲へと侵食し、周囲のビル群の影さえも歪んだ線となって千切れていく。
しかし、その激突がもたらした手応えはあまりにも残酷だった。
曲げられた空間の面が放つ打撃の波動が、衝撃となって乙骨の右拳から腕全体へとダイレクトに跳ね返る。
パキィィィン!!! と。
強化ガラスが内側から砕け散るような、鋭い破砕音が響き渡った。
「「ッ!!」」
乙骨の右腕に装着されていた呪力の高出力を補佐するための頑丈な籠手の呪具。
それが空間の歪みが引き起こした強烈な捻れに耐えきれず、一瞬で粉々に砕け散ったのだ。破片となった金属と呪術の残穢が空中にキラキラと飛び散り、地面へと虚しく降り注ぐ。
生身の腕を襲う凄まじい衝撃に乙骨の身体が後ろへと低く押し込まれ、だが絶対に退かないという決死の覚悟のままにその場に踏み留まる。
右腕の呪具を失い、生身の肌が戦場の空気に曝される。
それでもなお、乙骨憂太の表情から落ち着きが消えることはなかった。
彼は傷ついた腕を前に突き出したままで、自分を鋭い目で見る烏鷺に対してこちらも睨み返した。
自分の先祖に対して酷い恨みを持っている過去の術師。
その殺意を向けられた少年の瞳には、敵への憎しみや焦燥ではなく、ただ淡々とした深い情けだけが宿っている。
「アナタに何かを言う資格は、僕にはないのかもしれませんが────」
乙骨は一度言葉を区切り、その戦場に一拍の静寂を置いた。
周囲で飛び散る瓦礫の音さえも遠ざかるような、奇妙なほど重い沈滅が包み込む。
気配を感じなくなるほどの深い静けさに身を委ねながら、彼は言葉を続けた。
その声には一切の嘲りもなく、ただ客観的な事実を告げるような響きがあった。
「それをいつまでも引きずっていたら、アナタはいずれ身を滅ぼします」
「何だと········?」
烏鷺の顔から表情が消え、次の瞬間。
その瞳の奥に、地獄の業火を思わせる憤怒の炎が燃え上がる。
闇に生きて名を持つことさえ禁じられた彼女は、藤原という者が自身が犯した同族殺しの身代わりとして自分を処刑した。
自分を陥れた相手だけでなく、世界そのものを呪っても誰も文句は言わない理不尽な人生。
それを目の前の少年が、綺麗事で否定しにかかってくる。
それが、彼女のプライドをこの上なく侮辱した。
「········甘いんだよ」
烏鷺の薄い唇から長年の恨みが呪いとして宿ったような、低い呟きが漏れた。
彼女の細い指が怒りのあまり震えてしまうほどに強く握り締められ、周囲の空間が彼女の手によって再び不気味に波打ち始める。
「無知なのは罪だな········オマエは世界を知らない!!」
烏鷺は背景を掴み上げるようにしながら、乙骨へ向けて激しい怒号を放つ。
「知らないからこそ周りが見えていない!! 術師や呪霊、強者としての地平すら超越するのは『圧倒的な自己』!! それを知らないからオマエはそんな戯言を易々と吐ける!! 身を滅ぼすのはオマエの方だッ!!」
無知な愚か者の言葉なんて真正面から否定する。
何も知らない、それ故の甘さ。
それで命取りになるのは乙骨の方。
嘗めてかかる小僧相手に、もう手加減は必要なかった。
ドンッ!!! と。
広場全体が大きく跳ね上がるほどの衝撃。
遥か後方で乙骨を援護するために暴れ回っていた特級呪霊、リカの巨体を拳と呪力の砲撃のだけで強引に叩き潰し、そして二人の間に割って入った男がいた。
石流龍だ。
彼は衣服を派手に破かれ、だがそれでも戦うための意欲は失われない。
むしろ。
