夏休み最後の日。八月三十一日。
目が覚めた時、枕元にシフォン型があった。
昨夜、握りしめて眠ったはずだ。でも、寝ている間に手から離れて、枕の横に転がっていた。アルミの型が朝日を反射して、小さな光を天井に投げかけている。
その光を、しばらく見つめていた。
何かを感じるはずだった。昨夜は——何かを感じかけていた。型を握った時の冷たさ。手のひらで温まっていく感触。おじいちゃんの字。「愛へ」。
でも、朝になったら——何もなかった。
昨夜の涙は乾いていた。枕のしみだけが残っていた。目は腫れていたけれど、痛みはなかった。体は軽かった——泣いたから。中身が出ていったから。
空っぽだった。
シフォン型と同じだ。空っぽ。中に何もない。型だけがある。型だけが残っている。
手に取った。
冷たい。朝の空気で冷えたアルミ。昨夜、手のひらの体温で温めたはずなのに、もう冷たく戻っている。
当たり前だ。私の体温くらいでは——持続しない。手を離せば、すぐに冷える。
それだけのことだ。
型を箱に戻した。蓋を閉めた。「愛へ」の文字が見えなくなった。
起き上がって、部屋を出た。
洗面所で顔を洗った。鏡を見た。目が腫れている。顔色が悪い。唇が乾いている。
でも——見慣れた顔だ。ここ数日、ずっとこの顔だった。
歯を磨いた。髪を梳かした。結ばなかった。結ぶ意味がない。エプロンをつける予定がないから。
階段を降りた。
キッチンに——誰もいなかった。
時計を見ると、朝の九時。おばあちゃんと凛は、もうカフェに行っているのだろう。今日は何人来るのだろう。十人か。十五人か。夏休み最後の日だから、もっと来るかもしれない。
テーブルの上に、朝ごはんが置いてあった。
ラップのかかったお皿。トーストとサラダとスクランブルエッグ。その横に、小さなメモ。
おばあちゃんの字。丸くて柔らかい字。
「愛へ。食べてね。おばあちゃん」
短いメモ。いつもの優しさ。
食べた。トーストをかじった。スクランブルエッグを口に入れた。サラダを食べた。味がした。おいしいとか、おいしくないとか、そういうことではなく——味が、した。食べ物の味が口の中にある。それだけの事実。
食べ終えた。皿を洗った。水の音。いつもの音。
洗い終えた皿を伏せて、布巾で手を拭いた。
手を見た。
きれいだった。荒れが完全に治っていた。料理をしない手。お菓子を作らない手。何も作らない手。白くて、柔らかくて、傷のない手。
凛の手みたいだ、と前に思った。でも違う。凛の手は毎日作り続けていてもきれいな手だ。私の手は——作ることをやめたからきれいな手だ。
同じ「きれいな手」でも——意味が、まるで違う。
キッチンを出て、居間を通りかかった時、目に入ったものがあった。
壁に、写真が飾ってあった。
先日撮った三人の写真。改装されたカフェの前で、おばあちゃんと凛と私。橋本さんが撮ってくれた写真。
おばあちゃんがプリントして、フレームに入れて、飾ったのだ。
近づいて見た。
三人が笑っている。おばあちゃんは真ん中。右側に凛。左側に私。
おばあちゃんの右手は凛の肩にかかっている。左手は——降ろされている。
あの時も気づいていた。気づいて、「たまたまだ」と思おうとした。
今、改めて見ると——もう「たまたまだ」とは思えなかった。
でも——「わざとだ」とも思わなかった。
おばあちゃんは何も考えていなかったのだ。ただ自然に、右手が凛の肩にいった。自然に。無意識に。
無意識が——一番正直だ。
意識して平等にしようとすれば、おばあちゃんは両方の肩に手を置いただろう。でも無意識の瞬間に、体が先に動いた先は——凛だった。
責めているのではない。もう——責めるという感情すら、残っていなかった。
ただ、事実として——そこにある。
写真の中の私は、笑っている。ちゃんと笑っている。いつもの笑顔。上手な笑顔。
おばあちゃんが言っていた。「愛があんまり上手に笑うから」と。
上手に笑う。
