目が覚めた時、最初に聞こえたのはおばあちゃんのコーヒーミルの音ではなかった。
包丁の音だった。
トン、トン、トン。一定のリズムで、迷いのない音が、階下のキッチンから響いてくる。まな板を叩く音の間隔が均等で、速くて、でも雑じゃない。私の包丁の音とは違う。私の音はもう少し不揃いで、時々リズムが崩れる。力加減が一定じゃないからだ。
時計を見ると、朝の六時半。
いつもなら私が一番にキッチンに立っている時間だ。今日は——寝坊したわけじゃない。目覚ましは六時に鳴った。鳴ったのに、布団の中でぐずぐずしていた。理由は自分でもわからない。ただ、起き上がる前にあの包丁の音が聞こえてきて——体が動かなくなった。
もう少しだけ。もう少しだけ、このまま。
そう思っていたら、三十分が過ぎていた。
パジャマのまま階段を降りる。キッチンの入り口で足が止まった。
凛がいた。
私のキッチンに、凛が立っていた。
水色のエプロン——どこから持ってきたんだろう、自分のものを持っていたのか——を身につけて、カウンターの上に食材を並べている。玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、鶏肉。冷蔵庫から出したものだ。私が買い出しして、私が冷蔵庫に入れた食材を、凛が使っている。
「あ、おはよう、お姉さん」
凛が振り向いた。手には包丁。にんじんを薄く、均一に、信じられないほど正確な厚さで切っている。断面が滑らかで、刃がまな板に当たる角度が安定している。
「冷蔵庫の中、見させてもらった。勝手にごめんね。朝ごはん作ろうと思って」
「……朝ごはん?」
「うん。ポトフ。朝はあったかいスープがいいかなって。おばあさんにも聞いたら、いいよって言ってくれたから」
おばあちゃんには聞いたんだ。私には聞かなかったけど。
——いや、違う。私が起きてこなかったから聞けなかっただけだ。寝坊していた私が悪い。凛は何も悪くない。おばあちゃんに許可をもらって、ちゃんと食材を使わせてもらっている。礼儀正しい子だ。
「手伝う?」
凛が聞いてきた。
手伝う。
このキッチンで「手伝う?」と聞かれたのは初めてだった。いつも私が「手伝うよ」と言う側で、おばあちゃんが「ありがとう」と言う側だった。それが——逆転している。ここは私のキッチンなのに、私が「手伝う」側になろうとしている。
「……うん。何したらいい?」
「じゃあ、じゃがいも剥いてくれる?」
じゃがいもを受け取った。ピーラーで皮を剥く。いつもやっている作業だ。何百回とやってきた。手が勝手に動く。
でも、隣にいる凛の動きが視界に入るたびに、自分の手元が急に頼りなく見えた。
凛の包丁さばきには、無駄がなかった。野菜を切る時の姿勢、まな板に対する手の置き方、刃の入れ方。どれもが——教わった人間の動きをしていた。
私は独学だ。YouTubeを見て、本を読んで、何度も失敗して、少しずつ覚えた。誰にも習っていない。だから私の手つきには、私だけの癖がある。ピーラーを持つ角度が少し傾いているとか、包丁を握る時に小指が浮くとか。誰にも指摘されたことがないから、それが正しいのか間違っているのかもわからない。
凛の手つきには癖がなかった。正確だった。教科書に載っている通りの、正しい手つき。
正しい。
その言葉が頭の中でこだまする。凛の手つきが正しいなら、私の手つきは——正しくないのか。間違っているのか。今まで誰にも言われなかっただけで、ずっと間違ったやり方で料理をしていたのか。
「お姉さん、じゃがいも大きめに切ってくれる?ポトフは煮崩れしない方がいいから」
「あ、うん」
凛の指示に従って、じゃがいもを大きめに切る。いつもなら私が切り方を決める。味噌汁なら薄切り、カレーなら一口大、肉じゃがならやや大きめ。全部自分で判断してきた。でも今、凛の声に従って切っている。
私のキッチンで、凛の料理を、凛の指示で手伝っている。
