青と蒼 〜蒼太編 光と闇〜   作:ハマジロウ

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第3章 竜司と蒼司 後輩

 

海斗 高校一年 夏休み

 

 

 

蝉の声が、頭の上で割れるように鳴いていた。

 

俺と竜司は、近所の岩槻城址公園の広場で

 

キャッチボールをしている。

 

乾いた音が、グラブと空気の間を行き来する。

 

「ちょっと速ぇって!」

 

竜司の焦り声に、俺は笑う。

 

 

その少し離れた木陰。

 

蒼司は地面に腰を下ろし、

 

膝の上にキャンバスを置いていた。

 

 

昼休み。

 

 

日差しが一番高いところまで昇り、

 

公園の影は、あずま屋の下にだけ、

 

くっきりと残っていた。

 

 

あずま屋で軽い昼食をとる。

 

ベンチに腰を下ろし、

 

コンビニの袋をそれぞれテーブルに置く。

 

俺はペットボトルの水を一口飲む。

 

 

蒼司は、膝の上にキャンバスを置いたまま、

 

包装を外したパンに手をつけている。

 

会話は少ない。

 

蝉の声だけが、あずま屋の屋根に反響していた。

 

そのとき――

 

「おーい!」

 

遠くから、聞き慣れた声。

 

 

トイレから戻ってきた竜司が、

 

両手を振りながら、

 

あずま屋に向かって走ってくる。

 

 

サンダルの音が、砂利を蹴って近づいてくる。

 

「お前ら、先食ってんじゃん!」

 

息を切らしながら、

 

竜司はそのままあずま屋の中に飛び込んできた。

 

あずま屋の静けさが、一気にかき混ぜられる。

 

俺が苦笑いする。

 

「遅ぇんだよ」

 

俺は何も言わず、少しだけ場所を詰めた。

 

「やっぱ外、暑いよな。喉、乾いたわ」

 

そう言いながら、

 

竜司は何の気なしに手を伸ばした。

 

 

俺の手元に置いてあった、

 

飲みかけのペットボトル。

 

キャップを外し、そのまま口をつける。

 

 

一瞬――

 

 

時間が止まった気がした。

 

俺は、思わず息を呑む。

 

 

(……あっ)

 

 

「兄貴、それ、海兄のだよ」

 

 

蒼司の淡々とした声。

 

責めるでもなく、驚くでもなく。

 

「あ、わり。間違えた」

 

ペットボトルを持ったまま、頭をかく。

 

「新しいの、買ってくるわ」

 

立ち上がろうとする竜司を、俺が止めた。

 

「大丈夫だよ」

 

何でもないことのように、そう言って笑う。

 

 

俺は――何でもない顔を装いながら、

 

必死に平静を保っていた。

 

 

胸の奥だけが、妙にうるさかった。

 

 

俺は、少しだけ間を置いてから、口を開いた。

 

あずま屋に残った、妙な沈黙を流すみたいに。

 

 

「そういえばさ、夏大会」

 

 

竜司が顔を上げる。

 

 

「竜司、お前すげえな。大活躍だったじゃん」

 

 

「……そうか?」

 

 

ペットボトルを軽く振りながら、

 

どこか他人事みたいに答える。 

 

「前から聞きたかったんだけどさ」

 

少しだけ身を乗り出す。

 

「お前、フォークどうやって打ってるんだ?」

 

 

竜司は一瞬、考える素振りをして、

 

すぐに肩をすくめた。

 

「どうやってって……」

 

 

あずま屋の屋根を見上げて、ぽつりと。

 

「ただ、球を見て打つ。それだけだろ」

 

俺は、言葉を失ったように口を開け、

 

それから、呆れたように笑った。

 

 

「……竜司、お前、やっぱ天才だよな」

 

 

「そうか?」

 

それだけ言って、また飲み物に口をつける。

 

 

俺は、そのやり取りを聞きながら、

 

さっきの鼓動が、

 

少しだけ落ち着いていくのを感じていた。

 

 

蒼司は、何も言わずに、

 

その様子を静かに見ていた。

 

一一一一一

 

昼食が終わるころ、

 

他の友達も、ぽつぽつと合流してきた。

 

 

あずま屋の中は一気に賑やかになる。

 

 

学校のこと。

 

クラスの噂。

 

そして、やっぱり野球の話。

 

 

誰が調子いいとか、

 

次の練習試合がどうとか、

 

そんな話で、笑い声が絶えない。

 

俺も、その輪の中にいた――はずだった。

 

 

ふと、視線が外れる。

 

木陰のほう。

 

蒼司が、一人で座っている。

 

 

キャンバスに、色を置いているようだった。

 

筆を動かすたび、白は少しずつ消えていく。

 

(……あ)

 

何かが、胸の奥で引っかかる。

 

(そういえば……絵)

 

言葉にならない違和感。

 

