①ケモカフェ! 〜ifストーリー〜   作:灰色の雪

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もう一つの手

桜庭凛が「また来ます」と言い残してから、三日が経った。

やっぱり社交辞令だったんだ、と思った。当たり前だ。こんな山奥まで、わざわざもう一度来る理由なんてない。あの子にはあの子の夏休みがあるだろう。都会の子は忙しいのだ。きっと友達と遊んだり、おしゃれな街に買い物に行ったり——私とは違う夏を過ごしているのだ。

そう思いながらも、三日間、カフェのドアベルが鳴るたびに入り口を見てしまう自分がいて、それが少し恥ずかしかった。

別に、来てほしいわけじゃない。ただ——なんとなく、気になっていただけだ。

あの低い「おいしいよ」のこと。おばあちゃんのコーヒーを飲んだ時の、あの目の変わり方のこと。考えても仕方がないのに、ふとした瞬間に頭をよぎる。

でも今日も来なかった。明日も来ないだろう。それでいい。

いつもの夏休みを過ごそう。

四日目の朝、私はいつもより気合を入れてキッチンに立った。今日の仕込みはハヤシライス。新メニューとして出してみたいと前から思っていたもので、玉ねぎをじっくり飴色になるまで炒めるのがポイントだ。時間はかかるけど、この手間が味の深みになる。

玉ねぎを五個、薄切りにする。涙が出る。毎回出る。何回切っても慣れない。でも、涙を拭きながら切り続けるのは、もう当たり前になっていた。

フライパンにバターを溶かして、玉ねぎを入れる。弱火でゆっくり。焦がさないように、木べらで丁寧にかき混ぜる。十分、二十分、三十分。腕が疲れてくるけど、手を止めない。

四十分経って、玉ねぎが深い飴色に変わった。甘い匂いが立ちのぼる。うん、いい感じだ。

牛肉を加えて、赤ワインで煮込む。ワインはおばあちゃんが「料理用にいいよ」と買ってくれたもの。アルコールを飛ばして、デミグラスソースとトマトピューレを合わせる。ローリエの葉を一枚落として、蓋をして弱火。あとは二時間、ことこと煮込むだけ。

「愛、いい匂いだねぇ。今日は何を作ってるの?」

おばあちゃんがキッチンを覗きに来た。

「ハヤシライス。新しいメニューにどうかなと思って」

「ハヤシライス!いいねぇ。おじいちゃんも好きだったよ」

おじいちゃんが好きだった。それを聞くと、余計に気合が入る。

「うまくできたら、今日のランチに出してもいい?」

「もちろんだよぉ。楽しみにしてるねぇ」

おばあちゃんが目を細める。この顔を見るために料理をしている、と言っても過言じゃない。

煮込んでいる間に、サラダの準備とスープの仕込みも済ませた。スープは昨日の残りのコーンポタージュ。橋本さんが気に入ってくれたから、しばらく定番にしようと思う。

十時、開店。

午前中は松田さんが来て、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。静かで穏やかな時間。松田さんは多くを語らない人だけど、毎日来てくれることが、それ自体が言葉みたいなものだと思う。

お昼前、橋本さんが来た。

「愛ちゃん、今日のおすすめは?」

「ハヤシライスです!新メニューなんですけど……よかったら食べてみてください」

「おお、ハヤシライスか。いただくよ」

自信作を盛り付けて、テーブルに運ぶ。深い茶色のルーが、白いご飯の上にとろりとかかっている。仕上げに生クリームを細くひと筋。パセリを散らして完成。

橋本さんがスプーンを入れて、ひと口。

「…………うまい」

目を閉じて、もうひと口。

「愛ちゃん、これ、すごくうまいよ。玉ねぎの甘みがしっかり出てる。何分炒めたの?」

「四十分くらいです」

「四十分!道理でなぁ……この深みはそういうことか。本格的だよ、これは」

褒めてもらえた。何度経験しても、この瞬間は胸が熱くなる。

「ほんとですか……!よかったぁ……」

「メニューに加えなよ。カレーと二枚看板でいけるぞ」

松田さんも「私にもひとつもらえるかい」と声をかけてくれて、食べてくれた後に「うん、これはいい」と静かに頷いてくれた。松田さんが「いい」と言う時は、本当にいいと思っている時だ。寡黙な人の言葉は重い。

