彼女はその力の強大さから、『歩くロストロギア』と称されている。
古代ベルカ式の魔法体系や魔導書型ストレージデバイス“夜天の書”、“リインフォース”から継承した魔法の知識を持ち、規格外の魔力量を誇っている。何より彼女のその優れた頭脳は指揮官のそれであり、部隊への適切な指揮やサポートを得意とし、盤面全体を俯瞰しながら味方の陣形を整え、戦局を有利へと導く後方支援において彼女の右に出る者はいない。
彼女が真価を発揮するのは敵と刃を交える最前線ではなく、目視すら叶わぬ遥か後方の陣地。
地平線の彼方から敵勢力の拠点ごと焼き払う広域制圧や、地図の区画一つを塗り潰す戦略級の大規模魔法を行使させれば、単独で戦況そのものを根底から覆す破壊力を叩き出す。広大な戦場に大量の砲弾を雨霰と降らせ、味方の進軍路を切り開く長距離砲撃こそが、八神はやてという魔導師の真骨頂であった。
しかし。
その圧倒的な破壊力と引き換えに、彼女の戦法には明確な偏りが存在していた。
広域魔法の詠唱と術式の構築には、相応の時間を要する。
莫大な魔力を束ね、座標を指定して解き放つためには、その場に立ち止まって魔法陣を展開し続けなければならない。機動力はお世辞にも高いとは言えず、目紛しく間合いが入れ替わる超高速の乱闘や、一瞬の判断が生死を分かつ近接格闘戦は本来であれば彼女が最も苦手とする部分であった。
細かな並列処理や近接戦の脆さを補い、鉄壁の守りと機動力を与えていたのは、かつて己の半身として寄り添っていた“リインフォース”の存在。
だが彼女はその力を失い、新たな小さな家族へと引き継がれた今の状態において、彼女は単独での近接戦闘能力を大きく削ぎ落とされている。
そして、今。
「あんまワクワクさせんなよ!!」
彼女の眼前に立ちはだかっているのは、知略も対話も介さぬ純度一◯◯パーセントの戦闘狂。
間合いを詰め、相手の肉体を破壊することだけに特化した、
「·······ッ!!」
コンテナの上から見下ろしながら、はやては冷たい汗が頬を伝うのを感じていた。
手にした剣十字をあしらった金色の杖────“シュベルトクロイツ”を握る指先に、無意識の緊張が宿る。
距離にして、僅か数十メートル。
この間隔は広域殲滅を得意とする彼女にとってはゼロ距離に等しく、そして眼下の男にとっては瞬き一つの踏み込みで一気に詰められるほどの余裕の間合いであった。
だからできれば、さっきの威嚇射撃で戦意を奪いたかったが、それは逆効果だったようだ。
威嚇射撃の主な意図は相手に危害を加えることではなく、銃火器の威力を見せつけて恐怖を与え、相手の行動を抑止・牽制することにある。
はやてはそれを目的として最初強力な大技を見せ、しかしほとんど当てないようにしたことでその身に危害を加えず、その結果として相手に『これ以上抵抗すれば危険である』と認識させて戦意を喪失させようとしていた。
だが。
その理知的な抑止策は、眼前に立つ異端の獣には何の意味もなさなかった。
恐怖による制動など、命を惜しむ凡夫にしか機能しない。
男の瞳に宿っているのは、威嚇によって怯むどころか未知の強敵と巡り会えたことへの飢えと、獰猛な歓喜そのもの。
見せつけられた巨大な破壊の兆候すら、男にとってはただ極上の獲物が目の前に現れたという合図でしかなかったのだ。
(アカン·······この人、話し合いで大人しくしてくれるようなタイプやない·······!!)
規格外の弾幕による威嚇射撃を物ともしない青年にはやてが内心で奥歯を噛み締めた、まさにその時。
バヂッッ!!
青白い火花が青年の足元で激しい破裂音を立てた。構えらしい構えすら取らぬまま、男の重心が僅かに沈み込んだかと思った次の瞬間。
ドゴォッッ!!
