翌日、土曜日。
二人とも、久しぶりに何の予定もない休みだった。
朝の光がカーテン越しに差し込み、
部屋は静かだった。
青と蒼太は朝から車に乗り、
県内最大の大型ショッピン
グモールへ向かう。
特別な目的があるわけじゃない。
ただ、一緒に出かけたかった。
モール内のシネコンに入る。
「俺さ、この映画見たかったんだよな」
「……え?青さんまさか『百年の恋』」
「ああ」
「へえ……いまSNSでも話題になってるよね」
少し意外そうにしながらも、否定はしない。
「青さん、意外とこういうの……好きだよね」
「……言うな」
蒼太は小さく笑う。
「でもさ、なんか懐かしいね」
「えっ何が?」
「付き合い始めた頃。
よく一緒に映画、観に行ってたよね」
「ああ……行ってたな」
それ以上は言わない。
でも、その一言で十分だった。
「こういう休日、久しぶり‥‥」
「……だな」
二人は並んで席に座る。
――上映終了。
スクリーンが暗くなり、照明がついても、
青はすぐに立ち上がらなかった。
「……よかったな」
「うん」
「最後……ちゃんと幸せになってさ」
青の声が、少しだけ掠れている。
蒼太が横を見ると、
青は目元を押さえていた。
涙が、静かにこぼれている。
「……青さん?」
一拍置いて、静かに。
「大丈夫?」
青は答えない。
「……ハンカチ、いる?」
押しつけがましくならないように、
そっと、差し出すだけだった。
映画館を出ると、
モールの中は休日らしい賑わいに包まれていた。
人の話し声、子どもの笑い声、
どこかの店から流れてくる音楽。
青と蒼太は、特に行き先を決めるでもなく、
並んで歩き出す。
雑貨店に立ち寄り、棚に並ぶ小物を眺める。
「……あ、これ」
テーブルクロスを手に取って、青のほうを見る。
「青さん、これ、いいんじゃない?」
落ち着いた色合いの、シンプルな柄。
「……うん、いいな」
青は少し考えてから、うなずく。
「買って帰るか」
「うん」
それだけの会話なのに、
蒼太はどこか嬉しそうだった。
次は古着屋に入る。
ラックに掛かった服を眺めながら、
青が一着手に取る。
「……これ」
蒼太の肩に、そっと当ててみる。
「似合うんじゃないか?」
「え……」
少し戸惑いながら、鏡を見る。
「……どうかな?」
「悪くない」
「……うーん」
しばらく考えてから、首を傾げる。
「……ちょっと、迷う」
「そうかな?」
「うん……」
結局、その服は元の場所に戻した。
それでも、どちらも残念そうではなかった。
買う、買わない。
決めること自体が、もう楽しかった。
特別な出来事は何もない。
ただ、並んで歩いて、同じものを見て、
少し話すだけ。
それだけの時間。
蒼太は、ふと気づく。
胸の奥が、静かだ。
ざわつきも、不安も、今日は顔を出さない。
——久しぶりに、心が穏やかだった。
隣を歩く青の存在が、
何も言わずに、
それを支えてくれている気がした。
こんなたわいもない日常が、
今の蒼太には、何よりも大切だった。
その後、二人はモール内にある焼肉屋に入った。
少し落ち着いた雰囲気の店内。
席に案内され、
テーブルの上にメニューが置かれる。
「……昨日、お寿司も食べてさ。
今日は焼肉って……なんか、
すごい贅沢してる気分」
メニューをめくりながら、ぽつり。
「いいじゃん。たまには」
青は気にした様子もなく言う。
「せっかくの休みなんだし。いっぱい食べよ」
「……うーん」
蒼太の手が、メニューの上で止まる。
「どうした?」
「あ、いや……」
少し迷ってから、顔を上げる。
「……こういうの、久しぶりだなって思って」
「焼肉?」
「うん。それもあるけど……。
青さんと、ちゃんと外でご飯食べるの」
青は一瞬だけ黙ってから、ふっと笑う。
「……そうか」
店員が近づいてくる。
「ご注文、お決まりですか?」
「あ、すいません……えっと」
メニューを指でなぞりながら、青を見る。
「……これと、これ。
あと、青さんがよく頼むやつ」
「タンとカルビな」
「うん、それ」
「じゃあ、それで」
店員が去っていく。
蒼太は、少し安心したように息を吐いた。
「……なんか」
「ん?」
「こうしてると、
ちゃんと“普通の休日”って感じする」
「……ああ」
テーブルの向こうで、蒼太が小さく笑う。
焼ける肉の音が、少し先から聞こえてきた。
特別な言葉はいらなかった。
ただ、同じものを食べて、同じ時間を過ごす。
それだけで、
この日がちゃんと“いい日”だと、
蒼太は思えた。
* * *
食事を終え、店を出た二人は、
モールの端にあるバッティングセンター
へ向かった。
金属音と機械音が混じる、
少し懐かしい空間。
青は自然な動きでヘルメットを被り、
バットを手に取る。
――カキン!
