フッ、という小さな笑い声があった。
そこは、無の空間。
たとえ異世界を渡る技術があっても、それだけでは決してその場所には辿り着くことはできない。
現世の果て、理を超えた先の世界。
そう呼ぶべき場所は地平線の先まで闇に染まっており、どこを見渡しても黒一色だった。
『·······?』
少女はそんな笑い声に少しだけ目を開けた。
何だここ、そう思う前に“誰か”がこちらを見下ろしている。
誰かはわからない、会ったこともないのだから。
でも。
“そいつ”は自分の目に手を当てて、愉快そうに笑っていた。
明確に、楽しそうに。
誰かはわからない。
だが彼女にとって“そいつ”は、強いて言うとするのならば。
“命の恩人”
ある意味、そう呼んでもいいくらいの存在だ。
そいつは裸だった。
いや、下半身は黒く染まっていて見方によってはズボンにも見えなくもない。だが上半身はとにかく『継ぎ接ぎ』だらけで、黒しかないこんな場所で“彼”は平然とこちらを眺めている。
それがどれだけ異質で不気味に思えたか。
黒一色の世界に存在する“そいつ”は間違ってここにやって来てしまった少女に対して、こう言った。
『
◇◆◇◆◇◆◇
倒れたアリシアの元へ駆け寄り、彼女の身を起こす手伝いをするような姿勢で手を背中に回す。
魔法による回復は上手くいっている。
それでも。
それでも、だ。
アリシアの体に、力が戻る気配はない。
「アリシア!! お願い!! 目を覚ましてッ!?」
「··············」
いくら呼びかけても、目を覚まさない。
彼女の妹を自称するフェイトは回復魔法を何度も繰り返し実行、それでも起きないのはやはり何か別の法則が働いているのだろうか?
そもそも、だ。
彼女に埋め込まれている『呪物』、もしそれがフェイトの世界に存在していた『ロストロギア』なのだとすれば、アリシアの肉体にかかる負荷は想像を絶するものだったはずだ。
ひとたび暴走すれば世界そのものを引き裂きかねない失われた超常の遺産。
周囲の人間の強い願いや欲望、執着を勝手に読み取り、それをエネルギー源にして無制限に膨張を続ける呪われた魔法の結晶。
その古代遺物がこの『呪いの世界』において、スタジアムに身を潜める一般人達やこの仙台の結界が放つ圧倒的な負の感情、死への恐怖や怨嗟を燃料として受信し続けていたのだ。
人間の脳は、そこまで都合よく作られてはいない。
いくら一度目の死によって脳のリミッターが破壊されたフィジカルギフテッド並みの強度を持つ肉体とはいえ、処理しきれない情報の過負荷によってアリシアの脳は傷つき、鼻からは生々しい血液がどろりと滑り落ちていた。
呪物と化したロストロギアの過剰な干渉波形に、その幼い器の限界を遥かに超えて、魂の根底から擦り潰されるような凄まじい負荷がかかり続けていたことは明白だった。
「───大丈夫」
その時だった。
涙を流し、血を吐くような罪悪感の中で激しく打ちひしがれていた金髪の少女の肩に。
ぽん、と。
温かい手が優しく置かれる。
「え··············?」
驚きに目を見開いた彼女の視線の先で、あらゆる部位を血に染めた乙骨憂太は、彼女を安心させるように酷く傷ついた顔で小さく微笑んでみせた。
お互いに自己紹介すらしていない。先程即興の作戦で命を懸け合っただけの、名前も知らぬ間柄だ。
それでも、乙骨という心優しい特級術師は、彼女の引き裂かれそうなその悲しみの涙を放っておくことはできなかった。
乙骨は肩からそっと手を離すと、フェイトの腕の中で死んだように目を閉じているアリシアの側へと身を屈めた。そして、生々しい血の滴る彼女のおでこへと、自身の大きな手のひらを優しく当てる。
(·········ある。まだ、ちゃんと········アリシアちゃんの中に、『呪力』を感じる)
手のひらを通じて流れ込んでくる、僅かだが確かに感じる負のエネルギーの波動。
乙骨は呪術師としての卓越した知覚を研ぎ澄ませ、アリシアの魂の底に残された残穢を確認すると、深く安堵の息を漏らした。
「アリシアちゃんは········疲れて眠ってるだけみたいだ」
「········え?」
その声にフェイトは思わずそんな声を漏らす。
しかし乙骨はすぐに首を振り、隣の少女へ向けて淡々と事実を告げる。