男が立っていた足元の地面が凄まじい脚力によって深く陥没し、砕けたアスファルトを四方へ吹き飛ばした。
物理的な破壊音を置き去りにし、青年の姿がその場から掻き消える。
何の前触れもない超初速の踏み込み。
弾丸の如き軌道を描いて跳躍した青年は、はやてが立つコンテナの屋根の高さすら一息で飛び越え、すでにその直上へと影を落としていた。
「!?」
「ハッ!!」
手にした棍棒を振りかぶり、容赦のない凶弾の如き一撃がはやての華奢な頭部へ向けて一直線に振り下ろされる。
棍の先端には、チリチリと空気中の粒子を焼き焦がす帯電の呪力が濃密に収縮していた。
「アインス────ッ!!」
思考を巡らせるよりも早く身体が動いていた。
どれほど莫大な魔力を蓄えていようと、肉体そのものは普通の少女に過ぎない。青年の踏み込みから跳躍、そして頭上へ達するまでの神速の軌道は八神はやての動体視力では点と点を結ぶことすら敵わぬ速度であった。
反応の遅れは致命的な隙を生む。
だが。
頭上へ落ちてくる死の鉄槌よりも、はやての意識は隣に立つ無防備な半身へと向いていた。
突き出した右の掌が隣に立つアインスの肩を力任せに突き飛ばす。
衝撃から遠ざけるようにして庇い、自らの身体をその場へ置き去りにした、ほんの一瞬の出来事。
「主────!?」
悲痛な叫びが空気を震わせた時にはもう遅かった。
青年の振り抜いた棍棒が、はやての右肩から側頭部にかけての空間を強烈に薙ぎ払った。
ドガァァァンッッ!!
直撃の瞬間。
大気を焦がす青白い火花が炸裂し、凄まじい衝撃の余波がコンテナの屋根を激しく震わせる。
防御障壁を展開する暇すら与えられぬまま、何百キロもの重い衝撃をまともに叩き込まれたはやての小柄な身体は鳥の羽のように宙へと跳ね上げられ、コンテナの上から地上へ向けて一直線に叩き落とされた。
「··············は?」
それに一番最初に驚いたのは吹っ飛ばされた八神はやてではなく、むしろ青年の方だった。
あれだけの破壊力。
威嚇射撃であることは分かっていたが、先程の威力を見ればこの子供は間違いなく規格外の手練れであると確信していた。
天を衝くほどの高密度なエネルギー、地形を容易く塗り替えるだけの莫大な出力。
並の術師であれば存在の格の違いに気圧されて平伏するほどの威圧感を放っていたからこそ、久方ぶりに骨の髄まで熱くなるような死合いを期待して跳びかかったのだ。
なのに。
棍棒を振り抜いた青年の腕に残ったのは強者の肉体や強固な防護膜を砕いた確かな手応えではなく、ただの無防備な小娘を力任せに打ち据えただけの酷く頼りない衝撃であった。
(おい·········冗談だろ·········?)
青年は振り抜いた棍棒を宙で止め、信じ難いものを見るかのような疑念をその瞳に浮かべた。
相手が隣の連れを庇って反応を遅らせたという差し引きを考慮したところで、あまりにも脆い。どれほど莫大な力を内に秘めていようと、それを扱う器そのものはただのひ弱な子供の域を何一つ出ていないではないか。
威嚇で見せたあの天変地異のような制圧の気配は一体何だったのか。
虚仮威し、か?
