まっしろさんは甘えたい ~“白い悪魔”と呼ばれた少女は、新作ゲームで恋にログインする。~   作:合歓木あやめ

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後日談「New Game+」

三月の朝は、二月とは空気が違う。

 

冷たさの底に仄かな緩みがあって、吸い込む息が肺をちくちく刺すあの感覚が薄れている。窓から差し込む光も角度を変えて、部屋の奥まで届くようになった。

 

真冬はベッドの中で目を開けた。六時二十分。アラームが鳴る十分前。

 

スマートフォンを確認する。ひよりからのDM。タイムスタンプは午前零時十四分。

 

『おやすみなさい、真冬ちゃん。明日も仕事がんばる  仕事がんばった自分へのご褒美は夜のVCです。真冬ちゃんの声が一日のご褒美。これ前にも言った気がするけどもう一回言う。大好き☺ 』

 

毎晩のDM。オフ会——あの日から十日ほど経つが、ひよりは毎晩おやすみのメッセージを送ってくる。そして真冬は毎朝それに返信するのが日課になった。

 

『おはよう。仕事がんばってね。声がご褒美って言われると、夜のVC緊張する。……大好き』

 

送信。括弧なし。もう括弧は要らない。

 

布団を出て、洗面所へ。顔を洗う。化粧水。日焼け止め。鏡の中の赤い瞳は、よく眠れた朝特有の透明感がある。

 

髪にブラシを通す。今日の髪型を考える。

 

月曜日。講義が二つ。春休み前の最後の週だ。がんばる日のツインテール——にしようかと思ったが、最近ツインテールの頻度が高い。たまには変えよう。

 

フレンチブレイド。後頭部で二本の編み込みを作り、毛先を内側に折り込んで留める。すっきりしたスタイルで、活動的な印象。編み込みの始点に桜色のリボンをひとつ。

 

鏡を見て、うん、と頷く。

 

やまびこのケージの遮光カバーを外す。灰色の鳥がもぞりと動いて、こちらを見上げた。

 

「おはよう、やまびこ」

 

「オハヨ」

 

「今日は月曜日だよ」

 

「ゲツヨウビ」

 

「そう。あと四日で春休み」

 

「ハルヤスミ」

 

餌と水を替え、おやつのヒマワリの種を一粒。やまびこは受け取って殻を剥きながら、真冬の指先を軽く甘噛みした。朝の挨拶。

 

朝食はトーストと目玉焼きとコーンスープ。最近、朝食の品数が一品増えた。理由は、ひよりに「ちゃんと食べてる?」と聞かれたからだ。聞かれてから意識するようになった。それまではトースト一枚で済ませていたのに。

 

食べながらスマートフォンを見ると、ひよりから返信が来ていた。

 

『おはよう! 今日もかわいいね(見えないけど確信)✨ VCで緊張しないでいいよ、いつも通りで。いつも通りの真冬ちゃんが一番好きだから☺ いってきます! 』

 

いつも通りの真冬ちゃんが一番好き。

 

白い頬が朝から赤い。トーストを齧る手が止まる。目玉焼きの黄身を見つめたまま数秒固まって、それから深呼吸して食事を再開した。

 

「ヒヨリン」

 

やまびこがケージの中から言った。

 

「……なんで今そのタイミングで言うの」

 

「ヒヨリン」

 

「はいはい」

 

大学への自転車通学。十五分の道のり。空が青い。梅が咲いている家の前を通過するとき、甘い匂いがした。あと少しで桜の季節だ。

 

一限の教室。窓際の後ろの席。白い髪は相変わらず目立つが、入学から二年近く経った今、クラスメイトの視線は慣れきっている。たまに「今日の髪型いいね」と声をかけてくる女子がいるくらいだ。

 

今日の講義は近代イギリス文学——ブロンテ姉妹について。教授が『嵐が丘』の構造を解説する。入れ子構造の語り。複数の視点が重なり合い、真実が浮かび上がる。

 

ノートを取りながら、ふと考えた。

 

自分とひよりの関係も、最初はテキストの文字だけだった。それが声になり、表情になり、体温になった。一つの媒体だけでは伝わらないものが、媒体を重ねることで少しずつ見えてくる。

 

ノートの端にエルフの耳を描きかけて、やめた。代わりに小さな桜の花弁を描いた。

 

二限が終わり、学食で昼食を取る。日替わり定食。食べながら、SNSを開いた。

 

ひよりのアカウントに投稿が上がっていた。昼休みに更新したらしい。

 

『ひよりん @hiyorin_games

お昼のお弁当。今日は桜でんぶのおにぎりと卵焼きと唐揚げ。お弁当作りのモチベが最近すごい。理由は秘密です(秘密でもなんでもないけど)  』

 

添付された写真には、丁寧に作られた弁当が映っている。桜でんぶのおにぎりが、ピンク色で可愛らしい。

 

真冬は写真を見つめた。桜でんぶ。桜色。

 

——「理由は秘密です」の括弧書きが、自分のことだと思うのは自意識過剰だろうか。

 

いや、そうだ。たぶんそうだ。ひよりは料理のモチベーションが上がっている理由を「秘密」と言いながら隠す気がない。こういう匂わせをさらりとやるのがこの人だ。

 

いいねを押した。

 

午後の講義はなく、図書館で課題の文献を読んだ。春休み前に提出するレポートが一つ。テーマは自由だったので、「手紙と電子メッセージにおける親密性の構築」を選んでいた。オースティンの書簡体小説と、現代のSNSやチャットツールを通じた人間関係の形成を比較する——という内容。

 

指導教授に仮題を提出したとき、「個人的な体験が反映されていますか」と聞かれた。図星だった。

 

文献を読みながら、自分とひよりのやり取りを思い返していた。テキスト。音声。対面。媒体が変わるたびに、関係の質が変化した。文字では慎重に選べた言葉が、声では不意に漏れた。対面では——指先が触れた。

 

学術的に整理しようとすると、生々しい記憶が邪魔をする。ひよりの声。ひよりの笑い方。ひよりの手の温かさ。

 

集中できない。図書館を出た。

 