「それでも、脳への負荷は無視できない。さっきの戦いのせいでアリシアちゃんの脳は相当傷ついてるはずだから、今はとにかく安静にさせてあげて」
「········はい」
油断ならぬ状況であることには変わりない、だが少年のその言葉は冷たい檻の底に落とされた彼女にとっては何よりの救いだった。
またしても姉の命が目の前から消えていくのではないかという果てしない焦燥が、少年の確かな診断によってゆっくりと凪いでいく。
親友の信念の想いを胸にもう二度とその手を離さないと誓った金髪の少女は、アリシアの細い身体をそっと抱き締め直し、少年に向けて深く頷いてみせた。
まさにその瞬間。
『『『リンゴンリンゴンリンゴンリンゴンリンゴーン!!』』』
「「!!」」
『『『泳者による死滅回游へのルール追加が行われました!! 〈総則〉一◯=“泳者は他泳者に任意の得点を譲渡する事ができる”』』』
不気味に響き渡るコガネの声が、ようやく平穏状態となっていた空間の温度を、再び氷点下へと叩き落とした。
乙骨とフェイト、そして気を失っているアリシアに憑いて回るコガネがそれぞれの主人に報告を済ませると、愉快そうに彼らの頭上に浮遊する。
「ルールの、追加········? 得点の、譲渡········?」
上空を飛び回るコガネを視線で追いながら、乙骨憂太は傷だらけの顔を歪め、低く唸った。
領域展開後の脳への負荷が回復し、本来の輝きを取り戻した彼の生得術式が、その不気味なアナウンスが意味する『可能性』を瞬時に演算し始める。
死滅回游という殺し合いの舞台。
そのルールを歪め、得点を動かせるように仕向けたのは誰か。
(虎杖君達·······上手くいったんだ!!)
虎杖と伏黒のどちらかが一◯◯点保有者の日車と接触し、交渉が上手くいったことを乙骨は悟った。
彼らに任されたものは───“殺し合いの強制の無効”
ルール追加に必要な一◯◯点を保有する泳者は、現段階で僅か二人。
その内の一人である日車寛見に点を使わせるべく、虎杖たちは東京第第一結界へと突入していた。
それが上手くいった事により、今こうして全泳者にコガネを通して通知が来た。
これで、誰も殺し合わなくて済む。
(でも、油断はできない。過去の術師達はほとんどが好戦的な性格ということは分かったし、まだまだルール追加のための点は必要そうだ)
そう。
まだ終わったわけではない。むしろ、まだ始まったばかりだ。
今回の戦いではっきりと分かった。
過去の術師達の動機のほとんどは───“無念を晴らすこと”だ。
四◯◯年、あるいは千年の時を超えて現代に受肉した過去の術師達は、己の無念を晴らすためだけにこの殺し合いへと参加し、他者の命を奪うことに一切の躊躇いを持たない。
ならば。
彼らが齎す脅威を少しでも減らすために、この殺し合い自体の『意味』を根本から失くすように進めなければならない。
これ以上、無駄な命を散らさないために。
誰もが『人を殺そう』と思えなくなるように、ルールを次々と追加して死滅回游という儀式の構造そのものを力技で歪める。
そして最終的に、この狂った殺し合いを完全に終わらせる。
乙骨は胸の内で改めてそう強く誓い、前を見据えた。
その時。
乙骨のすぐ隣で未だにアリシアの小さな身体を強く抱き締めていた金髪の少女が、アリシアの無事が分かって歓喜の涙に濡れた双方の瞳を乙骨へと向け、
「あの·······」
「うん?」
掠れた、けれど芯のある声。
お互いに命を預け合い、最悪の暴走を止めるための即興の博打を潜り抜けた。それなのに、二人は未だに相手の素性を何一つとして知らない。
バリアジャケットを解除した彼女の左胸で点滅するデバイスの光が、フェイトとアリシアの二人の横顔を交互に金色に照らし出していた。
「貴方は······その······」
フェイトはようやく落ち着いて少年と話せる状況になったことに安心しているようだが、いざその時になると何を話したらいいのかわからなくなった。
何より、乙骨のあの力。
ただの民間人だとは最初から思わなかった、さらにまさかあんな『化け物』を飼っているとは思ってもみなかった。
しかも、彼が保有していたあの化け物は、
その際に、今目の前にいる少年らしき声も聞こえたわけだが、
(もしこの人が······悠仁の知り合いなら············ッ!!)
