第30章
パンダとは。
霧が立ち込める中国の山岳地帯、標高三◯◯◯メートルの高地にて、人間が足を踏み入れることを拒むかのように深く鬱蒼とした竹林の世界を生き抜く、孤高の漂流者のことである。
発見前はUMAとして扱われたという説もあり、そこから想像できる通り彼らは希少価値の高い動物である。
UMA、すなわち未確認生物として社会にその存在が初めて知らされたのは一八六九年のこと。とあるフランス人宣教師がその奇妙な毛皮を持ち帰るまでは西欧の誰もが『そんな架空の獣がいるはずがない』と、その実在を疑った。
我々が『可愛いアイドル』として崇める東洋の神秘の森に隠されたその命は、まさに幻の存在だった。
だが。
今更ではあるが、改めて言っておこう。
「········今だけ俺はパンダじゃなくてテディベアだ」
そう誓う一つの巨体。
おおよそ計画通り、と言っても序盤からかなりのハプニング続きであり、この後の展開が不安になってきている。
それが彼にとっては結構ストレスで、少々心が折れかけている。
実は野生のジャイアントパンダも、見かけによらずストレスにはかなりデリケートだ。あのおっとりとしていて動じない姿は、決してメンタルが鋼鉄だからではない。むしろストレスに弱いからこそ、徹底的に刺激を避けるライフスタイルを貫いている。
例えば、パンダは引っ越しや模様替えなど、環境の急激な変化がとても苦手だ。
野生では自分の縄張りに強いこだわりを持ち、いつもと同じルートを歩き、同じ場所で寝ることを好む。動物園でも飼育エリアの工事音や、見慣れない人間が長時間近くにいるだけで食欲を落としたり、同じ場所をウロウロ歩き回る常同行動、ストレスサインを見せたりする。
本来であれば、先輩の秤金次と足並みを揃えて突入し、手分けして任務にあたる手はずであった。
だが。
死滅回游の結界が持つ、侵入者を不規則な地点へと散らす予測不能な転移によって、瞬く間に相方の気配は感知範囲の外側へと弾き飛ばされてしまう。
広大に広がるその場所は、かつて物流の重要拠点として無数の船舶と貨物を行き交わせていたはずの、横浜港のコンテナヤードであった。
潮風の湿り気と錆びた鉄板の冷たい匂いが立ち籠める中、何層にも積み上げられた長方体の鉄の塊が巨大な墓標の群れの如く整然と、かつ無機質に林立している。
その巨大なコンテナの屋根の上に、ぽつりと一頭の獣────呪骸のパンダの姿があった。
「なんて濃い血の臭いだ········三人くらいはバラバラになってるんじゃないか?」
黒い瞳をぎょろりと動かし、自身の毛並みを丸めて姿勢を低く沈める。
呟かれた言葉はどこか冗談めいて聞こえるかもしれないが、鼻を鋭く突き刺してきた臭気に対し、パンダの内面は冷たい緊張感で張り詰めていた。
実はパンダの五感の中で最も頼りにされているのが耳、そして鼻である。
視力が極端に悪い彼らにとって、鼻は暗い竹林を安全に歩くための高精度なセンサーの役割を果たしている。パンダの鼻づらは他のクマ科の動物と同様にしっかり前に突き出ている。彼らは何か行動を起こす時、まず鼻をひくつかせ、周囲の匂いで世界を把握する。
主食である竹を食べる時も、ただ手当たり次第に口に入れているわけではない。一本一本まずは鼻先に近づけて念入りに匂いを嗅ぎ、その竹が新鮮か栄養が残っているかを厳密に選別しているのだ。視界の悪い霧の森で、彼らは鼻を眼の代わりに使って生きている。
そして。
見かけによらず繊細なパンダは過度なストレスに晒され続けると、なんと黒い鼻先が脱色して真っ白になってしまうことがある。
どちらかと言うと禿げる感じではあるが、実際に周辺の騒音や環境変化によるストレスが原因で鼻の頭が白くなってしまった個体の事例がいくつか報告されている。彼らにとって鼻の色が変わるほどのストレスは、まさに心身のバランスを崩している明確な危険信号なのだ。
呪骸であるパンダ先輩に当てはめるなら、彼はこの鋭い鼻で周囲の『呪力や人間の感情の匂い』を敏感に察知しているのかもしれない。
誰がイライラしているか、誰が落ち込んでいるか、彼には全て匂いで分かってしまう。
そして、あまりストレスが溜まりすぎるとあの黒い鼻がうっすら白くなってしまう········っていう、呪骸らしからぬコミカルな都市伝説が高専内で出回ったらしいが、信じるかどうかはあなた次第。
さて。
ここまでなんとか生き残っているパンダは、ある目的のためにこの死滅回游に参加している。
────“五条悟の封印を解く”
そのためには、彼が閉じ込められている『獄門疆』と呼ばれる特級呪物の効果を無効化するものが必要なわけだが、その無効化の効果がある呪具は全て彼によって破壊、もしくは隠されてしまった。
