時刻は十時を回り、食堂車には、白崎一人だけが、残されていた。
窓から見える景色は、すっかりと暗闇に包まれ、その輪郭をなぞるので精一杯な程だ。
「正面、よろしいでしょうか?」
一級品のテーブルと椅子に、優雅そうに座りながら、本を読んでいた(実際には読んでおらず、周りを窺っていた)白崎に対し、一人、顔立ちの良い男性が声を掛けた。
「……ええ、構いませんよ」
ふと、その背格好を見やる。
一級客室に似つかわしい、紳士的なスーツ姿の彼は、血色が良く、おそらく、三十手前ぐらいに思われる。人相も、どことなく優しそうな、どこか安心感を与えてくれるような、そんな感じがした
「しかし、どうして?」
首を傾げて、白崎は問う。
「せっかくの機会ですから、見知らぬお客さんと交流してみるというのも、良いかなと」
そう言うと、彼はゆっくりと、白崎の正面の席へと腰掛けた。
いつか前、聞いたことのあるような、無いような文句だったけれど。
「マクシミアン・ハインツです」
ハインツと言うらしい彼は、自然と白崎に手を差し出した。
「……白崎です」
白崎は、なんとなく、恐る恐るその手を握ってみた。
まあしかし、当たり前だが、急に手を引っ張られたりだとか、もう解けないほどに握り返されたりだとか、そういった横暴が行われることは無く、若干握り返された後に、すぐに握手は解かれた。
「何か、注文しましょうか?」
ハインツは、笑みを崩さないまま、白崎に尋ねた。
「いえ、結構」
「そうですか」
すると、ハインツは若干口角を下げて、どこかバツの悪そうな感じになった。
数秒、沈黙が続く。
白崎は手に持っていた本を閉じて、テーブルにゆっくりと置いた。そして、彼の表情を見てみると、どこか面食らっているかのように、瞬きを繰り返していた。
「……どうかしました?」
「いや、その……ご容姿と声に、違和感が……」
喉の奥で言葉をつかえさせながらも、しかし十分伝わるように、ハインツは答えた。
どうやら、想像よりも低く、男性的な白崎の声と、サングラスをかけているのにも関わらず、非常に可愛らしく、女性的だとすぐ分かるその容姿との、イメージの乖離について、言っているらしかった。
「多分悪口ですよ、それ」
あくまで悠然と、気にしていなさそうに、白崎は返してあげた。
「……好きなんですけれどね」
また数秒の沈黙の後、白崎は頬杖をつきながら唐突に言った。
「何がです?」
不思議そうな表情で、ハインツは返した。
「回り道というか、つまり、意味をなさない、時間だけが浪費されるような、単なる徒労……ではないか。まあ、つまり、とてつもなく回りくどい、無駄話のことですよ」
「どういう意味ですか?」
「素直に僕は、貴方に奢られるべきだったなと、少しばかり後悔したという、ただそれだけの話ですよ」
「では、やはり何か注文しましょうか?」
「いえ、それは結構。ほんの少しだけですけれども、無駄話は出来ましたから」
どこか人を食ったような笑みで、白崎は答えた。
頬杖を解いて、コホン、と一息ついた後、
「さて、用件を聞きましょうか」
堂々と、白崎は言った。
すると、ハインツは想定外というか、思いがけないかたちで、目的に辿り着いたみたいで、目を丸くしながらも、しかしその表情には、どことなく喜色が表れていた。
「……話が早くて、助かります」
笑みを戻して、ハインツは言った。
「ええ、お気になさらず」
白崎の返答を聞くと、しかし今度は急に厳粛な色を顔に浮かべ、
「……脅迫状が、届いたんです」
重い口を開けるように、そう言った。
「脅迫状、ですか」
「ええ。二時間ぐらい前に、食堂から部屋に戻った際、床に一通の封筒が置いてありまして、拾い上げて、中身を確認してみると……」
すると、ハインツはテーブルに、一枚の紙を広げた。
その中央には、誰の筆跡かわからないよう、随分と機械じみた文字で――
「『娘は頂く』、ですか。どことなくロマンチックですねえ」
怪盗が、その国に代々伝わる美しい宝石を盗む際のことでも想像しながら、白崎は言ったのだろう。
「『娘』というのは、お連れの女の子のことでしょうか?」
そう言いながら、白崎はあの少女のことを思い出す。赤い髪留めを拾ってあげた、あの少女。
食堂車で、目の前の彼と共に二人で食事を取っていたわけだから、『娘』というのが、彼女であるらしいのは、容易に予想がつくわけだけれど、しかしまあ、確認のため、白崎は尋ねた。
「ええ、おそらく」
「実際に、娘さんでいらっしゃられる?」
「いや、そうではないというか……」
すると、ハインツは口を僅かに開いたまま、何か言おうと努めるけれども、しかし、音にならないため息だけが、その唇からあふれ出ていた。
「そうではないというか?」
白崎は淡々としたオウム返しで、その続きを急かした。
すると、意を決したようだけれども、目線は逸らしたまま、
「……色々と事情があって、私が一旦預かっているんです」
随分とかみ砕いた言葉で、白崎に伝えた。
つまり、濁した。
白崎は、「そんな保護猫みたいな扱い」と喉元まで出かかったが、しかし、なんとなく無神経な気がしたので、実際には言わずにおいた。
「お願いです。女の子の……つまり、ニーナの護衛を行ってはくれませんか?」
ハインツは、射貫くような、一点の曇りもない眼差しを白崎に向け、純然たる自らの願いを述べた。
「どうやら貴方は警察の方らしいのでしょう?お願いです。この列車内だと、貴方にしか頼れません」