帰宅。三時半。やまびこの世話をして、髪を下ろしてブラシを通す。フレンチブレイドの編み込みを丁寧にほどき、桜色のリボンを外す。リボンをデスクの定位置に置く。

 

部屋着に着替え、椅子に座って、何をするでもなくモニターを眺めた。PHANTASM GARDENのランチャーが表示されている。今日はまだログインしていない。

 

VCまで時間がある。夜九時。あと五時間半。

 

スマートフォンが鳴った。DMではなく、着信通知。電話。

 

——ひよりからの電話。

 

初めてだ。今までDMかVCでしかやり取りしていない。電話番号は交換していた。オフ会の前日に、緊急連絡用として。でも実際にかかってきたのは初めてだった。

 

手が震える。出る。

 

「もしもし」

 

「あ、真冬ちゃん? ごめんね急に。今大丈夫?」

 

ひよりの声だ。ヘッドセット越しではなく、スマートフォンのスピーカーから聞こえる声。微妙に音質が違う。でも紛れもなくひよりの声。

 

「大丈夫。……どうしたの?」

 

「あのね、今日仕事早く終わって。……会いたくなっちゃって」

 

真冬の心臓が跳ねた。

 

「今から?」

 

「あ、いやいや! 急に押しかけるつもりじゃなくて! 電話で声聞ければいいかなって……。迷惑だった?」

 

「迷惑じゃない。全然」

 

「よかった。……えへへ。声聞けた」

 

電話越しのひよりの笑い声。少し照れている。いつもの快活さにくすぐったさが混じっている。

 

「今どこ?」

 

「家。帰ってきたとこ」

 

「お疲れさま」

 

「ありがとう。真冬ちゃんは? 大学終わった?」

 

「うん。家にいる。やまびこと」

 

「やまびこちゃん! 元気?」

 

やまびこが肩の上から「ゲンキ」と言った。スマートフォンのマイクが拾って、ひよりに聞こえたらしい。

 

「あはは! 聞こえた! やまびこちゃんこんにちは!」

 

「コンニチハ」

 

「ちゃんと答えてくれる……! かわいい……!」

 

ひよりとやまびこの会話を仲介するような形で、しばらく電話が続いた。やまびこがひよりの笑い声を聞いて興奮したのか、いつもより多弁になっている。

 

「やまびこ、落ち着いて」

 

「ヒヨリン」

 

「呼ばれた! やまびこちゃんに名前覚えてもらってるの嬉しい……」

 

「ひよりの声、よくVCで聞こえてたから。記憶したんだと思う」

 

「音で覚えてるんだね。頭いい子だなあ」

 

やまびこが満足したのか、肩から降りてケージに戻っていった。ヒマワリの種を催促する仕草。一粒渡す。

 

電話はそのまま三十分ほど続いた。特に大事な用件があったわけではない。仕事の話。同僚がくれたお菓子の話。最寄り駅の近くに新しいパン屋ができた話。真冬は聞きながら相槌を打ち、時折短い返答をした。

 

「真冬ちゃんって電話だと余計にクーデレだね」

 

「……普通にしてるだけ」

 

「その普通がクーデレなんだって言ってるの」

 

「ひよりがクーデレ好きなだけでしょ」

 

「否定しないけど」

 

「しないんだ」

 

「だって好きだもん。真冬ちゃんのクーデレ」

 

真冬はスマートフォンを持つ手と反対の手で、自分の頬を押さえた。熱い。電話越しだから見えないのが救いだ。

 

「あのね、真冬ちゃん。週末、会えない?」

 

「今週の?」

 

「うん。土曜日。前みたいにカフェでもいいし、どこか行きたいとこあったら合わせるよ」

 

「行きたいところ」

 

少し考えた。

 

「……水族館」

 

「水族館! いいね! 何かきっかけがあるの?」

 

「暗い場所が好き。日差しが強くないから」

 

ひよりが一瞬黙った。真冬の言葉の裏にある理由を、察したのだろう。

 

「——うん。行こう。暗くてきれいなところ、いいよね。真冬ちゃんの髪、水の光に映えそう」

 

理由を詮索せず、ポジティブに返してくれる。いつものひより。

 

「じゃあ土曜日。楽しみ」

 

「楽しみにしてる! ……あ、もうこんな時間。夜のVCまでにごはん作らなきゃ。切るね」

 

「うん。おつかれさま」

 

「ありがとう。じゃあまた夜に。——好き」

 

「……好き」

 

電話が切れた。

 

真冬はスマートフォンを耳に当てたまま、しばらく動かなかった。通話終了の画面を見つめている。通話時間:34分18秒。

 

三十四分。あっという間だった。

 

土曜日。

 

水族館の最寄り駅で待ち合わせた。改札前。午前十一時。

 

真冬は十分前に着いた。今日の髪型はシニヨン——低い位置でまとめたお団子。うなじが出る上品なスタイル。お団子の根元に桜色のリボンを巻いた。

 

服はダークネイビーのワンピース。膝下丈。長袖。UVカットのカーディガンはライトグレー。ローファー。小さなショルダーバッグ。

 

改札の前で人の流れを見つめていると、向こう側から小走りで近づいてくる影が見えた。

 

ひよりだった。

 

白いブラウスに、淡いラベンダー色のスカート。肩にかかる黒髪が、走る勢いで揺れている。頬が紅潮している。

 

「真冬ちゃん! お待たせ!」

 

「早いよ。まだ五分前」

 

「真冬ちゃんの方が早いじゃん」

 

「十分前に着いた」

 

「勝てない……w」

 

ひよりが息を整えながら笑った。そして——真冬を上から下まで見て、ぱっと表情が明るくなった。

 

「今日の髪型もかわいい! シニヨンだ! リボンも桜色!」

 

「……うん。毎日つけてる」

 

「知ってる。でも毎回見たい。毎回嬉しいから」

 

真冬の手を取った。右手同士。指を絡める。前回のオフ会で繋いだときと同じ、恋人繋ぎ。

 

周囲の人の視線を感じる。女の子同士で手を繋いでいるのは、友達同士なら珍しくないが——指を絡めているのは、友達のそれとは少し違う。

 

でも真冬は手を引っ込めなかった。引っ込めたくなかった。

 

