まっしろさんは甘えたい ~“白い悪魔”と呼ばれた少女は、新作ゲームで恋にログインする。~   作:合歓木あやめ

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第4話「Player 2 Has Joined」

二月最後の土曜日。朝六時。アラームが鳴る前に目が覚めた。

 

天井を見つめる赤い瞳は、一睡もできなかったことを正直に物語っている。二時間ほどうとうとした時間帯はあったが、それを睡眠と呼ぶには浅すぎた。心臓が夜通し騒いでいたせいだ。

 

布団を出た。足元がひやりとする。二月の朝。窓の外はまだ薄暗い。

 

洗面所で顔を洗う。冷たい水が頬に当たって、少しだけ頭が覚める。鏡を見る。目の下にうっすら赤みがある。寝不足が肌に出ている。コンシーラーの出番だ。

 

化粧水。乳液。日焼け止め。下地。普段は日焼け止めまでで終わりだが、今日は違う。ファンデーションを薄く伸ばし、目の下の赤みを消す。アイブロウパウダーで白い眉に少しだけ色を足す。マスカラは——白い睫毛のまま。ここに色を乗せると別人になってしまう。自分の睫毛は好きだ。

 

唇に薄くリップバームを塗った。色つきではない。透明な保湿用。

 

次に、髪。

 

ブラシを通す。昨夜からナイトキャップで守っていた白い髪が、シルクのように滑らかに流れる。毎日の手入れの成果がここにある。

 

今日の髪型。

 

左耳の後ろから細い編み込みを作る。指先で三つの束を交差させ、少しずつ毛を足しながら編んでいく。丁寧に、一段ずつ。力加減が均一でないと崩れる。真冬の指は慣れている。

 

編み込みの終点に、桜色のサテンリボンを結んだ。

 

右側は下ろしたまま。左右非対称のスタイル。白い髪の中に、一筋の桜色。

 

鏡を見る。

 

——いい。

 

自分の顔を正面から見つめた。白い髪。白い眉。白い睫毛。赤い瞳。色素を持たない顔。小柄で、華奢で、肌が薄くて、感情が表面に出やすい顔。

 

この顔を、今日、ひよりんに見せる。

 

「……大丈夫」

 

鏡の中の自分に言い聞かせた。声が少し震えている。大丈夫じゃないかもしれない。でも行く。行くと決めた。

 

リビングに戻ると、やまびこがケージの中からこちらを見ていた。遮光カバーはまだかけてあるが、真冬が動き回る気配で起きたらしい。カバーを外すと、やまびこは首を伸ばして真冬の顔を覗き込んだ。

 

「おはよう、やまびこ」

 

「オハヨ」

 

「今日はね、出かけるの」

 

「デカケル」

 

「大事な人に会いに行く」

 

「ダイジ」

 

餌と水を新しくし、ケージの底紙を替える。ペットカメラの角度を確認。エアコンは二十二度設定。いつもの手順。でも今日は一つ一つの動作に、普段より時間をかけていた。

 

おやつのヒマワリの種を二粒、手のひらに載せる。やまびこが丁寧に受け取って、殻を剥く。食べ終わると、ケージの格子越しに頭を擦りつけてきた。

 

真冬は指先でやまびこの頭を撫でた。灰色の羽毛の柔らかさ。

 

「行ってくるね」

 

「イッテラッシャイ」

 

「いい子にしててね」

 

「イイコ」

 

朝食はトーストを一枚。緊張で胃が重い。半分残した。コーヒーを一杯だけ飲んで、歯を磨いた。

 

時計を見る。午前八時。集合は正午。四時間ある。

 

着替えはもう選んであった。昨夜、クローゼットの前で三十分迷って決めた。ダークグリーンのタートルネックニットに、黒のスラックス。UVカットのロングカーディガンはグレー。靴はローファー。

 

ひよりんにDMで「ダークグリーンが好き」と伝えた。だから——着ていく。分かってもらえるかは分からない。でも、自分が伝えた色を纏っていくことには意味がある。自分にとって。

 

着替えて、全身を鏡で確認する。白い髪にダークグリーンのニット。桜色のリボンが左耳の後ろでちらりと揺れる。サイズの合ったスラックスが華奢な体のラインを拾う。小柄だけれど、姿勢を正せば凛として見える——と思いたい。

 

スマートフォンを確認する。ひよりんからのDMは来ていない。昨夜の『おやすみなさい』以降、沈黙。ひよりんも眠れなかっただろうか。

 

九時になった。まだ三時間ある。

 

何もすることがない。ゲームを起動する気にはなれない。本を読む集中力もない。部屋の中を歩き回り、やまびこに話しかけ、窓の外を見て、スマートフォンを見て、また歩く。

 

十時。

 

スマートフォンが鳴った。DMではなくグループチャット。ハゲニキからだった。

 

『ハゲニキ:おはようやで! 本日はよろしくやで! ワイもう駅に着いてもうた 早すぎたわ ハハッ』

 

『ピザデブ:おはようでござる 拙者も向かってるでござる 電車の中で心臓が爆発しそうでござる あとお腹も空いたでござる』

 

『ひよりん:おはようございます! 私もそろそろ出ます! 準備に時間かかりすぎた……  まっしろさんおはよう 』

 

『まっしろさん:おはようございます。私も出ます』

 

出る。靴を履く。カーディガンを羽織る。鍵。財布。スマートフォン。

 

玄関のドアに手をかけた。

 

一瞬、止まった。

 

振り返る。廊下の奥にやまびこのケージがある。グレーの鳥がこちらを見ている——ような気がした。距離があって表情は見えないが。

 

「行ってきます」

 

声が響いた。やまびこの返事は聞こえなかった。ドアを開け、外に出た。

 

二月の空は高く、薄い雲が横に流れていた。風は冷たいが日差しはある。UVカットのカーディガンの袖をきちんと手首まで下ろした。

 

駅まで自転車。いつもの通学路ではなく、反対方向。電車に乗り換えて、都心に向かう。

 

電車の中で、窓に映る自分を見た。白い髪が車内の蛍光灯を受けて光っている。周囲の乗客の視線を——感じる。感じている。もう慣れた。小さい頃からずっとこうだ。電車に乗れば見られる。街を歩けば見られる。カフェに入れば見られる。

 

慣れた、と思うたびに、ひよりんの声が蘇る。

 