俺は、自然に話の輪から抜けていた。

 

 

誰にも何も言わず、

 

ただ足が、蒼司のほうへ向かう。

 

 

蝉の声が、さっきよりも、近くに聞こえた。

 

一一一一一

 

俺は、木陰に近づいていく。

 

俺は何も言わずに、蒼司の横に腰を下ろした。

 

 

木陰の風が、二人の間を抜けていく。

 

俺は、キャンバスを見る。

 

そこには、青。

 

ただの青じゃない。

 

淡い青、深い青、くすんだ青、

 

重なり合って、揺れている。

 

 

俺は、しばらく黙ったまま、

 

それを見つめていた。

 

そして、ぽつりと口を開く。

 

「……これ、海?」

 

蒼司は何も言わない。

 

「きれいだな。なんだか……吸い込まれそうだ」

 

少し照れたように、続ける。

 

「この絵、好きだな」

 

蒼司は、そこで初めて筆を止めた。

 

 

しばらく間があって、

 

小さく息を吐く。

 

「ありがとう。でも……全然、まだまだ」

 

キャンバスから目を離さずに。

 

「俺が描きたいのは、こんなんじゃないんだよ」

 

「……そうか」

 

少し考えてから、正直に言う。

 

「俺、絵のことはよくわかんないけどさ」

 

キャンバスにもう一度目を向けて、

 

「それでも、すげぇいいと思うぞ」

 

蒼司は、困ったように笑った。

 

「そんなこと言ってくれるの、

 

海兄が初めてだよ」

 

 

筆先を指で軽く拭いながら、

 

ぽつぽつと、言葉がこぼれる。

 

 

「美術部の先生はさ、

 

もっと他の絵を描けとか、人物を描けとか、

 

いろいろスケッチしろって、うるさいし」

 

少しだけ眉をひそめる。

 

「クラスの奴らは、なんで海なんだよ、とか

 

青一色で意味わかんねぇとか」

 

一拍置いて、苦笑する。

 

「お前、埼玉に住んでるのに

 

海なんか見たことねぇだろ、ってさ」

 

風が、またキャンバスの端を揺らした。

 

 

俺は、何も言わずに、

 

その青を、もう一度見た。

 

俺は、少しだけ肩をすくめて言った。

 

「いや、そりゃクラスの奴ら、見る目ねぇよ」

 

キャンバスから目を離さず、

 

まるで当たり前のことを言うみたいに。

 

「いいよ。お前は、好きな絵、描き続けろよ」

 

少し間を置いて、ふっと笑う。

 

「俺さ、もっとこの絵、見てみたいな」

 

冗談めいた調子で、続けた。

 

「今度さ、その蒼司の絵バカにした奴らいたら、

 

俺がガツンと言ってやるよ」

 

 

拳を軽く握って、

 

 

「ぶっ飛ばす、は言いすぎか。

 

でもさ、ちゃんと怒ってやる」

 

 

蒼司は、その言葉に、思わずクスッと笑った。

 

「海兄……そんなこと、しなくていいよ」

 

 

俺は、特に深く考えずに、

 

思ったことをそのまま口にする。

 

「やっぱ兄弟だよな」

 

蒼司の方をちらっと見て、

 

「笑ってるとこさ、いいよな。

 

なんか……かわいいし」

 

 

本当に、何気なく。

 

悪気も、裏もなく。

 

蒼司は、はっとしたように動きを止めた。

 

 

視線を落とし、そのまま、うつむく。

 

「……」

 

耳まで赤くなっている。

 

 

俺は、少し首をかしげた。

 

「おい、蒼司。

 

お前、もしかして熱中症じゃねぇの?」

 

心配そうに覗き込む。

 

「大丈夫か?」

 

蒼司は、慌てて首を振った。

 

「だ、大丈夫だよ」

 

筆を持ち直して、

 

「これ、描き終わったら……

 

もう家、帰るから」

 

 

声は落ち着いているのに、

 

顔の赤みだけが、なかなか引かなかった。

 

 

俺は「そっか」とだけ言って、

 

またキャンバスの青を見つめた。

 

 

夏の木陰で、二人だけの時間が、

 

静かに流れていた。

 

一一一一一

9月

 

秋、夕暮れ。

 

 

秋の風が、少しだけ冷たくなっていた。

 

 

練習を終えた俺と竜司は、

 

いつものように春日部駅のホームで電車を待っている。

 

 

夕焼けが線路の先を赤く染め、

 

遠くで踏切の音が鳴っていた。

 

 

この時間が、俺は何よりも好きだった。

 

並んで立って、

 

ただ電車を待つだけの時間。

 

言葉があってもなくても、落ち着く。

 

「なあ、竜司」

 

「ん?」

 

「お前、やっぱりすげえよ。

 

一年でスタメンだろ。四番で、ファースト」

 