頭の中で急速に組み上がっていく仮説に、フェイトの呼吸が微かに止まった。
あの日出会った、誰よりも優しく、だがその中には世界を容易く蹂躙してみせた怪物を宿していた“少年”。
そして。
なのはと共に時空の裂け目のような亀裂を調査していた際、その奥から響いてきた謎の声。
あの時、確かに聞こえていた“虎杖”という響き。
そして今、目の前に佇む少年が従えていた、悍ましくも幼い口調の少女の声。
全ての謎が、一本の不可視の鎖となって繋がろうとしていた。
フェイトはアリシアの小さい身体を落とさないよう慎重に腕に力を込めながら、思い切って眼前の少年の顔を見つめた。
「あの、貴方は········虎杖悠仁と、その···········知り合い、なんですか?」
震える唇から零れ落ちた、少年の名。
その一言が乙骨憂太の思考回路を一瞬空白に染めた。
「···········!!」
乙骨は思わず目を見開く。
目の前で涙を拭い、傷ついたアリシアを抱きしめている西洋の物語から抜け出してきたかのような外見の少女。そんな彼女の口から、今この場にいるはずのない後輩の名前が飛び出してきたのだ。
だが。
その顔には驚きはない。
ここに来る前、天元様のいる薨星宮で虎杖達から『あの話』を聞いて、ある程度予測はできていたからだ。
呪いという因果の枠組みを超えた、遙か彼方の見知らぬ地。
そこで起きたという、魔導書の暴走を巡る戦い─────“闇の書事件”。
あの時、後輩である虎杖と伏黒が口にしていた異世界での過酷な経験と、窮地を共に潜り抜けたという異界の者達の話。
その記憶と、今まで抱えていた謎がいま、目の前の少女の姿と共に完全に重なり合っていた。
「うん··········虎杖君は、僕の後輩だよ」
乙骨は傷だらけの顔に微かな笑みを浮かべ、彼女を安心させるようにその穏やかな響きを返した。
「僕は乙骨憂太。虎杖君と同じ“東京都立呪術高等専門学校”の二年生で、だから虎杖君の先輩ということになるね」
「やっぱり··············!!」
その言葉にフェイトはあの時の謎が解明されたようで腑に落ちたような顔をするが、それでもまだ謎が残っている。
まず、今彼が語ったことが真実ならば、あの時虎杖悠仁が言っていた『東京都立呪術高等専門学校』という教育機関も、この世界に実在している事になる。自分達の世界にはなかったが、今彼から語られた一つの真実によって、この世界は自分達のいた世界とは全く異なる場所であると改めて実感した。
そこはいい。
元々何となく察していたんだから。
問題は、彼のあの時の発言だ。
あの時、亀裂の奥から聞こえた声からは、殺意を感じた。
───あれは誰が誰に向けて放ったものだったのか。
およそ尋常ではない殺意の波動、それを感じ取れぬほどフェイトは鈍くない。
あの不気味な裂け目を調査していた際、確かに耳にした、命の奪い合いを予感させる禍々しいやり取り。
人を救うために戦っているはずの虎杖悠仁が、その裏でどれほど危険な世界に身を置いているのか。そして、目の前にいる少年が、本当に虎杖悠仁にとっての純粋な『味方』であるのかどうか、その点に対する確証だけがどうしても掴めずにいた。
「··············」
フェイトの瞳の奥に宿る、微かな困惑。
乙骨はその視線の意味を、特級術師としての鋭い感覚で敏感に察知していた。
彼女が自分に対して抱いているのは、単なる驚きだけではない。
そこには不信感のあまり、隠しきれない強い警戒心が篭められている。
「·······こっちもいくつか聞いていいかな?」
「? はい?」
思いがけない少年の疑問に満ちた声に、フェイトは僅かに身を硬くした。
アリシアの小さな頭を壊れ物を扱うように自身の腕で支え直しながら、少年の次の言葉を待つ。
乙骨は目を一瞬鋭くさせるが、そこには一切の敵意も彼女を圧迫するような威圧の気配も含まれていない。
ただ。
静かな眼光が、まっすぐに彼女の瞳を見つめている。
「君は、どういうわけか虎杖君の名前を知っている。なんで君が虎杖君の名前を知ってるのかは分からないけど、察するに君はもしかして··············
◇◆◇◆◇◆◇
「ッ!?」
乙骨憂太の口から突如として紡ぎ出された、自身の本当の名前。
まだ名乗ってもいないはずのその響きが空間に落とされた瞬間、フェイト・T・ハラオウンの思考はまるで時間が凍結したかのように硬直した。
驚愕。
それを超えた、魂を直接冷たい手で掴まれたかのような強烈な戦慄が、少女の小さな全身を駆け抜ける。
何故彼が自分の名前を知っているのか。