おばあちゃんも食べてくれた。

「おいしいよ、愛。おじいちゃんが食べたら喜んだだろうねぇ」

またおじいちゃんの名前が出た。おじいちゃんが喜んでくれる味。それが作れたなら、もう何も言うことはない。

今日はいい日だ。

新メニューが成功して、常連さんに喜んでもらえて、おばあちゃんにも褒めてもらえた。こういう日が続けばいい。こういう日だけで、夏が終わればいい。

——カランコロン。

午後三時。いつもならお客さんの途切れる静かな時間帯に、ドアベルが鳴った。

「こんにちは」

聞き覚えのある声に、心臓が跳ねた。

振り向くと——桜庭凛が立っていた。三日前と同じ猫みたいな目。今日は水色のワンピースを着ていて、髪を小さなクリップで留めている。小さなリュックを背負って、その手には——紙袋を提げていた。

「……また、来たんだ」

思わず声に出してしまった。

「来るって言ったじゃん」

凛がきょとんとした顔で言った。まるで「なんで驚いてるの?」とでも言いたげな表情。

「あ、ごめん。いらっしゃいませ」

「うん。あと、これ」

凛がカウンターの上に紙袋を置いた。中から取り出したのは、白い箱。リボンも何もついていない、シンプルな箱。でも箱そのものはしっかりした作りで、底が厚い。お菓子を入れるための箱だと、すぐにわかった。

「この前ごちそうになったから、お礼。作ってきた」

蓋を開けた。

 

中に並んでいたのは、小さなフィナンシェだった。

六個。きれいに二列に並んでいる。ひとつひとつが、同じ大きさ、同じ形、同じ焼き色。表面がつやつやと光っていて、まるでお店のショーケースに並んでいるもののように見えた。

「焦がしバターのフィナンシェ。アーモンドプードル多めにしてるから、しっとりしてると思う」

凛がさらりと説明する。その口調は、料理人が自分の作品を解説する時の——自信に裏打ちされた、落ち着いた声だった。

「わぁ……きれい……」

お世辞じゃなく、本当にきれいだった。私もお菓子を作るからわかる。フィナンシェの焼き色をここまで均一に揃えるのは難しい。オーブンの癖を完璧に把握していないとできない。しかもこの子は、自分の家のオーブンではなく——どこか別の場所で焼いたはずだ。旅先で。それでこの精度。

おばあちゃんがカウンターの向こうから覗き込んだ。

「まぁ、凛ちゃん。これ、あなたが作ったの?」

「はい。よかったら食べてください」

私はフィナンシェをひとつ手に取った。持った瞬間、指先にしっとりとした重みを感じた。軽すぎず、重すぎず。焼き菓子としての理想的な水分量。

口に入れた。

最初に来たのは、焦がしバターの香ばしさだった。深くて、芳醇で、鼻に抜ける。次にアーモンドの風味がじわりと広がって、舌の上で溶けていく。甘さは控えめなのに、素材そのものの甘みが層になって押し寄せてくる。