『慣れたっていうのは、痛くなくなったんじゃなくて、痛いのに我慢できるようになっただけでしょ』

 

そうだ。慣れてなどいない。見られるのは今でも少し嫌だ。でも——今日は、その「見られる」相手を自分で選んでいる。自分が見せたい相手に、自分から会いに行っている。

 

それは、見られることとは違う。見せることだ。

 

乗り換えを二回して、目的の駅に着いた。改札を出る。

 

スマートフォンを確認する。グループチャットにハゲニキの投稿。

 

『ハゲニキ:ワイとピザデブはもうカフェおるで 個室確保した 住所と道順送るわ』

 

地図を頼りに歩く。駅から五分ほどの路地裏に、目立たない看板のカフェがあった。レンガ調の外壁に、木製のドア。中が見えない造りになっている。ハゲニキの選定は正しい——人目を気にせず過ごせる場所だ。

 

ドアの前で立ち止まった。

 

足が動かない。

 

心臓が速い。指先が冷たい。二月の寒さだけが原因ではない。

 

——この先に、ひよりんがいる。

 

声は知っている。文字は知っている。ゲームの中のキャラクターは知っている。でも顔を知らない。背格好を知らない。笑った時の目元を知らない。声と同時に動く唇を知らない。

 

知りたい。

 

知りたいから、来た。

 

深呼吸を一つ。ドアを押した。

 

店内は落ち着いた照明で、木の温もりがある空間だった。カウンター席と、奥にいくつかの個室。スタッフに名前を告げると、奥の個室に案内された。

 

引き戸を開ける。

 

最初に目に入ったのは、スキンヘッドだった。

 

大きな体。日焼けした肌。柔和な目。にかっと笑う口元。Tシャツの上からでも分かる厚い胸板。

 

「おっ! 来たで!」

 

ハゲニキが立ち上がった。声は——VCで何十回と聞いた、あの声。画面越しではない、空気を震わせるその声が、同じ部屋の中で鳴っている。

 

「まっしろ——」

 

ハゲニキの言葉が途切れた。

 

真冬を見ている。白い髪を。赤い瞳を。小柄な体を。

 

一拍の沈黙の後、ハゲニキは大きく息を吐いた。

 

「——めっちゃ白いやんけ。マジもんやな」

 

「……マジもんです」

 

「エルフやん」

 

想定外の感想だった。

 

「エルフ……」

 

「ゲームのキャラそっくりやん。髪も目も。ビビったわ。ええやん、かっこええで」

 

かっこいい。悪魔ではなく、エルフで、かっこいい。ハゲニキの感想はそれだけだった。それ以上踏み込まない。見た目について長々と言及しない。

 

隣に座っていた巨漢が——ピザデブが——ゆっくりと立ち上がった。身長が百九十近くありそうだ。横幅もある。だが、動作は穏やかで、表情は柔らかかった。

 

「お初にお目にかかるでござる。拙者、ピザデブでござる。本名は武田でござる」

 

丁寧にお辞儀をした。口調はあのまま——あの古のオタク口調のままだ。リアルでもこれなのか。

 

「白瀬です。……まっしろさんです」

 

「おお……まっしろさん殿、リアルでもまっしろでござるな……感動でござる……」

 

「まっしろなのは生まれつきです」

 

「存じておりますでござる。ひよりん殿から少しだけ聞いたでござる。白い髪だと」

 

ひよりんが事前に伝えてくれていたのだろう。驚かないように。配慮してくれていたのだ。

 

「座り。茶でも飲み」

 

ハゲニキが席を勧めた。四人掛けのテーブル。ハゲニキとピザデブが並んで座っている側の向かいに、二つの椅子が空いている。

 

真冬はそのうちの一つに座った。隣の椅子が空いている。

 

ひよりんの席。

 

「ひよりんは?」

 

「もうすぐ来るはずやで。さっきグループチャットで『駅着いた』って言うとった」

 

スマートフォンを確認する。確かに、五分前にひよりんの投稿がある。

 

『ひよりん:駅着きました! 今向かってます! 緊張で足がガクガク……!  』

 

三分経った。二分経った。一分。

 

個室の引き戸の向こうから、店内を歩く足音が聞こえた。小さな足音。速い。走っているわけではないが、急いでいる。

 

引き戸が開いた。

 

そこに立っていたのは、小柄な女性だった。

 

肩より少し長い髪。ゲームの中の桜色ではなく、自然な黒髪。少しだけ癖のあるウェーブ。

 

丸い目。長い睫毛。薄い唇が半開きになっている。頬が紅潮している——走ってきたのか、緊張しているのか。

 

淡いピンクのブラウスに、白いスカート。カーディガンはクリーム色。小さな革のバッグを肩にかけている。

 

かわいい——。

 

その一語が、真冬の脳を占拠した。

 

ひよりんは入口で立ち尽くしていた。視線は真冬に固定されている。大きな目が見開かれ、唇が微かに震えている。

 

数秒。長い数秒。

 

「…………まっしろ、さん?」

 

声が——あの声だった。VCで何十回と聞いた、澄んでいて少しだけ高くて温かい声。その声が、目の前の人の唇から発せられている。画面越しではなく。ヘッドセット越しではなく。

 

「……はい」

 

真冬の声も震えていた。椅子から立ち上がる。足が少しふらつく。

 

「白瀬、真冬です。まっしろさんです。——はじめまして」

 

ひよりんの目に、光が溜まっていくのが見えた。涙ではない——いや、涙かもしれない。でも泣いてはいない。笑っている。大きな目を細めて、頬を上げて、口元を綻ばせて。

 

「はじめまして。東雲ひよりです。ひよりんです」

 

そして——笑った。

 

VCで聞いていた笑い声。少しだけ音が上がる、あの特徴的な笑い声が、空気を震わせて真冬の鼓膜を叩いた。同時に、笑った時の目元が——くしゃりと潰れる目尻が——初めて見えた。

 

かわいい。

 

「——髪、白い」

 

ひよりんが呟いた。真冬の髪を見ている。

 

「うん。白い」

 

「本当に、白い……」

 

「本当に白い」

 

「きれい……」

 

その一言で、真冬の視界が滲んだ。

 

きれい。あの言葉。ゲームの中で何度も言ってくれた言葉。キャラクリの白い髪がきれいだと。空中カウンターがきれいだと。プレイがきれいだと。

 

今——現実の白い髪を見て、きれい、と。

 

「……ありがとう」

 