「行こう」

 

「うん」

 

水族館は品川にあった。大きな建物の中に入ると、照明が落ちた。外の日差しから解放されて、真冬の肩から力が抜けた。

 

「暗い」

 

「うん。いいね、落ち着く」

 

水槽の青い光が、通路を柔らかく照らしている。白い髪が青い光に染まって、水の中にいるような透明感を帯びた。

 

「わあ……」

 

ひよりが足を止めた。真冬を見ている。水槽の光を浴びた白い髪を。

 

「真冬ちゃんの髪、青く光ってる。きれい……」

 

「水の光だから」

 

「ううん、真冬ちゃんの髪だからきれいなの」

 

真冬は繋いだ手をぎゅっと握った。返事の代わり。

 

大水槽の前に立った。エイが悠然と泳ぎ、イワシの群れが銀色の帯を描いて渦巻いている。水の揺らめきが天井に映って、波紋のような光の模様を作っている。

 

「すごい……」

 

ひよりが口を開けて見上げている。大きな目に水槽の青が映り込んでいる。

 

真冬は水槽ではなく、ひよりの横顔を見ていた。光に照らされた頬。長い睫毛。半開きの唇。かわいい系の美人——その表現が、やはりぴたりと当てはまる。

 

「ひより」

 

「ん?」

 

「写真撮っていい?」

 

「え? 水槽の?」

 

「ひよりの」

 

ひよりの目が丸くなった。頬がみるみる赤くなる。

 

「えっ、私の……? い、いいけど……髪ちゃんとしてる? メイク崩れてない?」

 

「大丈夫。きれいだから」

 

「きれいって言われると余計に緊張するんだけど……!」

 

スマートフォンを取り出し、水槽をバックにひよりを撮った。青い光の中で、黒い髪と白いブラウスのコントラストが映える。

 

「見せて見せて」

 

画面を覗き込んできたひよりの顔が近い。肩が触れる。甘い匂いがする。

 

「……いい顔してる」

 

真冬が呟くと、ひよりが恥ずかしそうに目をそらした。

 

「私も撮る! 真冬ちゃんの番!」

 

ひよりのスマートフォンが向けられた。真冬は少し身構えたが、すぐに力を抜いた。撮られることに慣れる必要がある。この先、ひよりと一緒にいるなら。

 

「笑って」

 

「……笑ってるつもり」

 

「全然笑ってない。口角上がってない」

 

「上がってる」

 

「上がってないよ。——じゃあ、はい。やまびこ!」

 

「なんでやまびこ」

 

不意打ちのワードに、真冬の口元がわずかに緩んだ。その瞬間をひよりが撮った。

 

「撮れた! ……わあ。この写真、すごくいい」

 

画面を見せてもらう。水槽の青い光の前で、白い髪の少女がほんの少しだけ笑っている。口角が上がっているのかいないのか微妙なラインだが、目元が柔らかい。赤い瞳に水の光が映り込んで、宝石のように輝いている。

 

「真冬ちゃん。この写真、待ち受けにしていい?」

 

「……いいけど」

 

「やったー!」

 

ひよりが嬉しそうにスマートフォンを操作して、待ち受け画面に設定した。ロック画面を見せてくれた。水族館の青い光の中で微かに笑う、白い髪の少女。

 

「会社で開くたびにニヤニヤしちゃうかも」

 

「不審者じゃん」

 

「真冬ちゃんが可愛いのが悪い」

 

反論できない。

 

水族館を回りながら、二人は手を繋いだまま歩いた。クラゲの水槽の前では長い時間立ち止まった。半透明の傘がゆっくりと脈動して、色とりどりのライトに照らされている。

 

「クラゲって、流されてるだけに見えて、ちゃんと自分で動いてるんだよね」

 

ひよりが水槽に手を当てて言った。

 

「うん。拍動で水を押してる」

 

「流されてるように見えるけど、ちゃんと生きてる。……なんか、私みたいだなって思った」

 

「ひよりが?」

 

「会社では流れに合わせてるけど、ちゃんと自分の意志で動いてるつもり。……今日ここに来てるのも、真冬ちゃんと手を繋いでるのも、自分で決めたこと」

 

「……私も」

 

「うん。二匹のクラゲだね、私たち」

 

「クラゲ……」

 

「あ、ロマンチックじゃなかった? ごめんw」

 

「ロマンチックじゃないけど——嫌いじゃない。ひよりらしい」

 

ひよりが笑った。鼻に皺が寄る笑い方。

 

ペンギンのエリアでは、ひよりが興奮して真冬の腕を引っ張った。

 

「見て見て! あの子、歩き方よたよたしてる! かわいい……!」

 

「ひよりもよたよたしてる。引っ張らないで」

 

「真冬ちゃん小さいから引っ張りやすいんだもん」

 

「小さくない」

 

「小さいよ。私より低いし」

 

「……二センチしか違わない」

 

「二センチは大きい。優越感」

 

「なにそれ」

 

お土産コーナーで、ひよりがクラゲのぬいぐるみを手に取った。半透明の布地で作られた、手のひらサイズのぬいぐるみ。

 

「かわいい。買っちゃおうかな」

 

「買えばいい」

 

「真冬ちゃんは何か欲しいものある?」

 

水族館のグッズを見て回った。ペンギンのキーホルダー、イルカのメモ帳、サメの靴下。どれもピンとこない。

 

ふと、目に留まったものがあった。小さなガラスの置物。青い水の中に白い花が咲いているデザイン。球体のペーパーウェイトで、角度を変えると中の花が光を反射してきらめく。

 

手に取った。

 

「それ、きれいだね」

 

ひよりが覗き込んできた。

 

「水の中に花が咲いてる。——ファンガデの花園みたい」

 

「あ、ほんとだ。PHANTASM GARDEN。幻想の庭園。……真冬ちゃん、買うの?」

 

「二つ買う」

 

「二つ?」

 

「一つはひよりに」

 

ひよりの目が見開かれた。

 

「えっ——プレゼント?」

 

「お揃い。ひよりがよく使う言葉」

 

ひよりが唇を噛んだ。目が潤んでいる。

 

「……ずるい。また泣かせる気でしょ」

 