生地のきめが細かい。驚くほど細かい。口の中でほどけるように崩れて、後味に卵の優しい風味がふわっと残る。

——おいしい。

おいしかった。

文句なく、圧倒的に、おいしかった。

私が今まで食べたフィナンシェの中で、一番。比べ物にならない。私が作ったことのあるフィナンシェとは——

考えるのをやめた。今はおいしいと思えばいい。素直に、おいしいと思えばいい。

「おいしい……すごくおいしい、凛ちゃん」

「ありがと」

凛が少し笑った。初めて見る笑顔だった。猫が日向で目を細めるみたいな、小さくて、でも本物の笑み。

おばあちゃんがフィナンシェを口に運んだ。

私はおばあちゃんの横顔を見ていた。咀嚼する口元。飲み込む喉。そして——

おばあちゃんの手が、止まった。

フォークを持ったまま、おばあちゃんはしばらく動かなかった。目が、遠くを見ている。何かを思い出そうとしているような、何かに触れたような、そういう顔。

「……おばあちゃん?」

「…………おいしいよ」

おばあちゃんがゆっくり言った。

おいしいよ。たった五文字。いつもと同じ言葉。でも——声が震えていた。ほんのわずかに。気づかないくらい、かすかに。

私の作ったシフォンケーキを食べた時の「おいしいよ」とは、何かが違った。温度が違うのではない。もっと深いところ——言葉の根っこにあるものが違う。

あの「おいしいよ」には、驚きがあった。

私のお菓子への「おいしいよ」は、信頼の味がする。「愛が作ったものだから、おいしいに決まっている」という安心感。それは嬉しいことだ。嬉しいことの、はずだ。

でも凛のフィナンシェへの「おいしいよ」には、予想を超えられた人間の声が混じっていた。おばあちゃんは、このフィナンシェの味を予想できなかった。想像の外側から来た味に、心を動かされている。

私は、おばあちゃんをあんなふうに驚かせたことが、あっただろうか。

「凛ちゃん……これ、本当にあなたが……?」

おばあちゃんが凛を見つめている。さっきまで遠くを見ていた目が、今は凛の顔に焦点を合わせている。

「はい。お母さんに教わったレシピです」

「お母さん……」

「パティシエなんです、母。お菓子作りは小さい頃からずっと教わってて」

凛が淡々と話す。自慢するような口調ではない。聞かれたから答えているだけだ。でもその事実の重さは——私には、痛いほどわかった。

小さい頃からずっと。プロのパティシエの母に。教わってきた。

私は、図書館で借りた本と、インターネットで見つけたレシピと、何度も失敗しながら少しずつ覚えたやり方で、お菓子を作ってきた。誰にも教わらずに。それを誇りに思っていた。独学で、ここまでできるようになったのだと。

でもそれは——「教わる相手がいなかった」だけのことだ。

誇りなんかじゃない。ただの、環境の差だ。

……やめよう。何を考えているんだろう。凛ちゃんのフィナンシェはおいしかった。それでいいじゃないか。おいしいものをおいしいと思えたら、それでいいじゃないか。

「お母さん、有名な方なの?」

おばあちゃんが聞いた。

「まあ……それなりに。桜庭紗英って言うんですけど」

空気が変わった——のは、おばあちゃんだけだった。

私は知らない名前だった。でもおばあちゃんは、その名前を聞いた瞬間に、小さく息を呑んだ。

「桜庭……紗英さん……?」

「知ってるんですか?」

「知ってるもなにも……お菓子作りをする人で、桜庭紗英さんを知らない人はいないよぉ……」

おばあちゃんの声が上ずっていた。まるでテレビの中の人が目の前に現れたかのような反応。

「凛ちゃん、桜庭紗英さんの娘さんなの……?」

「はい」

「まぁ……まあまあ……」

おばあちゃんが両手で自分の頬を押さえている。こんなに驚いているおばあちゃんを見るのは久しぶりだった。

「どうりで……このフィナンシェ……」

おばあちゃんが、もう一度フィナンシェに目を落とした。その視線には、さっきとは違う色が混じっている。納得の色。 「あの桜庭紗英の娘なら、これだけのものが作れて当然だ」という——

私の胸の奥で、何かが軋んだ。

いつも私のお菓子を「おいしい」と言ってくれるおばあちゃんが、凛のフィナンシェに「どうりで」と納得している。あのおばあちゃんに、私のお菓子で「どうりで」と言わせたことはない。「愛にしてはすごいね」とか「前より上手になったね」という成長への驚きはあっても、味そのものに打たれた顔は——してくれたことが、あっただろうか。

してくれていたかもしれない。初めてクッキーを焼いた時とか。でも今は思い出せない。凛のフィナンシェを食べたおばあちゃんの顔が、記憶の上に重なって、前が見えなくなっている。

