放課後の教室は、いつもより少しだけ静かだった。
窓の外では、春の風がカーテンをやわらかく揺らし、黒板の端に残ったチョークの粉が、ほんの少しだけ舞い上がる。机の上には誰かの忘れたノートと、飲みかけのペットボトル。日常の名残が、ゆっくりと時間に置き去りにされていく。
君は前の席で、いつも通り友達と笑っていた。
その笑い声は決して大きくないのに、不思議とよく通る。柔らかくて、どこか無防備で、聞いているだけで安心してしまうような声だった。
私はその背中を見ている。
ただ、それだけ。
名前を呼ぶこともできず、話しかける理由も見つからず、ただ視線だけが君に触れては離れていく。
呼んだらきっと、何かが壊れてしまう気がするから。
———
最初に君を好きになった瞬間を、私は正確には覚えていない。
でも、「ああ、もう戻れないな」と思った日ははっきり覚えている。
あの日は、春の終わりにしては珍しく雨が強くて、校門の前には足止めされた生徒たちが何人も立っていた。私はその中の一人で、空を見上げながら、小さくため息をついていた。
傘を忘れた。
ただそれだけのことなのに、その日はやけに心細く感じた。
家までは歩いて二十分。走れば濡れるし、待てば止む保証もない。どうしようかと迷っていると、不意に隣から声がした。
「帰らないの?」
振り向いた先に、君がいた。
驚いて言葉が出なかった私に、君は少し首を傾げて、もう一度聞いた。
「傘ないの?」
私は小さく頷いた。
すると君は、まるでそれが当然みたいに、自分の傘を少し持ち上げて言った。
「じゃあ、入る?」
その声は軽くて、気負いがなくて、まるで道に落ちているものを拾うくらい自然だった。
断る理由なんてなかった。
でも、頷くのに少し時間がかかったのは、きっとその距離の近さに戸惑っていたからだ。
傘の中は、思っていたよりもずっと狭かった。
肩が触れそうで、触れない。その微妙な距離に、どうしていいかわからなくなる。歩幅を合わせることすらぎこちなくて、何度も小さく足がぶつかりそうになった。
「どっちの方向?」
君が聞く。
「……駅の方」
「あ、同じだ」
それだけの会話。
なのに、その短いやり取りが、やけに心に残った。
雨の音が、全部を包み込んでいた。傘に当たる水滴のリズムと、アスファルトに跳ねる音。その中で、君の存在だけが妙にくっきりとしている。
途中で、風が強く吹いた。
傘が揺れて、少しだけ体が近づく。
その瞬間、肩が触れた。
ほんの一瞬。ほんのわずかな接触。
でも、その温度は、なぜかはっきりと覚えている。
ああ、と思った。
きっと、このときだ。
私の世界が、ほんの少しだけ変わってしまったのは。
———
それからというもの、君はただの「同じクラスの人」ではなくなった。
教室に入った瞬間、無意識に君を探すようになった。
朝、席に座るとき。
休み時間、廊下に出るとき。
体育の授業で整列するとき。
どんな些細な瞬間でも、視界のどこかに君がいないかを確認してしまう。
見つけたところで、何かが変わるわけじゃないのに。
ただ、それだけで少しだけ安心する。
逆に、見つからないと、ほんの少しだけ不安になる。
そんな自分に気づいたとき、私はようやく理解した。
ああ、これが「好き」なんだ、と。
———
君は特別な人ではない。
少なくとも、みんなにとっては。
明るくて、優しくて、誰とでも自然に話せる。クラスの中心にいるタイプではないけれど、気づけばいつも輪の中にいるような人。
誰かが困っていれば、さりげなく手を差し伸べる。
でもそれを誇ることも、自慢することもない。
だからきっと、みんなから好かれている。
そして私は、その「みんな」の一人でしかない。
———
ある日、友達に聞かれた。
「ねえ、好きな人いるの?」
何気ない、よくある質問。
でもそのとき、心臓が一瞬だけ強く跳ねた。
いるよ、って答えるのは簡単だ。
でも、その先は?
誰?って聞かれたらどうするの?
