死んだら結婚しようね。   作:いまり。

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前後編統合しました。


「子犬」と「影女」

「影女」

 

家に憑くとされ、月明かりに照らされ障子に映る女性の影として姿を表す。

 

影は時に蟻のように小さく、星のように大きい。

常にそばに居て、どこにも居ない。

人は時にその存在に怯え、時に無い事に怯えた。

常世と隠世を隔てる、ただ一枚の薄い障子一つの境界だった。

 

 

「びびり」と「影女」

 

 

 

深夜のナースステーションに、華やかなメヌエットが鳴り響く。嘗ては舞曲として愛されていた4分の3拍子も此処では溜息の合図だった。

 

事務仕事に向けられていた集中は途切れ、手が止まる。

そして頭の中には幾つかの名前が浮かんだ。

 

3号室の中尾さんの氷枕かな?

それとも、16号室の吉田さんの薬が切れた?

あぁ、7号室の真壁さんだったら嫌だなぁ。

あの爺さん介助のどさくさに紛れてセクハラしてくるし。

 

瞬時に患者の名前が出てくると同時に色々な可能性を考える。

そのために必要なもの、取るべき確認や報告に億劫になる。

 

それでも他の当直は出払っている現状で、私以外に対応する人なんていないわけで。そんな私の心情なんて察してはくれない音楽は、早くしろと急かしていた。

 

「はいはい、いきますよー」

 

パタパタと音だけは威勢の良い足音をたてながらボードへと向かう。

受話器を取りながら表示板に目をやり、即座にしまったと思った。

 

それは本来鳴らないはずの空部屋からの呼び出しだった。

 

「……どうされましたー?」

 

震えを抑え必死に声を作る。

指先が氷のように冷たい。呼吸が浅くなるのがわかった。

そんな状況でもマニュアル通りに動くのは、鬼よりも怖い先輩達の指導の賜物だった。

 

「窓が開かないの…マ、ドが開かないの…窓が開かないの…」

 

声の主は幼い子供、おそらく女の子。

辿々しい口調で壊れたラジカセのように同じ言葉が繰り返されていた。

 

受話器を持つ手から汗が噴き出るのを感じながらも、私は黙ってそれを聞く他なかった。

 

「開けて?…開けて?…開けて?…開けて?…」

 

そう受話器の先の相手は言うと、通話が途切れた。

 

二度目のため息は安堵のものだった。

さっきまで億劫だった全ての可能性が有難いものに思える。

 

一仕事を終えた様にしゃがみ込み脱力する。

だが仕事はここで終わりではない。

 

私は近くの棚を漁り、使い古されたB5ノートを取り出した。

表紙の色は薄れ、背はほつれ始めている年季を感じさせる。

 

ノートにはコレついての事が細かに書いてある。

部屋についての概要、注意事項、呼び出しの種類、それぞれの対応の仕方がマニュアル化されている。

一つ一つが歴代の看護師達によって蓄積された経験であり、

最近では、数枚のA3用紙にそれらがチャート式でまとめられていた。

 

今回でいえば声の主は子供であり、要望は窓を開けること。

 

私は一通りノートに目を通した上で、中にあった別紙のチャート図を指でなぞり追っていく。最後の工程まで目を通し、それが対処としては簡単な部類に入る物だったことに安心した。

 

よりにもよって私1人時に起こるのよ。

 

これが複数人いればまだマシだった。

それなら複数人で対応することができるからだ。

しかし、今ナースステーションにいるのは私1人。

 

ノートの注意事項には赤く大きな文字で書かれていた。

 

•この対処は呼び出し時にナースステーションいた者だけでやること。

•その場にいないものは対処に参加してはならず、病室を訪れてもいけない。

 

なんとも有難い事にこれを破った時、何が起こるかは書いていない。

それを試す気にも慣れない。

 

あらゆる筆跡でページの至る所に書かれたこの文言に、

その先人達の教訓が透けて見えるからだ。

 

噂によるとあの鬼の様なババ…婦長がいる時は呼び出しが無いらしい。

この事について、ある先輩は幽霊だって相手は選びたいわな。なんて笑っていた。

 

もしそれが本当なら、相手はナースステーションに誰がいるのか知っているのだろう。

 

今夜選ばれたのは私だった。

 

 

◇◇

 

件の部屋、728号室はフロアの端に位置している。

その辺りも嘗ては病室として使われていた区画だったが、今は備品室やリネン庫が置かれている関係者以外は立ち寄らない場所になっていた。

 

