それは乙骨が救った非術師、一般人達のいるスタジアムでのことだった。
乙骨憂太達、特級レベルの死闘が続く中心地から、避難所となったスタジアムまではそれなりの距離があった。
だが。
特級術師と過去の怪物達が撒き散らす暴力の余波は、物理的な距離など容易に踏みつぶす。
ドゴォン!!
周囲を激しく引き裂く重低音。
それは地面を細かく震わせるに留まらない。
遮蔽物を透過した呪力の震動は、スタジアムに身を潜める一般人達の内臓を直接掴み、容赦なく雑巾のように絞り上げていた。
「ひぃ········ッ!!」
「い、嫌あ········っ!!」
「た、頼むから!! 早く終わってくれ········っ!!」
ざわめきのほとんどは悲鳴だった。
不安、戦慄、恐怖、絶叫、畏怖、怒号、懇願。
本来ならプロ選手の活躍に興奮して歓声で満たされるべきはずの場所を、負の感情が瞬く間に塗り潰していく。
あの渋谷ハロウィンの日から、世界は終わりを迎えていた。
まだ数日しか経っていないというのに、殺し合いの檻に取り残されてしまった一般人達。彼らにできるのは、いつ迫るかも分からぬ死の足音に怯えることだけだった。皆が皆、スタジアムの客席に座り、目に見えない終わりを待っていた。
両手で寒さを耐え凌ぐように己の体を抱き締め、割れるような頭痛に悩まされるように頭を抱えてうずくまる。中には全てを諦めたように、涙と鼻水に塗れて神への懺悔を捧げている者までいた。
この無数の叫びもまた、死滅回游という狂った儀式の一部に過ぎない。
結界内の呪力を活性化させるための養分。
非術師であっても、息絶える瞬間に放出されるエネルギーは莫大だ。
“死”に対する生々しい恐怖。
それこそが、この儀式を成立させるための何よりの燃料だった。
「ぅ········っ」
そこには、スタジアムの外で戦う乙骨が保護した少女の身体もあった。
アリシア・テスタロッサ。
名前以外、何もかもを失った小柄な女の子だった。
今は彼女をここまで連れてきた男の手によって、一先ずリュックを枕代わりに冷たい床へ寝かされていた。
だが、顔面蒼白となっているアリシアの唇からは、悪夢の底で溺れているかのような歪な呻き声が微かに漏れ出ていた。
「あぁ、くそ········なんでこんな目に········っ!!」
男はもう、アリシアの異変を顧みる余裕などなかった。
ただ冷たい床に寝かせるだけで、あとは自分も他のみんなと同じように恐怖に脳を焼かれ、ただただ暴言のような愚痴を吐き散らし続けている。
広大な客席数に比べれば、この場にいる人間の数は極めて少ない。
だが、彼らがこの『結界内』に囚われ、死の恐怖に身を震わせているという事実だけで、空間の呪力密度は指数関数の如く爆発的に跳ね上がっていく。
つまり。
圧倒的な────負の感情。
それが、広大なスタジアムを満たしていた。
ドクン!!
突如、鼓膜を打った轟音。
それは、戦場と化しているスタジアムの外から響く戦闘音ではなかった。
「ぁ········ァッ!!」
アリシアの肌から、尋常ではない量の粘り気のある汗が噴き出す。
まるで高熱に苦しむような、熱病に魘されるような顔を浮かべている。
「もう、夢なら早く覚めて········!!」
「頼むから誰か助けに来てくれ········!!」
「いい加減、ここから出せよ!!」
「戻らなければよかった········アイツなんてほっといて俺だけ逃げていればッ!!」
「死にたくない、死にたくないッ!!」
周囲の人間が垂れ流す、醜く剥き出しの本音。
それがアリシアの頼りない身体へと、
ドクン!!