声が掠れた。泣きそうだ。泣くまいと思う。人前で泣くのは恥ずかしい。でも目頭が熱い。白い肌に赤みが差していくのが自分でも分かる。

 

「あ、まっしろさん赤くなってる……!」

 

ひよりんが小さく声を上げた。

 

「赤くならない……」

 

「なってるよ! 耳まで赤い! かわいい……!」

 

かわいいと言われて余計に赤くなる。悪循環。

 

「おーおー 感動の対面やな。ワイちょっと泣きそうやわ」

 

「拙者もう泣いてるでござる」

 

「お前泣いとるんかい」

 

「だって……だって……感動的でござる……」

 

ピザデブが大きな体を丸めて目を擦っている。ハゲニキがその背中をばしばしと叩いた。

 

ひよりんが真冬の隣の椅子に座った。近い。VCでは声の距離しかなかったのに、今は——体温を感じられるほどの距離に、この人がいる。

 

ピンクのブラウスからほんのりと甘い匂いがした。香水か、柔軟剤か。

 

「改めまして。東雲ひよりです。社会人三年目。ネトゲ歴は……えっと、十四年? 筋金入りです」

 

「白瀬真冬です。大学二年生。ゲーム歴は……覚えてないくらい」

 

「真冬ちゃ——あ、名前で呼んでいい?」

 

「……いい」

 

「じゃあ真冬ちゃん。よろしくね」

 

真冬ちゃん。ちゃん付け。

 

「ひよりさん——」

 

「ひよりでいいよ! さん付けかたい!」

 

「……ひより」

 

名前を呼んだ。画面越しではなく、ヘッドセット越しではなく、目の前にいる人の名前を。

 

ひよりが、ふわりと笑った。

 

「うん。ひより。よろしくね、真冬ちゃん」

 

真冬の心臓が、一際大きく跳ねた。

 

注文を取りに来たスタッフに、各自飲み物を頼んだ。ハゲニキはブラックコーヒー。ピザデブはチョコレートパフェ(飲み物ではない)。ひよりはカフェラテ。真冬はココア。

 

「ココアだ! クリスマスのとき飲んでたやつ!」

 

ひよりが嬉しそうに言った。

 

「……覚えてるの」

 

「覚えてるよ。真冬ちゃんココア好きでしょ」

 

小さなことを覚えてくれている。真冬がシュトーレンを食べたことも、やまびこの名前も、好きな季節が冬であることも。全部覚えている。

 

「ほな、改めて自己紹介といこか。ワイは東雲京助。ひよりの兄や。ハゲニキ。見ての通りのスキンヘッドやで」

 

「先天性?」

 

真冬が聞くと、ハゲニキは頷いた。

 

「せや。生まれつき毛が生えへんのや。昔は気にしてたけど、今はネタにしとる。筋肉と禿は最強の組み合わせやで」

 

先天性。生まれつき。

 

真冬は自分の白い髪に触れた。

 

「……私も、生まれつき」

 

ハゲニキが一瞬目を見張り、それからゆっくりと頷いた。

 

「せやったんか。——ほな仲間やな」

 

仲間。生まれつきの見た目を持つ者同士。ハゲニキはそれ以上何も聞かなかった。理由も、病名も、苦労も。ただ「仲間」と言った。

 

「ワイな、昔は帽子被って隠しとったんや。でもある日めんどくさくなって外したら、案外誰も気にせんかった。気にしとったのはワイだけやった——とは言わんけど。気にする奴はおった。でも、気にせん奴の方が多かった。それで十分やった」

 

真冬は黙って聞いていた。

 

「まっしろさんもな、気にする奴はおる。でも気にせん奴の方が多い。少なくともこの場には、お前さんの見た目を気にする奴は一人もおらんで」

 

「……ありがとう」

 

「礼はええわ。さ、飲み物来たで」

 

ピザデブが自己紹介をした。武田京助。名前がハゲニキと同じ「京助」であることに真冬は少し驚いた。

 

「偶然の一致でござる。ハゲニキとは別ゲーで知り合って、名前が同じで意気投合したでござる」

 

「京助コンビやな」

 

「ハゲの京助とデブの京助でござる」

 

「最悪のコンビ名やな」

 

ピザデブは見た目通りの大柄な男だったが、所作が丁寧で、声はVCで聞いた通りの落ち着いた低音だった。口調だけがふざけている。

 

「リアルでもその口調なの?」

 

真冬が聞くと、ピザデブは少し照れたように頭を掻いた。

 

「故意でござる。素の口調だと面白みがないので、キャラ作りでござるよ。でもまあ、もう十年以上これでやってるから、もはや素と区別がつかんでござる」

 

「十年……」

 

「筋金入りでござる。拙者の口調と体型は、年季が違うでござるよ」

 

ひよりが笑った。真冬も、つられて笑った。

 

それから——たくさん話した。

 

ゲームの話。日常の話。仕事の話。大学の話。ハゲニキの筋トレの話。ピザデブのピザの話。ひよりの会社の忘年会の話。真冬のやまびこの話。

 

VCで聞いた話の続きもあれば、初めて聞く話もあった。リアルで会うと、声だけでは分からなかった情報が加わる。表情。視線の動き。手の仕草。ハゲニキは話すとき腕を組む癖がある。ピザデブはチョコレートパフェを食べるとき目を細める。ひよりは笑うとき少しだけ鼻に皺が寄る。

 

かわいい。何度目かのその感想を噛み殺しながら、真冬はココアに口をつけた。

 

「真冬ちゃんって、リアルでもクーデレなんだね」

 

ひよりが隣から覗き込むように言った。

 

「クーデレ……?」

 

「うん。VCだと無口でクールで、たまに素直なこと言ってドキッとさせるでしょ。リアルでも同じだなって。ギャップがいいよね」

 

「ギャップなんてない。普通にしてるだけ」

 

「その『普通にしてるだけ』がクーデレなんだよw」

 

ネットスラングが自然に出ている。ひよりの言う通り、筋金入りのネットゲーマーだ。

 

「あ、ごめんクーデレってリアルで言うと恥ずかしいね。今のナシで」

 

「ナシにしない。言われたこと覚えてるから」

 

「えっ。覚えなくていいのに。恥ずかしい」

 

ひよりが顔を赤くした。かわいい系の美人、という表現がぴたりと当てはまる顔だった。

 

