爆豪勝己が無良を血と泥に塗れながらねじ伏せていた、そのすぐ傍らで。
轟焦凍の視界は、一寸先も見えないほど濃密で、息をするのも困難な「黒い灰」に完全に覆い尽くされていた。
「無駄だ。俺の個性『死灰(アッシュ)』の前では、お前の派手で強大な個性もただの灰に消される」
視界の通らない淀んだ灰の奥から、裁定者の左腕・灰燼炉(かいじん いろり)の、喉を掻きむしるような嗄れた声が響いた。
「お前たち轟家は、世間から同情を集めているそうだな。……笑わせるなよ」
灰燼は、自身の指先からこぼれ落ちる役立たずの「煤」を握りしめ、地を這うような恨み言を轟にぶつける。
「親父の最高傑作であるお前はもちろん、失敗作として捨てられたというあの『荼毘(燈矢)』でさえ! 街を丸ごと灰にするほどの、強大で美しい炎を持っていたじゃないか! 結局お前らの不幸は、『特別』だから起きた贅沢な悲劇なんだよ!!」
灰燼の絶叫は、社会の底辺で踏み躙られてきた「持たざる者」の、血を吐くようなルサンチマンだった。
「物を燃やすことも、温めることもできない! 親に『ゴミ』だと捨てられた俺のような凡人の絶望なんて、才能の恩恵をたっぷり受けたお前らに、絶対に理解できるわけがないんだよ!!」
どれほど家庭環境が凄惨であったとしても、轟が「持っている側」であるという現実は覆らない。灰燼はその残酷な真理を盾に、轟の精神をへし折ろうとした。
しかし。
黒い灰に包まれた轟は、反論も、自己弁護もしなかった。
自身の放った美しい氷が黒い煤に汚され、そして、胸から生み出したはずの炎が、濃密な灰に酸素を奪われてシュン……と音を立てて消えていく様を、ひどく静かに見つめていた。
「……ああ。お前の言う通りだ」
酸素を奪われ、ゴホッと咳き込みながらも。
轟は、自分を拒絶する死灰の只中へと、一歩、また一歩と静かに歩み寄っていく。
「俺は、恵まれているんだろうな。最初から何も持っていないお前の痛みを、俺が底の底まで完全に理解してやることは、一生できないと思う」
「なら、同情するな! 偽善者が近寄るな!!」
灰燼が激昂し、煤の密度を極限まで上げて轟の気管を焼き尽くそうとする。
しかし、轟の歩みは決して止まらなかった。どれだけ制服が真っ黒に汚れようと、そのオッドアイの瞳は、灰の奥で震える灰燼の姿を真っ直ぐに捉えて離さない。
「でもな。……火は、人を温めるだけのものじゃない」
轟は、自らの左手を見つめ、どこか悲しげに目を伏せた。
「時には強すぎる熱で、大切なものを焼き尽くし、取り返しのつかない傷を負わせてしまう。……俺たち轟家は、その強大な炎で互いを焼き、戦い、傷つけ合うことしかできなかった」
轟の脳裏に、憎悪に焼かれた兄・燈矢の姿と、家族が負った凄惨な火傷の痕がよぎる。強すぎる力は、時に人を狂わせ、呪いとなるのだ。
「……だから、気付いたんだ。お前の個性に触れて」
轟は、自分を取り囲み、炎をかき消した灰燼の『死灰』をそっと両手で掬い上げた。
「お前のこの灰は、ただ汚すだけのゴミなんかじゃない」
「……何、を……」
「酸素を遮断し、燃え盛る炎を覆い隠して……優しく鎮めることができる」
轟の真っ直ぐで嘘のない言葉が、冷たい冬の空気に響く。
「親父さんは『物を燃やせない失敗作』だと言ったかもしれない。でも俺には……暴走する炎から人を守り、誰かの火傷を防ぐことができる、救けの力に見える」
「あ……」
灰燼の息が止まった。
「俺たちのような、戦い傷つけることしかできない不器用な炎には絶対にできない……誰よりも優しい、立派なヒーローの個性だ」
轟の不器用で、ひどく温かい手が、灰燼の煤に塗れた肩をそっと、力強く抱き寄せた。
エリートであるはずの轟の顔も、制服も、灰燼の煤で真っ黒に汚れていた。けれど轟はそんなこと全く気に留めず、光を見ることすら許されなかった者に、純粋な敬意と肯定を与えたのだ。
「お前は……失敗作なんかじゃない」
その絶対的な肯定の言葉に触れた瞬間。
灰燼の中で何十年も凍りついていた「見捨てられた子ども」の孤独が、音を立てて崩れ落ちた。
「あ……ぁぁ……ッ」
灰燼の血走った目から、とめどなく大粒の涙が溢れ出した。
「あああぁぁぁぁぁッ……!!」
親の期待に応えられなかった夜から、ずっと誰かに言ってほしかった言葉。ずっと誰かに見つけてほしかった、自分だけの価値。
灰燼は膝から崩れ落ち、自らの煤で真っ黒になった轟の胸にすがりつきながら、まるで迷子になった子どものように声を上げて泣き崩れた。
才能の有無という残酷な天秤にかけられ、壊れてしまった二つの魂が。
一方は自らの泥を被ることで、もう一方は「優しい力」を見つけ出し肯定することで、その悲しき連鎖を完全に断ち切ったのだ。