あるいは身体能力といった基礎部分の鍛錬を放棄し、遠くから大技を撃ち込むことだけに特化した木偶の坊なのか。
胸の内を満たしかけていた好戦的な熱が急速に冷え込んでいくのを感じながら、青年はコンテナの縁へと視線を向け、地上へ向けて吐き捨てるように呟いた。
「興醒めさせんなよ·······」
「お前ぇぇぇええええええッッッ!!」
主がやられ、しかも侮辱されたことに怒りを覚えない家来はいない。
主を眼前で無惨に打ち据えられたことへの憎しみが理性を全て焼き切っていた。突き飛ばされてコンテナの天板に膝をついていたアインスは立ち上がる勢いそのままに地を蹴り、目の前の青年へと突貫していた。
その瞳を赤く見開いて振り抜かれたのは、ただの拳。
己の命に代えても主を守るという誓い、その純粋な激情だけを推進力にした、迷いのない右手。
だが。
どれほど強い思いを込めようと、今の彼女はかつての力を失い、かろうじて肉体をこの現世に保っているだけの燃え滓に過ぎない。放たれた拳には風を裂くほどの速度もなければ、術師の体を揺るがすほどの力も乗ってはいなかった。
「·······」
青年は眉一つ動かすことなく、ただ頭の位置を僅かに横へと傾けた。
それだけの最小限の動作で必死の拳は空を切り、虚しく大気を撫でるだけに終わる。
踏み込んだ勢いのまま前のめりに崩れかけたアインスの無防備な横顔を、青年は感情の抜け落ちた乾いた眼差しで見下ろした。
「雑魚にはもっと興味ねぇ」
「ッ!?」
吐き捨てられた言葉とほぼ同時。
青年は肩を引くことすらなく、手首の返しだけで無造作に裏拳を振るった。
バギィッ!!
乾いた破裂音がコンテナの上で短く響く。まともな防護膜すら持たない小さな身体は、容赦のない衝撃を受け止めて一瞬で宙へと弾き飛ばされた。
ガァン!!
数メートル後ろに積まれていた別のコンテナの壁へ背中から深々と叩きつけられる。鈍い衝突音と共に鉄板が窪み、減り込むようにして受け止められたアインスの華奢な体から一瞬にして力が抜け落ちた。
「·······あ、ぐ·······」
肺の底から微かな空気の漏れる音が零れ、そのまま瞳の奥の光が途切れる。
壁面に背を預けた姿勢のまま、アインスの意識は抗う間もなく闇へと落ちていった。
青年は手元に視線を落とし、軽く指先を払うように動かした。その顔には怒りすら湧いてこないと言わんばかりの深い呆れが張り付いている。
(せっかく庇ってもらった恩を自分から無駄に投げ捨てにくるなんてな·······)
先刻の小娘が己の身を危険に晒してまで咄嗟に突き飛ばした相手。
そこまでして守りたかったはずの連れが何の策もなく感情に任せて突っ込んできて一瞬で自滅したのだ。
命のやり取りにおいて、これほど滑稽で無意味な愚行はない。
「どいつもこいつも·······期待させるだけさせといてこれかよ」
青年は肩に棍棒を預け直し、再びコンテナの縁へと歩み寄った。
もはや背後に転がる意識不明の残骸に意識を割く気は微塵もなく、その冷めた視線は先程地上へと叩き落とした白の鎧を身に纏った小娘がいる場所へと向けられていた。
◇◆◇◆◇◆◇
八神はやては魔導師の中では最強クラスだが、それでも無敵ではない。
この世界······いや、あらゆる次元世界には強い者は星の数ほどいる。
それを味わったのは、自分が夜天の書の主となる前、手に持っているこの魔導書がまだ『闇の書』と呼ばれていた時に出会った怪物────“両面宿儺”だ。
その存在はまさに人知を超越した、圧倒的な暴力の権化。
