まっしろさんは甘えたい ~“白い悪魔”と呼ばれた少女は、新作ゲームで恋にログインする。~   作:合歓木あやめ

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第2話「Waiting for Spring」

CBTが終わった翌朝、真冬は七時のアラームで目を覚ました。月曜日。講義がある。現実が戻ってくる。

 

布団の中でスマートフォンを確認すると、SNSの通知が赤い数字を灯していた。ひよりんからのダイレクトメッセージ。タイムスタンプは午前一時十二分。

 

『おやすみなさい!と言いつつ眠れなくて……CBTロスがすごいです  まっしろさんは眠れましたか? 明日(もう今日か)からまた日常ですね。お互いがんばりましょう〜 』

 

午前一時。真冬がスマートフォンを伏せてから、まだ三十分も経っていない頃だ。ということは、あのメッセージを送った後もこの人は眠れずにいたのだろう。

 

真冬も同じだった。目を閉じると花畑が見える。焚き火の光が見える。桜色の文字が、瞼の裏にちらつく。結局眠りに落ちたのは二時を回った頃で、体感としては三秒後にアラームが鳴った。

 

返信を打つ。

 

『おはようございます。私も少し寝不足です。今日から長い冬ですね』

 

送信してから、最後の一文が詩的すぎただろうかと不安になった。「長い冬」。自分の名前に掛けたわけではないが、読む人によってはそう取れる。自意識過剰か。

 

返信は、大学の最寄り駅で自転車を降りたときに届いた。

 

『長い冬……! いい表現ですね☺ 真冬さん——あ、まっしろさんか。ゲーム外でもまっしろさんって呼んでいいですか? 本名知らないし  正式リリースまでSNSでお話しましょうね!』

 

真冬は画面を見て、数秒間止まった。

 

真冬さん、と打ちかけて消している。本名を知らないから。当然だ。ゲーム内のチャットとSNSのダイレクトメッセージしか交わしていない相手に、本名を知られているわけがない。

 

教えてもいいかな、と一瞬思って——やめた。まだ早い。会って三日目だ。ゲーム内の三日だ。距離感を間違えてはいけない。

 

『まっしろさんで大丈夫です。よろしくお願いします』

 

自転車を押しながら歩き出した。十二月の朝風が冷たい。カーディガンの前を合わせ、白い髪がなびくのを手で押さえた。今日の髪型はツインテール。低い位置で二つに分けて結ぶスタイルで、真冬の中では「がんばる日」の髪型だった。月曜日は講義が三つある。がんばらなければ。

 

一限の教室に入り、窓際の後ろの席に座る。ノートとペンを出して、講義が始まるまでの五分間、何をするでもなくぼんやりと窓の外を見ていた。キャンパスの中庭に植わったイチョウの木が、黄色い葉をほとんど落としていた。冬枯れの枝が、灰色の空に骨のように伸びている。

 

来年の一月下旬。正式リリース。あとひと月と少し。

 

長いな。

 

講義が始まった。今日の内容はシェイクスピアの喜劇——『十二夜』。性別を偽って仕える主人に恋をする、という筋書き。教授が登場人物の関係性について解説する中で、真冬はノートの端に無意識に小さなエルフの耳を描いていた。

 

その日の夜、初めてボイスチャットの話が出た。

 

きっかけはハゲニキだった。CBTの感想を語り合うためにSNS上でグループチャットが作られ——これもハゲニキの発案だった——四人でメッセージのやり取りが始まった。テキストでのやり取りが数日続いた後、ハゲニキが切り出した。

 

『ハゲニキ:なあみんな テキストもええけどそろそろVCせえへん? 正式リリースしたらどうせVC使うやろ? 慣れとくのもええと思うんやが』

 

真冬はそのメッセージを見て、椅子の上で固まった。

 

ボイスチャット。声。

 

テキストの文字は、自分の速度で打てる。考えて、推敲して、送信できる。声は違う。考える間もなく出てしまう。吃る。言葉に詰まる。沈黙が怖い。

 

——でも。

 

パーティで一緒に遊ぶなら、VCは避けて通れない。テキストチャットだけで高難易度のボス戦をこなすのは非効率的だ。CBTの時はテキストで乗り切ったが、あれは低難易度の序盤だったからだ。正式リリース後のエンドコンテンツでは、リアルタイムの音声連携が必須になる。

 

分かっている。分かっているから——。

 

『ピザデブ:VC賛成でござる! 拙者の美声を聞かせてやるでござるよ(※低音ボイス)』

 

『ひよりん:私もVCは賛成です! ……ただ、まっしろさんが嫌でなければ、ですけど。無理しなくていいですよ? テキストでも全然大丈夫なので☺』

 

ひよりんの気遣いが、温かい楔のように胸に刺さった。

 

テキストでも大丈夫、と言ってくれている。逃げ道を用意してくれている。でも、真冬はその逃げ道を使いたくなかった。逃げたら、四人の関係がテキスト越しのままで止まってしまう気がした。

 

『まっしろさん:大丈夫です。VCやりましょう。緊張しますけど』

 

送信してから、「緊張しますけど」は余計だったかと後悔した。弱みを見せすぎている。でも——嘘をつくよりはましだ。

 

『ひよりん:緊張するの分かります……! 私もオフで初めて会う人とVC始めるとき、毎回心臓バクバクです。大丈夫、慣れますよ! それにまっしろさんの声、聞いてみたいなあ……なんて☺』

 

声を聞いてみたい。

 

この人は時折、さらりと距離を詰めてくる。悪気はないのだろう。自然体なのだろう。でもそのたびに、真冬の心臓は不規則に跳ねた。

 

『ハゲニキ:ほな今夜やるか? 九時集合で Discordのサーバーワイが作るわ ギルド名は「ひだまりの苗床」やな?』

 

『ピザデブ:異議なしでござる! 正座して待つでござる!』

 

真冬は時計を見た。午後七時四十三分。あと一時間と少し。

 

やまびこを肩に乗せたまま、夕食の支度をした。今日は白米と鮭の塩焼きと、作り置きのきんぴらごぼう。日曜にCBTで忙しくて料理をサボった分、今週は自炊をがんばろうと決めていた。

 

食べながら、自分の声のことを考えた。普段あまり人と話さない。大学では講義を聞くだけで、友人と呼べる相手は——いないわけではないが、積極的に会話する方ではなかった。やまびこと話す声は、たぶん普段より少し高い。甘えた声だ。あの声がVCで出たら恥ずかしい。

 

「やまびこ」

 

「ナニ」

 

「今日、人と声で話すんだけど」

 

「ハナス」

 

「緊張する」

 

「キンチョウスル」

 

やまびこは真冬の耳たぶに頭を擦りつけた。灰色の羽毛のやわらかさが、少しだけ気持ちを落ち着けた。

 

食器を洗い、歯を磨き、髪を下ろしてブラシを通した。VCに髪型は関係ないが、髪を整えると心が整う。ダウンスタイルの白い髪が、肩から背中にかけて流れる。

 

