本人にとっては取るに足らないことだろうし、どうにでもなることなのだろうけれど、しかしまあ、確かな面倒ごとに直面し、彼は足を取られざるを得なかった。
大勢が行き交う、賑やかな街の角の、寂れた雰囲気が漂う、小さな交番。
「
一人の中肉中背の警官が、下卑た視線を向けながら、彼に問う。
「だから、分かんねえとは思うんだけどさあ。ここら辺通るには交通費がいるわけよ」
もう一人の小太りな警官が、その脂ぎった顔に薄ら笑いを張り付けて、愉快そうに言った。
「姉ちゃん、払った?」
彼は首を振った。
「じゃあ、払ってもらわないとなあ?」
どうやら、期待したような展開になるらしく、二人は満足げに、ニヤリと口元を緩めながら、悪意に満ち満ちた表情を浮かべていた。
――言葉の端々に覗く黄色い歯と、粘り付くような声。
間違いなく、この空間を支配しているのは、正面の薄気味悪い警官二人と、そこから生じる不快感であるらしかった。
そして、隠しきれない色欲の滲む、その指先が、彼の方へと迫っていき――
「――ところで、ハリス・エドワーズさん」
後ろで一本に束ねた、赤く、艶やかで長い髪を揺らしながら、彼は唐突に問う。
「何故、俺の名前を……ってか、男か?」
中肉中背の警官は、顔に驚嘆の様子を浮かばせた。
「貴方の制服の袖には、汚れが目立ちます。最近はクリーニングを怠っていたからでしょうか」
「は?何だいきなり……」
呆然とする警官を、意に介していないように、間を開けず、
「そして頬や顎には、伸ばした無精ひげが見受けられますが、しかし肌が反り負けたような、赤い痕も少々確認できる。ここのところ、身だしなみに気を遣わなくなり、ひげを伸ばしたからでしょう」
自らの顎に手を添えながら、彼は一切の動揺を見せずに、続ける。
「そして何より、貴方の左手の薬指の付け根には、それを一周するような、小さな痕がしっかりと確認できる。すなわち、貴方はつい最近、離婚されたみたいだ」
『当たり』だ、と言わんばかりに、中肉中背の警官の肩が小さく跳ねた。
「し、しかし……だからと言って何なんだよ!」
警官は、自らの動揺を隠すかの如く、怒鳴るように問う。
「いえ、別に。奥さんに逃げられて悲しいし、その事実が貴方の恥部であることは分かりますが、しかし、最低限、分別ぐらいはつけましょうよ」
すると、彼は錆びたパイプ椅子からゆっくりと立ち上がった。
周囲の照明の強い光を、柔らかく跳ね返す、高密度なギャバジン生地。その一切の隙の無い仕立ての、優雅なトレンチコートが、彼の立ち姿を、より一層凛としたものとして、際立たせる。
「捕まえ、屁理屈を言って金を巻き上げ、挙句猥褻行為を働きたいのであれば、気弱そうな、いかにも最近街に出てきたと分かるような、生娘を捕まえなくては」
辺りをゆっくりと歩き周りながら、彼は言った。
「え、いや……い、いきなり何?」
警官二人は当惑せざるを得ない状況なのだけれども、しかし、淡々と彼は続ける。
「まあ、俺は確かに顔はアレですが、しかし、あまりにも短絡的すぎます。脅しにだって、食い逃げにだって、何にだって、頭を使うべきでしょうに」
「お、おう。確かに、そうか……」
いまだ、困惑を隠せない男を横目に、彼は、もう片方へと視線を移し、
「そして、ユーゴ・ゴーティエさん」
「つ、次はオレか……?」
すると、彼は腕を組んで、少し悩まし気に、首を傾げた後、
「後ろをご覧ください」
彼から見て正面にある、交番のガラス張りの扉から見える、通りを指さす。
すると警官たちは、その有無を言わせないような態度に、思わず、首を振り向かせた。
「外には、様々な人々が行き交っていますねえ。例えば家族連れや、老夫婦。一人で歩く人もいれば、大勢に紛れている人も。最近は特に冷え込んでいるというのに、どうやら街はまだまだ忙しないようです」
「そ、それで……俺は何だっていうんだ……?」
そう言うと、男はゆっくりと彼の方へと向き直る。その見開かれた瞳が、彼の表情から思惑を読み取ろうと彷徨う。しかしながら、シンプルな黒のサングラスの掛かった、その凪のように無表情の面持ちからでは、どうやら難しそうだった。
「多種多様に見えるが、しかし、共通点のある彼らと、貴方とを比べれば、すぐに分かりますよ」
「そ、それは一体……?」
少しの間に生じた静寂の中で、生唾を飲み込む音が確かに響いた。
緊張感が漂い、今にも糸が切れてしまいそうな、そういう雰囲気なのだけれど、しかし、彼は依然淡々と、
「肥満体質ですね、貴方」
「……お、おう……」
まるで虚を突かれたような回答に、警官達は肩透かしを食らったみたいで、ただただ、唖然とする他なかった。