二度目の鼓動は少女の内側から。
世界を拒絶するように鳴り響いた。
「··············ッ!!!!!!!」
小さな指先が、何かに怯えるように小刻みに蠢き出す。
意識はない、だが無意識の内の行動にしてはあまりにも震えている。
痙攣のような、激痛に悶えるような動き。
全身が細かく波打ち、やがてそれは骨の髄から震えるような、激しい引き付けへと変わる。
「っ────────、が、ぁア!!」
ぐったりと弛緩していた喉の奥から、押し潰されたような鳴き声が漏れた。
激痛に耐えかねた手が、自身の胸元を強く掻き毟る。衣服の布地が引きちぎれそうなほど指先に力が籠り、床の上で激しく身悶えを始めた。
逃げ場のない息苦しさから逃れるように、細い足が冷たいコンクリートを何度も蹴り飛ばし、両腕が空を乱暴に泳ぐ。
瞼の裏で眼球が不自然に上へと反転し、開いた時には白い部分だけが怪しく露出していた。
すると。
「死にたくない········っ!!」
アリシアの薄い唇から、場違いなほど明瞭な音声が吐き出された。
いや。
それは。
「憎い········消えろ」
意識のないはずの口が、脈絡のない負の感情を次々と紡ぎ出していく。
「くたばれ、終われ、なんで生きてんの、怖い、生まれてこなければ良かった、邪魔なんだよ、死ねばいいのに、かっこ悪い、しんどい、どうして俺が、許さない、逃げたい、むかつく、気持ち悪い、いい加減にして、ダルい、悲しい、ふざけんなよよよっよヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨヨッッッ!!!!!!!」
スタジアムに座り込む者達が頭の中で、あるいは口から垂れ流していた無数の呪詛。
人間の醜い本音の残響が、アリシアという媒介を通して、全てこの場に具現化していく。
無表情のまま絶叫と呪いの羅列をぶつぶつと反芻していた少女の喉が不自然に痙攣し、声を震わせた。
直後、小さく開いた口元から、泡を含んだ赤い液体がどろりと滑り落ちる。
処理しきれない情報の負荷によって、内臓の壁が破れたのだろう。せき止められていた栓が外れたかのように、生々しい血液が唾液と混ざり合って顎を伝い、床を汚していく。
そして。
白目を剥いたまま痙攣を繰り返していた瞼が。
一度、ゆっくりと閉じられた。
数瞬の不気味な静寂。
そして。
「────」
瞼がゆっくりと持ち上がった時、そこには生物としての気配は残っていなかった。
眼球を満たす強膜が、内側からせり上がる異質な『力』によって瞬く間に侵食されていく。
その変貌は、夜の帳よりも深く、生命の気配を拒絶するような『黒』に染まる。
元々の白を塗り潰すように、鮮烈な漆黒が網膜の隅々まで行き渡る。中心に位置する虹彩は、細かく明滅を繰り返すたびに人工的な光彩を放って怪しく輝いていた。
変異は視覚の球体だけに留まらない。
急激に膨れ上がるエネルギーの逃げ場を失い、顔面の細部が悲鳴を上げ始める。
目元を囲む皮膚の下で、無数の筋が不自然に広がり始めた。
それはまるで、高電圧の電気が走るような枝分かれ。
青白い光を放つその筋が内側から強引に押し広げ、稲妻に似た細かな罅割れとなって頬や額へと伝播していく。
「────」
ピキ、と乾いた音が静寂に混ざる。
膨張する圧力に耐えかねて、目尻の端が小さく裂け、僅かな亀裂が刻まれた。
そこから血が流れるよりも早く、青い光の残滓が火花のように爆ぜる。
“
視神経の周囲に浮かび上がった無数の罅割れが顔の皮膚を異質な紋様で装飾し、少女の幼い面影を別の『器』へと作り変えていた。
ただ開眼したという、それだけの動作。
しかし。
目の周りを覆う光の罅割れと、その奥で妖しく輝く双方の瞳は、理性を置き去りにした『怪物』の誕生を告げていた。
◇◆◇◆◇◆◇
「········あ? お、おい········起きたのか?」
隣にいた男が、愚痴を吐き散らす口を止めて不意に視線を落とした。
床の上で横たわっていたはずの幼い少女が、微かに身じろぎを始めていたからだ。酷く魘されていた割には、その目覚めは静かだった。
「だ、大丈夫か········?」
男は恐怖を抱くよりも先に、ただ怪訝そうにその様子を見つめる。
「────」
しかし、その後に続いた挙動は、およそ生きている人間のそれとはかけ離れていた。
のろのろと。
アリシアはまるで、骨も関節もない、陽炎のような実体すら掴めなさそうな虚げな動きでゆっくりと立ち上がる。
寝そべった状態から上半身を起こすまでの挙動に一切の力みが存在しない。重力を感じさせない滑らかな、それでいてどこか歪な歪みを伴った重心移動。
手も足の支えもない、物理の法則を無視した逆さの起き上がり。
その両目に宿る『青い瞳』が、彼女の前髪に遮られる。
肌には高電圧の電流が走ったような青白い光の亀裂が枝分かれして浮かび上がっていたが、俯いた頭髪の影に覆い隠されてしまって、男の視線からは見えない。
「お、おい!! 急に立つなよ、危ねぇだ────」
男が億劫そうに手を伸ばし、アリシアの細い肩を掴もうとした。
ガァンッッッ!!!!!