部屋の前に辿り着いた私は、扉の前の立入禁止の立て看板を脇に退け、

ポケットから鍵を取り出して外付けの錠に差し込んだ。

 

ガチャリと鍵が開けた音ともに、勝手に扉がスルスルと少しずつ開いていく。中から長い間閉じられていた部屋特有の澱んだ空気の臭いが漂ってくる。

 

この瞬間は何度やっても慣れはしない。

別にこれが初めてでは無い。ノートも同期と一緒に読み込み、婦長自作のテストまでやったが現場は違うというのは仕事もこれも同じだ。

 

扉が完全に開き切るのを待って私は部屋に入った。

 

電気はつけない。

足音は最小限。

視線はなるべく下に固定する。

 

注意事項を暗唱し、一歩一歩と牛の歩みで部屋の中を歩いていく。

窓までの距離はたった10メートルにも満たない。

なのに、それが学生時代の遠足よりも長く感じる。

 

これ以上は心臓が破裂するのではないかと思うほどに煩くなったころ

やっと窓のそばに辿り着いた。

いつにも増して鈍臭い手を伸ばし、立て付けの悪い窓を開ける。

落下防止のために開けられるのは隙間と言えるほどのものだったが、

これで要望は叶えた。

 

あとは、何事もなかったかの様に部屋を後にするだけ。

 

あぁ。あとはこのことを引継ぎ事項にまとめないといけないな。なんて、もう次のことを考えられる程に冷静さを取り戻していく。

 

そうやって、来た時よりも短く感じる窓からの帰り道を進んでいる時だった。

 

「岸部さーん、そこにおるんか?

あのぉトイレまで付き添ってくれんかぁ」

 

部屋の外から聞き慣れた声がした。

その瞬間、部屋にあるベッドのスプリングが軋む音がした。

 

不味い!

そう感じた私は病室の外へと走り出す。

 

頭にあったのは赤ペンでいたるところに書かれた注意事項。

呼ばれていない者の介入。

それが他の患者だった場合も適応されてるのかは分からなかったが、危害が自分だけではなく患者にまで及ぶのだけは避けなければいけなかった。

 

「クソジジイ!こっち来んなぁ!」

 

「おお、やっぱりここにおったんか。あ?なんだこの部屋」

 

私の静止も虚しく、真壁の爺は部屋の中へと一歩踏み入った。

 

「違う…違う…違う…違う!!!マドを…マドを開けて!!!」

 

部屋の中で、私とも真壁さんとも違う子供の甲高い声が響いた。そして、それに合わせる様に病室窓が一斉に悲鳴をあげ割れていく。

 

もう、ルールなんて何の意味もない。

足音が何だと必死に部屋の外を目指し駆ける。

だが、恐怖でもつれる足はいう事を聞かず、遅々として進まない。

そんな私の腕を真壁さんが掴んだ。

どこにそんな力があったのか、そのまま放り投げるように病室の外へと連れ出した。

 

「な、なんですかあれ」

 

詰め寄る私に真壁さんは掌を見せて、

 

「岸部さん鍵はあるかい?」

 

扉をそっと閉めた真壁さんは好々爺然とした顔で訊ねてくる。いつもの憎めない笑みに底知れない何かを感じた。

 

 

◇◇

 

「よく来られるよね。あんなこと起こしておいてさ」

 

「本当だよね。あんなに詳細なマニュアルだってあったのに、普通間違うかな?仕事出来ないにも程があるでしょ」

 

扉一枚を隔て聞こえてくる。それが自分に対してのことだというのは嫌という程わかっていた。

 

更衣室の薄い扉は女の園の噂は隠れてくれないらしい。いや隠そうともしていないのかもしれない。

 

出勤の憂鬱とした気持ちがより一層鬱々しくなる。胸に硝子が刺さったような、小さく鋭い痛みが走る。

 

看護師としての三年という月日は自分を強くしたと思っていた。でもそれは錯覚に過ぎず、針の筵とも言える状況が少し続いただけで私の心は実習生の頃に逆戻りしていた。

 

別に彼女達が悪いわけではない。

 

あの夜を境に病院は変わった。

728号室からの呼び出しは無くなった代わりに、患者や看護師の間で変なものを見聞きすることが増えた。

 

それは、黒いモヤのようなものであったり、亡くなったはずの患者の姿であったり、誰もいないはずの廊下での囁き声など様々だ。

 

