夏休みの初日は、目覚まし時計より早く目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しくて、私は布団の中で目を細めた。蝉の声がもう始まっている。今年も暑い夏になりそうだ。
時計を見ると、朝の六時。いつもの起床時間より三十分も早い。でも、体が勝手に起き上がってしまう。だって、今日から夏休みなんだから。
学校がない日は、朝からカフェの準備ができる。それが嬉しくて、パジャマのまま洗面所に駆け込んだ。
顔を洗って、髪をひとつに結んで、お気に入りのエプロンをつける。このエプロンは去年の誕生日におばあちゃんがくれたもので、胸のところに小さなクマの刺繍が入っている。おばあちゃんの手縫いだ。
「おばあちゃん、おはよう!」
キッチンに降りると、おばあちゃんはもうコーヒー豆を挽いていた。ゴリゴリという木製ミルの音が、朝の静かな空気に心地よく響く。この音を聞くと、一日が始まるんだなって思う。
「あら、愛。今日は早いねぇ」
「だって夏休みだもん。今日は朝から手伝えるよ!」
「ほっほっ、頼もしいねぇ」
おばあちゃんが目を細めて笑う。この笑顔が好きだ。世界中のどんな宝石より綺麗だと、本気で思う。
「ねえおばあちゃん、今日ね、新しいシフォンケーキ作ってみたいの」
「シフォンケーキ?」
「うん。この前図書館で借りた本に載ってたレシピなんだけど、紅茶のシフォンケーキ。おばあちゃんのコーヒーに合うと思うの」
私はコーヒーが飲めないけど、おばあちゃんのコーヒーに合うお菓子を作りたいとは、ずっと思っていた。自分が飲めなくても、おばあちゃんが「このお菓子とコーヒー、合うねぇ」って笑ってくれたら、それだけで十分だ。
「楽しみだねぇ。おばあちゃん、愛のお菓子はいつだって楽しみだよ」
その言葉を胸に抱いて、私はカフェの準備に取りかかった。
開店は十時。
テーブルを拭いて、椅子を並べて、窓を開ける。山の空気が店内に流れ込んで、木の匂いと土の匂いが混ざった、懐かしい風が頬を撫でる。
この匂いが好きだ。都会の人が嗅いだら何も感じないかもしれないけど、私にとっては世界で一番安心する匂い。
花瓶の水を替えて、メニュー表を確認して、ランチの仕込みを始める。今日のスープはコーンポタージュ。とうもろこしは昨日のうちに買い出しておいたから、朝から茹でて、裏ごしして、牛乳と合わせる。
私が料理をしている間、おばあちゃんはカウンターの中でコーヒーの準備をしている。お互いの持ち場で、お互いの仕事をする。言葉がなくても、時々目が合って、微笑み合う。
この時間が、一番好きだ。
十時になって、のれんを出す。「タカラ」と書かれた紺色ののれん。おじいちゃんが開店の時に作ったもので、もう何年も使っているから少し色が褪せている。でも、おばあちゃんはこれを新しくする気はないらしい。私もそれでいいと思う。
午前中は静かだった。
常連の松田さんがコーヒーを飲みに来て、「今日から夏休みかい、愛ちゃん」と声をかけてくれた。「はい!今日からたくさん手伝います!」と答えたら、「えらいねぇ」と笑ってくれた。
お昼前に、もうひとりの常連、橋本さんが来た。橋本さんはいつもカレーライスを頼む。「愛ちゃんのカレー、今日も楽しみだよ」と言ってくれるのが嬉しくて、いつも少しだけ盛りを多くしてしまう。
「今日のカレー、とうもろこしの甘みが効いてるね。夏って感じだ」
橋本さんがスプーンを口に運びながら言った。わかってもらえた。隠し味に、コーンポタージュの裏ごしで余ったとうもろこしのペーストを少し入れたのだ。
「気づいてくれたんですか!嬉しい……!」
「そりゃ気づくよ。毎週食べてるんだから、いつもと違ったらすぐわかる」
毎週通ってくれて、味の変化に気づいてくれる。それが常連さんだ。こういう人たちがいるから、料理はやめられない。
穏やかな昼下がりが流れていく。窓の外では蝉が鳴いていて、扇風機がゆっくり首を振っている。エアコンはあるけど、おばあちゃんは「夏は夏らしくしていたいねぇ」と言って、よほど暑い日じゃないと使わない。
午後二時を過ぎると、お客さんの波が引いて、カフェは静かになる。この時間が、私のお菓子作りの時間だ。
