ドガァァァン!! という轟音が響いた。
唐突に現れた男は間髪入れず、はやての前にいた青年に襲いかかった。激突の余波は止まることを知らず、咄嗟に棍棒で防いだと言っても衝撃を逃しきれなかった青年は、その一撃をもらって後方へと吹き飛ばされる。
幾重にも積み上げられていた巨大な鉄の塊が防護の壁としての役割を果たす間もなく次々と内部から打ち砕かれていく。棍棒で受け止められなかった青年の身体は、男が放った強烈な右の拳の勢いに乗ったままコンテナの列を何個も巻き込み、鉄板を派手にへこませながら遥か後方へと突き抜けていく。金属が激しく軋み、折れ曲がる不快な破壊音が埠頭の敷地全体に響き渡り、凄まじい砂煙が周囲の視界を一瞬にして覆い隠した。
ドゴォ!! と。
付近の地面に彼の得物がブッ刺さるのが見えた。
「な、に········?」
地面に這いつくばったまま、辛うじて呼吸を繋いでいた八神はやては、目前で起きたその尋常ではない光景を霞む視界の中で見つめることしかできなかった。
頭部への痛撃による不快な残響が、未だに頭脳の奥で鳴り響いている。
────否。
「何·······? この音楽·······?」
はやての耳には、謎のBGMが聞こえていた。
ふらふらとしながらも立ち上がったはやてには、その意味不明な音楽が一体どういう理屈で鳴り響いているのか理解できていない。だが、なんとなくだがそのBGMを聴くと気分が上がる。なんだろう、アニメやドラマの盛り上がる場面でめちゃくちゃ好調になれるような、感覚的にはそれに近い。
耳の奥を震わせるアップテンポな旋律は電子音のチープな響きでありながら、奇妙なほどに血流を加速させる熱量を帯びていた。痛みに軋んでいたはずの身体がその不思議な音の波形に浸されるたびに、まるで強烈な強化魔法を注ぎ込まれたかのように軽くなっていく。
それは、敗色の濃厚だった戦盤がひっくり返る瞬間に流れる勝者のための主題歌。
これから起きる劇的な逆転をあらかじめ約束されたかのような、理不尽なまでの高揚感がはやての精神へと強引に流れ込んできていた。
事象への理解を超えた先にある理屈。
そう。
まるで。
はやてはパチンコという娯楽そのものを詳しく知る由もなかったが、この奇妙な空間を満たしている波形の本質は、まさに射幸心を極限まで煽り立てる遊技機の大当たり演出そのものであった。
「ッ!!」
幾重にも折り重なるコンテナの破片を派手に撒き散らしながら何十メートルも後方へと突き抜けていた青年は、路面を両足の靴底で力任せに削りながら立ち止まっていた。急激な摩擦熱に晒された足元からはアスファルトの焦げる不快な臭気と共に、白い煙がシュウウウと音を立てて冷たい海風へと溶け込んでいく。
青年は自らの硬質な防衛を容易く突き破ってきた男の異様極まる佇まいを、漂う煙の向こう側で真っ直ぐに見据えた。
「へぇ·······!!」
これまで数多の有象無象を屠り、退屈に凝り固まっていた青年の眼差しに初めて明確な驚きが走り、すぐさまそれを遥かに凌駕する情報への狂おしい飢えと、未知なる強者と相食む歓喜の光が宿る。
「ハハッ!!」
そして。
砂煙の奥から現れた男もまた、高鳴る鼓動に背中を押されるように追撃の歩みを一瞬たりとも緩めはしなかった。
厚手の黒いブルゾンを羽織った大柄な男。
彼はその高鳴る衝動を抑えきれないかのように、音符や記号の残像を背負うように鼻唄を歌いながら瞬く間に青年との間合いをゼロへと詰めてきた。その圧倒的な肉体の推進力と戦場に響き渡るチープな電子音のうねりは、港湾の冷え切った空気を力技で書き換えていく。
ドンッ!! と、大気を激しく引き裂く肉体の衝突音が連続して埠頭に炸裂した。
人間の知覚の限界を嘲笑うかのような超高速の肉弾戦が、その騒がしいBGMを背景にして派手に幕を開けた。
「「ッ!!」」
互いに地を蹴り、二つのコンテナに挟まれた空間で交錯する二つの影。
男の放つ連撃、呪術という負の異能とは無縁に見える荒々しい拳の連打は、ただひたすらに凶暴な痛みを伴って吹き荒れる。
それに対し。
青年は長年の修羅場で培った最小限の身のこなしで頭部を紙一重で逸らし、徒手空拳の間合いでありながらも、変幻自在の軌道を描く体術を以てカウンターの一撃を狙う。
狭いコンテナの隙間で、大柄な男の繰り出す拳が青年の顎をかすめるように抜けていく。逃げ場のない狭苦しい通路は互いの行動範囲を極限まで制限し、一瞬の隙が命取りになる窮屈な綱渡りと化していた。
しかし。
軽快な音楽にノってる男の身体能力は、その限定的な空間の制約すらも逆手に取る。
男は両側のコンテナの壁面を強く蹴ると、自らの上半身を地面に対して並行になるように真横へと傾け、重力を無視したような水平の跳躍を敢行した。空中に浮かび上がったその体勢から両足を綺麗に揃え、青年の首元を死神の鎌の如く一文字に薙ぎ払う強烈な横薙ぎの蹴りを放つ。
ヒュンッ!! と、大気が不自然なほどに圧縮され、傷を負わせるような不快な音が狭い隙間に鳴り響いた。
「········!!」
青年は寸前のところで自らの顎を大きく後方へと逸らし、鼻先を通り過ぎるその致命的な両足の軌道を紙一重の差で回避してみせた。
だが。
ヂッ!!