八時五十分。PCを起動し、Discordを開いた。ハゲニキが作成した「ひだまりの苗床」のサーバーに、招待リンクから参加する。テキストチャンネルとボイスチャンネルが用意されていた。

 

テキストチャンネルに、既にハゲニキとピザデブがメッセージを投稿していた。

 

『ハゲニキ:サーバーできたで! チャンネルは適当に作ったからあとで整理する VC部屋は「談話室」や』

 

『ピザデブ:入室完了でござる マイクチェックOKでござる 拙者の美声が世界に響く準備は万端でござる』

 

『ひよりん:私もいます! わくわく……! 』

 

真冬はボイスチャンネル「談話室」を見つめた。ひよりん、ハゲニキ、ピザデブの三人が既に入室している。あとは自分だけだ。

 

深呼吸。一回。二回。

 

マイクの接続を確認し、ヘッドセットを装着した。入室ボタンを——押した。

 

「——あ」

 

自分の声が、想像以上に小さく出た。

 

「おっ きた! まっしろさんやな! よう来たで!」

 

ハゲニキの声は、テキストの印象そのままだった。明るく、勢いがあり、底抜けに陽気。関西弁のイントネーションが心地いい。

 

「こ、これは……まっしろさんでござるか……! お初にお声を拝聴できて感激の極みでござる……!」

 

ピザデブの声は、意外にも落ち着いた低音だった。口調だけがふざけているのだと、声を聞いて初めて分かった。

 

「まっしろさん、こんばんは! 聞こえてますか?」

 

——ひよりんの声。

 

澄んでいて、少しだけ高くて、温かい。笑いを含んだ声だった。テキストの文字に感じていた人柄が、そのまま声になったような印象。

 

真冬は、自分の心臓が大きく鳴るのを聞いた。

 

「……こんばんは。聞こえてます。よろしくお願いします」

 

「わあ……! まっしろさんの声、すごくきれい……! なんか、透明感あるっていうか……!」

 

「ほんまや 聞き取りやすいええ声やん」

 

「美声でござるな……拙者の低音ボイスが霞むでござる……」

 

褒められている。声を褒められたのは初めてかもしれない。真冬は無意識にヘッドセットのマイク部分を指先でつまんだ。恥ずかしい。

 

「ありがとうございます。……緊張してて、声小さくてすみません」

 

「全然大丈夫! ちゃんと聞こえてるよ!」

 

ひよりんの声が、背中を押すように明るい。

 

そこからは、堰を切ったようにCBTの話で盛り上がった。ハゲニキが腐華の女王戦で何度も死にかけた話を身振り手振り——ではないが、声の勢いで再現し、ピザデブが弓の照準がずれて味方を撃ちそうになった話を大げさに語り、ひよりんがMP切れの恐怖を笑い混じりに振り返った。

 

「まっしろさんがカバーに入ってくれなかったら全滅だったよね、あのとき」

 

「うん。ハゲニキのHPが赤くなったのが見えたから」

 

「ワイのHP赤くなるの見えてたんか! あの一瞬で判断しとったんやな……すごいわほんま」

 

「あれは鳥肌でござった。まっしろさんが滑り込んできて、カウンター決めて、一瞬でヘイト取って……拙者あの光景一生忘れんでござる」

 

「大げさ」

 

と真冬は言った。自分でも驚くほど自然に出た言葉だった。テキストなら打たなかっただろう。声だから、考える前に口をついて出た。

 

三人が笑った。ひよりんの笑い声が一番近くに聞こえた——ヘッドセットの左側のスピーカーから。

 

「まっしろさん、声だとちょっと印象違うね。テキストだとすごく丁寧で落ち着いた感じだけど、声だと……なんだろう、かわいい?」

 

かわいい。

 

真冬は口を閉じた。頬が熱い。ヘッドセットの向こう側にその赤みが伝わらないことだけが救いだった。

 

「……かわいくないです」

 

「えー、かわいいよ? ね、ハゲニキ」

 

「ワイに振るな 女性にかわいいとか言ったら色々ややこしいやろ ワイはそういうの気を遣うタイプやねん」

 

「兄さん、それ自分で言う?」

 

兄妹のやり取りが自然で、聞いていて居心地が良かった。ピザデブが合間に挟むボケもちょうどいい温度で、VCの空気は思ったよりもずっと穏やかだった。

 

三十分ほど話して、真冬の緊張はかなり解けていた。相槌を打ち、時折短い返答をする程度だが、聞いているだけでも楽しかった。この人たちの声が耳に馴染んでいく感覚があった。

 

「そういえばまっしろさん、正式リリースしたらどの武器使うの? CBTでは双剣だったけど」

 

ひよりんの問いかけに、真冬は少し考えた。

 

「双剣のまま。空中シフトスラッシュの感触が良かったから」

 

「あの空中カウンター、まっしろさん以外に使ってる人見なかったんだけど……」

 

「存在に気づいてないんでしょうね。公式の説明にも書いてなかったから」

 

「やっぱそれ隠し要素だったのか! すごいな見つけるの……」

 

「CBTで気づいたのまっしろさんだけだと思うでござるよ。さすがでござる」

 

「……たまたまです。ジャンプ中に回避ボタン押したら反応しただけ」

 

「それを『たまたま』で済ませるのが天才のそれなんよなあ」

 

ハゲニキが感心した声で言った。真冬は「天才」という言葉に、複雑な感情を覚えた。褒められているのは分かる。でも、自分では天才だと思っていない。ただ、ゲームの中で体が勝手に動く。敵のモーションが見える。最適な行動が頭に浮かぶ。それだけだ。

 

それだけのことが、周囲からは「化け物」や「悪魔」に見えるのだと、いつからか知った。

 

「……ありがとうございます」

 

小さく言って、話題を変えた。

 

「ひよりんは杖を使ってたけど、ヒーラー専門?」

 

「うん! 基本的にはヒーラーやってることが多いかな。昔のネトゲから回復職ばっかりやってる。みんなのHPが減るのが怖くて……w」

 

「分かる。減ったら死ぬもん」

 

「そう! 死なせたくないの! だから回復に全振りしちゃう。火力出すヒーラーもいるけど、私は守り特化派です」

 

守り特化。その言葉が、不思議としっくり来た。ひよりんのプレイスタイルは、たぶんこの人の性格そのものなのだろう。

 

「ワイは前で殴る係や。難しいこと考えんでええから楽やで。来たもん全部受け止めて、殴り返す。筋肉の仕事や」

 

「拙者は後ろから撃つ係でござる。前に出ると死ぬでござる。拙者の巨体は的が大きいでござるからな。リアルもゲームも同じでござる」

 

「ピザデブさん自分で言ってて悲しくならない?」

 

「むしろ誇りでござる。この体はデブの歴史でござる」

 

真冬は、また笑った。今度は声に出して。小さく、短く。でも確かに笑った。

 

「……あ」

 