万策尽きた、普通ならもうそう思って諦めてしまうかもしれない。
しかし唯一の希望として天元から提示された存在───
そいつの協力を取り付けることこそが、膠着したこの状況を打破するための唯一無二の鍵であった。
そしてその天使が滞在しているというのが、この東京の二つ目の結界。
「ハナが利かん·······こういうオンオフができる奴は手練れの可能性が高い·······!!」
海風が運んでくる濃厚な鉄錆の臭気へ改めて意識を向けながら、パンダは冷たい緊張に身を固くした。
今の状況を整理すると、実際のところ、彼は現在進行形で結構追い詰められているのだ。
まず彼がいるこの場所には、とてつもない殺気が漂っている。
三人ほどの血の臭いが漂うこのコンテナヤードのどこかに、呪力の放出を意図的に抑え込み、殺戮の痕跡だけを撒き散らす手練れの“
殺すことに躊躇はない、しかし跡を残さないところを考えると、呪力操作が尋常ならざる水準で洗練されている証拠であった。殺意に任せて力任せに暴れるだけの素人であれば、周囲の空間に漏れ出た呪力の残穢が濃い波紋となって漂うはずなのだ。
だが、この周囲にあるのは冷え切った血の臭いと、全方向から突き刺してくるような静かな殺気のみ。
獲物を解体した直後に己の気配を水滴のように拭い去る、研ぎ澄まされた処刑人のような冷静さがそこにはあった。
正面から衝突することは、今の任務の趣旨に反する。
パンダの背負う役目は敵を力任せに打ち倒すことではない。
この結界のどこかに潜むはずの天使という術師を見つけ出し、五条悟の封印解除という希望へと繋ぐこと。
秤と引き離され、単独でこの危険地帯に放り出された以上は、無意味な戦闘で自らの魂の核となっている『兄と姉』を酷使するわけにはいかなかった。
とはいえ。
ここでずっと潜伏みたいなことをするのもストレスが溜まる。
「さっさとここを離れるべきだが、下手に動いて見つかるのは勘弁。このままテディベアでやり過ごす·······否!!」
自らの内に渦巻く甘えを打ち消すように、パンダは短く息を吐き捨てた。
そう。
よく考えろ。
思い出せ!!
自分が何者なのかをッ!!
(俺はパンダだぜ·······!?)
テディベアに成りすまして息を潜めるなど、ただの現実逃避に過ぎない。
彼はパンダ。
パンダはパンダじゃないとか言われても、どこからどう見ても見た目パンダなんだから気にすることはないのだ!!
たとえ泳者と鉢合わせても、相手はただのパンダだと認識してくれるに違いない!!
そう考えたパンダ先輩は、微弱な呪力操作を維持したまま周囲の死角を突いて静かに移動を開始し、一刻も早くこの不吉な血生臭い屠殺場から抜け出す。
ゴロゴロ、と。
B級映画に出てきそうな潜入が下手くそなスパイの如く前転し、コンテナから降りて周囲を警戒するパンダ。
右確認、誰もいない。
左確認、人影がない。
前確認、海が青いな。
上確認、空も青いな。
「············」
ふぅ、と。
胸を撫で下ろし、額の毛並みに滲んだ冷や汗を太い前足で雑に拭う。
よし、誰もいない。
このままコンテナの細い隙間を縫って、海沿いとは逆の工業地帯方面へと静かに離脱を、
「───
直前。
眼前のコンテナの角から何の前触れもなく一つの影が姿を現した。
「························
「························」
男なのか女なのか。
パンダの視線の先、コンテナの影から歩み出てきて足を止めたのは水色の髪を頭の上で二つに結び、古風な薄いグレー系の和風の道着を身に纏った青年であった。
手にはあの中国四大奇書の一つ、『西遊記』の主人公である斉天大聖孫悟空の武器、『如意金箍棒』を思わせる棍棒がある。
食パンを咥えた学生が遅刻寸前の通学路で出会い頭にぶつかる、使い古された恋愛劇の一幕。あるいは路地裏で曲がり角の先を確認し損ねた通行人同士のあまりにも間の抜けた鉢合わせ。
本来であればそんな陳腐な比喩で語られるはずの邂逅は、しかしこの殺戮の舞台においては致命的な死の宣告そのものであった。
「
「············ッ!!」
全身から嫌な汗をだらだらと流し、頭の先から足の爪先まで残らずガタガタ震えながらも、数々の激闘を潜り抜けてきたパンダは安易に絶叫したりはしない。
分かっている。
分かっているのだ。
ここでそんな絵に描いたようなリアクションをしてしまったら最後、これから始まるのは地獄絵図だということを。そして最終的には自分はぐちゃぐちゃにされてしまうのは目に見えている。
具体的に言えば、挽き肉にされてしまう未来が見える。
だからこそ、選ぶべき生存戦略は一つしかなかった。
(そ、そうです!!)