おかしい。何かがおかしい。でも、何がおかしいのか言葉にすると、自分が小さな人間に思えてしまう。だから黙って、じゃがいもを切る。
ポトフが完成した。
テーブルに三人分の皿が並ぶ。澄んだスープの中に、にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、鶏肉。セロリの香りがふわっと漂う。凛はセロリの茎だけでなく葉も使っていて、スープの表面に細かく刻んだ葉が散っていた。
見た目が綺麗だった。
朝ごはんのポトフなのに、レストランで出てきてもおかしくない。器の選び方まで考えられていて、白い深皿にスープの琥珀色が映えている。私がいつも使っている皿なのに、凛が盛り付けるとまるで別の皿に見えた。
おばあちゃんがテーブルに着いた。
「まぁ、きれいだねぇ。凛ちゃん、これ朝から作ってくれたの?」
「はい。材料お借りしました」
「いいんだよぉ、そんなの。さあ、いただきましょ」
おばあちゃんがスプーンでスープをすくって、口に運んだ。
私はおばあちゃんの顔を見ていた。また見ている。いつからこんなふうに、おばあちゃんの表情を監視するようになったんだろう。おばあちゃんが何を食べても、その反応を確かめずにはいられなくなっている。
おばあちゃんが目を閉じた。
「……おいしいねぇ」
その声は穏やかだった。フィナンシェの時のような震えはない。でも、深い満足がにじんでいた。
「出汁がしっかり出てる。鶏肉の火の通し方が絶妙だねぇ。パサパサしないで、しっとりしてる」
細かい感想だった。おばあちゃんが私の料理にここまで具体的な感想を言うことは——あっただろうか。いつもは「おいしいよ、愛」のひと言だった。
それは、おばあちゃんが私の料理に感動していなかったということだろうか。
——違う。おばあちゃんはいつだっておいしそうに食べてくれていた。ただ、言語化が必要なかっただけだ。私の料理は「いつものおいしさ」だから、毎回細かく言う必要がなかった。凛の料理は初めてだから、感想が言葉になるのだ。
そう考えれば、当たり前のことだ。当たり前のこと、なのに——
「お姉さんも食べなよ」
凛に促されて、スプーンを口に運んだ。
おいしかった。
認めたくないわけじゃない。おいしいものはおいしい。スープの味が澄んでいて、野菜の甘みが一つひとつくっきりしている。鶏肉はおばあちゃんの言った通りしっとりしていて、噛むと肉汁がじわりと出る。塩加減が完璧だ。足りなくもなく、多くもなく。
私がポトフを作ったことは何度もある。でも、こんなに澄んだスープにはならなかった。私のポトフはもっと濁っていた。野菜を入れるタイミングが雑だったからだ。火加減も、たぶん強すぎた。それでも「おいしいよ」と言ってもらえていたから、気にしていなかった。
でも今、凛のポトフを食べて、自分のポトフとの差がはっきりわかってしまった。
同じ食材で、同じキッチンで、同じ鍋を使って。それなのに、出来上がったものがこんなに違う。
「おいしい。すごくおいしい、凛ちゃん」
私は言った。嘘じゃない。本当においしい。でも——この「おいしい」を口にするたびに、自分の料理が少し遠くなっていく気がした。凛の料理を認めるほど、自分の料理の立つ瀬がなくなっていく。
そんなこと、思ってはいけないのに。
カフェの開店時間になった。
凛は当然のように手伝うと言い出した。おばあちゃんが「いいの?お客さんなのに」と遠慮したが、凛は「泊めてもらってるし、何もしないのは落ち着かないです」と答えた。
それは——私がかつておばあちゃんに言ったのと同じ言葉だった。
「何もしないのは落ち着かない」。だからお店を手伝う。おばあちゃんの力になりたいから。
凛がカフェのキッチンに立った。エプロンをつけて、メニューを確認して、冷蔵庫の中身を把握して。その動きが素早くて、的確で——初日とは思えなかった。