ひよりんが声を漏らした。

 

「まっしろさん今笑った?」

 

「……笑ってないです」

 

「笑ったよね! 今ちょっと笑ったよね!」

 

「笑ってません」

 

「笑ったわ 聞こえたで 小さい声やったけど」

 

「拙者にも聞こえたでござるよ」

 

三対一。逃げ場がない。

 

「…………少しだけ」

 

認めると、ひよりんが嬉しそうに息を吐いた。

 

「良かった。まっしろさんが楽しそうだと私も嬉しいです」

 

——この人は、どうしてこう、まっすぐな言葉を使うのだろう。

 

VCは十一時に解散となった。明日は全員が平日だ。ハゲニキとひよりんは社会人、ピザデブはニートだが夜型の生活リズムがあるらしい。真冬は大学生。

 

「じゃあまた! おやすみなさいみんな!」

 

「おやすみー 筋肉に祝福あれ」

 

「おやすみでござる。良い夢を」

 

「……おやすみなさい」

 

VCが切れた。ヘッドセットを外すと、部屋が急に静かになった。さっきまで耳に満ちていた声が消えて、暖房の音と時計の秒針だけが残った。

 

真冬はヘッドセットをデスクに置き、両手で自分の頬を押さえた。

 

温かい。耳まで赤くなっている気がする。

 

声を聞いた。ひよりんの声を聞いた。想像していた通りの——いや、想像以上に柔らかくて温かい声だった。笑うと少しだけ音が上がって、嬉しいときは語尾が弾んで、気遣うときは声のトーンが半音下がる。

 

そういう細部が、テキストでは分からなかった。声には、文字には載らない情報がある。温度。速度。呼吸。

 

「……楽しかった」

 

ケージの方を見ると、やまびこが薄目を開けてこちらを見ていた。起こしてしまっただろうか。

 

「ごめんね。うるさかった?」

 

「ウルサクナイ」

 

いつもなら繰り返すだけのやまびこが、否定形で返してきた。真冬は一瞬驚いて、それから笑った。

 

「ありがとう」

 

それから、VCは週に二、三回のペースで行われるようになった。

 

火曜と木曜の夜九時が定例になり、土曜日は不定期で昼間から長めに話すこともあった。話題はゲームのことが中心だが、次第に日常の話も混じるようになっていった。

 

ハゲニキが会社の後輩に筋トレを勧めて引かれた話。ピザデブが深夜にピザを三枚食べて胸焼けした話。ひよりんが会社の忘年会で幹事を押し付けられて悲鳴を上げている話。

 

真冬も、少しずつ自分のことを話すようになった。

 

「大学生なんですね。何学部?」

 

「文学部。英文学を専攻してます」

 

「おお インテリやな」

 

「インテリではない……普通の学生です」

 

「英文学ってシェイクスピアとか? かっこいい……! 私は理系苦手で文系だったけど、ちゃんと勉強してる人尊敬する……」

 

「ひよりんもお仕事してるでしょう。尊敬とかそんな」

 

「会社って勉強とは違うんだよなあ……。まあ、がんばってるけどね。社会人三年目、まだまだ新人扱いですw」

 

社会人三年目。真冬より年上だ。どのくらい上かは聞かなかった。年齢の話は微妙な領域だから。ひよりんも聞いてこなかった。お互いの距離の取り方が、噛み合っているのかもしれない。

 

ある木曜日の夜。VCが始まって三十分ほど経った頃、話題がキャラクタークリエイトの話になった。

 

「正式リリースしたらキャラクリやり直しやろ? CBTのデータは引き継がれへんし。まっしろさんまた二時間コースか?」

 

「もっとかかるかも。CBTの時に気になったところがいくつかあって。耳の角度が左右で微妙に違ったのと、毛先のグラデーションが濃すぎた」

 

「細かっ! そんなとこ誰も見てないでござるよ!」

 

「自分が見てる。自分のキャラクターだから、妥協したくない」

 

「……うん、それ分かるなあ」

 

ひよりんが静かに同意した。

 

「自分のキャラクターって、もうひとりの自分みたいなものだもんね。その子で何十時間、何百時間も過ごすんだから、納得いくまで作りたいよね」

 

「そう。その通り」

 

ひよりんの言葉に、真冬は少し目を見開いた。同じ感覚を持っている人がいる。キャラクタークリエイトを「ただの見た目設定」ではなく、「もうひとりの自分を作る行為」として捉えている人。

 

「ひよりんは桜色の髪だったよね。正式でも同じ?」

 

「うん! 桜が好きなんだ。春に咲いて、すぐ散っちゃうけど、その一瞬がすごくきれいでしょ? だから髪色はいつも桜色にする」

 

桜。春。散る。一瞬。きれい。

 

真冬は、不意に自分の白い髪に手を触れた。ヘッドセットのケーブルの下で、下ろしたままの髪がさらりと指の間を抜けていく。

 

「……私は白。白が好きだから」

 

「まっしろさんは白が似合うよね。キャラクリの白い髪、本当にきれいだった。光が当たるとキラキラして……あの、なんていうか、雪みたいだなって思った」

 

雪みたい。

 

「……ありがとう」

 

声が少しだけ震えたのを、ひよりんは気づいただろうか。真冬は唇を噛んだ。白い髪をきれいだと言ってもらえるのは嬉しい。ゲームのキャラクターの話であっても。でも——。

 

いつか本当の自分の髪を見せたら、この人はどう思うだろう。ゲームの中の白い髪はファンタジーだ。エルフの美しい白髪だ。現実の自分の白い髪は——アルビノの、色素を持たない身体の、症状だ。

 

その違いを知られたとき、この温かい声はどう変わるのだろう。

 

「まっしろさん? 大丈夫? なんか黙っちゃったけど……」

 

「あ——ごめんなさい。考えごとしてました。大丈夫」

 

「無理しなくていいからね? 疲れてたらいつでも抜けていいからね」

 

「大丈夫。疲れてない。……ひよりんの声聞いてると元気になるから」

 

言ってしまってから、自分の耳を疑った。

 

何を言っているんだ自分は。

 

VCが一瞬、静まった。

 

「…………え」

 

ひよりんの声が、小さく揺れた。

 

「えっと……ありがとう? その、嬉しいけど、えっと……」

 

「ひよりん照れとるやんけ 珍しっ」

 

「う、うるさいよ兄さん! 別に照れてないし!」

 

「照れてるでござるな。拙者にも分かるでござる」

 

「ピザデブさんまで! もう!」

 

真冬はマイクをミュートにして、椅子の上で膝を抱えた。顔が燃えるように熱い。白い肌に浮かぶ赤みは、首筋まで広がっている。

 

なぜあんなことを言ったのか。テキストなら絶対に打たない。推敲して消す。VCだから——声だから、考える前に出てしまった。

 

ミュートを解除する前に、深呼吸を三回した。

 

「……すみません。変なこと言いました」

 