もっと欲しいと言わんばかりに、
「ゴチャゴチャうるせぇ!! ここまで来たら、言葉じゃねぇだろ!!」
「「!!」」
石流の叫びによって、二人の意識は同時に彼へと向けられる。
自らの分厚い胸板に向けて、握り締めた両拳を交互にドン、ドンと叩きつけている。
ドラミング。
それは野生の猛獣が自らの縄張りを誇示し、敵を威嚇するために行う好戦的な行動。
石流の強靭な肉体から放たれる呪力の波動が胸に当たるたびに重低音の衝撃波となって、周囲の空間へと円状に広がっていく。
高鳴る心臓の鼓動が視覚化されたように分かるほど、大きく脈打っていた。
彼はその高鳴る鼓動をドラミングの音に乗せながら、敵への最大の威嚇を行うと同時に、『これ以上の出し惜しみは一切なしだ、互いの全てを賭けて全力でやり合おう』という意思を言葉の代わりに戦場へと轟かせていた。
そう。
言葉による対話の時間は、もうとっくに終わっている。
互いの呪力と殺意がに臨界点を突破し、空間そのものが引き裂かれるようにビキビキと激しく軋み始めた。
千年の怨念。
飢えと渇き。
現代の異能。
それら全てを完全に同じ舞台に立たせるように、呪術の最高峰、その大技を出させるように仕向ける。
「「「ッ!!」」」
乙骨、烏鷺、石流の三人が。
同時に自らの手を、複雑にして怪異な『掌印』の形へと結んでいく。
蘇った暗殺者の烏鷺亨子は自らの人差し指と中指、薬指を立てて交差させ、再生を象徴する印を結ぶ。
“軍荼利明王印”
理由のない心の渇きを癒すことこそが自身にとって救いとなる石流龍は、両手を扇のように広げて重ね、毒蛇や害虫といった災いを食い尽くし、福を呼ぶとされる印を構築する。
“孔雀明王印”
そして。
五条に次ぐ現代の異能である乙骨憂太は、籠手を失った生身の手を手刀のような形で胸の前に掲げ、その後ろに添えるように幼馴染から受け継いだ婚約指輪を嵌めた左手を軽く握り締める。
富と性愛の象徴、そして死した肉を食らった女神の印を結んでみせた。
“荼枳尼天印”
三人の指先から解き放たれる呪力の奔流が、空間そのものをドミノ倒しのように急速に塗り替えていく。
世界が内側から無理やり構築され、独自の理を持つ結界へと変貌していく前兆。
常識そのものが引き裂かれ、光の届かない漆黒の闇が周囲を飲み込んでいく中。
三人の術師の声が、天地を震わせながら同時に激しく響き渡った。
「「「─────
◇◆◇◆◇◆◇
領域展開。
その叫びが重なり合った瞬間、三者の生得領域がこの世界の理を内側から強引に喰い破った。
闇が広がる。
それはかつて、『呪いの王』と呼ばれた両面宿儺や、『現代最強の術師』として君臨する五条悟も見せた、世界の法則そのものを強制的に書き換えていく呪術戦の頂点。
術師の心象風景を呪いによって実体化させ、生殺与奪の絶対的なルールを強制する不可侵の結界。
本来であれば、一つの空間に一つしか存在し得ないはずのその最終奥義が。
いま、この狭い広場を中心に同時に『三つ』も発動され、互いの領域を押し合っていた。
烏鷺の操る歪んだ空間がまるで生きた怪物の皮膚のように内壁を覆い尽くそうとし、石流の放つ膨大な破壊のエネルギーが熱線となって、結界の骨組みを激しく焦がしていく。
それら二つを根刮ぎ呑み込まんとするかのように、 乙骨憂太の底なしの呪力が深淵の如き影の膜となって、虚空の全てを侵食していった。