その瞬間、鼓膜を容赦なく震わせる爆発的な破壊音がスタジアムを震撼させた。
何が起きたのかを周囲が理解するよりも早く、凄まじい暴風が吹き荒れる。男の身体は木の葉のように宙を舞い、数メートル先の客席の背もたれへと激しく叩きつけられた。
「がは········っ!? ぁ········っ!!」
痛みに呻きながら、男が必死に視線を元の床へと戻す。
だが、そこにはもう黄金の髪の少女の姿はなかった。
代わりに残されていたのは、蜘蛛の巣状に激しく陥没し、白く粉砕されたコンクリートの床だけ。まるで巨大な鉄塊が上空から叩きつけられたかのような陥没痕が、その人智を超えた脚力による跳躍を物語っていた。
風圧によって生じた空気の渦が、冷たい観客席の間を虚しく吹き抜けていく。
少女は消えた。
いや。
ただの人間には知覚できないほどの圧倒的な運動速度によって、仙台の空へと弾け飛んだのだ。
◇◆◇◆◇◆◇
「「「「ッ!?」」」」
言葉にならない衝撃が、仙台結界の広場を埋める四人の強者達の思考を真っ白に染め上げた。
ずっと戦場を這い回っていた忌まわしき悪魔の羽音は、もうどこにも存在しない。
領域の崩壊に伴って再誕し、烏鷺亨子を貪り食おうと顎を開いていたはずの呪霊、黒沐死。
それが。
上空から流星の如く落下してきた小さな肢体によって、骨の一片すら残さず一瞬で圧殺された。
肉片が飛び散る暇さえ与えない、圧倒的な運動エネルギーの激突。
「────」
砂煙が壁のように立ち込めるクレーターの真ん中で、黄金の髪を持つ五歳ほどの少女は、ただ静かに佇んでいた。
動かない。
呼吸の音すら聞こえない。
周囲を包む濛々とした土煙の向こう側で、その小さな輪郭だけが不気味に静止している。
戦場にいる全員の視線が、針の先端を向けるようにして、その中央の幼い影へと一斉に注がれた。
指輪の顕現時間を残しながら術式を消失した、乙骨憂太。
頭髪から煙を上げながら闘争の飢えを抱える、石流龍。
絶体絶命の状況で間一髪助かった、烏鷺亨子。
そして。
領域に巻き込まれないように外側で戦況を見守っていた、フェイト・テスタロッサ・ハラオウン。
四人の思考が、激しい破壊の跡に残された静寂の中で交錯する。
これほど凄まじい一撃を放っておきながら、クレーターの中心に立つ少女からは、戦意も、敵意も、あるいは生命としての血の通った息遣いすら感じられない。まるで精巧に作られた人形が、そこに置かれているだけのような異様な静けさだった。
その沈黙を最初に破ったのは、眼前にその驚異を突きつけられた女の唖然とした声だった。
「こいつ、さっきの小娘········いや、違う、この呪力ッ!?」
烏鷺亨子は自身の両目に映る子供の姿を凝視しながら、内臓が裏返るような戦慄に襲われていた。
見た目、それはさっきまで自分と戦っていたあの中学生くらいの小娘に似ていたが、何かが違う。
あの未知なる術式を使うフェイトとか言う小娘と違い、いま目の前の幼い器から立ち上っている気配は、そんな常識を根底から覆すほど苛烈なものだった。
周囲の空間を何層も押し潰しながら膨張していく、桁外れの出力。
それは術師としての彼女の長い経験を遥か上を行く、異質なエネルギーの塊だった。乙骨にも匹敵するほどの呪力量、それを感じた途端に警戒心は今まで以上に引き上げられる。
子供の皮を被った、全く別の怪物がそこにいる。
烏鷺の直感は、その本質的な危険性を瞬時に察知し、額から冷たい汗を滴らせた。
「ほう········嬢ちゃんだったのか。あのSweeT過ぎる呪力の持ち主は」
少し離れた位置で呑気にタバコに火をつけて一服している石流龍が、自身の前髪を余裕を持って弄りながら、低く掠れた声を漏らした。
それは深夜、日が変わった瞬間くらいに突如として上空から降ってきた、あの並外れた波動。
そのあまりの甘美さと、常軌を逸した規模の大きさに、石流は戦闘狂としての本能が激しく脈打つ。
しかし。
歓喜に口元を歪めながらも、石流の鋭い視線の奥底には、滅多に表に出ることのない本質的な慄きが確かに混ざり合っていた。
どれほど自身の出力を高めようとも決して届かないかもしれない、底の割れない不気味な壁。それを目の前の小さな肢体に感じ取り、胸の奥で警告の鐘が鳴り響いていた。
「────え?」
思わずそんな情けない声が漏れた。
その場に居合わせた乙骨憂太は、突如として激闘のど真ん中に現れた女の子の姿に、思考を完全に停止させていた。