「変じゃないよ! 全然変じゃない! 嬉しかったです! ……ありがとう、まっしろさん」

 

ひよりんの声が、さっきより少しだけ柔らかかった。

 

十二月中旬。

 

大学は冬休みに入り、真冬の生活リズムは夜型に傾いていった。午前中に起きてやまびこの世話をし、昼間は読書や課題をこなし、夜はVCで話す。CBTのことだけでなく、正式リリース後の計画についても話し合うようになった。

 

ギルド「ひだまりの苗床」のメンバーは当面四人。将来的に増やすかどうかは未定。ギルドマスターはハゲニキが引き受けた。

 

「ワイはいつもギルマスやっとるからな。まとめ役はワイに任せとき。まっしろさんには火力の鬼になってもらう。ひよりんはヒーラーの柱。ピザデブは……まあ弓でも撃っとけ」

 

「拙者の扱い雑でござるな!?」

 

「冗談や。ピザデブもいなきゃ困るで。四人PTで一枠でも欠けたらあかんからな」

 

「ぬぬ……褒められてるのか貶されてるのか分からんでござる……」

 

「褒めてるでに決まっとるやろ。お前がおらんかったらワイが寂しいわ」

 

「ハゲニキ……!」

 

「キモいから泣くな」

 

真冬は二人のやり取りを聞きながら、穏やかな気持ちでヘッドセットに頬を預けていた。この空気が好きだ。騒がしくて、温かくて、誰も傷つけない。

 

ふと、ひよりんの声がトーンを落とした。

 

「あのさ、正式リリースしたらさ。みんなでフィールドの全マップ踏破とかしたいな。ボスとかダンジョンとかだけじゃなくて、のんびり探索もしたい。きれいな景色見つけて、スクリーンショット撮って。……そういう遊び方、ダメかな?」

 

「ダメなわけないやろ! ワイも観光勢やぞ。スクショフォルダもうパンパンや」

 

「拙者もでござる! CBTで撮ったスクショ、もう壁紙にしてるでござるよ」

 

「まっしろさんは?」

 

「……私も、探索は好きです。きれいな場所を見つけるの。CBTのとき、夜の花畑で月を見たのがすごくよかった」

 

「あー! 分かる! あのフィールドの月、めちゃくちゃきれいだったよね! 私もあそこでスクショ撮った! ……あれ、もしかして同じ場所?」

 

「どうだろう。花畑の北側、小さな丘の上」

 

「そこ! 私もそこで撮った! お揃いだね!」

 

お揃い。

 

真冬の口元が、わずかに緩んだ。ヘッドセットのマイクには拾われない程度の、小さな変化。

 

「……うん。お揃い」

 

十二月二十三日。クリスマスイブの前日。

 

SNSのダイレクトメッセージに、ひよりんから個別にメッセージが届いた。グループチャットではなく、二人きりのDM。

 

『まっしろさん、明日ってクリスマスイブですけど……予定ありますか? もし暇だったら、夜にVCで話せたらいいなーって……! 二人だけで! あ、いや、ハゲニキとピザデブさんはそれぞれ予定があるみたいで、私だけ暇なんですよね……w 迷惑じゃなければ! 』

 

二人きりのVC。

 

真冬はスマートフォンの画面を凝視して、三回読み返した。

 

ハゲニキとピザデブに予定がある。ひよりんだけが暇。だから二人で話したい。それだけの話だ。クリスマスイブに特別な意味を持たせる必要はない。ただの日付だ。

 

——なのに、なぜこんなに心臓が跳ねるのだろう。

 

『大丈夫です。私も予定ないので。何時がいいですか?』

 

『やったー! 九時でいい? ✨ ゆっくり話そう!』

 

「ゆっくり話そう」。

 

その四文字を見つめて、真冬はスマートフォンを胸に当てた。

 

やまびこが肩の上から、不思議そうに首をかしげた。

 

「どうしよう」

 

「ドウシヨウ」

 

「明日……クリスマスイブに……ひよりんと二人きりで話す」

 

「ヒヨリン」

 

やまびこがその名前を繰り返した。覚えたのか。ここ数週間、VCのたびにひよりんの声がヘッドセットから漏れ聞こえていたから、音として記憶したのかもしれない。

 

「緊張する……」

 

「キンチョウスル」

 

「でも嬉しい」

 

「ウレシイ」

 

やまびこは真冬の頬に嘴を擦りつけた。甘えているのか、慰めているのか。たぶん前者だろうが、今の真冬にはどちらでもありがたかった。

 

十二月二十四日。クリスマスイブ。

 

朝から天気が良くて、冬の陽光が窓越しに部屋を照らしていた。真冬は今日の髪型を選ぶのに、いつもより長い時間をかけた。VCだ。画面越しに顔は見えない。でも——なんとなく、ちゃんとしておきたかった。

 

結局、ハーフアップにした。上半分をまとめて後ろで留め、下半分は下ろす。清楚で、でも気張りすぎない。誰に見せるわけでもないのに、鏡の前で三回やり直した。

 

やまびこの世話を済ませ、部屋の掃除をした。クリスマスらしいことは特にしない。ケーキを買おうかと一瞬思ったが、ひとり用のホールケーキは虚しいのでやめた。代わりにコンビニでシュトーレンの切れ端を買った。

 

昼過ぎにSNSを開くと、世の中はクリスマス一色だった。街のイルミネーションの写真、カップルのデート報告、ぼっちクリスマスを嘆くツイート。ハゲニキのアカウントが謎の筋トレ動画を上げていた。

 

『ハゲニキ @hageniki_game

メリクリ! 聖なる夜はベンチプレスで過ごすで 筋肉は裏切らない サンタも裏切らない プレゼントは自分の筋肉や ハハッ』

 

ピザデブがリプライしていた。

 

『ピザデブ @pizzadebu_neet

メリークリスマスでござる  拙者はピザ四枚とケーキひとつでクリスマスを祝うでござる。孤独のグルメならぬ孤独のピザでござる。いや孤独じゃないでござる、ピザがいるでござる。(?)』

 

ひよりんのアカウントには、きれいに盛り付けられたチキンとサラダの写真が上がっていた。

 

『ひよりん @hiyorin_games

ひとり用クリスマスディナー作ってみた! チキンうまく焼けた!  夜はVCの予定があるので、それが今日のメインイベントです☺ ✨ 楽しみ……!』

 

VCの予定がメインイベント。それは自分とのVCのことだ。

 

真冬はスマートフォンを持つ手に力が入るのを感じた。

 

自分もその投稿に何か反応すべきだろうか。いいねを押すか。リプライを送るか。「楽しみです」と返すか。

 

——いいねを押した。それだけ。

 

夕方になった。シュトーレンをかじりながら、課題の文献を読む。集中できない。目が文字を追っているだけで、意味が頭に入ってこない。

 

七時。夕食を作る気力がなく、冷凍のパスタをレンジで温めた。食べながら、やまびこの頭を指先で撫でた。

 