思い出せ!!
自分が何者なのかを!!
彼が今認識したように、自分はただのパンダである!!
(やべえ奴と鉢合わせた··········この気配から察するに、多分こいつがここで暴れ回っていた奴だ··········!!)
ならば尚更言葉を発してはならない。
二本足で直立する奇怪な獣などではなく、この国で手厚く保護されているただの珍獣、脱走して自由を得た愛らしい毛玉に成り済ますのだ。
パンダは息を殺したまま、そっと太い前足を地面へと下ろした。二足歩行の姿勢を滑らかに解除し、四本の足を地面へ落とすと、愛嬌を振りまくように頭を低く傾けてみせる。
何度も言うが、パンダはパンダじゃない。
でも今だけはパンダでいないといけない。幸いにもあっちはパンダだと誤解している。
「お」
青年の喉から短く腑に落ちたような声が漏れ出た。
担いでいた棍棒の位置を僅かに直しながら、相手は納得したように顎を引く。
「やっぱ二足歩行はしんどいか」
「··········」
効いている。
相手はこの外見通りの動物として誤認してくれている。
───勝った。
このまま無害な珍獣として背中を向け、のそのそと歩み去れば、無用な流血沙汰を回避してこの危険地帯から抜け出せる。
そう確信し、小さく安堵の息を吐きかけた。
「コガネ」
青年がずっとこちらを睨み、そして目を固定したまま呟くと、頭上からふわりと薄い翅を羽ばたかせ、奇妙な物体が宙へと現れた。
コガネ。
それはこの死滅回游の案内人であり、泳者には必ず憑いて回る式神。
『はい』
呼ばれて飛び出て主の指示を待つコガネ。
青年はパンダから目を離さず、こう訊いた。
「
「!?」
その冷酷な確認作業を耳にした瞬間、パンダの全身の毛並みが凍りついた。
(なっ!! 待て!! 嘘だろ!?)
慌てて弁明の声を上げようとしたが、それよりも早く宙に浮く異形の案内人はその小さな身体を激しく反らせ、鼓膜を裂くような甲高い声で真実を叫び散らかした。
『泳者デス!!!!』
「ッ!!」
思考が白く吹き飛ぶ。
コガネのネタバラシの宣告が空気を震わせたその時には、すでに目の前の青年は微塵の躊躇もなく、肩に預けていた棍棒を宙に置き去りにし、
ドゴォ!!
◇◆◇◆◇◆◇
腹部を撃ち抜いた直撃の衝撃波は、パンダの巨体を丸ごと弾丸の如く吹き飛ばした。
「が、は··········ッ!?」
内臓を持たぬ呪骸の構造でありながら、胴体の綿組織を焼き焦がすような高熱と激震が芯まで突き抜ける。
背後のコンテナへ叩きつけられた瞬間、厚さ数ミリの鋼板が椀状に歪み、耳をつんざく金属鳴動が埠頭の潮風を切り裂いた。
だがこの一撃に込められた本当の脅威は、打撃の破壊力そのものに留まらない。
(とんでもなく速く重い··········だけじゃない··········!!)