「········アリシア、ちゃん?」
掠れた、しかし切実な疑問の響きが彼の唇から零れ落ちる。
自分が安全な場所に隠してきたはずの少女が、何故これほどの暴力を全身に纏ってここに立っているのか。
その現実が、特級術師の頭脳を激しく混乱させていた。
そして。
その乙骨の呟きは。
少し離れた位置で緊迫した空気を吸っていた金髪の少女の鼓膜へと届く。
「················アリ、シア?」
フェイト・テスタロッサ・ハラオウンは、乙骨が発したその響きを聞いた瞬間、自身の耳を激しく疑った。
この歪んだ世界に足を踏み入れてから、乙骨が何度も口にし、必死に守ろうとしていた名前。
そして何より。
フェイト自身の短い生涯において、決して忘れることのできない、記憶の奥底に刻まれた名前。
「··········ッ!!???」
────あり得ない。
そんなはずがない。
戦慄に震える瞳で、フェイトは未だ立ち籠める土煙の向こうにいる少女の容姿を凝視する。
長い前髪の隙間から覗くその顔立ち、小柄な輪郭、黄金の髪の揺らめき。
それはまるで、鏡の中に映る自分自身の幼き日の姿を見ているかのようだった。
いや、厳密には違う。
顔の細部までははっきりと視認できないものの、その身体の特徴は間違いなくあの記憶の中にある人物そのもの。
かつて、『時の庭園』と呼ばれた広大な研究施設の奥深くで、崩壊していく世界の亀裂、虚数空間の闇の底へと静かに落ちていった、自分自身の原型。
死んだはずの────実の“姉”。
人工的な命として生まれた自分にとっては、超えることも触れることも叶わぬはずだった。
あの『オリジナル』の姿が。
今、目の前に存在している。
「ア────ッ!!」
その事実が頭の中で一つに繋がった瞬間、フェイトの精神は激しく揺さぶられた。
何故ここにいるのか、どうして生きているのかという至極当然な疑問を抱くよりも前に、彼女の胸の奥から抑えきれない感情が栓が外れたように溢れ出す。
「アリシ──────ッ!!」
名前を叫びながら、フェイトは考えるよりも先にその足を前へと踏み出そうとした。
自分があの時掴めなかった母と共に落ちていった実姉の元へ、ただ駆け寄ろうとした。
「待ってッ!!」
しかし、その動きは即座に遮られる。
あの瞬間、あの場所で手が届かなかったアリシアの元へ駆け寄ろうとした時、その少し前の方にいた乙骨憂太が鋭い声を放ちながら、自身の左手を横に伸ばしてフェイトの進路を妨害する。
「な、何を────ッ!!??」
なぜ止めるのか、フェイトには理解できない。
引き裂かれそうな表情で乙骨を睨みつけようとするが、乙骨の視線はフェイトを見ていなかった。
彼は静かに。
確認するように。
中央のアリシアを見つめている。
「········様子がおかしい」
「え?」
乙骨のその一言には、特級術師としての冷静な、だがどこか恐れを含んだ感情が込められていた。
目の前の少女から放たれているのは、通常の生命が持つエネルギーの循環ではない。
周囲の殺意を貪り食うように暴走する、制御を失った波動。
近付けばそれが誰であろうとも容赦なく噛み砕かれるという確信が、乙骨の防衛本能に警告を発していた。
「········コイツ」
その緊迫した視線の先で、烏鷺亨子は再び訪れた想定外の事態に思考を巡らせていた。
結果として、自分を窮地に追い込んだ黒沐死という脅威を取り除いてくれたことには一抹の感謝を覚えないでもない。
だがここは戦場。
それに目の前の小娘も自分を助けようとして黒沐死を殺したわけではない。たまたま降り立った地点に黒沐死がおり、つまりはルール上のハプニング、無視していい事態であった。
そもそも彼女の性格上、こんな小娘に救われたこと自体が恥である。
だから邪魔でしかない。
むしろ殺意を覚えるほどであった。
「で? 何? 私はどうリアクションすればいいのかしら? お礼とかなら言わないわよ、別に助けてもらわなくてもなんとかなったんだからね」
「········」
「返事くらいしろよ、これだからガキは────」
その言葉の結びを、少女は待たなかった。
俯いたまま、アリシアは。
轟!! と。
烏鷺亨子が言い切るよりも早く、眼前の景色が不自然に静止し、そして爆発的に歪んだ。
予備動作など一切ない。
空気を切り裂く風圧はおろか、事象の予兆たるエネルギーの揺らぎすら置き去りにした、文字通りの消失。
(消え────ッ!?)