「泣かないで。ペーパーウェイトなんだから大げさな話じゃない」

 

「大げさだよ。すっごく嬉しいんだから」

 

二つ買った。店員がきれいに包んでくれた。一つをひよりに手渡すと、ひよりは両手で受け取って、大事そうに胸の前で抱えた。

 

「ありがとう、真冬ちゃん。宝物にする」

 

「机の上に置いて。仕事中に見て。ファンガデの花園を思い出して」

 

「……私たちが出会った場所だもんね」

 

うん、と頷いた。

 

水族館を出ると、午後二時を回っていた。空は薄曇り。日差しは弱い。

 

「お昼食べてない。お腹すいた」

 

ひよりが言った。真冬も同感だった。

 

近くのカフェに入った。今度は個室ではなく、オープンなテーブル席。窓際の二人掛け。向かい合って座った。

 

パスタとサラダを頼んだ。ひよりはカルボナーラ、真冬はペペロンチーノ。

 

料理が来るまでの間、ひよりが水族館で撮った写真を真冬に見せてくれた。真冬を撮った写真が十二枚。水槽やペンギンの写真が八枚。比率がおかしい。

 

「私の写真多くない?」

 

「だって被写体がいいんだもん」

 

「……水槽の方がきれいでしょ」

 

「真冬ちゃんの方がきれい。はい論破」

 

論破されてしまった。

 

パスタを食べながら、会話が弾んだ。ゲームの話もしたが、今日はリアルの話題が多い。ひよりの仕事の話。先輩がくれたお菓子がおいしかった話。後輩が入社して教育係を任された話。

 

「教育係って、ひよりっぽい」

 

「えー? そうかな」

 

「面倒見がいいから」

 

「そう言ってもらえると嬉しい。……でもね、実は最初は断ろうとしたの」

 

「なんで?」

 

「自分に人を教える能力があるのか不安で。でも上司に『東雲さんは共感力が高いから向いてる』って言われて。……共感力、かあ」

 

ひよりがフォークでカルボナーラを巻きながら、少し考え込む顔をした。

 

「私、人の気持ちが分かるんじゃなくて、人の気持ちが気になるだけなんだよね。放っておけないっていうか。困ってる人がいると、自分まで苦しくなっちゃう」

 

「それを共感力って言うんじゃないの」

 

「そうなのかな。でもそれって、自分のためでもあるんだよ。相手を助けて、相手が楽になったら、自分も楽になるっていう。……自己満足なのかもしれない」

 

「自己満足でも、助けられた方は嬉しい」

 

真冬はペペロンチーノを一口すすって、続けた。

 

「私がそうだったから。ひよりに助けられて、嬉しかった。自己満足でも、偽善でも、なんでもいい。結果、助かった。それだけで十分」

 

ひよりがフォークを止めて、真冬を見つめた。

 

「真冬ちゃん……」

 

「なに」

 

「今の、すごく嬉しい。……でもちょっと泣きそう」

 

「パスタ食べながら泣かないで」

 

「食べてる途中だった。危ない」

 

カルボナーラを頬張るひよりの目尻に、光るものがあったが、瞬きで消えた。

 

食後、コーヒーとココアを頼んで、もう少し話した。

 

「ねえ、真冬ちゃん」

 

「なに」

 

「春休み、何か予定ある?」

 

「特にない。やまびこの世話と、ゲームと、レポートと」

 

「じゃあさ。もっと会わない? 週に一回とか」

 

「週に一回……」

 

「多い? 迷惑?」

 

「多くない。……足りない、くらい」

 

ひよりの顔が一瞬固まり、それから花が咲くように笑った。

 

「足りないって言ってくれるの、反則だよ真冬ちゃん……。じゃあ週二回にする?」

 

「それは——ひよりの仕事が」

 

「土日両方は無理だけど、平日の夜に一回、週末に一回なら。仕事帰りにごはん食べるだけでも」

 

「……うん。それがいい」

 

「決まり!」

 

ひよりがにこにこしている。真冬も——たぶん、似たような顔をしている。自分では確認できないが、頬が緩んでいるのは分かる。

 

カフェを出て、駅まで歩いた。手を繋いで。

 

今日も乗り換え駅で別れる。改札の前で向かい合った。

 

「今日も楽しかった。水族館、また行きたい」

 

「うん。また行こう」

 

「クラゲのぬいぐるみ、ベッドの横に置くね」

 

「ペーパーウェイトは机の上に」

 

「もちろん。毎日見る」

 

沈黙。人が行き交う改札前。

 

「真冬ちゃん」

 

「なに」

 

「今度——うちに来ない?」

 

不意打ちだった。

 

「……うち?」

 

「私の家。ごはん作ってあげたい。……あと、やまびこちゃんにも会いたい。真冬ちゃんの家にも行ってみたいし。……あ、順番逆か。まず真冬ちゃんの家に行って、やまびこちゃんに会って、それから私の家にも——」

 

ひよりが早口になっている。緊張しているのだ。家に招く——あるいは招かれる——ということの意味を、分かっていて提案している。

 

「——来て」

 

真冬が言った。

 

「え?」

 

「私の家に来て。やまびこに会って。……ごはんは、私が作る」

 

「真冬ちゃんが? 作ってくれるの?」

 

「簡単なものしかできないけど。……ひよりに食べてほしい」

 

ひよりの目がうるうると潤んだ。今日何度目だろう。この人は本当に涙腺が緩い。

 

「行く。絶対行く。いつ?」

 

「来週の土曜日」

 

「来週の土曜日。了解。……楽しみすぎて今から眠れないかも」

 

「まだ夕方だよ」

 

「比喩だよw でも本気で楽しみ」

 

改札でひよりを見送った。今度は見えなくなる前に、ひよりが振り返って手を振った。真冬も手を振り返した。小さく。控えめに。でも確実に。

 

家に帰ると、やまびこが「オカエリ」と迎えてくれた。

 

肩に乗せて、デスクの前に座る。今日買ったペーパーウェイトを箱から出した。ガラスの球体を手のひらに乗せる。中の白い花が、部屋の照明を受けてきらめいた。

 

