「あなた――! 誰!?」
新野冬子は大きく目を見開いて、私の脇腹に刺さったナイフを引き抜く。その瞬間、ぐ、と息が詰まるような痛みが走った。
刺された私以上に、私を刺した新野冬子の方が動揺していた。その顔は血の気を失い、唇が小刻みに震えている。顔を合わせて話したこともあるし、B小町のライブにも来ているのだから何度も私を見ているはずなのに、本当に、ルビーのことしか彼女の目には映っていなかったようだ。
「え、先輩――血が――!?」
刃を抜かれたことで、腹部から血がどくどくと流れ出す。呆けたような声を出すルビーを後ろ手に庇ったまま、半ば無意識に片手で出血を抑えながら、私は激痛を堪えて強引に不敵な表情を作った。
「顔を忘れられたのは久しぶりだわ……これでも、アイと同じく、B小町のセンターよ……?」
「あんなのはB小町じゃない! アイのいないB小町なんか……!」
新野冬子が叫んだ。目の奥がぎらぎらと光り、涙とも汗ともつかぬ雫が頬を伝った。声が震えているのに、頬だけは紅潮していて、瞳の奥では何かが壊れかけていた。
――やはり、それか。
事情を察した私は、彼女の気をルビーから逸らすために、敢えて挑発するように口角を吊り上げた。笑っているのに、頬の筋肉が痛かった。
私を見ろ。私もあなたを見るから。そう新野冬子に訴える。
出血は止まらない。長くは保たない。
私にできることは――それしかない。
「ルビーを刺すのは、アイのため?」
私の言葉に、新野冬子の表情が変わった。
「――何が」
「ルビーは、ひょっとしたら、アイを超えてしまうかもしれない。アイを超えるアイドルなんか、居てはいけない。アイは、完璧で究極のアイドルでなければ、ならない。アイが、普通の女の子だったなんてことは、認められない。アイが、特別でなくなってしまったら、自分は一体何をしてきたのか、分からなくなってしまう」
息が浅くなっていた。深く吸おうとするたびに脇腹が抗議する。
「――分かったようなことを!」
新野冬子が激昂してナイフを振り上げる。その刃の先がルビーに向かいそうになったのを見て、私はルビーを庇うべく前に出て、言葉を続けた。
「分かるわよ――その気持ちは、知っているわよ。私は、ルビーのいる、『B小町』のメンバーなんだから」
新野冬子の動きが――止まった。
口を半開きにして呆然としたまま、狂気と戸惑いの入り混じった視線が、初めて私の方を捉えた。泥のように濁った瞳に、かすかに理性の光が戻っていく。
――ああ、ようやく、アイでもルビーでもなく、『私』を見てくれた。
視界の端が、じわりと白くなりかけていた。首を振って追い払う。
痛みを噛み殺しながら、自嘲めいた笑みを浮かべる。これまで胸の内に秘めてきた感情を、同じ思いを抱える彼女に向けて吐き出した。息を吸うたびに脇腹が燃えるように痛んだ。それでも、私は言葉を続けた。
「ルビーのことが妬ましかった。羨ましかった。私だって努力したのに、どれだけ努力しても届かない。届かないから逃げた。本当は逃げたくなかったのに。アイドルとしての仕事にやりがいは感じていたのに、私のファンだった人たちもルビーに取られた。いくら頑張ってもルビーの腰巾着でしかない。ルビーさえいなければと何度思ったか分からない。ルビーに人気のほとんどを持っていかれることがなければ、私はまだアイドルを楽しめていたはずだったのに、今では何のためにこの仕事をやっているのか分からない」
「――止めて」
新野冬子の声が震えていた。私の声も、震えていたかもしれない。
壁がなければ立っていられなかった。
「B小町の躍進も全部ルビーのおかげ。私たちはおまけなんだから報われなくても当たり前。妬みも嫉妬もない。そんなわけがない。ルビーは何も悪くないと分かっていても妬まずにはいられない。ルビーと一緒にいると自分の醜い部分ばかりが見えてくる。そんな自分が誰よりも嫌い。ルビーのことが嫌いなんじゃない、本当は私自身のことが一番嫌い。だからせめて、ルビーは私が嫉妬しても仕方がない特別な存在であって欲しい。ルビーがどこにでもいるような女の子だなんて認めてしまったら、私は――」
「――じゃあ、どうして!」
新野冬子は両手で頭を抱え、大きく声を張り上げた。
「どうして、そのあなたが、ルビーちゃんを庇うの!?」
「あなたが一番よく分かっているでしょ――妬ましくても、羨ましくても、友達だからよ」
立ち上がろうとして足元がふらつき、壁に片手をついて呼吸を整える。唇を噛んでいたのか、口の中に鉄の味が広がる。
「あなたが、アイの友達でありたかったのと同じように」
新野冬子は、ぱくぱくと口を動かしたが、声にはならなかった。「ああ――」と声を上げた時、私はその顔を見ていた。長い時間をかけて固まったものが、ようやく溶けた顔だった。泣いているのか笑っているのか分からないまま、彼女は床に崩れ落ちた。
開けっ放しの扉から、冬の外気が流れ込んでいた。
それを見て気が緩んだ私も、壁に背をつけてずるずるとその場に座り込んでしまった。後ろで呆然としていたルビーが「先輩!?」と慌てて私に駆け寄ってくる。スマホを取り出して救急車を呼んでいる声が聞こえた。
「先輩! 救急車呼んだから! 大丈夫だよね!?」
電話を終えたルビーは私の肩を揺さぶる。そんなことをすれば余計に体力を使うだろうと思いながら、「平気に決まってんでしょ――私は、殺しても死なない女よ」と強がった。