暗殺部隊を率いた女の直感が背筋に強烈な警鐘を鳴らした時には、すでに全てが遅かった。
知覚の枠組みを根底から踏み潰すほどの超絶的な前進。
呪力を膨張させるためのタメも、地面を爆ぜさせるための予備動作すら一切存在しなかった。ただ視界の端が歪んだと思った次の瞬間には、アリシアの姿が虚空に消える。
次の瞬間。
烏鷺の視界を埋め尽くしたのは、
そして。
目と鼻の先まで肉薄した幼い子供の小さな拳は、烏鷺亨子の懐へと滑り込んでいた。
「な、ん─────ッ!!!!????」
烏鷺の脳裏に、千年の戦いの中で培ってきた生存本能が激しい警鐘を鳴らす。
しかし。
本能が危険を認識し、肉体へ回避の命令を伝達する速度よりも、黄金の髪の少女が左の拳を突き出す速度の方が遥かに速かった。
本来であれば、彼女に近付くあらゆるものは闘牛士が赤い布で猛牛の突進をあしらうように、空間を歪めて変形させる術式によって布切れのように受け流されるはずだった。
だが。
三人による領域の同時展開と、それに伴う結界の強制解除が齎した脳への過負荷は、彼女からその最強の防壁を一時的に使用不可の状態へと陥らせている。
術式が焼き切れ、機能停止となっている今。
彼女を守るものは己自身の肉体と、そこに練り上げる呪力のエネルギーの防壁だけだった。
「しまっ─────」
烏鷺は死に物狂いで、残された左腕を前へと突き出した。
盾がないのであれば、体そのもので受ける他ない。
極限の焦燥の中で、体内のあらゆるエネルギーを左の拳へと凝縮させ、迫り来る小さな一撃を強引に弾き飛ばそうと試みる。
しかし。
その防衛行動すら、アリシアの纏う異次元のシステムの前には無意味な抵抗に過ぎなかった。
拳と拳が衝突する、まさにその衝突の瞬間。
ドクン!!
周囲にいる乙骨達でさえも確かに聞いた、
そして。
本来ならば肉体とエネルギーがぶつかり合う際に生じる、僅かな物理的な時間差。
それを。
誤差◯・◯◯◯◯◯一秒以内。
狙って引き起こすことなど神の御業を以てしても不可能な、極限の同時衝突。
その狂った確率の針の穴を、
バチィッッッ!!!!!
鼓膜を容赦なく破壊するような激しい炸裂音が広場を震わせ、世界の色彩が反転する。
生々しい漆黒の火花が、空間そのものを内側へと圧壊させながら縦横に爆ぜた。
“
打撃との誤差が極小の範囲に収まった時にだけ放たれる、空間の断裂。
「が、は········ッ!?」
烏鷺の口から、肺の空気を全て搾り取られたような悲鳴が漏れる。
術式が使用不可になり、咄嗟に呪力で極限まで強化していたはずの左腕が、その黒い閃光が触れた瞬間に、まるで割れやすい陶器のように呆気なく砕け散った。
エネルギーの防壁ごと肉を引き裂き、骨の髄までを衝撃波が粉砕していく。
(一体────何が起きた!?)
烏鷺の脳内は、千年の経験則が一切通用しない目の前の現象に対して、ただただ真っ白に硬直するしかなかった。
その圧倒的な蹂躙劇を、少し離れた位置から目撃していた石流龍の眼光が、かつてない鋭さでぎらりと輝いた。
「おいおいおい········冗談だろ········ッ!!」
煙の上がる頭髪を乱暴に掻きむしるその指先が、興奮と、そして本能的な戦慄によって微かに震えている。
術式が焼き切れ、特級術師である乙骨でさえも能力を一◯◯パーセントの出力で出せないこの状況。
その中で。
目の前の幼い少女、狙い澄ましたかのような一撃。
「SweeTにも程があるぜ······なんつう嬢ちゃんだまったくッ!!」
石流でさえも思わずそう言ってしまうほどの事態。
少女が出したとは思えない威力に、思わず咥えていたタバコを地面に落としてしまう。
(今の··········黒閃!? アリシアちゃんが!? そんなまさか··········ッ!!!??)
