※【推しの子】原作者の赤坂先生の作品「ib-インスタントバレット」と繋がる独自設定を捏造しています。
病院の敷地の外に出ると、粉雪がまだ残っていた。踏み固められた雪が歩道を薄白く染め、冬の朝の光が音もなく差し込んでいた。世界はひどく静かだった。
立ち止まって白い息をついていると、頭上から声が聞こえた。
「だいぶマシな顔になったようだ。可愛い女の子と話しただけで持ち直せるあたり、実に女好きの君らしい」
カラスを従えた黒衣の少女が塀の上に座り込んでいた。俺が前に来たのに合わせて、よっ、と口に出して塀の上から飛び降りる。足元まで来て俺の顔を一目見てから首を傾げた。
「何だ、黒川あかねや有馬かなの想いに応えたわけではなく、結局二人に慰められただけなのか。この期に及んで保留を続けるとは、さすがは女の敵、あの両親にしてこの子ありだね」
「お前、さすがに言っていいことと悪いことがあるぞ」
俺の記憶が読めるらしいことは今更なのでもう突っ込まない。
「お前にも世話になった。礼は言っておく」
「おや、随分と素直だね。少しは神を敬う気になったのかな?」
「――その、神様って、結局なんなんだ」
言葉を選びながら話す。礼を言うのは簡単だったが、その先をどう切り出すべきかは分からなかった。
どこまで踏み込んだものか分からない。ただ、あの晩に、この少女が俺に敵対しているわけではないらしいということは分かった。助けられた恩義もある。俺からも既に反感はないし、踏み込んではいけない領域があれば忠告してくれるだろうとも思えた。
「お前みたいなのが他にもいるのか?」
「みたいなの、ね」
「俺とカミキの記憶を強引に共有させた力だ。あんな力を持っているのが他にもいるのか?」
「『共感』の力が使える存在は私だけだが――そうだね」
少しだけ考える様子を見せてから、そのままくるりと反転すると、背を向けたまま歩き出した。俺も慌てて後を追う。
「まあ、これくらいは話してもいいか。君たちの魂を転生させた『英雄』の力を持つのは私のお姉ちゃんだよ」
「姉なのに『英雄』? 誰が名前つけたんだ」
「あらゆる知識を得られる『情報』の力を持つ私たちのリーダーが、世界の根源を調べて知った名だよ。おそらくは世界を救うための力だったからこそ、そんな名称になっているのだろうね」
「世界を救うためって、また大仰だな」
「実際に救ったからね。私なんかは単に長生きしているだけの存在だけれど、為したことを鑑みれば、お姉ちゃんとクロ兄ぃが神様扱いされるのも無理はない。元々は単なる人間でしかなかった私たちと違って、お姉ちゃんは成り立ちからして少し特殊だしね」
背景が不明だから詳しいことはよく分からないが、思った以上に色々と話してくれる。もっと煙に巻かれると思っていたのだが。これは俺が聞いてもいいことなのだろうか。そんな思考を読んだのか、少女は立ち止まって俺を振り返ると、深く溜息をついた。
「まあ、本当はこんなことまで話さない方がいいんだろうけれどね。君が事情を知ったところでクロ兄ぃが戻ってくるわけでもないし――」
「その、お前の兄というのは、亡くなっているのか?」
「私たちはみんなこれまで何度も死んでいるよ、その度にお姉ちゃんの力で記憶を保持したまま生まれ変わってきただけで。でも、お姉ちゃんを生み出した存在であるクロ兄ぃの魂だけは、お姉ちゃんの力では干渉できないから、どうしようもない」
「俺たちを生まれ変わらせたのは、その姉の意思か?」
「いいや。私がお姉ちゃんに頼んだんだよ。特に天童寺さりなについては、完全に私の個人的な依頼だ」
「――時系列を考えると、その時の『お前』は、この『ツクヨミ』ではなかったんだな?」
「ご名答。前の身体で雨宮吾郎には多少世話になったからね、彼があまりにも後悔を抱えた死に方をしたものだから、神らしく慈悲を与えてやろうと思ったのさ。どうせならと天童寺さりなも一緒にね」
雨宮吾郎の知り合い――か。前世の記憶をしばらく探ってみたが、思い当たる節はない。
「思い出そうとしても無駄だよ。君たちが覚えているはずがない」
何か含む所があるような微笑みを浮かべると、再び歩き始めた。枯れた街路樹が等間隔に並ぶ道を、少女が黒いワンピースの裾を揺らしながら進んでいく。カラスたちが羽ばたきながら先を行き、冬の空に散った。
「これまで手出しする様子がなかったのに、今回、突然干渉してきたのは?」