ハゲニキがコーヒーを飲みながら、二人のやり取りを眺めている。何か言いたそうな顔をしていたが、何も言わなかった。ピザデブはパフェの皿を丁寧にスプーンでさらっていた。

 

二時間ほど経った頃、ハゲニキが突然立ち上がった。

 

「ほなワイちょっと出るわ。ピザデブ、お前も行くで」

 

「でござるか? ……おお、了解でござる」

 

ピザデブがハゲニキの意図を察したらしく、大きな体を持ち上げた。

 

「え、どこ行くの?」

 

ひよりが聞くと、ハゲニキは何食わぬ顔で答えた。

 

「近くにスポーツ用品店あるんや。プロテイン見たいねん。ピザデブも一緒に来い」

 

「拙者プロテインに用はないでござるが……」

 

「ええから来いや。三十分くらいで戻るわ。先に話しとってくれ」

 

「兄さん。わざとらしいよ」

 

「何がや。筋肉の買い物やで。筋肉は裏切らない。プロテインも裏切らん」

 

ひよりが呆れた顔をしたが、それ以上は引き留めなかった。ハゲニキとピザデブが個室を出ていき、引き戸が閉まった。

 

二人きりになった。

 

静かだ。さっきまで四人分の声で満ちていた個室が、急にしんとした。テーブルの上には飲みかけのカフェラテとココア。壁掛けの時計が秒針を刻む音が聞こえる。

 

「……兄さん、気を遣ってくれたんだろうね」

 

ひよりが苦笑した。

 

「うん」

 

「ごめんね。わざとらしくて」

 

「いい。……ありがたい」

 

真冬は自分のココアのカップを見つめた。中身はもう半分以下になっている。

 

隣に座っているひよりの体温を、左腕に感じる。椅子と椅子の間は三十センチほど。VCでは声の距離だったものが、今は——体温の距離になっている。

 

「真冬ちゃん」

 

「なに」

 

「こうして会えて、本当に嬉しい」

 

ひよりの声が、VCのときとは少し違って聞こえた。同じ声なのに。空気を通して耳に届く声は、ヘッドセットのスピーカーを通した声とは別物だ。振動が違う。温度が違う。

 

「私も」

 

「髪、本当にきれい。触っていい?」

 

不意打ちだった。

 

「……いい」

 

ひよりの手が伸びてきた。小さな手。指先が、真冬の白い髪に触れた。右側の、下ろしたままの毛束。

 

「さらさら……。すごい。手入れしてるって言ってたもんね」

 

指が、ゆっくりと髪を梳く。真冬は固まっていた。息を止めていた。ひよりの指先が頭皮の近くを通るたびに、背筋に電流のようなものが走る。

 

「真冬ちゃん? 嫌だった?」

 

「嫌じゃない。……逆」

 

「逆?」

 

「嬉しすぎて固まった」

 

ひよりが笑った。あの、鼻に皺が寄る笑い方。近い。こんなに近くで見るのは初めてだ。

 

「……あ」

 

ひよりの視線が、真冬の左耳の後ろに移った。編み込みの終点。桜色のリボン。

 

「このリボン——」

 

「…………」

 

「桜色?」

 

真冬は黙った。黙って、唇を引き結んだ。顔が熱い。耳まで。首まで。白い肌はごまかしが利かない。

 

「真冬ちゃん。このリボン、桜色だよね」

 

「……うん」

 

「いつから?」

 

「正式リリースの日から。毎日つけてた」

 

「毎日!? VCだから見えないのに!?」

 

「見えなくても——つけてたかったから」

 

ひよりの目が大きく見開かれた。唇が薄く開いて、何かを言おうとして、言えないでいる。

 

「……私の色じゃん。桜色」

 

「うん」

 

「私の色を、毎日……」

 

「うん」

 

ひよりの目に涙が浮かんだ。今度は明確に涙だ。でも泣いてはいない。笑いながら、涙を溜めている。

 

「ずるい。そういうの、ずるいよ真冬ちゃん……」

 

「ずるくない。素直になる練習の成果」

 

「成果出すぎだよ……」

 

ひよりが手の甲で目を擦った。薄くアイメイクをしているらしく、擦る仕草を途中でやめて、指先で目尻を押さえた。

 

「あのね。私からも、言いたいことがあるの」

 

「なに」

 

「真冬ちゃんのDMで、『いつか顔を見せ合えたらいいね』って言ってくれたとき。あの夜からずっと考えてたことがある」

 

ひよりが姿勢を正した。真冬に向き直る。大きな目がまっすぐに赤い瞳を捉えた。

 

「私ね。今まで恋をしたことがなかったの」

 

唐突な告白に、真冬は息を呑んだ。

 

「学生の頃も、社会人になってからも。誰かを好きだって思ったことがなかった。友達にも兄さんにも、恋愛に興味ないの? って聞かれたことあるけど、ないんだよね、って答えてた。嘘じゃなくて。本当になかったの」

 

ひよりの声は落ち着いていた。でも、指先がカフェラテのカップを握る力が、少しだけ強くなっている。

 

「でもね。真冬ちゃんと——まっしろさんとチャットするようになって。VCで声を聞くようになって。笑ってくれるようになって。怒ってくれるようになって。大事だって言ってくれて。仲間としてって付け足されて——」

 

ひよりが、ふっと笑った。

 

「——仲間としてって聞いたとき、ちょっと寂しかったの。初めてだった。そんなこと思ったの」

 

真冬の心臓が喉の奥まで跳ね上がった。

 

「寂しいって思ったとき、あれ? って思った。なんで寂しいんだろうって。仲間でいいじゃん。仲間で嬉しいじゃん。なのに、なんで物足りないんだろうって」

 

ひよりの目が、真冬の赤い瞳をまっすぐに見ている。

 

「兄さんに相談した。兄さん、こういうときだけ鋭いの。『お前それ恋やで』って。二秒で言われた」

 

「ハゲニキ……」

 

「うん。あのハゲ、たまに的確なんだよね。腹立つくらい」

 

ひよりが深く息を吸った。

 

「真冬ちゃん。私ね——」

 

「待って」

 

真冬が遮った。ひよりが驚いた顔をする。

 

「先に——私から言わせて。素直になる練習の、本番だから」

 

ひよりが唇を噛んで、こくりと頷いた。

 

真冬は椅子の上で背筋を伸ばした。膝の上で握りしめた手が震えている。白い指の関節が白くなっている——元から白いのだけれど。

 