私が何ヶ月もかけてようやく覚えたキッチンの動線を、凛は半日で掴んでいた。調味料の場所、鍋の位置、コンロの火力の癖。聞いたのは最初の数分だけで、あとは自分で判断して動いていた。
松田さんが来た。
「おや、見ない顔だね。お手伝いさんかい?」
「泊まりに来てるお客さんなんですけど、手伝ってくれてるんです」と私が説明すると、松田さんは「へえ」と凛を見た。
「今日のコーヒーは?」
「いつもので。——凛ちゃんが、ランチ作ってくれるみたいです」
「ほう」
橋本さんも来た。常連さんが揃う。いつもの顔ぶれ。いつもの昼。
でも今日は、いつもと違う。ランチを作るのが私じゃない。
凛が手を動かし始めた。メニューにあるオムライスを作ると言う。
「お姉さんのオムライスも食べたから、私なりに作ってみていい?同じメニューで比べるのって面白いかなって」
悪意はない。本当にない。凛は純粋に料理が好きで、同じメニューを別の人間が作ることに興味があるだけだ。料理人としての好奇心。それは——わかる。わかるけど。
比べられる。
その事実が、胃の底に石を落とすように重かった。
「いいよ。作ってみて」
また「いいよ」と言ってしまった。嫌だと言えない。嫌だと言う理由がない。自分のオムライスに自信があるなら、比べられることを恐れる必要はないはずだ。
——自信、あるよね?
20人前を30分で作った。橋本さんに「うまい」と言ってもらえた。田中さんにお釣りはいらないと言ってもらえた。
あるはずだ。自信は、あるはずだ。
凛がオムライスを作り始めた。
私はカウンターの内側から、その工程を見ていた。見ないこともできた。奥の洗い場に行けば見えない。でも——見ずにはいられなかった。凛がどうやってオムライスを作るのか、知りたかった。知りたくなかった。でも知りたかった。
ご飯を炒める。チキンライスを作る工程は、私と大きく変わらない。玉ねぎ、鶏肉、ケチャップ。でも——ケチャップを入れるタイミングが違った。
私は具材を炒めた後にケチャップを加える。凛は先にケチャップだけをフライパンに入れて、強火で水分を飛ばしてから具材と合わせていた。
「ケチャップの酸味を飛ばすの。先に炒めると甘みが出るから」
凛が手を動かしながら説明してくれた。教えてくれている。悪気なく。
「……知らなかった」
「お母さんに教わったんだけどね。プロのオムライス屋さんはみんなやってるらしいよ」
プロのオムライス屋さん。
私はケチャップの炒め方すら、プロの基本を知らなかった。何百回とオムライスを作ってきたのに。
卵を溶く。凛は卵を割る時、片手で割った。殻が入らない。私は両手で割る。たまに殻が入る。
フライパンに卵液を流し込む。
ここからが、決定的だった。
凛の手が、フライパンの柄を握ったまま、小刻みに前後に揺すった。卵が半熟のまま波打って、チキンライスの上にふわりとかぶさる。それからフライパンの角度を変えて、手首を返すと——
卵がチキンライスを包み込んだ。
ふわふわの、とろとろの、半熟の卵。表面は黄金色で、中はまだ流動性がある。フライパンから皿に滑らせると、卵の端がほんのわずかに裂けて、中からとろりとした半熟の黄色がのぞいた。
私のオムライスとは、別の料理だった。
私のオムライスは、薄焼き卵でチキンライスを包むタイプだ。卵をしっかり焼いて、破れないように慎重に包む。形はきれいにできるようになった。何度も練習したから。でも——ああいう半熟のオムライスは、作ったことがなかった。
作れなかったのだ。何度かテレビで見て挑戦したけど、卵が固まりすぎたり、破れたり、形が崩れたり。うまくいかなくて、薄焼き卵で包むやり方に落ち着いた。「このやり方が好き」だと自分に言い聞かせて。
でも、本当は——
凛がケチャップを細く線状にかけた。仕上げにパセリを散らす。完成したオムライスが、カウンター越しに橋本さんの前に置かれた。