最初はそんな、医療従事者の中で語られるありふれた怪談だった。

 

それが次第に院内散歩中の患者が誰かに足を引っ張られて転倒したり、窓硝子が急に割れ、飛び散った拍子に周囲の人間を怪我させたりなど、

怪談は人への危害を齎すものへとエスカレートしていった。

 

元々、明るい場所とはいえない病院が、より陰鬱とした雰囲気の場所へと変わっていった。

 

そしてそれは、問題を引き起こした私に向けられる感情も。

 

————

———

——

-

 

 

「今月も、深夜のシフトは私に回してください」

 

低くなる頭に釣られ髪が重力に引かれ落ちる。

目線の先にぶら下がる髪の長さが気になった。

 

そういえば美容院に行ったのはいつだっただろうか。

 

「岸部さん…あなた」

 

「無理を承知でお願いします」

 

何かを言いたげな師長に重ねて願う。自分にできることはこれくらいだった。責任を取るなんて高尚な事を言っているつもりは無い。ただの自己満足に過ぎない。

 

実際あれからというもの私は幾度となくあの病室を訪れているが、拒まれた様に扉は固く閉ざされていた。自分が何したところで現状は何も変わらない。

 

しかし、それすらも取り上げられたら縋るものすらなくなってしまう。

 

頑なに頭を上げない私に、師長は根負けしたように長い息を吐く。

 

 

「分かったわ。気の済むまでやりなさい。その代わり、近々実習生の受け入れをやるから。その時は日勤を頼むわよ」

 

「ありがとうございます」

 

「あと一つ言っておくけど、この件はあなたの責任じゃないわ。原因を放置してきた全員の責任よ。もちろん私もね」

 

「……」

 

「あなたを見てると自分の若い頃を見ているみたいで、ヒヤヒヤするわ」

 

「いや、それはちょっと」

 

いやそれだと私の将来は鬼みたいになるってことじゃないか。冗談じゃない。

私は優しい看護師を目指してるんだよ。

 

「おい……ほんと良い性格してるわ。シフトの件は分かったから、顔を洗って来なさい。そんな顔で患者さんの前に行くんじゃないわよ」

 

「……はい」

 

本当にこの人には敵わない。

この人から見れば私なんて小娘に過ぎないのだろう。

 

滲む視界が目の前の人の輪郭をぼやかす。

捉えきれない姿が今の自分との距離を表しているようだった。

 

 

◇◇

 

あぁ、この子は長くは続かないな。

それが目の前にいる実習生を一目見た上での感想だった。

 

「最上看護学校から参りました。麻倉陽太です!本日より3週間、実習させていただきます。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します!」

 

そう代表して挨拶してきたのは小柄な男の子だった。

 

子犬を彷彿とさせるクリクリとした瞳が爛々と輝く。男の子にしては小柄で中性的な容姿のせいか、頑張って覚えてきた感が否めない。

それにしても麻倉って…。

 

「ねぇ君、麻倉ってもしかして麻倉師長のご親戚だったりする?」

 

彼の苗字に引っかかったのは自分だけではなかったようで、ほかの先輩方も彼に興味津々だった。

 

「はいっ!麻倉郁は叔母です!」

 

怖い土佐犬共に囲まれた子犬君は屈託のない笑顔で答える。

それが何を意味するかもわかっていないようだった。

 

「言われてみれば何処となく面影があるかも。大変だけど実習頑張ってね。担当は…岸部さんお願いできる?」

 

ほらこうなった。

誰もあの鬼の親類なんぞ厄ネタ過ぎて面倒見たくないだろう。社会人としての大事なことは面倒事からはなるべく距離をとることなのだから。

 

「他の子達は私達が担当するから。お願いね岸部さん」

 

土佐犬共のマスクに隠された口元が嗤っているのは、その目を見ればわかった。

 

こんな時に実習生の世話まで出来るかよ。

そう言えればどんなに良いことか。

 

後輩というだけでなく、先日の一件以来発言権など皆無の私はただ頭を縦に振ることしかできなかった。

 

「岸部さん、よろしくお願いします」

 

「よろしく」

 

 

 

「岸部さぁんっ!?真壁さんに小尻触られましたぁ!」

 

「いやぁすまんね。お兄ちゃん可愛い顔してるから女の子かと思ったよ」

 

悪びれもしない真壁さんに溜息が出る。

この爺さん見境なしか。

というか、女の子だったとしてもダメだろう。

 

「うぅ」

 

