俺は東京の町をあてどなくさまよっていた。
ビル群の谷間に冬の薄光が沈み、街路樹の影が道に細く伸びていた。人々のざわめきは遠く、音だけが空虚に耳へ届く。歩道を照らす街灯の白さが、現実をいやに鮮明に見せつけてくる。こんなにも世界は普通に動いているのに、自分だけが置き去りにされたようだった。
自分がどこに向かっているのかも分からない。道が分かれる度に、行ったことがない方の道を選んで進む。少しでも現実から離れたくて、見たことのないものを見ようとする。これが夢だと思い込もうとする。
夢だったらどれだけいいか分からない。
――でも、忘れようとするたびに、記憶が戻ってくる。
――有馬が刺された。
脇腹を大ぶりのナイフで刺されて出血多量で意識不明の重体。刺創は右側腹部、肋骨の下あたり。動脈をかすめた可能性が高く、呼吸の度に血が泡立つように滲んでいた。圧迫止血をした指先にまで、脈動と一緒に有馬の体温が弱っていくのが伝わり、どれだけ力を込めても漏れ出す血の勢いは止められなかった。
救急車で担ぎ込まれた先の救急病院で今もまだ意識が戻っていない。
助かるかどうか、分からない。
俺があの場で可能な限りの応急処置は行った上で、警察への事情説明と新野冬子の引き渡しをルビーとミヤコさんに任せて、救急車に乗せられた有馬に付き添った。血を失いすぎて有馬の意識は朦朧としたままで、命が助かるかどうかは分からない。運び込まれた病院の集中治療室の前で祈るような気持ちで待っているうちに、警察での聴取を終えたルビーたちもやってきた。ルビーは項垂れたまま手を震わせ、医師の説明にうまく頷けずにいた。ミヤコさんも顔色が悪く、受付の書類に記入する手元が何度も止まっていた。3人で並んで座っていても、互いの距離だけが妙に遠く感じた。
治療室の前で涙を流すルビーの顔も、不安を滲ませながらそれをなだめるミヤコさんの顔も見ていられなかった。本人たちにそんなつもりがないことは分かるが、俺の無能さが責められているように思えてしまったのだ。有馬の家族やMEMちょへの連絡や、卒業ライブ中止の通達等をミヤコさんと相談しながら終わらせたのち、誰にも何も告げずに1人で病室前から逃げ出してきた。
2人に言葉で責められれば、いっそその方が楽だったかもしれない。
ルビーを守らなければならないのは――俺のはずだったのに。
俺が無能だったから、代わりに有馬が犠牲になった。
ミヤコさんによると、有馬は昨晩何か漠然とした不安を感じて泊まりに来たらしかった。新野冬子の襲撃を予測していたわけではなかったにしても――俺は、彼女のことを全く警戒していなかった
ルビーが以前のアイと遜色ないほど売れ始めた現状では、具体的な備えはできずとも、警戒心を強めるくらいはできたはずだったのに。
こんな風に自分を責めるのも、現実逃避なのだろうか。
でも――現実と向き合っても、もう、俺には何もできない。大事なものがごっそりと抜け落ちて、何を想えばいいのかも分からない。アイが死んだ時に感じたのと同じ重さで、俺の中から何かが抜け落ちていく。
いつの間にか海に来ていた。冬の海は雲の切れ間から弱い光を返し、波は灰色を帯びて静かに寄せては返していた。潮風には冷たさの中に鉄のような匂いが混じり、崖の縁から見下ろす海面は灰色に沈んでいた。
気づけば、崖の縁に沿った遊歩道に出ていた。海岸の前には一人の男がいた。俺よりもやや小柄な体にやけに畏まったスーツを着て、艶のある髪の毛を肩にかからない程度まで伸ばしている。落下防止用の手すりに前からもたれかかったまま俺には背を向けて、手元のスマホをいじっていた。
「何かあったようだね、アクア」