「お待たせしました」
橋本さんが、まずオムライスを見た。見ただけで、「おお」と声が出た。
見た目で声が出るオムライスを、私は作ったことがない。
スプーンを入れると、卵が割れて、中から半熟がとろりと流れ出した。チキンライスの赤と、卵の黄色が混ざり合う。橋本さんがひと口。
沈黙。
長い沈黙。
橋本さんが咀嚼している。ゆっくり、味わうように。普段は「うまい」とすぐ言ってくれる人なのに、今は黙っている。
そして——
「…………こんなオムライス食べたことないよ」
その声は、低くて、静かで、しみじみとしていた。
松田さんも一つもらって食べた。いつも多くを語らない松田さんが、スプーンを置いて、まっすぐ凛を見て言った。
「凛ちゃん、これはすごいよ」
「すごいよ」。
松田さんの「すごいよ」は、「いい」より上の言葉だ。滅多に聞かない。私は松田さんに「すごいよ」と言ってもらったことは——一度もなかった。
おばあちゃんがオムライスを食べた。
「凛ちゃん、あんた、料理もできるのかい……」
「お菓子ほどじゃないですけど。基本は一通りやってます」
基本は一通り。その「基本」が、私の「全力」を超えている。
おばあちゃんが、凛の頭をぽんぽんと撫でた。
「おじいちゃんが生きてたら、びっくりしただろうねぇ」
また、おじいちゃん。
おじいちゃんがびっくりするのは、凛の料理を食べた時。私の料理には、「おじいちゃんも好きだったよ」。好きだった。過去形の、穏やかな言葉。
凛には「びっくりする」。私には「好きだった」。
驚きと、懐かしさ。その間にある距離が——怖かった。
午後。
カフェが落ち着いた時間帯に、凛がまた話し始めた。
「ねえ、おばあさん。メニューのこと、ちょっと思ったんですけど」
おばあちゃんがカウンターの中でカップを磨きながら、「なんだい?」と聞く。
「オムライスとカレーとサンドイッチとナポリタンって、全部洋食ですよね。コーヒーに合わせてるんだと思うんですけど——和食が一品あると、メリハリ出ません? おにぎり定食とか、だし茶漬けとか」
凛の口調は、提案というより、感想に近かった。「こうした方がいいです」ではなく「こう思ったんですけど」。でも、その内容は——的確だった。
私も、メニューの偏りは気になっていた。全部洋食になっているのは、おじいちゃんが洋食好きだったからで、おばあちゃんもそれを引き継いでいた。私は何も言わなかった。おじいちゃんのメニューを変えることに、なんとなく抵抗があったから。
でも凛は、初めて来た人間だからこそ、それを素直に言える。しがらみがない。思い出の重みを知らない。だから——正しいことが言える。
「そうだねぇ……確かに、和食は考えたことなかったよ。おじいちゃんが洋食好きだったから、ずっとこのままでねぇ」
「おじいさんの好きだったメニューを残しつつ、新しいのを足すのはどうですか? どっちも大事にできると思います」
「……いい考えだねぇ、凛ちゃん」
おばあちゃんが感心したように頷いた。
私はカウンターの端で、ナプキンを折っていた。手を動かしながら、二人の会話を聞いていた。
凛の提案は正しい。メニューに和食を加えるのは理にかなっている。おじいちゃんの好きだったメニューを否定しているわけでもない。むしろ、残しながら広げようとしている。私が言えなかったことを、凛がさらりと言ってしまった。
「愛はどう思う?」
おばあちゃんに聞かれて、顔を上げた。
「……うん、いいと思う」
それしか言えなかった。本当はもっと意見があった。和食を入れるなら何がいいか、私にも考えはあった。おにぎり定食なら具材は何にするか、味噌汁の出汁は何で取るか——でも、凛が先に言ってしまったから、私が後から重ねても、付け足しにしかならない。
「じゃあ、試しに明日作ってみてもいいですか?」
凛が言った。
「いいよぉ。楽しみだねぇ」
おばあちゃんが嬉しそうに笑う。
