どの泳者の領域よりも因果の回転が早く、戦況の推移が極限にまで達している仙台結界。
かつて『杜の都』と称えられ、四季の移ろいと共に青葉を茂らせていたその地はいまや生存を賭けた殺戮の檻へと成り果てていた。
市街地を構成する花崗岩の石畳、焼き固められた煉瓦の壁、近代都市の象徴たるコンクリートの構造物やアスファルトの路面。
それら人工物の隙間を縫うように数世代にわたって住民が慈しみ、手入れを絶やさずに育んできた豊かな屋敷林の樹々。
その仙台が誇るべき美麗な緑の遺産は、いまや現世に取り残された人々の生への執着、死への恐怖といった人間のエゴから生じる『負のエネルギー』の充満によって悉く汚染され、あの東京の渋谷で起きた惨劇と同じく、妖異の蠢く暗黒の迷宮へと変貌していた。
あちこちですでに原形を留めぬほどに粉砕されていた街区の残骸から、さらに『ガガガガガ!!』という硬質な物体同士が超高圧で擦れ合う不穏な重低音が鳴り響く。
この座標の崩壊劇を観測している生存者達は、そこで生じている現象の本質を本能で理解しながらも迫り来る終焉の予感に震え、精神を限界まで消耗させることしか許されない。
その防衛本能が奏でる激しい拒絶の悲鳴。
その周囲の人間が垂れ流す絶望を忠実に受信し、現実に事象として処理するための精密な中継端末として機能するが故に。
“黒閃”を確定で打ち出す少女────アリシア・テスタロッサは自身の理性を完全に消失させ、操り人形の如き殺戮兵器と化している。
この『呪いの執行人』とも言うべき理不尽な防衛兵器を戦場へと引き摺り出した“黒幕”の思惑など、この状況に取り残された非術師達には知る由もない。彼らはスタジアムの冷たいコンクリートの隅で、ただ己の無力さに蓋をするように膝を抱え、外の世界から響く破壊の足音に耳を塞いでいる。
突如として鼓膜を震わせたのは、近代的な戦術兵器の炸裂でしか聞き得ない凄まじい衝撃音。そこに、何かが大気をミリ単位で断裂させながら激しく往復する、『ヒュンヒュン!!』という鋭利な風切り音が不気味に混ざり合う。
それは呪術師達が手にする一般的な呪具、あるいは刀剣の類とは明らかに異なる数理的な記号と精密な機構によって構成された、『魔導科学』の結晶。
異世界の住人が『魔法』の出力を指向性のエネルギーへと変換するために携えるそのデバイスの刃が、無言のまま虚空を切り裂いていた。
「────」
「お願いアリシア!! 目を覚まして!!」
二人が繰り広げるのは、常人の視覚を遥かに超越した超高速の戦闘。
フェイトは魔力を纏わせた高速移動のための補助魔法で空を翔け。
アリシアは純粋な身体能力で、限界を超えた速度を生み出していた。
フェイトは愛機のバルディッシュを変形させ、黄金の魔力刃で応戦し、しかし見た目とは裏腹にその武器には『殺傷能力』は付与されていない。
デバイスの先端部から放射される光の粒子は構造物を分子レベルで切断する出力を備えながらも、その刃にはただ対象を『無力化』し『保護』することだけに特化した効果だけが与えられている。
相手の命を奪うためではなく、その身を縛る因果の糸を断ち切るための非殺傷設定。
しかし。
そんな甘っちょろい魔導の理論が、この殺伐とした呪術の法則において通用しないことを彼女自身が何よりも理解しているはず。救いたいという純粋な祈りが込められた力は、不浄な怨念と衝突した瞬間にエネルギーの波形ごと強制的に歪められてしまう。
つまり。