「!?」
僅かに驚愕する青年。
男の足が直接その顔面を叩いたわけではない。防護の上から強引に肉を叩き割られたわけでもない。
それなのに。
その原因は、男の肉体を包む“呪力の質感”にあった。
男から湯水の如く溢れ出ている負のエネルギーは通常の滑らかな波動とは決定的に異なり、まるで目の荒いヤスリで物質の表面を力任せに削り取るような、ざらざらとした凶暴な棘に満ちていたのだ。ただその傍らを通り過ぎただけの余波、空間を擦過したエネルギーの波動そのものが、直接触れてもいない青年の皮膚を紙ヤスリのように乱暴に削り取った結果であった。
「いいな········!!」
青年はその引っ掻かれたような痛みに、小さく唇の端を歪めて笑った。
かつて潜り抜けてきた数多の戦禍に比べれば、この程度の出血は傷と呼ぶことすら生温い。しかし、ただ至近距離ですれ違ったというその事実だけで自らの肉体を損壊せしめる男の異質極まる呪力の性質が、青年の魂の飢えをこれ以上ないほど心地よく刺激していた。
一方。
空中で横薙ぎの蹴りを放ち、虚空を鋭く蹴り抜いた男の脚はそのまま逃げ場のない真横のコンテナの鉄板へと叩きつけられていた。
激しい衝撃が狭い空間を走り、分厚い鋼鉄が内側から大きく折れ曲がる重い破裂音が周囲に轟く。さっきから何トンもの重量を誇る長方体の鉄塊が、男の足から放たれた衝撃だけで大きくへこんでいる。つまりは威力が尋常じゃない、その証拠にコンテナは強烈な風圧を伴って横へと乱暴に押し出されていった。勢いよく滑り出したコンテナが背後の別の壁面に激突し、埠頭の敷地全体を揺るがすほどの激しい金属擦過音が周囲の空気を震わせる。
男はその鋼鉄を蹴り砕いた衝撃をそのまま自らの制動へと変換し、吸い込まれるように滑らかに地面へと着地した。
男は自らの掌の表面をパリパリと不快に走り回る青白い紫電を、まるで鬱陶しい羽虫でも払うかのように一瞥した。
物質としての電流ではなく、青年の肉体そのものが最初から帯びている異質なエネルギーの特性。それをその身に直接受けながらも、男の表情には痛みに耐えるような気配など微塵も存在しなかった。男はただ何事もなかったかのように口元を不敵に歪め、眼前に佇む青年へと軽い調子で言葉を投げかけた。
「ちょっとピリッとしたか?」
「········」
その問いかけに応じるように、青年の顔面を凶暴なまでの歓喜の歪みが満たしていく。
青年は自らの薄い唇にまで垂れてきた液体を自分から拾いに行くようにその長い舌を外へと伸ばした。唇を伝う血の滴を、そのまま舌先で直接舐めとる。
口内に広がるのは、鉄の錆びた匂いと己の身体が損壊したという確かな痛みの感覚。
その己の血をじっくりと咀嚼して味わうかのような狂気さを以て、青年は男の異様極まる肉体をその瞳の奥へ焼き付けるように凝視していた。
(コイツ、俺の呪力特性をほぼ無視できている········!!)