明日のメニューを決める会話に、私はいない。いるのに、いない。聞いているのに、参加していない。
ナプキンを折る手が止まった。折り目がずれている。やり直す。今度はきれいに折れた。でも、それが何になるんだろう。ナプキンをきれいに折ることが、私の仕事なのか。
いつから——料理以外のことをやるようになったんだろう。
今日、ランチを作ったのは凛だ。私はじゃがいもを剥いただけだ。朝ごはんも凛が作った。カフェのランチも凛が作った。私が作ったのは——何もない。
何も、作っていない。
夕方。閉店後。
凛が帰り支度を——しない。泊まっているのだから、帰る場所はここだ。
三人で夕飯を食べた。夕飯は私が作った。肉じゃがと、味噌汁と、白いご飯。いつもの味。いつもの料理。
おばあちゃんが「おいしいよ、愛」と言ってくれた。
いつもの言葉。いつもの笑顔。何も変わっていない——はずなのに、その「おいしいよ」を聞いても、今日は胸が温かくならなかった。
凛も「おいしい」と言ってくれた。
でも——あの「ふぅん」の後の「おいしいよ」だった。低い温度の「おいしいよ」。分析する目の「おいしいよ」。嘘じゃない。嘘じゃないからこそ、その温度がそのまま伝わってくる。
「肉じゃが、味は好きなんだけど……じゃがいもが少し煮崩れしてない?」
凛がさらっと言った。
箸で持ち上げたじゃがいもが、端の方から崩れている。確かに、少し煮込みすぎた。でもいつものことだ。おばあちゃんはこのくらいの方が好きだと言ってくれていた。「味が染みてておいしいよぉ」と。
「おばあちゃんは、このくらいが好きなの」
少しだけ、声が硬くなった。自分でもわかった。
「そうなんだ。ごめん、余計なこと言った」
凛がすぐに謝った。本当にすぐに。表情を見ても、嫌味で言ったのではないことは明らかだった。料理人の目で見て、気づいたことを口にしただけだ。
でも——指摘されたという事実が、小さな傷になって残った。
今まで誰にも指摘されなかった。おばあちゃんは何でも「おいしいよ」と言ってくれた。常連さんも褒めてくれた。私の料理の欠点を言う人は——いなかった。
それは、欠点がなかったからではなく——言う必要がなかったからだ。家族と常連さんしかいない小さなカフェで、欠点を指摘する人間はいない。みんな優しいから。みんな、私を傷つけたくないから。
凛は優しくないのではない。凛は——正直なだけだ。
正直な人間がひとり入るだけで、今まで見えなかったものが全部見えてしまう。
「ごちそうさまでした」
凛が席を立って、自分の皿を流しに持っていった。当たり前のように洗い始める。手際がいい。泡の立て方、スポンジの使い方、すすぎの水の量。全部が——効率的で、無駄がない。
私が隣に立って、残りの皿を洗った。二人で並んで洗い物をする。同じ流し台に、四つの手。
凛の手は白くて細い。爪が短く、きれいに切り揃えてある。料理人の手だ。でも荒れていない。私の手は——赤くなっている。毎日の水仕事と、火と、包丁で。ハンドクリームを塗る習慣すらなかった。
「お姉さん、手荒れてるね。ハンドクリーム使った方がいいよ。手は道具だから、ちゃんとケアしないと」
凛が何気なく言った。
手は道具。
その言い方が、プロの言い方だった。お母さんに教わったのだろうか。世界的なパティシエは、きっと手のケアにも気を使うのだろう。爪の長さ、指先の状態、手首の柔軟性。全部が「作るもの」の質に関わるから。
「……うん。気をつけるね」
「あ、私の持ってるやつ、使っていいよ。部屋に置いてるから」
「ありがとう」
ありがとう。また、ありがとうと言った。凛に「ありがとう」と言う回数が増えている。教えてもらって、ありがとう。指摘してもらって、ありがとう。ハンドクリームを貸してもらって、ありがとう。
感謝の言葉が重なるたびに、自分が小さくなっていく気がした。
夜。自分の部屋に戻った。