それが——私の一番の特技なのかもしれない。料理でもない。お菓子作りでもない。笑うこと。辛くても笑うこと。泣きたくても笑うこと。
誰にも心配されないように。誰にも迷惑をかけないように。誰にも——気づかれないように。
上手に笑って、上手に隠して、上手に——消えていく。
写真から目を逸らした。
居間の隅に、組み立て途中のショーケースの部材があった。
木材とガラス板。明日か明後日には組み立てられて、カフェの中に設置されるのだろう。凛の焼き菓子が並ぶショーケース。フィナンシェ。マドレーヌ。ダコワーズ。アイシングクッキー。
ガラス板に触れた。冷たくて、滑らかだった。
このガラスの向こうに——私のお菓子が並ぶことは、ない。
「まだそのレベルじゃない」と言い続けた私。「いいよ」と言えなかった私。おばあちゃんが何度も「メニューに入れよう」と言ってくれたのに、怖くて首を縦に振れなかった私。
あの時——「いいよ」と言っていたら。
何度もそう考えた。何度考えても答えは出ない。「いいよ」と言っていたら、メニューに載っていたかもしれない。お客さんに食べてもらえたかもしれない。
でも——凛が来たら、同じことだっただろう。
メニューに載っていたとしても、凛のフィナンシェが隣に並んだ瞬間に——私のクッキーは霞んでいただろう。お客さんは凛のお菓子を選んだだろう。比較されて、負けて、メニューから消えていっただろう。
早かったか遅かったかの違いだ。どちらにしても——結果は同じだった。
私のお菓子は——通用しない。
この世界では。凛がいる世界では。
独学で、図書館の本で覚えた、小さなカフェの常連さんに「おいしい」と言ってもらうためだけに作ってきたお菓子は——外の世界に出た瞬間に、何でもなくなる。
何でもない。
ガラス板から手を離した。指紋がついた。慌てて袖で拭いた。
汚してはいけない。これは——凛のショーケースだから。
家を出た。
外に出るのは——何日ぶりだろう。十日以上、部屋にいた。
夏の空気が体を包んだ。暑い。日差しが強い。蝉が鳴いている。でも、どこか力が弱い。夏の終わりの蝉は、盛りの頃より声が細い。
カフェの方には行かなかった。反対側に歩いた。家の裏手を抜けて、山道に入る。
子どもの頃から知っている道。おじいちゃんと一緒に歩いた道。山菜を採りに行ったり、散歩をしたり。おじいちゃんは歩くのが好きだった。「山の空気はうまいなぁ」と言いながら、ゆっくり歩く人だった。
木漏れ日の中を歩いた。足元の土が柔らかい。昨日の雨の名残で、少し湿っている。靴の裏に土がつく。
しばらく歩いて、小さな広場に出た。
ベンチがある。おじいちゃんが丸太で作ったベンチ。背もたれはないけど、座面が広くて安定している。表面が苔むしていて、緑の絨毯みたいだ。
座った。
苔が冷たかった。お尻が少し濡れた。でも気にならなかった。
ここからは——カフェの屋根が見える。木々の隙間から、紺色の屋根が小さく見える。のれんは見えないけど、煙突から薄い煙が上がっている。おばあちゃんがコーヒーを焙煎しているのだろう。
見えるのに、遠い。
物理的には百メートルもないのに——遠い。
ここに座って、カフェの屋根を見ていると——自分が「外の人」だと感じる。あの屋根の下にいる人たちは、中の人だ。おばあちゃん。凛。お客さん。常連さん。みんな、あの空間の中にいる。
私は——外にいる。
ベンチに座って、木漏れ日の中で、一人で。
どれくらい座っていただろう。
太陽の位置が変わっていた。昼を過ぎたらしい。おなかが空いたけど、戻る気にならなかった。
ぼんやりと考えていた。考えるというより——思考の断片が頭の中を漂っている感じ。
明日から学校が始まる。
朝起きて、制服を着て、バスに乗って、学校に行く。教室に入って、席に座って、授業を受けて、給食を食べて、帰ってくる。
帰ってきたら——何をするのだろう。
前は、帰ったらすぐカフェに行っていた。エプロンをつけて、仕込みをして、お客さんの対応をして、料理を作って。夜になったらお菓子を作って。