この世界に足を踏み入れてから、自分はまだ誰にも名乗ってなどいないはずだ。
ましてや。
次元の境界を超えた遙か彼方の異世界の住人であるはずのこの少年が、自らの秘められた本名を知り得ることなど、絶対に有り得るはずがなかった。
「··············」
いや、あり得る。
考えてみれば、自分の名を彼が知っていてもおかしくない点がいくつもある。
彼は虎杖悠仁のことを後輩と呼んでいた。ならば、彼経由で自分の名前が伝わっていたという可能性はあり得る。
とはいえ。
フェイトは無意識のうちに腕の中のアリシアを庇うようにして、自身の身体を僅かに後ろへと引いた。その胸元でバリアジャケットを解除したデバイス、バルディッシュのコアが主の激しい動揺に呼応するようにしてチカチカと不規則な明滅を繰り返す。
人を呪いから救う呪術師、さらに虎杖悠仁の先輩という事実。
そして、時空の裂け目から響いていた、およそこの世のものとは思えぬほどの苛烈な殺意の残響。
その不信感の霧が、名前の漏洩という予期せぬ展開によって、彼女の警戒心を一気に跳ね上げていく。
「やっぱりそうなんだね···········良かった」
「···········え?」
だが、そんな彼女の剥き出しの警戒を前にしても、乙骨憂太の表情が険しくなることはなかった。
彼はただ、傷だらけの顔にどこか酷く哀しげで、それでいて心の底から安堵したような穏やかな微笑を浮かべていた。
「確証はなかったんだ···········でもさっき君がアリシアちゃんのことを『お姉ちゃん』って呼んだ時、もしかしてって思ったんだよ」
乙骨は警戒に身を硬くするフェイトの視線を真っ向から受け止めながら、あの時の会話の内容を思い出していく。
それは、この死滅回游という最悪の殺し合いの舞台に身を投じる前。
天元様のいる薨星宮の地下で、後輩である虎杖悠仁と伏黒恵の二人から、彼らが経験したという『異世界』での出来事を語られた時の対話だった。
「ここに来る前、虎杖君達から聞いたんだ。自分達が迷い込んでしまった別の世界で········
「········」
乙骨の声は、杜の都に漂う煤煙に汚れることなく、どこまでも静かに響いた。
「虎杖君はね········ずっと悔やんでたんだ。自分があそこにいなければ、君達をひどく傷つけることはなかったのに、って」
「········」
少女の心の奥で、それまで張り詰めていた不信の緊張感が音もなく静かに融解していく。
記憶の底から湧き上がるのは、クリスマスイブのあの日の夜。
いつも心優しかったあの少年が、『闇の書』の覚醒と同時に己の中に“巣食う悪魔”によって体を強引に奪われ、なのはやフェイト達を圧倒的な力で蹂躙した。
それを彼はとても悔やんでいたという事実。
そのことを語った乙骨は疲れのあまり細めた目を、フェイトの膝の上で眠るアリシアの少女へと向けた。
そして。
「フェイトちゃん········一つ、どうしても確かめておきたい事があるんだ」
「? はい、何ですか?」
乙骨はずっと抱えていた違和感。
アリシアとフェイトの関係。
そしてあまりにも矛盾点が多すぎる事に対して、彼はフェイトに訊ねる。
「君とアリシアちゃんは──────」
「
「「ッ!!」」
その瞬間。
崩壊した仙台結界の中から染み出すように響いたのは、すでに弱りきった女の声だった。
罅割れた瓦礫の陰で地に伏せていた烏鷺亨子は、肺を不自然に痙攣させながら浅い呼吸を繰り返していた。
アリシアの容赦のない追撃によって左の肩口から先を無慈悲に捥ぎ取られたその肉体は、止血の処置すら施されぬまま、アスファルトの地面を生々しい鮮血で赤黒く染め上げている。
失われた腕の断面から奔る激痛に意識を幾度も削られながらも、千年の執念を抱く過去の術師としての眼光だけは未だに死に絶えてはいなかった。
「オマエは確かに藤原の血族のようだが········どうやらアイツらと違ってアンタはどこまでも甘いようね」
「········」
烏鷺は欠損した左腕を庇うように右手で押さえつけ、乙骨へと視線を向けながら歩み寄ってくる。
かつて平安の世で自身を陥れ、己の保身と栄華のためだけに同胞を欺き続けた藤原氏の陰湿な術師達。その因縁を背負う現代の少年に対して、烏鷺は僅かながらも認めざるを得なかった。
だが。
その合理性を欠いた利他主義の姿勢が、暗殺部隊の長として血の海を潜り抜けてきた烏鷺には酷く滑稽で、同時に底知れぬ危うさを秘めているように映っていた。
「覚えておくことね········その甘さが命取りになる時は、必ず来る。それも近いうちにね」