竜司は少し照れたように、鼻で笑う。

 

「そんなことねえよ。お前だってすげえじゃん。

 

レギュラーになれたし」

 

 

「ああ……」

 

一拍置いて、正直に言う。

 

「でもさ、エースにはなれなかった」

 

ホームに、電車接近のアナウンスが流れる。

 

 

その音にかぶせるように、

 

竜司が、珍しく真剣な声で言った。

 

「俺さ……来年は、絶対甲子園行く」

 

俺は、思わず顔を見る。

 

「そこで活躍して、プロになる。

 

それが俺の夢だ」

 

はっきりとした口調。

 

竜司が自分の目標を言葉にしたのは、

 

これが初めてだった。

 

「……ああ」

 

少しだけ間があって、力強く頷く。

 

 

「お前なら、絶対プロになれると思う」

 

 

線路の向こうから、

 

電車のライトが見えてくる。

 

「俺も……甲子園に行きたい」

 

 

自分に言い聞かせるように。

 

 

「チームの足、引っ張らないようにさ。

 

もっとストレート、磨かないとな」

 

竜司は、にやっと笑った。

 

「ああ、期待してるぜ」

 

電車の風が、二人の間を吹き抜ける。

 

「未来のエース」

 

電車がホームに滑り込み、

 

その言葉は、走行音に溶けていった。

 

 

秋の夕暮れは、

 

二人の夢を、静かに乗せて走り出していた。

 

 

 

電車を降りて、

 

岩槻駅から家までの道を並んで歩く。

 

街灯はまだ点き始めたばかりで、

 

秋の夕暮れが、道を薄く染めている。

 

 

この時間が、俺は好きだった。

 

 

練習のあと、

 

竜司を独り占めできる時間。

 

何を話すわけでもなく、

 

ただ同じ歩幅で歩くだけなのに、

 

それだけで、満たされる。

 

 

(……この時間も、もう終わるのか)

 

 

胸の奥に、小さな寂しさが広がる。

 

 

やがて、竜司の家の前に着く。

 

 

門の前で立ち止まり、

 

竜司が、ふと口を開いた。

 

「なあ、海斗……。今度、練習オフの日、あるだろ?」

 

「ああ」

 

「また、うち来いよ」

 

俺は少し笑って言う。

 

「なんだよ、改まって」

 

竜司は、視線をそらしながら続けた。

 

 

「お前来るとさ、蒼司のやつ、喜ぶし‥‥」

 

「……そうか?」

 

少し不思議に思いながら答える。

 

 

「お前が来るとさ、蒼司、めっちゃ喋るんだよ」

 

 

「お前は知らねぇだろうけど」

 

 

「……え?」

 

 

竜司は、しばらく言葉を探すように、

 

地面を見つめた。

 

 

「最近さ、あいつ、あんまり家じゃ喋らなくて……」

 

「なんか……俺に、壁作ってるみたいでさ」

 

 

言葉を選びながら、ゆっくりと。

 

「……うまく言えねぇんだけど」

 

一度、息を吐く。

 

「俺、あいつのこと

 

ちゃんと見てるつもりだったんだけどな」

 

苦笑い。

 

「ダメな兄貴だよ、俺……」

 

俺は、何も言えなかった。

 

どう返せばいいのか、わからなかった。

 

 

それでも、口を開く。

 

「……わかった」

 

顔を上げて、続ける。

 

「じゃあ、また行くよ。家」

 

竜司は、少し安心したように笑った。

 

「……サンキューな」

 

 

そして、少し間を置いてから、

 

「……泊まるよな?」

 

「えっ?」

 

思わず、変な声が出た。

 

胸が、どくん、と大きく鳴る。

 

 

 

竜司は、少し照れたみたいに頭をかいた。

 

「いや、なんかさ」

 

視線を逸らしたまま、

 

ぶっきらぼうに続ける。

 

「海斗が横で寝てると、

 

なんか落ち着いて寝られるんだよな」

 

 

一瞬、言葉が出なかった。

 

 

心臓が、うるさいくらい鳴っている。

 

俺は、それをごまかすみたいに、

 

わざと軽い声を出した。

 

「……なんだよ、それ」

 

恥ずかしさのあまり、笑って茶化す。

 

「子どもかよ、お前」

 

竜司も、つられたように笑った。

 

「うるせぇ」

 

 

少しの沈黙。

 

 

秋の風が、二人の間を抜けていく。

 

俺は、小さく息を吐いた。

 

「……わかった」

 

「おう」

 

短い返事。

 

それだけなのに、

 

胸の奥が、どうしようもなく熱かった。

 

「じゃあな」

 

竜司は、軽く手を上げる。

 

そのまま家の中へ入っていった。

 

 

扉が閉まるまで、

 

俺は、その背中をずっと見ていた。

 

秋の夜風が、静かに頬をかすめた。

 

 

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