目を閉じた。一秒。二秒。

 

目を開けた。赤い瞳が、目の前のひよりを見据えた。

 

「ひより。私はアルビノで——生まれつき色素がなくて、髪も肌も白くて、目が赤い。小さい頃、白い髪のせいでからかわれた。悪魔みたいって言われたこともある。だから——白い悪魔って異名がつくたびに、そのことを思い出してしまう」

 

ひよりの表情が変わった。目を見開き、唇を震わせている。

 

「でも、私は自分の白い髪が好き。嫌いになったことはない。からかわれても嫌いにならなかった。髪の手入れをして、毎日違う髪型にして、きれいな白でいることが、私の誇りだから」

 

声が震えている。でも止まらない。止まりたくない。

 

「ひよりが——最初にフレンド申請をくれたとき。呼び方が苦手だって言ったら、理由も聞かずに受け止めてくれたとき。VCで声を聞いたとき。クリスマスに二人で話したとき。掲示板で仲間が傷つけられたとき怒ったら、ひよりが泣いてくれたとき——」

 

ひとつひとつ、指折り数えるように言葉を重ねる。

 

「全部覚えてる。全部。ひよりの言葉、全部覚えてる。きれいだなって思った、って言ってくれたこと。慣れたって言うのやめない、って叱ってくれたこと。一緒にいたいからいるのって言ってくれたこと。大好きだよ仲間としてって——括弧つきで言ってくれたこと」

 

ひよりの目から涙がひと粒落ちた。頬を伝って、顎の先からテーブルの上に落ちた。

 

「私も——括弧をつけた。大事だって言った後に仲間としてって。逃げた。怖かったから。仲間としてって言えば、傷つかなくて済むと思ったから。でも——」

 

真冬は膝の上の手を解き、テーブルの上に置いた。白い指が、ひよりの手の近くに伸びる。

 

「——括弧を外したい。ずっと外したかった」

 

指先が、ひよりの指先に触れた。

 

温かい。人間の体温。やまびこよりも少し低くて、でもずっと大きな温かさ。

 

「ひより。好きです。仲間としてじゃなくて——好き」

 

言った。言い切った。声は震えていたけれど、途切れなかった。

 

個室が静まり返った。時計の秒針だけが鳴っている。真冬の指先がひよりの指先に触れている。二人の呼吸が、ほんの少しだけ乱れている。

 

ひよりが、涙を拭わないまま笑った。鼻に皺が寄る笑い方。目尻に涙の跡。

 

「——やっと言ってくれた」

 

やっと。

 

「兄さんが言ってたんだ。『まっしろさんは臆病やから、お前から言った方が早いぞ』って。でも私、真冬ちゃんが自分から言ってくれるまで待ちたかった。素直になる練習、してるって言ってたから。その成果を聞きたかったの」

 

「……待ってたの」

 

「待ってた。ずっと。長い冬だったよ、本当に」

 

ひよりの手が、真冬の手を握った。小さな手同士が重なる。

 

「私も好き。真冬ちゃんが好き。括弧なしで」

 

真冬の視界が滲んだ。今度は堪えきれなかった。涙が白い頬を伝う。白い睫毛に雫が引っかかって、光を反射した。

 

「泣いてる。真冬ちゃん泣いてる」

 

「泣いてない」

 

「泣いてるよ。目赤いよ。もともと赤いけど、もっと赤い」

 

「……うるさい」

 

「クーデレだ」

 

二人して笑った。涙を流しながら。

 

ひよりの手が、真冬の白い髪に伸びた。左耳の後ろの桜色のリボンに触れる。指先でそっと撫でる。

 

「このリボン。正式リリースから毎日つけてたんだよね」

 

「うん」

 

「私がね。真冬ちゃんのキャラの毛先が桜色になってるの、気づいてたんだ。正式版で。CBTの時はなかったのに」

 

真冬は目を丸くした。

 

「気づいてた……?」

 

「気づいたよ。だってずっと見てたもん、真冬ちゃんのキャラクター。白い髪の毛先がほんの少しだけピンクになってて——桜色だなって思った。言わなかったけど」

 

「なんで言わなかったの」

 

「照れるでしょ。私が」

 

「……照れたの」

 

「めちゃくちゃ照れた。自分の色をつけてくれてるんだと思ったら、心臓止まるかと思った。でも勘違いだったら恥ずかしいから、聞けなくて」

 

「勘違いじゃない」

 

「うん。今分かった」

 

ひよりの手が、真冬の手をぎゅっと握り直した。

 

「真冬ちゃん」

 

「なに」

 

「帰りたくない」

 

「……私も」

 

「でもハゲニキとピザデブさん、もう三十分以上経ってるよね。戻ってきたら気まずい」

 

「気まずくない。手は離さないけど」

 

「離さないの!?」

 

「離さない」

 

「……クーデレのくせに大胆なんだから」

 

「自覚のある甘えん坊だから」

 

ひよりが目を見開いた。

 

「何それ。初耳なんだけど。甘えん坊? 真冬ちゃんが?」

 

「……自覚はある」

 

「かわいい。待って、めちゃくちゃかわいい。甘えん坊のクーデレってなに。最強じゃん」

 

「最強は——ゲームの中だけでいい」

 

「いや、リアルでも最強だよ真冬ちゃん」

 

ひよりが笑った。真冬も笑った。手を繋いだまま。

 

引き戸の向こうから、足音が聞こえた。大きな足音が二つ。

 

「おーい、ワイら帰って来たでー。入ってええか?」

 

ハゲニキの声。わざとらしく大きな声。

 

真冬はひよりの手を離そうとした。ひよりが離さなかった。

 

「……離さないの」

 

「離さない。真冬ちゃんが言ったんでしょ」

 

「言ったけど」

 

「じゃあ。このまま」

 

引き戸が開いた。

 

ハゲニキとピザデブが入ってきて——繋がれた手を見て——。

 

ハゲニキは満面の笑みを浮かべ、ピザデブは大きな体を震わせた。

 

「よっしゃあ! ワイの勘は裏切らんかったで! 筋肉は裏切らないし、恋のキューピッドも裏切らんかったな!」

 

「百合……リアル百合……拙者は今日という日のために生まれてきたでござる……ありがとうございますありがとうございます……」

 

「ピザデブ泣いとるやんけまた」

 

「だって……だって……尊いでござる……」

 