「フッ!!」
青年は宙に預けておいた棍棒を受け取ると、パンダの脇腹にバットの如く殴りつける。
メキメキと腹の表面が嫌な音を立てる。痛みのせいでとっさに出た声が、出口を失ってくぐもった響きを奏でる。青年はそれを耳にしてからパンダの体を持ち上げ、背後のコンテナへと再び撃ち飛ばす。
「ご、あ··········ッ!!」
朦朧とする意識の中、パンダは今の一撃を喰らって青年の持つ力を考える。
打撃の直後、全身の毛並みをチリチリと逆撫でし、神経組織の伝達を阻害するように這い回る痺れ。
その正体は───“電撃”
(伏黒の『鵺』と同じ·······呪力が電気のような性質を持ち、奴自身常に帯電している·······!!)
物質としての電流を術式で生み出しているのではない。
青年の纏う呪力そのものが、最初から電気の性質を帯びているのだ。
通常の呪力による肉体強化であれば、打撃の瞬間に呪力を集中させて防護を固めれば耐え凌ぐことも叶う。しかし、接触の瞬間に生じる強制的な放電現象は、防護膜の表面を素通りして肉の深部へと浸透し、神経を麻痺させて筋繊維を焼き切る。
(つまり、防御不能··············!!)
立ち塞がる敵の侮れぬ理不尽さに、パンダの思考が瞬時に戦闘の解を弾き出した。
受けて耐えるという選択肢は最初から存在しない。
(だが、それは───!!)
ならば。
(俺も同じだぜ!!)
「グ、ルァァァアアアアアアアアアアッ!!」
裂帛の咆哮と共に白い毛並みが内側から膨れ上がる筋肉の隆起によって裂け、黒い剛毛が皮膚を覆い尽くしていく。顔面には髑髏の仮面のような凶悪な面構えが張り付き、肩幅は倍近くまで拡張され、二本の太い腕が丸太のような太さへと変貌を遂げる。
いつもはバランス重視な“パンダモード”。
そして今はパンダの内に眠る三つの魂の核の一つ、短期決戦用の肉弾形態“ゴリラモード”。
「へぇ········」
青年は構えた棍を軽く肩へと担ぎ直しながら、変貌を遂げた巨体を興味深そうに眺め、薄い唇の端を吊り上げた。
防御不可能の打撃を得意とする、接近戦での切り札。
パンダは、パンダじゃない。
東京都立呪術高等専門学校学長、夜蛾正道の手によって生み出された最高傑作、突然変異呪骸だ。
「フンッ!!」
地を蹴る足音が、舗装された大地を炸裂させる。
ゴリラへと転じたパンダは青年の懐へと鋭く踏み込み、その剛腕を掌の形へと開いて相手へと叩き込んだ。
一度当たれば体が粉々になりかねない、ゴリラモードの必殺打撃。
「
掌打の接触面を起点として相手の肉体内部へと振動波を直接送り込み、外殻の防護を無視して内臓を揺るがす必殺の衝撃術式。
防御した青年の腕から鈍い音が響き、華奢な肉体へ衝撃が浸透する。
青年の両目が僅かに見開かれ、皮膚の下で骨が軋む不穏な振動が伝わった。
「内部破壊か········悪くない」
しかしその口元から零れ出たのは苦痛の呻きなどではなく、好戦的な獰猛さを秘めた乾いた称賛であった。
内部破壊を狙った渾身の激震掌を浴びせかけたはずの接触面。
しかしその間合いにおいて青年はたじろぐどころか、逆に相手を利用して重心の底へと身を沈めていた。脇下へと深く差し入れられた青年の腕が、梃子の原理を以て跳ね上げられる。足裏が地面から強制的に引き剥がされ、何キロもあるゴリラモードの肉体がまるでぬいぐるみの如く軽々と浮き上がらされた。
メキメキ、と。
厚い筋肉の繊維と骨格を模した強固な呪骸の芯が悲鳴を上げた。
パンダの右腕の付け根。
肩関節の結合部に対し、青年の手首が外側へと鋭く捻り込まれ、梃子の反動を上乗せした破壊の力が集中する。
バギィッ!! と。
竹を力任せに引き裂くような嫌な音と共に、綿の破片が周囲へと激しく飛び散った。
ゴリラの太い右前腕が肘の関節から先をごっそりと引き千切られ持っていかれる。
「がっ·······!?」
強烈な痛みに悶える声が噛み締めた奥歯の隙間から漏れ出た。
それだけではない。
青年は先程の称賛を嘲笑うかのように、パンダの技の評価を下げる。
「········良くもない」
「········ッ!!」
自分の技を馬鹿にされ、片腕を奪われながらも、パンダは空中で身を丸めて着地を試みた。
舗装されたコンクリートの路面を両足の裏で強引に削り、砂煙を巻き上げながら後方へと滑り止まる。
失われた右腕の断面からは血のような呪力の滓が漏れ出ていた。内臓を持たぬ呪骸とはいえ、魂の器の一部を物理的に強奪された損傷の重さは全身の出力を大きく低下させるに充分すぎる痛手であった。
そんな手負いの獣の佇まいを、青年は棍を軽く握り直したまま、感情の消え失せた平坦な眼差しで見つめていた。
「········普通すぎる」
一切の悪意、慈悲を感じさせぬ冷ややかな呟き。
青年の手にあるもの、パンダから千切った黒い剛毛に覆われた右腕。
常人であれば自身の欠損に目を奪われ激痛に顔を歪めて立ち竦むであろうその残骸を、青年は躊躇いなく咄嗟に戦闘の駒へと再利用していた。
視界を塞ぐように投擲してくるパンダの腕の残骸。
青年とパンダの直線を覆い隠す遮蔽物。
(そういうのにはもう────!!)