ただそこに存在するだけで空間そのものが歪み、理不尽な死の重圧によって息の根を止められそうになった、あの悪夢のような日の記憶。世界はどこまでも広く、天の外にはさらに高い天が存在するという厳然たる事実を彼女はその魂に消えぬ傷跡として刻み込まれていた。
そして、そんな怪物相手に唯一対抗できるであろう男。
宿儺という怪物を宿していた少年の担任である“五条悟”でさえも、常識をその根本から覆す異次元の領域に立つ規格外の存在であった。
呪術界における天秤を一人で大きく傾け、あらゆる理を軽々と凌駕する最強。
無限を操るその瞳の奥には、どんな攻撃すらも届かせぬ不可侵の壁と、空間そのものを掌の上で弄ぶかのような、掴みどころのない圧倒的な余裕が広がっていた。あの闇の書の闇と呼ばれたナハトヴァールの前へと平然と躍り出て、微笑みを浮かべたまま全てを無力化していくあの男の姿を目の当たりにした時、はやては魔導師として覚醒しても自分が生きてきた世界の常識がどれほど矮小なものかを痛感させられたのだ。
世界にはどれほど知略を尽くし、どれほど莫大な魔力を束ねようとも、ただ存在しているだけで全てを規格外の次元へ引き摺り込む怪物が実在する。
生を受けたこと、それ自体で世界の均衡が崩壊してしまうような、どうしようもない世の中なのだ。
その残酷なまでの強者達を知っているからこそ、八神はやてという少女は自らが背負う大いなる力に溺れる慢心など、これっぽっちも抱いてはこなかった。どれほど強大な力を手にしていようと、立ち回りを一つ誤れば一瞬にして命を刈り取られるのが戦場という場所の掟である。
しかし。
それを理解していたはずの頭を以てしても今の一撃はあまりにも速く、そして重すぎた。
「······っ、ふ······ッ······!!」
闇へと落ちかけていた意識の底から、焼けるような痛撃と共に神経の感覚が急速に浮上してくる。
小石混じりのアスファルトに突っ伏していたはやては微かに震える指先で荒い路面を掻くようにして掴み、噛み締めた奥歯の隙間から荒い息を漏らしながら必死に頭を持ち上げた。
側頭部と右肩を同時に薙ぎ払われた衝撃は、未だ頭蓋の奥で不快な金属音のような耳鳴りを響かせ続けている。
殴打された皮膚の表面には肉を直接火で撫で回されたかのような異質な熱が燻り、侵入してきた青白い電流の残滓が神経の伝達を掻き乱すようにして細かく爆ぜていた。騎士甲冑が展開する防護膜が衝突の勢いを何割か減少させてくれていなければ、骨ごと粉々に粉砕されて即死していてもおかしくはない凶撃。
(私、今······何秒······気を失って、た······?)
吹き飛ばされ宙を舞い、地面へと叩きつけられるまでのほんの僅かな空白。
視界の端で激しく明滅する黒と白の靄を振り払うように、はやては頭を振った。
身体の各部から送られてくる痛みの信号を総督としての冷静な思考で強引に抑え込み、手放さずに握りしめていたシュベルトクロイツの感触を確かめながら、荒れた呼吸を整えていく。
さっきと変わらない青空の下、潮風が容赦なく吹き抜ける埠頭の敷地、散乱するコンクリートの破片、先程放った威嚇射撃の光弾が鋭く抉り取った地面の亀裂。
さらに少し離れた路面には、胴体を失って綿を燻らせたまま転がっている、あの奇怪な獣の頭部。
そして。
はやてが激痛に軋む首を強引に持ち上げ、先刻まで自分が立っていた頭上のコンテナの屋根へと視線を上げた瞬間、信じられない光景が目に飛び込んでくる。
(······アインス······!?)