乾いた音が響いた。
白いボールが一直線に伸び、
フェンスの向こうへ消えていく。
「……すご」
思わず声が漏れる。
表示板には 140km/h の文字。
「青さん……今の、ホームランじゃん」
「……まあな」
照れたように、バットを肩に担ぐ。
次は蒼太の番。
「……いくよ」
構えて、振る。
――カキン!
当たったが、打球は途中で失速する。
「あ……」
苦笑い。
「やっぱ、打つのは苦手だな」
「そんなことない」
すぐに青の声が返る。
「ちゃんと当ててるし、タイミングも悪くない」
「……そう?」
「ああ。いい線いってる」
そのやり取りを聞いていたのか、
周囲から小さなどよめきが起こる。
「なんだ、あの二人……」
「すごくない?」
「なんであんなに打てるんだろ……」
その中から、
ひとりの子どもが恐る恐る近づいてくる。
「あの……お兄ちゃん」
「ん?」
「どうやったら、そんなにボール、
打てるようになるんですか。
教えてください」
青は一瞬驚いた顔をしたあと、
すぐに笑った。
「いいよ」
しゃがんで、目線を合わせる。
「じゃあ、まずは構え方からな」
気づけば、
周りに子どもたちが集まっていた。
自然と始まる、即席の野球教室。
青は身振りを交えながら、
丁寧に教えていく。
声は穏やかで、無理に威圧することもない。
少し離れた場所で、
蒼太はそれを眺めていた。
(……やっぱり、青さんは)
子どもたちの質問に一つひとつ答え、
笑いながら、真剣に向き合う青の姿。
(……こういうの、似合ってるな)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
蒼太は、何も言わず、
ただ穏やかな表情で、
その光景を見つめていた。
* * *
その後、二人が乗った車は、
東へ、東へと進んでいった。
夕方に近づくにつれて、
空の色が少しずつ変わっていく。
建物の背が低くなり、視界がひらけてくる。
蒼太は、窓の外をぼんやりと眺めていた。
「……ずいぶん、遠くまで来たね」
「ああ」
カーナビの表示をちらりと確認しながら、
青が答える。
「この先だ」
車はやがてスピードを落とし、
静かな町へと入っていく。
ここは、埼玉県と千葉県の県境にある町――
松伏町。
人通りは少なく、
どこか時間の流れが緩やかな場所だった。
やがて、車は一つの公園の前で止まる。
まつぶし緑の丘公園。
なだらかな丘と、広く伸びる芝生。
夕方の風が、木々を揺らしている。
エンジンを切ると、
辺りは驚くほど静かだった。
「……ここ、初めて来た」
「ああ、生徒にいい場所って教えてもらってさ」
ドアを開け、二人は車を降りる。
遠くで、
子どもの笑い声がかすかに聞こえる。
それ以外は、風の音と、葉擦れの音だけ。
蒼太は深く息を吸った。
「……落ち着くね」
「ああ」
青も同じように、ゆっくりと息を吐く。
一日の終わりに辿り着いた場所。
ここには、急かすものも、
競うものもなかった。
ただ、並んで立つ二人と、
静かに沈みかける夕暮れだけがあった。
丘の上に続く芝生の道を、
二人はゆっくり歩いていた。
夕暮れの風が、頬を撫でる。
遠くで犬の鳴き声が一度だけ聞こえて、
また静けさが戻る。
蒼太は足を止めて、
空を見上げたまま言った。
「……青さん」
「ん?」
「今日、なんか……すごく楽しかった」
青は何も言わず、隣で立ち止まる。
「僕さ……今まで、気を張り詰めすぎてた気がする」
言葉を選ぶみたいに、息を吸って。
「就職とか、この先のこととか……
正直、余裕が全然なかった」
「……うん」
「周りがさ、みんな次々、
内定決まっていくし。その中で……、
自分だけ取り残されてるみたいな
感覚になって」
言い終えた蒼太は、少し笑おうとした。
でも笑いきれなかった。