「そういう風に決まっていたから――かな。まあ、神の領域の問題に君たちを関わらせたくなかったから、生まれ変わらせた時点ではあまり干渉する気はなかったんだけどね。君が今度こそ最終的に後悔のない死に方ができればそれでいいと思いながら見守っていたのだけれど、カミキヒカルに言いくるめられて星野ルビーと心中するというのはさすがにちょっとね。有馬かなが刺された結果、君があそこまで駄目になるとは思っていなかった」
「じゃあ、俺があそこでカミキと心中する分には構わなかったのか?」
「まあね。そうならないことは知っていたけれど」
「あかねと壱護さんの動向も把握していたのか?」
「ん――いや、動向を知っていたというよりは――」
少し言い淀んでから、「まあいいか」と開き直ったように言葉を続けた。
「私たちの仲間には『時間』の力を持つ神もいてね」
「『時間』――なんか、凄そうだな」
「凄いというより、危ない。私たちの力の中でも、あれより危険なものは、台無しにすることしか能がない爆弾女の『破壊』の力くらいのものだ」
また物騒な名前の能力が出てきた。
「『時間』の力とやらは、何ができるんだ」
「簡単に言えば『時間』に関わることが基本的に何でもできる。未来予知と時間停止あたりまでならまだ可愛いものなんだが、最も危険なのは時間跳躍だ。あの魔女は過去に向けて時を遡ることも、未来に向けて時を超えることもできる」
「魔女?」
「いい歳して痛々しいコスプレをしながら魔女を自称している」
「――なんかお前、そいつには辛辣だな」
「まあ色々あってね。あれでも小さい頃は可愛かったんだけどなあ――『時間』の力の歪みの影響を受けて、あんな存在になってしまった」
少女はそこまで話して立ち止まった。頭上の枯れ木の枝に、カラスが一羽だけ止まっていた。風もなく、辺りはひどく静かだった。俺に背を向けたまま、いつもと同じ声音で問い掛けてくる。
「君もこれ以上は知らない方がいいかもしれないが、どうする?」
「――知ったら、刺客が襲って来るとかか?」
「そういうのじゃない。君が秘密を知ったところで私たちに不都合はない。仮に今後何らかの不都合が出たとしても、君の命を狙うまでもなく、私が『共感』の力を使って君の記憶を消せばいいだけだ。不都合があるのは君の方だよ」
声の調子は変わらないのに、その一言だけが、空気ごと重くなったような気がした。
「これ以上の秘密を知ってしまえば、これから先の君の人生で、あらゆるものの見え方が変わってしまうだろう。聞いた後で後悔するかもしれない」
俺は少し考えてから答えた。
「お前、人の記憶が消せるのか?」
「ん――まあ、『共感』の力は、他者の精神と五感に自由に干渉する力だから、それくらいは簡単だし、何なら君に偽の記憶を植え付けることも、自由自在に操ることも可能だよ。視界内にいるなら誰でも対象にできるし、一度触れたことがある相手なら視界にいなくても干渉可能だ。あと色々あって、人だけでなくカラスにも共感できるようになったので、彼らも私の能力の対象になった。人を操って従えるよりも差し障りが出にくいから、こんな風に重宝している」
カラスに共感できるというのがどういうことかはよく分からないが、少女がいつもカラスを従えている理由は分かった。
「なら、話だけ聞く。俺が聞かなければ良かったと後悔するようなら、その時はお前の力で記憶を消してくれ」
少女は何とも言えない顔をした。
「相変わらず変な方向に悪知恵が働くね――まあ、利用できるものは神でも利用しようというのは、確かに君らしいと言えば君らしいか。いいよ、世界の秘密を簡単にいうとね、この世には並行世界は存在しないんだよ」
「並行世界――パラレルワールド? 創作物でお馴染みの概念だな。それがないと、何が問題なんだ?」
「なのに、あの魔女は未来と過去を行き来できる。これはどういうことだか分かるかい?」
俺は考える。問いの意図は分かった。核心はおそらく、過去に遡る方だ。
過去に戻った上で、現在の歴史と異なるように歴史を改変すればタイムパラドックスが起きる。タイムマシンが登場するSFでは、パラレルワールドの概念があり、過去を改変すれば未来が分岐して二つの世界が存在するようになる、と説明することが多い。それがないということは――
「――考えられることは2つ。1つは、魔女が過去に遡った時点で、元いた世界は完全に消滅するという可能性」
少女は何も言わずに微笑んでいる。どうやら外れのようだ。