瞳が見開かれ、体を冷たい氷柱で貫かれたかのような戦慄が全身を駆け抜けた。
そこには己の身を危険に晒してまで突き飛ばし、確かに守ったはずの家族の姿があった。
厚い鉄板の壁面に不自然な角度で背中を預け、衝撃によってへこんだ鋼鉄の窪みへと沈み込んだまま、糸の切れた操り人形のようにぐったりと力を失っている小さな身体。
呼びかけに応じる気配はなく、その豊満な胸の上下すら判別できないほどの静寂の中に沈んでいる。
何が起きたのか。
自分が叩き落とされた僅か数秒の間に、大切な家族である彼女に何があったのか。
事態を全て呑み込むよりも早く、はやては起き上ろうとして、
「おい」
眼前からの無機質な呼びかけ。
はやてが息を呑んで視線を据えた先、すぐ目の前に降り立って棍棒を肩に担ぎ直した青年が、失望の色を湛えた瞳でこちらを見下ろしていた。
青年は手にした棍棒を肩の上で軽く揺らして心底退屈そうに、そして駄目で元々といった無気力な響きを乗せて訊く。
「オマエみたいな餓鬼相手に聞いても仕方ないと思うが······
「···········ッ!?」
青年の口からその名を聞いた瞬間、はやての思考が凍りついた。
驚愕のあまり、激痛に苛まれていた身体の感覚すら一瞬にして吹き飛ぶ。
(宿儺······!? この人今、宿儺って······!!)
さっきも思い出していたあの怪物、それをこの青年はまるでいて当たり前のような感じで普通に言い放った。
それはつまり、
(どうやら············ほとんど当たりみたいやな)
薄々とは勘づいていた、というよりほぼ確信の一歩手前だった。
この異質な空間へ足を踏み入れた時から抱いていた、強い違和感。
今日の海鳴の朝のニュースでは、いつも通りに人々が行き交って賑わいを見せていたはずの東京の街並みが、まるで街ごと神隠しに遭ったかのように静まり返っていたこと。人の気配が完全に掻き消えたゴーストタウンの路地裏や路面には見るに堪えない遺体が幾重にも転がり、異常な血の臭いと異質な瘴気だけが立ち込めていたこと。
それだけ分かれば嫌でも理解する。
自分達が普段暮らしている日常とは何重にもかけ離れた、別の異常事態の中に放り込まれているのだと。
だが。
目の前の青年の口からその二文字が紡がれたことで、曖昧だった疑念は正式な確信へと変わった。
ここは間違いなく、
しかし、これだけは分からない。
(なんでこの人··········宿儺を探しとるんや··········?)
夜天の書の主として、そして組織を統括する指揮官としての頭脳が、即座に無数の可能性を弾き出していく。
宿儺の配下か。
あるいは、かつてその怪物によって壊滅させられた集団の残党か。
いや。
目の前の男が纏う───闘争への純粋すぎる飢餓感。
命のやり取りそのものを貪るような眼差しを思い返せば、忠誠や配下などという生ぬるい繋がりであるはずがない。この男はおそらく、あの怪物と刃を交えるために、自分の命すら平然と賭け金にして探し回っている狂人なのだ。
いずれにせよ、まともな人間であるはずがない。
不信感と強い警戒がはやての胸の奥でどす黒い渦となって膨れ上がっていく。
瓦礫の地面を手で押さえ、立ち上がろうとする身体を支えながら、はやては青年の冷えた視線を真正面から睨み返した。
「知らん、そんな奴」
「··········」
絞り出された否定の言葉。
表面上は己の身と情報を守るための防衛的な否定であり、関わりを断ち切るための冷淡な言い回し。
しかし。
その口から紡がれた『そんな奴』という言葉に乗せられた熱量は、あまりにも重く、そして深すぎた。
微かに震える声の底から滲み出る、隠しきれぬ激しい憎悪と怨嗟の響き。
一度たりとも会ったことのない赤の他人に対し、これほどまでに凶暴な感情の重みを込めて吐き捨てるはずがない。この少女は今、言葉の裏でその名の主の首を絞め、心の中で幾度も殴り殺しているのだと青年には手に取るように分かってしまった。
