車窓からは、冬の鋭くも柔らかな陽射しが差し込んでくる。
列車を包囲するよう、辺りに広がる銀世界は、その陽光を暴力的な程に反射して、白銀の静寂をありありと示している。
どうやら、今日は絶好の行楽日和らしいが、まあしかし、ほとんど一日中、この寝台列車に揺られるはずの白崎には、あまり関係のない話であった。
一つ、小さく息を吐く。
目の前のテーブルには、少量だけれども、しかし鮮やかで、実に食欲をそそる雰囲気を漂わせる朝食たちが並んでいた。
さて、と横に置かれていた銀のスプーンを手に取ったところで、
「おはようございます、シラサキさん」
ふと、声を掛けられる。
横に目をやると、まだ早朝であるというのに、既にきびきびとした態度のルンドが、姿勢正しく立っていた。
「ええ。おはようございます」
同じく、白崎もはっきりと返した。
返答を聞くと、ルンドは若干声を潜めて、
「それで、調査の方は、どうでしょう?」
「ええ。それはもちろん……」
白崎はちょっとだけ溜めた後、自信満々な態度で、
「一切、手掛かりは掴めておりません」
これまたはっきりと言った。
すると、それは悪い想定通りというか、期待したくなかった期待通りというか、そういうネガティブな答えだったらしく、ルンドは一つ、ため息を吐いた。
「どうかしました?」
眉を顰めたルンドに、惚けたような口調で、白崎は言った。
「……いえ。『大丈夫か?』と聞くのも、そろそろ無意味だなと思いまして……」
「それはそれは。賢明なご判断ですこと」
そう言うと、白崎は一口、小さく朝食を含んだ。
「今日はどうなさるおつもりで?」
「そうですねえ……」
言葉尻では考えているようだけれども、暖かな食事を乗せた、キラリと輝くスプーンを迷いなく口元まで持ってきて、
「まあ、朝食を嗜んでからでも、考えましょうか」
また一口、含んだ。
「……了解しました」
呆れているような、しかしもうそろそろ慣れたのか、どこか笑みを残した表情のルンドは、そう言うと、すぐにその場から離れた。
*
「すいません、シラサキさん」
ふと、また、朝食を嗜む白崎に声が掛けられる。
勿論声の主はルンドであった。
「どうかされました?」
悩まし気な表情のルンドに、白崎は首を傾げて問う。
「いえ、その……少し気がかりなことがありまして」
「と、言うと?」
するとルンドは、少し言い淀んだ後、
「乗客の中で、一人、まだこの食堂車に来られていないお客様がおりまして……」
眉間に皺を寄せ、言葉を濁しながらも、ルンドは続ける。
「二度ほどお部屋に伺ったのですが、しかし、返事がなく、何かトラブルがあったのでは、と」
「眠りが深いだけでは?それか耳栓をしているから、とか」
悠然と問う白崎に対し、依然と憂いの色を滲ませた表情のルンドは、首を振る。
「そうだと良いのですが、どうにも……悪寒と言いますか、不吉な予感が、してならないのです」
「はあ」
若々しく、焦燥を瞳に宿すルンドに、白崎は小さく嘆息した。
「一度、一緒にお部屋に伺っては頂けませんか?」
「その程度のこと、今までも幾度もあったでしょうに」
呆れているわけではないけれども、しかしそういう雰囲気を声色に混ぜて、白崎は言った。
何せ、同行するのは面倒であるため。
しかしながら、ルンドは中年らしからぬ悩みを滲ませたような、そんな表情のまま、
「そうではあるのですが、しかし、場の雰囲気とでも言うのでしょうか。どうしても、いつものそれとは違うような気がして……」
若干の沈黙の後、続けて、
「もしかしたら、密輸の件とも、何か関りがあるのかも」
はて、と考慮してみるけれども、
「勘繰りすぎ、だと思いますがねえ……」
……まあしかし、関係がないとは、必ずしも言い切れない。
是が非でも、調査に繋がるような情報が、今は何でも欲しいわけだし、何より、自らの横暴たる調子にずっと付き合わせ続けている彼に対し、どこか申し訳ない気が、しないでもない。
さて、と座り心地の良かった椅子から、ゆっくりと立ち上がる。
「この件は、高く付きますよ」
いたずらっぽく、白崎は言った。
「高く付く、とはつまり、値段……のことでしょうか?」
「ええもちろん。僕に、この雇われの身であるこの僕に、仕事とは関係なく、個人的に用事を頼むわけですから」
しかも、朝食中にね、と付け加えて。
「まあしかし、今回は必要ありません。今後会うかも分かりませんので」
