①ケモカフェ! 〜ifストーリー〜   作:灰色の雪

10 / 10
なにものでもない

夏休み最後の日。八月三十一日。

目が覚めた時、枕元にシフォン型があった。

昨夜、握りしめて眠ったはずだ。でも、寝ている間に手から離れて、枕の横に転がっていた。アルミの型が朝日を反射して、小さな光を天井に投げかけている。

その光を、しばらく見つめていた。

何かを感じるはずだった。昨夜は——何かを感じかけていた。型を握った時の冷たさ。手のひらで温まっていく感触。おじいちゃんの字。「愛へ」。

でも、朝になったら——何もなかった。

昨夜の涙は乾いていた。枕のしみだけが残っていた。目は腫れていたけれど、痛みはなかった。体は軽かった——泣いたから。中身が出ていったから。

空っぽだった。

シフォン型と同じだ。空っぽ。中に何もない。型だけがある。型だけが残っている。

手に取った。

冷たい。朝の空気で冷えたアルミ。昨夜、手のひらの体温で温めたはずなのに、もう冷たく戻っている。

当たり前だ。私の体温くらいでは——持続しない。手を離せば、すぐに冷える。

それだけのことだ。

型を箱に戻した。蓋を閉めた。「愛へ」の文字が見えなくなった。

 

起き上がって、部屋を出た。

洗面所で顔を洗った。鏡を見た。目が腫れている。顔色が悪い。唇が乾いている。

でも——見慣れた顔だ。ここ数日、ずっとこの顔だった。

歯を磨いた。髪を梳かした。結ばなかった。結ぶ意味がない。エプロンをつける予定がないから。

階段を降りた。

キッチンに——誰もいなかった。

時計を見ると、朝の九時。おばあちゃんと凛は、もうカフェに行っているのだろう。今日は何人来るのだろう。十人か。十五人か。夏休み最後の日だから、もっと来るかもしれない。

テーブルの上に、朝ごはんが置いてあった。

ラップのかかったお皿。トーストとサラダとスクランブルエッグ。その横に、小さなメモ。

おばあちゃんの字。丸くて柔らかい字。

「愛へ。食べてね。おばあちゃん」

短いメモ。いつもの優しさ。

食べた。トーストをかじった。スクランブルエッグを口に入れた。サラダを食べた。味がした。おいしいとか、おいしくないとか、そういうことではなく——味が、した。食べ物の味が口の中にある。それだけの事実。

食べ終えた。皿を洗った。水の音。いつもの音。

洗い終えた皿を伏せて、布巾で手を拭いた。

手を見た。

きれいだった。荒れが完全に治っていた。料理をしない手。お菓子を作らない手。何も作らない手。白くて、柔らかくて、傷のない手。

凛の手みたいだ、と前に思った。でも違う。凛の手は毎日作り続けていてもきれいな手だ。私の手は——作ることをやめたからきれいな手だ。

同じ「きれいな手」でも——意味が、まるで違う。

 

キッチンを出て、居間を通りかかった時、目に入ったものがあった。

壁に、写真が飾ってあった。

先日撮った三人の写真。改装されたカフェの前で、おばあちゃんと凛と私。橋本さんが撮ってくれた写真。

おばあちゃんがプリントして、フレームに入れて、飾ったのだ。

近づいて見た。

三人が笑っている。おばあちゃんは真ん中。右側に凛。左側に私。

おばあちゃんの右手は凛の肩にかかっている。左手は——降ろされている。

あの時も気づいていた。気づいて、「たまたまだ」と思おうとした。

今、改めて見ると——もう「たまたまだ」とは思えなかった。

でも——「わざとだ」とも思わなかった。

おばあちゃんは何も考えていなかったのだ。ただ自然に、右手が凛の肩にいった。自然に。無意識に。

無意識が——一番正直だ。

意識して平等にしようとすれば、おばあちゃんは両方の肩に手を置いただろう。でも無意識の瞬間に、体が先に動いた先は——凛だった。

責めているのではない。もう——責めるという感情すら、残っていなかった。

ただ、事実として——そこにある。

写真の中の私は、笑っている。ちゃんと笑っている。いつもの笑顔。上手な笑顔。

おばあちゃんが言っていた。「愛があんまり上手に笑うから」と。

上手に笑う。

それが——私の一番の特技なのかもしれない。料理でもない。お菓子作りでもない。笑うこと。辛くても笑うこと。泣きたくても笑うこと。

誰にも心配されないように。誰にも迷惑をかけないように。誰にも——気づかれないように。

上手に笑って、上手に隠して、上手に——消えていく。

写真から目を逸らした。

 

