残り火の軌跡と、天秤を支える者たち   作:弾暴

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第三章:崩落した日常と、折れた警察章(バッジ)

『目を逸らすな。これが、お前たちがすがりつく「虚構の平和」の正体だ』

深夜の冷たい空気に、その呪詛のような宣言が溶けていく。

ネット中継のカメラを切り、広場を白日のように照らし出す投光器の光を浴びながら、灰色のローブを纏った男——『裁定者』は静かに、白く濁った息を吐いた。

背後にそびえ立つ、巨大で冷ややかなオールマイトのブロンズ像。その足元で縛り上げられ、恐怖に顔を引き攣らせるヴィランたちを見下ろす彼の瞳は、光を一切反射しない底なし沼のように暗く、濁りきっていた。

彼の本名は、秤 誠一(はかり せいいち)。

数年前まで、この街の交番で勤務する、ごく平凡で実直な警察官だった。

対象に重圧をかける彼の個性『罪の天秤(ギルト・スケール)』は、暴れる犯人を傷つけることなく、その場に縫い留めて取り押さえるのに適していた。彼は自らの個性を「誰も傷つけずに市民を守るための、優しい力」だと誇りに思っていた。

非番の日は、妻の温かい手料理を笑い合って食べ、幼い娘の寝顔をいつまでも愛おしく眺める。そんな、ささやかで、ひだまりのように真っ当な日常が永遠に続くと信じていた。

死柄木弔による未曾有の破壊が日本中を襲い、タルタロスから無数の凶悪犯が野に放たれるまでは。

空が不吉な赤黒さに染まった、あの日。

誠一は制服を泥と血で汚しながら、泣き叫ぶ市民たちの避難誘導に奔走していた。

(大丈夫だ。ヒーローが必ず巨悪を止めてくれる。私は私の持ち場で、一人でも多くの市民を守り抜くんだ)

そう自分を鼓舞しながら、瓦礫の舞う街を走り回っていた彼の無線のイヤホンへ、信じられない通信が飛び込んできた。

『第4ブロック、避難ルート上のビルがヴィランの攻撃により倒壊! 多数の逃げ遅れあり!』

心臓が、凍りついた。

そこは、彼の妻と娘が避難に向かっていた指定ルートだった。

誠一が血相を変えて現場に駆けつけた時、そこは、この世の地獄だった。

脱獄し、自由を謳歌するように気まぐれな破壊を繰り返す名もなきヴィラン。その快楽主義的な一撃で崩落した、数百トンものコンクリートの巨大な山。

舞い上がる粉塵の中、その絶望的な瓦礫の下から、娘の微かな泣き声と、妻の掠れた声が聞こえたのだ。

「いま助ける!! 頑張れ、絶対に助けるから!!」

誠一は狂ったように瓦礫にすがりつき、素手で退かそうとした。しかし、重圧を「かける」ことしかできない彼の個性では、目の前の重みを「持ち上げる」ことなど絶対に不可能だった。

皮肉にも、彼が誇りに思っていた『優しい力』は、愛する家族を押し潰す瓦礫の前では、何の役にも立たない呪いと同義だった。

『……誠一、さん……』

コンクリートの隙間から、血に染まった妻の指先がわずかに見えた。誠一はその手を両手で包み込み、泥だらけの顔を歪ませて泣き叫んだ。

「すぐヒーローが来る! 私も諦めない! だから……ッ!」

『私は、もう……だめ、みたい……。下半身の感覚が、ないの……』

「馬鹿なこと言うな!!」

『お願い……。私のことは、いいから……。あの子を……あの子だけは、助けて……っ。あなたなら、きっと……』

それが、妻の最期の言葉だった。

繋いでいた手の力がふっと抜け、ひんやりとした冷たい沈黙が落ちる。

繋いでいた手の力がふっと抜け、ひんやりとした冷たい沈黙が落ちる。

「……あ、ああ……っ」

絶望に震える誠一の耳に、妻の亡骸の下から、微かな、本当に微かな震える声が届いた。

『……パパ……?』

「結衣! 結衣、無事か!? 今パパが助けるからな!!」

『パパ……ママがね、ねんねして、おきないの……』

まだ幼い娘は、母親が自分を庇って死んだことすら理解できていないようだった。

『パパ……くらいよ。あしが、いたいよ……。たすけて、パパ……』

「今すぐ退ける! 絶対に助け出すから! だから、寝るな! ずっとパパとお話ししてよう、な!」

誠一は狂ったように巨大なコンクリートの塊を掻き毟った。指の爪が剥がれ、肉が裂け、血が吹き出しても、泣き叫びながら引っ掻き続けた。

しかし、対象に重圧を「かける」ことしかできない彼の個性では、目の前の重みをミリ単位すら「持ち上げる」ことができない。自身の誇りだったはずの個性が、ただの呪いとなって誠一の心をズタズタに引き裂く。