 

「ねえ、お姉さん」

凛が私の方を向いた。

「お姉さんもお菓子作るんでしょ。何作るの?」

「え、えっと……クッキーとか、シフォンケーキとか……」

「シフォンケーキ!好き。今度食べたい」

凛の目がきらっと光った。純粋な興味だ。嫌味のかけらもない。

「え、いいけど……凛ちゃんが食べるようなものじゃ——」

「何それ。おいしかったら何でも食べるよ。おいしくなくても食べるし」

「おいしくなくても食べるの……?」

「うん。どういう意図で作ったのか知りたいから。味って、その人の考え方が出るでしょ」

その言葉に、少しだけどきりとした。味に、その人の考え方が出る。そんなふうにお菓子を捉えている子に、私のシフォンケーキを出すのか。

怖い。

でも、怖いのと同時に、ほんの少しだけ——嬉しい気持ちもあった。私のお菓子を食べてみたいと言ってくれる人がいる。しかもそれは、あの桜庭紗英の娘で、あんなフィナンシェを作れる子で——

「……今度、作っておくね」

なぜそう答えたのか、自分でもわからない。怖いのに。比べられるのが怖いのに。

凛が「約束ね」と言って小指を出した。子どもっぽい仕草なのに、その目は真剣で、私は少し笑いながら自分の小指を絡めた。

「約束」

指切りをした瞬間、凛の指が細くて冷たいことに気づいた。私の指は、玉ねぎを切った時の涙の跡と、フライパンの熱で少し荒れている。

同じ「お菓子を作る手」なのに、こんなにも違う。

 

凛はその日、閉店まで居座った。

居座った、という言い方は正しくないかもしれない。おばあちゃんが「ゆっくりしていきなさい」と言ったのだ。凛はそれに甘えて、カウンターに座ったまま、おばあちゃんとずっと話していた。

コーヒーの話。お菓子の話。食べ物の話。

凛は驚くほどものを知っていた。コーヒー豆の産地ごとの味の特徴、焙煎の段階による風味の変化、抽出方法による味の違い——まるで教科書を読んでいるみたいに正確で、でも教科書とは違って、ちゃんと自分の舌で確かめた言葉だった。

「エチオピアのイルガチェフェ、フルーティで好きなんですけど、浅煎りすぎると酸味が立ちすぎません?」

「ほっほっ、よくわかってるねぇ。おばあちゃんもそう思って、中煎りにしてるんだよ」

「あ、やっぱり。このコーヒー、中煎りですよね。酸味と苦味のバランスがすごくいい」

おばあちゃんが、楽しそうだった。

本当に、楽しそうだった。

私がカフェの手伝いを始めてから、おばあちゃんとはたくさんの時間を過ごしてきた。おばあちゃんの笑顔はいつも見てきた。でも、今日の笑顔には——見たことのないものが混じっている。

会話の楽しさ。

対等な、同じ言語を話す者同士の、知的な会話の楽しさ。

おばあちゃんにとってコーヒーは人生そのものだ。何十年もかけて磨いてきた技術であり、おじいちゃんとの思い出であり、生きがいだ。その話を——本当の意味で「わかる」相手と話せることが、どれほど嬉しいことなのか。

私は、おばあちゃんのコーヒーを「おいしそうだね」と言うことしかできない。味がわからないから。飲めないから。

それでもおばあちゃんは私に優しかった。コーヒーの話を私にもしてくれたし、私がわからなくても嫌な顔ひとつしなかった。でも、それはもしかしたら——わかってもらうことを、最初から諦めていたのかもしれない。