俺が言葉を発する前に、彼の方から話しかけてきた。海の方を向いたままだから俺の姿は見えてはいないはずなのだが、気配で分かったのだろうか。息子の気配くらいは顔を見なくとも感じ取れる、というほど、この男と交流を重ねた覚えはないのだが。
「――カミキヒカル」
「父さん、とは、さすがに呼んでくれないか。やはり君はまだ、僕を憎んでいるのかな」
カミキはスマホを胸元で軽く振るようにして、海から視線を離した。
確かに俺は、ずっと憎らしかった。アイを奪ったこの男が。
――でも、アイも有馬も守れなかった俺に、彼を憎む権利があるのだろうか。
ルビーによると、有馬は刺された後、誰も憎むな、と言っていたらしい。憎しみを力にしても最後には苦しくなるだけだから、自分のことで誰かを憎んではいけないと、約束させられたと。俺が有馬の意思に背いてまで誰かを憎み続けることが間違っていることは分かる。それは分かるが――ならば。
この空洞を、憎しみ以外の、何で埋めればよいのだろうか。
「――分からない」
俺が呟くと、カミキはようやくこちらを振り返った。整えすぎた前髪が風に揺れ、やけに白い肌が曖昧な笑みとともに浮かび上がった。
「少しは話ができそうだね。――何があった?」
「有馬が、刺された」
「有馬――有馬かなさん、だったか」
カミキは芝居がかった調子で手を額に当て、大仰に頷く。
「新野冬子さんの役をやっていた子だね。いい役者だった。並外れて感情が豊かで、その感情を自覚して表現する技術にも長けていたし、人の目を惹き付ける華もあった。ルビーの演技を引き上げるだけの能力もあった。子役上がりのベテランだけあって、ある面では、アイと同じくらいに輝いていた。十分に価値のある命だ。――アクアは、あの子と付き合っていたのかな?」
「付き合ってはいなかった、けど」
有馬の最後の言葉は、俺への告白だった。
有馬に好意を持たれていることにはずっと前から気付いていた。でも、ずっと曖昧な態度を取り続けていた。自分が幸せになってはいけないとか、アイドルである有馬とは付き合えないとか、色々と考えはあったけれど、とどのつまり、有馬の想いに真正面から向き合うことから逃げていたのだ。その結末がこれだ。俺は何も言えなかった。
「女を誑かす血筋は遺伝したわけだ」
うつむく俺を見て察するものがあったのか、カミキは小さく苦笑する。
「大輝も女癖は悪いようだし、僕の嫌な部分が子供たちに似てしまったものだ。――誰に刺された?」
「――新野冬子、だ」
「なぜ?」
「ルビーを庇って」
「ルビーを――そうか」
カミキは一度言葉を切って、右手を額に当てたまま大きく空を仰いだ。
「アクアだけでは、ルビーのことを守れなかったのか」
俺の胸にその言葉は突き刺さった。
「俺が、ルビーを守れなかったから、有馬が犠牲になった」
「そうだね。その通りだ――アイの死が、僕の責任であるのと同じように」
カミキは俺の罪を肯定する。俺の胸の内の空白と向き合わせてくれる。ルビーやミヤコさんのように庇おうとはしない。彼ならば裁いてくれるかもしれない。この空洞を罰で埋めてくれるかもしれない。誰かに裁いて欲しかった。
「――アンタは、アイが死んだあと、どう乗り越えたんだ」
「乗り越えてなんかいないさ。僕のせいでアイが死んだと知った後、自分も後を追おうと何度思ったか分からない。その考えを改めるようなきっかけもなかったけれど、それでも死ぬほどの勇気もなかっただけだ。後々のことを思えばさっさと死んだ方が良かったのかもしれないが、今更死ぬこともできない。いや、アクアたちの作った映画を見たのは、死ぬきっかけとしては悪くないかな――うん、今からでも死ぬのもいいかもしれない。アイを死なせた僕には、生きる価値などない」
そうか。