尻触られた子犬君といえば、尻を守るように両手で押さえて壁際で涙ぐんでいた。

 

「お兄ちゃん本当にあの麻倉ちゃんの甥御さんなのかい?あの子があんたくらいの時は、平手で返すくらいのことはしてたよ」

 

「叔母さんにもしてたんですか!?最低ですっ」

 

両方の言葉に共感する。

あの鬼の系譜にこんな子がいるものかと思うし、

若い頃とはいえあの人のを触っていた爺さんにも畏敬の念を持つと同時に最低だととも思う。

 

「真壁さんうちの実習生にちょっかい掛けないでください。師長にチクりますよ。それと、麻倉君もお尻触られたくらいでピーピー泣かないの!」

 

「「すみません」」

 

実習初日からこんなんじゃ先が思いやられる。

と頭を抱える私だったが、ある意味仕事に集中できたのは久しぶりのことだった。

 

 

それからも子犬君は至る所で弄られ、もとい可愛がられた。あの厳しい麻倉師長の甥という事と本人とのギャップもあったからだろうが、何というか人を警戒心を抱かせない雰囲気を持った男の子だからだろう。

 

仕事はまぁ…まだ実習生という事を加味すれば許容範囲だろう。

 

そこも含めて子犬ぽいなと思う。

最初は長く持ちそうに無いなんて思っていたが、私なんかよりもよっぽど適性がある子だった。

 

 

ブリーダーのような心持ちになる実習が2周目に入った頃、奇妙なことに気がついた。

 

「そういえば、麻倉君がきてから変なものを見なくなったねぇ」

 

「言われてみればそうだね。一時期は黒いモヤみたいなのとか、亡くなった古井さんに似た人なんか見たりしてたのに。あの時は、お向かいが近いんじゃ無いかって皆んなでビクビクしてたわ」

 

「この分じゃ、まだまた死にそうにないわね」

 

そう言って笑うのは16号室の吉田さん達だった。朝のラウンドでふと出てきた雑談だったが、

そういえばここ最近そういった噂を耳にしなくなったと今更ながら気がついた。

 

「こんなにめんこいんだもの、きっとお化けだって怖がらせたくないのよ」

 

「あの。僕、男なんですけど」

 

「あら、そうだったの?」

 

もはや見慣れた光景のように頭を撫でられる子犬君。多分お年寄りの方々にとって、孫のような年齢の彼はたまにしか顔を見せない孫よりも可愛がりようがあるのだろう。

 

「うぅ、岸部さん」

 

「アニマルセラピーみたいなもんよ。これも実習だと思って受け入れなさい」

 

困ったように見つめられても、私に出来ることはない。長期入院の患者さん方は時として、働いている私たちよりも情報通だったりするのだ。

子犬1匹の犠牲でご機嫌になるのなら安いものだ。

 

麻倉君を犠牲に着々と仕事進める私に、吉田さんは労わるような視線を向ける。

 

「だから美玲ちゃん、あんまり気にするんじゃないわよ」

 

「そうよ。病院なんて昔からそういうのはつきものでしょう?」

 

「ありがとうございます…大丈夫ですよ。私、こう見えて図太いんで」

 

これは別に強がりでもなく、ここ最近の精神的余裕からくるものだった。夜勤尽くし頃の体内時計が正常に戻ってきた証拠だろうか。

 

私の笑みに無理がない事がわかったのか。

吉田さん達もそれ以上は何も言わなかった。

 

この時の私はこの話をそれほど深く考えなかった。以前として部屋は閉ざされたままで根本的な解決はされていなかったから。

それ故に単なる偶然だろうと。

 

でも、それは大きな間違いだった。

あの師長がわざわざ身内の彼をここに呼び寄せた意味を考えてなかったのだ。

 

 

◇◇

 

「夜勤実習ですか?」

 

「そう、今年からの学校の方針でね。一応うちの提携校でもあるから。なんべく意向には沿わないと」

 

「でも、こんな状況ですし普通の日勤じゃダメなんですか?」

 

「もう決まった事よ。流石に一編に全員は無理だから、担当ごとに分けてやるわ。最初は貴方達ね、安心しなさい当日は私も入るから」

 

そう師長に告げられたのが数日前。

よりにもよってこんな時期に夜勤実習なんて上は何を考えているのか。

決まったことに従うのが社会人だとしてもこれには疑問を持たざる得なかった。

 

そしてそれはその日を迎えても心の澱のように残っていた。

 