その哀切に満ちた懇願は虚空に漂う煤煙の粒子を震わせるに留まり、フェイトに瓜二つなアリシアの鼓膜を経由して脳幹へと到達した瞬間に、単なる『排除すべき外敵の音波振動』として機械的に処理されるに過ぎない。
彼女の胸元に深く埋め込まれた失われた超常の遺産『ジュエルシード』は、スタジアムの非術師達が排出し続ける生への執着、死への畏怖というエネルギーを中継し、少女の肉体を強制的に動かすための無尽蔵の機関として稼働する力を強めていく。
「───」
「アリシア········!?」
フェイトの声帯が放った音韻を感知した瞬間、アリシアの強膜に走る光の罅割れはさらにその深度を増し、神経細胞のネットワークを侵食する過剰な干渉波形が青白い放電となって頬の皮膚を異質に装飾した。
フェイトは何度もアリシアの名を呼んで正気を取り戻させようとするが、それは無理な話である。
考えてもみてほしい。
アリシアはそもそも記憶喪失以前に───
“母”の歪んだ愛情の果てに、死したオリジナルを補完すべく生み出された複製体。
技術の檻の中で、失われた『姉』の記憶や姿形をそのまま写し取られて育った妹。
それに対し。
オリジナルである本物のアリシアの記憶には、当然ながら後発の存在であるはずの複製体の姿など最初から一つも刻まれてはいない。姉のアリシアが死んでしまったあの時も、まだその世界にはフェイトという人工の命は誕生すらしていなかったのだ。
知る前に亡くなり、そして記憶まで失ったアリシアに、誰かも分からないフェイトの声など届くはずもない。
「アリシア········“
名前を呼び続ける妹の言葉は、もはやただの雑音に過ぎない。
その叫びは悲しき一方通行であり、戦闘人形の防衛システムを僅かに刺激するだけの不快な音響シグナルとして虚空へ空しく四散していく。
「え········?」
その時。
フェイトの素性を知らず、だが姿が似ている以上アリシアとは何か関係があるんじゃないかと思っていた乙骨は、今彼女が放った言葉に猛烈な違和感を覚えていた。
“
彼女は今確かにそう言った。
それは二人を繋ぐ真実を決定づける────“血縁の響き”。
保護した少女の背後に付きまとう、出生の謎。
そして今一緒に戦ってる少女の素性が、その一言によって瞬時に展開を歪め、少年の脳内で荒れ狂うように演算を開始する。
もし。
今の発言が本当なら。
もしかしたら彼女は───
「········ッ!?」
しかし。
その疑問の全容を紐解くための余裕など、この場の主導権を握る殺戮兵器が与えてくれるはずもなかった。
「───」
意思なき器は、言葉を介さぬまま大地を踏みしめる。
脳のリミッターを破壊され、フィジカルギフテッドの極致へと至ったその四肢には重力という縛りすら作用しないに等しい。
少女の足元がアスファルトの構造を分子レベルで圧縮させ、反作用のエネルギーを一点の分散もなく推進力へと変換する。
肉体が許容し得る最大負荷のセーフティが消失した結果、彼女の運動能力は人が保っていられるはずの慣性を無効化し、不規則な機動の軌跡を描き出していた。
「ッ!?」
フェイトには何が起きたのか理解できなかったろう。
目の前にいたアリシアが、いきなり消えたのだ。
その不気味な消失は、空間の座標移動を認識する視覚の限界速度を遙かに超越していた。
フェイトの視界が捉えていた空間の光彩は次の瞬間に見失い、知覚可能な残像すら残さず自分と瓜二つな操り人形の突撃が開始される。
バチィッッッ!!!!!