青年は薄い唇の端を吊り上げ、冷淡な侮蔑の中に僅かな嘲笑を混ぜて告げた。
「··········知らない割にはものすごい顔で睨んだな」
青年は肩に乗せた棍棒の位置を少し直しながら、退屈そうに細めていた瞳の奥に不気味な薄い光を灯らせた。
先のパンダといい、目の前の小娘といい、この時代の連中は案外宿儺という怪物の存在を知る者が多い。
死滅回游に放り込まれてからというもの、出会う泳者はどいつもこいつも雑魚ばかりで、名前を出したところで怯えるか首を横に振るだけの退屈なゴミ屑ばかりであった。
だが。
ここに来て立て続けに二度、核心に近い手応えを引いている。
四◯◯年の時を超えてなおも求め続けた宿命の相手へと繋がる糸口が、確かにこの時代のどこかに存在しているという確信。
それは退屈に飽きていた男の胸の内に、小さな希望の兆しが宿るには充分であった。
しかし───それと同時に一つ不可解な矛盾が男の思考を掠める。
(··········
先程の泳者が口を割らなかったのは理解できる。
おそらくは仲間を守るためであろう、宿儺が仲間とは考えにくいのだが。
だが、この小娘の瞳に宿っているものは、ただの義務感や仲間意識だけでは説明がつかない。
皮膚を焦がすほどの純粋な敵意、その存在をこの世から消し去りたいと願うほどの昏い執念。それほどまでに深い怨恨を抱えているならば、居場所を吐き出して自分のような狂人にぶつけることこそが最も手っ取り早い復讐のはずだ。
宿儺のような圧倒的に強い相手、しかもかなり凶悪らしい。
わざわざ自分の命を危険に晒してまで、憎悪の対象を隠し立てする理由がどこにあるというのか。
理解の追いつかぬ不可解さに青年は顎を持ち上げ、侮蔑を交えた低い調子で改めて問う。
「オマエのその様子じゃ、宿儺を相当恨んでるように見えるが?」
痛烈な矛盾を突きつける冷ややかな指摘。
だがその追求を前にしても、はやては狼狽えるどころか瓦礫に手をついた姿勢のまま唇を歪め、ふてぶてしい挑発の笑みを浮かべてみせた。
かつて自分達を絶望の底へと叩き落とした、あの忌まわしき呪い。
その怨恨の深さは今なお消えてはいない。
しかし。
その怪物が巣食っているのは、誰よりも優しく、自分達を救ってくれた大切な恩人である“あの少年”の身体なのだ。
宿儺の居場所を売るということは、無二の恩人であり、共に戦ってくれた仲間である“あの少年”を、目の前の修羅の餌食として差し出すことと同義であった。
激痛に軋む身体の奥から湧き上がる、総督としての覚悟。
少女は見下ろす青年の冷酷な視線を真正面から射抜いて言い放つ。
「知らん言うとるやろ············むしろ、
「·········」
はやてのあからさまな態度に、青年はさらに目を細める。
知らないのは嘘ではない。
ここに来たのもついさっきだし、事情もほとんど理解していない。高町なのはの後を追って自分達も亀裂に触れ、そして“コガネ”という未知なる生命体からのルール確認に応答したら、皆が例外なく吸い込まれた。
それで放り出された先が静まり返った東京の街並みで、そしたら人が何人も死んでいるという地獄絵図。その凄惨な風景に直面した時、はやてが真っ先に思い浮かべたのは、かつて共に背中を預けあい、そして自分達の世界へと帰っていった一人の少年の姿であった。
“虎杖悠仁”
人を救うために呪いを自らの内に呑み込み、背負うべきではない過酷極まりない宿命の中に立たされながらも、どこまでも澄んだ光を宿した笑顔を向けてくれた、かけがえのない恩人。
