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彼女は、春が嫌いだった。
桜が咲くたび、誰かを思い出すからだ。
満開の花びらが風に舞う光景は、あまりにも綺麗で、あまりにも残酷だった。あれは“終わり”の合図だ。散るために咲く花。終わることを前提にした美しさ。
それがどうしても、自分の恋と重なってしまう。
名前は、もう何度も変えた。
時代ごとに、土地ごとに、出会う人ごとに。
けれど、本当の名前は、心の奥に沈んだままだった。
呼ばれることのない名前。
呼ばれてはいけない名前。
――彼女は、不老不死だった。
歳を取らない。傷はすぐに治る。病にも侵されない。
そして、死ねない。
どれだけ望んでも、終わることが許されない。
ただ、時間の流れに取り残されていく存在だった。
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最初にそれに気づいたのは、ずっと昔。
まだ“死ぬこと”が今よりずっと身近だった時代。
彼女の周りの人々は、当たり前のように歳を取り、弱り、やがて静かに消えていった。
最初は理解できなかった。
どうして自分だけ、変わらないのか。
どうして、みんなだけが変わっていくのか。
「……ねえ」
幼い頃の彼女は、母の袖を引いた。
「どうして、お母さんはシワが増えるの?」
母は少し困ったように笑って、彼女の頭を撫でた。
「それはね、生きてる証拠よ」
その時の言葉の意味を、本当に理解するのは、ずっと後になってからだった。
母は老い、父も老い、やがて二人とも彼女の前からいなくなった。
彼女だけが、同じ姿のまま残された。
その日から、彼女は“普通”ではなくなった。
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最初の恋は、そんな混乱の中で訪れた。
彼は村の外れに住む青年だった。
無口で、少し不器用で、それでも優しい人だった。
「お前は、不思議だな」
ある日、彼はそう言った。
「全然変わらない」
彼女は笑ってごまかした。
まだ、その言葉の重さを受け止めきれなかったから。
二人で過ごす時間は、穏やかだった。
畑を手伝って、川で魚を捕って、夕暮れを並んで眺める。
それだけでよかった。
それだけで、世界は満ちていた。
「戦に行くことになった」
ある日、彼は言った。
避けられない現実のように。
「すぐ戻る」
そう言って笑った顔が、妙に遠く感じた。
彼女は、その時初めて“怖い”と思った。
言葉にできない不安。
けれど、それを止める術はなかった。
「……待ってる」
それだけを、やっとの思いで絞り出した。
彼は頷いて、去っていった。
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彼は、帰ってこなかった。
噂だけが届いた。
戦は激しく、多くの命が失われたと。
彼の名前も、その中にあった。
彼女は、信じなかった。
信じたくなかった。
だから、待ち続けた。
春も、夏も、秋も、冬も。
一年、十年、五十年。
村は変わり、人は入れ替わり、それでも彼女はそこにいた。
やがて、“同じ姿のままの女”として、噂されるようになった。
怖れられ、避けられ、石を投げられることもあった。
その頃になって、やっと理解した。
自分は、ここにいてはいけない存在なのだと。
彼が帰ってこないことと同じくらい、それは確かな事実だった。
彼女は、村を出た。
何もかもを置いて。
ただ一つ、彼の記憶だけを抱えて。
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それでも彼女は、恋をやめなかった。
やめられなかった。
何度傷ついても、何度別れても。
誰かを好きになることでしか、自分が“生きている”と感じられなかったからだ。
時代は流れた。
着物が洋服に変わり、灯りが電気になり、街は夜でも明るくなった。
人々の寿命は伸びた。
それでも、彼女にとっては誤差のようなものだった。
どれだけ長く生きても、終わりは必ず来る。
自分以外のすべてに。
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現代。
彼女は、また新しい名前で生きていた。
高校生として。
同じ制服を着て、同じ教室に座り、同じように笑う。
それは、彼女にとって“擬態”のようなものだった。
けれど――
「ねえ、君ってさ」
声をかけてきたのは、隣の席の男の子だった。
「ちょっと不思議だよね」
彼女は顔を上げた。
彼は笑っていた。
まっすぐで、何の裏もない笑顔。
「そうかな」
「うん。なんかさ、ずっと昔からそこにいるみたいな感じ」
その言葉に、一瞬だけ心臓が止まった気がした。
けれど彼は、ただの冗談として言っている。
そのことが分かって、少しだけ安心した。
「それ、褒めてるの?」
「たぶん?」
曖昧な答えに、彼女は思わず笑った。