私にわかってもらえないことを、寂しいとすら思わないくらいに、当たり前のこととして受け入れていたのかもしれない。

だとしたら、凛が現れたことで、おばあちゃんは——

「愛、どうかした?」

おばあちゃんの声で我に返った。

「え?ううん、何でもない」

「顔色が悪いよ?疲れたんじゃないかい?今日はたくさん料理したもんねぇ。先に上がっていいよ」

「……うん。そうする。ちょっと疲れたかも」

嘘をついた。体は疲れていない。ハヤシライスを四十分炒めたくらいで疲れるわけがない。20人前を30分で作った私だ。

でも、ここにいるのが、少しだけ辛かった。

「凛ちゃん、また来てね」

「はい。……あ、お姉さん」

エプロンを外して出て行こうとした私の背中に、凛の声がかかった。

「シフォンケーキ、楽しみにしてるから」

振り返らずに「うん」とだけ答えて、カフェを出た。

 

家に戻って、自分の部屋に入った。

ベッドに座って、膝を抱えた。

何を考えているんだろう、私は。

凛ちゃんはいい子だ。お礼にフィナンシェを持ってきてくれる律儀な子だ。おばあちゃんのコーヒーをおいしいと言ってくれる、味のわかる子だ。私のシフォンケーキを食べてみたいと言ってくれる、好奇心のある子だ。

何も悪いことはしていない。

おばあちゃんだって、新しいお客さんが来て嬉しいだけだ。コーヒーの話ができる相手ができて嬉しいだけだ。それは当然のことだ。おばあちゃんの楽しみが増えたのだ。喜ぶべきことだ。

喜ぶべきこと、なのに。

机の上に、昨日作ったアイシングクッキーが置いてあった。うさぎの形に型を抜いて、ピンクと白のアイシングで模様を描いたもの。自信作だった。明日、おばあちゃんに見せようと思っていた。

手に取って、眺めた。

かわいい。自分で言うのもなんだけど、かわいくできたと思う。アイシングの線も、前よりずっと安定してきた。練習の成果だ。

でも。

ふと、凛のフィナンシェを思い出す。あの完璧な焼き色。あの精緻な形。あのしっとりとした重み。あの、口の中で溶けるような——

手の中のクッキーを見つめた。

アイシングの線が、少し歪んでいる。

前から歪んでいた。今日初めて歪んだわけじゃない。でも、今日初めて、その歪みが気になった。

「……かわいいよ。これは、かわいいの。味だって、おいしいの」

誰に言い聞かせているんだろう。

クッキーを皿に戻して、布団に潜り込んだ。カフェの方から、おばあちゃんと凛の笑い声がかすかに聞こえる。まだ話しているんだ。閉店時間は過ぎているのに。

私は枕を耳に押し当てた。

聞こえなくなった。代わりに、自分の心臓の音だけが暗闇に響いている。

どくん。どくん。どくん。

眠れない夜は久しぶりだった。

 

翌朝。

カフェに出ると、おばあちゃんが食卓にお皿を並べていた。朝ごはん。トーストとスクランブルエッグとサラダ。それと、小さな皿に——

「おばあちゃん、それ……」

「ん?ああ、凛ちゃんのフィナンシェ。昨日ひとつ残ってたから、朝ごはんのデザートにしようと思って」

凛のフィナンシェが、食卓にあった。

私たちの食卓に。おばあちゃんと私の、二人だけの朝の食卓に。

「愛も食べる?」

「……うん」

一緒に朝ごはんを食べた。トーストをかじって、スクランブルエッグを食べて。それからフィナンシェを半分こした。おばあちゃんが「やっぱりおいしいねぇ」と呟く。

おいしかった。昨日と同じように、おいしかった。

でも——おかしなことを思ってしまった。本当に、おかしなことを。自分でも嫌になるようなことを。

この食卓に並んでいるのが、凛のフィナンシェじゃなくて、私のクッキーだったらよかったのに。

自分の部屋に、うさぎのアイシングクッキーがある。かわいくて、おいしくて、自信作の。それがここにあるべきだったのに。

でも——おばあちゃんは、私のクッキーを朝ごはんの食卓に出したことは、なかった。

お菓子としてはいつも喜んでくれる。でも、朝ごはんのお皿に並べるほどじゃなかった。それは「まだそのレベルじゃない」という判断ではなくて、多分——思いつかなかっただけだ。