『パパ……ヒーロー……きてくれる……? オールマイト、よんで……』

「ああ! 呼んでくる! 絶対に来る! だから、頑張れ! もう少しの辛抱だ!」

しかし、どれだけ叫んでも、空を飛べる平和の象徴も、炎を操るナンバーワンも、誰一人として彼らの元へはやってこなかった。

『……パパ……』

徐々に、瓦礫の奥から聞こえる娘の泣き声が、命の灯火が消えかかるように掠れていく。

『さむいよ……パパ、だっこして……』

「結衣……っ!」

『て、つないで……いいこにするから……こわいよぉ……』

「すぐ行く! すぐ行くから……! ごめんな……! パパの個性が、こんな……こんな瓦礫一つ退けられない、役立たずで……っ!!」

誠一は血だらけの腕をコンクリートの隙間にねじ込み、娘に少しでも触れようと必死に手を伸ばした。しかし、わずか数センチ届かない。愛する娘の温もりにすら、触れてやることができなかった。

『……パパ…………たす、け…………』

それが、最後だった。

「結衣? 結衣!!」

返事はない。瓦礫の奥から聞こえていた小さなSOSは、冬の冷たいアスファルトの上で、残酷なほどあっけなく途絶えた。

妻と娘の命が目の前で理不尽に潰されていくのを、ただ血まみれになって聞いていることしかできなかったのだ。

遠くで、街を壊したヴィランの狂ったような笑い声だけが、無情に響いていた。

戦後、社会は巨悪の討伐に湧き、「平和」を取り戻したと歓喜した。

だが、誠一の時間は、あの日の重たくて冷たい瓦礫の前で、永遠に止まったままだった。

数ヶ月後。警察署の無機質な取調室。

マジックミラー越しに、誠一は一人の男を見ていた。

彼の家族の命を奪ったヴィランだった。男はヘラヘラと薄ら笑いを浮かべながら、「あの時はオール・フォー・ワンのせいで日本中がパニックで、自分の個性も暴走してよく覚えていない」と、用意されたような供述を繰り返していた。

「……情状酌量の余地あり、だと?」

「『オール・フォー・ワン』という巨悪がもたらした未曾有の社会崩壊……それに伴う極度のパニックと、集団心理による心神喪失状態。弁護側はそう主張している」

上司は苦渋の表情で、誠一の肩を重く叩いた。

「あの時、あの空間において、彼ら末端のヴィランもまた『巨悪が生み出した狂気の被害者』である……と、法廷はそう解釈する流れに傾いている。死刑や無期懲役にはならないだろうな」

「……ふざけるな」

誠一の奥歯が、ギリッと血の味がするほど強く鳴った。

「巨悪のせいだと? パニックだったからと? だから、私の妻と娘を瓦礫の下敷きにして笑っていた奴が、法に守られると言うのか!」

「悔しいのは分かる。だが、我々は法治国家の警察だ。法が彼に情状を認め、『更生』の道を与えるなら、それに従うしかないんだ、秤」

「……情状酌量の余地あり、だと?」

「未曾有の災害時における心神喪失状態、極度のパニックによる個性の暴走……弁護側はそう主張している。死刑や無期懲役にはならないだろうな」

上司は苦渋の表情で、誠一の肩を重く叩いた。

「悔しいのは分かる。だが、我々は法治国家の警察だ。法が彼に『更生』の道を与えるなら、それに従うしかないんだ、秤」

誠一は、ゆっくりと自分の胸元に視線を落とした。

金色に輝く、旭日章の警察バッジ。

これまで命を懸けて守り、誇りに思ってきた『法』と『正義』の象徴。

それが今、これほどまでに薄っぺらく、吐き気がするほど醜い鉄くずに見えるとは思いもしなかった。

(法は……天秤は、平等などではない)

奪われた側の「絶対的な喪失と地獄」よりも、奪った側の「更生という名の偽善」を重く見積もる。それが、この社会の正体だった。

「……お世話に、なりました」

誠一は静かに警察手帳を取り出し、上司のデスクにコトリと置いた。

「私の守りたかった正義は、この手帳の中にはありませんでした。……お元気で」

制止する声を背に、誠一は警察署を後にした。

その足で彼は旧市街地の地下へ潜り、自らの顔の半分を業火で焼き爛れさせた。法を信じ、綺麗事を並べていたかつての「善良な警察官」を自らの手で殺し、法に代わって悪を裁く『裁定者』として生まれ変わるために。

「……まもなく、ヒーローどもが駆けつけてくるだろう」

過去の幻影を振り払うように、裁定者は広場を取り囲むバリケードを見渡した。そこには、彼と同じように法に見捨てられ、癒えない悲しみを背負う同胞たちが、武器を手に立っていた。

「恐れるな。我々の悲しみは、決して間違ってはいない」

裁定者の声が、冷たい夜風に乗って広場に響く。

見上げる先には、暗闇の中にそびえ立つオールマイトの巨大な像。それはまるで、彼らの悲しみを黙殺し続ける『旧時代の虚構』そのもののように、冷たく無機質に見下ろしていた。

 

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