刃のように冷たい冬の夜風が、肺の奥まで凍てつかせる。
吐き出した白い息は、暗闇の中で頼りなく揺れ、すぐに夜の底へと溶けていった。
再建が進み、煌びやかなネオンが復興を謳う新市街。そこから光の届かない、手付かずの瓦礫が墓標のように連なる旧市街地を、緑谷出久は静かに、しかし確かな足取りで駆け抜けていた。
全身を薄い緑色の放電が、淡く包み込んでいる。『ワン・フォー・オール・フルカウル 5%』。
天候すら変え、空を割り、巨悪を打ち砕いた神の如き力は、とうに彼の手を離れていた。今の出久の胸の奥でチカチカと明滅しているのは、歴代の継承者たちが遺してくれた、ちっぽけで、けれど何よりも愛おしい『残り火』だけだ。
この5%の出力を維持しただけでも、一日に活動できるのはわずか数時間。出力を引き上げれば上げるほどその時間は残酷に削り取られ、彼の中に宿る炎そのものが、前倒しで完全に燃え尽きてしまう。
だからこそ、出久はこの限られた尊い熱を極限まで精密にコントロールし、命を燃やすように闇の中を走っていた。
「耳郎くん、口田くん。索敵状況はどうだ?」
インカムから、飯田天哉の冷静で生真面目な声が響く。
『捕らえた。第4ブロックの廃ビル街』
瓦礫に両耳のプラグを挿し込み、周囲の微細な音紋を探っていた耳郎響香の声には、ヒリつくような緊迫感が混じっていた。
『心音と足音の波形、指名手配中のヴィランと一致。……でも、おかしい。その後ろから、複数の別の足音が急速に近づいてる。完全に囲み込んでるよ! 殺気立ってる……!』
『あ、あの……! 上空の鳥たちも、怯えてる。武器を持った人たちの群れが、ヴィランを追い詰めてるって……!』
耳郎の報告を裏付けるように、口田甲司の控えめだが焦りを帯びた声が続く。
耳郎と口田による精度の高い索敵報告。それが意味するものを、A組の面々は痛いほど理解していた。
巨悪が消え去った後、社会は表面上の平和を取り戻しつつあるように見えた。しかし実際は、理不尽に大切なものを奪われた市民たちの心の傷は決して塞がってなどいなかった。行き場を失った怒りと憎悪が、限界を超え、「私刑(リンチ)」という名の暴力となって横行し始めていたのだ。
彼らは自らを『天秤』と名乗り、ここ数ヶ月で拘束前の「ヴィラン行方不明事件」を全国規模で引き起こしていた。
「急ごう。これ以上、悲しい事件を増やすわけにはいかない」
出久が地を蹴る力を少しだけ強め、緑の放電がチリッと音を立てた、その時だった。
「見つけたぞ、社会のゴミめ……! 平和な世界に、お前たち悪魔の居場所などない」
廃ビルの陰。冷たい月光に照らし出されたのは、血まみれになって這いつくばり命乞いをするヴィランと、その首根っこを掴み、無慈悲に鋭い刃物を振り上げる男たち数人のシルエットだった。
「そこまでだッ!」
男が凶器を振り下ろそうとした瞬間、暗闇を切り裂くように銀色の軌跡が走った。飯田がエンジンを唸らせて疾風の如く現れ、男の腕を正確な蹴りで弾き飛ばす。
「くそっ、雄英生か……! なぜ邪魔をする!」
他の男たちが激高し、隠し持っていた鉄パイプや刃物を構えようとしたその時。足元の地面が急激に温度を下げ、分厚い氷の壁が彼らの退路を完全に塞ぎ、その足を床へと凍り付かせた。
「悪だからって、何でもしていいわけじゃねえ。お前らがやってることは、ただの憂さ晴らしだ」
白く凍る息を吐きながら、轟焦凍が静かに立ちはだかる。
「……動くな。その武器を捨てて、両手を頭の後ろで組め」
氷の壁の死角から、気怠げな声が響いた。
「くそっ、いつの間に後ろへ——」
声に反応し、反射的に言葉を返してしまった男たちの瞳から、スッと光が消える。相手の「返答」をトリガーとするヒーロー科編入生、心操人使の個性『洗脳』が、瞬時に暴徒たちの思考と動きを縫い止めた。
そして、上空から鼓膜を揺らす爆音が轟き、爆豪勝己が凄まじい推進力と共に舞い降りた。手にはパチパチとオレンジ色の火花を散らし、洗脳された男たちを鋭い眼光で見下ろす。彼は背後に着地した出久を一瞥し、低く、噛み含めるような声で言った。
「チンタラしてんじゃねェぞ、出久。てめェのその貴重な『時間(タイムリミット)』を、こんな下っ端相手に一秒たりとも削らせるな。……ここは俺たちが制圧する」
洗脳の網から運良く逃れ、武器を弾き飛ばされたリーダー格の男は、氷の壁に阻まれながらも血走った目で出久たちを真っ直ぐに見据えた。
「なぜだ……! なぜお前たちヒーローは、あんなクズどもを庇う!?」
男の口から吐き出されたのは、呪詛のような問いだった。
「私の娘は、こいつらの逃走の巻き添えになって死んだんだ! なのになぜ、奪った側のこいつらは法に守られて生かされる!! 法で裁ききれないなら、我々『天秤』が直々に裁きを下すまでだ!」
自ら『天秤』と名乗った男の悲痛な叫びは、出久の胸の奥底を冷たい刃のように抉った。
それは単なる身勝手な怒りではない。世界に取り残された者の、血を吐くような哀しみだった。
出久は一歩、前へ出た。
5%の緑の光が、彼の揺るぎない決意を映すように静かに揺らめく。
「……あなたの言う通りです。僕たちは、すべてを救えたわけじゃなかった」
出久の声は微かに震えていたが、その瞳は、罪人としてではなく、一人の傷ついた人間として男を真っ直ぐに捉えていた。
「でも、だからって……あなたが自分の手を血で染めていい理由にはならない。あなたの娘さんは、あなたが『人殺し』になることなんて、絶対に望んでない……っ!」
出久の痛みを分かち合うような言葉に、男の肩がビクッと跳ねた。
血走っていた目から、せき止めていたダムが決壊したように、ボロボロと大粒の涙が溢れ落ちる。
「……そんなこと……わかってる……っ」
男の震える手から、隠し持っていた予備のナイフがカランと乾いた音を立ててアスファルトに落ちた。そのまま、糸が切れたようにその場にへたり込む。
「わかってるんだよ……! でも、じゃあ……私はいったい、どうすればよかったんだ……!」
冷たいアスファルトを血の滲む拳で何度も叩き、男は子どものように声を上げて泣き崩れた。
正しい言葉だけでは、行き場を失った遺族の心は決して救えない。その血を吐くような嗚咽を前に、出久はかける言葉を見つけられず、ただ静かに、その悲しみを受け止めるように佇むことしかできなかった。
無慈悲に冷たい冬の夜風だけが、答えの出ない彼らの間を、ヒュルリとすり抜けていった。
とりあえず全10話編成で毎日1話投稿予定です。
(予約投稿済み)