「今日は長くなるかもしれないけど、静かにしてね」

 

「シズカ」

 

「うん。電話するから」

 

「デンワ」

 

電話ではないのだが、やまびこにはそう説明するしかない。VCの概念をヨウムに教えるのは難しい。

 

八時半。デスクの前に座る。モニターを点け、Discordを起動する。「ひだまりの苗床」のサーバーを開く。ボイスチャンネル「談話室」には誰もいない。まだ三十分早い。

 

髪を整え直す。マイクのテスト。音量確認。部屋の暖房を少し上げる。飲み物はホットココアにした。マグカップに「HAPPY」と書いてある。百円ショップで買った安いやつだ。

 

八時五十五分。

 

ボイスチャンネルに「ひよりん」が入室した。

 

五分早い。真冬もすぐに入室ボタンを押した。

 

「あ、まっしろさん! メリークリスマス! 」

 

声が弾んでいる。いつものVCより少しだけテンションが高い。

 

「メリークリスマス。……早いね」

 

「えへへ、ちょっと待ちきれなくて。まっしろさんも早いじゃん」

 

「……同じく」

 

「お揃いだね。また」

 

また、お揃い。ひよりんはこの言葉をよく使う。些細な共通点を見つけるたびに、嬉しそうに「お揃い」と言う。

 

「今日は二人きりだね。ハゲニキはジムのクリスマスイベントに行ってるし、ピザデブさんは百合アニメの一挙放送見てるらしい」

 

「ジムにクリスマスイベントがあるの……?」

 

「あるらしいよ。サンタのコスプレしてベンチプレスするとか……兄さん嬉々としてたw」

 

真冬は小さく笑った。ハゲニキらしい過ごし方だと思った。

 

「まっしろさんはどんなクリスマス? 何かした?」

 

「特に何も。シュトーレンを買ったくらい」

 

「シュトーレン! いいね! 私はチキン焼いたよ、SNSに上げたやつ」

 

「見た。おいしそうだった」

 

「ありがとう! 料理するの好きなんだ。ひとり暮らしだから、自分のために作るしかないんだけどね」

 

ひとり暮らし。真冬と同じだ。

 

「私もひとり暮らし」

 

「そうなんだ! まっしろさんは料理する?」

 

「簡単なものなら。平日はあんまり手をかけられないけど」

 

「分かるなあ。仕事終わって疲れてると、もうコンビニでいいやってなっちゃう。でも休日はちょっとがんばりたくなるよね」

 

「うん。休日は少しだけ」

 

会話が自然に流れていくのが不思議だった。四人のときは騒がしさに身を委ねるだけで良かったが、二人きりだと自分から話題を出す必要がある。それが怖かった。でも実際に始まってみると、ひよりんが上手に話を引き出してくれるから、沈黙が怖くなかった。

 

「まっしろさんって、ゲーム以外の趣味ある?」

 

「……髪の手入れ」

 

「え?」

 

「髪を洗って、乾かして、オイルをつけて、ブラッシングして……毎日やるのが好き。あと、毎日髪型を変えるのも」

 

「毎日!? すごい! それは趣味って言うかもう……こだわりだね。すてき」

 

「すてき……は言い過ぎじゃ」

 

「言い過ぎじゃないよ。自分のことを丁寧にケアできるのって、ほんとすごいことだと思う。私なんて忙しいとドライヤー適当になっちゃうし……」

 

「ドライヤーは大事。ちゃんと乾かさないと傷む」

 

「うっ……正論……」

 

「あと、やまびこ」

 

「やまびこ?」

 

「うちの鳥。ヨウムっていう種類のオウム」

 

「鳥飼ってるの!? え、知らなかった! どんな子?」

 

真冬はやまびこの話をした。灰色の羽毛のこと。赤い尾羽のこと。言葉を覚えるのが上手なこと。甘えん坊で、肩に乗るのが好きなこと。

 

話しているうちに、やまびこが気配を察したのか、ケージの中から「ナニ」と声を上げた。マイクがそれを拾った。

 

「え! 今の!? やまびこちゃんの声!?」

 

「あ……うん。聞こえた?」

 

「聞こえた! かわいい! やまびこちゃーん!」

 

ひよりんが呼びかけると、やまびこが「ナニ」とまた答えた。

 

「すごい! 返事してくれた! かわいい……! まっしろさんのこと好きなの?」

 

「たぶん。甘えん坊だから、かまってあげないと拗ねる」

 

「かわいすぎる……。ペットっていうか、家族だよね」

 

「うん。家族」

 

やまびこは幼い頃からずっと一緒だ。家族という言葉に嘘はない。

 

「いいなあ。私も何か飼いたいんだけど、マンションの規約がペット不可で……」

 

「残念だね」

 

「うん。でも、まっしろさんからやまびこちゃんの話聞けるから、それでちょっと癒されるかも」

 

「……いつでも話すよ。やまびこの話なら山ほどある」

 

「ほんと? 聞きたい聞きたい! じゃあ次のVCのときも聞かせてね!」

 

「うん」

 

沈黙が訪れた。でも、気まずい沈黙ではなかった。ひよりんがココアを飲んでいる音が微かに聞こえた。真冬も自分のマグカップに口をつけた。「HAPPY」の文字が唇に触れる。

 

「……ねえ、まっしろさん」

 

「なに」

 

「まっしろさんって、ゲームめちゃくちゃ上手いじゃないですか。CBTのとき、ソロでファーストクリアしたり、空中カウンター見つけたり。……ずっと聞きたかったんだけど、やっぱりゲーム好き?」

 

「好きだよ。ゲームは好き」

 

「うん。……でも、ゲームの中で有名になるのは好きじゃなさそうだなって思って」

 

真冬の指先が、マグカップの取っ手をきつく握った。

 

ひよりんは続けた。声のトーンが、いつもより少し低い。慎重に言葉を選んでいる気配がある。

 

「あの呼び方が苦手だって教えてくれたとき、ちょっと考えたんだ。まっしろさんは強いから注目される。注目されると、名前がつく。でもその名前が自分の望んだものじゃなかったら——それってけっこう辛いことだよね」

 

「……」

 

「ごめんね、踏み込みすぎかな。嫌だったら聞かなかったことに」

 

「……ううん。大丈夫」

 

大丈夫、ではないかもしれない。でも、この人には話してもいい気がした。理由は分からない。声のせいか。言葉の選び方のせいか。それとも——。

 

「悪魔って呼ばれるのが嫌なのは、悪意がないからだと思う」

 

「悪意がないから?」

 

「悪意で呼ばれるなら、怒ればいい。でも、褒め言葉として悪魔って言われると……怒れない。嫌なのに、怒る理由がないから」

 

ひよりんが息を吸う音が聞こえた。

 

「それは——しんどいね」

 

たった一言。でも、その一言に込められた感情の密度が、真冬の胸を突いた。

 

しんどいね。分析でも解決策でもなく、共感。この人は、言葉にできない痛みをそのまま受け止めてくれる。

 