そして。
乙骨憂太もまた、その光景に目を疑っていた。
指輪を通じて繋がる式神の完全顕現には、五分という明確な時間制限がある。
その貴重な時間が、この理解を超えた乱入者によって、一分一秒と消費されていく。
「今の········
その硬直した空気の中。
フェイト・テスタロッサ・ハラオウンだけが、魂の芯を直接射抜かれたかのような強烈な違和感に突き動かされていた。
アリシアが烏鷺へと叩きつけた一撃。
そこから放たれ、
少女の胸の辺り、彼女達の世界で魔導師達が持つ『リンカーコア』と呼ばれるものが宿るその場所に。
それは、彼女がまだ小学校三年生という幼い年齢だった頃。
高町なのはという少女と幾度も死闘を繰り広げ、狂い果てていった母親の笑顔をもう一度取り戻すためだけに、己の命を削りながら必死にかき集めていた、あの『古代遺物』の波動。
そう。
それは。
周囲の人間や動物が、心の奥底で抱いている強い願いや欲望、執着を勝手に読み取り、それをエネルギー源にして現実化させる災いの引き金。
本人が口に出していない無意識の願望や、焦り、恐怖なども対象となる。
持ち主の心の深くにある誰にも言えないような祈りや、精神の歪みに呼応して、制限なく膨張を続ける魔法の結晶。
ひとたび暴走を始めれば、周囲の物理法則を強引に捻じ曲げ、平穏な環境を歪な地獄へと作り変えてしまう。
ある時は植物を巨大な怪獣の如き異形へと変異させ、ある時は自然現象そのものに擬似的な意志を与えて海に嵐を巻き起こすこともできる、制御不能な力の暴走。
時空の境界を消滅させ、世界の安定そのものを引き裂きかねない。
あの忌まわしき────『
「“
◇◆◇◆◇◆◇
アリシアの術式。
それは一言では言い表せず、だが強いて言うなら────『願いの具現』と『干渉』である。
周囲に転がる人々の執着や恐れ、つまりは『負の感情』を燃料にして、ありもしない事象を力技で現実へと引き摺り出す。
それだけなら、少し質の悪い術式に過ぎない。
だが。
この術式の異常さは、その都合の良い願望を時間と空間の法則へ無理やり叩き込む『干渉』の精度にある。
本来、どれほど腕の立つ術師であっても、打撃の衝突と呪力エネルギーの爆発には防ぎようのない微細な時間のズレが生じるものだ。空気抵抗、気温、湿度なども関わるため、狙って出せないのだ。
謂わば確率、運次第。
それを、彼女の胸に埋まった『呪物』は、激突の瞬間を誤差◯・◯◯◯◯◯一秒以内という狂った極小の範囲へ強制的に合致させる。
解釈次第でいくらでも可能性を広げられる、未知の領域。
とはいえ。
彼女の術式は────
具体的なイメージ、より術式の理解を深めれば、さらなる効果も期待できる。
だがまだ未完成、完璧の段階に至っていない今ですら、その副産物として周囲の次元を強引に歪め、理不尽に“黒閃”を生み出してみせる。
単に負の感情、『消えろ、殺す』という願いを込めるだけで次元を歪ませ、確定で出せるのだ。
それだけに留まらず、その『干渉』の牙は対峙する相手の術式そのものにまで深く食い込み、体内のエネルギーの循環すら内側から狂わせ、強制的に暴走へ至らしめる。
狙って出せるわけのない黒い火花を、ただの『願いの具現』だけで全て引き起こす。
確率の壁を暴力でへし折るチートバグ。
さらに。
一度目の死による────
フィジカルギフテッドの領域へと到達したアリシアは限界を超えた速度で間合いを詰め、そして物理の法則を歪め、放つ拳の全てを“黒閃”へと昇華させた。
非術師達の悲鳴。
この結界内に漂う負の感情。
結果────
乙骨やフェイト達の戦慄に満ちたその呟きだけを置き去りにして、仙台結界の舞台は。
さらなる混沌の渦へと引き摺り込まれていく。