ヒンメルとフリーレンの旅 作:実験者
森である。
山道は、針葉樹の香りが濃く立ち込め、足元に柔らかい落ち葉が積もっていた。
ヒンメルとフリーレンは、並んでゆっくりと登っていく。
青い短髪が風に揺れ、金茶色の瞳が周囲を穏やかに見回す。
フリーレンはいつものように、無表情に近い顔で前方を眺めていた。銀のツインテールが背中で軽く揺れる。
「……静かだね」
フリーレンがぽつりと呟いた。
ヒンメルは足を止め、耳を澄ませる。鳥のさえずりも、木々の間を駆け抜ける小動物の気配も、何一つない。ただ、風が枝を擦る音だけが響く。
「確かに。動物が一匹もいないなんて、珍しいな」
ヒンメルは軽く笑って肩をすくめたが、視線は鋭さを増していた。
山道の空気が、急に張り詰めた。ヒンメルは軽く笑って肩をすくめたが、その視線はすでに鋭さを増していた。
金茶色の瞳が、周囲の木々の影を素早く捉え、落ち葉の微かなざわめきさえも聞き逃さない。
彼の笑みは、いつものように明るく、しかしその奥に潜む緊張が、フリーレンにだけは伝わっていた。
「動物がいないのは、やっぱりおかしい……何かある」
ヒンメルが小さく呟いた言葉が、森の静寂に溶け込む。次の瞬間――空気が、裂けた。まるで空間そのものが切り裂かれるような、鋭い殺気。
木々の間から、黒い影が音もなく現れる。魔族。瘦せた体躯に、異様に長い四肢。
頭部から生えた二本の角は、黒く艶を帯び、鋭く湾曲している。肌は灰色がかった青白さで、人間とは明らかに違う、冷たい光沢を放っていた。
赤く輝く瞳は、獲物を値踏みするように、ヒンメルとフリーレンを交互に舐め回す。
口元には、嘲るような薄い笑みが浮かんでいる。人間の言葉を真似るような、しかしどこか不自然に響く声が、低く響いた。
「……勇者と、葬送の魔法使いか。ほかの仲間はいないのは幸運だな」
フリーレンは言った。
「速攻」
「それで行こう」
ヒンメルは即座に剣を抜き、一歩前に出た。刃が陽光を反射し、鋭い光の線を描く。
フリーレンは無言で杖を構え、淡い魔力の粒子が彼女の周囲に集まり始める。魔族は、ゆっくりと首を傾げた。
その仕草は、まるで興味深げな子供のように無邪気だった。
だが、次の瞬間――口角が、嘲笑うように大きく吊り上がる。
「ふん……」
短い息遣いのような音。魔族の体が、煙のように揺らぎ――後退した。影のように、木々の奥へ溶けていく。
一瞬で姿を消し、気配さえも掻き消す。ただ、残されたのは、冷たい嘲りの余韻だけ。
「……逃げた……?」
フリーレンが、珍しく小さな声で呟いた。首を小さく傾げ、翠の瞳にわずかな疑問が浮かぶ。
彼女の時間感覚では、魔族が「逃げる」という選択は、珍しいものだった。
通常、彼らは力の差を見極め、勝てると判断すれば容赦なく襲いかかり、負けると分かれば即座に消える。
中途半端に姿を現して退くなど、効率的ではない。ヒンメルは剣を構えたまま、視線を周囲に走らせた。
「いや……これは、囮だ」
言葉が終わらないうちに――空が、燃えた。頭上から、無数の火球が降り注ぐ。
「いつものやつだ」
「典型的な魔王軍のやり方だね」
赤黒い炎の雨。
一発一発が、爆発的な熱を帯び、木々を焦がし、地面を抉る。
飽和爆撃。
魔族が好む、原始的な力押しではなく、計算された、戦術的な攻撃。
魔王軍の残党特有の、組織的な連携を感じさせるものだった。ヒンメルは咄嗟にフリーレンを抱き寄せ、背中で覆うように身を挺した。
「痛ッゥ゙」
炎の熱波が彼の左腕を直撃する。
服が一瞬で焦げ、皮膚が赤黒く焼けただれる。
激痛が走るが、彼は歯を食いしばり、声を抑えた。爆音が収まり、煙が立ち上る中、ヒンメルはゆっくり立ち上がった。
「ヒンメル」
「大丈夫」
火傷した腕を軽く押さえながら、いつもの朗らかな声で言った。
「大丈夫だよ、フリーレン。致命傷じゃない。ちょっと熱いだけさ」
フリーレンは彼の腕を見つめた。
翠の瞳が、わずかに揺れる。
胸の奥で、何かがざわついている。
――これは、何だ?