自分の腕だったものを盾にして視界を潰し、その死角を縫って叩き込む。
その戦闘方法は京都校の交流会で戦ったメカの体を使ってくる彼と同じ、ならば次に来る一手は背後から、もしくは目眩しのために投げた腕ごと貫通して殴りかかってくる。
そう読んだパンダは左の腕を構え、後ろに来た場合と素直に突進してくる場合を想定して対処できるように身構える。
(飽きてんだよ────!!)
死角に入り込んだ瞬間にカウンター、そう思っていたのに。
ボスッという柔らかい衝撃が頭に当たり、パンダの視界が僅かに傾く。そして、パンダが予想した死角には何かが突き刺さっており、しかしそれは人影なんかではなかった。
手に持っていた棍棒。
当の本人はその場から動かずに武器だけを放り投げていたのだ。
「なッ!?」
もぎ取った腕を盾にして意識を前方へと釘付けにさせ、さらに死角へと棍棒を投擲することで次の一手を背面からの強襲だと完全に誤認させる。何重にも張り巡らされた意識の誘導。相手の裏の裏をかき、防御の意識を完全に散らされたその無防備な正面へと、青年の生身の肉体がすでに迫ってきていた。
ドドドドドドドドッ!!
踏み込みと共に放たれたのは、武器に頼らぬ純粋な拳の連打。
避ける隙も、防御を固める猶予すら与えられない。
左右の拳が激しい火花を散らしながらゴリラの顔面と胸板を無慈悲に抉り抜いていく。打撃の接触面から神経の奥へと強制的に流し込まれる青白い電流。内臓を持たぬ呪骸の構造でありながら、内部の綿組織が焦げつき、口元の裂け目から白煙が噴き上がった。
そして間髪を入れずに振り抜かれた重い一撃が、巨体を容赦なく宙へと跳ね上げる。
ガァァァァンッッッ!!
何トンもの衝撃を受け止めた身体は後方へと一直線に吹き飛び、背後に聳え立つ貨物コンテナの壁へと激突した。
厚い鋼鉄の板が重い衝撃によって歪み、耳をつんざく金属の軋み音が埠頭の潮風を切り裂く。
鉄板に背を預けたまま崩れ落ち、瓦礫の粉塵の中で尻をつくパンダ。
「あ、がぁ······ッ!!」
口元から立ち上る焦げた煙と途切れ途切れの荒い吐息。
右腕を奪われ、顔面と胴体を無数に撃ち抜かれたゴリラモードとなったパンダの肉体は、すでに立ち上がることすら叶わぬ損壊を晒していた。核から滲み出る呪力の波動は見る影もなく衰弱し、陽光に照らされた視界は白く霞んでいる。
そんなコンテナの壁際で野垂れ死ぬ寸前の獣を青年は手放した棍を拾い上げると、感情の消え失せた平坦な眼差しで見下ろしていた。
「弱い」
先程と変わらない、一切の躊躇も感傷も交えぬ乾いた一言。
青年は肩を僅かに揺らし、吐き捨てるように言葉を重ねる。
「弱すぎる」
落胆の言葉。
青年の冷たい瞳にはもはや戦いを楽しむ色合いすら微塵も残されておらず、ただ路傍に転がる石ころを蹴飛ばした後のような退屈さと侮蔑の色だけが淀みなく漂っていた。
青年は手にした無骨な棍棒の先端を持ち上げ、己の側頭部へとこんこんと等間隔の乾いた音を立てて軽く打ち当てる。死線を前にして痛みに呻く相手に対し、走馬灯を見る前に足りない頭をフル回転させて思い出せとでも言わんばかりの、あまりにも露骨で尊大な挑発。
埠頭を吹き抜ける潮風がひしゃげたコンテナの隙間を抜けて微かな唸りを上げる中、青年は感情の起伏を綺麗に削ぎ落とした口調で、ある名を呟く。
「············
決まった展開、作業感のあるような響きでその二文字が青年の薄い唇から紡がれた瞬間、張り詰めていた空気がさらに一段階硬く凍りついた。
彼は今まで戦ってきた相手には必ずそう訊ねているのか、その声には駄目で元々といった感じの無気力感が含まれていた。
青年の細められた双の瞳が、壁際で荒い息を繰り返す獣の顔面を逃さず射抜く。
「
(···········ッ!!)