ひよりが顔を真っ赤にしたが、手は離さなかった。真冬も離さなかった。

 

「兄さん。やっぱりわざとだったでしょ、プロテイン」

 

「プロテインは買ったで。ほらこれ」

 

ハゲニキがコンビニの袋からプロテインバーを取り出した。本当に買っている。

 

「それプロテインバーじゃん。店じゃなくてコンビニでしょ」

 

「細かいことはええんや。で、結果はどうなったんや。ワイが聞くまでもない顔しとるけど」

 

ひよりと真冬が同時に目を逸らした。

 

「……付き合うことになりました」

 

ひよりが小さく言った。

 

「よっしゃああああ! めでたいわ! 筋肉に祝福あれ! ピザデブ祝え!」

 

「祝うでござる! 盛大に祝うでござる! 拙者ここにピザを十枚注文するでござる!」

 

「カフェでピザ十枚は頼めんやろ」

 

騒がしい。騒がしくて、温かくて、誰も傷つけない。

 

真冬は繋いだ手をテーブルの下に隠した。ひよりの指が、真冬の指の間に滑り込んだ。指を絡めた。

 

恋人繋ぎ。

 

白い頬が、火照るように赤くなっていくのが自分でも分かった。

 

カフェを出たのは午後四時だった。

 

四人で駅まで歩いた。二月の午後、空は晴れていて、風は冷たいが陽光は温かかった。

 

「ほなまた今夜VCでな。ピザデブ行くぞ」

 

「了解でござる。——真冬殿、ひよりん殿、お幸せにでござる」

 

ピザデブがにこやかに深々と頭を下げた。ハゲニキがその背中をばしばし叩きながら、反対方向のホームへ歩いていった。途中でハゲニキが振り返り、真冬に向かって親指を立てた。

 

真冬も、小さく親指を立て返した。

 

二人きりになった。

 

駅の構内。行き交う人々。真冬の白い髪に視線が集まるのを感じる。ひよりがそれに気づいたのか、真冬の隣に半歩寄った。肩が触れる距離。

 

「真冬ちゃん」

 

「なに」

 

「帰り、途中まで一緒でいい?」

 

「……同じ路線?」

 

「違う。でも、途中の乗り換え駅までは同じ方向」

 

「じゃあ、途中まで」

 

電車に乗った。土曜日の午後で、車内はそこそこ混んでいた。二人で並んで吊り革を握る。

 

隣に立つひよりの横顔を、真冬はちらりと盗み見た。黒い髪。丸い目。少しだけ残った涙の痕。淡いピンクのブラウス。

 

——ゲームの中の桜色の髪より、本当のひよりの方がずっときれいだ。

 

「真冬ちゃん、見てる」

 

「見てない」

 

「見てたよ。顔赤くなってる」

 

「電車が暑いだけ」

 

「二月だよ」

 

反論できなかった。

 

乗り換え駅で電車を降りた。ここでひよりとは方向が分かれる。

 

改札の前で向かい合った。

 

「今日は——楽しかった。ありがとう、ひより」

 

「こちらこそ。真冬ちゃんに会えてよかった。すっごくよかった」

 

「……また会える?」

 

「もちろん。いつでも。来週も会おうよ」

 

「来週……うん。来週」

 

沈黙。改札の向こうから電車の発車メロディが聞こえる。人が行き交う。その真ん中で、白い髪の少女と黒い髪の少女が向かい合っている。

 

「真冬ちゃん」

 

「なに」

 

「リボン、ありがとう。桜色。私のために」

 

「……うん」

 

「私もね。今度何か——真冬ちゃんの色のもの、持ち歩くね。白い何か」

 

「白は汚れやすいよ」

 

「じゃあ大事にするね。汚れないように」

 

ひよりが笑った。笑って——少しだけ背伸びをした。真冬より数センチ高い身長だが、背伸びをする必要はないはずだ。勢いか。感情か。

 

「おやすみなさい——じゃないや。また今夜ね。VCで」

 

「うん。VCで。——おやすみなさいは、夜に言うよ」

 

「いいね。じゃあ、またあとで」

 

ひよりが手を振って、改札の向こうへ歩いていく。ピンクのブラウスの背中が人混みに紛れていく。

 

真冬はその背中が見えなくなるまで、改札の前に立っていた。

 

手のひらが、まだ温かい。繋いでいた手の温もりが残っている。

 

「…………好き」

 

誰にも聞こえない声で呟いた。改札の雑踏にかき消される小さな声。

 

白い頬が赤い。赤い瞳が潤んでいる。白い睫毛が光を受けて透けている。

 

幸せだ。

 

その一語が、体の中心から四肢の先まで染み渡っていくのを感じながら、真冬は自分のホームへ歩き出した。

 

帰宅したのは午後五時半だった。

 

玄関のドアを開けた瞬間、ケージの方から声が聞こえた。

 

「オカエリ」

 

「ただいま、やまびこ」

 

靴を脱ぎ、ケージの前にしゃがみ込む。扉を開けると、やまびこは迷いなく真冬の肩に飛び乗った。ずしり。温かい。

 

「ヒヨリン」

 

真冬は一瞬固まった。

 

「……なんで知ってるの」

 

「ヒヨリン」

 

VCのときにヘッドセットから漏れた声を覚えていたのだろう。やまびこは音の記憶力が高い。でも——このタイミングでその名前を出すのは、偶然にしてはできすぎている。

 

「……やまびこ。ひよりって人がね。私の恋人になったんだよ」

 

「コイビト」

 

「うん。好きな人」

 

「スキナヒト」

 

やまびこが真冬の耳たぶに頬を擦りつけた。いつもの甘え方。真冬もやまびこの頭を指先で撫でた。

 

「やまびこも好きだよ。世界で二番目に好き」

 

「ニバンメ」

 

「一番はひより。ごめんね」

 

「ゴメンネ」

 

やまびこは特に気にしていないようだった。鳥に恋愛の序列は通じない。

 

肩にやまびこを乗せたまま、部屋着に着替え、髪を下ろしてブラシを通した。桜色のリボンを丁寧に外し、デスクの上に置く。

 

このリボン。正式リリースの前日に買った。誰にも見せないつもりだった。自分だけの秘密のつもりだった。

 

今日——ひよりに見つけてもらった。触れてもらった。

 

リボンを指先でそっと撫でて、引き出しにしまった。明日も使う。明後日も。毎日。

 

スマートフォンを開く。ひよりからDMが来ていた。タイムスタンプは十分前。帰りの電車の中で打ったのだろう。

 

『家着いた! ……嘘、まだ電車の中。でも書きたくなっちゃった。

 

今日は本当にありがとう。真冬ちゃんに会えてよかった。白い髪、きれいだった。赤い目、きれいだった。桜色のリボン、嬉しかった。手を繋いでくれたの、嬉しかった。

 

あとね。真冬ちゃんの「好き」は、今まで聞いたどんな言葉より嬉しかった。括弧なしの好き。ずっと聞きたかった。

 

帰ったらVCね。今夜はみんなでゲームしよう。でもその前に——二人きりの時間、少しだけもらっていい? 