いつもなら、すぐに「問題ない」と判断して終わるはずの感覚。
なのに、今は違う。
心臓が、わずかに速く脈打っている。
自分が動揺していることに、フリーレンは自分で驚いていた。
(……どうして? ヒンメルが傷ついたくらいで? 人類種が傷つくなんて、こんなの、何百年も見てきたはずなのに)
ヒンメルは、そんなフリーレンの微かな変化を、すぐに察した。彼は優しく微笑み、火傷した腕を隠すようにマントで覆いながら言った。
「心配してくれるなんて、珍しいね。でも、僕なら平気だよ。君が、無事でいてくれることのほうが大事だから」
言葉は軽やかだったが、瞳の奥に宿る優しさが、フリーレンを包む。
彼女は一瞬、言葉を失った。ヒンメルはすぐに表情を引き締め、視線を空へ移した。
「魔族が空から爆撃を仕掛けてくるなんて、珍しい戦術……魔王軍の残党で確定だ。まだ、諦めていない連中がいる」
ヒンメルは剣を握り直し、息を整えた。左腕の火傷がまだ熱く疼くが、痛みはすでに意識の端に追いやられていた。
彼の視線は、煙の向こうに浮かぶ複数の影――魔族の群れ――を捉える。
三体。
翼を生やした斥候型の魔族たちだ。
先ほどの一体は囮で、本隊は上空からこの瞬間を待っていた。
「フリーレン、頼む」
短く、しかし確信に満ちた声。
フリーレンは無言で頷き、杖を軽く掲げた。ヒンメルは近くの巨木に剣を振り下ろす。
一閃。
太い幹が斜めに断ち切られ、轟音とともに倒れかかる。
次の瞬間、フリーレンの魔法が発動した。淡い翠色の光が木々を包み、重力を逆転させる。
巨木がゆっくりと浮き上がり、空へ昇っていく。
一本、二本、三本。まるで階段のように、斜めに連なる木の柱が空中に現れる。
フリーレンの魔法は正確で、無駄がない。木々の配置は、ヒンメルが跳びやすい角度を計算し尽くしていた。ヒンメルは軽く跳躍した。
最初の木の幹に足をかけ、勢いよく次の木へ。傷ついた左腕を庇いながらも、動きに乱れはない。重力を無視したような、軽やかな跳躍。
青い短髪が風を切り、金茶色の瞳が獲物を捉える。
上空の魔族たちが、嘲るように笑った。
「人間如きが……空を駆けるとはな」
だが、次の瞬間――ヒンメルが最後の木から跳んだ。
剣を構え、虚空を蹴る。同時に、フリーレンが杖を振るう。直線状に放たれた魔力の光線。
一般攻撃魔法――だが、彼女の出力は桁違いだ。青白い光の槍が、三体の魔族の間を貫くように照射される。
牽制。
逃げ場を塞ぎ、動きを封じるための、完璧な一撃。魔族の一体が咄嗟に翼を広げて回避しようとしたが、
ヒンメルはすでにその軌道を読んでいた。
剣が閃く。最初の魔族の首が、音もなく飛んだ。血飛沫が空中に散り、赤い霧のように。
残る二体が驚愕の声を上げる。
「な……何だ、こいつは!」
「人間が……こんな速度で!?」
ヒンメルは止まらない。
二本目の木へ跳び移り、勢いを殺さず三体目へ。剣を逆手に持ち替え、回転しながら斬り上げる。
二体目の魔族の胴が、真っ二つに裂けた。内臓が零れ落ち、空に赤い線を描く。最後の魔族が、恐怖に歪んだ顔で後退する。
「異常者め……! 化け物か! 人間風情が……!」
蔑みの言葉を吐きながら、翼を大きく広げて逃げようとする。だが、ヒンメルはすでにその背後にいた。最後の跳躍。
剣が、魔族の背中を貫く。心臓を正確に抉り、翼の付け根を断つ。魔族は声にならない悲鳴を上げ、墜落した。
地面に叩きつけられ、動かなくなる。戦いが、終わった。
山の静寂が、再び戻ってくる。焦げた木の匂いと、血の鉄臭が混じり合う。
ヒンメルは最後の木のてっぺんに着地し、ゆっくりと息を吐いた。剣を鞘に収め、左腕を軽く押さえる。
火傷の痛みが、再び意識に浮上する。フリーレンは地上から彼を見上げていた。