割れた唇の端から、血混じりの唾液を吐き捨てる。
烏鷺は喉の奥で低く、愉しげに笑った。
「········」
乙骨は何も言い返さなかった。
彼女の言葉はどれも的を射ている。
ただ欠損した腕から血を流し続ける烏鷺の姿を、乙骨は静かにその瞳へと映すことしかできない。
ここで彼がどのような正論を述べようとも、千年の闇を生き抜いてきた彼女にとっては憎むべき血族による冷ややかな否定の言葉にしかならず、それは新たな暴力となって彼女の自尊をさらに踏みにじる結果になることを、乙骨は理解していた。
甘いと言われた乙骨は自身の浅はかさを理解しつつ深く息を吸い込み、死闘を繰り広げた仙台結界の地面へと息を吐くと、逃げ場のない意志をその唇から紡ぎ出した。
「········そうかもしれません」
少年の口から漏れ出たその言葉に、崩落した都市の残骸を吹き抜ける風が冷たく絡みつく。
彼は自身の背後に揺らめいていた、かつての暗い因果の残影を振り返るようにして言葉を継いだ。
「本当なら僕も、周囲から迫害されて、独りぼっちでいるべきだったのかもしれない。取り返しのつかない過ちを犯して、大切な人を“呪って”自分自身に背負ったあの時に、誰にも見つからない場所で消えていくべきだった······それでも、そんな僕を周りの人達は見捨てなかった。僕のせいで酷い目に遭っても、死にかけたり傷ついたりしても、みんなは僕に寄り添って手を繋ぎ続けてくれた。そんな人達がいてくれたおかげで、僕はこうしていられる。みんながいてくれたから、今の僕がある。だから僕は、貴女と違ってとても恵まれてるんだと思います」
少年の黒い前髪が、荒涼とした風に揺れる。
その顔には、烏鷺を陥れた者達とは決定的に異なる、他者への無条件の信頼という、呪術師としてはあまりにも異質な光が宿っていた。
乙骨という特級術師は、烏鷺の眼光を真っ向から見据えた。
「たとえいつか、その甘さが命取りになる日が来ても········僕は多分最後まで抗い続けます。みんなと一緒に」
「················ハッ」
烏鷺の裂けた口から、乾いた息が漏れ出た。
それはかつて自身が仕えた藤原の畜生どもとも異なり、かと言ってあの『呪いの王』のような孤高の暴虐とも違う。
眼前の少年が体現する────圧倒的な『未熟さ』への、呆れ果てた失笑だった。
己の命の重さを微塵も顧みず、他者との繋がりのためだけに命の灯火を燃やし尽くそうとするその姿勢は、暗殺部隊の長として孤独な死線を潜り抜けてきた烏鷺にとって、もはや理解の範疇を超えるほどに馬鹿馬鹿しく、そして戦意を削がれるに充分な青さだった。
「どこまでも反吐が出る········オマエのその歪んだ生真面目さは、それ自体が呪いだ」
烏鷺は右手で左肩の捥げた傷口を乱暴に圧し潰す。
激痛を堪えるように奥歯を噛み締め、
「コガネ」
低く掠れた声が虚空に落とされた瞬間、何もない空間からあの愛嬌のある式神が姿を現した。
すでに頭上を不気味に飛び回る式神のアナウンスによって、死滅回游に新たなルールが追加されたことは烏鷺も把握している。
目の前で自分の腕を吹き飛ばしたアリシアと、その少女にそっくりなフェイトを庇うように立つ、乙骨憂太。
彼に対し、ただ生き永らえる屈辱を付与するための嫌がらせとして、烏鷺は淡々と命令を下した。
「私の点を一点だけ残して、乙骨に」
「!?」
烏鷺の明確な指示を受け取ったコガネは空中を不規則に旋回しながら、その主人に向けて冷淡に言葉を返す。
『かしこまりました』
次の瞬間。
乙骨のすぐ横に、彼に憑いて回る死滅回游の案内人が現れる。
『烏鷺亨子から六九点が譲渡されました』
死滅回游という殺し合いの場。
そのルールを歪め、誰も殺し合わなくて済むように仕向けた虎杖達の交渉の成果が、千年前の怨嗟を抱く烏鷺の『呪い』という形を借りて、この仙台の結界においても具現化された瞬間だった。
「これは········つまり」
乙骨は怪訝そうに眉を顰めた。
敵対し、命を奪い合っていたはずの過去の術師が、あろうことかずっと憎んでいた相手に莫大な得点を託してきたのだ。
特級術師としての合理的な頭脳を以てしても、乙骨はその真意を即座に測りかねていた。
しかし。
目の前の少年が見せる分かりやすい戸惑いを眺めながら、烏鷺は血に汚れた口元を歪めて嘲笑する。
かつて平安の世において、歴史の影で刃を振るい続けた藤氏の暗殺部隊『日月星進隊』の長として、彼女は数多の血の海を潜り抜けてきた。