デスクの上に置いた。モニターの横。ゲームをしているとき、ふと横を見れば目に入る位置。

 

やまびこがペーパーウェイトに興味を示して、嘴で突こうとした。

 

「だめ。ガラスだから」

 

「ダメ」

 

「そう。だめ」

 

やまびこは諦めて、代わりに真冬の耳たぶを甘噛みした。

 

夜のVCは九時から。四人全員参加。

 

ログインして、噴水広場で集合。ギルド「ひだまりの苗床」の四人が並ぶ。

 

今夜は新しいフィールドの探索に出かけた。ストーリーの進行で解放された「月光の渓谷」——銀色の月光が降り注ぐ岩場のフィールドで、渓流沿いに蛍のような光の粒子が漂っている。

 

「きれい……」

 

ひよりの声。感嘆。

 

「ほんまやな。ファンガデはどこ行っても景色がええわ」

 

「スクショタイムでござるな! 並びましょう!」

 

四人で並んでスクリーンショットを撮った。月光の下に立つ四つのシルエット。

 

「まっしろさん、今日のリアルデートどうだったん?」

 

ハゲニキが聞いた。全く遠慮がない。

 

「……水族館に行った」

 

「おお ロマンチックやん!」

 

「水族館いいでござるな。暗いところでイチャイチャするには最適でござる」

 

「イチャイチャしてない」

 

「嘘やな。手は繋いだやろ」

 

「…………繋いだ」

 

「知ってた」

 

「なんで知ってるの」

 

「ひよりが帰ってすぐワイにLINEしてきたからや。『手繋いだ! 嬉しい! 死ぬ!』って」

 

「兄さんそれバラさないでよ!」

 

「お前が送ってくるから悪いんやろ」

 

「だって報告したかったんだもん……」

 

VCに笑い声が満ちた。真冬も——笑った。声に出して。もう隠さない。

 

「まっしろさん笑っとるやんけ。珍しくもなくなってきたな」

 

「珍しくないよ。最近よく笑う」

 

「ええこっちゃ」

 

「ひよりんのおかげでござるな。まっしろさんが笑うようになったのは」

 

「……うん。ひよりのおかげ」

 

「真冬ちゃん……」

 

「VCでイチャつくな言うとるやろ」

 

「兄さんが振ったんでしょ!」

 

VCの後、二人きりの時間。ハゲニキとピザデブが落ちてから、三十分だけ残る。これも最近の習慣になりつつあった。

 

「今日は本当に楽しかった。ペーパーウェイト、今机の上に置いてるよ。きれい」

 

「よかった」

 

「来週土曜日、真冬ちゃんの家に行くの楽しみすぎて、もう来週のことしか考えてない」

 

「まだ一週間あるよ」

 

「長い……。長い冬だ……」

 

「一週間で冬って言わないで」

 

ひよりが笑った。

 

「何作ってくれるの? ごはん」

 

「考えてる。何が好き?」

 

「なんでも好き! 真冬ちゃんが作ってくれるなら何でもおいしい」

 

「ハードル上げないで」

 

「上げてないよ。事実を言ってるだけ」

 

「食べてもないのに事実もなにも」

 

「じゃあ食べたら事実になるね。来週」

 

「……うん。来週」

 

沈黙。心地いい沈黙。

 

「おやすみなさい、真冬ちゃん」

 

「おやすみなさい、ひより」

 

「大好き」

 

「大好き」

 

VCが切れた。静かな部屋。暖房の音。やまびこの寝息。

 

デスクの上のペーパーウェイトが、モニターの残光を受けて微かに光っていた。

 

翌週。金曜日。

 

真冬は一日中そわそわしていた。明日、ひよりが家に来る。自分の部屋に。やまびこに会う。ごはんを食べる。

 

部屋の掃除を徹底した。床を拭き、棚の埃を取り、窓を拭き、トイレと浴室を磨いた。やまびこのケージ周りも念入りに。

 

「やまびこ、明日お客さんが来るよ」

 

「オキャクサン」

 

「ひよりだよ」

 

「ヒヨリン」

 

「そう。だから、いい子にしてね。噛んじゃだめだよ」

 

「カマナイ」

 

約束してくれたが、信用度は五割くらいだ。ヨウムは気分屋だから。

 

買い物に行った。明日の献立は考え抜いた結果、鮭のホイル焼きに決めた。簡単で失敗しにくく、見栄えも悪くない。付け合わせにほうれん草のおひたしと、味噌汁。白米。デザートに——ひよりが好きだと言っていたプリンを、手作りしようか迷って、結局コンビニの少しいいプリンを買った。手作りで失敗するリスクを取るよりも、確実においしいものを出したい。

 

夜、VCの後に二人きりの時間。

 

「明日の準備してる?」

 

「した。部屋も掃除した。やまびこにもいい子にしてって言った」

 

「やまびこちゃん噛む?」

 

「知らない人には噛むことがある。でも、ひよりの声は知ってるから大丈夫だと思う」

 

「声で判別するんだ。すごいなヨウムって」

 

「頭がいい鳥だから。言葉も覚えるし、人の感情も読む」

 

「へえ……楽しみ。ドキドキする。真冬ちゃんの家……真冬ちゃんの部屋……」

 

「普通のワンルームだよ」

 

「普通のワンルームでも、真冬ちゃんが住んでたら特別な場所でしょ」

 

「……それは」

 

反論できない。

 

土曜日。午前十一時。

 

インターホンが鳴った。

 

真冬は深呼吸をして、インターホンのモニターを確認した。ひよりの顔が映っている。画質は粗いが、笑っているのが分かる。

 

玄関のドアを開けた。

 

「おじゃまします! ……あ、真冬ちゃん。今日の髪型は?」

 

「お団子。……桜色のリボンつき」

 

「毎回ありがとう。嬉しい」

 

ひよりが靴を脱いで上がった。薄いラベンダー色のニットに、ジーンズ。カジュアルなスタイル。小さな紙袋を持っている。

 

「これ、手土産。シュークリーム。真冬ちゃんシュークリーム好きって言ってたから」

 

「……言ったっけ」

 

「VCで。甘いものの話になったとき、シュークリームだけちょっと声のトーン上がったの」

 