 

大好きだよ。括弧なしで☺』

 

真冬は返信を打った。指先が震えるのは、もう緊張ではなかった。

 

『私も。大好き。括弧なし。

 

VCの前に二人の時間、もちろん。……甘えていい? 自覚のある甘えん坊だから。

 

あと——家に着いたらやまびこが「ひよりん」って言った。覚えてた。やまびこにも認められたみたい。

 

おかえり。って言いたいけど、まだ電車の中なんだよね。じゃあ——着いたら教えて。おかえりって言うから』

 

送信。

 

五分後。

 

『着いた! ただいま! ✨』

 

『おかえり、ひより』

 

夜八時。VCに四人が集まった。

 

「さあ! 今夜は祝勝会や! まっしろさんとひよりん、カップル成立記念! 乾杯するで! 各自手元の飲み物を掲げい!」

 

「乾杯でござる! 拙者はコーラで!」

 

「私はカフェラテ! ……あ、もう三杯目」

 

「ココア」

 

「かんぱーい!」

 

画面の向こうでそれぞれが飲み物を掲げているのだろう。VCから「かんぱい」の声が重なった。

 

「ほな今夜はファンガデで遊ぶで! 新しいダンジョンが追加されたらしいから行ってみようや!」

 

「了解でござる! 今日の拙者は一味違うでござるよ。祝福パワーで弓の腕が上がってるはずでござる!」

 

「それ根拠ないでしょ……w」

 

ゲームにログイン。サーバー1「エデンの庭」。噴水広場に四人のキャラクターが並ぶ。

 

白い髪のエルフ。桜色の髪のヒーラー。スキンヘッドの巨漢。さらに大きな巨漢。

 

「ひだまりの苗床」のギルドエンブレムが、四人の頭上に小さく表示される。白地に桜色の蕾。

 

パーティを組んだ。HPバーが四つ並ぶ。

 

新ダンジョン「凍結の回廊」に向かう。フィールドを走りながら、VCで雑談する。いつもの光景。でも——少しだけ違う。

 

パーティチャットに、ひよりからウィスパーが来た。パーティチャットとは別の、二人だけのチャンネル。

 

『ひよりん >> まっしろさん

隣で走ってるの、嬉しい  画面の中でも、現実でも。

 

あ、ところで真冬ちゃん。キャラの毛先の桜色、いつから気づいてたか聞いてなかった。正直に教えて?☺』

 

『まっしろさん >> ひよりん

正式リリースのキャラクリで設定した。最初から。

 

……ひよりの色を入れたかった。自分のキャラクターに。ひよりがいつも隣にいるみたいに。恥ずかしいから言わなかった。今言った。これが素直になる練習の最終成果です。』

 

『ひよりん >> まっしろさん

最終成果100点満点です…… ✨ 泣いてもいい?』

 

『まっしろさん >> ひよりん

泣いていいよ。マイクミュートにして。前と同じ。私にだけ聞かせて。

 

……嘘。今回は泣かないでほしい。笑ってて。隣で走ってるから。ずっと。』

 

「おーい二人とも! ダンジョンの入口着いたで! 何ウィスパーしとんねん! 戦闘始まるで!」

 

ハゲニキの声で現実に引き戻された。

 

「ごめん! 行きます!」

 

「……行く」

 

ダンジョンに入った。凍てついた回廊。氷の結晶が壁面を覆い、足元には霜が降りている。美しい青白い光の空間。

 

道中の敵を蹴散らしながら進む。四人の連携はもう完成の域に近い。ハゲニキが前に出て敵を引きつけ、ピザデブが後方から射抜き、ひよりが回復を飛ばし、真冬が側面から斬り込む。

 

ボス部屋の前。

 

「準備ええか? 行くで!」

 

「了解でござる!」

 

「ヒール準備OK!」

 

「——行こう」

 

ボスは氷の竜だった。巨大な翼を広げ、凍結のブレスを吐く。フィールド全体が氷に覆われ、足場が滑る。一撃が重く、ハゲニキの盾でも完全には受けきれない。

 

激しい戦闘が続いた。HPが削られ、回復が飛び、弓が撃たれ、双剣が閃く。

 

竜がブレスの予備動作に入った。真冬はそのモーションを初見で読み取った。

 

「ハゲニキ、右に避けて。ブレス来る」

 

「了解!」

 

「ピザデブ、頭を狙って。怯む」

 

「承知でござる!」

 

「ひより——」

 

「分かってる! ヒール入れるね!」

 

四人の動きが噛み合う。竜のブレスをハゲニキが右に躱し、ピザデブの弓が頭部に刺さって怯みが入り、その隙に真冬がジャンプ——空中シフトスラッシュ。白い軌跡。白い花弁。

 

竜のHPが大きく削れた。

 

「まっしろさんのカウンターきたあああ!」

 

「美しいでござる……」

 

「真冬ちゃんかっこいい!」

 

——真冬ちゃん。

 

ひよりがVCで名前を呼んだ。ハンドルネームではなく、本名で。ハゲニキとピザデブが一瞬沈黙した。

 

「ひよりん、今なんて?」

 

「あ。……あっ。ごめん。つい」

 

「つい——本名で呼んだんか。おいおいおい」

 

「う、うるさいよ兄さん! 戦闘中でしょ集中して!」

 

「集中できんわこんなん! ピザデブ聞いたか今の」

 

「聞いたでござる。拙者もう涙が止まらんでござる。百合は世界を救うでござる」

 

「戦闘中に泣くな! 弓外れてるぞ!」

 

カオスだった。ボス戦の真っ最中に四人がわちゃわちゃと叫び合い、笑い合い、でも戦闘は続いている。

 