彼が今どこで何をしているのか、この凄惨な殺戮の舞台に巻き込まれているのかすら、八神はやてには知る術がない。だが、宿儺という怪物の名をこの青年が平然と口にした以上、あの少年がこの地獄のような異常事態の中心に置かれている可能性は極めて高かった。だからこそはやてが放った『知らん』という言葉は、青年に向けた頑なな否定であると同時に、偽らざる真実そのものでもあったのだ。
居場所は本当に知らない。虎杖が今どこで、誰とどのような苦痛に耐えながら戦っているのか。
呪いの王の意識を確実に抑え込めているのか、それとも再びあの悪夢のような惨劇に呑み込まれそうになっているのか、何も分からない。
分からないからこそ、はやて自身が誰よりも彼を探し求め、一刻も早くその手を取らなければならないと思っていた。
あんな怪物を探したいのではない。
その怪物に対して今なお苦しみに耐えながら戦っているであろう大切な友人を、自らの手で救い出したいのだ。
少女の薄い唇の端に浮かんだ笑み。
それは宿儺という怪物の名を知ることを隠そうともしない不敵な挑発でありながら、同時にその怪物を追い求める青年の狂気とは全く異なる純粋な祈りと守護の誓いが込められたものであった。
「·········」
青年は手にした棍棒を肩の上で軽く弄びながら、その少女の表情を冷淡な眼差しで見つめていた。
───嘘をついている気配はない。
その小娘の眼差しには、隠し立てをしている者の後ろめたさは微塵も存在しなかった。
しかし。
その口から放たれた熱意の矛先は、自分が求めているものとは決定的に違っている。宿儺と命を削り合うための闘争への飢えでもなければ、その力を恐れ慄く怯えでもない。
どこか温く、甘ったるい、他者を案じるような類の執着。
そして何より。
「·········チッ」
青年は微かに舌打ちを漏らした。
この時代の連中は、どいつもこいつも要領を得ない。
先のパンダもそうだ。宿儺を知っていそうな素振りを見せながら、くだらない隠し事のために口を閉ざし、挙句の果てに無駄死にを選ぼうとした。
そして目の前の小娘も同じだ。
膨大な力をその身に宿しながら、肝心の居場所についてはまるで要領を得ず、さらには自分の命が風前の灯火であることすら理解していないような顔で笑って見せている。
青年が求めているのは、命を懸けて喰らい合うに足る本物の修羅だけだ。
四◯◯年の時を越えて受肉し、この退屈な殺戮の遊戯に身を投じた唯一の理由。
それ以外のものに割く時間など、この術師の人生には一秒たりとも残されてはいない。
小娘の言葉に嘘偽りはない。だが、それは同時にこれ以上この場で何を問い質そうとも、求める答えが得られないことの証明でもあった。宿儺への憎悪を滾らせながら肝心の怪物の居場所すら把握しておらず、あまつさえ己の命を投げ打ってまで何かを守ろうとするような胡散臭い執着。
そんな下らん感傷に付き合ってやる義理など微塵もない。
時間は有限。
それは四◯◯年に文字通り痛いほど味わった。
「·········まだ自分がどういう状況かわかってねぇのか」
「生憎やけど、自分の置かれとる立場くらい嫌というほど分かっとるよ·········せやけどな、あんたみたいな危なっかしい人に素直に従う気は、これっぽっちもあらへんのよ」
「·········言い方変えようか?」
青年は肩から棍棒を下ろし、先を地面へ向けながら一切の温度を消した瞳で告げる。
「宿儺について知ってること全部吐かねぇと───殺す」
脅しでも、単なる虚勢でもない。
路傍の草を踏み躙るかの如く、なんら特別な感情を交えずに命を奪い去るというただの殺害予告だけを淡々と告げる。
瞳の奥にあったはずの好戦的な光すら完全に掻き消え、そこにあるのは不要となった障害物を手早く排除するためだけの無機質な殺意のみ。
宿儺と同じ、遥か昔から幾多の命を奪い、死線を越え続けてきた者だけが醸し出す、乾いた断罪の気配。
だがその首筋を凍りつかせるような死の宣告を前にしても、少女の強靭な精神が屈服することはなかった。