青は、視線を外さないまま、短く言った。
「……そっか」
それだけで、蒼太の胸が少しだけ軽くなる。
「でも今日、青さんと一日過ごしてて……」
ゆっくり、言葉が続く。
「僕には、こういう穏やかな日常……
青さんと一緒に過ごす、この毎日……
これが一番大切なんだって、改めて思った」
「……そっか」
「……ありがとう。連れてきてくれて」
風が吹く。
青が、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……」
沈黙が落ちる。
でも、その沈黙は怖くなかった。
青はふと、
芝生を蹴るように一歩だけ前に出て、
それから蒼太のほうを見た。
「……なあ、蒼太」
「うん」
「就活のことなんだけどさ……」
蒼太は肩がすくむ。
反射的に、身構えそうになる。
でも青の声は、
思ったよりずっと柔らかかった。
「焦らなくていい」
「……」
「ゆっくり、ゆっくり。
じっくり考えろ。
蒼太が後悔しないようにすればいい……」
蒼太は唇を噛んだ。
泣きそうになるのをこらえるみたいに。
「……うん」
青は続けた。
言いにくいことを言う前の、
あの間があった。
「俺さ……実はずっと、
蒼太に追い目があってさ」
「え……どういうこと」
「……俺、蒼太とずっと一緒にいたくて」
その言葉は、不器用に、まっすぐに落ちた。
「でも、それが蒼太の未来とか進路を……
狭めてたんじゃないかって、
ずっと思ってた」
「……青さん」
「俺が高校三年の時さ……」
青は遠くを見る。
夕日が、目の奥に刺さるみたいに眩しい。
「蒼太を、同じ大学に誘っただろ」
蒼太の胸が、きゅっと鳴る。
「……うん」
「あの時の俺、正直……、
自分が離れたくなかっただけだったかも
しれない」
蒼太
「……」
「だから、今も……
俺がそばにいることで、
蒼太が“本当は行きたい道”を諦めてたらって
思うと……」
言葉が、そこで途切れる。
青は一度、息を吐く。
「……怖かった」
蒼太は、青の横顔を見つめた。
青がこんなふうに弱い部分を口にするのは、
滅多にない。
「もしさ……蒼太が、
俺と同じ大学に行かなかったら」
青はゆっくりと言葉を選ぶように、続けた。
「ひょっとしたら、
プロへの道もあったかもしれない」
蒼太は何も言わず、ただ耳を傾けている。
「大学野球で活躍して……
もっと違う評価を受けて、
違う道を選べたかもしれない」
夕暮れの光が、青の横顔を赤く染める。
「もしかしたら、蒼太の能力を認められて、
大企業で出世の道もあったかもしれない……」
その言葉は、
蒼太を責めるものではなかった。
むしろ、
自分自身を責める響きを帯びていた。
蒼太は黙ったまま、青を見る。
「だからさ……俺、ずっと思ってた」
青は一度、唇を噛む。
「……蒼太の未来を、
俺が狭めてしまったんじゃないかって」
風が吹き抜け、芝生がさざめく。
「もし、本当にそうだったとしたら……
俺にできることは、一つしかないって」
蒼太のほうを、まっすぐに見る。
「蒼太を守ることだ」
言い切るように。
「守り続けること」
「蒼太が、道に迷ったり、悩んだりしても……
俺は絶対、蒼太を見捨てない」
「何か困難にぶつかっても……
絶対、見捨てない。必ず、救い上げる」
少し間を置いて、低く続ける。
「……そういうつもりで、ずっといた」
言い終えたあと、青は何も言わなかった。
それ以上言えば、きっと自分が壊れてしまう
と分かっているみたいに。
沈黙。
風の音だけが、二人の間を流れる。
蒼太は、まだ何も答えない。
ただ、青の言葉を一つも取りこぼさないよう
に、静かに受け止めていた。
「……だからさ」
青は、一歩だけ蒼太に近づいて言った。
「大丈夫だ。俺がいる」
蒼太は顔を上げない。
「俺が、蒼太を守り続ける」