そして数十秒間。外の騒々しさと比べ、交番内は、まるでそこだけ時間が不格好に切り取られ、埃の一つまでもが空中に固定されているような、そんな静けさが、場を支配しているのだった。
「――ところで、俺自身も、貴方達とここで仲良く談笑していたって構わないのですが、しかし、如何せん時間に身を追われている立場なのです」
まあしかし、雰囲気に逆らうようなかたちで、彼は唐突に喋りだした。
その無神経さというか、空気の読めなさというか、そういった類の彼の態度に、またまたあらゆる言葉たちが脳裏から漏れ出そうになるが、しかし、警官は胸を張り、威圧するように、
「な、なら話は分かるだろう?きちんと、金を払ってもらわないと!」
「……金、ですか?」
しかし、彼は一切の怯えた様子を見せず、元々座っていたパイプ椅子に腰掛け、どこか落胆したような表情を見せる。
「お、おお。そうだ。金だよ、金」
警察としての権力を見せねば、と、二人は咄嗟に鋭い目つきを彼に向ける――が、しかし、彼は足を堂々と組み、一つため息を吐いた後、
「……しかし、何処に行ったって、やっぱり金は必要ですねえ。今回の渡航代もそうだし、勿論、宿代だって馬鹿にならない。格式高そうなレストランに寄ると、“冗談か?”と目を疑うような値段が並ぶ。人気無さそうな路地に、ふらりと立ち寄ってみても、金が無くては何だってできない。そして現在、俺は、どうやら“通行料”とやらを徴収されているらしい」
そして、首を傾げ、
「ほとほと、嫌になりそうです」
もう一つ、ため息を吐き、彼は続ける。
「まあ、だからこそ、地獄の沙汰も金次第とは、よく言ったものですが――」
一つ、間を開けるように咳ばらいをし、
「――それで、貴方達が要求しているもの、何でしたっけ?それは、とても忌々しいものだったような気がするのですが……」
「だ、だから!金だって!」
その、兎に角回りくどい態度に、警官は思わず顔を顰めて、語気を強めた。
しかしまあ、相も変わらず、彼は淡々とした態度で、
「……ああ。そうでした。じゃ――」
両手は組んでいるので、顎でくいっと示すが、しかし、警官達には、どうやらその意図は伝わっていないらしく、当惑したまま、数秒が過ぎる。
「ですから、お手」
沈黙に堪えかねた訳ではないのだけれど、しかし、あくまで彼は“時間に身を追われている立場”であるから、分かりやすいよう、言葉で示してあげた。
……しかしながら、いまだ呆然と立ち竦む彼らを見て、思わず、またまたため息を吐いた後、
「いや、さっさと手を差し出しなさいよ」
そう言うと、呼応するかのように、警官達の手がゆっくりと伸び出てくる。
正面の二人は、顔を見合わせ、いまだ理解ができていないようだが、まあ、そんなことには構わず、彼はその手にそれぞれ、十枚ぐらいのお札を、握らせてやった。
警官たちは、手をゆっくりと引き、視線を下に下げて、その枚数を一枚一枚数えだした。
「お、おお。やっぱ兄ちゃん、気前良いじゃねえか」
困惑は残るも、しかしどこか満足した表情で、彼らは正面を向く――が、
「かしこ」
それだけ日本語で言い残し、彼は古臭い交番をさっさと後にした。
そして、先ほど
「……要らねえか」
ポイッ、と、そこら辺に放り捨てた。
――綿毛のような雪が、漆黒の空から音もなく舞い落ちる。
蜂蜜色の石材で組まれた壁は、雪に濡れ、しっとりとした重い色を帯びている。昼間だというのに、太陽は厚い雲の向こうに隠れており、町全体がモノクローム写真のような、薄暗いセピア色に包まれている。しかしながら、中世ヨーロッパを思わせるような、異国情緒あふれる建物の、雪がうっすらと降り積もった屋根の下を行き交う、大勢の人々が、一見、静寂や孤独を思わせる、淀んだ天気を、賑やかで、騒々しいものへと変えていた。
そして、足元に敷き詰められた、時代を感じさせる石畳を歩いて行けば、大きな広場が見えてくる。
その中央に聳える大聖堂の尖塔は、灰色の空を突き刺すような巨大な槍のようだ。ゴシック様式の入り組んだ彫像の隙間にも、雪が降り積もり、散見されるガーゴイルの石像は、白い衣を纏って街を睥睨している。
ふと、冷気をたっぷりと含んだ風が、路地裏から吹き抜けてくる。
果たして、どこか奇妙な雰囲気が漂う、この北ヨーロッパの街には、どんな秘密や愛憎が隠され、彼を待ち受けているのだろうか。
また一つ、辺りの人々の合間を縫うかのように、妖し気な風が吹き抜けてくる――が、しかし。
「……さむっ」
その風の寒さに当てられ、小さく身震いした後、彼は振り返ることなく進んでいく。
つまるところ、後4時間もすれば、この街を発つ彼からしてみれば、そんなこと、とてもどうでもいいことだった。