声のトーンで判別されている。おそるべし共感力。

 

「ありがとう。冷蔵庫入れるね」

 

部屋に案内した。ワンルーム。決して広くはないが、きちんと片付いている。白い髪の持ち主らしく、部屋全体が清潔感に満ちている。

 

ひよりが部屋を見回した。

 

「きれい……。真冬ちゃんらしいお部屋。すっきりしてて、でも温かい感じ」

 

デスクの上のペーパーウェイトに気づいたらしく、ひよりの目が輝いた。

 

「あ、置いてくれてる! 水族館の!」

 

「モニターの横。ゲームしてるときに見えるように」

 

「わあ……嬉しい。私も会社の机に置いてるんだよ。先輩に『きれいだね、それ』って言われた」

 

「なんて答えたの」

 

「『彼女にもらいました』って」

 

真冬が固まった。

 

「……会社で、言ったの」

 

「言った。だめだった?」

 

「だめじゃない。……びっくりした」

 

「先輩も びっくりしてたw でも『いいじゃん、大事にしなよ』って言ってくれた。いい先輩なの」

 

真冬は自分の頬に手を当てた。熱い。彼女、と。会社の人に。

 

「あ、あとね。別の同僚には『恋人がいるんですか?』って聞かれて、『はい、めっちゃかわいいです』って答えた」

 

「ひより」

 

「なに?」

 

「情報漏洩しすぎ」

 

「えー。自慢したいんだもん」

 

ケージの方から声が聞こえた。

 

「ヒヨリン」

 

ひよりが弾かれたように振り返った。ケージの中で、灰色のヨウムがこちらを見ている。赤い尾羽。丸い目。首をかしげるポーズ。

 

「やまびこちゃん……! 本物……! かわいい……!」

 

ひよりがケージの前にしゃがみ込んだ。やまびこは首を伸ばしてひよりの顔を観察している。

 

「こんにちは、やまびこちゃん。ひよりです。覚えてる?」

 

「ヒヨリン」

 

「覚えてる! すごい! ……触っていい? 真冬ちゃん」

 

「大丈夫だと思う。指を出してみて。噛まれたらすぐ引いて」

 

ひよりが恐る恐る指先をケージの格子に近づけた。やまびこは嘴を寄せて——匂いを嗅ぐように——それからゆっくりと、ひよりの指先に頭を擦りつけた。

 

「! 擦りつけてくれた……!」

 

「受け入れてる。すごい。やまびこが初対面で甘えるの、珍しい」

 

「声を知ってるからかな」

 

「たぶん。あと——私が好きな人だから、分かるのかも」

 

さらりと言ってから、自分で恥ずかしくなった。

 

「真冬ちゃん……今のめっちゃ甘えん坊発言だったよ……」

 

「……自覚はある」

 

やまびこがケージの扉を嘴で突いた。出たい、のサイン。

 

「出していい? 噛まないなら」

 

扉を開けた。やまびこは——真冬の肩ではなく、ひよりの肩に飛んだ。

 

「わっ!」

 

ひよりが驚いて体を固くした。やまびこはひよりの肩の上でバランスを取り、それから——ひよりの頬に嘴を擦りつけた。

 

「やまびこちゃん……やまびこちゃあん……かわいい……」

 

ひよりの目から涙がこぼれた。今日も泣いている。この人は本当に涙もろい。

 

「真冬ちゃんの大事な家族に受け入れてもらえた……嬉しい……」

 

「やまびこ。ひよりの肩占領しないで。ごはん作るから」

 

「ゴハン」

 

やまびこが真冬の方を向いた。ごはんという単語に反応する食いしん坊。

 

「やまびこのごはんじゃないよ。ひよりのごはん」

 

真冬はキッチンに立った。鮭のホイル焼きの準備をしながら、リビングスペースではひよりがやまびこと戯れている。やまびこがひよりの膝の上に乗り、ひよりがおっかなびっくり頭を撫でている声が聞こえる。

 

「真冬ちゃん、やまびこちゃんってどのくらい言葉覚えるの?」

 

「百語くらいは覚えてる。よく使うのは二十くらいだけど」

 

「なんか教えたい。新しい言葉」

 

「何を?」

 

「えっと……『大好き』は?」

 

「知ってるよ。やまびこ、大好きは?」

 

「ダイスキ」

 

やまびこが即答した。

 

「すでに覚えてるの!? 真冬ちゃんが教えたの?」

 

「……最近よく使うから」

 

誰に対して使っているかは言わなかった。言わなくても伝わった。

 

ホイル焼きが出来上がった。アルミホイルを開くと、バターの香りが湯気と一緒に立ち上る。ほうれん草のおひたしと味噌汁をテーブルに並べた。

 

「わあ、おいしそう! 鮭のホイル焼きだ!」

 

「簡単なものしかできなくてごめん」

 

「何言ってるの。手作りだよ? 私のために作ってくれたんだよ? それだけでごちそうだよ」

 

いただきます、と手を合わせて、一口。

 

ひよりの目が丸くなった。

 

「おいしい……! え、これ簡単なの? バターの加減がちょうどいい……。鮭ふわふわ……」

 

「本当に簡単だよ。ホイルに包んで焼くだけ」

 

「味付けが上手いんだよきっと。ほうれん草のおひたしもおいしい。出汁がちゃんとしてる」

 

「白だしだけど」

 

「白だしで十分おいしいじゃん。……真冬ちゃん、料理上手だね」

 

「得意じゃないけど、丁寧にやるのは好き」

 

「丁寧さが味に出てる。髪の手入れと同じだね。丁寧な人なんだ、真冬ちゃんは」

 

ひよりが幸せそうに食べている姿を見ているだけで、真冬の胸が温かくなった。自分の作ったものを、おいしそうに食べてくれる人がいる。それがこんなに嬉しいことだとは知らなかった。

 

食後、コンビニのプリンとひよりが持ってきたシュークリームを食べた。やまびこにはヒマワリの種を追加で二粒。

 

「もうやまびこちゃん懐きすぎじゃない? さっきから私の膝から降りないんだけど」

 

「ひよりのこと気に入ったんだよ。やまびこは好き嫌いがはっきりしてるから、好きな人にはとことん甘える」

 