その日常が——もうない。
カフェに行っても、やることがない。凛がいるから。凛が全部やってくれるから。私がやらなくても、何も困らない。
学校から帰ったら——部屋にいるのだろうか。
毎日。ずっと。
学校と部屋の往復。それだけの日々。友達はほとんどいない。カフェの手伝いをしていたから、放課後に遊ぶ習慣がなかったから。
カフェがなくなったら——私には何が残るのだろう。
おばあちゃん。
おばあちゃんは——いる。いてくれる。私を愛してくれている。それは変わらない。
でも——おばあちゃんの日常は、凛で埋まっている。朝から晩まで。カフェの中で。コーヒーの話をして、料理の話をして、おじいちゃんの話をして。
私が入る隙間が——ない。
おばあちゃんが「愛とも話したい」と思ってくれていても、時間がない。カフェが忙しいから。お客さんが多いから。凛と二人で回すだけで精一杯だから。
私のために時間を作ってもらうことが——申し訳ない。
おばあちゃんは七十歳だ。体力にも限りがある。カフェの仕事で疲れているのに、夜になってから私の相手をさせるのは——負担だ。
負担を——かけたくない。
おばあちゃんの負担になりたくない。
おばあちゃんを心配させたくない。
おばあちゃんを困らせたくない。
おばあちゃんを——苦しめたくない。
でも——昨夜、おばあちゃんは泣いていた。
私のせいで。
私が部屋にこもっているせいで。私が笑わなくなったせいで。私が——壊れかけているせいで。
おばあちゃんを苦しめたくなかったのに——苦しめている。
いてもいなくても——苦しめる。
何をしても——苦しめる。
笑えば——嘘をついていることになる。
泣けば——心配をかけることになる。
黙れば——不安にさせることになる。
話せば——おばあちゃんを板挟みにすることになる。
どうしたら——おばあちゃんを苦しめずに済むのだろう。
答えが——出ない。
木漏れ日が揺れている。風が吹いて、葉っぱがさわさわと鳴っている。蝉の声が遠い。
静かだ。
ここは——静かだ。
おじいちゃんと歩いた道。おじいちゃんが作ったベンチ。おじいちゃんの匂いはもうないけど、おじいちゃんの痕跡がある場所。
おじいちゃん。
おじいちゃんは——何を思って、このベンチを作ったのだろう。
散歩の途中で休むため。山の空気を吸うため。カフェの屋根を眺めるため。
きっと——このベンチに座って、カフェの屋根を見て、笑っていたのだろう。自分が作ったカフェを。おばあちゃんがいるカフェを。
その視線の先に——今は、凛がいる。
おじいちゃん。あなたが探していた子が、あなたのカフェにいるよ。あなたのおばあちゃんの隣にいるよ。あなたのキッチンに立っているよ。あなたのショーケースにお菓子を並べようとしているよ。
おじいちゃんが——夢見た形に、なりつつあるよ。
私は——ここにいるよ。
あなたが作ったベンチに座って。あなたが歩いた道の途中で。
ここにいるのに——あなたのカフェには、いられなくなったよ。
風が強くなった。
雲が出てきた。夏の終わりの空は変わりやすい。さっきまで晴れていたのに、灰色の雲が山の向こうから這い出してきた。
帰ろう。雨が降る前に。
立ち上がった。
足が重い。数日間ほとんど動いていなかったから、体力が落ちている。山道を歩くだけで息が切れる。
家に戻った。
玄関を開けると、カフェの方から声が聞こえた。お客さんが帰るところらしい。「ごちそうさまでした」「またきまーす」という声。
「ありがとうございました」
凛の声。明るくて、はきはきしていて、お店の人の声。
「またお待ちしてますねぇ」
おばあちゃんの声。穏やかで、温かくて、おばあちゃんの声。
二人の声が重なって——カフェの空気を作っている。
私の声は——そこにない。
玄関で靴を脱いで、音を立てないように階段を上がった。
自分の部屋に入った。
ドアを——閉めようとした。
「愛」
おばあちゃんの声がした。
階段の下から。