「それは……助かるような、気がします」
感謝はしたけれども、そもそも、用意された場で強制的にに感謝させられたような、そういう状況であったため、どこか判然としない様子のルンドを尻目に、白崎はくるりと振り返った。
即ち、客室車の方向へと。
「さて、コーヒーが冷めてしまわない内に、行きましょうか」
*
「部屋番号は03号室。ボリス・イワノフさんのお部屋です」
「成程ねえ」
『03』という金色の文字が装飾されている、木製の扉を前に、二人は立っていた。
「いらっしゃいませんか?朝食のお時間なのですが」
コンコン、と小さくノックしながら、ルンドは言う。
「反応は、特にありませんね」
「ええ、この通り」
白崎は顎に手を添え、どこか悩まし気な仕草を取ったかと思うと、しかし、すぐにそれを解いて、
「ボリス・イワノフさん。いらっしゃるなら、返事をしてくださいませんか?」
ルンドのそれよりも大きな声で、つまり、コンシェルジュらしからぬ野蛮っぽい声で、白崎はドアの向こうへと尋ねた。
しかし、依然として反応は見られない。
「駄目ですねえ」
ぽつり、と白崎は呟いた。
「やはり、お部屋にはいらっしゃられないのでしょうか……」
こちらも悩まし気に、ルンドは言葉尻を弱める。
――ところで、一切の迷いない声色で、
「ボリス・イワノフ――いいえ、イライアス・サグデンさん」
目の前の部屋の主へ向けて、白崎は意気揚々と続ける。
「貴方のお知り合いであると言う方から、電話を預かっておりまして、どうやら反社会的組織の方らしく、今にも僕を殺さんとする音圧のため、すぐ出てきてもらわないと、身の安全が危ぶまれるっぽいのですが」
ドンドン、と乱暴にドアを叩きながら言ってみるものの、しかし、やはり一切の反応はなかった。
ふーん、と、悩まし気な吐息を漏らすと、
「お手洗い中、なのでしょうか?」
首を傾げて、白崎は言った。
「それだけは考えられないというか、それ以前に、色々と聞きたいことがあるのですが……」
驚くものの、嘆息を漏らしつつ、ルンドは返した。
さて、と考えてみる。
これまでの反応を見て、いくら本人の名前やら、動揺させまいとする妄言を言ってみたところで、目の前の扉が開かれることがないことは、明白だった。
であるならばまあ、方法は一つだ。
「埒があきません。ルンドさん、扉を開けましょう」
「やはり、そうするしかないのでしょうね」
すると、ルンドは懐から、たくさんの鍵が束ねられた、金属製のリングを取り出し、そこから一本、目の前の扉のものであるらしい鍵を取り出した。
鍵穴にそれを差し込み、カチャリ、と開錠音が小さく響く。
ゆっくりと目の前の扉を開けながら、
「入ってしまいますよ?勝手に!無断で!」
念を入れるように、白崎は言ってみるけれども、やはり、反応はない。
勇み足でその中へと二人は入っていくと――
――途端、鉄錆に似た、硬質で鋭い臭気が、鼻腔を突いた。
明かりは点いておらず、しかしどうしてか、それ以上に重苦しく、暗い雰囲気が、辺りを漂う。
右側の机の横には、キャリーケースがあって、机の上には、ノートパソコンが閉じたまま置かれてあって。
左側のベッドには――
「こ、これは……!」
ルンドは思わず声を漏らした。
純白たるシーツには、鮮やかな
その中央に横たわる男は、目を閉じ、口を閉じ、まるで眠っているようで――しかし、どうしてだろう、一切の生気が感じられない。
すなわち、その肉体が
「い、一体、どうすれば」
明らかな動揺を見せるルンドに対し、
「……とりあえず、部屋から出ましょうか」
しかし、白崎は変わらず、冷静な態度で、退出を促した。
「こういった経験は、初めてで?」
部屋を出ても、まだ狼狽の表情を見せるルンドに、白崎は開口一番に尋ねた。
「……ええ。十数年、列車で勤めていますが、しかし、こんなことは……」
「それはそれは、お気の毒というか」
しかし白崎は、先ほどのことをどこか他人事のように捉えているためか、変わらず、平然と答えた。
「シラサキさん……どうにかなりませんか?」
縋るように、ルンドは尋ねた。
「どうにか、とは?」
「ですから、彼を殺した殺人犯が、この列車内にいるわけでしょう?」
『彼を殺した』というのは、確かにそうだろう。
つまり、彼――イライアス・サグデンは、自殺ではなく、誰かに故意に殺されてしまった、ということだ。