三つの異なる生得領域、それが一つの空間の中で互いの主導権を奪い合って激しく衝突し、その反発の摩擦だけで周囲の空気が高熱を帯びて爆発していく。
互いの結界の『外殻』が噛み合い、押し合い、異次元の重みとなって混ざり合う、呪術の歴史を紐解いても類を見ない異常事態。
世界が全く別の次元へと反転し、異形のドームが彼らをこの世から隔離しようと、急速にその口を閉じ始めていた。
「あれって·······ッ!?」
その圧倒的な光景を見上げていたフェイトは、ただ愕然とするしかなかった。
宿儺や五条悟といった、次元の違う者達だけに許されたはずの神業に等しい大技。
それを目の前にいる三人が当然のように使いこなし、世界を塗り替えていく。
「······ッ!!」
やはり、自分ではそのステージにすら上がれない。
己の手の届かぬ遥かな高みを突きつけられたフェイトはただ圧倒され、収束していく闇の球体を視線で追うことしかできなかった。
だが、領域の押し合いが始まれば、それぞれの必中術式は互いに打ち消し合う。
結界の内部で誰が主導権を握るかという緊迫した対峙の中、烏鷺と石流の利害は一瞬にして一致していた。
乙骨を優位に立たせないために、あの規格外の化物であるリカを結界の内側に入れさせるわけにはいかない。
二人の術師は、乙骨を孤立させるために結界の壁を強固に閉じる。
そのほんの一瞬の手前。
『憂太をぉぉおお返せぇええええ!!!!』
鼓膜を突き破らんばかりの、悲痛なまでの叫びが響き渡る。
フェイトを置いたまま領域の外側に置いていかれようとしていたリカが、主である乙骨を取り戻すべく、猛烈な狂気と共に結界の外殻へと掴みかかったのだ。
リカは石流によって二◯メートル以上も力任せに殴り飛ばされていたはずだった。
だが、リカに遺された“祈本里香”の遺志が、それを許さない。
主を奪われまいとする執念が、彼女の出力をさらに一段階上の領域へと跳ね上げる。
二人の術師が策を弄する時間すら与えず、結界の構築が完了するよりも早く、リカは出力を上げて結界の壁にその巨大な爪を立てた。
直前。
「
「「「!!?」」」
結界内にまで響いたその声。
「
閉ざされゆく結界の裂け目から、悍ましい羽音と共に這い出てきたのは。
確かに滅ぼしたはずの“黒い悪魔”の姿であった。
「
狂気的な叫び声を上げ、現代の黒い悪魔が結界の内部へと乱舞する。
死滅回游の泳者として登録されていたあの個体は、確かにフェイトと乙骨の仕掛けた一撃によって、消滅したはずであった。
しかし。
あの恐るべき虫の呪霊は、休眠期へと入るその直前に、自らの単一の肉体のみで次代を残す単為生殖を、人知れず成し遂げていたのである。
親たる個体が祓われようとも、その血肉を受け継いだ新たな子が誕生すれば、日本中の人々がその生物に対して日常的に抱く忌避と恐れの念が、再びその依り代へと悉く注ぎ込まれる。
結果として。
呪霊としての黒沐死は未だ健在であり、以前の個体をも超える凶悪さを伴ってこの地に再誕を果たしたのだ。
「ッ!?」
『邪魔ァアアアアッ!!!!』
結界の外部では、その怪物の出現に呼応して生み出され、強化された害虫の群れが、荒れ狂う暴風のように蠢いていた。
それらは結界内部へと強引に割り込もうとしていたリカの行く手を阻み、そしてフェイトも急いで自身の肉体に魔力を纏い、フィールド系の防御魔法を発動。
その莫大な注意を自らの側へと引きつけて離さない。
主の元へと急ごうとする特級呪霊の前に、黒い群生が壁となって立ち塞がる。
(何故黒沐死が!?)