青年の持つ電気の性質を帯びた負のエネルギー。
その性質を持った呪力は通常の術師が扱うようなシンプルな呪力による肉体強化の術だけでは、到底防ぎきれるものではない。
接触した瞬間に防護の膜を透過し、生物の神経組織や内臓を内側から強引に焼き切る性質を持っているからだ。
現に先程戦ったあのパンダですら呪力によるガードは通用せず、その電撃の前に無惨に散っていった。
だが。
今眼前に立ちはだかる男が体現しているのは、その理屈を正面から踏み潰す圧倒的な仕組みだった。
それを可能にしているのは、男の体から尽きることなく溢れ出ている常軌を逸した呪力量、延いてはその圧倒的な出力の高さに他ならない。器の許容量を遥かに凌駕した莫大な呪力が、男の意志とは無関係にまるで荒れ狂う嵐のように全身から漏れ出し、空間を満たしている。
そして。
その肉体を絶え間なく包み込み、埠頭の寒々しい空気を騒がしく支配している、耳障りな謎の音楽。
何もかもが、四◯◯年前の術師の常識を超えた異質な存在だった。
「オマエ、名前は?」
青年は初めて自分から相手の名を訊ねた。
これまで対峙してきた有象無象の術師達には向けることのなかった明確な興味と敬意が、その短い問いかけには乗せられていた。
ただすれ違っただけで己の肉体を削り取ったその異質な呪力の性質、あるいは防御不能の電撃をものともしない規格外の生命力。
それらを持つ男が目の前にいる、たったそれだけで自らの退屈を癒やすに足る存在であると確信した。
対する男は傲慢なほどに口角を派手に吊り上げながら、その鋭い眼差しを青年へと返した。
ずっと周囲に流れる安っぽい電子音の旋律に歩調を合わせるように、男の全身から立ち上るヤスリのようにざらついた呪力の波動が、より一層の熱量を帯びて周囲の大気を激しく震わせる。
「“秤金次”、金ちゃんって呼んでもいいぜ」
秤が自らの名を高らかに明かした瞬間、彼の周囲に展開されている空間から、まるでこれからの激闘を刺激するかのように音量が一段と跳ね上がった。
それは敗北の可能性を微塵も考慮していない、勝利をあらかじめ約束された勝者のための凱歌。
その大音響が埠頭の冷え切った路面を激しく叩き、周囲のコンテナの鉄板をビリビリと共鳴させていく。
「·······いいな」
青年は自らの薄い唇をもう一度歪め、喉の奥で深く噛み締めるように呟いた。
ただの有象無象であれば、その名を思い出に刻む価値すら見出さないはずだった。
だが、この男は違う。
青年はゆっくりと腰を落とし、地を踏みしめる両足に均等に力を分散させながら、再び変幻自在の軌道を描く徒手空拳の構えを取る。その両手の指先から放たれる青白い火花が、空気を容赦なく焼き焦がしてバチバチと激しい音を立てて明滅する。
これまで他者に対して、自ら進んで素性を明かすことなどほとんどしてこなかった。
名を名乗る価値もない相手は、即座に屠ることしかしてこなかったからだ。
四◯◯年前の時代でも、彼の名を知る者はただ恐怖と共にそれを語るか、あるいは命を落とす間際にその恐るべき異能の持ち主を悟るかのどちらかでしかなかった。
故に、好敵手として認めた秤に、青年は己の名を明かす。
自らの退屈を裏切り、命を賭して屠るべき強者への、彼なりの最大の敬意であった。
「“鹿紫雲”だ」
「!!」
フルネームではない。
だがその名を聞いた瞬間に秤金次の脳細胞が、まるで遊技機のリールが激しく回転を始めるかの如き速度で過去の記憶を急速に手繰り寄せた。
“鹿紫雲一”
それはこの東京第二結界へと突入する前、協力を求めて自分のアジトへと入り込んだ後輩である虎杖悠仁の傍に憑くコガネから、警戒すべき存在として共有されていた情報に他ならない。
全泳者の情報開示というルールを追加した張本人であり、そのために数多の命を冷酷に屠り去ってきた過去の怪物。
他の泳者を一方的に蹂躙し続けた結果、個人で『一◯◯点』という莫大な点数を保持しているとされる、この結界において最強の座に君臨する存在。
(コイツが一◯◯点保持者、鹿紫雲一·······!!)