居間の隅に、組み立て途中のショーケースの部材があった。

木材とガラス板。明日か明後日には組み立てられて、カフェの中に設置されるのだろう。凛の焼き菓子が並ぶショーケース。フィナンシェ。マドレーヌ。ダコワーズ。アイシングクッキー。

ガラス板に触れた。冷たくて、滑らかだった。

このガラスの向こうに——私のお菓子が並ぶことは、ない。

「まだそのレベルじゃない」と言い続けた私。「いいよ」と言えなかった私。おばあちゃんが何度も「メニューに入れよう」と言ってくれたのに、怖くて首を縦に振れなかった私。

あの時——「いいよ」と言っていたら。

何度もそう考えた。何度考えても答えは出ない。「いいよ」と言っていたら、メニューに載っていたかもしれない。お客さんに食べてもらえたかもしれない。

でも——凛が来たら、同じことだっただろう。

メニューに載っていたとしても、凛のフィナンシェが隣に並んだ瞬間に——私のクッキーは霞んでいただろう。お客さんは凛のお菓子を選んだだろう。比較されて、負けて、メニューから消えていっただろう。

早かったか遅かったかの違いだ。どちらにしても——結果は同じだった。

私のお菓子は——通用しない。

この世界では。凛がいる世界では。

独学で、図書館の本で覚えた、小さなカフェの常連さんに「おいしい」と言ってもらうためだけに作ってきたお菓子は——外の世界に出た瞬間に、何でもなくなる。

何でもない。

ガラス板から手を離した。指紋がついた。慌てて袖で拭いた。

汚してはいけない。これは——凛のショーケースだから。

 

家を出た。

外に出るのは——何日ぶりだろう。十日以上、部屋にいた。

夏の空気が体を包んだ。暑い。日差しが強い。蝉が鳴いている。でも、どこか力が弱い。夏の終わりの蝉は、盛りの頃より声が細い。

カフェの方には行かなかった。反対側に歩いた。家の裏手を抜けて、山道に入る。

子どもの頃から知っている道。おじいちゃんと一緒に歩いた道。山菜を採りに行ったり、散歩をしたり。おじいちゃんは歩くのが好きだった。「山の空気はうまいなぁ」と言いながら、ゆっくり歩く人だった。

木漏れ日の中を歩いた。足元の土が柔らかい。昨日の雨の名残で、少し湿っている。靴の裏に土がつく。

しばらく歩いて、小さな広場に出た。

ベンチがある。おじいちゃんが丸太で作ったベンチ。背もたれはないけど、座面が広くて安定している。表面が苔むしていて、緑の絨毯みたいだ。

座った。

苔が冷たかった。お尻が少し濡れた。でも気にならなかった。

ここからは——カフェの屋根が見える。木々の隙間から、紺色の屋根が小さく見える。のれんは見えないけど、煙突から薄い煙が上がっている。おばあちゃんがコーヒーを焙煎しているのだろう。

見えるのに、遠い。

物理的には百メートルもないのに——遠い。

ここに座って、カフェの屋根を見ていると——自分が「外の人」だと感じる。あの屋根の下にいる人たちは、中の人だ。おばあちゃん。凛。お客さん。常連さん。みんな、あの空間の中にいる。

私は——外にいる。

ベンチに座って、木漏れ日の中で、一人で。

 