鼓膜の機能を一時的に麻痺させるほどの破裂音と共に、大気の内側へと圧壊する生々しい漆黒の火花が四方へと激しく爆ぜた。
打撃の瞬間に生じる微細なエネルギーのズレを、胸元の遺物が誤差◯・◯◯◯◯◯一秒の範囲へ強制的に合致させることで発生する、確率を無視した黒い閃光。
その超常の威力を付与されたアリシアの左の拳が、防衛の間に合わぬフェイトの胸元へと肉薄する。
はずだった。
『お前ぇええぇえェえええッッッ!!!!』
だが。
その必殺技が当たる直前で、さっきの仕返しとばかりに特級術師が使役する『特級呪霊』が強引に割り込んだ。
「リカ!! そのまま抑えるんだ!!」
少年の鋭い命令が空間を切り裂く。
領域展開の反動で術式が焦げ付き、未だ頭の奥で熱が引かぬ最悪の状況下。
それでも、乙骨憂太はリカの巨体がアリシアの確定する黒閃を真っ向から受け止めるその瞬間の衝撃をきちんと認識していた。
『憂太あああああああッッッ!!!!』
主の叫びに応じるように名を叫ぶ異形は前哨戦で受けた顔面の損傷を未だ引き摺りながらも、その両腕に有り余る呪力を上乗せし、アリシアの小さな肉体を四方から力任せに抱きつくように締め上げる。
「ねぇ!!」
「!?」
突然、乙骨はアリシアと姿が似ている少女へと声をかける。
彼は何か考えがあるような目をしており、だがどこか賭けに出るような確信を持てていないような顔をしている。
いかに特級の怨霊が有り余る呪力で押さえ込もうとも、少女の次元を無視した出力を前に、この拘束が数十秒ともたないことを彼は正確に察知していた。
しかし、アリシアを止めるにはもうこれしか方法がない。
(もしこの子が·······
さっきの彼女の発言。
どう考えても辻褄が合わないが、彼女がアリシアのことを『お姉ちゃん』と呼んだ以上、可能性はある。
後輩である虎杖達から聞いていた、“一つの仮説”。
もし今この脳内で導き出した可能性が真実ならば、彼らの憶測は根底から覆ることになる。
だが、乙骨にはどうしても、この少女がアリシアと無関係だとは思えなかった。
────ならば迷う余地はない。
外付けの術式の限界、手の内を制限された現状で、暴走するアリシアを確実に停止させるための唯一の手段。
乙骨は、未だ名も知らぬ隣の少女へ向けて鋭く言い放つ。
「───!!」
「!?」
それはまさしくリスクの高い賭けだった。
少年の唇が紡ぎ出した具体的な作戦は、アリシアとリカが撒き散らす破壊音にかき消される。満身創痍で地に伏せる石流をはじめ、この戦況を注視する観測者の誰一人として、その声を拾うことはできない。
ただ。
少年の意図を受信した金髪の少女の表情が、驚愕、そしてそれを塗り潰すほどの痛烈な決意へと激変した。
それだけが、二人の間に交わされた沈黙の合意を証明していた。
乙骨の視線は勝算なき大博打に身を投じる者のそれでありながら、隣に立つ彼女が携える異能、その出力を心の底から信じ切っている。
少女はその小さな肩を鋭く震わせながら、自身の中にある魔力の核に向けて無言のリンクを要請した。
二つの意思がこの絶望的な状況下で結託した、まさにその直後。
アリシアの可動限界を超越した腕力が内側から炸裂した。
◇◆◇◆◇◆◇
「───」
リカに捕まったまま動けなくされたものの、骨格の可動限界を超越した出力を誇る殺戮人形は、その巨大な把持力に屈することはなかった。
アリシアは全身に流れる黒い呪力を漲らせ、リカの拘束の掌の隙間へと自身の両腕を強引に割り込ませる。少女とは思えない限界を超えた出力によって、特級の拘束を力任せに左右へと弾き飛ばして脱出した。
自由の身となった呪物の器はアスファルトの残骸を蹴り、再びその拳へ破滅的な負のエネルギーを宿そうとする。
空間の歪みを強制調和させ、あの黒い閃光をもう一度ゼロ距離から叩き込もうという機動。
だが。
『うぁあああああああッッッ!!!!』
乙骨憂太という特級術師が誇る特級過呪怨霊の式神もまた、同じ蹂躙を二度許すほど脆弱な存在ではなかった。
アリシアの突き出す拳が最高速度に達する一瞬手前、リカの巨大な手のひらが弾道の先へと滑り込み、真っ向から受け止めることでその凄まじい推進力を強引に殺しきった。
位置エネルギーの衝突が激しい爆風を巻き起こした、まさにその直後であった。
ドガガガガガガガガッッッ!!!!!