頭を下げて、ハインツは白崎の返答を待つ。
数秒、またまたの沈黙の後、一つため息を吐いて、
「……厳密には、というか、僕は全然警察組織には属していないのですけれども」
白崎は頭を傾げると、そのまま続ける。
「しかし、護衛を行うにしたって、僕は良く事情が分かっていない」
「事情、というと?」
「例えば、心当たりです。誰かに脅迫状を送り付けられるような、そういう口外し難いような心当たりが、ないわけではないでしょうに」
「いえ、その……」
ハインツはまた言い淀んだ。
「脅迫状が届くだなんて、そんなの普通はありえませんからねえ。だって、女の子の誘拐のみが目的であるならば、そんな遠回りなことはせず、ただ単に彼女を攫ってしまえばいいだけの話ですから」
そして、悠然とした態度のままで、
「『色々と事情』が、あるんでしょう?」
ずっと彼が言い淀んでいる、その真意を、白崎は問うた。
すると、ハインツは伏し目がちになりながら、
「……話しても、信じてもらえるかどうか」
その声音は、自らの言葉の重みに耐えかねるような、頼りなさげな、掠れた響きだった。
「まあ別に、虚構だって、何だって構いません。そのニーナというらしい女の子が、何だって誘拐されなくてはならないのか、説得力に足る理由を、単に僕は知りたいだけですので」
随分とフランクに、手振りを入れながら、白崎は返した。
すると、今度は本当に意を決したかのような眼差しで、一度、周囲を警戒するように視線を走らせた後、その固く結んでいた口を開いた。
「……大脳に、チップが埋め込まれているんです」
「チップ?」
「大企業や政府が秘匿にしている情報が、枚挙にいとまがないほどに保存されている、ICチップが、彼女の頭には埋め込まれているんです」
「随分とブッ飛んでますねえ」
言葉とは裏腹に、一切表情は崩さずに、白崎は言った。
「その情報を奪うため、あんな脅迫状が送られたのだと思います」
ハインツは、あくまで真剣な面持ちであり、その様子から、おそらく、嘘は吐いていないのだろうと、推測できる。
「過去にも、そういった経験が?」
「いえ、今回が初めてというか、私が彼女を預かってから、あまり時間は経っていませんので……」
「成程ねえ」
一つ、息を漏らす。
どうやら、目の前の彼は、これ以外にも、随分と気苦労というか、苦悩をしているらしい。
よく見ると、彼の目の下には、若干の隈が伺える。
「とても特殊な状況下ではありますが、しかし、彼女はあくまで普通の少女なんです。よく鼻歌を歌う、快活で明るい、何処にでもいるような子供なんです。どうか、彼女の為にも……」
正しく、懇願、といったかたちで、ハインツは白崎に頭を下げた。
「しかし、単に護衛をするだけ、というのも……」
「勿論、お金は払います。風のうわさ程度ですが、貴方は相当に有名な方らしいのでしょう?いくらかかるのかは分かりませんが、払える分は払いますから」
どうやら、身銭を全て投げ打ってでも、目的を遂げようとしている、切迫したような状況であるらしいけれども、依然と白崎は表情を変えず、
「風のうわさ、というのはつまり、金を積めば僕はどんな汚い仕事でもやってのけるという、そういう噂のことでしょうか」
「いえ、そういうつもりでは……」
「いや、正解です。花まるつけたくなるぐらいに正しいお噂です」
場の空気を茶化すかのように、小さな拍手を加えて、白崎は言った。
「しかしねえ……」
すると、若干考え込むかのように、腕を組んで、俯きながら、
「僕は現在、別の任を帯びている立場ではありますから、同時並行での護衛、というのは、非常に困難極めます」
ハインツの顔が少し曇る。
どうやら拒否したいらしい白崎の態度であるらしいのだけれども、
「……しかし、幼い女の子を救う為にも、どうかお力を貸してはくださいませんか?」
窮地から出たような、つまり、白崎の善性に縋るような、そんな言葉と、苦しそうな表情であった。
「選ばれし勇者、みたいですけれども」
さて、今度こそは無神経な言葉が、しっかりと口から出てしまった。
まあしかしそんなことはどうだってよくって。
――白崎は考える。ほんのちょっぴりの時間、考える。
つまりそれは、ハチドリが飛ぶ際、自らの羽を一往復させる程度の、刹那とも呼べるほどの短い時間――いや、蛾かも?――いや、ハエかも?――だなんて、そんなくだらないことを考察している時間の方が、十分に長かったのだろうが。
一人のか弱いけれども、しかし、世界中で命を狙われるような、そんな少女を、どんな経緯かはわからないが、預かる身となった彼の身と、そして彼女の自身のことを慮れば、ぜひとも手助けしてあげたいような、そんな気にもなるのだけれども――
「――しかし、見知らぬ少女があらゆる悪鬼羅刹に何されようと、僕の意に介すところではありませんからねえ」
淡々と、すなわち、この場合では冷淡に捉えられるように、白崎は言った。
「口外したくないことを話させてしまい申し訳ない。用件に関しましては、お断りさせていただきます」
そう言うと、白崎は小さく頭を下げた。
「……いえ、こちらこそ。急なお願い事を聞いてくださり、有難うございました」
ハインツは、有体に言って、とても悲しそうな表情で、そのように答えた。
そうして、席を立つと、一つ会釈をした後、客室車の方へとゆっくり去っていった。
その後姿のスーツには、若干の皺が見えた。
どこか、悪いことをしてしまったような、そんな気がした。