秤の中で、勝負師としての獰猛な笑みがじわりと湧き上がってきた。
元よりこの結界への突入は、“天使”と呼ばれている術師を捜し出すことが目的であり、目の前の青年はあらかじめ想定していた標的などではない。もう一人の一◯◯点の日車の説得に虎杖達が失敗し、そしてもし遅れるようであれば秤が叩きのめしてルール追加に使わせてもらうという、あくまでも最終手段のような感覚で視野に入れていた。
だがこれほどまでの危険人物がパンダの前に立ちはだかり、そして今、自らの前にこうして名乗りを上げてきたのだ。
この巡り合わせ、この最悪にして最高の勝負の配牌に、彼の脳髄は心地よく灼かれていた。
勝負は最初から配られたカードの良し悪しで決まるものではない。
どれほど最悪な手牌であろうと、最後には望む牌をツモり、強引に『アガり』へと持っていくのが本物の勝負師だ。目の前の怪物を前にして、秤の中にあるのは恐怖ではなく、次の一手を引き当てるという揺るぎない確信だった。
背後に鳴り響くチープな旋律がその勝負の機を祝福するように一段と音量を跳ね上げていく中、秤は自らの短い髪を揺らしながら、確かな勝利を前提とした要求を突きつけた。
「おい、俺が勝ったら一◯◯点使わせてくれよ」
いきなり現れ、そして襲ってきたくせに、もう褒美を欲しがる強欲者。
だがこれこそが勝負師の狂気だった。彼らにとって、死線のヒリつきに身を焦がすことこそが脳の渇望を癒やす唯一の救いだ。しかしただ命を賭けて楽しむだけでは『ギャンブル』として未完成に終わる。
命懸けの勝負の果てに、全てのチップを強欲に毟り取り、完全なる勝利を宣言する。
結局はそこが、ギャンブラーにとって一番の快感が溢れ出る瞬間なのだ。
対する鹿紫雲は、その身勝手な交渉に対して表情一つ変えることはなかった。
ただその顎を少しだけ持ち上げると、戦場の冷え切った空気をそのまま言葉に変えるかのように、淡々と拒絶に近い言葉を返す。
「好きにしろよ。オマエ·······あのパンダと餓鬼の仲間だろ?」
その無造作な言葉と共に、鹿紫雲の視線がほんの一瞬だけ路面に無惨に転がっている獣の生首と、そこから少し離れた場所へと向けられた。
「は? 餓鬼?」
秤は首を軽く傾げ、その思考の焦点を僅かにずらした。
パンダが呪術高専の仲間であることは確かだが、その後ろに付け足された奇妙な単語には心当たりがなかったからだ。
餓鬼って誰のことだ? と。
そう思った秤は視線を巡らせ、鹿紫雲が見ている方へと目を向ける。そこには激しい衝撃の余波に耐えながら、ボロボロになった身体で必死にこちらを凝視している少女と、コンテナの壁面に沈んだまま動かない女性の姿があった。
戦闘中でありながらも、秤のプロとしての鋭い状況把握能力がその異質な存在を即座に捉える。
高専の制服でもなければ、通常の呪術師の気配とも異なる、見慣れぬ術式の波動を纏った少女の佇まい。
「·······」
初めて秤はそこで、何あれ? と思った。
呪術的な視点で見ても、少女の格好はおかしい。白と金を基調とした近未来的で洗練された装甲のジャケットを身に纏い、その背中からは“天使”の象徴たる『翼』のようなパーツが厳かに広がっている。
凄惨な戦場にあって、その白い装甲を纏った少女の姿はあまりにも異質に見えた。
だが、
「·······“天使”?」
秤の頭の中で、伏黒達から共有されていた『目的』の記憶が、目の前の少女の姿と不気味なほどにピタリと噛み合わさった。
東京第二結界に突入した本来の理由は、封印された五条悟の解放の鍵を握る、“天使”と呼ばれる正体不明の術師を捜し出すこと。
呪術界の要たる天元ですら、その外見については『見ればわかる』という極めて曖昧な言葉しか残しておらず、高専の誰もその正確な容姿など知る由もなかった。
そう。
見れば、わかる。
その言葉の真意が、今この瞬間、秤の脳裏に最悪の形で閃いていた。
(あれ·······