「飼い主に似てるね」

 

「……何が」

 

「好きな人にとことん甘えるところ」

 

否定できなかった。

 

午後、二人でソファ——というかベッドの端——に並んで座った。真冬のワンルームにはソファがない。ベッドの縁に並んで腰掛け、壁に背を預ける形。

 

やまびこはケージに戻って昼寝を始めた。ひよりの膝からなかなか降りなかったが、眠くなったらしく自分でケージに帰っていった。

 

二人きり。静かな午後。窓の外から薄い日差しが入っている。カーテン越しの柔らかい光。

 

ひよりの肩が、真冬の肩に触れている。

 

「ねえ、真冬ちゃん」

 

「なに」

 

「甘えん坊なんでしょ」

 

「……自覚はある」

 

「じゃあ、甘えて」

 

真冬の心臓が跳ねた。

 

「……ここで?」

 

「ここで。二人だし。やまびこちゃんも寝てるし」

 

真冬は横目でひよりを見た。ひよりはまっすぐ前を見ている。耳が赤い。自分で言っておいて恥ずかしいのだ。

 

数秒迷って——真冬は、ひよりの肩に頭を預けた。

 

白い髪がひよりの腕の上に広がった。ひよりが息を呑む音が聞こえた。

 

「……重くない?」

 

「全然。軽い。真冬ちゃん軽すぎ」

 

「体重の話はしないで」

 

「しないよ。……うん。このまま、少し」

 

沈黙。時計の秒針。やまびこの寝息。ひよりの呼吸。

 

ひよりの手が、真冬の髪に触れた。さらりと撫でる。白い髪を指先で梳く。

 

「きれいだなあ、この髪」

 

「……ありがとう」

 

「毎日手入れしてるんだもんね。だからこんなにさらさらなんだ」

 

「うん。髪は——私の誇りだから」

 

「うん。真冬ちゃんの誇り。大事にしてるの、知ってるよ」

 

ひよりの指が、編み込みの根元に結ばれた桜色のリボンに触れた。

 

「私の色」

 

「うん。ひよりの色」

 

「このリボンを毎日つけてくれてるのが、どれだけ嬉しいか分かる?」

 

「分からない。教えて」

 

ひよりが少し考えた。

 

「心臓が変な動きする。お腹の底がきゅってなる。目の奥が熱くなる。——全部同時に」

 

「それは——体調不良では」

 

「恋だよ! 恋!」

 

真冬の口元が緩んだ。ひよりの肩に頭を預けたまま、小さく笑った。

 

「……私もそう。ひよりの声を聞くと、全部同時にくる」

 

「真冬ちゃん……」

 

「あと、ひよりの匂いがすると。今も」

 

「に、匂い……? 変な匂いしてない?」

 

「いい匂い。甘い。柔軟剤?」

 

「柔軟剤と……ちょっとだけ香水。つけすぎてないか不安だったんだけど」

 

「ちょうどいい。好き」

 

ひよりの呼吸が乱れた。肩が微かに震えている。

 

「真冬ちゃん。クーデレじゃなくない? めちゃくちゃストレートなんだけど」

 

「素直になる練習の成果だから」

 

「成果出すぎだって毎回言ってるんだけど!」

 

二人して笑った。肩に頭を預けたまま。

 

しばらくそうしていた。五分か、十分か。静かで温かい時間。

 

「真冬ちゃん」

 

「ん」

 

「来月、桜咲くね」

 

「うん。三月の終わりか四月の頭」

 

「お花見したい。真冬ちゃんと」

 

「……日差しが強いとつらいから、曇りの日がいいけど」

 

「雨でもいいよ。真冬ちゃんと行くなら」

 

「雨だと桜見えないでしょ」

 

「見えなくてもいい。真冬ちゃんがいるから」

 

真冬はひよりの肩から頭を上げて、横顔を見た。ひよりがこちらを向いた。目が合った。

 

近い。

 

三十センチ。二十センチ。瞳の中に自分の顔が映っているのが見える。白い髪。赤い瞳。

 

「ひより」

 

「うん」

 

「……春が来たら、桜の下で写真撮ろう。二人で」

 

「うん。撮ろう」

 

「白い髪と、桜と」

 

「きれいだろうね。すごくきれい」

 

「……ひよりがいたら、もっときれい」

 

ひよりが目を閉じた。

 

何かを待っているように見えた。あるいは、何かを堪えているように。

 

真冬は——ひよりの頬に、そっと手を伸ばした。白い指先が、ひよりの頬に触れる。温かい。柔らかい。ほんの少し湿っている。さっき泣いたからだろう。

 

「泣いた跡がある」

 

「だって嬉しいんだもん……」

 

「もう泣かなくていい。隣にいるから」

 

ひよりがぎゅっと目を閉じて——それから開いて、笑った。涙は流れなかった。

 

夕方、ひよりを駅まで送った。

 

玄関で靴を履くひよりの後ろ姿を見ながら、真冬は「帰らないで」と言いたい衝動を必死で飲み込んでいた。甘えん坊の自覚はあるが、さすがにここまで甘えるのは重すぎる。

 

「今日はありがとう、真冬ちゃん。ごはんおいしかった。やまびこちゃんかわいかった。真冬ちゃんの部屋、居心地よかった」

 

「また来て」

 

「絶対来る。——次は私の家にも来てね」

 

「うん」

 

駅の改札前。いつもの別れの場所。

 

「おやすみなさい——じゃないや。まだ夕方だった。じゃあまた夜にVCで」

 

「うん。夜に」

 

手を振る。ひよりが改札の向こうに歩いていく。振り返って、手を振る。

 

真冬は手を振り返しながら、思った。

 

この人と出会ったのは、ゲームの中だった。チャットの文字から始まって、声になって、顔になって、手の温かさになった。今日は匂いを知った。頬の柔らかさを知った。涙の跡を指で触れた。

 

どこまで知れるのだろう。まだ知らないことがたくさんある。寝顔を知らない。朝起きたときの顔を知らない。怒った顔を知らない。風邪をひいたときの声を知らない。

 

全部知りたい。

 