遺体の状況は、ぱっと見ではあるが、明らかに、刺し傷による死亡であるらしかった。この際、自殺という線を辿れば、彼がまるで寝ているかのように亡くなっているのは、おかしい。
だからこそ、冷徹な殺人犯が、この列車のどこかに影を潜めているというのは、十分にルンドや他の乗客の背筋を凍らせてしまうような、恐ろしい事実ではあるのだけれども――
「――しかし、僕は突如として殺人現場に現れて、颯爽とそれを解決してしまうような、随分とお人好しな名探偵ではありませんから」
随分と冷ややかそうに、突き放すかのように、白崎は答えた。
「では、一体私はどうすれば……」
まあしかし、予想だにしない状況に置かれ、どうすればよいのか、当惑せざるを得ない目の前の彼を、そのままにしておくというのも、悪い気がするので、
「……とりあえず、警察に連絡を。そして、今後部屋には入らないこと。それだけで十分です」
白崎は端的に提案した。
「し、しかし、それでは殺人鬼を野放しにしてしまうのと同義でしょう?他の誰かが殺される、なんてことがあれば……」
そう言うと、ルンドは文字通り頭を抱える。
どうやら、余程目の前の状況に参っているような、そんな様子らしい。
「その可能性は低いと思いますけれどね」
一方で、白崎は悠然と続ける。
「部屋の鍵は閉まっていましたし、それに殺された彼は、随分と恨みを買いやすい人種ではありましたから、おそらく、計画的な犯行かと」
ルンドは眉間に深い溝を作って、
「本当、でしょうか」
弱弱しく確認した。
「ええ、勿論。ですから、安心してください。きっとこれから、非人道的な殺人鬼による、殺戮ショーが始まる、だなんてことはありえませんよ」
若干、口角を上げて、つまり、安心させるような口調で、白崎は答えた。
そして、ゆっくりと振り返ったかと思うと、
「さて、この部屋と無残にも殺された彼については、警察に任せるとして」
首だけ振り向かせて、
「僕はまだ食べ終わっていない朝食があります故、一旦、食堂車に戻ることにします」
僅かに笑みを浮かたまま、白崎は言った。
「……何と言うか、能天気、ですよね」
ルンドは今までよりも、随分と皮肉っぽく言った。
全くもってその通りだと思うが、まあしかし、白崎は一切怯むことなく、
「そうですか?僕は“いかに能天気でないか”、でその名を通しているつもりなのですが」
「そうですかね……」
「ええ。では、一旦」
そのまま、宣言通り、白崎は食堂車の方へと、戻っていった。
そして、ようやく元のテーブルに着き、朝食を再開した。時間としては、まあ別に、朝食と言っても差支えないぐらいだったため、特に気にすること無く、あのような惨状を見たにも関わらず、優雅に食べ進められた。因みに、コーヒーはかなりぬるかった。
「シラサキさん、少し、よろしいでしょうか?」
若干遅れた朝食も、ちょうど終わった頃、またまた、つまり今朝で三度目、白崎は声を掛けられる。
相手は言うまでもなく、ルンドであった。
「ええ、構いませんが」
白崎は首を傾げて答えた。
「その、大本――つまり本社には、何か列車内で異変があれば、逐一連絡を取るように、と言われていましたから、先ほど、殺人が起きたことも勿論話したのですが……」
「それで、どうしたのですか?」
白崎は何か口に含もう、とスプーンを器に入れるけれども、しかし、もうすでに食べ終わっていたことを忘れていた。
「シラサキさんに伝言がありまして……」
「何でしょう?」
何も掬わなかったスプーンを置いて、白崎は問う。
「『今すぐ密輸の調査を止めて、事件の解決に努めるように』と」
「はあ……」
『今すぐ密輸の調査を止めて、事件の解決に努めるように』、と……
「はあ?!」
昨日今日で、多分、一番間の抜けた声が出た。
「本当に、突然、といった感じですよね……」
どうやら、ルンドもその伝言の内容については、困惑しているみたいだ。
「まあしかし、どこか辻褄が合ったような、そんな気もするというか……」
白崎はそう言うと、一つ、息を吐く。
どうやら、相当な大立ち回りをさせられていたらしい。そして、これからもしなくてはならない、と。
成程。癇に障るような、そんな気もするけれども、しかしまあ、相当な大金での雇われの身であるのだから、文句はない。
「……しかし、皮肉なものですね」
「何がです?」
不思議そうに尋ねるルンドに対し、白崎は自嘲気味に口角を上げて、
「僕はこれから、『随分とお人好しな名探偵』になるわけですから」