振り返ると、おばあちゃんが階段の途中に立っていた。エプロンをしたまま。手が少し粉で白くなっている——珍しい。おばあちゃんがキッチンで粉を触ることは、あまりない。凛の手伝いをしていたのかもしれない。
「お散歩してたの?」
「……うん」
「そう。外の空気、気持ちよかったかい?」
「……うん」
おばあちゃんが——階段を一段上がった。
「愛。おばあちゃん、ちょっと話があるんだけど——」
「今日は——疲れたから、また明日でいい?」
遮った。
おばあちゃんの言葉を——遮ってしまった。
おばあちゃんが——何か言おうとしている。大事な話を。たぶん——昨夜凛と話していたことに関わる話を。
聞かなくてはいけない。聞くべきだ。おばあちゃんが覚悟を決めて話しかけてきているのだから。
でも——聞けなかった。
聞いたら——何かが決定的に変わってしまう気がした。何が変わるのかはわからない。でも——今のこの均衡が崩れる。今の、辛いけれどぎりぎり保っているこの状態が——壊れる。
壊れた先に何があるのかわからない。
わからないことが——怖かった。
「……わかったよ。じゃあ、明日ね」
おばあちゃんが——引き下がった。
引き下がってくれた。また。いつも。おばあちゃんは——私が拒めば引き下がる。優しいから。無理強いしない人だから。
そしてまた——何も解決しないまま、一日が終わる。
「おやすみ、愛。明日から学校だね。早く寝るんだよ」
「うん。おやすみ、おばあちゃん」
おばあちゃんの足音が階段を降りていく。
ドアを閉めた。
明日から学校。
制服はクローゼットにかかっている。夏服。白いブラウスと紺のスカート。皺になっていないか確認しなくてはいけない。鞄の中身も確認しなくてはいけない。教科書、ノート、筆箱。夏休みの宿題——
宿題。
やっていない。
全く、やっていない。
夏休みの最初の頃は、カフェの手伝いの合間にやるつもりだった。凛が来てからは——それどころではなくなった。部屋にこもってからは——何もする気になれなかった。
夏休みの宿題が——白紙のまま、鞄の底に入っている。
ドリル。読書感想文。自由研究。全部、手つかず。
明日——先生に何と言おう。
「体調が悪くて」。嘘だ。でも——他に何と言えるだろう。
「カフェの手伝いが忙しくて」。嘘ではないけど、後半は嘘だ。手伝いなどしていない。
何と言っても——嘘になる。
本当のことは——言えない。
「おばあちゃんのカフェに天才少女が来て、私の居場所がなくなって、夢が潰れて、おじいちゃんの日記で打ちのめされて、十日間部屋に引きこもっていました」
言えるわけがない。
言ったところで——誰にもわからない。先生にも、クラスメイトにも。私の家がどんなところか、カフェがどんな場所か、おばあちゃんがどんな人か——誰も知らない。山奥に住んでいる子。それだけだ。
学校に行ったら——いつもの私を演じなくてはいけない。
笑って。「夏休み楽しかった?」と聞かれたら「うん、カフェの手伝いしてたよ」と答えて。
上手に笑う。
また——上手に笑う。
それが——私にできる唯一のこと。
夜。
布団に入った。
明日のために早く寝なくてはいけない。目覚ましを六時にセットした。
でも——眠れなかった。
目を閉じると——この夏のことが、全部、頭の中で再生される。
カランコロン。ドアベルの音。凛が入ってきた。「ここ、カフェ?」
フィナンシェの味。おばあちゃんの目。「おいしいよ」の震え。
凛のオムライス。半熟の卵。橋本さんの「こんなオムライス食べたことないよ」。
コーヒーの話。おばあちゃんと凛。エチオピアのイルガチェフェ。私が入れない会話。
キッチンから追い出されていく過程。じゃがいもを剥く係。ナプキンを折る係。水を運ぶ係。
凛のアイシングクッキー。三枚目で私を超えた。
おじいちゃんの日記。「世界を幸せにする力がある」。「死ぬまで追い求める」。
ショーケース。
おばあちゃんの涙。「愛があんまり上手に笑うから」。
全部が——渦を巻いて、頭の中でぐるぐると回っている。
止められない。