その名を耳にした瞬間、パンダの瞳が見開かれた。
(宿儺···········!? 何が目的だ? どうあれ虎杖にプラスにはならねぇよな)
千年前の呪いの王。
現代において虎杖悠仁の内に眠るその怪物の居所を、何故この青年が求めているのか。
「知らんな」
「·········」
パンダは痛む身体を抑え込んで短く言い放った。
真意が何であれ、目の前に立つ好戦的で危険極まりない修羅に虎杖を引き合わせることなど、最悪の破滅の引き金を引くようなものに他ならない。
己の身がどれほど損壊しようとも、後輩の命と魂を危険に晒すわけにはいかなかった。
しかし。
青年はその否定を微塵も信じる様子を見せず、ふんと鼻を鳴らして薄い唇を歪める。返答の間に生じたほんの僅かな迷いすら、百戦錬磨の直感で正確に嗅ぎ取っていた。
「········知ってる間だなぁ」
死にかけの相手の嘘を難なく見透かす眼差し。見下すように顎を上げているものの、だがその顔にはどこか予想外の喜びを宿しているようにも見えた。
ずっと宿儺について知っている者がいなかったのだろう、しかしここでようやく知ってそうな奴に出会えた。
青年は死にかけのパンダに利用価値を見出し、敵意はないように見せるために棍棒を下ろして、今際の際の慈悲を与えるように最後通告を突きつけた。
「吐けよ。殺さないでやるから」
命を拾わせてやるという、強者故の傲慢な取引。
首を縦に振ればこの場で挽き肉にされる未来だけは回避できる。普通であれば万策尽きているこの状況ではそれはまさに天から差し伸べられた逃げ道、地獄から引き上げるための慈悲の蜘蛛の糸であり、命が惜しい者ならば誰もが縋り付くであろう甘言であった。
「········」
しかしその提案を前にしても、呪骸の魂が屈服することはなかった。
パンダは巨体を微かに揺らし、血肉の代わりに赤く染まった綿屑をこぼす口元を強引に吊り上げてみせた。
己の命などよりも、後輩の平穏と託された役目の方が遥かに重い。
相手が最も欲している情報を餌にして、これ以上ないほど不敵な言葉を投げ返す。
「叔父さんがそんな名前だったかな」
「········ナメてんのか」
青年の眼差しから先刻までの僅かな愉悦が急速に引き、額に青筋が浮かび上がる。
手元に垂らしていた棍棒が青白い放電の火花をパチリと弾かせながら再び強く握り直された。せっかくの慈悲を無下にし、嘘で煙に巻こうとする獣をもはや生かしておく理由は微塵もない。
だが。
青年がその棍棒を振り上げるよりも早く、コンテナの壁際にへたり込んでいた巨体の内側から、異様な地鳴りが湧き上がった。
ボコッ、ボコボコッ!! と。
「
「!!」
痛みに喘いでいたはずの喉から放たれた、太く猛々しい咆哮。
ゴリラの黒い剛毛が内側から沸騰したかのように激しく波打ち、肉の繊維そのものが急激な変異を遂げていく。皮膚の表面が分厚い角質となって硬化し、幾重にも重なる強固な外甲となって全身を覆い尽くしていく。
いつも飄々としたパンダ。
短期決戦用の肉弾戦を司るゴリラ。
そして。
その二つの核のさらに奥底に秘匿されていた、夜蛾学長すら滅多に解放するなと固く戒めていた第三の魂。
「
隆起する骨格の軋みと共に空間を満たす呪力の波紋がさらに一段階、異質な重みを帯びて膨張していく。
頭部を取り囲むようにせり上がったのは、何千万年もの昔に地上を闊歩していた三本角の恐竜、トリケラトプスを彷彿とさせる分厚く張り出した巨大な仮面であった。
その額から天を衝くようにして突き出た巨大な角は硬質化の極みを示し、まさに太古の巨獣だけが宿す威容と重圧そのもの。
しかし、その圧倒的な凶異を戴く頭部の下、急速に変形を遂げていく胴の骨格は雄々しい野獣のそれとは大きく趣を異にしていた。