どれくらい座っていただろう。

太陽の位置が変わっていた。昼を過ぎたらしい。おなかが空いたけど、戻る気にならなかった。

ぼんやりと考えていた。考えるというより——思考の断片が頭の中を漂っている感じ。

明日から学校が始まる。

朝起きて、制服を着て、バスに乗って、学校に行く。教室に入って、席に座って、授業を受けて、給食を食べて、帰ってくる。

帰ってきたら——何をするのだろう。

前は、帰ったらすぐカフェに行っていた。エプロンをつけて、仕込みをして、お客さんの対応をして、料理を作って。夜になったらお菓子を作って。

その日常が——もうない。

カフェに行っても、やることがない。凛がいるから。凛が全部やってくれるから。私がやらなくても、何も困らない。

学校から帰ったら——部屋にいるのだろうか。

毎日。ずっと。

学校と部屋の往復。それだけの日々。友達はほとんどいない。カフェの手伝いをしていたから、放課後に遊ぶ習慣がなかったから。

カフェがなくなったら——私には何が残るのだろう。

おばあちゃん。

おばあちゃんは——いる。いてくれる。私を愛してくれている。それは変わらない。

でも——おばあちゃんの日常は、凛で埋まっている。朝から晩まで。カフェの中で。コーヒーの話をして、料理の話をして、おじいちゃんの話をして。

私が入る隙間が——ない。

おばあちゃんが「愛とも話したい」と思ってくれていても、時間がない。カフェが忙しいから。お客さんが多いから。凛と二人で回すだけで精一杯だから。

私のために時間を作ってもらうことが——申し訳ない。

おばあちゃんは七十歳だ。体力にも限りがある。カフェの仕事で疲れているのに、夜になってから私の相手をさせるのは——負担だ。

負担を——かけたくない。

おばあちゃんの負担になりたくない。

おばあちゃんを心配させたくない。

おばあちゃんを困らせたくない。

おばあちゃんを——苦しめたくない。

でも——昨夜、おばあちゃんは泣いていた。

私のせいで。

私が部屋にこもっているせいで。私が笑わなくなったせいで。私が——壊れかけているせいで。

おばあちゃんを苦しめたくなかったのに——苦しめている。

いてもいなくても——苦しめる。

何をしても——苦しめる。

笑えば——嘘をついていることになる。

泣けば——心配をかけることになる。

黙れば——不安にさせることになる。

話せば——おばあちゃんを板挟みにすることになる。

どうしたら——おばあちゃんを苦しめずに済むのだろう。

答えが——出ない。

木漏れ日が揺れている。風が吹いて、葉っぱがさわさわと鳴っている。蝉の声が遠い。

静かだ。

ここは——静かだ。

おじいちゃんと歩いた道。おじいちゃんが作ったベンチ。おじいちゃんの匂いはもうないけど、おじいちゃんの痕跡がある場所。

おじいちゃん。

おじいちゃんは——何を思って、このベンチを作ったのだろう。

散歩の途中で休むため。山の空気を吸うため。カフェの屋根を眺めるため。

きっと——このベンチに座って、カフェの屋根を見て、笑っていたのだろう。自分が作ったカフェを。おばあちゃんがいるカフェを。

その視線の先に——今は、凛がいる。

おじいちゃん。あなたが探していた子が、あなたのカフェにいるよ。あなたのおばあちゃんの隣にいるよ。あなたのキッチンに立っているよ。あなたのショーケースにお菓子を並べようとしているよ。

おじいちゃんが——夢見た形に、なりつつあるよ。

私は——ここにいるよ。

あなたが作ったベンチに座って。あなたが歩いた道の途中で。

ここにいるのに——あなたのカフェには、いられなくなったよ。

 

風が強くなった。

雲が出てきた。夏の終わりの空は変わりやすい。さっきまで晴れていたのに、灰色の雲が山の向こうから這い出してきた。

帰ろう。雨が降る前に。

立ち上がった。

足が重い。数日間ほとんど動いていなかったから、体力が落ちている。山道を歩くだけで息が切れる。

家に戻った。

玄関を開けると、カフェの方から声が聞こえた。お客さんが帰るところらしい。「ごちそうさまでした」「またきまーす」という声。

「ありがとうございました」

凛の声。明るくて、はきはきしていて、お店の人の声。

「またお待ちしてますねぇ」

おばあちゃんの声。穏やかで、温かくて、おばあちゃんの声。

二人の声が重なって——カフェの空気を作っている。

私の声は——そこにない。

玄関で靴を脱いで、音を立てないように階段を上がった。

自分の部屋に入った。

ドアを——閉めようとした。

「愛」

おばあちゃんの声がした。

階段の下から。

振り返ると、おばあちゃんが階段の途中に立っていた。エプロンをしたまま。手が少し粉で白くなっている——珍しい。おばあちゃんがキッチンで粉を触ることは、あまりない。凛の手伝いをしていたのかもしれない。