己を騙し、保身と繁栄のためだけに同胞の手柄を掠め取り、最終的には身代わりとして名前すら奪い去って放逐した、あの忌まわしき因縁関係。その末裔であるはずの少年が、あろうことか『自分を呪ってくれた大切な存在がいて、見捨てずに寄り添ってくれた仲間がいたから自分は恵まれている』などという、利他主義の極みのような甘い戯言を本気で盲信している。
それは、暗殺部隊に属していても誰とも仲良くしようとはぜず、ただ孤高の個として生存と執念のためだけに千年の時を超えて受肉した烏鷺にとって、もはや嫌悪を通り越して気味の悪い『集団狂信』に他ならなかった。
あまりに未熟な青さに、内側から削がれた自尊。
だからこそ烏鷺は、手元にある得点を一点だけ残して、その全てをこの青二才へ押し付けたのだ。
いつかその集団への依存が破綻し、自滅していく瞬間のための手向けとすることを、烏鷺は求めたのだ。
そして、
「せいぜい足掻くといい。いつかその身を滅ぼすその時までね」
それが。
かつて平安の世で恐れられた術師が、現代の生真面目な少年へと遺した、最後の忠告だった。
言い終えると同時に烏鷺は残された右腕を虚空へと掲げ、自身の生得術式を発動させた。
空間の境界線が布切れのように歪み、彼女の細い肉体を包み込む。
乙骨やフェイトがその行方を追うよりも早く、空間の歪曲にその身を委ねた烏鷺は仙台の荒涼とした暗がりの向こうへと姿を消していった。
「本当······甘すぎだぜ乙骨」
「!!」
烏鷺の気配が空間の歪曲と共に完全に消失し、その余韻すら風に吹き消されるよりも早く、低く掠れた男の苦笑が静寂を切り裂いた。
少し離れた場所で、アリシアの放ったあの確定する黒い閃光の連撃をまともに浴び、内臓の数箇所を酷く痛めつけられて地に深く寝転がっていた石流龍が、横たわった姿勢のまま自身の前髪を視線だけで弄るようにして、乙骨に声をかけた。
「点をもらったならもう得することなんてねぇだろ。またアイツ点を取るために人を殺すかもしれねぇってのに、逃げる前に殺せる最後のチャンスを手放すなんて、甘すぎてもう何も言えねぇよ」
「············」
烏鷺から点を得たならば、もはや生かしておく理由などない。さっさと息の根を止めておけば、二度と他人の命を奪うこともないはずだ。
その石流の言葉は正論だった。
その身体は骨格の数箇所が無様に粉砕され、自慢のリーゼントヘアからも焦げた煤煙が立ち上るという、誰の目から見ても身動き一つ取れない致命的な損壊状態にある。口端からは絶えず生々しい真紅の液体が伝い落ち、一呼吸を置くたびに砕けた肋骨が肺を圧迫する激痛に襲われていたが、四◯◯年余りの間、魂の奥底で募らせ続けてきた飢餓感をこれ以上ない暴力で癒やされた石流の顔には、恐怖や悔恨など微塵も存在していなかった。
あるのはただ、長い旅路の果てに規格外のフルコースへと巡り合えた者だけが浮かべる、恍惚とした笑みだけだ。
だからこそ彼には、目の前の少年が理解できなかった。
烏鷺の追撃を放棄した乙骨の選択は、石流の価値観からすれば、極上のデザートを目の前にしてナイフを置くような愚行に他ならなかった。
だが、乙骨は柔らかく笑って言った。
「いや············大丈夫ですよ」
「あ?」
特級術師としての明晰な頭脳は、烏鷺が点数を譲渡してきた瞬間の死滅回游のログの『数値』を、冷ややかな客観性を以て、その裏の意図に気付いていた。
「だってもしそのつもりなら············
乙骨の口から漏れ出たその合理的な指摘に、周囲の空気が冷たく絡みつく。
死滅回游の総則において、泳者は点の変動がなければ一九日間の猶予の後に術式の剥奪、すなわち死を迎える仕組みになっている。
自身がこの殺し合いに留まり続け、再び他者の命を奪って得点を稼ぎ直すつもりがあるならば、わざわざ手元の点数を『一つ』だけ残して、残りの『六九点』をそっくりそのまま他者へ引き渡すような非効率的な真似をするはずがない。
だが。
死滅回游に新たに追加されたこのルールと、術式剥奪までの猶予の構造を逆手に取った烏鷺の『一の保留』は、彼女がこれ以上の不毛な闘争を拒絶し、この死滅回游の行く末を見届けるために陰に引き籠もったという、沈黙の意思表示に他ならなかった。
誰かのために生きるわけではない。
ただ、自身が『個』として生き永らえるための最後の一点。
相手など誰でもいい。
適当な泳者に点を譲渡し、それを再び返してもらう無限のループを構築することで、彼女は生きながらにして他人の命を奪う行為を自らに禁じたのだ。
その真意を汲み取った乙骨は、彼女なりの不器用な配慮に対し、心の中で静かに感謝を捧げた。