一方。
その予想だにしない異物の侵入により、内部で維持されていた危うい均衡は、砂の城の如く崩壊を始めていた。
烏鷺が真っ先に反応し、そして乙骨と石流はある意味冷静に事態を受け止めていた。
二つの結界を噛み合わせる場合と比べ、三つの異なる心象風景を一つの座標に展開する『三者間相殺』は、その維持に必要とされる演算がより一層困難を極める。
乙骨、烏鷺、石流。
それぞれが自らの領域を形作る際に設定した、内部の必中術式を通すための対内条件。
そして外部からの攻撃や侵入を防ぐために施した、対外条件。
それら三者三様の複雑な縛りと境界線のあり方が、計算の範疇にない外敵の乱入によって、致命的な相違と破綻を引き起こした。
パリィィィン!! と。
空間を仕切っていたドーム状の壁が、凍りついた湖の氷が割れるかのように、周囲へ鋭い罅割れを走らせていく。
結界の構築維持に必要な条件の計算が狂い、三つの領域は互いを打ち消し合うどころか。
崩壊の連鎖へと巻き込まれていく。
◇◆◇◆◇◆◇
「「「ッ!!」」」
石流の顔に浮かんだのは、極限の不快感。
烏鷺の瞳に走ったのは、計算外の事態への驚愕。
乙骨の頭に思い浮かんだのは、戦況を有利にするための次なる一手。
ドーム状に周囲を包み込んでいた漆黒の結界が崩壊していく中、四人の怪物は再び元の広場へと引きずり戻される。
だが。
領域が崩壊したその直後こそが、最も危険な隙を生む瞬間であった。
結界を無理やり維持し、それが強制解除された術師は一時的に脳内の術式が焼き切れ、あらゆる特殊な能力の使用が困難となる。
その僅かな隙、それを誰が一番最初に奪えるかが勝利の鍵となる。
「チ·······ッ!!」
烏鷺の意識が自らにとって最も相性の悪い天敵、黒沐死へと向けられ、その警戒のせいで一瞬だけ無防備な状態となっている。
「フッ!!」
乙骨はその隙を完璧に捉え、地面の瓦礫を吹き飛ばすほどに走り出す。
術式が焼き切れていようとも、彼にはまだ底なしの呪力による肉体強化が残されている。
一瞬で烏鷺のその無防備な背中へと滑り込み、独楽のように鋭く体を旋回させた。
バゴンッ!!!
強烈な回し蹴りが、防ぐ術を失っていた烏鷺の背中へと完璧に叩き込まれた。
「が·······っ!?」
骨が軋むほどの凄まじい衝撃を受け、烏鷺の身体は紙屑のように真下へと激しく吹き飛ばされる。
受身も取れずに地面の上を転がる彼女の前に、涎を滴らせた黒い悪魔の黒沐死が、ここぞとばかりに鋭い牙を剥き出しにして躍り出た。
「クソッ!!!」
烏鷺は必死に空間の面を掴もうと右手を伸ばして裏拳の如く振り抜くが、焼き切れた術式は指先をすり抜けるだけで、現実は何も歪まない。
能力が使えぬ今、呪霊の牙がその肉体を切り裂くのは時間の問題であった。
天敵の顎が眼前に迫り、誰もが彼女の死を確信した。
ドッゴォォォオオオオオッ!!!
その瞬間だった。
「「「「ッ!!???」」」」
それは人間はおろか、石流の放つ大砲すら生温いと感じさせるほどの威力。
まるで天空から巨大な隕石がそのまま垂直に突き落とされたかのような、圧倒的な破壊が戦場へと直撃した。
天空を突き破って襲いかかってきた衝撃、それはちょうど烏鷺の目の前。
そして。
(な、に·······!? 今、上から、“
黒沐死の群生を防御でやり過ごしていたフェイトは、その光景を前にバルディッシュを構えたまま呼吸を止めていた。
いや、彼女だけではない。
乙骨も、石流も、そして今まさに喰われかけていた烏鷺でさえも。
あまりにも唐突な出来事に、言葉を失って呆然とその光景に唖然とするしかなかった。
硝煙と砂塵が激しく渦巻く不気味な静寂の中。
彼らの耳元へ、死滅回游の泳者達にとってはあまりにも聞き覚えのある、あの“マスコット”のような存在の声が響き渡った。
『
その不気味なアナウンスが響き渡るのと同時に薄れゆく土煙。
次第に視界が晴れ、クレーターの中心に佇む“その影”が見えるようになった瞬間。
「「────え?」」
乙骨とフェイトの瞳が、これまでにないほどの驚愕に大きく見開かれた。
「········」
そこにいたのは、およそ五歳ほどにしか見えない、あまりにも“小さな子供の姿”。
視線を吸い寄せられたその容姿は、今まさにこの戦場で乙骨に手を貸し。
そして。
共にこの戦場を潜り抜けてきた少女と────
そう。
そこに立っているのは。
「────
「────