毛並みが収縮して滑らかな表皮へと引き締まり、無骨な筋肉の塊であった胸元から腰回りにかけての線は驚くほど細く、しなやかな女性の肉体を思わせる優美な佇まいを描き出していく。
引き締まった肋骨の起伏、華奢さすら感じさせるくびれた腰の線、そして均整の取れた長い脚。頭部に戴く巨大な恐竜の盾と角に対し、首から下は繊細な女性の優艶な骨格が融合しているという、およそ呪骸の常識から外れた奇怪極まりない異形の造形。
それこそがパンダの内に秘められた最後の切り札────通称“お姉ちゃんモード”。
青年の瞳がそのアンバランスでありながら並ならぬ破壊の気配を秘めた変貌の前に晒され、退屈の底から僅かに細められた。
「目が合った奴はみんな────」
立ち昇る熱気と地面を震わせる凄まじい呪力の波動。
太古の巨獣の頭部と女性の細身を併せ持った異形が、地響きのような気迫と共に大地を踏み抜いて猛々しく吼える。
「照れ殺しだぜ·······!?」
「·······」
パンダの切り札は今まで出されることはなかった。
というより、出す場面がなかった。
だからその効果は誰にも明かされず、つまりは誰の目にも触れず秘匿され続けてきた未知の力だからこそ、この手詰まりの状況を覆す唯一無二の起死回生の一手となり得るのだ。
情報が開示されていないという一点において、呪術戦における優位は揺るぎない。
いかなる手練れであろうと、初見の術や変則的な攻撃の軌道を完璧に読み取ることは極めて困難。ましてや、パンダの頑健さともゴリラの剛腕とも異なる、この形態が秘める独自の挙動。夜蛾正道が心血を注ぎ、魂の調和の最深部に隠し置いた異端の奥義が、眼前の修羅を討ち果たすための必殺の一撃へと昇華されようとしていた。
パンダは刃物のような視線で青年を睨みつけ、
ドゴォォォォンッ!!!!!!
刹那。
目の前にいる青年が迎え撃つために身を低く沈めた、まさにその瞬間に大気を引き裂く光が突き抜け、パンダの胴体を真っ向から貫いた。
爆風と共に血と綿が四方八方へと激しく撒き散らされ、巨獣の肉体は一瞬にして跡形もなく消滅する。
唯一、地面をごろりと転がって原型を留めているのは頭部のみ。
あまりの出来事を前に、パンダは何が起きたのか理解する暇もなかった。
彼に分かるのは何かされたこと、そして目の前にいた青年がずっと退屈そうにしているということくらいだった。
それだけ分かれば充分だった。
もはや自分の身に何が起きたのか理解する必要もない。
敗北。
その二文字が脳裏に過ぎった瞬間、青年は相も変わらずな調子の声で冷酷に告げる。
「で? どこだよ宿儺?」
◇◆◇◆◇◆◇
「·······」
パンダは夢を見ていた。
幼い頃に過ごした穏やかな日常の夢。
温かな木漏れ日の中で笑い合っていた最愛の兄と姉、そして生みの親であった父との団欒。
だがその愛おしい家族達の背中は引き留める間もなく遠ざかり、暗がりの中へと離れていってしまう。
胸を引き裂かれるような悲しみが魂の底を満たしていくはずなのに、現実はそんな感傷に浸る猶予すら与えず、無情にも覚醒の苦痛を突きつけてきた。
意識が白日の光の下へと引き戻される。
視界を満たしたのは青空でも立ち並ぶコンテナの並びでもない、焦げた綿と黒煙が燻る地面の上に散乱する、自らの吹き飛ばされた肉体の残骸であった。
お姉ちゃんモードの細身の胴体は跡形もなく消滅し、ゴリラの核も姉の核も、すでに沈黙を保ったまま二度と目を覚ます気配はない。
青年は棍棒を肩に置いたまま、足元に転がる哀れな獣の頭部を冷淡な眼差しで見下ろしていた。
「点が入らねぇってことは死んでねぇのか」
淡々とした独り言。
