パトカーの毒々しい赤色灯が、神野の冷たい夜の闇をサイレンと共に切り裂いていた。
現場の最前線へと到着した出久たちA組の目に飛び込んできたのは、異様な光景だった。ベストジーニストをはじめとするトップヒーローたちや、重武装の機動隊がオールマイト像の広場を完全に包囲しながらも、誰一人として一歩も踏み出せずにいたのだ。
「ステイだ、デク。……迂闊に近づくな」
鋭い視線を前に向けたまま、ベストジーニストが低く制止する。
彼が見つめる広場の境界線——そこには、自らの首元に鋭い刃物を突き立て、あるいは頭から可燃性の液体を被り、ライターを握りしめた数十人の市民たちが、人間のバリケードとなって立ち並んでいた。
彼らの瞳に、狂乱はない。あるのはただ、法に絶望し、悪の根絶だけを悲願とする「被害者遺族」としての、凍りつくような純粋な覚悟だった。
「心操! お前の洗脳で、一気に……!」
切島鋭児郎が焦燥に駆られて叫ぶが、心操人使は血が滲むほど強く唇を噛み締めた。
「駄目だ……! 洗脳のターゲットには声に対するレスポンスが必要だ。これだけ大人数を同時に、しかも『自死を止める』なんて複雑な命令で縛る前に、他の奴らが一斉に刃を引くか、火を放つリスクが高すぎる」
どれほど強大で無敵の個性を持っていようと、自らの命をチップにし、ヴィランの処刑を完遂しようとする悲しき市民たちを、全員無傷で制圧することなど不可能に近い。ヒーローの「誰も死なせない」という誓いが、ここでは最大の足枷となっていた。
その時、投光器に照らされたオールマイト像の足元から、拡声器を通した裁定者(秤誠一)の冷徹な声が響き渡った。
『お前たちの中から、たった一人だけ、この「裁きの場」に立ち入る権利を与えよう。……来い、緑谷出久』
「なめやがって……!」
爆豪勝己が激昂し、掌から爆発の閃光を弾けさせた。
「てめェらのくだらねェ自己満足に、出久の『命(タイムリミット)』を巻き込んでんじゃねェ!!」
今すぐにでも飛び出し、全てを吹き飛ばしてやりたい衝動。しかし、市民たちがピクリと反応し、首元の刃をさらに深く押し当てるのを見て、爆豪はギリッと奥歯が砕けるほど噛み締め、怒りの炎を消さざるを得なかった。
「……行きます」
静かな、けれど決して揺るがない声。出久はゆっくりと一歩前へ出た。
「緑谷くん! 罠に決まっている! 君一人が背負う必要は……!」
飯田天哉が制止しようと手を伸ばすが、出久はその手をそっと躱し、真っ直ぐにバリケードを見据えた。
「分かってる。でも、あそこにいる市民の人たちは……嘘をついてない。彼らの悲しみを、これ以上見過ごすことはできないんだ。みんなは、外で待っていて」
5%の淡い緑の光を纏い、出久が歩み寄る。
すると、自らの首に刃を突き立てていた市民たちが、モーゼの海割りのように、彼一人だけが通れるわずかな隙間を開けた。
すれ違う瞬間、ガソリンの鼻を突く匂いと共に、声にならない呪詛が冬の冷たい風に乗って出久の肌を刺す。
(お前たちが、あいつらを生かした)(私の娘を返せ)(偽善者め)——投げつけられる視線は、物理的な打撃よりも深く、出久の心を削り取っていった。
広場の中央。巨大なオールマイト像の足元。
出久はついに、灰色のローブを纏った『裁定者』と対峙した。
「よく来たな、緑谷出久。理不尽な天秤を放置し続けた、偽善の力を受け継ぐ最後の器よ」
「彼らを解放してください」
出久は、背後で縛り上げられているヴィランたちと、秤を交互に見つめた。
「彼らが犯した罪は、法が裁きます。もし法で救えない悲しみがあるなら、僕たちヒーローが必ず、あなたたちの心に寄り添うから……!」
「黙れッ!!」
秤が激昂と共に両腕を広げた。その顔の半分を覆う火傷の痕が、怒りで赤黒く引き攣る。
「貴様らがその綺麗事を並べている間に、善良な市民の命がどれだけ理不尽に奪われたと思っている! これ以上、奪った側が守られる世界など我慢ならない。……刮目せよ、我が個性『罪の天秤(ギルト・スケール)』!!」
ドォォォンッ!!
「が、はっ……!?」
出久の体が、目に見えない巨大なコンクリートの塊に押し潰されたように、激しくアスファルトに叩きつけられた。
それは単なる物理的な重力ではない。あの日、秤が愛する家族を救えなかった「絶望の瓦礫の重さ」。そして、脳髄に直接流れ込んでくる圧倒的な『罪悪感』と『喪失感』が、概念的な重圧となって出久の全身の骨を軋ませ、地に縫い付ける。
「どうした。這いつくばってばかりでは、お前が庇う『ゴミども(ヴィラン)』を救うことなどできんぞ」
圧倒的な重圧に血を吐く出久を見下ろし、秤は冷酷に指を鳴らした。
拘束具が外れ、広場に縛り上げられていたヴィランたちが自由になる。
「拾え」
秤は、ヴィランたちの足元に無数の鉄パイプや瓦礫を蹴りやった。
「お前たちを助けに来たという、その『平和の象徴』を殴り殺せ。やらないなら、今すぐお前たちの頭上に、これと同じ鉄塊の重圧を落として挽肉にしてやる」
「ひ、ひぃぃっ……!」
死の恐怖に完全に支配されたヴィランたちは、狂乱して鉄パイプを拾い上げた。そして、涙と鼻水を流しながら、自分を助けようとして重圧に跪いている出久の背中へ向かって、次々と凶器を振り下ろした。
「見ろ、緑谷出久! これがお前たちの守ろうとしたものの正体だ!! 己が助かるためなら、救いに来た恩人すら平気で殴り殺す。これが『悪』だ!!」
ゴォォンッ!! ドガァッ!!
鈍い音が広場に響き渡る。
「ぐ、ぅぅ……ッ!!」
防戦一方の出久の口から、鮮血の塊が吐き出され、冷たいアスファルトに赤い染みを作った。
像の上から見下ろすオールマイトの虚ろな瞳の前で、ヒーローが庇ったヴィランに殴り殺されるという、絶望的で皮肉な公開処刑が幕を開けた。