止められなくて——目を開けた。
暗い天井。
おじいちゃんが選んだ木の天井。
おじいちゃん。
おじいちゃんに会いたい。会って——聞きたい。
「おじいちゃんは、私のこと、どう思ってたの」
「私のお菓子は、本当においしかった?」
「おじいちゃんが探してたのは、凛ちゃんだったんだね」
「私は——おじいちゃんの宝物だった?」
聞けない。もう——永遠に。
目の奥が熱くなったけど——涙は出なかった。昨夜、全部出してしまったから。
涙も——有限なのだ。
乾いた目で、暗い天井を見つめた。
何時間か経って——体が限界を訴え始めた。
意識が薄くなっていく。眠りに引き込まれていく。抗う力が——残っていなかった。
眠りに落ちる直前、最後に見えたのは——窓の外の月だった。
カーテンの隙間から見える、細い月。
昨夜の月は——もう少し太かった気がする。一日で——月も変わる。
明日は——九月だ。
九月になったら——何が変わるだろう。
何も変わらない。
おばあちゃんはカフェにいる。凛はキッチンにいる。お客さんは凛の料理を食べにくる。ショーケースが設置される。凛のお菓子が並ぶ。
私は——学校に行く。帰ってくる。部屋にいる。
それだけの日々が——始まる。
夢を見た。
夢の中で、私はカフェにいた。でも——誰もいないカフェ。お客さんもいない。おばあちゃんもいない。凛もいない。
テーブルが並んでいる。椅子がある。カウンターがある。コーヒーカップが伏せてある。
のれんが揺れている。風が吹いている。
キッチンに入った。
包丁がある。まな板がある。鍋がある。コンロがある。
全部——知っている道具。全部——私が使っていた道具。
でも——触れない。
手を伸ばしても、指がすり抜ける。包丁を握れない。鍋を持てない。コンロのスイッチを回せない。
私は——ここにいるのに。
ここにいるのに——何にも触れない。
夢の中で——透明になっていた。
目覚ましが鳴った。
六時。
九月一日。
目を開けた。天井が見える。いつもの天井。
体が重い。寝たはずなのに、寝ていないみたいに重い。
起き上がった。
制服に着替えた。白いブラウスのボタンを留める。紺のスカートの裾を整える。靴下を履く。
鏡を見た。
制服を着た自分が映っている。夏休み前と同じ格好。同じ髪型——いや、髪は少し伸びた。結んだ。いつものように、ひとつに結んだ。
顔を見た。
笑ってみた。
口角を上げて、目を細めて。
笑えた。
ちゃんと笑えている。上手に笑えている。
鏡の中の私は——普通の女の子だ。普通に笑っている、普通の女の子。
何も——おかしくない。何も——壊れていない。
壊れているのは——鏡には映らない場所だ。
鞄を持って、部屋を出た。
階段を降りると、キッチンにおばあちゃんがいた。朝ごはんを用意してくれている。トーストと目玉焼き。
「愛、おはよう。学校、がんばってね」
「おはよう、おばあちゃん。行ってきます」
笑った。いつもの笑顔。
おばあちゃんが——私の顔を見た。
一瞬だけ——おばあちゃんの表情が揺れた。何かを言いかけて、飲み込んだ顔。昨夜の「話がある」を——まだ言えていないのだ。
でも——学校に行く朝に、重い話はできない。おばあちゃんもそれはわかっている。
「気をつけてね」
「うん」
凛は——いなかった。まだ寝ているのかもしれない。
玄関を出た。
朝の空気。九月の空気。八月より少しだけ涼しい。蝉の声がまだある。でも——弱い。
山道を歩いてバス停に向かう。
歩きながら——カフェの前を通った。
のれんはまだ出ていない。開店前だ。窓から中が見えた。新しいテーブル。新しい椅子。カウンター席。テイクアウト窓口。
そして——カウンターの端に、組み立て途中のショーケースが置いてあった。昨日の夕方に、おばあちゃんと凛が組み立て始めたのだろう。ガラスの板がはめ込まれかけている。
明日か明後日には——完成するだろう。
ガラスのショーケース。凛のお菓子が並ぶショーケース。
私が——「いつか」と夢見ていた場所。