その瞬間、自分でも驚いた。
こんな風に、自然に笑えたのはいつ以来だろう。
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彼と過ごす時間は、静かに彼女の中の何かを変えていった。
放課後の帰り道。
コンビニの前で立ち止まって、どのアイスにするかで本気で悩む時間。
どうでもいい話で笑い合う時間。
そのすべてが、愛おしかった。
「俺さ」
ある日、彼は言った。
「将来、普通に働いて、普通に暮らしてさ」
“普通”。
その言葉が、胸に刺さる。
「で、できればさ」
彼は少し照れくさそうに笑った。
「隣に君がいてくれたらいいなって思う」
彼女は、すぐには答えられなかった。
その未来は、自分には許されないものだから。
それでも――
「うん」
小さく、そう答えた。
その一言が、どれだけ残酷か知りながら。
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恋人になってからの日々は、穏やかだった。
手を繋ぐこと。
名前を呼び合うこと。
未来の話をすること。
どれも、彼女にとっては奇跡だった。
「ずっと一緒にいような」
彼は何度もそう言った。
そのたびに、彼女は笑った。
そして、何も言えなかった。
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違和感は、少しずつ現れた。
「最近、ちょっと疲れやすいんだよね」
最初は、そんな些細な一言だった。
「寝れば治るよ」
彼女はそう言った。
言い聞かせるように。
自分に。
けれど、それは治らなかった。
むしろ、少しずつ悪くなっていった。
「検査、受けてみる」
その言葉が、嫌に重く響いた。
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結果は、残酷だった。
病名を聞いた瞬間、彼女はすべてを理解した。
何度も見てきた流れ。
何度も経験してきた結末。
「……そっか」
彼は、静かに受け止めていた。
むしろ、彼女の方が壊れそうだった。
「大丈夫だよ」
彼は笑った。
「ちゃんと治すから」
その言葉が、どれほど脆いものか、彼女は知っている。
知っているのに――
「うん」
信じるしかなかった。
信じるふりをするしかなかった。
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時間は、残酷に進んだ。
彼は弱っていった。
声も、笑顔も、少しずつ薄れていく。
それでも彼は、最後まで彼だった。
「なあ」
ある夜、彼は言った。
「もしさ、俺がいなくなっても」
「やめて」
即座に遮った。
「そういうの、聞きたくない」
「でもさ」
彼は優しく笑った。
「聞いてほしい」
逃げ場はなかった。
彼女は、ただ黙って頷いた。
「ちゃんと、また誰かを好きになれよ」
その言葉は、呪いのようだった。
祝福のようでもあった。
「一人でいんなよ」
彼女は、何も言えなかった。
言葉にした瞬間、壊れてしまいそうだったから。
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春。
桜が満開の日。
彼は、静かに息を引き取った。
まるで、眠るみたいに。
彼女の手を握ったまま。
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葬式の帰り道。
空から、花びらが舞い落ちる。
世界は、何も変わらない。
人が一人いなくなったくらいで、止まったりはしない。
「……まただ」
呟く声は、風に溶けた。
何度目だろう。
この痛みは。
何度繰り返せば、終わるのだろう。
――終わらない。
分かっている。
最初から。
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それでも。
それでも彼女は、また恋をするだろう。
同じように出会い、
同じように笑い、
同じように愛して、
そして――同じように失う。
終わりがあるからこそ、美しい。
そんな言葉を、誰かが言っていた。
でも彼女にとって、それは救いではなかった。
ただの事実でしかない。
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それでも彼女は、願う。
「普通に恋がしたい」
その願いだけは、何度砕けても消えなかった。
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春は、また巡る。
桜は、また咲く。
彼女は、また新しい名前を名乗る。
新しい場所で、新しい誰かと出会う。
胸の奥に、消えない記憶を抱えたまま。
それでも、笑う。
また恋をするために。
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終わらない春の中で、
彼女は何度でも、
恋に落ちる。