「ハッ、成程ね。あのお高く止まった千年前の術師も、ただの負け犬の遠吠えに成り下がっちまったわけだ」
少年の論理的な憶測を耳にし、石流は自身の頭髪から立ち上る熱量を微調整しながら、愉しげに鼻を鳴らした。
己を騙し、名前すら奪い去った藤原への恨み節を募らせながらも、最後は現代の少年の未熟な青さに興を削がれ、自滅のための遺恨として点数を押し付けて去った術師の引き際。
石流にとって、そんな過去の因縁など最初から等しく無価値にすぎなかった。
彼がこの殺し合いに身を投じた動機の全ては、己の存在理由の全てをぶつけるに足る強者との相食むような戦いであり、その渇望は先程のアリシアの理不尽な漆黒の火花の連続発生、そしてそれすらも身を挺して押さえつけた乙骨達の文字通り命を賭した連携によって、一滴の余すところもなく満たされていた。
ピクリとも動かぬ自身の指先を嘲笑うかのように、石流はただ何もない空に向かって、その名を呟く。
「コガネ」
『あいよ』
石流の掠れた呼びかけに応じて、歪な輪郭を持った不気味な案内人が、再び何もない虚空から這い出てきた。
主の命令を待つようにして浮遊するその式神に対し、四◯◯年前の修羅場を潜った石流は、血の混じったため息を一つ吐き出し、ただ静かに告げた。
「俺の点も一点だけ残して、あとの残りを全部そいつにくれてやれ」
『オーケー!!』
その言葉が空間に落とされた直後、死滅回游の案内人は主の意思を機械的に処理し、すぐさま乙骨の側にいる彼のコガネへと送り込む。
『石流龍から七六点が譲渡されました』
「·········いいんですか?」
烏鷺に続き、この結界で最強を誇ったはずのもう一人の過去の術師が、手元にあった莫大な執念の結晶をそっくりそのまま現代の少年に託した。
乙骨は自身の得点が瞬時に跳ね上がったことを示すコガネの声を片耳で捉えながら、驚愕を通り越した怪訝そうな眼差しを石流へと向けた。
己が生命の灯火を削り落とし、互いの歩んできた道筋すら呑み込もうとした衝突の果て。
予期せぬ得点の譲渡に静かな戸惑いを隠せずにいる乙骨へ向けて、戦禍の底に横たわる石流は、ただ深く満ち足りた笑みをその顔面へと刻み込む。
「今はもう腹いっぱいなんでな········食後の眠気が半端ねぇんだ」
煙の立ち上る頭髪を空に向けたまま、石流は酷く掠れた声を仙台結界へと溶かすようにして吐き出した。
四◯◯余年もの間、彼の魂を苛み、乾き狂わせてきた飢餓。
その底無しの空腹を満たしたのは、他でもない、天から流星の如く降り立ったあの少女、アリシア・テスタロッサが撒き散らした漆黒の火花に他ならなかった。
人体の構造を嘲笑うかのような超絶の機動。
確率の針の穴を力技で貫通させて連発される、次元そのものを書き換えるかのような奇跡の黒い連撃。
それは石流にとって、自身の人生の全てを賭してでも喰らうべき、まさに至高にして極上のフルコースそのものであった。
石流は重い瞼を辛うじて僅かに持ち上げると、その視線を乙骨のすぐ隣へと向ける。
すでに武装を解除し、自分とそっくりな少女の小さい身体を離さずにずっと抱きしめているフェイト。
彼女の腕の中で、鼻から生々しい液体を滴らせながら、無垢な人形のように静かな寝息を立てているアリシアの横顔を石流はどこか愛おしげに、そして大いなる執念を燃やし尽くした戦友に対する最大級の敬意を込めてじっと見つめる。
まさに、子供の皮を被った────理不尽な殺戮兵器。
言葉を交わすための知性すら失い、周囲の怨嗟を吸い上げる自動人形と化していたあの少女の苛烈なる力に石流の闘争本能は間違いなく骨の髄まで震わされ、そして満たされたのだ。
あんな腑抜けた時代ではなく、自分の腹を満たしてくれる本物の強者と出会えたことへの歓喜を、あの幼い少女は確かに彼へと与えてくれた。
「········その嬢ちゃんが起きたら伝えてくれ」
石流の喉の奥から、肺の痛みを堪えるような短い息が漏れる。
彼は、自身の魂を救ってくれた小さな『最高の料理人』へと思いを馳せるように、口角を獰猛に吊り上げて笑った。
「また一緒に卓に着こうぜ········ってな」
それは、過去の世を蹂躙した戦闘狂が、現代の世界で巡り会えた戦友へと贈る、この上なく贅沢で誇り高き再戦の約束であった。
言い終えると同時に石流の瞳から完全に力が失われ、その分厚い瞼がゆっくりと閉じられる。
激痛を伴う粉砕の跡も、骨髄を蝕む黒閃の残響すらも、今の彼にとってはただの心地よい食後の余韻に過ぎない。
「················」
乙骨は別に何も思わなかった。
だって。
グゴォオオオ、と