全部知るには——時間がかかる。でも、時間ならある。春休み。春。夏。秋。冬。何年分でも。

 

家に帰った。

 

やまびこが起きていた。

 

「ヒヨリン?」

 

「帰ったよ。また来るよ」

 

「マタ?」

 

「また。何回でも」

 

やまびこが首をかしげた。

 

「ダイスキ」

 

「——うん。大好き」

 

やまびこに言ったのか、ひよりに言ったのか、自分でも分からなかった。

 

夜九時。VCに四人が集まった。

 

「今日はひよりんがまっしろさん家に行ったんやってな? やまびこちゃんどうやった?」

 

ハゲニキが聞いた。

 

「やまびこがひよりの膝から降りなかった」

 

「ファッ!? やまびこちゃんデレデレやんけ!」

 

「拙者もまっしろさん家に行ってやまびこちゃんに会いたいでござる……」

 

「お前が行ったらやまびこちゃんビビるわ。体デカすぎや」

 

「ひどいでござる……」

 

「やまびこちゃんね、すごく頭がいい子だった。私の声覚えてくれてて、最初から甘えてくれたの。……あと真冬ちゃんのごはんがめちゃくちゃおいしかった。鮭のホイル焼き。天才」

 

「天才はゲームだけやのうて料理もか。反則やろ」

 

「料理は天才じゃない。普通。丁寧にやっただけ」

 

「丁寧さが天才的でござるな」

 

「意味が分からない」

 

笑い声。

 

ゲームにログインした。今夜は新しく実装されたレイドコンテンツの下見に行く予定だった。八人レイドなので、ハゲニキが声をかけた「鉄壁騎士団」のメンバー四人と合同パーティを組む。

 

合流地点に向かう途中、パーティチャットにひよりからウィスパーが来た。

 

『ひよりん >> まっしろさん

今日の真冬ちゃん、すごく可愛かった。甘えてくれたの嬉しかった。やまびこちゃんにも認めてもらえた気がする。……来月のお花見、晴れますように 

 

あと、ゲーム内のキャラの毛先の桜色、今日改めて見たよ。きれいだった。リアルのリボンと、ゲームの毛先と。二つの世界で、私の色を持っていてくれる人。

 

大好き。括弧永久追放 ✨』

 

括弧永久追放。

 

真冬は画面の前で、声を殺して笑った。

 

『まっしろさん >> ひよりん

括弧永久追放、了解。もう二度と使わない。

 

大好き。ずっと隣にいて。二つの世界で。ゲームの中でも、ゲームの外でも。

 

——あと、来月のお花見、名前つけていい?』

 

『ひよりん >> まっしろさん

名前? お花見に? もちろん! まっしろさんのネーミングセンスに期待! 』

 

『まっしろさん >> ひよりん

「はるのまばたき」

 

桜って、咲いてる期間が短いでしょ。まばたきしてる間に散っちゃうくらい。でも、まばたきの間に見える景色が一番きれいだったりする。ひよりと見る桜は、きっとそういう瞬間になると思うから。』

 

返信が来るまで、三十秒ほどかかった。

 

『ひよりん >> まっしろさん

…………泣いてます(VCのマイクミュートにした)

 

真冬ちゃんのネーミングセンス独特すぎて天才すぎて好きすぎる。はるのまばたき。最高。一生忘れない。

 

早く春来て。早く桜咲いて。真冬ちゃんと見たい。白い髪に桜が降るの、見たい。

 

大好きです世界一 括弧禁止 以上です  ✨✨✨』

 

真冬はモニターの前で、桜色のリボンに手を触れた。

 

白い髪のエルフは、画面の向こうでは笑わなかった。

 

でも——画面のこちら側にいる白い髪の少女は、今日も笑っている。

 

隣に、桜色の人がいるから。

 

夜が更けて、VCが終わって、部屋が静かになった。

 

歯を磨き、スキンケアをし、髪にブラシを通して、ナイトキャップを被った。

 

ベッドに入る前に、デスクの上のペーパーウェイトに目をやった。ガラスの球体の中の白い花が、暗い部屋の中で微かに光っている。ひよりの家にも、同じものがある。

 

やまびこのケージの前に行った。灰色の鳥はもう眠っている。

 

「おやすみ、やまびこ」

 

返事はない。静かな寝息だけ。

 

ベッドに潜り込んだ。枕に頭を沈める。

 

スマートフォンを確認する。ひよりからの最後のDM。

 

『おやすみなさい、真冬ちゃん。今日は最高の一日だった。真冬ちゃんの部屋の匂い覚えた。真冬ちゃんのごはんの味覚えた。やまびこちゃんの体温覚えた。全部宝物。

 

明日も明後日もその先もずっと、真冬ちゃんの隣にいたい。ゲームの中でも外でも。

 

おやすみなさい。いい夢見てね。大好き☺ 』

 

真冬は返信を打った。

 

『おやすみなさい、ひより。今日来てくれてありがとう。やまびこもひよりのこと好きみたい。私と取り合いになるかもしれない。

 

明日からも隣にいてね。

 

大好き。括弧永久追放済み。——おやすみ。いい夢を』

 

送信。

 

スマートフォンを枕元に置いて、目を閉じた。

 

瞼の裏に浮かぶのは、桜の花弁——ではなく、ひよりの笑顔だった。鼻に皺が寄る笑い方。大きな目。涙の跡。「大好き」と言ってくれた声。

 

はるのまばたき。

 

まばたきの間に見える、一番きれいな瞬間。

 

真冬は布団の中で、自分の白い髪を一房つまんだ。さらさらの手触り。毎日の手入れの成果。自分の誇り。

 

この髪に、桜の花弁が降る日が来る。

 

もうすぐだ。

 

白い頬が、暗闇の中で赤く染まっていた。幸福の色だ。

 

誰にも見えない。でも——もう、誰にも見えなくていい。

 

ひよりが知っている。やまびこが知っている。ハゲニキが知っている。ピザデブが知っている。

 

ひとりじゃない。

 

目を閉じたまま、真冬は微笑んだ。

 

明日の髪型は何にしよう。

 

きっとまた、桜色のリボンをつける。

 

明日も、明後日も、その先も——ずっと。

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