視覚による認識が追いつかぬほどの超高頻度な衝突音の連鎖が結界内を震撼させた。
拘束を阻まれたアリシアのもう片方の拳がリカの顔面へと目にも止まらぬ速さで突き出され、それに応戦するようにリカの拳もまた異次元の弾道を描いて繰り出される。
それは一撃ごとに空間が歪み、位相の摩擦によって大気が白く割れるほどの神速の打撃応酬。
アリシアが放つ、残像すら置き去りにした超速の拳の乱射。
それに対し、リカの強靭な腕が寸分の狂いもなく的確に正面から力任せにその衝撃波の芯を相殺し続ける。
右から左へ、斜め上方から懐へ。
互いの拳が至近距離で複雑に絡み合い、火花を散らすたびに周囲のアスファルトやビルの壁面が蜂の巣の如く粉砕され、塵土へと融解していく。生物としての限界出力を嘲笑うかのような、両者のエゴと執念による空間を蹂躙する打撃の暴風雨。
そして。
拳と拳が超高速で繰り出されてぶつかり合う、その圧倒的な残響。
その空間の摩擦熱は周囲の大気を一瞬で沸騰させ、景色そのものを不気味に歪ませていた。アリシアの細い両腕が描く打撃の軌道はもはや人の識別能力を破却している。一撃が放たれるごとに空間の結合が引き裂かれるような鈍い爆音が炸裂し、リカの強靭な前腕の表面を削り飛ばしていく。
だが。
特級過呪怨霊たるリカもまた、その身体構造を維持するための負のエネルギーを臨界点以上に循環させていた。
アリシアの繰り出す拳撃を巨大な左の掌を以て正面から相殺し、その反動のエネルギーが弾けるよりも早く、自身の右の拳をアリシアの頭部へと叩きつける。
ドゴォッッッ!!!!!
地表から数十メートル先に位置する半壊したオフィスの壁面に、アリシアの小さな肉体が弾丸の如き速度で叩き込まれた。コンクリートの壁が砕け散り、夥しい塵土が周囲を覆い尽くす。
しかし、その粉塵の幕が周囲へと拡散するよりも早く、散らばった破片を足場にして空間を直角に踏み荒らす影があった。
脳のセーフティを消失したアリシアは、自身の背骨や関節が悲鳴をあげるような制動すら一切挟むことなく、垂直の壁面を重力の法則を忘れた機動で駆け上がる。
「───」
言葉を忘れた器から放たれるのは、ただ対象の生命活動を停止させるための機械的な思考エネルギーのみ。
アリシアは壁面を蹴り、リカの巨体へ向けてきりもみ回転を加えながらの急降下を仕掛けた。その拳には例の如く大気の内側へと圧壊する生々しい漆黒の放電が蛇のようにまとわりついている。
それに対し。
リカは地を力任せに踏み荒らし、迫り来る暗黒の弾頭を迎え撃つべく両腕を天へと突き上げた。
激突の瞬間。
ドッゴォッッッ!!!!!
仙台結界の一角に落雷を至近距離で浴びたかのような爆音が幾重にも広がっていく。
アリシアの拳がリカの交差させた両腕の皮膚を肉眼で視認できるレベルで融解させ、呪力の残滓を火花として周囲に撒き散らす。
マイナス同士の力の均衡が崩れた瞬間、今度はリカがその圧倒的な膂力を以てアリシアの細い脚を強引に掴み取ろうと指先を動かした。
しかしアリシアの中で怪しく明滅する『呪物』は、その巨大な腕による捕縛をあらかじめ予見していたかのように、彼女の肉体の運動ベクトルをミリ単位で変更させる。アリシアはリカの指先が自身の足首に触れるその寸前、空中で不自然に身体をねじ曲げ、その巨躯の肩口を足場にするようにして転がり、位置を入れ替えた。
流れるような、骨格構造を利用しての死角への侵入。
アリシアの小さな拳が、リカの無防備な項へと向けて目にも止まらぬ速さでクリティカルヒットを打ち出す。
バチィッッッ!!!!!