「お散歩してたの?」

「……うん」

「そう。外の空気、気持ちよかったかい?」

「……うん」

おばあちゃんが——階段を一段上がった。

「愛。おばあちゃん、ちょっと話があるんだけど——」

「今日は——疲れたから、また明日でいい?」

遮った。

おばあちゃんの言葉を——遮ってしまった。

おばあちゃんが——何か言おうとしている。大事な話を。たぶん——昨夜凛と話していたことに関わる話を。

聞かなくてはいけない。聞くべきだ。おばあちゃんが覚悟を決めて話しかけてきているのだから。

でも——聞けなかった。

聞いたら——何かが決定的に変わってしまう気がした。何が変わるのかはわからない。でも——今のこの均衡が崩れる。今の、辛いけれどぎりぎり保っているこの状態が——壊れる。

壊れた先に何があるのかわからない。

わからないことが——怖かった。

「……わかったよ。じゃあ、明日ね」

おばあちゃんが——引き下がった。

引き下がってくれた。また。いつも。おばあちゃんは——私が拒めば引き下がる。優しいから。無理強いしない人だから。

そしてまた——何も解決しないまま、一日が終わる。

「おやすみ、愛。明日から学校だね。早く寝るんだよ」

「うん。おやすみ、おばあちゃん」

おばあちゃんの足音が階段を降りていく。

ドアを閉めた。

 

明日から学校。

制服はクローゼットにかかっている。夏服。白いブラウスと紺のスカート。皺になっていないか確認しなくてはいけない。鞄の中身も確認しなくてはいけない。教科書、ノート、筆箱。夏休みの宿題——

宿題。

やっていない。

全く、やっていない。

夏休みの最初の頃は、カフェの手伝いの合間にやるつもりだった。凛が来てからは——それどころではなくなった。部屋にこもってからは——何もする気になれなかった。

夏休みの宿題が——白紙のまま、鞄の底に入っている。

ドリル。読書感想文。自由研究。全部、手つかず。

明日——先生に何と言おう。

「体調が悪くて」。嘘だ。でも——他に何と言えるだろう。

「カフェの手伝いが忙しくて」。嘘ではないけど、後半は嘘だ。手伝いなどしていない。

何と言っても——嘘になる。

本当のことは——言えない。

「おばあちゃんのカフェに天才少女が来て、私の居場所がなくなって、夢が潰れて、おじいちゃんの日記で打ちのめされて、十日間部屋に引きこもっていました」

言えるわけがない。

言ったところで——誰にもわからない。先生にも、クラスメイトにも。私の家がどんなところか、カフェがどんな場所か、おばあちゃんがどんな人か——誰も知らない。山奥に住んでいる子。それだけだ。

学校に行ったら——いつもの私を演じなくてはいけない。

笑って。「夏休み楽しかった?」と聞かれたら「うん、カフェの手伝いしてたよ」と答えて。

上手に笑う。

また——上手に笑う。

それが——私にできる唯一のこと。

 