「……うん。しんどい。でも、慣れた」

 

「慣れたって言うの、やめない?」

 

意外な言葉だった。

 

「慣れたっていうのは、痛くなくなったんじゃなくて、痛いのに我慢できるようになっただけでしょ。それって全然解決じゃないよ」

 

「……」

 

「私は——まっしろさんのこと、悪魔だなんて思ったことない。CBTで初めてあのカウンター見たとき、悪魔だなんて思わなかった。きれいだな、って思った。それだけ」

 

きれい。

 

その言葉を、この人は何度目かに使ってくれた。キャラクリの白い髪がきれいだと言ってくれた。空中カウンターがきれいだと言ってくれた。プレイを、悪魔ではなくきれいだと。

 

喉の奥が熱くなった。泣きそうになっているのだと気づいて、真冬はマイクをミュートにした。

 

数秒間、息を整える。鼻の奥がツンとする。目頭が熱い。

 

ミュートを解除した。

 

「……ありがとう」

 

声が微かに震えたのを、ひよりんは気づいたかもしれないし、気づかなかったかもしれない。どちらにしても、何も指摘しなかった。

 

「こちらこそ。話してくれてありがとう」

 

沈黙。今度は長い沈黙。でも苦しくなかった。暖かい沈黙だった。ヘッドセットの向こうに、ひよりんがいる。同じ時間を過ごしている。それだけで。

 

「……ねえ」

 

真冬が先に口を開いた。自分から話題を振ることは珍しい。

 

「なに?」

 

「ひよりんは——どうしてゲームが好き?」

 

「どうして、かあ……」

 

ひよりんが考え込む気配があった。

 

「たぶん……現実の自分とは違う自分になれるから、かな。会社では真面目にしてなきゃいけないし、しっかり者って言われるし。でもゲームの中では、もっと自由でいられる。失敗しても笑えるし、騒いでも怒られない。……あ、兄さんの影響が大きいかも。小さい頃から兄さんの横でゲーム見て育ったから」

 

「ハゲニキの横で」

 

「そう。兄さんがネトゲやってるの見て、私もやりたい! って言って。兄さんのアカウントにこっそりログインして勝手に遊んだりしてた。怒られたけどw」

 

「怒られて当然」

 

「ですよねw でもそこからどんどんハマって、自分のアカウント作って、気づいたらネトゲ歴十何年……。人生の半分以上ゲームしてるよ」

 

「筋金入り」

 

「自分で言うのもなんだけど、ほんとにそう。だから、リアルでもネットスラングが出ちゃうんだよね。会社で『それは草』って言っちゃって、同僚にめっちゃ変な顔されたことある」

 

「……それは気まずい」

 

「めっちゃ気まずかった。顔から火が出るかと思った」

 

真冬は笑った。声に出して。今度は隠さなかった。

 

「あ、笑った」

 

「笑ってない」

 

「今めっちゃ笑ったよ」

 

「……少しだけ」

 

「少しだけ、ね。まっしろさんの少しだけは、だいたいけっこう笑ってるよね」

 

見透かされている。

 

「——ひよりんこそ、よく笑うよね」

 

「え? そう?」

 

「うん。よく笑って、よく嬉しそうにして、よく褒めてくれる」

 

「……そうかも。でも、嘘は言ってないよ? 思ったこと言ってるだけで」

 

「分かってる。だから——」

 

だから嬉しい。そう言いかけて、飲み込んだ。

 

「だから、なに?」

 

「……なんでもない」

 

「ええー。気になる」

 

「なんでもないです」

 

「じゃあ今度教えて?」

 

「……考えておく」

 

ひよりんが小さく笑った。柔らかい笑い声だった。

 

それから、話題はあちこちに飛んだ。好きな食べ物。好きな季節。好きな時間帯。小さな質問を交互に投げ合う、しりとりのようなやり取り。

 

「好きな季節は?」

 

「冬。名前のせいじゃなくて、空気が澄んでるから」

 

「わあ、かっこいい。私は春。桜が咲くから」

 

「桜色の髪の理由」

 

「そう。……あと、冬が終わって暖かくなるのが好きなの。寒いの苦手でw」

 

「私は寒いの好き」

 

「ほんと? お揃いにならないね、ここはw」

 

「ならなくていい。違うところがあるのも、いい」

 

言ってから、妙に格好つけた台詞だと気づいた。恥ずかしい。

 

ひよりんは一瞬黙って、それから「……うん」と小さく答えた。

 

「好きな時間帯は?」

 

「夜。静かだから」

 

「私は朝。一日が始まる感じが好き」

 

「また違う」

 

「またね。でも、今こうやって夜に話してるのは楽しいよ。まっしろさんの好きな時間に、一緒にいられるのは」

 

一緒にいられる。

 

画面越しだ。ヘッドセット越しだ。物理的にはそれぞれの部屋にひとりきりでいる。でも、確かに一緒にいると感じた。声が繋がっている。同じ夜を共有している。

 

時計を見ると、日付が変わりそうだった。二時間以上話していたのか。体感では三十分くらいだった。

 

「あ、もうこんな時間。明日——今日? クリスマスだね」

 

「そうだね。メリークリスマス」

 

「メリークリスマス、まっしろさん。……今日は話せてすごく楽しかった」

 

「私も。……ありがとう、ひよりん」

 

「おやすみなさい 」

 

「おやすみなさい」

 

VCが切れた。

 

静寂。

 

真冬はヘッドセットをゆっくりと外し、デスクに置いた。マグカップのココアはとっくに冷めている。暖房の音。時計の秒針。やまびこの寝息。

 

クリスマスイブの夜が終わる。プレゼントはなかったし、ケーキもなかった。でも——。

 

真冬は椅子の上で膝を抱え、自分の心臓の音を聞いた。

 

まだ速い。二時間ずっと速かった。ひよりんの声が耳に残っている。笑い声。柔らかい声。「きれいだなって思った」と言ってくれた声。

 

——私、この人のことが好きなのかもしれない。

 

その思考が浮かんだ瞬間、真冬は自分の顔を両手で覆った。

 

違う。好きって何だ。まだ顔も知らない。声しか知らない。テキストの文字とVCの声だけで、人を好きになるものなのか。

 

でも——。

 

胸の奥が温かい。ひよりんのことを考えると、呼吸が浅くなる。声を聞くと心臓が跳ねる。名前を呼ばれると頬が赤くなる。これが好きでなければ何だというのか。

 

「どうしよう」

 

声に出して言った。部屋の中に反響して消える。

 

やまびこは何も言わなかった。寝ている。聞いていない。

 

寝支度を済ませ、ベッドに入った。スマートフォンを確認すると、ひよりんからDMが届いていた。

 

『今日はありがとう。まっしろさんと二人で話せて、本当に嬉しかった。やまびこちゃんの声も聞けたし、最高のクリスマスイブでした  正式リリースまであと一ヶ月。春が来るまで、もう少しだね  おやすみなさい☺』

