ヒンメルとフリーレンの旅 作:実験者
魔王討伐の熱狂が冷め、王都はようやく静けさを取り戻していた。
凱旋パレードの残響は、花びらと歓声の破片となって路地に散らばり、夕陽だけが石畳に長い赤を引いている。
ヒンメルは旅人の簡素な革のコートに袖を通していた。
青い短髪が風に軽く乱れ、金茶色の瞳はどこか遠くを見ているようでいて、すぐ隣の銀髪の少女をしっかりと捉えていた。
「フリーレン。これから、どうするつもりだい?」
声は柔らかく、しかし旅の終わりを惜しむような微かな翳りを帯びていた。フリーレンは立ち止まり、いつものように一呼吸置いてから答えた。
銀のツインテールが肩の上で静かに揺れ、翠の瞳はまるで湖底のように澄んでいる。
「そうだね……世界を見て回る旅を続けるよ。まだ知らない魔導が、どこかに眠っているはずだから」
ヒンメルは小さく息を吐き、笑った。それは長い戦いの果てにようやく手に入れた、穏やかで純粋な笑みだった。
「そうか。なら、僕もついていこうかな」
フリーレンの足が、ぴたりと止まった。
「……え?」
本当に意味が掴めなかったように、彼女は首を小さく傾げた。
その仕草は、まるで初めて見る不思議な魔法でも目にしたかのようだった。
「魔王を倒した勇者として、やらなければならないことがあるんじゃないの?」
ヒンメルは苦笑を浮かべ、空を見上げた。茜色の雲がゆっくりと流れ、遠くで黒い鳥が一羽、黒い線を描いて消えていく。
「その通りだよ。でも、魔王という巨大な影が消えた今、世界は別の形で割れ始める。人々はもう外に敵を見つけられないから、内側に敵を探し出すんだ」
フリーレンは淡々と、しかし正確に言葉を継いだ。
「そうかもしれない。団結って、共通の脅威があって初めて本気で機能するものだから」
「うん。だから、勇者という存在は――これからは邪魔になる。老兵は死なず、ただ静かに消えるだけさ」
自嘲とも諦めともつかない笑みが、ヒンメルの唇に浮かんだ。けれどその目は、どこまでも澄んでいた。フリーレンは一瞬沈黙し、率直に、迷いなく尋ねた。
「ヒンメルは、それでいいの?
あんなに頑張って、命を懸けて戦ったのに……結果がこれで」
ヒンメルは目を閉じた。
長い睫が影を落とし、静かな時間が二人の間に落ちる。やがてゆっくりと目を開け、彼女をまっすぐに見つめた。
「仕方ないさ。でも僕は、あの旅ができただけで、もう十分満足してる。君と、ハイターと、アイゼンと……一緒に笑って、泣いて、怒って、驚いて。その全部が、僕の人生に色をくれたんだ。その色が、世界のどこかで誰かの安心に繋がるなら――それでいい」
彼は一歩近づき、声のトーンを落とした。
「フリーレン。一緒に旅、してもいいかな?」
フリーレンは少し考えてから、いつもの平坦な調子で答えた。
「構わないよ。ヒンメルなら戦力として申し分ない。安心できる」
その言葉に、ヒンメルはふっと息を吐き、目を細めた。
とても優しく、どこまでも優しい表情だった。
「うん。君のことは、命を懸けて守るよ」
その一言には、約束以上のものが確かに宿っていた。静かな決意と、言葉にできないほどの深い親愛。けれどフリーレンは、それを感じ取れなかった。
彼女の翠の瞳はただ穏やかにヒンメルを見返し、何も変わらない湖のように静かだった。
夕陽が二人の影を長く伸ばし、王都の通りをゆっくりと歩き始めた。背後で、最後の花びらが一枚、風に舞って石畳に落ちた
二人は旅を始めて、土を踏む音が響く。
ヒンメルは、フリーレンが少し先を歩く背中を見つめながら、胸の奥で小さく息を吐いた。
(また、気づかれていないな)
彼女の銀髪が夕陽に透けて、まるで細い光の糸のように揺れている。その姿を見るたび、ヒンメルはいつも同じことを思う。
――この景色を、君と一緒にいるときだけ、こんなに鮮やかになる。でも、それを言葉にすれば、きっとフリーレンは首を傾げるだろう。
「どうして? 景色は景色でしかないのに?」
彼女の翠の瞳は、いつも湖のように静かで、何を投げ込んでも波紋がすぐに消えてしまう。だからヒンメルは、伝えたい気持ちを直接の言葉にしない。代わりに、こんな風にしか表現できない。
「フリーレン、ちょっと待って。その先の橋、欄干が少し崩れてるみたいだ。危ないから、こっち側を通ろう」
そう言って、彼女の歩く軌道をそっと自分のほうへ寄せる。
「荷物、重そうだね。半分持とうか」
彼女が背負っている小さな革袋を、自然な仕草で受け取る。
中身はほとんど旅に必要なものばかりだというのに。
「今日はここで休もう。君、さっきから少し歩く速度が落ちてる。疲れてるんじゃない?」
本当は、フリーレンが疲れることなどほとんどない。千年単位で生きる彼女にとって、半日歩くことなど呼吸と同じくらい当たり前だ。
それでもヒンメルは、彼女が「少しでも人間らしい時間」を過ごすように、わざと休憩を挟む。
彼女が「別に疲れてないよ」と淡々と返しても、ヒンメルは笑って、「でも僕が疲れたんだ。付き合ってくれると嬉しいな」とだけ言う。
本当は違う。
本当は、君ともう少しだけ、この夕陽の下にいたい。
君の横顔を、もう少しだけ近くで見ていたい。
君が何も気づかなくてもいいから、ただ、君のすぐそばにいたい。でもそんな言葉を口にしたら、フリーレンはきっと困った顔をするだろう。
「それって、何の意味があるの?」
彼女の時間感覚の中では、ヒンメルの「今、この瞬間」が、あまりにも小さく儚いものに映ってしまうから。だからヒンメルは、ただ静かに、迂遠に、彼女の歩幅に合わせて歩き、彼女の視線の先を一緒に眺め、彼女が見つけた魔導書を「面白いね」と笑い、彼女が気づかないところで、命を懸ける覚悟を胸にしまっておく。
それは、恋とも呼べるし、もっと純粋な、ただの「君が好きだ」という気持ちとも呼べる。けれどヒンメルは、どちらの言葉も選ばない。選ぶ代わりに、こうして、彼女のすぐ隣を歩き続ける。
それが、今の彼にできる、一番正直で、一番優しい嘘だった。
(いつか、君がこの気持ちに気づく日が来るかもしれない。でも来なくても……いいさ。君が笑って、君が旅を続けて、君が少しでも、生きてるって感じてくれるなら)
ヒンメルはそう思いながら、フリーレンの少し後ろを、変わらない距離で歩き続けた。
夕陽が二人の影を長く伸ばし、その影だけが、言葉にならない想いを、そっと繋いでいた。