凄惨な戦場にあって、白と金を基調としたあまりにも洗練された装甲を纏い、その背中から厳かに広がる六枚の深い“紫色の翼”。
それは白く光り輝く清廉な羽とは程遠く、どこか呪術的な悍ましさを孕んだ色合いではある。
だが。
背中に翼を生やした術師など、そうそう存在するものではない。
羽の色がどれほど昏くあろうとも、その異質な佇まいは彼らが血眼になって捜していた存在を指し示すには、あまりにも充分すぎる特徴だった。
パンダの前に立ちはだかった一◯◯点保持者・鹿紫雲一。
そして、翼を生やした謎の少女。
(マジか·······こんなところで見つかるなんて、どんな確率だよ)
本来の捜索対象であるはずの存在がまさかこれほど最悪のタイミングで、こんな命懸けの戦いが始まる直前に見つかることなんてあるのだろうか。
強者との命懸けのギャンブルに脳髄を灼かれながらも、秤は自らの任務が今まさに手の届くところに転がり込んできたという事実に口元をこれ以上ないほど獰猛に歪めた。
「その代わり宿儺について知ってることを吐け」
そんな秤の思考の隙間を力任せに抉り開けるかのような、重苦しい言葉の弾丸が鹿紫雲の口から放たれた。
冷酷極まるその響きが、港湾の空間に鋭く落とされる。
「この後生きてりゃな············」
続くその一言には一切の温度が含まれていなかった。
その二文字が空気の中に混ざり合った瞬間、それまで獰猛に波打っていた鹿紫雲の身体の動きがほんの一瞬だけ凍りついたように静止した。
「············?」
対峙する秤からの返答はない。
秤は鹿紫雲の静かな怒りを含んだ言葉をまともに受け止めてはいなかった。耳の奥を激しく揺さぶる大音量の旋律。その軽快なリズムに同期するようにして、自らの肉体の内側から溢れ出してくる常軌を逸したエネルギーの奔流。
それがあまりにも凄まじすぎた。
「········おい」
鹿紫雲の声が、チープな電子音のうねりと大気を鳴らす波動の中に遠く掻き消されていく。
秤の視界は己の身から湯水の如く噴き出し続ける呪力の波によって眩しく明滅していた。細胞の一つ一つが過剰な熱量によって強制的に稼働し、無限に湧き上がる力が肉体の限界を強引に押し広げていく。それは生身の人間が到底耐えられるはずのない、脳の許容量を遥かに超越した快感のうねり。
(あぁ、来た········たまんねぇ········!!)
あまりに膨大な出力の心地よさに秤の脳細胞は限界寸前まで麻痺し、意識が甘やかに溶け落ちそうになっていた。
宿儺という言葉の重みも、背後に佇む翼を持った少女の不可解さも、今の彼の意識からは急速に遠ざかっていく。
あるのはただ、全身を満たす無敵の感覚。
秤の肉体は自動的に最適化された戦闘の歩法を刻み、その表情はただただ、この最高潮の熱量に酔いしれるように恍惚の歪みを浮かべていた。
相手の言葉を無視しているのではない。ただこの身を焦がすギャンブルの報酬たる絶頂感が、彼を現実の思考から切り離していた。
この世界が心地良い、何でもできる気がする。
ギャンブルは麻薬みたいなものと誰かが言ったが、まさにその通りだと思う。
激しく明滅する光の渦の向こう側で、鹿紫雲の細い眉が不快げにぴくりと跳ね上がる。
(なんだ········? 急に腑抜けたな········?)
命を賭した死合いの場にあって、眼前の術師の意識が自らの言葉ではなく別の何かに奪われている。
そのあまりに不遜な佇まいを前に、鹿紫雲の全身から放たれる青白い電撃が大気を引き裂くようにより一層激しく火花を散らし始めた。
「ガッカリさせ────」
言葉の終わりを待つ必要など、もはやどこにもなかった。
秤の肉体が、意識の混濁を置き去りにしたまま、溢れかえる力に弾かれるようにして大地を爆砕した。
バキィッ!! と、空間が罅割れるような凄まじい衝撃音が埠頭に轟く。