空間の歪みが強制調和を起こし、あの黒い閃光がリカの首筋へと容赦なく炸裂した。
特級の怨霊といえど、その直撃は呪力の核を揺るがすほどの破壊力を持つ。
リカの身体から大気を激しく震わせる悲鳴が漏れ、その輪郭が陽炎のように細かく千切れかける。その巨体が衝撃の反作用によって大地へと引き摺り下ろされ、何十枚もの舗装道路を捲り上げながら後方へと押し流されていった。
『いだいぃぃいいいィいいいッッッ!!!!』
怒りと苦痛が入り混じったリカの絶叫が木霊する。
その損傷を負った頭部から負のエネルギーが間欠泉のように噴出し、周囲の瓦礫をさらに細切れに粉砕していく。
アリシアはその破壊の余波を、空中に浮かぶコンクリートの破片を最小の運動で跳び移ることで完全に回避し、再び着地の瞬間の死角を狙ってその細い身体を限界まで引き絞っていた。
互いに一歩も引かぬ、破壊と再生の無限の交錯。
特級の怪異といえど、世界の法則が定めた絶対的な時間の制約から逃れることはできない。
乙骨憂太の指に嵌められた指輪を通じて繋がっていた、リカの外付けの術式としての“顕現時間”。
その終わりを告げる見えない歯車がこの極限の打撃応酬の最中、無慈悲にも最期の噛み合わせを迎えていた。
アリシアの繰り出す一際巨大な黒い火花を纏う左拳が、リカを貫かんと突進してくる。リカはその一撃を、先程のように加速し切る前に正面から手のひらで受け止めようと、自身の腕を前方へと突き出した。
が。
『ッ!!!!』
ガクッ、と。
リカから、これまで支え続けていた圧倒的な呪力の密度が一瞬にして枯渇していく。
外付けの顕現時間の終焉によって、エネルギーの供給が強制的に遮断され始めたのだ。指先の硬度が失われ、相殺していた力が霧が晴れるように薄れていった。
「───」
アリシアの拳が最高速度へと達する。
リカの腕はその突進力を押し留める術を持たず、ただその理不尽な威力に押し切られる他なかった。
だが。
顕現の終わり、己の消滅の瞬間を悟った特級過呪怨霊の知性は、最期の瞬間まで主の勝利のための道を構築することだけにその演算の全てを捧げていた。
消えゆく肉体の残滓を強引に前進させ、アリシアの放つ黒い閃光の軌道を自らの胴体全てを以て受け止める。アリシアの放つ漆黒の呪力と青白い放電が同時に激突し、世界の色の反転を伴う衝撃波がリカの身体を分子レベルで爆砕していく。
その寸前。
特級呪霊は自身の残された腕の全てを、アリシアの視界を遮断するための『肉の壁』として広げ。
その背後に位置する“最愛の少年”へと、全てを託す咆哮をあげた。
『憂太あああああああッッッ!!!!』
まるで『今だ!! やれ!!』と。
その道を繋いだ己の死に様を証明するかのような、魂の叫び。
「はぁッ!!」
その退場の瞬間。
リカの身体が塵となって空間から引き下げられたその奥から、アリシアの瞳は次なる標的。
◇◆◇◆◇◆◇
「───」
意思なき器はリカの消滅による空間の空白を認識したと同時に、標的との距離を一気にゼロへと縮めるほどの超速の踏み込みを以て乙骨へと襲いかかる。
その細い拳には空間の歪みを強制調和させたあの黒い閃光が再び宿ろうとしていた。
対象を確実に抹殺するための、容赦のない最速の突撃。
「·······ッ!!」
だが。
乙骨もまた、リカが最期に命を賭して作り出したその時間差を、決して無駄にしないようにと鋭い眼光を宿していた。
領域展開直後の脳の過負荷はすでに回復しており、焼き切れた彼の生得術式は本来の輝きを取り戻している。
それによって内面を満たす圧倒的な呪力の巡りが、彼の判断速度をさらに一段階上の領域へと押し上げていた。乙骨は両腕へ残された全呪力を集中させ、肉体の表面へ何重もの高密度な防壁を練り上げることで、アリシアの拳へと真っ向から応戦した。
バッチィイイイイッッッ!!!!!
至近距離で激突する全呪力の装甲と黒い稲妻。
アリシアの人体の枠組みを無視した一撃が、乙骨の肉体を切り刻まんと殺到する。
乙骨は自身の両手を最小の動作で動かし、一撃一撃の破壊的なエネルギーを受け流す盾と化しながら自身の身体の軸をずらしていく。
刀剣の類を一切持たぬ素手の状態でありながら、フィジカルギフテッド並みの力を持つ異常な怪力が呪力の壁を透過して腕へと逆流し筋肉や組織を内側から破砕していくが、彼の生体修復回路は機能を停止することなく即座に稼働し、細胞の結合を維持し続けた。
火花を散らす熾烈な攻防の応酬。
互いの身体が超至近距離で複雑に絡み合い、軋む空間が火花を散らして臨界を迎えていく。
アリシアの一際巨大な放電と負の感情を秘めた左拳が、乙骨の頭部を狙って突き出された。
黒い火花が咲く。
まさに────その瞬間。
(────今だ!!)