夜。

布団に入った。

明日のために早く寝なくてはいけない。目覚ましを六時にセットした。

でも——眠れなかった。

目を閉じると——この夏のことが、全部、頭の中で再生される。

カランコロン。ドアベルの音。凛が入ってきた。「ここ、カフェ?」

フィナンシェの味。おばあちゃんの目。「おいしいよ」の震え。

凛のオムライス。半熟の卵。橋本さんの「こんなオムライス食べたことないよ」。

コーヒーの話。おばあちゃんと凛。エチオピアのイルガチェフェ。私が入れない会話。

キッチンから追い出されていく過程。じゃがいもを剥く係。ナプキンを折る係。水を運ぶ係。

凛のアイシングクッキー。三枚目で私を超えた。

おじいちゃんの日記。「世界を幸せにする力がある」。「死ぬまで追い求める」。

ショーケース。

おばあちゃんの涙。「愛があんまり上手に笑うから」。

全部が——渦を巻いて、頭の中でぐるぐると回っている。

止められない。

止められなくて——目を開けた。

暗い天井。

おじいちゃんが選んだ木の天井。

おじいちゃん。

おじいちゃんに会いたい。会って——聞きたい。

「おじいちゃんは、私のこと、どう思ってたの」

「私のお菓子は、本当においしかった?」

「おじいちゃんが探してたのは、凛ちゃんだったんだね」

「私は——おじいちゃんの宝物だった?」

聞けない。もう——永遠に。

目の奥が熱くなったけど——涙は出なかった。昨夜、全部出してしまったから。

涙も——有限なのだ。

乾いた目で、暗い天井を見つめた。

 

何時間か経って——体が限界を訴え始めた。

意識が薄くなっていく。眠りに引き込まれていく。抗う力が——残っていなかった。

眠りに落ちる直前、最後に見えたのは——窓の外の月だった。

カーテンの隙間から見える、細い月。

昨夜の月は——もう少し太かった気がする。一日で——月も変わる。

明日は——九月だ。

九月になったら——何が変わるだろう。

何も変わらない。

おばあちゃんはカフェにいる。凛はキッチンにいる。お客さんは凛の料理を食べにくる。ショーケースが設置される。凛のお菓子が並ぶ。

私は——学校に行く。帰ってくる。部屋にいる。

それだけの日々が——始まる。

夢を見た。

夢の中で、私はカフェにいた。でも——誰もいないカフェ。お客さんもいない。おばあちゃんもいない。凛もいない。

テーブルが並んでいる。椅子がある。カウンターがある。コーヒーカップが伏せてある。

のれんが揺れている。風が吹いている。

キッチンに入った。

包丁がある。まな板がある。鍋がある。コンロがある。

全部——知っている道具。全部——私が使っていた道具。

でも——触れない。

手を伸ばしても、指がすり抜ける。包丁を握れない。鍋を持てない。コンロのスイッチを回せない。

私は——ここにいるのに。

ここにいるのに——何にも触れない。

夢の中で——透明になっていた。

 