前方に踏み出した秤の強烈な右拳がまだ言いたいことを紡ぎ終えていなかった鹿紫雲の顔へと情け無用で叩きつけられた。無敵のエネルギーに満ちた肉体から繰り出される容赦のない一撃、まともにそれを喰らった鹿紫雲の顔面が大きく歪み、強引に横へと弾き飛ばされる。
だが、死線を潜り抜けてきた怪物の闘争本能もまた常軌を逸していた。
「········ッ!!」
鹿紫雲は凄まじい勢いで吹き飛ばされながらも、驚異的な反射神経で即座に体勢を立て直す。
しかし。
その体勢の立て直しすらも遅すぎると言わんばかりに、溢れかえるエネルギーの快感に完全にノりきった秤は、その思考をさらに先の狂気へと加速させていた。
「ポゥ!!」
戦場に大音量で鳴り響くチープな電子音のうねりに完璧にシンクロした歓声。
それと共に秤の巨体がまるでその場の空間から煙のように唐突に姿を消した。人間の動体視力の限界を嘲笑うかのような、異次元の推進力。
「なんだ········!?」
吹き飛びながらも辛うじて意識の軸を保っていた鹿紫雲の視界から秤の影が消失する。急激に跳ね上がった呪力の波形を捉えるよりも速く、地を蹴る音すら置き去りにした秤が一瞬にしてその間合いをゼロへと詰めて目と鼻の先に現れる。
逃げ場のない超至近距離。
姿を現した秤は恍惚とした笑みをその顔面に張り付かせたまま、怒涛の連続攻撃を鹿紫雲の肉体へと叩き込み始めた。
四方八方から容赦なく繰り出される左右の連打が鹿紫雲の防衛の呪膜を激しく叩き、その猛攻の勢いを乗せたまま、秤の強靭な膝が鹿紫雲の胴体の真ん中を力任せに陥没させるかのように深く突き刺さった。
ドゴォッ!! と、肉体が内側から圧し潰されるような鈍い衝撃音が轟く。
体内に凄まじいエネルギーのうねりがそのまま浸透し、内臓に深い損壊を負った鹿紫雲の口元からせき止められていた悍ましい液体が堰を切ったように吐き出された。
しかしその内側を直接破壊されるような痛撃を正面から喰らいながらも、数多の戦禍を渡り歩いてきた怪物の面構えから闘争の歓喜が消え失せることはなかった。それどころか、地面に散っていく自分自身の血を見たら余計に生きてる実感を得られ、鹿紫雲の唇はどんどん凶暴な色合いを帯びて吊り上がっていく。
「いいんじゃない?」
自らの肉体がどれほど削られようとも、それを遥かに凌駕するほどの極上の血湧き肉躍る死合いを提供してくる目の前の男へ向け、鹿紫雲の口から乾いた称賛の言葉が漏れ出る。
「ハッ!!」
その言葉を間近で浴びせられた秤もまた、自らの傲慢な口角をさらに派手に引き上げて短く笑い返した。
二人の戦闘狂の間で、言葉による対話など不要だった。
互いの存在を命を賭して貪るべき最高の好敵手であると認めたその瞬間から、埠頭の空気は人間のそれではない、戦闘中毒者の領域へと塗り替えられていく。
◇◆◇◆◇◆◇
人間の領域を遥かに超越した、暴力と呪力の嵐。
お互いの戦闘本能に呼応するように、二人は殺し合っている。
コンテナの分厚い鋼鉄がまるで紙細工のように無惨に引き裂かれ、凄まじい衝撃波がコンクリートの路面を絶え間なく削り取るその光景を、八神はやては激しい焦燥を伴う眼差しで見つめていた。
「·······あかん!!」
耳の奥で鳴り響き続けるチープな旋律がどれほど彼女の身体に強制的な活力を与えようとも、目の前で繰り広げられている命の削り合いは彼女の魂の在り方が決して許容できるものではなかった。
時空管理局の魔導師として多くの困難な事件を解決し、現在は新設されたばかりの国連調査機関『EXCEEDS』の責任者という重責を担う彼女にとって目の前の惨状は明確な『守るべき法の逸脱』であり、何より純粋な『命の蹂躙』に他ならなかった。
たとえどのような理由があろうとも、人がこれほど悍ましく互いの肉体を損壊させ、命そのものを賭け金にして笑い合う狂行をただの傍観者として黙認することなど、八神はやてという少女の心が絶対に受け入れなかった。
(これ以上は、何がなんでもやめさせないと··············ッ!!)