竜が最終フェーズに入った。全身が光り始め、フィールドに氷柱が降り注ぐ。

 

「集中! ラストスパートや!」

 

ハゲニキが号令をかけた。四人の動きが引き締まる。

 

氷柱を避け、ブレスを躱し、カウンターを叩き込み、回復を受けて、また前に出る。

 

ラスト一撃。真冬の双剣が竜の胸を貫いた。

 

「CONQUEST」。

 

「勝ったあああ!」

 

「ファーストクリアでござるかこれ!?」

 

『【サーバー告知】ダンジョン「凍結の回廊」のファーストクリアが達成されました! 達成者:ギルド「ひだまりの苗床」おめでとうございます!』

 

またか。

 

全体チャットが湧く。「ひだまりの苗床」の名前がまた全サーバーに響き渡る。

 

でも——今夜はそのことをあまり気にしなかった。

 

「ファーストクリア記念のスクショ撮ろう! みんな並んで!」

 

ひよりの提案で、ダンジョンのボス部屋でスクリーンショットを撮った。倒れた氷の竜を背景に、四人のキャラクターが並んで立っている。白い髪のエルフ。桜色の髪のヒーラー。スキンヘッドの巨漢。さらに大きな巨漢。

 

真冬のキャラクターに笑顔のエモートを入れた。白い髪のエルフが、ふわりと微笑む。

 

「あ。まっしろさんのキャラ笑った」

 

「笑わせた」

 

「珍しいでござるな。まっしろさんのキャラが笑うの、CBTの焚き火のとき以来でござるか?」

 

「うん。あのとき以来」

 

「あのときも笑ってくれたよね。焚き火のときも。嬉しかったなあ」

 

ひよりの声が柔らかい。

 

「……あのときから、好きだったかも」

 

「えっ。CBTから? そんなに前から?」

 

「たぶん。気づいたのはもっと後だけど」

 

「真冬ちゃん……」

 

「VCでイチャイチャすんな! パーティチャットやぞここ!」

 

「兄さんうるさい!」

 

「拙者の発言を引用させてもらうでござる。百合は世界を救うでござる」

 

「一生言ってろ」

 

笑い声がVCに満ちた。

 

VCを終えたのは深夜十二時だった。

 

ハゲニキとピザデブが落ちた後、ひよりと二人で少しだけ残った。

 

「今日は——長い一日だったね」

 

「うん。長くて、幸せな一日だった」

 

「まだ終わってないよ? おやすみなさいの時間まで、もう少し」

 

「……もう少し」

 

沈黙。でも苦しくない。ヘッドセットの向こうに、ひよりがいる。同じ夜の中に。

 

「真冬ちゃん」

 

「なに」

 

「今度のオフ会は、二人で行こうね。デートしよう」

 

「……デート」

 

「デート。恋人だし。普通でしょ」

 

「普通かもしれないけど——」

 

「けど?」

 

「——すごく楽しみ」

 

ひよりが笑った。あの笑い声。

 

「私も。すごく楽しみ。真冬ちゃんと手を繋いで歩きたい。白い髪を横で見ていたい」

 

「……恥ずかしい」

 

「恥ずかしがってる真冬ちゃんもかわいい」

 

「かわいくない」

 

「かわいい」

 

「……少しだけ嬉しい」

 

「ほら。素直じゃん」

 

「素直になる練習の成果です」

 

「満点だよ。今日ずっと満点」

 

沈黙。

 

「おやすみなさい、ひより」

 

「おやすみなさい、真冬ちゃん」

 

「……大好き」

 

「大好き。括弧なし」

 

「うん。括弧なし」

 

VCが切れた。ヘッドセットを外す。静かな部屋。暖房の音。時計の秒針。やまびこの寝息。

 

真冬は椅子の背もたれに体を預けて、天井を見上げた。

 

二月が終わる。明日から三月。春が来る。本当の春。桜が咲く季節。ひよりの好きな季節。

 

白い髪に桜色のリボン。白い毛先に桜色のグラデーション。白と桜。冬と春。

 

画面の向こうで出会った人が、画面のこちら側に来てくれた。手を繋いでくれた。「好き」と言ってくれた。

 

もう画面の向こうだけの人ではない。

 

真冬はデスクの上に置いたスマートフォンを手に取り、SNSを開いた。

 

投稿画面を開く。何かを書こうとして——やめた。この幸せは、誰かに報告するものじゃない。自分の中に持っていればいい。自分と、ひよりと、ハゲニキと、ピザデブと、やまびこだけが知っていればいい。

 

代わりに、今日撮ったスクリーンショットをアイコンに設定した。

 

噴水広場で並んで立つ二人のキャラクター。白い髪のエルフと、桜色の髪のヒーラー。二人とも笑顔のエモートを入れている。

 

白い髪のエルフが笑っている。画面の向こうで——いや、画面のこちら側で。

 

真冬はやまびこのケージの前に行き、しゃがみ込んだ。灰色の鳥は丸くなって眠っている。規則的な寝息。

 

「やまびこ」

 

声をかけたが、返事はなかった。ぐっすり眠っている。

 

「——おやすみ。明日も、いい日になるよ」

 

立ち上がり、寝支度を済ませた。歯を磨き、スキンケアをし、髪にナイトキャップを被る。

 

ベッドに入って、枕に頭を沈めた。

 

目を閉じる。

 

瞼の裏に浮かぶのは、ゲームの花畑ではなかった。カフェの個室。隣に座るひよりの横顔。指先に触れた体温。桜色のリボンに触れる手。涙を溜めた大きな目。鼻に皺が寄る笑い方。

 

「大好きだよ。括弧なしで」

 

その声が、耳の奥でずっと響いている。

 

真冬は布団の中で、自分の白い髪を一房つまんだ。さらさらと指の間を流れる、手入れの行き届いた白い髪。

 

好きだ。自分の白い髪が好きだ。ずっと好きだった。これからもずっと。

 

でも今は——桜色のリボンがない髪が、少しだけ寂しかった。

 

明日の朝、また結ぼう。毎日結ぼう。ひよりの色を。

 

笑った。枕に顔を埋めて、声を殺して笑った。幸せすぎて笑いが止まらない。こんな夜は初めてだった。

 

白い髪のエルフは、画面の向こうで笑わない。

 

でも——画面のこちら側にいる白い髪の少女は、今、笑っている。

 

ひとりじゃない夜に。

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