でも――どうだろう。腹部からはずっと血が流れ続けているし、既に視界も霞んで耳も遠くなってきた。意識も怪しい。刺されるなど初めての経験だから実際の所は分からないが――これは。
死ぬかもな、と思う。
「死んじゃだめだよ! 今日は卒業ライブだよ! アイドル卒業したら告白もするんでしょ!?」
私に向けて叫んだ後で立ち上がり、玄関先に崩れ落ちたまま両手で顔を覆っている新野冬子の方を睨みつける。
「あなたが――先輩を――」
ルビーの瞳に、深い夜のような闇が静かに滲んでいく。そこには怒りとも悲しみともつかない、混ざり合った色があった。ルビーが本格的に売れ始めてから映画の撮影が始まる少し前まで、ルビーはよくこんな目をしていた。芸能界の黒い部分を見て適応してしまった、その変化だと思っていた。だが今のルビーの瞳に浮かんでいるのは、あの頃のそれを何倍にも凝縮したような黒色だ。
「私はあなたを――」
「――駄目」
私は、力を振り絞って、視線だけで殺せそうな目で新野冬子を睨みつけるルビーの手を引いた。
「先輩?」
ルビーの眉が不安に歪み、唇が小刻みに震えていた。
「駄目なの――ルビー、それは、駄目。誰かを憎むのは、生きる力にはなるけれど、それは苦しいだけなの。憎しみに呑まれて、それを晴らしたとしても、結局は苦しくなるだけなのよ」
かつての私は、周囲のすべてが敵だと思っていた。私から仕事を奪っていく業界人たちも、ライバルとなっていた他の役者たちも、私のような苦労をせずに日々をのうのうと生きているクラスメイトたちも、家庭を崩壊させた父親と不倫相手も、いくら愛してほしいと願っても私を愛してくれない母親のことすらも。その憎悪も反骨精神も、私がこの芸能界で生きるための力にはなっていた。
でも、きっと、母も周囲も、敵でも味方でもなかったのだ――黒川あかねと出会って、初めて共演した時に、私はそう教えられた。そのことだけは、彼女にも感謝している。
「こんなに悲しい人を憎んでも、この人は、ルビーを憎んではくれない。行き場を失った憎しみは、最後には全部アンタ自身に返ってくる。人も世界も、ただあるだけなのだから、恨みも怒りも憎しみも、アンタの中にあるだけのものなのよ。アンタたちは、もう、これまでの人生で十分に苦しんできたでしょ。これ以上苦しむようなことをしたら、駄目なのよ」
「――先輩」
「約束、して。私のことで、誰かを憎んだり、しないって」
ルビーは迷いながら私と新野冬子を交互に見て、ふ、と何かを押し込めるように目を瞑る。再び開いたその目の中からは、先刻まで浮かんでいた闇が揺らいでいた。そのまま私の元に座り込むと、ためらいがちに小さく頷いた。
そして、新野冬子に背を向けたまま、ぽつりと一言こぼす。
「ママは、あなたと友達になりたかった」
新野冬子は顔を上げて、泣き笑いのような表情を見せた。
「私だって、そうだよ」
私とルビーを見る彼女の表情の中には、私にも理解しきれないくらい様々な感情が浮かんでいるように見えた。この人が、少しでも救われて欲しいな、と私は思う。
でも、私が死ねば、新野冬子は殺人犯になるのか。
死ぬのだろうか。
死にたくないな。
心残りはたくさんある。まだちゃんとアイドルを卒業できていない、お母さんと一緒にお酒を飲んでいない、黒川あかねとも決着を付けていない、役者として演じたい役もたくさんある。
まあ、それでも、私にしては頑張った方だろう。
ルビーのことは守れたのだから。
私が死ぬよりもルビーが死んだ方がずっと多くの人が悲しむ。ルビーは私と違って皆に愛されている。クラスメイトにも、ファンにも、同業者にも、業界人にも、母親役をやってくれている社長にも、それに何より――。
玄関奥から聞こえてきた足音によって私の思考は遮られた。これだけ大騒ぎしていれば気付くか。むしろ遅かった。現れたアクアは状況を見て、一瞬だけ立ち尽くした。私はその一瞬に、この人がこんな顔をするのかと思った。いつもどこかで感情に蓋をしているような人間が、蓋ごと壊れた時の顔だった。次の瞬間、彼は我を失ったように私へ駆け寄ってきた。
ルビーが兄に縋りながら何か話している。もう、私には内容がちゃんと聞き取れない。しばらくルビーの説明を聞いた後に、アクアは私の服の裾をまくって傷の状態を確認すると、泣きそうな顔で何やら処置を始めた。
乙女の肌に気安く触るんじゃないと思ったが、いつもすまし顔の彼のこんな動揺した姿が見られたことに免じて、特別に許してやろう。
視界が霞む。泣きながら兄に縋っているルビーの声が遠くに聞こえる。騒ぎを聞きつけて廊下の奥から現れた社長の愕然とした顔が見える。魂が抜けたような様子の新野冬子の顔がブレる。2人に大声で指示を出しているらしいアクアの焦った顔が目の前にある。
ああ――そうだ。
この心残りだけは、今、晴らすことができる。それは感謝しよう。
私は最後の力を振り絞って、右手を持ち上げると、アクアの頬に触れた。目尻に涙を浮かべた彼の目が私の方を向く。
なんて顔してんだか。
見たこともない表情をするアクアに、少し可笑しくなった私は、自然と微笑んでいた。
「あーくん、愛してる」
アクアが何か言った気がした。もう、聞こえなかった。
それでよかった。