目覚ましが鳴った。

六時。

九月一日。

目を開けた。天井が見える。いつもの天井。

体が重い。寝たはずなのに、寝ていないみたいに重い。

起き上がった。

制服に着替えた。白いブラウスのボタンを留める。紺のスカートの裾を整える。靴下を履く。

鏡を見た。

制服を着た自分が映っている。夏休み前と同じ格好。同じ髪型——いや、髪は少し伸びた。結んだ。いつものように、ひとつに結んだ。

顔を見た。

笑ってみた。

口角を上げて、目を細めて。

笑えた。

ちゃんと笑えている。上手に笑えている。

鏡の中の私は——普通の女の子だ。普通に笑っている、普通の女の子。

何も——おかしくない。何も——壊れていない。

壊れているのは——鏡には映らない場所だ。

鞄を持って、部屋を出た。

階段を降りると、キッチンにおばあちゃんがいた。朝ごはんを用意してくれている。トーストと目玉焼き。

「愛、おはよう。学校、がんばってね」

「おはよう、おばあちゃん。行ってきます」

笑った。いつもの笑顔。

おばあちゃんが——私の顔を見た。

一瞬だけ——おばあちゃんの表情が揺れた。何かを言いかけて、飲み込んだ顔。昨夜の「話がある」を——まだ言えていないのだ。

でも——学校に行く朝に、重い話はできない。おばあちゃんもそれはわかっている。

「気をつけてね」

「うん」

凛は——いなかった。まだ寝ているのかもしれない。

玄関を出た。

朝の空気。九月の空気。八月より少しだけ涼しい。蝉の声がまだある。でも——弱い。

山道を歩いてバス停に向かう。

歩きながら——カフェの前を通った。

のれんはまだ出ていない。開店前だ。窓から中が見えた。新しいテーブル。新しい椅子。カウンター席。テイクアウト窓口。

そして——カウンターの端に、組み立て途中のショーケースが置いてあった。昨日の夕方に、おばあちゃんと凛が組み立て始めたのだろう。ガラスの板がはめ込まれかけている。

明日か明後日には——完成するだろう。

ガラスのショーケース。凛のお菓子が並ぶショーケース。

私が——「いつか」と夢見ていた場所。

足を止めた。

カフェの窓から見えるショーケースを、しばらく見つめていた。

きれいだった。木の枠にガラスがはまって、中に棚板が三段。焼き菓子を並べるのにちょうどいいサイズ。凛が設計したのだろう。無駄がなくて、機能的で、美しい。

凛のショーケース。

凛の場所。

私の——場所だったはずの、場所。

目を——逸らした。

歩き出した。

バス停に向かう。一歩、一歩、カフェから離れていく。

振り返らなかった。

振り返ったら——何かが溢れてしまいそうだったから。

 