頭部を打たれた痛みの残響が未だに燻る身体に鞭を打ち、はやてはシュベルトクロイツを前方へと力強く突き出した。
一歩間違えれば己の身すら一瞬で消し飛びかねない、二人の怪物の凄まじい闘争領域。
そこに生身で割って入るなど、正気の沙汰ではないことは痛いほど分かっていた。
だが、かつて闇の書の呪いと戦い、多くの秩序を守り抜いてきた魔導師としての誇りと世界の治安を維持するために立ち上げられた新機関の責任者としての確固たる義務感が、恐怖で竦みそうになる彼女の背中を強硬に押し出していた。
「そこまでや!! 二人とも!!」
凜とした少女の叫びが、港湾を満たす大音量の旋律を強引に割って響き渡る。
同時にシュベルトクロイツの先端に描かれた魔法陣から眩い魔力光が鋭く収束し、激しく殴り合う二人の僅かな隙間へと向けて正確に撃ち落とされた。
ドォンッ!! と。
鼓膜を激しく打つ純粋な魔力の爆鳴が路面を激しく叩き、光の障壁が二人の間を力任せに引き離すようにして割り込んでいく。
「「!?」」
これ以上の無意味な闘争は絶対に禁ずるという、彼女の強い否定と警告を込めた威嚇射撃。
「私の目の前でこれ以上の命の奪い合いは絶対に許さへん!! 二人ともすぐに戦いを止めなさ────!!」
「「邪魔すんなッ!!」」
「ッ!?」
鼓膜を突き破らんばかりに響き渡った二人の怒号は完璧に重なり合っていた。
立場も、生まれ育った時代も異なる二人の戦闘狂から同時に放たれた、生物としての格の違いを見せつけるかのような悍ましい圧。命を削り合い、その死線の先にある絶頂を求めて交錯している最中の領域において、平和や命の価値を説く言葉ほど彼らの魂を侮辱し、興を削ぐものはない。
その事実を身を以て示すかのように、二人の全身から噴き出している殺意の篭った呪力が埠頭の空気を一瞬にして凍りつかせた。
「────ッ!!」
あまりの密度の圧力に八神はやては思わず気圧され、その身体を本能的な恐怖で慄かせた。
今まで潜り抜けてきた数々の修羅場とも決定的に異なる、ただ純粋な闘争心と殺意の塊。
それが大気を伝って肌をチリチリと焼き焦がすかのような錯覚さえ覚える。
だが、彼女はただ守られるだけのひ弱な少女ではない。
「く··············ッ!!」
はやては奥歯を強く噛み締め、シュベルトクロイツを握る手にさらなる魔力を込めて強引に精神を元に戻した。
新設されたばかりの機関の責任者としての誇りと、何がなんでも人々を救い出すという確固たる意志が、怪物の圧力を真っ正面から撥ね退ける。
その張り詰めた空気の只中で、重なった自らの声の余韻に鹿紫雲の口元がさらに獰猛な形へと歪んでいく。
「やっぱ気が合うな、オマエとは。こんなにも盛り上がるのは久しぶりだ」
溢れ出る電撃をさらに凶暴に高めながら、鹿紫雲は目の前の好敵手に向けてこれ以上ない愉悦の視線を向けた。
外野の邪魔立てすらも、彼らにとっては闘争の火力をさらに引き上げるための極上のスパイスでしかなかった。
「ならもっと盛り上がろうぜ、熱くなるのはこれからだ!!」
秤もまた、自らの肉体を包む無限のエネルギーの波形をさらに激しく明滅させ、傲慢な笑みをその顔面へと深く刻み込んだ。
「ダメや言うとるやろ!!」
それでも、許すことはできなかった。
はやては自らの胸の奥にある熱い感情を全てぶつけるように叫んだ。
激突の熱気が陽炎となって揺らめく中、彼女の放った言葉は血の香りの漂う戦場に毅然として響き渡る。
「勝負だか何だか知らんけど、命をそんな玩具みたいに扱うのは許さんで!! これ以上引かへんって言うんなら、こっちももう力付くで止めてみせる!!」
はやては本気だった。
手に持つ魔導書も呼応するようにパラパラと自動でページが捲られている。おそらくは無言の詠唱、ページを読み込むことで呪文の発動を短縮してるのかもしれない。
その場に突如として発生した魔力光の凄まじい密度が、彼女の内に秘められた覚悟の重さを周囲の空間へ雄弁に知らしめていた。
しかし。
これほどの高エネルギーが目の前で練り上げられているというのに、そこに佇む秤はただ鬱陶しそうに自らの首を軽く傾げ、野次馬でも見るような薄い眼差しを投げ返したに過ぎなかった。
「餓鬼は引っ込んでろ、こっちはとっくに熱くなってんだ。この『熱』はもう誰にも止められねぇよ」
秤にとって、この場を支配している闘争の熱気こそが己を突き動かす燃料である。
一度火が点いたギャンブルの昂ぶりは、他人の持ち込んできた人道的な正論や、どれほど強大な異能の光を突きつけられようとも急速に冷却できるものではない。