凛のフィナンシェは、「食卓に並べたい」と思わせる力があった。

思わせてしまう力。

それが才能なのだと、私はこの朝、初めて理解した。

「ごちそうさまでした」

「はい、ごちそうさま。今日もカフェ、よろしくねぇ」

「うん。がんばるね」

笑顔で答えた。

いつもの笑顔。ちゃんと笑えている。大丈夫。何も変わっていない。

エプロンをつけて、カフェに向かう。クマの刺繍に触れる。おばあちゃんが縫ってくれたクマ。

——大丈夫。

今日はシフォンケーキを焼こう。凛ちゃんと約束したから。紅茶のシフォンケーキ。おばあちゃんに「おいしいよ」と言ってもらえたシフォンケーキ。

凛ちゃんが食べて、なんて言うか——それは、考えないようにした。

考えたら、きっと、手が震えるから。

 

カランコロン。

午後二時。今日も凛が来た。

「こんにちは。約束のシフォンケーキ、焼いてある?」

まるで友達の家に遊びに来たみたいな口調で、凛はカウンターに座った。

「……焼いてあるよ」

朝から仕込んでおいた。いつもより丁寧に。いつもより時間をかけて。メレンゲは三回立て直した。焼き加減は五分刻みでオーブンを覗いた。型から外す時、手が少し震えた。

切り分けたシフォンケーキをお皿に乗せて、ホイップクリームを添えて、凛の前に置く。

「どうぞ」

「ありがとう。いただきます」

凛がフォークで一切れ、口に運んだ。

私は見ていた。見ないわけにはいかなかった。凛の口元。咀嚼する頬。飲み込む喉。目の動き。表情の変化。全部、見ていた。

凛が咀嚼を終えて、少し首を傾けた。

「紅茶……アールグレイ?」

「う、うん」

「生地、ふわふわだね。メレンゲ、丁寧に立ててるのがわかる」

心臓がどくどく鳴っている。

「甘さは控えめで、紅茶の香りを活かしてる。バランスいいと思う」

褒めてくれている。褒めてくれている。でも——

凛の目が、考えている目をしていた。分析している目。味を分解して、構造を理解しようとしている目。感動の目では、なかった。

おばあちゃんのコーヒーを飲んだ時の、あの——予想を超えられた人間の、あの目には、なっていなかった。

「おいしいよ」

凛が言った。

おいしいよ。

その三文字の温度を、私はもう測らずにはいられなかった。

あの日——初めて来た日に、私のオムライスを食べて言った「おいしいよ」と同じ温度。低くはない。嘘でもない。でも——

「すごくおいしい」では、なかった。

おばあちゃんのコーヒーに向けた「すごくおいしい」。あの「すごく」が、つかなかった。

たった二文字。「すごく」があるかないか。それだけのこと。それだけのことが、こんなに——

「ありがとう、凛ちゃん」

「うん。ごちそうさま。……あ、ひとつ聞いていい?」

「なに?」

「お姉さん、このシフォンケーキのレシピ、本で見たでしょ」

どきっとした。

「わ、わかるの?」

「うん。教科書通りの作り方だなって。すごく丁寧に再現してる。それは本当にすごいと思う。独学でしょ?」

「……うん」

「独学でこれは、ほんとにすごい。努力してるんだなって、食べたらわかった」

凛の声は真剣だった。嘘はない。本心で言っている。

でも、私は気づいてしまった。

凛の言葉は——技術を褒めているのであって、味に心を動かされたのではない。

「すごい」と「おいしい」は、違う。「努力してる」と「才能がある」は、違う。

凛は正直な子だ。だからこそ、その言葉の選び方が——痛い。

「お母さんに教われば、もっと伸びると思うけどなぁ。……あ、ごめん。余計なお世話だよね」

「ううん。ありがとう」

笑った。笑えた。まだ笑える。

凛はコーヒーを頼んで、おばあちゃんとまた話し始めた。今日の話題は、エスプレッソの抽出圧力について。

私はカウンターの端で、使い終わったお皿を洗っていた。

水の音。