バスが来た。

乗り込んだ。座席に座った。窓から外を見た。山の緑が流れていく。カフェの屋根が小さくなっていく。

隣の席には誰もいなかった。

バスの中は空いていた。夏休み明けの朝、このバスに乗るのは私だけだ。山奥に住んでいるのは、私たちの家くらいだから。

窓に映る自分の顔を見た。

透明な顔。窓の向こうの景色が透けて見える。

透明。

夢の中で——透明になっていた。何にも触れなかった。すり抜けた。

今も——透明だ。

バスの中にいるのに、誰にも見えていない。運転手さんは前を見ている。他の乗客はいない。

透明な女の子が、透明なまま学校に向かっている。

学校に着いたら——笑う。「おはよう」と言う。「夏休み楽しかった?」と聞かれたら、「カフェの手伝いしてたよ」と答える。

嘘をつく。上手に。

誰にも気づかれないように。

誰にも——見えないように。

窓の外を——山が流れていく。

カフェが——見えなくなった。

もう——見えない。

バスが山を降りていく。町が近づいてくる。建物が増える。人が増える。信号がある。横断歩道がある。コンビニがある。

普通の町。普通の朝。普通の人たち。

その中に——私が混ざっていく。

透明なまま。

何者でもないまま。

料理が得意な子でも、お菓子が上手な子でも、おばあちゃんの一番の子でも、おじいちゃんの宝物でも、カフェの看板娘でも、パティシエの卵でもない。

何者でもない——ただの子ども。

バスが学校の前で止まった。

降りた。

校門が見える。生徒が歩いている。夏休み明けの、少し気だるい空気。日焼けした顔。新しい靴。

「おはよー」

誰かの声が聞こえる。私に向けたものではない。別の誰かに。

校門をくぐった。

下駄箱で靴を履き替えた。

廊下を歩いた。教室に向かった。

教室のドアを開けた。

何人かのクラスメイトが既に座っていた。

「あ、優希さん。おはよう」

隣の席の子が声をかけてくれた。名前は——覚えている。でも、この子と最後に話したのはいつだっただろう。夏休み前か。

「おはよう」

笑った。

上手に笑った。

席に座った。鞄を机の横にかけた。

窓の外を見た。

校庭が見える。夏の終わりの校庭。まだ緑が濃い。

ここからは——山は見えない。カフェの屋根も見えない。おばあちゃんの姿も見えない。

見えないけれど——あそこでは今、おばあちゃんがコーヒーを淹れている。凛がキッチンに立っている。お客さんが来ている。ショーケースが完成に近づいている。

全部——私がいなくても。

チャイムが鳴った。

先生が入ってきた。

「はい、夏休み終わりましたね。今日から二学期です」

二学期。

新しい学期が始まる。

新しい——何かが始まるのだろうか。

何も始まらない。

何も——始まらない。

ただ——日々が続くだけだ。透明な日々が。何者でもない日々が。

先生が出席を取っている。名前が一人ずつ呼ばれていく。

「優希さん」

「はい」

返事をした。声が出た。ちゃんと聞こえる声で。

名前を呼ばれて、返事をした。それだけのことだ。

それだけのことなのに——

名前を呼ばれたことが——少し、不思議だった。

ここでは——私の名前を呼ぶ人がいる。先生が。クラスメイトが。「優希さん」と。

カフェでは——もう、私の名前を呼ぶ必要がない。

呼ばなくても——何も困らないから。

「優希さん、夏休みの宿題出して」

「あ——すみません、まだ……」

「えっ、優希さんが?珍しいわね。大丈夫?」

「はい。ちょっと体調崩してて。来週には出します」

「そう。無理しないでね」

先生が心配そうな顔をした。でも——それだけだった。

それだけで——終わった。

誰も——深くは聞かない。

「体調崩してた」と言えば、それで納まる。それ以上は踏み込まない。踏み込む必要がない。

私は——ここでも透明だ。

名前は呼ばれる。返事はする。存在はしている。

でも——中身がない。

空のシフォン型。

型だけがある。中に何もない。

私という型の中に——もう何も流し込まれていない。

メレンゲも。卵黄も。砂糖も。紅茶の茶葉も。

何も——ない。

型だけが——ここに座っている。

授業が始まった。先生の声が聞こえる。チョークの音が聞こえる。ノートを開いた。ペンを持った。

でも——何も書けなかった。

白いノート。白いページ。

おじいちゃんの日記は——文字で埋まっていた。凛のノートも——文字で埋まっていた。

私のノートは——白い。

何も書かれていない。書くことが——ない。

白いページを見つめたまま、一時間目が終わった。チャイムが鳴った。二時間目が始まった。また終わった。三時間目。四時間目。

時間が——流れていく。

私を置いて。

私の中を素通りして。

何も残さずに。

 

放課後。

バスに乗った。山に帰る。家に帰る。

バスの窓から、山が近づいてくるのを見た。

カフェの屋根が見えてきた。

今日は——何人来たのだろう。凛は何を作ったのだろう。おばあちゃんはコーヒーを何杯淹れただろう。ショーケースは完成しただろうか。

全部——私が知らないところで。

バスを降りた。山道を歩いた。家が見えてきた。カフェが見えてきた。

カフェの前で——足が止まった。

のれんが揺れている。まだ営業中だ。中から声が聞こえる。お客さんの声。笑い声。

窓から覗いた。

おばあちゃんがカウンターの中にいる。凛がキッチンにいる。お客さんが三人。テーブルに、焼き菓子の乗ったお皿。コーヒーのカップ。

そして——カウンターの端に、ショーケースがあった。

完成していた。

ガラスの棚に——焼き菓子が並んでいた。フィナンシェ。マドレーヌ。ダコワーズ。小さなカードが添えてあって、名前と値段が書いてある。凛の手書きの、おしゃれな字で。

きれいだった。

本当に——きれいだった。

木の枠とガラスの中に、黄金色の焼き菓子が整然と並んでいる。光が当たって、フィナンシェの表面がつやつやと光っている。

カフェが——完成していた。

おばあちゃんのコーヒーと、凛のスイーツと、ガラスのショーケースと、新しいテーブルと椅子と、カウンター席と、テイクアウト窓口と。

全部——揃った。

全部揃ったカフェの中に——私の場所は、なかった。

どこにも。

ショーケースの中にも。キッチンの中にも。カウンターの中にも。テーブルの上にも。メニュー表の中にも。

どこにも——ない。

カフェの窓から離れた。

家の玄関を開けて、靴を脱いで、階段を上がって、部屋に入った。

ドアを閉めた。

鞄を下ろした。制服のまま、ベッドに座った。

窓の外を見た。夕日がカフェの屋根を赤く染めている。

きれいだった。

きれいな夕焼け。きれいなカフェ。きれいなショーケース。きれいな焼き菓子。きれいな——世界。

その世界に——私はいない。

いなくても——世界は、きれいだ。

いなくても——おばあちゃんは笑っている。

いなくても——カフェは回っている。

いなくても——

夕日が沈んでいく。空がオレンジから紫に変わっていく。

部屋が暗くなっていく。

電気をつけなかった。

暗いまま——座っていた。

制服のまま。鞄を下ろしたまま。何もしないまま。

暗闇の中で——自分の呼吸の音だけが聞こえる。

吸って。吐いて。吸って。吐いて。

それだけが——私がここにいる証拠。

それだけが——

ひぐらしが鳴き始めた。

夏の最後のひぐらしが。

明日も——同じ日が来る。

明後日も。

その次も。

何者でもない私の、何者でもない日々が。

型だけの、空っぽの、透明な日々が。

続いていく。

ただ——続いていく。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。