そんな考えが一瞬で頭をよぎる。
ほんのわずかな沈黙のあと、私は笑って答えた。
「……いるよ」
それ以上は言わなかった。
言えなかった。
言ってしまえば、きっとどこかで現実が動き出してしまう気がしたから。
このまま、何も起こらないままの方が、きっと楽だから。
———
でも、現実は勝手に動いていく。
それを思い知らされたのは、初夏のある日だった。
廊下を歩いているとき、ふと視界に入った後ろ姿。
見慣れた制服。見慣れた歩き方。
君だった。
その隣には、女の子がいた。
二人は並んで歩いていた。
距離が近いわけでも、特別に触れ合っているわけでもない。ただ、自然に、当たり前みたいに隣にいる。
その空気が、あまりにも馴染んでいて。
「……あ」
思わず足が止まった。
二人は何かを話して、同時に笑った。
そのタイミングが、ぴったり重なる。
それを見た瞬間、胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。
ああ、そうなんだ。
言葉にしなくてもわかる。
あれは、ただの友達の距離じゃない。
———
その日から、世界は少しだけ色を変えた。
君は変わらない。いつも通り笑って、いつも通り過ごしている。
でも、その隣に「誰か」がいることを知ってしまった私は、もう前と同じようにはいられなかった。
教室で笑う君を見るたびに、考えてしまう。
あの子のこと?
今、何を思ってるの?
放課後、一緒に帰るの?
そんな想像ばかりが浮かんで、勝手に苦しくなる。
———
それでも、話しかけることはできなかった。
できるわけがなかった。
だって私は、何も持っていないから。
君と特別な関係でもなければ、特別な思い出があるわけでもない。
あの雨の日のことだって、きっと君は覚えていない。
覚えていたとしても、「そんなこともあったね」くらいのものだろう。
私にとっては、あんなにも大きな出来事だったのに。
———
帰り道、一人で歩く坂道。
夕焼けが、街をオレンジ色に染めている。
影が長く伸びて、自分が少しだけ違う人間になったような気がする。
ふと、隣に誰かがいるような気がした。
もちろん、そんなはずはない。
でも、その「いないはずの存在」を、どうしても思い描いてしまう。
もしも、君がここにいたら。
何を話すんだろう。
今日の授業のこと?
くだらない冗談?
それとも、何も話さずにただ歩くだけ?
想像はいくらでもできるのに、現実には一つも起こらない。
「ねえ」
思わず声に出してしまう。
誰もいないのに。
「私、君の恋人になりたいよ」
風が吹いた。
その言葉は、すぐにかき消されていく。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
———
この恋は、叶わない。
はっきりとした理由があるわけじゃない。
でも、わかってしまう。
君の世界の中に、私はいない。
いても、きっと「ただのクラスメイト」でしかない。
それ以上には、ならない。
———
それでも。
それでも私は、君を好きでいる。
朝、教室で君を見つけて、少しだけ嬉しくなる。
休み時間に声が聞こえて、無意識に振り向く。
帰り際、背中を見送って、少しだけ寂しくなる。
そんな日々を、何度も繰り返していく。
———
ある日、君がふいに振り向いた。
目が合った。
ほんの一瞬。
それだけなのに、心臓が強く打つ。
「どうかした?」
君が言う。
何でもない、って答えるしかなかった。
本当は、言いたいことがたくさんあるのに。
———
君の恋人には、なれない。
でも。
この想いだけは、誰にも奪えない。
誰にも知られなくてもいい。
叶わなくてもいい。
ただ、ここにあるだけでいい。
———
春が終わって、夏が来て、やがて季節は巡っていく。
きっといつか、この気持ちも薄れていくのだろう。
思い出になって、笑って話せる日が来るのかもしれない。
でも、今はまだ無理だ。
今この瞬間だけは、どうしても手放せない。
———
教室の窓から差し込む光の中で、君が笑っている。
その光景を、私はきっと忘れない。
たとえ何年経っても。
たとえもう二度と会わなくなっても。
———
君の恋人には、なれない。
それでも私は、今日も君を好きでいる。
甘くて、少しだけ苦くて、どこにも行けない恋。
それでもいいと思ってしまうくらいには、
この気持ちは、確かに本物だった。