はっきりと、逃げ場のない声だった。
「だから就職は、ゆっくり決めたらいい」
少し間を置いて、言い直す。
「いや……“就職”じゃなくてさ」
「蒼太がやりたいことを、じっくり、
ゆっくり考えればいい。
蒼太のペースで決めたらいい」
蒼太の指先が、かすかに震える。
「カフェに正社員になるのだっていい……」
「やりたいことが見つかるまで……、
カフェのバイトを続けたっていい」
「ちゃんとしなくてもいいんだよ……」
その瞬間だった。
蒼太の中で、
――何かが、ぱちんと弾ける音がした。
(ちゃんと、しなくてもいい)
胸の奥で渦巻いていた、
焦り、不安、置いていかれる恐怖。
それが、音もなく、すうっと消えていく。
(……ああ)
青の声が、もう一度重なる。
「ちゃんとしなくていい」
「大丈夫だよ」
蒼太は、知らないうちに拳を握りしめていた。
でも今は、その力が、少しずつ抜けていく。
「蒼太が、この先どんな未来を選んでも……。
俺は、蒼太を見捨てない」
「この先ずっと、守り続ける」
それは約束でも、覚悟でもなく、
**青にとっては“当たり前の事実”**のようだった。
蒼太の視界が、滲む。
でも今度は、苦しさじゃない。
救われたと、はっきり分かる涙だった。
「……青さん」
ゆっくり、息を吸ってから。
「ありがとう」
その一言を口にするまでに、
少し時間がかかった。
「僕さ……ずっと、心の中で思ってた」
視線を落としたまま、言葉を紡ぐ。
「“ちゃんとしないと”って」
青のほうを、ちらりと見る。
「青さんの……恋人として、
ふさわしくいられるように」
「青さんの夢の足を引っ張らないように……」
「足手まといにならないように……」
言葉が、少しずつ早くなる。
「青さんの隣に立っても、
恥ずかしくない自分でいないといけないって」
「……だから、ちゃんとしなきゃって」
一度、唇を噛む。
「いつも、
そんなことばっかり考えてた気がする」
静かな風が吹く。
「青さん……ありがとう」
今度は、はっきりと。
「一番、僕が欲しかった言葉を……かけてくれた」
「“ちゃんとしなくてもいい”って」
蒼太の声は、少し震えていた。
「僕……」
胸に手を当てる。
「“ちゃんとしないといけない”ことが、
青さんと一緒にいる条件みたいに
なってたのかもしれない……」
「青さんの恋人でいるために、
……自分を縛ってた」
ゆっくり、首を振る。
「……でも、違ったんだよね」
「青さんは……最初から、
僕をそのまま見てくれてた」
顔を上げて、まっすぐ青を見る。
「……ありがとう」
もう一度。
「本当に、ありがとう」
その言葉には、
感謝も、安堵も、愛情も、全部が詰まっていた。
「‥‥蒼太」
青は、ゆっくりと蒼太のほうへ向き直った。
「安心して、俺のそばにいればいいんだ‥‥」
蒼太の肩が、わずかに揺れる。
「ちゃんとしてなくてもいい……」
「俺は……蒼太のこと、ずっと好きだから」
迷いのない声だった。
「これからも、ずっと俺のそばにいてほしい」
一呼吸置いて、はっきりと言う。
「……愛してるよ、蒼太」
その瞬間。
蒼太の胸の奥に、
ずっと居座っていた重たいものが、
音もなく、きれいに消えていた。
焦りも、不安も、
“ちゃんとしなきゃ”という呪いも。
そこには、ただ温かさだけが残っていた。
「……青さん」
声が震れる。
「僕も……青さんのこと、愛してます」
蒼太は、一歩踏み出す。
「これからも、ずっと……ずっと」
「……青さんのそばに、いさせてください」
青の胸に、そっと額を預ける。
「……離れません」
青は何も言わず、
ただ、蒼太を強く抱きしめた。
夕暮れの空は、
いつの間にか夜へと変わり始めていた。
まつぶし緑の丘公園。
静かな丘の上で、二人は確かに、
これから先の時間を選び取った。