「なんべん聞かれても答えは同じや。知らんもんは知らん」
痛みに軋む身体を支えながら、はやては青年の鋭い視線を正面から睨み返し、臆することなく言葉を突っぱねた。
今にも振り下ろされようとしている武具を前にしても、その瞳に宿る光は揺るがない。
しらばっくれるような平然とした返し。
だがそこには、自らの身を盾にしてでも恩人を守り抜くという、揺るぎない覚悟が沈んでいた。
「·········いいだろう」
吐き捨てられた言葉はあまりにも平坦で、そして心底冷え切っていた。
青年の纏う空気がふっと変わる。
好戦的な熱が退き、ただ目の前にある塵芥を片付けるためだけの、無機質な事務作業の冷たさへと変化していく。宿儺の居場所を知らず、まともに殴り合うことすらできない小娘など、雑魚と何ら変わりはしないのだ。
青年は手にした棍棒に力を込めた。青白い放電の火花が肌の表面をチリチリと舐めるように走り始める。
パンダの頭部を貫こうとした時と同じ、一切の慈悲も迷いもない処刑宣言。
「じゃあもう用はない」
見下ろす青年の眼光が、はやての眉間へと向けられた。
言葉による探り合いは終わりを告げ、ただ一方的な死の鉄槌が振り下ろされようとしている。
「········ッ!!」
はやては痛みに軋む身体を奮い立たせ、荒れた息を奥歯の隙間から押し殺した。
側頭部を打たれた衝撃は未だ頭蓋の奥で不快な金属音のような耳鳴りを響かせ続け、殴打された肩の防護膜が失われたことによる熱傷のような痛みが全身の神経を苛んでいる。
だが頭上で棍を構え直した青年の姿を捉えた瞬間、はやての思考は痛みを置き去りにして加速を始めた。
相手は目にも留まらぬ速度で間合いを詰めてくる生粋の近接格闘者、大技の詠唱を狙う余裕などこの間合いには存在しない。こちらが魔法陣を展開し、術式を編み上げる隙すらこの男にとっては首を刈り取るに充分すぎる時間となる。
ならば、選ぶべき手は一つしかない。
大技の構築ではなく、初動を潰すための即応防御。
相手の足を止め、この致命的なゼロ距離から脱するための広域の拘束。
青年がトドメを刺すために腰を落とした。その太腿の筋肉が収縮し、青白い火花が靴底の下でパチリと弾ける。先のはやてを一撃でコンテナの上から叩き落としたあの超初速の踏み込みが再び再現されようとしていた。
その瞬間を、はやては見逃さず、
ズン、チャッ、ズン、チャッ───!!
その直前。
どこか電子的な、耳に残る軽快な音楽。
緊迫した戦場に漂う血生臭さを吹き飛ばすような、あまりにも不釣り合いな旋律が背後から届く。
「················あ?」
青年が怪訝そうに眉を寄せ、棍棒を止めて視線を僅かに動かした。
振り下ろされようとしていた死の鉄槌が、そのあまりにも奇妙な音の発生源によって軌道を狂わされる。
はやての正面、青年の真後ろに聳え立つ巨大なコンテナの山。
ドッゴオォォォォンッッ!!!
激しい轟音と共に、何層にも積み重なっていた巨大な鉄塊が外側から押し潰されるようにして派手にへこんでいた。凄まじい衝撃波が巻き起こり、何トンもある貨物コンテナがまるで薄いアルミ缶のように無様にひしゃげていく。
立ち込める土煙を突き破り、ひしゃげたコンテナの天板の上に、“一人の男”が悠然と姿を現す。
オールバック気味に後ろへ流した金色のウェーブヘア、鋭く吊り上がった眼差しに鼻の下には薄い髭。首元を高く覆い尽くす分厚いフード付きの黒いブルゾンを纏い、ゆったりとした茶色のカーゴパンツに黒いブーツという、およそ魔導師の装飾とも呪術らしい陰湿さとも無縁な、現代の街並みからそのまま抜け出してきたかのような大柄な男。
男は眼下で対峙する青年とはやて、そして首だけになって転がるパンダの惨状を一度に見下ろすと。
不敵に口角を吊り上げて、こう言い放った。
「