 

春が来るまで。

 

真冬が前に送ったメッセージの「長い冬」を覚えていて、それに返してくれたのだ。冬の先に春がある。桜色の春が。

 

返信を打った。

 

『最高のクリスマスイブでした。おやすみなさい。……春、楽しみにしてます』

 

送信して、スマートフォンを枕元に置いた。

 

目を閉じる。瞼の裏に桜色の髪が揺れた。声が耳の奥で反響する。「きれいだなって思った」。「まっしろさんの声聞いてると元気になるから」——いや、それは自分が言った言葉だ。

 

ぐるぐると回る思考を、無理やり止めた。

 

眠ろう。明日はクリスマス。何もない一日。でも——。

 

何もないはずのクリスマスの夜に、こんなに温かい気持ちで眠れるのは、初めてだった。

 

年末年始は、VCの頻度が上がった。

 

大学は冬休み。会社も年末休暇に入ったひよりんと、万年休暇のピザデブと、ジムの営業時間が短くなって暇を持て余すハゲニキ。四人全員の時間が合いやすくなり、昼間からVCを繋ぎっぱなしにする日もあった。

 

大晦日は、四人で年越しをした。

 

各自が自宅にいながら、VCで繋がったまま新年を迎える。テレビの年末特番を同時視聴しながらコメントし合い、ハゲニキが年越しそばの自撮りを送ってきた(スキンヘッドに麺が乗っている悪ふざけ写真だった)。ピザデブは年越しピザを食べていた。ひよりんは実家に帰省しておらず、自宅でお雑煮を作ったと言っていた。

 

「まっしろさんは年越し何食べてる?」

 

「おそば。普通のかけそば」

 

「シンプルだなー。かけそばの写真見せて?」

 

「写真……? もう食べちゃった」

 

「ああー! 残念! 今度見せてね、まっしろさんのごはん」

 

「別に映えるものは作らないけど……」

 

「映えなくていいよ。まっしろさんが食べてるものが見たいの」

 

その言い方はずるい、と思った。「映えるもの」ではなく「まっしろさんが食べてるもの」。料理ではなく、自分に興味を向けられている。

 

カウントダウンが始まった。テレビの音声がVCに漏れ聞こえてくる。

 

十、九、八——

 

「あけおめことよろー!」

 

ハゲニキの大声が響いた。

 

「あけましておめでとうでござる! 今年もよろしくでござる!」

 

「あけましておめでとう! 今年もよろしくね、みんな! まっしろさんも!  」

 

「……あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

 

新しい年が始まった。

 

「今年の目標とかある?」

 

ハゲニキが全員に聞いた。

 

「ベンチプレスの自己ベスト更新やな。あと、ファンガデで最強ギルドになること。筋肉は裏切らない」

 

「拙者は体重プラス五キロでござる。あとファンガデでランカーになるでござる」

 

「増やすなでござるよ……。私の目標は……うーん、ゲームいっぱい楽しむこと! あと、大事な人たちともっと仲良くなること、かな」

 

大事な人たち。

 

ひよりんの声が少しだけ柔らかくなったのを、真冬は聞き逃さなかった。

 

「まっしろさんは?」

 

「……正式リリースで、みんなと一緒に遊ぶこと」

 

「それ目標っていうか確定事項やろ」

 

ハゲニキにツッコまれて、真冬は少し考えた。

 

「じゃあ——もう少し、素直になること」

 

「素直に?」

 

「うん。思ったことを、ちゃんと言えるようになりたい」

 

ひよりんが「いい目標だね」と言った。

 

「まっしろさんは充分素直だと思うけどな。VCで笑ってくれるようになったし」

 

「最初よりは……たぶん」

 

「うんうん。いいペースだよ。焦らなくていいからね」

 

焦らなくていい。この人の言葉は、いつも真冬の歩幅に合わせてくれる。

 

正月三が日が過ぎ、大学の冬休みが終わりに近づいた。

 

正式リリースまであと三週間を切り、公式サイトでは続々と新情報が公開されていた。新マップ、新ダンジョン、エンドコンテンツの概要。CBTにはなかった高難易度レイドボスの情報が出ると、四人のVCは自然と攻略計画の話になった。

 

「レイドボス、推奨人数八人か。ウチは四人やから足りへんな」

 

「野良で募集するでござるか? それとも他ギルドと合同でござる?」

 

「そのうち考えよか。まずは四人でできるコンテンツを固めてからや。まっしろさん、武器の考察とか進んどる?」

 

「ある程度。双剣のスキルツリーの分岐を全パターン検証したいから、正式リリース初日にまずスキルリセットのクエストの場所を確認したい」

 

「もうそこまで考えてるんか……さすがやな」

 

「あと、ひよりんのヒール量と、ハゲニキのヘイト維持力の数値が分かれば、ボス戦のDPSチェックを事前にシミュレーションできる」

 

「まっしろさん、ガチすぎるでござる……」

 

「……やりすぎ?」

 

「やりすぎちゃうよ! 頼もしい!」

 

ひよりんの声が、真冬の不安を払拭する。

 

「私もヒーラーの装備構成考えてるよ。回復特化にするか、バフ寄りにするか迷ってて……まっしろさん、どっちがいいと思う?」

 

「パーティ構成的には回復特化がいい。ハゲニキのタンク性能に回復量を合わせた方が安定する。バフは状況に応じてピザデブの弓スキルと相互で——」

 

「おー、なんかめっちゃ理論派」

 

「考えるのが好きなだけ。数字が出てると安心する」

 

「数字が安心材料って分かるなあ。私も回復量のスプレッドシート作ろうかな……」

 

「作って。共有してくれたらこっちでDPS計算に組み込む」

 

「了解! 今週中に作ります!」

 

このやり取りを聞いていたハゲニキが、ぼそりと呟いた。

 

「なんかこの二人、仕事の打ち合わせみたいやな」

 

「息が合ってるでござるな……ゲーマー同士の化学反応でござる」

 

「兄さんうるさい」

 

「ワイ何も言ってへんやろ!」

 

一月も半ばに差しかかった頃、ひよりんから個別にDMが届いた。

 

『まっしろさん、ちょっと相談があるんだけど……いいかな? VCで二人で話せる?』

 

相談。二人きりのVC。クリスマスイブ以来だ。

 

『大丈夫です。今夜は?』

 

『ありがとう! 今夜九時に! 』

 

九時にVCに入ると、ひよりんは既にいた。

 

「まっしろさん、来てくれてありがとう」

 

声のトーンがいつもより低い。何かを切り出しかねている気配がある。

 

「相談ってなに?」

 

「うん。あのね……正式リリースしたらさ、ギルドでいろいろ活動するじゃない。ダンジョンとかレイドとか。でさ、SNSとかで活動報告上げることもあるかもしれないよね」

 

「うん」

 