蛇口から流れる水の、さらさらという音。

フォークについたホイップクリームが、水に溶けて流れていく。白い泡が、排水口に消えていく。

凛の「おいしいよ」が頭の中で繰り返されている。

おいしいよ。おいしいよ。おいしいよ。

——「すごく」なしの、おいしいよ。

お皿を洗い終えて、布巾で手を拭いた。指先が荒れている。毎日料理をしているから。毎日お菓子を作っているから。

凛の細くて白い指を思い出す。同じ「作る手」なのに。

夕方、凛が帰る時、おばあちゃんがこう言った。

「凛ちゃん、もしよかったらね——一人旅、大変でしょう。うちに泊まっていかないかい?」

私の足が止まった。

「部屋は空いてるからねぇ。遠慮しなくていいんだよ」

おばあちゃんの声は、いつもの優しい声だった。旅の途中の子どもを心配する、当たり前の優しさ。おばあちゃんらしい、温かい申し出。

凛が少し驚いた顔をして、それから——

「……いいんですか?」

「もちろんだよぉ」

「じゃあ……お言葉に甘えます」

凛が、うちに泊まることになった。

おばあちゃんが嬉しそうに「愛、お客さん用の布団出してくれる?」と言う。

「うん。出すね」

声は、いつも通りに出た。

押入れから布団を出して、空いている部屋に敷く。シーツのしわを伸ばして、枕を置いて。この部屋は——おじいちゃんが使っていた部屋だ。おじいちゃんが亡くなってからは、物置のようになっていたけど、この前おばあちゃんが片付けたばかりだった。

おじいちゃんの部屋に、凛が寝る。

それは仕方のないことだ。他に部屋がないんだから。私の部屋に一緒に寝てもいいけど、お客さんには個室を用意するのが当然だ。おばあちゃんの判断は正しい。

正しいのに、布団を敷く手が重い。

「お姉さん」

振り向くと、凛がドアの前に立っていた。小さなリュックを持って、裸足で。

「ありがとう。布団ふかふかだね」

「……うん。ゆっくり休んでね」

「お姉さんも。——あ、そうだ。明日、キッチン借りてもいい?ちょっと作りたいものがあって」

キッチン。

カフェのキッチン。私の持ち場。私が毎日立つ場所。包丁の位置も、調味料の並びも、鍋の重さも、全部知っている場所。

「……もちろん。使って」

なぜ「もちろん」と言ってしまうんだろう。

なぜ、こういう時に限って、考えるより先に「もちろん」が口から出てしまうんだろう。

「やった。ありがとね、お姉さん」

凛が部屋に入っていく。ドアが閉まる。

廊下に一人残されて、私は自分の手のひらを見つめた。料理の跡がある手。小さな火傷の跡。包丁で切った傷の跡。全部、このキッチンでできたもの。

明日、このキッチンに、もう一つの手が加わる。

傷のない、白い、きれいな手が。

 

自分の部屋に戻って、電気を消した。

暗闇の中で、目だけが冴えている。

隣の部屋——おじいちゃんの部屋から、物音がした。凛が寝返りを打ったんだろう。

もう少ししたら、あの部屋にも凛の匂いが染みつくんだろうか。おじいちゃんの匂いは、もうとっくに消えてしまったけど。

窓の外で、ひぐらしが鳴いている。

三日前の夜と同じ音だ。でも、三日前の夜とは、何かが違う。何が違うのか、まだうまく言葉にできない。

ただ、ひとつだけわかることがある。

「また来ます」は、社交辞令じゃなかった。

凛は来た。また来ると言って、本当に来た。そしてこれからも来る。明日も、明後日も。うちに泊まっているのだから。

それがどういうことなのか——考えたくない。考えてしまう。考えたくないのに、考えてしまう。

枕に顔をうずめて、目を閉じた。

明日の朝、キッチンに立っているのは、私だけじゃない。

その事実が、蝉の声よりもずっと大きく、頭の中に響いていた。

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