足を止めた。
カフェの窓から見えるショーケースを、しばらく見つめていた。
きれいだった。木の枠にガラスがはまって、中に棚板が三段。焼き菓子を並べるのにちょうどいいサイズ。凛が設計したのだろう。無駄がなくて、機能的で、美しい。
凛のショーケース。
凛の場所。
私の——場所だったはずの、場所。
目を——逸らした。
歩き出した。
バス停に向かう。一歩、一歩、カフェから離れていく。
振り返らなかった。
振り返ったら——何かが溢れてしまいそうだったから。
バスが来た。
乗り込んだ。座席に座った。窓から外を見た。山の緑が流れていく。カフェの屋根が小さくなっていく。
隣の席には誰もいなかった。
バスの中は空いていた。夏休み明けの朝、このバスに乗るのは私だけだ。山奥に住んでいるのは、私たちの家くらいだから。
窓に映る自分の顔を見た。
透明な顔。窓の向こうの景色が透けて見える。
透明。
夢の中で——透明になっていた。何にも触れなかった。すり抜けた。
今も——透明だ。
バスの中にいるのに、誰にも見えていない。運転手さんは前を見ている。他の乗客はいない。
透明な女の子が、透明なまま学校に向かっている。
学校に着いたら——笑う。「おはよう」と言う。「夏休み楽しかった?」と聞かれたら、「カフェの手伝いしてたよ」と答える。
嘘をつく。上手に。
誰にも気づかれないように。
誰にも——見えないように。
窓の外を——山が流れていく。
カフェが——見えなくなった。
もう——見えない。
バスが山を降りていく。町が近づいてくる。建物が増える。人が増える。信号がある。横断歩道がある。コンビニがある。
普通の町。普通の朝。普通の人たち。
その中に——私が混ざっていく。
透明なまま。
何者でもないまま。
料理が得意な子でも、お菓子が上手な子でも、おばあちゃんの一番の子でも、おじいちゃんの宝物でも、カフェの看板娘でも、パティシエの卵でもない。
何者でもない——ただの子ども。
バスが学校の前で止まった。
降りた。
校門が見える。生徒が歩いている。夏休み明けの、少し気だるい空気。日焼けした顔。新しい靴。
「おはよー」
誰かの声が聞こえる。私に向けたものではない。別の誰かに。
校門をくぐった。
下駄箱で靴を履き替えた。
廊下を歩いた。教室に向かった。
教室のドアを開けた。
何人かのクラスメイトが既に座っていた。
「あ、優希さん。おはよう」
隣の席の子が声をかけてくれた。名前は——覚えている。でも、この子と最後に話したのはいつだっただろう。夏休み前か。
「おはよう」
笑った。
上手に笑った。
席に座った。鞄を机の横にかけた。
窓の外を見た。
校庭が見える。夏の終わりの校庭。まだ緑が濃い。
ここからは——山は見えない。カフェの屋根も見えない。おばあちゃんの姿も見えない。
見えないけれど——あそこでは今、おばあちゃんがコーヒーを淹れている。凛がキッチンに立っている。お客さんが来ている。ショーケースが完成に近づいている。
全部——私がいなくても。
チャイムが鳴った。
先生が入ってきた。
「はい、夏休み終わりましたね。今日から二学期です」
二学期。
新しい学期が始まる。
新しい——何かが始まるのだろうか。
何も始まらない。
何も——始まらない。
ただ——日々が続くだけだ。透明な日々が。何者でもない日々が。
先生が出席を取っている。名前が一人ずつ呼ばれていく。
「優希さん」
「はい」
返事をした。声が出た。ちゃんと聞こえる声で。
名前を呼ばれて、返事をした。それだけのことだ。
それだけのことなのに——
名前を呼ばれたことが——少し、不思議だった。
ここでは——私の名前を呼ぶ人がいる。先生が。クラスメイトが。「優希さん」と。
カフェでは——もう、私の名前を呼ぶ必要がない。
呼ばなくても——何も困らないから。
「優希さん、夏休みの宿題出して」
「あ——すみません、まだ……」
「えっ、優希さんが?珍しいわね。大丈夫?」