死滅回游のルール上、泳者を殺害すればコガネの報告を通じて得点が加算される。
その通知が来ないということは、肉体をどれほど粉砕されようとも、この異形の頭部の中に本来の魂がまだ宿っているという証拠であった。
「パンダは表情が分かりづらくていけねぇ」
青年は肩を竦めると転がっていたパンダの頭部へと歩み寄り、手にした棍棒の先端をまるで汚物を掬い上げるような動作で深々と突き刺した。
太い串に刺された肉塊の如く、無惨に掲げ上げられるパンダの生首。
「さっさと吐けよ、宿儺のこと」
突き上げられた棒の先で、パンダは激痛に意識を削られながらも、焦げ付いた口元を僅かに歪めて息を吐き捨てた。
「悪いな··············パンダは口が堅い」
胴体を失い、核を二つ壊され、もはや死を待つばかりの残骸となってもなお仲間の情報を売り渡す気など微塵もない。
呪骸、先輩としての誇りを懸けた最期の足掻き。
その強情な返答を耳にして、青年は瞳をつまらなそうに細め、冷ややかに呟いた。
「·······そうか」
心の底からガッカリしたような声。
青年は掲げていた棍棒の穂先に乗せた頭部を真正面から見据えると、その凶暴な殺意を宿した瞳を獰猛に見開いてみせた。
「じゃあ二度と開かなくしてやるよ」
トドメの一撃を以て、その頭蓋を確実に粉々に砕かんとする宣告。
青年の腕に青白い火花が激しく散乱し、死の鉄槌が振り下ろされる。
「
背後から響いてきた声。
彼の立っているちょうど真後ろ。
そこにはコンテナがいくつも積み重なっているはずで、だが人の気配はなかったはずだ。
しかし。
まるで瞬間移動でもしてきたかのように唐突に現れたその気配は、青年に向けて五つの光の球を放ってきていた。光弾は精密誘導爆撃の如く、地面をガラス細工のように粉砕する。
一瞬にして視界を遮られ、青年がいた場所は砂煙に覆われる。
「·······」
まさに爆心地のような一角。
その中で、青年はさっきと変わらない格好で平然と立っていた。
彼は後ろへ嫌そうに振り返り、嫌そうに眉を顰めた。
若干、苛立った視線を向けて。
「
視線の先、そこには“二人”誰かが立っていた。
一人は雑魚、戦おうとする気力はあれど、その肉体には戦う術を持っているようには見えない。
だが。
その隣にいる────“少女”。
そっちは悪くないと思えた。
「·······ハッ」
目の前に立つ少女の姿を視界に収めた瞬間、青年の細胞がチリチリと歓喜に震えた。
さっきの攻撃から感じ取ったもの。
少女が纏うのは白と紺、そして呪術的な装飾とは一線を画す奇妙に洗練された金縁の鎧であった。頭に被ったふざけた帽子や剥き出しの細い太腿は一見すればただの子供だが、騙されはしない。要所を固める硬質な装甲は、これから始まる『殺し合い』に耐えうるだけの強度を充分に物語っている。
そして何より、その背。
肩と背中から不気味に、だが美しく展開された漆黒の翼。
あれはただの飾りじゃない。
あの翼を中心に周囲の空間そのものが歪められるような、凄まじいほどのプレッシャーがこちらを圧してくる。
視界の端で捉えた羽虫をただ億劫そうに眺めるかのような冷ややかな目から、次の瞬間には彼の口元が歪なほどに広く、深く、吊り上がった。
それは飢えた獣が獲物を前にして、肉を引き裂くために牙を剥き出しにするような闘争の笑みだった。
じわじわと、しかし確実に彼の整った顔立ちを壊すほどにその唇が左右へと裂けていく。
「
西の人間特有のイントネーション。
そして強気な口調。
青年にとってその発言はむしろ逆効果。
「おい」
青年は顔を上げる。
自分よりも高い位置から見下ろす小娘に向けて、凶悪に微笑む。
「あんまワクワクさせんなよ!!」