「そのとき……まっしろさんの名前が出ると、注目されると思うんだ。CBTでファーストクリア取ってるし、他のゲームでも有名だし。そうなると、ウチのギルドにも人が集まってくるかもしれない。それが……まっしろさんにとって嫌じゃないかなって」

 

真冬は黙った。

 

ひよりんが続ける。

 

「まっしろさんが静かに遊びたいって思ってるなら、私たちがそれを邪魔しちゃいけないなって。ギルドの活動が目立ったせいで、まっしろさんが嫌な思いするのは絶対に避けたいの。だから……もし、まっしろさんが望むなら、SNSではまっしろさんの名前を出さないようにするとか、配慮したいなって。……押し付けじゃなくて、まっしろさんの気持ちを聞いてから決めたいの」

 

長い沈黙が落ちた。

 

真冬は、自分の心臓の鼓動を数えていた。一つ、二つ、三つ。

 

この人は——ここまで考えてくれているのか。

 

自分のプレイヤーネームが持つ影響力。それがギルドに与える効果と、真冬個人に跳ね返ってくるリスク。目立つことで嫌な思いをするかもしれない真冬のことを、事前に心配して、対策を提案してくれている。

 

「……ひよりん」

 

「うん」

 

「ありがとう。考えてくれて」

 

「当たり前だよ。大事な仲間のことだから」

 

大事な仲間。

 

「——気にしないでいい」

 

「え?」

 

「名前を隠してもらう必要はない。私は『まっしろさん』で遊ぶ。隠れたところで、いつか必ずバレる。だったら最初から堂々としていた方がいい」

 

「でも——」

 

「嫌なことがあったら、そのときはひよりんに言う。だから大丈夫」

 

ひよりんが息を呑む音がした。

 

「……私に言ってくれるの?」

 

「うん。ひよりんなら聞いてくれるって、分かったから」

 

数秒の沈黙。そして。

 

「——泣きそう」

 

ひよりんの声が、微かに震えていた。

 

「泣かないで」

 

「泣いてないよ。……泣いてない。ちょっと目が潤んだだけ」

 

「それを泣くって言う」

 

「言わないよ! 涙出てないもん!」

 

笑い混じりの声だった。泣き笑い。

 

「……まっしろさん」

 

「なに」

 

「正式リリース、楽しみだね」

 

「うん。楽しみ」

 

「一緒にがんばろうね」

 

「うん」

 

沈黙。温かい沈黙。ヘッドセットの向こうに、ひよりんがいる。泣き笑いしている。

 

真冬は、自分も目頭が熱くなっているのを感じた。

 

「……ひよりん」

 

「うん?」

 

「素直になる練習。いい?」

 

「もちろん」

 

深呼吸。ひとつ。

 

「ひよりんに出会えてよかった。CBTでフレンド申請してくれてありがとう。あのとき断らなくてよかった。クリスマスに二人で話せて嬉しかった。年越しも楽しかった。……私、ひよりんのこと——」

 

——好き。

 

言いかけて、喉で止まった。

 

「——大事だと思ってる。仲間として」

 

最後に付け足した「仲間として」が、嘘ではないけれど、全部でもなかった。

 

ひよりんは長い間黙っていた。長い——五秒くらいだったかもしれないが、真冬には永遠に感じられた。

 

「……ありがとう。私も、まっしろさんのこと大事だよ。すごく」

 

すごく。

 

「おやすみなさい、まっしろさん。……あと二週間で春が来るね」

 

「おやすみなさい。——待ってる」

 

VCが切れた。

 

真冬は椅子の上で動けなかった。

 

仲間として、と言った。嘘じゃない。でも足りない。本当は——。

 

本当は何だ。

 

自分の気持ちに名前をつけるのが怖い。名前をつけたら、もう引き返せない気がする。ゲームの中で異名をつけられるのが嫌なのに、自分で自分の感情に名前をつけるのも怖いのか。臆病にも程がある。

 

やまびこがケージの中で身じろぎした。

 

「やまびこ」

 

「ナニ」

 

「私、臆病?」

 

「オクビョウ」

 

「だよね」

 

「ダヨネ」

 

やまびこは何も分かっていない。でも、声に出して認めたことで、少しだけ楽になった。

 

臆病でもいい。でも——逃げたくはない。あと二週間で春が来る。PHANTASM GARDENの正式リリース。あの庭園で、ひよりんと、ハゲニキと、ピザデブと、一緒に駆け回る。

 

そのとき——もう少しだけ、素直になれたら。

 

正式リリース前日。一月下旬の木曜日。

 

最後の事前VCが行われた。四人全員が参加。明日の午後六時——CBTと同じ時刻——にサーバーが開く。

 

「ほな明日やな! みんな準備はええか!」

 

「万全でござる! 拙者三日分の食料を備蓄したでござる! ピザ十枚!」

 

「死ぬよピザデブさん。……私は有給取りました! 正式リリース日に有給使う社会人、どうかと思うけど……! でも後悔はしない!」

 

「ワイも有給やで。上司には『家族の行事』って言ったわ。嘘は言ってない。このギルドは家族や」

 

「兄さん……たまにいいこと言うよね」

 

「たまにって何や。いつもええこと言うとるわ」

 

真冬は黙って聞いていた。家族。ギルドが家族。

 

「まっしろさんは?」

 

「明日は講義が午前中だけだから、午後から準備する。六時には間に合う」

 

「よし。じゃあ明日、エデンの庭——サーバー1で集合な。噴水広場で」

 

「了解でござる!」

 

「了解です!」

 

「……了解」

 

VCが解散した後、ひよりんからDMが来た。

 

『明日だね。ドキドキする……! まっしろさんと同じ世界に、また立てるんだね  おやすみなさい。明日、噴水広場で待ってるね☺』

 

真冬は返信を打った。

 

『おやすみなさい。明日——春が来るね。噴水広場で会おう』

 

送信して、布団に潜り込んだ。

 

目を閉じる。明日、もう一度あの庭園に行ける。今度は七十二時間の制限はない。ずっと、いられる。

 

ひよりんと。

 

白い頬が赤く染まるのを、暗い部屋の中で誰も見ていなかった。

 

やまびこの寝息。暖房の音。時計の秒針。

 

真冬は自分の白い髪を一房つまんで、指先で弄った。

 

明日の髪型は——何にしよう。

 

いつもなら寝る前に決めるのに、今夜は決まらない。なんだか特別な日には、特別な髪型にしたい気がする。

 

ギルド名にちなんで——苗床——芽吹き——春——。

 

編み込みの中に、小さなリボンを一つ入れよう。桜色の。

 

……家のどこかに、桜色のリボンがあっただろうか。明日、大学の帰りに買おう。百円ショップで。

 

白い髪に桜色のリボン。

 

自分の色と、ひよりんの色。

 

恥ずかしい。でも——やりたい。誰にも見えないのに。画面越しには映らないのに。自分だけが知っている、小さな秘密。

 

真冬は枕に顔を埋めて、声を殺して笑った。

 

春が来る。

 

明日、春が来る。

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