「もう一つは、魔女が何をしようと、絶対に未来を変えることはできない、という可能性。魔女が過去に戻ることも織り込み済みの1つの運命が決定されている、という考え方」
少女は今度は頷いた。
「世界の始まりから永劫の未来まで、すべての出来事は世界の根源に刻まれている。あらゆる歴史は何をしようと絶対に変わらないし変えられない。魔女が過去に遡ることも未来へ駆けることも、すべて織り込み済みで歴史は決定されている。魔女が予知した未来は、彼女自身も含め、私たちには決して変えることができない。じゃんけんにおいてすら、魔女は1秒後に予知した自分のパーをグーに変えることができなかったそうだよ」
「歴史の修正力みたいなものがあるのか?」
「少し違う。私たちが歴史を変えようとするとそれを揺り戻そうとする力が働く、というわけではない。最初から、私たちが歴史を変えようと行動することまで組み込まれた歴史になっている、ということだ。過去が不変であるのと同じように、未来もまた不変なんだ。不変であるとしても私たちはその時が来るまでは未来を観測はできないのだが、魔女の力はそれを事前に知ることが可能だ」
「それは――」
どんな感覚なのだろう。
歴史が人の行動を織り込み済みで決定されている。未来に自分がどのような行動をするのかもすべて決まっているし、自分の意思で自分の行動を変えることもできない。いや、自分が何をしたいと思い、何を守りたいと願うのかもすべて決まっている。
ならば、人の意思とは一体、何なのだろうか。
自分がこれから何を思うのかもすべて決まっているのだと、未来を突き付けられ続けるというのは、どんな心境なのだろう。
「かつて魔女は、好きな人が苦しむ未来を変えようと過去に戻った。しかしどれだけあがいても歴史を変えることはできなかった。それどころか自分のあらゆる行動がクロ兄ぃが苦しむ未来に繋がってしまうと理解した。すべてを懸けて救おうとした人を苦しませることしかできないと自覚した。歴史に刻まれた自らの命日までは、彼を苦しめる自分を殺すことすら不可能なのだと突き付けられて、魔女は狂ったんだ。もちろん、彼女が狂うことも、最初から決まっていた必然だった」
少女は珍しく顔をしかめる。
「好きな人を苦しめることしかできないから、好きな人の苦しみをも自らの幸福とした。最期は己の死をもって、永遠に消えない傷をクロ兄ぃに刻み付けた。理不尽な未来を変えるために時を遡ったはずだったのに、最後にはそんな不条理や理不尽こそを愛していた」
少女は珍しく言い淀んだ。嫌悪しているのか、哀れんでいるのか、あるいはその両方なのか——幼い顔に浮かんだ感情は、俺には読み切れなかった。
「お姉ちゃんの力によって新しい世界で魂を掬い上げられた後も、神出鬼没にあちこちの時系列に出現しては、嫌がらせのように私たちに未来を伝えてくる。星野アイがストーカーに刺されて死ぬなどと、どうしてわざわざ未来を確認しに行くのか、私に伝えてくるのか。私の『共感』の力を逆に利用して、自分が正直に話していると私に無理やりに理解させてくる。彼女が一度その未来を予知してしまったら、私にだってもう変えようがなくなるというのに」
「――その予知がなければ、お前はアイを助けたのか?」
「私は『共感』の力で、君たちの痛みも絶望も、すべて同じように感じてきたんだ。手出しするつもりはなかったとは言っても、こっそりと力を使ってカミキヒカルや菅野亮介を多少落ち着かせるくらいのことはしても良かったよ。彼らとて色々な事態が重なった結果として悪い方に考えが向かってしまっただけだ。別に生まれながらの犯罪者というわけでもなかったのだから、私が『共感』の力で少し頭を冷やすだけであそこまでの暴走はしなかったはずだ。ユミコの時のような露骨な人体操作をする必要もなかった」
「ユミコ?」
何か重要な場面でそんな名前の女と関わりがあったような覚えが――。
「あ、気にしなくていい。というか忘れなさい。私はできれば君の精神を直接操作したくはないんだよ」
「前から思っていたけど、お前、結構迂闊だよな」
少女は、むう、と呻きながら俺を睨んだ。
「まあ精神は長生きしているけれど、この身体の脳自体は子供のものだからね。注意力や感情を抑える力は脳の性能に依存する。君だって生まれ変わった後、幼児期には精神と感覚の不均衡に悩んだだろう?」