キッチンの奥で、シフォンケーキの準備を始める。
卵を割って、白身と黄身に分ける。黄身にグラニュー糖を加えて、白っぽくなるまで混ぜる。紅茶の茶葉はアールグレイを選んだ。ベルガモットの香りが、おばあちゃんのコーヒーの苦味と合うと思ったから。
茶葉を細かく刻んで、牛乳で煮出す。キッチンに紅茶の甘い香りが広がる。
メレンゲを立てる。ハンドミキサーはうちにはないから、泡立て器で手動だ。腕が疲れるけど、この工程が一番大事だと本に書いてあった。しっかり角が立つまで、妥協しない。
生地をシフォン型に流し込んで、オーブンに入れる。百七十度で三十分。
焼いている間、私はオーブンの前にしゃがみ込んで、膨らんでいく生地を見つめていた。少しずつ、少しずつ、ふくらんでいく。この瞬間がたまらなく好きだ。自分が作ったものが、形になっていく。
「愛、何を作ってるんだい?」
おばあちゃんがキッチンを覗き込んだ。
「紅茶のシフォンケーキ。もうすぐ焼けるよ」
「いい匂いだねぇ……」
おばあちゃんが目を閉じて、鼻から息を吸い込む。その幸せそうな顔を見るだけで、もう成功した気分になる。
オーブンが鳴った。
型を逆さにして冷ます。焦る気持ちを抑えて、しっかり冷めるまで待つ。三十分。その間にホイップクリームを作って、お皿を用意して、おばあちゃんのコーヒーも淹れてもらった——もちろん、私の分はオレンジジュースだけど。
型から外す瞬間が、一番緊張する。
……うまくいった。ふわふわで、きれいな形。ほんのり茶色がかった生地に、アールグレイの茶葉が細かく散っている。
切り分けて、ホイップクリームを添えて、おばあちゃんの前に出す。
「おばあちゃん、どうぞ!」
おばあちゃんがフォークでひと口。
もぐもぐと咀嚼して、ゆっくり飲み込んで、それからコーヒーをひと口飲んだ。
「……おいしいよ、愛」
「ほんと!?コーヒーと合う!?」
「うん。紅茶の香りがふわっとして、そのあとにコーヒーの苦味がきて……とっても合うよ。愛はすごいねぇ」
やった。
やった……!
嬉しくて、思わず小さくガッツポーズをしてしまった。おばあちゃんが「ほっほっ」と笑う。
「これ、お店に出そうか」
「え、いやいや、まだそんな……」
「おいしいのに、もったいないよぉ」
いつものやり取り。おばあちゃんはいつもそう言ってくれるけど、私はまだ自信がない。お金をもらって出すには、もっともっと上手にならないと。
でも、いつかきっと。
いつか、このカフェの片隅に、私のお菓子を並べる日が来る。そう信じていた。
午後四時を過ぎた頃だった。
松田さんも橋本さんも帰って、カフェには私とおばあちゃんだけになっていた。そろそろ閉店の準備を始めようかと思った時、カランコロンとドアベルが鳴った。
「いらっしゃいま——」
言いかけて、止まった。
入ってきたのは、見たことのない女の子だった。
私より少し背が高くて、髪は明るい茶色のボブカット。大きな目が、猫みたいにくるくると店内を見回している。白いワンピースに、小さなリュックサック。都会の子だ、とすぐにわかった。この辺りにはいない空気をまとっている。
「……ここ、カフェ?」
第一声がそれだった。挨拶でも、「こんにちは」でもなく、確認。店の中を見回す目には、好奇心と、それから——何か、品定めするような光があった。
「は、はい。カフェ・タカラです。いらっしゃいませ」
「ふぅん。メニュー、ある?」
私が差し出したメニュー表を、その子は片手で受け取った。ページをめくる指が白くて細い。爪がきれいに整えられていて、でもマニキュアは塗っていない。
「カレーライス、オムライス、サンドイッチ……ナポリタン」
メニューを読み上げる声に、感情がない。良いとも悪いとも言っていない。ただ読んでいるだけ。なのに、なぜだろう。その淡々とした声が、メニューの素朴さを浮き彫りにしているように聞こえてしまう。
「……ふぅん」
また、ふぅん。
「あの、何にされますか……?」
「じゃあ、オムライスで」
「はい!少々お待ちください!」
私はキッチンに戻って、オムライスを作り始めた。いつも通りに。チキンライスを炒めて、卵を溶いて、フライパンに広げる。手際には自信がある。20人前を30分で作った私だ。オムライスの一つや二つ、朝飯前——