翠の瞳が、わずかに揺れている。
ヒンメルが木々を伝って降りてくる。足音が近づくにつれ、フリーレンの胸のざわつきが、急激に強くなった。
(……まただ)
彼女は自分の手を、じっと見つめた。指先が、微かに震えている。心臓の鼓動が、耳元でうるさいほどに響く。
息が、浅くなっている。
ヒンメルが目の前に立った。
いつものように、穏やかな笑みを浮かべて。
「終わったよ。ありがとう、フリーレン。あの木の階段、完璧だった」
フリーレンは、無言で彼の左腕に手を伸ばした。
治療魔法をかけようとする。淡い光が指先から溢れ、火傷の皮膚に触れる。だが、その瞬間――彼女の胸が、強く締め付けられた。
(……どうして? ただの火傷だ。致命傷ではない。私が治せば、すぐに消える。なのに、どうして……こんなに、手が震えるのかな? どうして、息が苦しい?)
治療の光が、わずかに揺らぐ。
フリーレンは、自分の感情を観察するように、静かに息を吐いた。
(これは、恐怖? 私が……恐怖を感じている? ヒンメルが傷ついたという事実が、私をこんなに乱すなんて……長命種の私が、人間の痛みに、ここまで動揺するなんて……)
「フリーレン?」
(怖い。彼が傷つくことが、怖い。
彼が死ぬかもしれないという可能性が、怖い。千年生きてきて、こんな感覚……初めてだ)
フリーレンの指先が、わずかに力を失う。治療の光が、一瞬だけ途切れた。ヒンメルは、それに気づいた。
彼は優しく、彼女の手を包むように自分の右手で覆った。
「フリーレン……大丈夫だよ。僕は平気だから」
声は穏やかだった。けれど、その瞳には、彼女の動揺をすべて見透かしたような、深い優しさが宿っていた。フリーレンは、唇を軽く噛んだ。
意味不明な動揺。
自分でも理解できない感情。
それが、恐怖だった。
(私は……何を、失うことを恐れているのだろう)
治療の光が、再び安定する。火傷の皮膚が、ゆっくりと再生を始める。フリーレンは、ただ静かに、ヒンメルの腕を見つめ続けた。
胸の奥で、何かがゆっくりと、しかし確実に変わり始めていることに、彼女自身が、まだ気づいていなかった。
血と焦げの匂いが、薄れていく。
フリーレンは、治療の光をゆっくりと収めながら、ヒンメルの左腕から手を離した。
火傷の痕はもう薄い赤みが残るだけになり、皮膚は滑らかに再生していた。
それなのに、彼女の指先はまだ微かに震えていた。
ヒンメルはいつものように軽く腕を回して確認した。
「完璧だよ。ありがとう、フリーレン」
と明るく笑った。
その笑顔は、戦いの直後だというのに、まるで朝の挨拶のように自然で、痛みも疲れも、すべてを軽く払いのけて しまうような軽やかさがあった。
フリーレンは、その笑顔をじっと見つめた。翠の瞳が、普段より少しだけ深く、彼の顔を映している。
(……どうして)
胸の奥で、何かが静かに、しかし確実に動き始めていた。それは、長い間眠っていた感情の欠片が、誰かの手によってそっと揺さぶられたような感覚だった。彼女はこれまで、何百年もの間、人間たちの感情を観察してきた。
悲しみ、喜び、怒り、恋慕――それらはすべて、繰り返されるパターンとして脳に刻まれ、すぐに「またこれか」と薄く処理されるものだった。だからこそ、彼女は「人間の気持ちは分かっているつもり」になっていた。
分かっているつもりで、距離を置いていた。なのに、ヒンメルだけは違う。彼が傷ついたとき、胸が締め付けられる。
彼が笑うとき、なぜか自分の唇の端がわずかに上がる。彼が「君のほうが大事だ」と言うとき、頭では「そんな非効率な優先順位はありえない」と論理が否定しても、胸の奥が、温かく、痛く、ざわつく。
(これは……興味?)