幼児期は、というか、今でもある。感性は大人なのに嗜好は思春期と変わらないのだ。雨宮吾郎が死亡したときと同じくらいの年齢になるまでは悩まされ続けると思う。
「話を戻すと、星野アイが死ぬことだけでなく、その他にも君たちについて色々と勝手に私は魔女に教えられてね。君が復讐のために生きるようになるとか、16歳の時に星野ルビーも復讐を志すようになるとか、君が復讐の為に映画を撮るとか、聞いてもいないのに全部知らせに来るんだよ」
「お前、そいつによっぽど嫌われているのか?」
「私も魔女の精神には、極力『共感』しないようにしているから、実際の所は分からない。ただ、おそらく、私の力に期待しているんじゃないかな。あの魔女は実際に起きる出来事は観測できても、その時に君たちの心の内がどうなっているのかまでは分からないからね。魔女から見た時にどれだけ悲しい結末だったとしても、それは彼らの中では満足のいく行動だったかもしれない。せめて彼らの終わりが後悔のないものだったことにして欲しいと、人の心が読める私に望んでいるのだと思う」
少女は俺から顔を逸らした。肩に止まったカラスが、低く一声鳴いた。それ以外は何も聞こえなかった。
「私は魔女とは違うから、変えようがない未来が分かっている中で物事と向き合うことに何も思わないわけじゃない。だから、私は君たちに対して、ちゃんと自分なりの使命を見つけた上で、それを為してくれることくらいしか望めない。結末自体は私にも変えられない以上、私に干渉できるのは結末に至った際の君たちの心持ちだけだ」
「――未来が決まっていたとしても、魔女を通してしか未来を知れないお前たちにとって、魔女に知れない俺たちの内心はブラックボックス足り得る、ということか」
少女が何を思って、俺たちに対してあんな中途半端な干渉をしてきたのかは理解できた。起きる出来事そのものは変えられないから、直接的な手助けは意味がなかったのだ。
「俺がカミキヒカルに唆されてルビーと心中しそうになることまで知っていたわけか」
「いや、私が知っていたのは、君の窮地に私が助けに入り、その後に斎藤壱護と黒川あかねの介入によって君が死を間逃れるという情報だけだ。どのような状況で、私が具体的に何をするのかまでは魔女にも教えられていなかったが、それでも直接手助けしてもいいという予知があったから今回だけは安心して介入できたんだ。実際に割って入ってみれば、君がカミキヒカルにいいようにされていたものだから、君たちを強制的に『共感』させてカミキヒカルの正体を伝えるのが手っ取り早いと判断した」
「――ああ、助かった」
「カミキヒカルの記憶を追体験したことで、事件の後に君の立ち直りが早くなったのは嬉しい誤算だったかな。まあ、一度でも同調した相手を憎み続けるのが難しいことは私もよく知っている」
今朝のあかねも俺の立ち直りが早いことを少し不思議に思っていたようだった。確かにカミキの記憶を読んでいなければ、俺はもっと引き摺っていたと思う。
「今回は私が介入する予知だったから介入できたが、仮に君が死ぬと魔女に聞いていたら、私は君の死を指をくわえて眺めるしかなかっただろう。その死が君にとって望ましい結末であるように誘導はしただろうけれど、起きる出来事に対しては何もできなくなる。魔女の持つ『時間』の力というのはそういうものだ」
「その魔女は、何で俺たちにそこまで執着するんだ?」
「魔女も星野ルビーに対しては『君が大事にしている人』以上の興味はないよ。元々、雨宮吾郎と一緒に天童寺さりなの記憶も引き継がせたのは私の個人的な依頼だ。そして『星野アクア』にも『雨宮吾郎』にも、魔女の関心はない。あの女はただ、クロ兄ぃの幻影を追い続けているだけだ」
「――結局、お前の兄とやらは、何なんだ」
『クロ兄ぃ』とやらはこれまでの話で何度も名前だけは出てきた。少女の姉を生み出した存在であり、神様扱いされるのも無理はないくらいのことを成し遂げて、魔女が時を駆けたそもそものきっかけでもある存在。
少女は数秒ほど唇を結んで黙り込んだのち、ふ、と肩を落として空を見上げた。
「クロ兄ぃは私たちの家族だ。血の繋がりはなくとも、私たち三人は確かに家族だった。『創造』の力を持ち、その力でもってお姉ちゃんをこの世界に生み出した。私たちの力は、私たちが不幸になるほど、世界に悪意を抱くほど強くなる。魔女の死後の奸計によって精神に限界までの負荷をかけられたクロ兄ぃは、世界を滅ぼす前に『創造』の力で新しく世界を生み出した。その結果としてクロ兄ぃを失ったお姉ちゃんの嘆きが『英雄』の力を覚醒させ、世界中の人間の魂を抽出してこの世界に連れてきた。この新たな世界を作り出したのがクロ兄ぃで、魂という概念を生み出して人の生命を持続させたのがお姉ちゃんだ」