「ここ、山の中なのに、お客さん来るんだ」
カウンター越しに、その子が話しかけてきた。足をぶらぶらさせながら、店内を見ている。
「う、うん。常連さんが来てくれるの」
「常連さんだけ?」
「えっと……近所の人とか、たまに遠くから来てくれる人も……」
「たまに、かぁ」
悪気はないのだと思う。ただ聞いているだけなのだと思う。でも、その子の相槌の一つひとつが、私の知っている「タカラ」の小ささを映し出しているように感じてしまう。
気のせいだ。気にしすぎだ。
オムライスが完成した。我ながらいい出来だ。卵のふちが少しだけ焦げたけど、これはわざとだ。おばあちゃんが「少し焦げ目がある方が香ばしくていいねぇ」と言っていたから。
「お待たせしました」
テーブルに運ぶと、その子はオムライスをじっと見つめた。それからスプーンを手に取って、端の方からひと口。
咀嚼する表情を、私は無意識に見つめてしまっていた。
常連さんがオムライスを食べる時は、すぐに「おいしい」と言ってくれる。だから私はいつも安心する。でも、この子は——
「……おいしいよ」
言ってくれた。おいしいと、言ってくれた。
でも。
私は気づいてしまった。
その「おいしいよ」の声が、少しだけ——ほんの少しだけ、低いのだ。
松田さんの「おいしいよ」とも、橋本さんの「おいしいよ」とも、おばあちゃんの「おいしいよ」とも違う。嘘をついているわけではない。まずいと思っているわけでもない。ただ、この子にとっての「おいしい」のスケールが、きっと——私たちとは違うのだ。
世界を知っている人の「おいしい」。
小さなカフェしか知らない私の「おいしい」。
同じ言葉なのに、同じ重さではない。
「……ありがと」
振り払った。今のは気のせいだ。考えすぎだ。
私はカウンターに戻って、洗い物を始めた。水の音に集中する。蛇口から流れる水の、さらさらという音。それだけ聞いていればいい。
「ねえ」
洗い物をしていると、また声がかかった。振り向くと、その子はオムライスを完食していて、スプーンをお皿の上にきれいに置いていた。食べ方が丁寧だ。
「ここ、コーヒーあるんでしょ。飲みたい」
「あ、うん。おばあちゃん——」
おばあちゃんを呼ぼうとしたら、おばあちゃんはもうカウンターの中にいた。いつの間にか、コーヒーを淹れる準備をしている。おばあちゃんは新しいお客さんが来ると嬉しそうにする。今日も、にこにこしている。
「はい、どうぞ」
おばあちゃんがコーヒーを出す。白い陶器のカップに、黒い液体。湯気が静かに立ち上っている。
その子はカップを両手で持って、まず香りを嗅いだ。鼻を近づけて、ゆっくりと息を吸い込む。
それから、ひと口。
……その子の目が、変わった。
さっきまでの、どこか醒めたような、品定めするような目ではなくて。本当に、純粋に——驚いている目。
「……おいしい」
今度の「おいしい」は、さっきのオムライスの時とは全然違った。
声が、高い。目が、開いている。体が、少し前のめりになっている。
「すごくおいしい。この苦味の奥にある甘さ——どうやって出してるんですか?」
その子がおばあちゃんを真っ直ぐ見つめている。さっきまでの生意気な空気が嘘みたいに、その瞳はまっすぐで、真剣だ。
おばあちゃんが嬉しそうに微笑んだ。
「ほっほっ、わかるかい。これはねぇ、豆の焙煎を深めにして——」
おばあちゃんが語り始めた。焙煎の温度、時間、豆の種類。お湯の温度は何度がいいか、注ぎ方はどうするか。おじいちゃんと一緒に研究したこと。長い年月をかけて辿り着いた味のこと。
その子は、一言も聞き漏らすまいとするように、じっとおばあちゃんの話に聞き入っていた。時々「それ、すごいですね」「なるほど」と相槌を打つ。その相槌が的確で、コーヒーのことをちゃんとわかっている人の反応だった。
私はカウンターの端に立って、二人の会話を聞いていた。
おばあちゃんの目が輝いている。いつも私と話す時も笑顔だけど、今の輝き方は少し違う。もっと——なんと言えばいいんだろう。昔を思い出しているような、懐かしいものを見つけたような、そんな光。
ふと、思った。
おばあちゃんは、コーヒーの話をこんなに楽しそうにする人だったんだ。