机の上に、あのうさぎのアイシングクッキーがまだ置いてある。おばあちゃんに見せようと思って作ったのに、タイミングを逃したまま、三日が過ぎていた。
手に取って、眺めた。
うさぎの目が少し左右で大きさが違う。アイシングの線が、よく見ると震えている。ピンクの色が、思っていたより濃い。
前は気にならなかったことが、全部気になる。
凛のフィナンシェの、あの完璧な焼き色。あの均一な形。あのしっとりとした重み。あれを知ってしまった目で見ると、このクッキーは——
「……かわいいよ」
小さく呟いた。自分に言い聞かせるように。
かわいい。味もおいしい。おばあちゃんにも常連さんにも褒めてもらえた。それでいいじゃないか。比べなくていいじゃないか。
でも、頭の中で凛の声が聞こえる。
「教科書通りの作り方だなって」
「独学でこれは、ほんとにすごい」
「お母さんに教われば、もっと伸びると思うけどなぁ」
全部、褒め言葉だ。全部、悪意のない言葉だ。
なのに——痛い。どの言葉も、裏を返すと、同じことを言っている。
「でも、ここまでだよね」
凛はそんなこと、一度も言っていない。一度も。でも、言わないからこそ、その余白が怖い。凛の「おいしいよ」の後に来なかった「すごく」の二文字が、言われなかった言葉が、暗闇の中で形を持って迫ってくる。
うさぎのクッキーを皿に戻した。
明日、おばあちゃんに渡そう。もう三日も経ってしまったけど、味は——たぶん、まだ大丈夫だ。
ベッドに横になった。隣の部屋から、凛が何かを書いているような音がする。ペンの音だろうか。日記でもつけているのかもしれない。
今日、私がキッチンでやったこと。
朝——じゃがいもを剥いた。
昼——ナプキンを折った。
夜——肉じゃがを作った。煮崩れたじゃがいもの肉じゃがを。
それだけだ。
昨日まで、このキッチンで一番たくさんのことをしていたのは私だった。仕込みも、調理も、盛り付けも、買い出しも、全部私がやっていた。それが——たった一日で、「じゃがいもを剥く係」になった。
誰かに「お前はじゃがいもだけ剥いていろ」と言われたわけじゃない。凛が「私がやるからどいて」と言ったわけでもない。おばあちゃんが「愛はもう料理しなくていい」と言ったわけでもない。
誰も何も言っていない。
ただ——凛がいると、私の出番がなくなるのだ。凛の方が速くて、正確で、上手いから。私が手を出す前に、凛がもう終わらせている。私がやろうとしたことを、凛がもっと上手にやってしまう。
「手伝う?」と聞かれて、「うん」と答える。そのたびに、主導権を手渡している。自分のキッチンで、自分が客になっていく。
おじいちゃんのミルの音が、脳裏によみがえった。ゴリゴリ。ゴリゴリ。朝の、静かな、あの音。
明日の朝、あの音より先に聞こえるのは——凛の包丁の音だろうか。
目を閉じた。
眠れない。また、眠れない。
隣の部屋のペンの音が止まった。凛が眠ったのだろう。静かになった家の中で、私だけが目を開けている。
天井の木目を見つめた。この木目は、生まれた時からここにある。おじいちゃんが建てた家の、おじいちゃんが選んだ木の、おじいちゃんが見ていた天井。
おじいちゃん。
おじいちゃんが凛のオムライスを食べたら、なんて言うだろう。
——びっくりしただろうねぇ。
おばあちゃんの言葉が、暗闘の中で反響した。
びっくりする。おじいちゃんが。凛の料理に。
私の料理には、おじいちゃんは——びっくりしてくれただろうか。
……やめよう。やめよう。考えるのをやめよう。
明日は、私がちゃんとキッチンに立つ。朝一番に起きて、一番にキッチンに立つ。誰よりも早く。凛より早く。
だって——ここは、私のキッチンなんだから。
私の、居場所なんだから。
まだ。
——まだ。
その「まだ」に縋りつくように、私はようやく目を閉じた。
遠くで、夜の虫が鳴いている。夏は、少しずつ深くなっていた。