乙骨は自身の首を極限まで横へと傾けてその必殺の軌道を回避し、空いた右手でアリシアの腕の関節を外側から強引に掴み取った。
体勢の流れたアリシアの、完璧な死角。
乙骨はそのままアリシアの背後へと滑るように回り込み、その小さな身体を逃がさぬよう後ろから強引に羽交締めにし、その暴れ回る身体の自由を完全に拘束した。
「────!?」
自身の限界を超えた異常な反発力が、乙骨の骨格を破壊せんと内側から激しく暴れる。
みし、みしと。
「ぐ·······ッ!!」
骨の軋む音が少年の肉体から響くが、彼はその衝撃を生身で耐え忍び、さらに締め上げる力を強めた。
全ては作戦通りにするための命懸けの抑え込み。
その薄氷を踏むような緊迫感の中、完全に回復を遂げた術式の稼働に伴い、乙骨の口元には自らの意志を以て写し取った、あの『呪いの印』が浮かび上がっていた。
狗巻家の家系にのみ伝わる、言葉に呪力を付与するための生得の紋様、“蛇ノ目と牙”。
少女の暴走を自らの力で全部受け止め、その耳元へと、喉が裂けるほどの呪力を込めた一言を、乙骨は執念と共に囁き続けた。
「────“動くな”────」
◇◆◇◆◇◆◇
「────!?」
その一言は言霊の縛りに基づいた絶対的な鎖となり、アリシアの肉体組織を空間の座標ごと物理的に凍結させた。
人間の防衛本能から生じる膨大な負のエネルギーに反応し、どれほど細胞が暴れ狂おうとも、特級術師が本来の力を取り戻した生得術式によって紡ぎ出す呪言の強制力は、その肉体の自由を奪い取る。
だがいつまでも持つわけではない。
アリシアの術式の影響は────
彼女の胸元に埋め込まれている呪物は、単なる負の力の中継器ではない。
失われた超常の遺産である『ジュエルシード』に由来し、人間の意志や『願い』そのものを具現化する異質の因果律。その未知の演算機構は今この瞬間も自分を縛り付けている音韻の構造を内側から解き明かそうと、バリバリという青白い火花を散らして防衛網を侵食し始めていた。
もしも。
この呪言の法則そのものを『呪物』に解析され、無効化されれば、ここまでの全てが無に帰す。
「──ッ、が·······ッ!!」
羽交締めにする少年の腕の中で、アリシアの身体が不気味に脈動を開始した。
拘束されていたはずの指先が、言霊の鎖を内側からへし折るようにしてジリジリと前方へ突き出される。
「·······ッ!! アリシア·······ちゃんッ!!」
乙骨は限界を迎えた喉の奥からせり上がる鮮血の味を噛み殺し、さらに両腕の締め付けを強めながら、少女の耳元へ向けてもう一度言葉を叩き込んだ。
「────“止まれ”────!!」
呪言が空間を伝ってアリシアの鼓膜を震わせる。
しかし。
二度目の制止の効き目は、驚くほどに薄かった。
いや、そもそも乙骨自身の術式そのものが減退している。リカとの接続が切れ、あらかじめ口元へ写し取っていた“蛇ノ目と牙”の紋様を維持しているに過ぎず、その呪言の効力は急速に失われつつあった。
そしてアリシアから放たれる青白い放電はさらにその輝きを増し、呪言による空間の固定を力任せに融解させていく。人体の枠組みを破壊した圧倒的な剛力が乙骨の肋骨を外側から圧迫し、少年の肉体から骨に罅が入るような不穏な音が漏れ出した。
もう時間がない。
『呪物』の解析速度が、呪術の出力を完全に上回りつつある。
(絶対に、躊躇わないで·······思いっきり、当てるんだ·······ッ!!)