私はコーヒーが飲めないから、味の話をされてもわからない。「おいしそうだね」とは言えるけど、「この苦味の奥にある甘さ」なんて言葉は出てこない。おばあちゃんがコーヒーに注いでいる情熱の深さを、私は本当の意味では理解したことがなかったのかもしれない。
おじいちゃんがいた頃は、二人でよくコーヒーの話をしていたんだろうな、と思った。おじいちゃんが亡くなってからは、誰ともそういう話をしていなかったのかもしれない。
——私がいたのに。
その考えが浮かんだ瞬間、自分で自分に驚いた。
何を考えているんだろう。おばあちゃんが楽しそうにしているのに、なんで私はこんな——
「ねえ、お姉さん」
はっと顔を上げると、その子がこちらを見ていた。猫みたいな目が、真っ直ぐに私を捉えている。
「お姉さんは、このコーヒー飲まないの?」
「あ……私は、コーヒー苦手で……」
「そうなんだ。もったいない」
悪気はない。本当に、ただ「もったいない」と思っただけなのだと思う。
おばあちゃんが「愛は甘いものが好きだからねぇ」とフォローしてくれた。
「甘いもの?じゃあ、お菓子作りとかするの?」
「う、うん。趣味で……」
「ふぅん」
また、ふぅん。
その子はコーヒーを飲み干して、鞄からお財布を取り出した。きちんとお金を払って、席を立つ。
「ごちそうさまでした。おばあさんのコーヒー、ほんとにおいしかったです」
深く頭を下げた。生意気に見えていたのに、礼儀はちゃんとしている。
「また来ます」
そう言って、その子はドアに向かった。カランコロン、とベルが鳴る。
「あ、あの——」
私は思わず声をかけた。
「名前……聞いてもいい?」
その子が振り返った。夕方の光が入り口から差し込んで、茶色の髪を金色に染めている。
「凛。桜庭凛」
それだけ言って、白いワンピースの裾を翻して、夏の光の中に消えていった。
「いい子だったねぇ」
おばあちゃんが、カウンターの中でカップを洗いながら言った。
「うん……」
「コーヒーのこと、よくわかってる子だったねぇ。おじいちゃんが生きてたら、気に入ってただろうねぇ」
おじいちゃんが気に入る。
その言葉が、なぜか胸の奥のやわらかいところに触れた。
「愛?どうしたんだい、ぼうっとして」
「あ、ううん。なんでもない」
笑顔を返した。いつもの笑顔。
「ねえおばあちゃん、さっきのシフォンケーキの残り、冷蔵庫に入れてあるから、夜に食べようね」
「うん、楽しみだねぇ」
閉店作業をしながら、テーブルを拭いて、椅子を片付けて、窓を閉める。いつもと同じ動作。いつもと同じ夕方。
のれんをしまう時、外を見た。
山の向こうに夏の太陽が沈みかけていて、空がオレンジ色に染まっている。蝉の声が少しずつ弱くなって、代わりにひぐらしの声が聞こえ始めた。
桜庭凛。
あの子は、また来るのだろうか。
「また来ます」と言っていた。
きっと、社交辞令だ。こんな山奥のカフェに、わざわざもう一度来るわけがない。都会の子だ。もっと大きくて、もっとおしゃれなカフェをたくさん知っているだろう。
そう思ったのに、胸の奥で、小さな棘みたいなものが——ちくりと、刺さったまま抜けない。
何だろう、これ。
よくわからないまま、私はのれんを畳んで、お店のドアに鍵をかけた。
その夜。
おばあちゃんと一緒にシフォンケーキを食べた。「おいしいねぇ」と言ってくれた。嬉しかった。
自分の部屋に戻って、ベッドに横になった。目を閉じると、今日の出来事が瞼の裏に浮かぶ。
——おいしいよ。
あの子が私のオムライスを食べた時の声。低い「おいしいよ」。
——すごくおいしい。
あの子がおばあちゃんのコーヒーを飲んだ時の声。高い「おいしい」。
同じ子の、同じ口から出た、同じ言葉。でも、その間にある温度差が、暗闇の中でやけにはっきり思い出される。
……やめよう。考えすぎだ。
あの子は、もう来ない。「また来ます」は社交辞令だ。明日からはいつもの夏休みが始まる。おばあちゃんと一緒にカフェを開けて、常連さんとおしゃべりして、料理を作って、お菓子を作って。
それだけでいい。それだけで、十分幸せなんだから。
私は枕に顔をうずめて、目を閉じた。
遠くで、ひぐらしが鳴いている。
夏は、まだ始まったばかりだった。