フリーレンは、自分の感情を言葉に置き換えようとした。
長命種の脳は、感情を細かく分類し、名前をつけるのが得意だ。でも、今のこれは、分類しにくい。
「好意」でも「恋慕」でも「親愛」でも、どれも少し違う。もっと曖昧で、もっと根源的で、もっと……自分でも怖いくらいに深いもの。
彼女は、静かに息を吐いた。
「ヒンメル」
珍しく、彼女の方から名前を呼んだ。声はいつも通り平坦だったが、わずかに、間が長かった。ヒンメルは少し驚いたように目を丸くし、
「ん? どうしたの?」
と首を傾げた。フリーレンは、視線を彼の金茶色の瞳に合わせたまま、
ゆっくりと言葉を探した。
「……君は、いつもそうやって笑うね。
痛くても、疲れていても、危なくても。
それが……不思議なんだ」
ヒンメルはふっと息を吐き、柔らかく笑った。
「不思議かな? 僕にとっては、それが普通なんだよ。だって、君が隣にいてくれるだけで、この世界は少しだけ色づくから」
その言葉は、いつものように軽やかだった。けれどフリーレンには、今までよりずっと重く響いた。
(……私の隣にいることが、ヒンメルにとって色づく? そんな短い時間で、そんな小さなことで? 私にとっては、ヒンメルとの10年なんて、ほんの一瞬なのに……
なのに、ヒンメルはそれを、そんなに大切に扱う)
彼女の胸が、またざわついた。
今度は、恐怖ではなく、もっと柔らかくて、もっと温かい何かだった。フリーレンは、初めて、自分の感情に「興味」を持った。
――このざわつきは、何なのか。
――この胸の動きは、何を意味するのか。
――ヒンメルという人間が、私の心をここまで動かせる理由は、何なのか。彼女は、静かに、しかしはっきりと決めた。
(……もっと、知りたい)
千年生きてきて、初めて生まれた欲求。それは、魔導書を探すときの好奇心とも、新しい魔法を解読するときの興奮とも、少し違っていた。
もっと個人的で、もっと危うくて、もっと、自分自身を揺さぶるもの。フリーレンは、ゆっくりと視線を逸らさずに、ヒンメルを見つめ続けた。
「……ヒンメル。これからも、隣にいてくれる?」
声は小さかった。けれど、そこに込められたものは、
彼女自身がまだ名前をつけられない、新しい感情の始まりだった。ヒンメルは、一瞬だけ目を細め、そして、いつもの優しい笑顔で答えた。
「もちろん。君が望む限り、ずっと」
フリーレンは、頷いた。
胸の奥で、何かが静かに、確実に開き始めていた。山の風が、二人の髪を優しく揺らす。
焦げた匂いが薄れ、代わりに、針葉樹の清々しい香りが、再び森を満たしていく。
フリーレンの瞳には、これまでになかった、ほんの小さな光が宿っていた。
――それは、誰かの心に触れ、動かされた証だった。