何だか凄いことを言い出した。壮大すぎて全く実感が湧かないが、実際にそんなことが起こっていたなら神様を自称するのも分かる。
「お姉ちゃんを生み出した存在であるクロ兄ぃの魂だけは、『英雄』の力では直接干渉はできない。クロ兄ぃにも魂は存在するから、この世界にもその魂は溶けているが、既にその記憶は失われている。記憶は残っていない以上は、その魂はクロ兄ぃのなれの果てであってクロ兄ぃではない。その魂も追い詰められれば再び『創造』の力を発現するが、そうならない限りは『英雄』の力で転生させることが可能だ。もちろんそうして生まれた存在はクロ兄ぃではない」
俺はその言葉を、どこか他人事として聞けなかった。それでも少女は、生まれた存在は『クロ兄ぃ』ではないと、迷いなく言い切った。その言い切り方が、静かに胸に刺さった。
「――人が何者であるかを規定するものは何なのか。魂なのか、肉体なのか、記憶なのか。おそらくそのどれでもない。重要なのは、本人が己を何者だと思うのかだ。君が己を『星野アクア』だと思っている以上は、君の正体は『星野アクア』でいいんだ。あの魔女が君に対して誰の面影を見ようとも、クロ兄ぃは決して帰っては来ない」
いつもどこか人を食ったような笑みを浮かべている少女が、その瞬間だけは違った。幼い顔の上に、静かで真剣な色だけが残っていた。
「君が限界まで追い詰められて、『創造』の力を発現することがなくて良かったと、私は心から思う」
「――そうか」
ありがとう、と答えた。気の利いた言葉は出てこなかった。それでも、礼だけはちゃんと言わなければいけないと思った。
少女と兄がどのような関係だったのかは、俺には分からない。けれども、失われた家族を想う気持ちは分かる。アイの記憶を持たない生まれ変わりがいたとして、俺は果たしてその人物にアイを重ね合わせずにいられるだろうか。
少女が俺のことを、自分の兄ではなく『星野アクア』であると認めるために、どれほどの決意が必要だったのだろうか。
少女は穏やかな声音で続ける。
「こんな話を聞いて後悔したかい? 最初に君が言っていたように、記憶を消した方がいいかな?」
「いいや」
俺が何者なのか、どのような人間なのか、何を望むのか。
それは、どのみち俺がこれから向き合っていかなければいけないことだ。あかねとも有馬とも約束した。
「君たちのこれから先の未来については、私も魔女から聞いていない。だからこんな風に色々と話すことができたけれども、私に伝えていないだけで、あの魔女はすべて知っているだろう。だから未来に起きることはすべて決まっている。君がその出来事に何を思うのかも決定している。ここがそんな世界だと知った上で、君たちはこれからどう生きていく?」
俺は少しだけ間を置いた。置いたが、迷っていたわけではなかった。
「決まってる。――幸せに生きていくんだ」俺はカミキの顔を思い浮かべながら、付け加えた。「俺たちを生かすために死んだ人たちの分まで、重みを背負って」
カミキは命を背負いきれずに壊れてしまった。けれども俺は、彼と違って一人で背負う必要はない。俺には重みを分かち合える人たちがいる。アイの命も壱護の命も、それにカミキの命にも向き合いながら、これからも生きて行ける。
「まあ、せいぜい頑張りなさい。君たちを転生を依頼したよしみで、これからも私は見守ってあげるから」
少女は満足げに目を細め、それきり何も言わなかった。ひょいと片手をあげるとカラスたちが一斉に空へ舞い上がり、黒い影が冬の空に散っていった。
カラスがいなくなった後、ふと気付けば傍らにいた少女の姿もなく、辺りには静かな朝の空気だけが残っていた。俺はしばらくその場に立ったまま、遠くなっていく羽音を聞いていた。
「原作144話でツクヨミが言っていた『魂という概念を生み出した神』ってどう考えても十色のことじゃないか?」「原作のカミキを最後に海に引きずり込んだゴロー先生の影って、『創造』のibじゃないか?」という2つの推測から、原作のツクヨミの行動を説明できるんじゃないかと思ってibとの繋がりを妄想しました。
一応、ibと推しの子が同一世界観であること自体は公式設定です。