「はい。ちょっと体調崩してて。来週には出します」
「そう。無理しないでね」
先生が心配そうな顔をした。でも——それだけだった。
それだけで——終わった。
誰も——深くは聞かない。
「体調崩してた」と言えば、それで納まる。それ以上は踏み込まない。踏み込む必要がない。
私は——ここでも透明だ。
名前は呼ばれる。返事はする。存在はしている。
でも——中身がない。
空のシフォン型。
型だけがある。中に何もない。
私という型の中に——もう何も流し込まれていない。
メレンゲも。卵黄も。砂糖も。紅茶の茶葉も。
何も——ない。
型だけが——ここに座っている。
授業が始まった。先生の声が聞こえる。チョークの音が聞こえる。ノートを開いた。ペンを持った。
でも——何も書けなかった。
白いノート。白いページ。
おじいちゃんの日記は——文字で埋まっていた。凛のノートも——文字で埋まっていた。
私のノートは——白い。
何も書かれていない。書くことが——ない。
白いページを見つめたまま、一時間目が終わった。チャイムが鳴った。二時間目が始まった。また終わった。三時間目。四時間目。
時間が——流れていく。
私を置いて。
私の中を素通りして。
何も残さずに。
放課後。
バスに乗った。山に帰る。家に帰る。
バスの窓から、山が近づいてくるのを見た。
カフェの屋根が見えてきた。
今日は——何人来たのだろう。凛は何を作ったのだろう。おばあちゃんはコーヒーを何杯淹れただろう。ショーケースは完成しただろうか。
全部——私が知らないところで。
バスを降りた。山道を歩いた。家が見えてきた。カフェが見えてきた。
カフェの前で——足が止まった。
のれんが揺れている。まだ営業中だ。中から声が聞こえる。お客さんの声。笑い声。
窓から覗いた。
おばあちゃんがカウンターの中にいる。凛がキッチンにいる。お客さんが三人。テーブルに、焼き菓子の乗ったお皿。コーヒーのカップ。
そして——カウンターの端に、ショーケースがあった。
完成していた。
ガラスの棚に——焼き菓子が並んでいた。フィナンシェ。マドレーヌ。ダコワーズ。小さなカードが添えてあって、名前と値段が書いてある。凛の手書きの、おしゃれな字で。
きれいだった。
本当に——きれいだった。
木の枠とガラスの中に、黄金色の焼き菓子が整然と並んでいる。光が当たって、フィナンシェの表面がつやつやと光っている。
カフェが——完成していた。
おばあちゃんのコーヒーと、凛のスイーツと、ガラスのショーケースと、新しいテーブルと椅子と、カウンター席と、テイクアウト窓口と。
全部——揃った。
全部揃ったカフェの中に——私の場所は、なかった。
どこにも。
ショーケースの中にも。キッチンの中にも。カウンターの中にも。テーブルの上にも。メニュー表の中にも。
どこにも——ない。
カフェの窓から離れた。
家の玄関を開けて、靴を脱いで、階段を上がって、部屋に入った。
ドアを閉めた。
鞄を下ろした。制服のまま、ベッドに座った。
窓の外を見た。夕日がカフェの屋根を赤く染めている。
きれいだった。
きれいな夕焼け。きれいなカフェ。きれいなショーケース。きれいな焼き菓子。きれいな——世界。
その世界に——私はいない。
いなくても——世界は、きれいだ。
いなくても——おばあちゃんは笑っている。
いなくても——カフェは回っている。
いなくても——
夕日が沈んでいく。空がオレンジから紫に変わっていく。
部屋が暗くなっていく。
電気をつけなかった。
暗いまま——座っていた。
制服のまま。鞄を下ろしたまま。何もしないまま。
暗闇の中で——自分の呼吸の音だけが聞こえる。
吸って。吐いて。吸って。吐いて。
それだけが——私がここにいる証拠。
それだけが——
ひぐらしが鳴き始めた。
夏の最後のひぐらしが。
明日も——同じ日が来る。
明後日も。
その次も。
何者でもない私の、何者でもない日々が。
型だけの、空っぽの、透明な日々が。
続いていく。
ただ——続いていく。