カミキも死ぬのか。
「アクアはどうしたい?」
「俺は――」
「まだ生きたいかい? アイを守れず、ルビーの役に立たず、有馬さんを犠牲にしても、それでもまだ、この世界で生きたいかい?」
カミキは内容とは裏腹に、不思議なくらいに穏やかな声音で語りかけてくる。語尾に無理な抑揚をつけることもなく、淡々と事実だけを述べるような、妙に落ち着いた声だった。その静かな響きが却って感情を削ぎ落とし、耳の奥に冷たく沈んでいく。
「これでも父親だ。息子の話くらいは聞くよ。アクア、何を思っていて、これからどうしたいのか、話してごらん」
俺は。
「俺は――俺のせいで、有馬が死にかけている」
「そうだね」
「新野冬子のことなんか全く警戒していなかった。有馬は新野冬子を警戒していたらしいのに。俺が無能だったから――有馬が代わりに犠牲になった。刺されるべきなのは俺の方だった」
「なるほど」
「俺は嘘ばかりついてきた。復讐の名目で人を傷付け続けてきた。できもしないのにルビーを守ると嘘をついた」
「僕にそっくりだ」
「アイもルビーも守れない。俺は――役立たずだ」
「その通り」
「――生きている価値がない」
「それでも、死ぬわけにはいかないのだね」
ひゅう、と。
風が吹いた。
海から吹きつける風は弱いのに刺すように冷たく、迷いを容赦なく吹きさらしていく。
その風に乗って潮の匂いと砂のざらつきが運ばれ、遠くの波音が途切れ途切れに耳へ届く。夕暮れの光は薄く、空と海の境界が溶けて曖昧になっていた。崖下では波が岩を打ち、砕けた白い飛沫だけが暗い海面に浮かんでは消えていった。
「どうしてかな? 生きる価値がないのに、アクアはどうして、まだ、生きている? これだけの醜態を晒しても生にしがみつく理由は何か? こんな汚れた世界で、まだ何か、アクアの使命が残っているのかな?」
「それは――俺が――死んだら――」
「死んだら?」
「――ルビーが悲しむ」
そう。
俺がどれだけ無能だろうと、まっすぐなあの子にとっては、俺は大事な兄だ。前世で母に見捨てられ、ルビーになってからアイを失い、アイドルになった後にずっと会いたいと思っていた雨宮吾郎の死体を見つけたあの子は、復讐のためだけに芸能界にしがみついていた。俺の前世が雨宮吾郎だったと知ったことで、この世界に希望を持ち直したのだ。
俺が生きているだけでいい――と、ルビーは言っていた。
なら、俺が死んだら、ルビーは。
「そうだね。有馬かなさんだけでなくアクアのことも失えば、ルビーは大変なことになるだろう。次々に周囲の人間を亡くし、兄の支えもなくなれば、もうルビーは立ち直れない。――でもね、果たして、アクアが生きていたとしても、ルビーは幸せなのかな?」
カミキの目に灯った闇が一層深くなる。カミキの口から放たれる闇が、俺の空洞を埋め尽くして行く。俺というものが、失われて行く。
「――俺が生きてくれるだけで幸せだ、と」
「そう見えたかい? 今のルビーは、幸せそうに見えたのかい?」
カミキは穏やかな笑みを崩さず、ただ俺の表情の変化だけを探るように目を細めた。
「幼少期に母親をなくし、トラウマに悩まされながら、世界への不信感を抱きながら、それでも生きるために立ち直った振りをしてきた。心の傷が風化してきた頃には友人が自分を庇って死ぬ。自分の好きな人たちが自分を残して次々に死んで行くルビーは、本当に幸せそうな顔をしているのかな。支えになるはずの兄は、ただ生きているだけの役立たずだ」
「――――」