路上に大の字になって寝転んだ石流の鼻先から、大柄な体躯に見合ったひどく豪快で、しかしどこか安らかな響きのいびきが、辺りへと鳴り響いていたからだ。
四◯◯年の渇望を平らげ、深い睡眠へと沈んでいく石流の横顔には。
後悔も執着も、もはや一ミリも残されてはいなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
静寂が、杜の都の残骸を包み込んでいく。
千年前の怨嗟を抱く術師は不吉な呪いを遺して虚空へと消え、四◯◯年待った最高級のデザートを残さずに平らげた戦闘狂は、路上で大の字になって安らかな寝息を立てている。
あまりにも理不尽で、あまりにも苛烈だった、仙台結界における戦いの終わり。
その余韻を切り裂くように吹き抜ける荒涼とした風の中で、乙骨憂太は深く、そして長く、自身の内に溜まった疲弊混じりの空気を吐き出した。
肩の力を抜き、ようやく危機が去ったことを実感した乙骨に、
「あ、あの··········」
「!!」
躊躇いがちに紡がれた少女の声が届く。
振り返れば、金髪の少女のフェイトがアリシアをずっと強く抱き締めたまま、今まで戦っていた術師達の会話を最後まで見守っていた。
烏鷺による突如とした乱入によって強制的に対話を遮断されてしまい、乙骨は傷だらけの顔にどこか申し訳なさそうな微笑を浮かべて、自身の頬を軽く掻いた。
「あぁ、ごめんね。話の途中だったのに」
「いえ…………」
フェイトは小さく首を振る。
予想外な展開が目の前で繰り広げられたが、あの二人はこれ以上こちらに危害を加えるつもりもなさそうに会話を終えた。
乙骨とあの二人の因縁は落ち着いたと見ても良いのだろう。
だとしても、まだ不可解な点は残っている。
フェイトの目の前にいる乙骨という少年、そして虎杖悠仁との繋がりや今も自分の腕の中で眠るアリシアを巡る因縁。
その詳細をもっと具体的に聞かねばならない。
それは乙骨も同じだった。
互いの名前は知れたとはいえ、お互いの背後に潜む不気味な背景やその手の内にある異能の正体については未だに理解ができていない状態のままであった。
なにより、だ。
乙骨の明晰な頭脳は、アリシアの肉体に埋め込まれた『呪物』が宿す、あまりにも人工的で歪な呪力の構造を見逃してはいなかった。
天元から共有された、千年の陰謀を巡らせる“黒幕”の影。
その悪趣味な仕込みを彷彿とさせる異質さが、目の前にいる瓜二つな少女達へと収束していく。
非常に聞きにくいことだった。
今にも崩れ落ちそうな少女に対して突きつけるには、あまりにも残酷な呪術界の深淵の闇。
それでも、真実を確かめなければならない。
これ以上、大切な仲間達を犠牲にしないために。
乙骨は一度息を吐くと、余計な思考を全て取り除き、
「それで、君とアリシアちゃんとの関係だけど」
「··········っ」
問われたフェイトの肩が、微かに跳ね上がった。
それまで自分達を労わり、包み込むように穏やかだった少年の空気感が一変している。
明確な敵意や殺意を向けてきているわけではない。
しかし。
もしも目の前の存在が、あの“黒幕”が送り込んだ刺客であったならば、その瞬間に容赦を排して息の根を止めることも辞さないという、特級術師としての酷なまでの威圧感と責任感が周囲に広がっていく。
偶然その場に居合わせ、場の流れに合わせて作戦を共にした、素性すら曖昧な関係。
崩落した街の残骸が散らばる広場の中で。
乙骨は語り出す。
「この死滅回游を仕組んだ“羂索”っていう呪詛師はその昔··········明治の初めに“加茂憲倫”を名乗って、とある女性に悍ましい実験を行い、無理やり子供を産み落とさせたっていう呪われた歴史があるんだ」
「················え?」
突如として話される聞いたこともない名前と、理解の範疇を超える陰惨な過去の歴史。
フェイトの瞳には急に何を語り出すのだという純粋な困惑と、目の前の少年の気配の変質に対する別の戸惑いが走る。
だが。
乙骨は彼女の反応を静かに見据えたまま、淡々と事実を語り続けた。
「
「え·········え?」
歴史の捻れを孕んだ少年の説明は、常識の異なる世界からやって来たフェイトにとって、完全に理解の処理速度を超えるものだった。
明治と千年、呪術師とアリシア。
あまりにも突飛で、それでいて不吉な予感だけが明確に伝わってくるその推論の中に、少女は自らの思考を追いつかせる時間すら与えられず、ただただ一方的に置き去りにされていく。
そして乙骨は。
彼女の視線を完全に捉えて逸らさず。
こう、訊いた。
「