そう思いながら乙骨は限界を超えた過負荷によって血の混じった咳を吐き出し、そしてその意志を告げるように上空の死角で待機している金髪の少女へと鋭い眼光を向けた。
この作戦を成功させるための、声なき視線の要請。
「·······ッ!!」
その少年の命懸けの視線を受け止めた金髪の少女、フェイトは最愛の姉を縛る因果の糸を断ち切るため、そして目の前で自らが決死の覚悟で拘束具となって道を繋いでくれた少年の信頼に応えるために、彼女は強い意思を篭めて愛機を天へと掲げた。
「行くよ·······バルディッシュ!!」
『Yes sir』
インテリジェントデバイスの電子音声が空に響き渡ると同時に、愛機が変形していく。
黄金の魔力刃はこれまでの状態を遥かに凌駕する巨大な大剣へと形を拡大され、周囲の大気に含まれる呪力の残滓すらも、その術式展開のエネルギー源として強引に吸引・変換し始めた。
バリバリバリと。
その彼女の魔力に呼応するように、空は黒く曇り、雷鳴が轟く。
昼下がりの仙台を包み込んでいた昼の太陽光は突如として湧き起こった魔導の乱気流によって遮断され、急速に立ち込めた暗雲が周囲の位相を緊迫へと塗り替えていく。
変形を完了した大剣の周囲には稲妻が走り、結界内を黄金の輝きで満たしていた。
バルディッシュからは急激な高負荷に伴う『出力臨界、システム過熱』の警告コードを激しく告げている。一歩間違えれば、エネルギーの反発によって自身が消滅しかねない最悪の反動。
だが、フェイトの瞳に宿るのは、もう迷いでも恐怖でもなかった。
実の姉を救うため、そしてその盾となって文字通り身を挺してくれている少年の信頼に応えるための、痛烈な覚悟。
「雷光、一閃·········プラズマザンバァァァアアア────ッ!!」
フェイトが掲げた大剣の先端へ、結界内の全魔力と雷撃のエネルギーが一点の分散もなく収束していく。
その圧倒的な光の指向性は、アリシアを包む呪術世界のドス黒い怨念を、数理的な術式計算によって外側からミリ単位で分解、消滅させていく。
絶対にその照準を外させないという、乙骨の強靭な執念。
(今助けるからね·······お姉ちゃん!!)
少女の悲壮な決意の叫びが、崩壊した杜の都の一角へと響き渡る。
「ブレイカァァァアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!」
その咆哮と共に、フェイトは巨大な雷光の刃を真下へと向けて一気に振り下ろした。
空間を真っ二つに引き裂くほどの莫大な砲撃と斬撃の複合エネルギーが、乙骨ごと呑み込む。
大気を割りながら放たれた巨大な雷撃は、アリシアを必死に縛り付ける乙骨の頭上へと一直線に突き刺さり、その座標の全てを『金色』の光で満たし尽くした。
◇◆◇◆◇◆◇
外界の音も、自らを呪縛していた非術師達の怨嗟の波動も。
全てがその光によって均一に融解していく。
理性を奪われ、自動機構の操り人形と化していた彼女の意識の底で。
その眩い光は───
『何·······?』
失っていた思考の地平に、不連続なノイズのように滑り込んでくる光景。
それは、いま目の前で激突している魔導の出力が描く輝きとは全く異なる。
『あの光·······!?』
周囲の酸素を一瞬で凶悪な光と熱へと変換し、幼い気道を焼き焦がしていく圧倒的な苦悶。
呼吸を許さず、肺の機能を内側から破壊させられたあの時の、凄まじい窒息の苦しみ。
記憶の底の少女はバルコニーの欄干の前に佇み、“謎の山猫”をその小さな両腕で必死に抱きしめながら、迫り来るその光の熱量にただ身を震わせることしかできなかった。
いつの記憶なのか、誰の記憶なのか、今の彼女にはわからない。
けれど。
胸を焼き焦がすその苦悶は、決して他人事などと言えるものではなかった。
脳ではなく、彼女の魂そのものが『これは私だ』と、涙を流すように激しく拒絶反応を起こしている。
そう。
記憶ではなく───魂に刻まれた“苦しみ”。
(私は────誰?)
覚えているはずのない、けれど確かに見覚えのあるその最期の光景に、アリシアの自我は思わず激しく揺らぐ。
だが、迫り来る光はその隙すらも一切許さなかった。
彼女の困惑も、魂の震えも、全てを等しく置き去りにしたまま。
その日。
金色の光が。
彼女の全てを飲み込んだ。