夜勤実習当日。

私は麻倉君を連れて、昼間の時のようにいつものようにフロアを巡回していた。

 

照明を落とした廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静かで独特の雰囲気を持っていた。

 

子犬君は不思議と落ち着いた様子でメモを片手に自分の後ろをついてくる。

 

「岸部さん、夜勤ってこんなに静かなんですね」

 

「そうね。静かすぎて変な感じするでしょ」

 

私は苦笑しながら答える。

実際、新人の頃は自分もこの静けさが苦手だった。

 

「はい。でも賑やかなのも好きですけど、こういう静かな時間も好きです」

 

そう言う彼に無理をしている感じはなかった。

普段の小動物のような振る舞いを見ているだけに以外だった。最悪、非常灯にもビクつくんじゃないかと心配していたが、杞憂だったようだ。

 

リネン室の辺り、あの728号室の近くを通る時、

麻倉君がふと足を止めた。

 

「ここ、なんだか変な感じがします」

 

彼の視線はリネン室の奥、備品室のさらに向こうの元病室に向けられていた。

 

「ここは備品室だから、気にしないで。ほら詰所に戻るわよ」

 

ドキリとした私は慌てて彼の腕を引こうと腕を伸ばす。しかし、それよりも先に麻倉君は部屋の方へと走り出した。

 

「ちょっと待って!」

 

まさかの行動に焦りはしたものの、あの部屋には鍵がかけられている。それにあれ以来、内側から押さえつけられたように来る者を拒んでいるのだ。

 

案の定、追いかけた先で、部屋の前で立ち尽くす麻倉君がいた。

 

「ここは鍵が掛かってるのよ。それに建て付けも悪くて碌に開きはしないわ。分かったら、早く戻るよ」

 

そう私が呼びかけるが彼は無視するように視線を扉から外さない。

ただ、ボソリと

 

「……洞」

 

一言呟いた。

 

油の切れた蝶番の音が鳴った。

何かに招かれたように扉が1人でに開く。

 

は?どうして?

誰が試してもビクともしなかったのに。

それに鍵だって……。

 

動じた様子も無く麻倉君は部屋に入っていく。

そこから一拍遅れて私も後を追った。

 

部屋の中を見た瞬間、全身の肌が粟立つのが分かった。悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたかった。

 

暗闇の中には、か細い一条の光が差していた。

全ての形がそれのみに頼る中で、麻倉君ともう1人の輪郭が浮き出ていた。

 

子供だ。

ゆらゆらと佇む小さな影法師。

 

直感的にこの子があの夜、私を呼んだのだと分かった。

 

「お名前は何て言うの?」

 

「……みちる」

 

「みちるちゃんが呼んだの?」

 

「うん。マド…を開けて欲しいの…。皆んなのところに行きたいの」

 

「寂しかったよね……頑張ったね。うん、皆んなのところに帰ろうか。洞、お願い」

 

私の足元で何かが蠢く。

よく見ればそれは月明かりに照らされ伸びた麻倉君の影だった。

 

あっ。

影の中から這い出たそれを私は見上げる。

私よりも麻倉君よりも遥かに大きな女の人だった。

 

猫背気味の彼女は私を見下ろす。

長い前髪の隙間から琥珀色の眼がじっとこちらを見ていた。

 

心臓を直に掴まれたような息苦しさ。

口を開けど空気が肺に落ちていかない。

 

ただ魅せられるまま無礼を働く。

人とは位階の違うその存在に。

 

「洞、その人は僕の先輩だよ。驚かせたりしないの!」

 

麻倉君は犬のリードのように、彼女の長く伸びた髪の一房を引っ張る。

私から見れば恐れを知らぬ蛮行に見えたが、洞と呼ばれた彼女は嬉しそうに麻倉君に駆け寄る。

 

「もう!あとで遊んであげるから。この子に牖を開けてあげて!」

 

しなだれかかる洞に麻倉君は言い聞かす。

宥めるように洞は頬擦りすると、その長い手を宙に翳す。

 

すると、薄い紫の光を放つ扉が部屋の中に現れる。

 

「ありがとう、お兄ちゃん」

 

影法師が扉の先をへと進み何処かへと消えていく。最初からそこには何も無かったかのように。ただ一言の辿々しいお礼の言葉を残して。

 

「…麻倉君…貴方は一体…」

 

掠れた声で問う私に、彼は一房のリードを持ったまま、いつもの人の好い困ったような笑みを浮かべていた。

 

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