「母親と同じアイドルになるのが夢だったらしいね。その夢を叶えて、ルビーは幸せだったのかな? 憧れていたアイドルは、憧れた通りにキラキラした仕事だったかい? アクアだってこの芸能界で仕事をしてきたのなら、ここがどんな場所なのかは理解しているだろう? 生身のヒトに人間性など求めずにコンテンツとして消費し続ける。ファンは自分たちを棚に上げてコンテンツには清廉潔白であることを要求し、それが叶わなければ裏切られたと自らの悪意を正義感と偽って攻撃性に変換する。僕らはそんな場所で生きるために、汚れ切った自分たちが美しい存在であると嘘を吐き続ける」
「ルビーは――違う」
俺はどうにか首を振る。それだけの動作でも鉛のように重い。
「あの子の光は、誰かに愛を与えるためのものだ」
「本当にそうかな? 今やルビーは日本中が注目するアイドルだ。この芸能界でそこまで登り詰めるために、これまで一体どれだけ黒いことをしてきたのか。まっすぐ生きていれば売れるような世界じゃない。憧れた世界で生きていく為に、この先もルビーはいくらでも嘘を吐き、どんどん汚れ続けていくはずだ。僕やアクア、そしてアイとも同じように」
「――アイは」
「アイを死なせた僕は、この世界で最も罪深い存在だ。地獄に落ちて当然だろう。ただね、あの時、あれ以上汚れることなく死ぬことができたアイは、ある意味では幸せだったのかもしれないとも僕は思うんだよ。子供たちへの愛を確信し、絶対に嘘ではない愛に包まれて死んで行けたことは」
アイは。
確かに最期、幸せそうに笑っていた。
「この穢れた芸能界の頂点に立ち続ければ、本人も汚れずにはいられない。汚れ切らずに死ねたアイは幸せだった。ルビーがこの先も生き続ければ、どうなるのだろうね。僕やアクアと変わらないくらいに――汚れ切ってしまうのだろうか」
カミキは俺にゆっくりと歩み寄り、俺と目線を合わせて顔を覗き込んでくる。闇に染まった瞳が、目の前に来る。彼の闇がどんどん俺の中を侵食していく。
「アクアには生きる価値がない。ルビーには生きる幸せがない。なら――アクアはどうしたい?」
「あ、ああ――」
「自分の口から話してごらん、アクア。君がこれからどうすべきなのか」
俺は。
俺は。
足元が、揺らいでいる気がした。
「俺は――もう、生きていられない」
「うん」
「でも、ルビーを、残していけない」
「なら?」
「だから」
だから――。
「いっそ、ルビーと一緒に――」
その言葉を発しようとした時。
羽ばたきの音と共に――黒い群れが、俺とカミキに襲い掛かってきた。
十数羽のカラスが一斉に羽音を立てて降下し、黒い影となって俺とカミキの間へ割り込んできた。羽が空気を裂き、俺の肩をかすめた瞬間、強引に体の向きを変えられる。カミキも同じように一歩下がる。群れは急旋回すると、上空へ舞い戻りながら、一つの塊になって地に着いた。
「この芸能界で傷つきながらも、汚されながらも、その痛みも穢れも己の力に変えて輝いていく。君の魂が惹かれ、守りたいと思ったのは、そんな彼女たちの光だっただろうに、それすらも見失ってしまうとは――本当に、君は弱い。せめて有馬かなの死が確定していないうちは希望を持ちなさい」
いつの間にかその場に少女がいた。俺たちから離れたカラスの群れは揃って彼女の元に集い、うち1羽は少女の肩に止まった。少女はカラスを撫でながら、一歩一歩こちらに歩み寄ってくる。
「でも、そんなに弱い君だからこそ、助けあげたいと思う人もいるのだろうね」
小学校低学年くらいの矮躯。背中にかかるほどに伸ばした綺麗な髪。幼い体つきに似合わぬ落ち着きを纏い、白磁のように滑らかな肌と深い闇を宿した黒目がちの瞳。
真っ黒なワンピースを身に纏った少女に向けて、俺から離れたカミキは不審げに問い質した。
「何者だい?」
少女――かつてツクヨミと名乗った存在は、俺の方を向いて、得意げに片目をつぶってみせた。
「なに、ただの通りすがりの神様さ」