秤の全身から奔流のように溢れ出るヤスリの如き呪力はその傲慢な言葉を証明するように、はやてが放つ光の波形と干渉し合い、周囲のコンテナの鉄板を不快に共鳴させていた。
だが、その勝負師の勝手な理屈を突きつけられてなお、八神はやては怯むどころか即座に激しい言葉を叩き返した。
「知らんそんなこと!! その『熱』がどれほど凄いんか知らんけど、命をそんな風にすり潰していい理由になんか絶対にならへん!!」
自らの肉体がどれほど致命的な危機に晒されようとも、ここで引き下がるという道は最初から存在しない。
二人の怪物の余波に呑まれれば、自らの存在など一瞬で消し飛びかねないという本能的な恐怖を、彼女は夜天の書の主としての責任だけで捩じ伏せていた。
はやては絶対に退くつもりはないと言わんばかりに睨みつけ、
「それにな」
「え?」
すると、秤のその一言に宿ったゾッとするほどの静けさに、はやては呪文を紡ごうとしていた思考の糸を強引に断ち切られた。
その声は真剣さを帯びていた。
秤は勇敢に割って入ってきた少女を改めて見る。
彼女の纏う衣服は呪術的に見てもおかしいと思える、それは確かだ。
だがその背中にある『六枚の紫の翼』がどうも引っかかる。
────間違いない。
自分がこの死滅回游に参加し、そして後輩や自分達が今一番会いたがっている存在の特徴に当てはまる部分が多すぎる。
五条悟の封印を解くための唯一の希望であり、高専の仲間達が血眼になって捜していた過去の術師。
天元の『見ればわかる』という言葉の真意が、これほど明確な形で目の前に突きつけられている。
これほど都合よく翼を背負った人間が、他に潜んでいるわけがないのだ。たとえその羽の色合いが清廉なものとは程遠く、どこか不気味な気配を放っていようとも、秤の目にはそれこそが現代に蘇った過去の術師の決定的な証拠として映り込んでいた。
秤は、千載一遇の当たりを引き当てたという手応えをその瞳に宿し、獰猛な笑みを浮かべながら少女へ向けて言い放った。
「テメェには死んでもらっちゃ困るんだよ────“
「········え? てん、し········?」
その呼び方にはやては疑問を抱く。
呼ばれたこともないその異名、自身の役職や本名とは一文字も掠りもしない不可解な単語。
目の前の男が一体何を見て、どのような理屈で自分をその名で定義したのか、彼女の卓越した頭脳でもその真意が全く結びつかなかった。言葉を交わす余地すら与えない秤の強烈な思い込みと、その瞳の奥に宿る悍ましいほどの執着を前に、はやては背筋に冷たい戦慄が駆け抜けるのを自覚していた。
しかしはやてがその言葉の意味を聞こうと訊ねるよりも早く、埠頭の空気を騒がしく支配していた空間の変化が決定的な瞬間を迎える。
これまでこの場に大音量で鳴り響き、秤の底なしの呪力を強制的に支え続けていたチープな電子音の旋律が唐突にその幕を閉じ、ぷつりと途切れたのだ。
「········っ!?」
はやては耳の奥を圧迫していた奇妙な高揚感が、潮が引くように急激に消失していくのを感じた。
それと同時に、秤の巨体から湯水のように噴き出していたあの目の荒いヤスリの如き膨大な呪力の奔流が、まるで嘘のように急速に凪ぎ始めていく。無限に供給され、肉体が破壊される端から自動で修復を行っていた無敵のボーナスタイムが、四分一一秒という規定の時間を終えて終焉を迎えたのだ。
その瞬間を、対峙する修羅、鹿紫雲一が見逃すはずがなかった。
(音楽が終わるのと同時に呪力が凪ぎ始めた!!)
鹿紫雲の研ぎ澄まされた闘争の直感が、眼前の好敵手に訪れた明確な『隙』を瞬時に感知する。
無敵の仕組みが途絶え、その肉体が生身の術師と同じ領域へと引き摺り下ろされた瞬間。
これまでの激烈な殴り合いの中で、その不死身の理屈を看破していた鹿紫雲は、今度こそ相手の頭を確実に撃ち抜いて命を奪い去るべく、その両手の指先から放たれる青白い電撃の出力を凶暴に跳ね上げる。
その直前、
「─────
秤はギャンブルを愛する術師であり、無類の博打打ちであった。
故に目にも留らぬ速度で左手を平手のまま下に持ってきて、その上で右手を親指と人差し指で輪を作って『金運』や『福徳』などを司る女神の印を結ぶ。
“弁財天印”
その特徴的な印相が絡み合った瞬間、
「─────
秤の獰猛な咆哮が轟くと同時に、引き千切るような強制力で『次のゲーム』へのレバーが叩かれた。
もしIFストーリー書くとしたらどっちが読みたい?
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魔虚羅VSなのは達
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真人達VSなのは達